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2021/04/29

伽婢子卷之四 一睡卅年の夢

 

   ○一睡卅年の夢

 亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。

 高國、敗北して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり。

 家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞は、牢浪して、芥川の村に隱れ居たりしが、

『京都に上りて、如何なる主君にも仕へ奉らん。』

と思ひ、中間(ちうげん)一人、めし連れて、都に赴く。

 山崎の寶寺(たからてら)にまうでゝ、やすみ居たるに、しきりに、ねふり、きざしければ、東の廊下に、暫く、臥(ふし)侍べりし。

 夢に……見るやう……

……寺の門前に出〔いで〕ければ、一人の夫男(ぶをとこ)、一つの籃(かご)に楊梅子(やまもゝ)を入れて、休み居たり。

 遊佐、立寄りて、

「誰(たれ)が家の者ぞ。」

と問(とへ)ば、

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門が家に召つかはるる者也。交野殿は、將軍家に屬(しよく)して、打死し給ひ、一人の娘、おはします。西の郊(をか)の石尾(いしをの)源五殿は、三好に打たれ給ひ、今は孀(やもめ)にて、歸り住み給ふ。年、いまだ、廿一也。母は六十有餘にて、才覺、すぐれ給へり。『一門の末ならば、重ねて、聟に取り、家督を讓り參らせむ』と仰せあり。」

と語る。

 遊佐、これを聞て、吃(きつ)と思ひめぐらせば、

『交野が妻は、我が姨(をば)也。久しく、便り、うしなひ、何方〔いづかた〕にありとも聞かざりける。扨は。山崎に住給ふか。尋行〔たづねゆ〕きて、名のらばや。』

と思ひ、男に具(ぐ)して尋行たりければ、姨(をば)に、まがひもなく、互ひに名のり合ひけるに、姨、嬉しさのあまり、淚を流し、内に呼び入れて、一族の行衞を尋ね問ふに、それかれ、多くは、皆、打死して、七郞ばかり、わづかに、ながらへたり。

 姨のいふやう、

「我が賴りとては、娘、たゞ一人、あり。和殿〔わどの〕は又、みづからが甥也。睦(むつ)まじく、戀しきぞや。京にのぼらずとも、あれかし。聟になして、心安く見ばや。」

といふ。

 遊佐、嬉しく思ひ、やがて約束し、

「明日(あす)こそ吉日なれ。」

とて、親しきともがらを呼び集めて、さまざま、調(とゝのへ)て、緣を結ぶ。

 妻の女房を見れば、顏かたち、みやびやかに美くしかりければ、いとゞ嬉しさ、限りなし。

 婚禮の用意、はなはだ、花麗なり。

 日ごとに、客を集めて、酒宴におよぶ。

 遊佐も樂しみにほこりて、思う事もなし。

 或日、京都より、兩使あり、將軍より召給ふ。

 急ぎ、上洛しけるに、公方(くばう)の御氣色、こゝろよく、すなはち、一萬貫の所知(しよち)を下され、河内守に任ぜらる。

 かくて、京都に伺公(しこう)する事、二年、其の間(あひだ)に、公方の相伴衆(しやうばんしゆ)になされ、威勢高く、肩を並ぶる人、なし。

 すでに御暇(いとま)給はりて、山崎に歸り、要害の地を點じて、家、造り、夥しう取り立〔たて〕たり。召使ふ上下の侍、出入〔いでいる〕ともがら、數しらず、門外には、繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく、諸方より、つどひ來る使者、日ごとに多し。

 早や、三十年の星霜(せいざう)を經て、男子(なんし)七人・女子三人をもちたり。

 男子四人をば、京都にのぼせて、將軍家に奉公せしむ。

 女子二人は、津國(つのくに)・河内の間(あひだ)に遣はして、武家の名高き細川なにがしの新婦(よめ)となし、兄弟を聟とす。

 内外(うちど)にかけて、八人の孫をまうけ、一家の繁昌、この時にあたれり。

 かゝる所に、思ひかけず、敵三千餘騎にて押寄せ、四方より、要害に火をかけ、閧(とき)をつくりて、せめ入〔いつ〕たり。

 妻子、驚きて、泣き叫び、家人は恐れて、落ちうせければ、防ぐべき力なく、腹を切らんとする所に、敵、はや、打入〔うちいつ〕て、引〔ひつ〕くみ、いけどるほどに、これに組みあふて、押し返し、刎(は)ね返す……と覺えて……

