只野真葛 むかしばなし (27)
忠山樣、御國にてよほどの御不例のこと有りしに、ぢゞ樣、
「上(あげ)て見たき、藥法、有(あり)。」
とて、願の上、御下被ㇾ成、藥、上られしに、しるし有て御快氣被ㇾ遊しより、倍の御加增にて、四百石になりし。是は運のむきしなり。
それより御奉藥にて、年々、御上下(おじやうげ)の御供被ㇾ成しなり。御かくれ後は、御免有て、また、觀信院樣御下りの時分、奧の御奉藥に被二仰付一し。十年餘り御つとめ被ㇾ成しに、永井養庵といふ山師醫、同役にいでゝより、奧中を自由にかきまわし、ぢゞ樣を、むたいにいぢめしにより、つとめ、なりかね、隱居ねがひいだされしに、ことなくすみて、築地に御普請有て、御《おん》うつり被ㇾ成し。月に兩三度、御機嫌伺にあがらせられし。
七十餘にて御かくれ被ㇾ成し。ワ、十三の時なりし。源四郞、二(ふたつ)にて有し。御引込ぎわは、おもはしからねど、御一代、仕合(しあはせ)よく、榮花なる御人にて有し。面(おも)やはらかに、笑み、はなさず、人柄よく、少しも、にく氣(げ)なき御人なりし。隱居後は庭の世話をたのしみ、手づから、掃除被ㇾ成て有し。
御かくれの頃は六月十一日なりし。其頃迄は早咲の朝顏はなく、六月末、七月にかゝりて花のさくものなりしを、手づから、垣を、ゆわせられしに、花のさかぬ間に御過(おすぎ)被ㇾ成しを、七月、初立日(しよたちび)のあたり、御ばゞ樣の、花に付(つけ)て母樣のもとへ、御文、有し。哀なることにて有つらんを、そのほどは、何の心もなくて見もせざりし。
[やぶちゃん注:「忠山樣」既出既注。仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。
「御奉藥」「御奉藥方」。御側医師の内で薬の処方使用を許されている者。
「御上下」参勤交代の行き帰り。大名家が二年毎に江戸に参覲し、一年江戸に滞在して自分の領地へ引き上げる交代制度(寛永一二(一六三五)年に第三代徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものであり、則ち、それは軍事演習の行軍なのであった)。しかも、参覲から下がった時点から二年毎であるため、結果として一年おきに江戸と国元を莫大な費用を用いて行き来せねばならなかったのである。
「觀信院」「信」は「觀」の誤字。宗村の次男で第七代藩主の伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)の正室観心院(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)。関白近衛内前(うちさき:後陽成天皇の男系六世子孫)の養女で公卿広幡長忠の娘。御存じの通り、大名の正室と世継は江戸に常住しなくてはならなかった。
「永井養庵」不詳。
「山師醫」卑称としての「偽医者」「藪医者」の意。
「没後の最初の月命日。初月忌(しょがっき)。]
« 芥川龍之介書簡抄30 / 大正三(一九一四)年書簡より(八) 藤岡蔵六宛(戯曲「路(對話)」収録) | トップページ | 芥川龍之介書簡抄31 / 大正三(一九一四)年書簡より(九) 井川恭宛(詩「ミラノの画工」及び短歌十四首収録) »