……汗水になりて……

……夢は、さめたり。

 遊佐、起きあがりて、中間に、

「今は、何時(〔なん〕どき)ぞ。」

と問ふに、

「日は、未だ、未(ひつじ)の刻。」

と答ふ。

 只、一時のあひだに、卅年を經たり。

「思へば、是れ、『邯鄲一炊(かんたん〔いつ〕すい)の夢』、よきもあしきも、此世は夢也。」

と、さとりて、中間には、いとま取らせ、我身は、直(すぐ)に發心(ほつしん)して、高野山に籠りて、道心堅固(けんご)の修行者(しゆぎやうじや)となりぬ。

 

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[やぶちゃん注:夢落ちであるので、特定的に「……」を使用した。挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。幅は前後していない。左幅は夢から醒めたシーンを描いている。最後に述べている通り、中唐の伝奇小説沈既濟撰の「枕中記」をコンパクトにした感じの話である。私のサイトには、『芥川龍之介「黃粱夢」 附 藪野直史注・附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈・附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』という強力なページがある。

「亨祿四年六月に、細川高國と同名(どうみやう)晴元と、攝州天王子にして合戰す。高國、敗北(はいぼく)して、尼が崎まで落行〔おちゆき〕つゝ、道、せばくして、自害したり」戦国初期の享禄四年六月四日(一五三一年七月十七日)に摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で行われた合戦「大物崩(だいもつくず)れ」。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗(うらがみむらむね)の連合軍を破った戦い。「天王寺の戦い」「天王寺崩れ」とも呼ぶ。当該ウィキによれば、「桂川原の戦い」(大永七(一五二七)年二月京の桂川原一帯で行われた戦い。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、これが後注する「堺公方」誕生の契機となった)で『敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡ったが』、『救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国に援軍を差し向ける勢力が』ない中で、『備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。高国と村宗の関係は赤松氏の庇護下に在った』室町幕府第十二代将軍『足利義晴の身柄を拘束するなどの協力関係にあり、村宗は管領である高国の権勢を借りて播磨統一を果たしたいという野心があり、桂川原で敗北した窮状を打開したい高国との利害は一致していた』。享禄三年七月に『村宗の念願であった播磨統一を成し遂げると、今度は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻、池田久宗(信正)が守備する池田城を翌』享禄四年三月六日に陥落させ、その翌日には、『京都を警護していた晴元派の木沢長政が突然の撤退』をし、『代わって』、将軍山城(しょうぐんやまじょう)にあった『高国の兵が京に侵攻』して京を『奪回した』。『堺公方』(大永七(一五二七)年から享禄五(一五三二)年にかけての足利義維(よしつな:室町幕府第十一代将軍足利義澄の次男(実際には足利義晴より年長で長男とされる)で第十代将軍足利義稙の養子。後の第十四代将軍足利義栄(よしひで)の父。「堺公方」「平島公方」「堺大樹(さかいたいじゅ)」(「大樹」は「将軍」の意)とも呼ばれた。義維はこの時期、和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙し、堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を「堺幕府」と呼ぶ研究者さえいる)『側は、三好元長を総大将に立て直しを図り、三好軍』一万五千名と、『阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍』八千名が、『摂津中嶋に陣取った細川・浦上連合軍を攻撃し』(「中嶋の戦い」)、『一進一退の攻防が続いていた』。『ここで播磨守護の赤松政祐』(まさすけ)『が高国の援軍として同年』六月二日に『西宮の六湛寺に着陣したが、神呪寺(兵庫県西宮市)に陣変えを行い』『同日晩、高国と村宗から直々に着陣の挨拶をうけ』た。しかし、六月四日、『神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から』、『堺公方の足利義維へ密かに質子』(ちし:人質)『を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した』。『そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗とその宿老島村貴則を始め、侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川』(この「野里川」は恐らく、淀川の分流か支流の名であろう。消滅したその名残が判る「今昔マップ」の当該地をリンクしておいた。現在の淀川(旧地図では「新淀川」とある)の左岸の、封じられて、片方が新淀川に開いた不全な三日月湖のようなその岸辺に「野里」の地名が認められ、現行も地名の「野里」は残っている)『は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった』。『三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの』二『ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた』。『この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて』、高国の滅亡に繋がった。そこから地名と相俟って「大物崩れ」と呼ばれるようになった。『敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。近くの大物城への退避を行おうとしたが、既に赤松方の手が回っていたため』、『尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み』、『藍瓶をうつぶせにして』、『その中に身を隠していたが、三好一秀に』六月五日に『捕縛された』。『尼崎で高国を捜索した一秀は』、「まくわ瓜」を『たくさん用意し、近所で遊んでいた子供達に「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言うと』、『子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという計略が逸話として伝わっている』。『そして同月』八日、『仇敵晴元の命によって高国は尼崎』の広徳寺で『自害させられた』。『一方、破れた浦上軍の将士達は生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したと伝えられる。赤松政祐は伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を攻撃したからである』。「永正の錯乱」(永正四(一五〇七)年に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする管領細川氏(細川京兆家)の家督継承を巡る内訌。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と、政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から一年後に畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き、足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力が巻き返しを図り、畿内に於いて長期に亙って抗争が繰り返されることとなった)から始まった、細川家の養子三兄弟の争いは、この「大物崩れ」によって、最後の養子であった細川高国が自害させられて、終焉を遂げた。

「家人(けにん)遊佐(ゆさの)七郞」言わずもがな、細川高国の家人だったという設定。「新日本古典文学大系」版脚注には、『管領畠山氏の家臣で、代々河内の守護代を勤めた遊佐氏の名を利用したか』とあり、『享禄以前に畠山尚順(ひさのぶ)は細川高国方についている』とする。

「芥川の村」現在の大阪府高槻市芥川町(あくたがわちょう)。

「山崎の寶寺(たからてら)」京都府乙訓郡大山崎町銭原(ぜにはら)にある真言宗天王山宝積寺(ほうしゃくじ:古くは山号は「補陀洛山」)のこと。本尊は十一面観音。七二四年に聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。聖武天皇が、夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別々のもの)を祀ることから、「宝寺」(たからでら)の別名があり、「銭原山宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ぶ。この寺は天王山(標高二百七十メートル)の南側中腹にあるが、この附近は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置しており、古くから交通・軍事上の要地でもあった。

「夫男(ぶをとこ)」「夫」は「人夫」で、「雇われ人夫風の男」の意。

「楊梅子(やまもゝ)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の果実。六月頃に黒ずんだ赤い色の実を結ぶ。甘酸っぱくて美味い。結実期から、少なくとも遊佐は一年以上は浪人して芥川に潜んでいたということになる。

【翌朝追記】Facebookで読者の方から『たのしみに拝読しています。楊梅になにか典拠はあるのでしょうか。楊梅ですから季節は初夏か中夏の頃おいですね。』と戴いたので、今朝、以下のように、それに答えた。

   *

 原拠は明代の叢書「五朝小説」(魏・晋・唐・宋・明の小説を所収)の中の伝奇小説「夢遊録」の「桜桃青衣」で、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原本影印が読めます(右手のは機械翻字で誤りが多いですから、画像を視認して下さい。上記リンクの「55」から「62」までです)。

 その冒頭の「55」(主人公は科挙に受からぬ范陽の盧子で、遊んだ道端の寺に入って説経を聴きつつ、倦んでしまい、講莚で居眠りをして見る夢という設定ですが、その最終行に夢の始まりのところで、「夢に精舎の門に至り、一靑衣を見る。一籃の櫻桃を携へて下坐に在り。」(訓読は私の勝手流)とあります。以下の展開はその青衣(婢女(はしため))の主家が親族で、娘が孀となっているのを妻として、有力な縁戚の力で大出世をします。そして、たまたま、嘗ての寺の見かけて懐かしく思い、中に入ってみると……という感じです。「枕中記」のコンセプトも大枠は同じで、波乱はあるものの、大往生で終わるのは、「仕官の文学」である中国文学では、喩え、伝奇小説でも、これが正統な形と言えます。原拠でも本篇のような急転直下の修羅場などはありません。こうしたコペルニクス的転回を示す思想は、正道の「仕官の文学」から漏れた大多数の文士が、逆に「遊仙の文学」へと転じ、それに仏教の無常観が強い影響を与えた結果と私は思っています。

 「櫻桃」は文字通り「サクランボ」ですが、ウィキの「サクランボ」を見ると、『中国には昔から華北・華中を中心に、カラミザクラ(シナノミザクラ、支那桜桃、 Prunus pseudocerasus )がある。口に含んで食べることから一名を含桃といい』、『漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦』五『月)の条に』「是月也、天子乃以雛嘗黍、羞以含桃、先薦寢廟」『との記述がある。江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されている』。『これは、材が家具、彫刻などに使われる。暖地桜桃とも呼ばれる。「桜桃」という名称は中国から伝えられたものである』とあり、今、我々が食べている『セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされる』。『その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられた』とありますから、了意は馴染みのない「桜桃」を「楊桃子」に変えたものでしょう。ヤマモモは本邦では関東以南の低地や山地に普通に自生していますから。

   *

私は本書の電子化では、原則、原拠考証は避けることにしているが、以上はそれなりに面白味がある注になろうかと思ったので、ここに添えることとした。

「山崎の住人交野(かたのゝ)次左衞門」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『近くの地名交野(大阪府枚方市)より命名したか』とある。現在の大阪府枚方市及び交野市の広域旧地名ということ。

「西の郊(をか)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も同じ(以下の人物も含めてのようである)。

「石尾(いしをの)源五殿」不詳。

「三好」三好元長であろう。

「吃(きつ)と」素早く。即座に。

「和殿〔わどの〕」「わとの」とも。二人称代名詞。対等以下の相手に向かって親愛の気持ちをこめて用いる語。「そなた」。

「京にのぼらずとも、あれかし。」「何も、未だ落ち着かぬ都へなぞ上らずとも、よろししゅう御座いましょうほどに。」。

「聟になして、心安く見ばや。」「娘婿となして、何の心配もないように、ご面倒を見ましょうぞ。」。

「兩使」正使と副使の二名。

「公方(くばう)」第十二代将軍足利義晴(在職:大永二(一五二二)年~天文一六(一五四七)年)。

「一萬貫」あるQAサイトの答えを参考にすると、戦国時代の米一万貫は三千トン、銭一万貫をそれで換算すると、約九億円とあった。

「所知(しよち)」知行地。

「伺公(しこう)」「伺候」に同じ。

「相伴衆(しやうばんしゆ)」室町中期以降、宴席などで将軍の相伴役として伺候した者。山名・一色・細川・畠山・赤松・佐々木などの有力な諸家から特に選ばれた。

「點じて」地勢的・軍事的によく調べて。

「夥しう取り立〔たて〕たり」目的語が欠けているように見えるが、知行地の農地をも、よく差配して、莫大な収穫と利益を得、いやさかに豊かになったということであろう。

「繋ぎ馬の、たゆる隙〔ひま〕もなく」各地からの名士の到来、引きを切らず。

「津國(つのくに)」「攝津國」。「新日本古典文学大系」版脚注に、『代々細川家の所領であった』とある。

「武家の名高き細川なにがし」宗家(京兆家)の傍流。和泉上守護家(後に細川幽斎(養子)が出る)辺りか。

「内外(うちど)」内孫と姻族の外孫。

「敵」夢であるから、対象の事実候補を想定すること自体が無駄である。戦国好きの方なら、誰彼を想定仮定して挙げられるのかも知れぬが、生憎、私は戦国には全く冥い。悪しからず。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注は、この「一一四」ページの脚注の番号に錯雑がある。

「未(ひつじ)の刻」午後二時前後。]

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