芥川龍之介書簡抄46 / 大正四(一九一五)年書簡より(十二) 井川恭宛献詩
大正四(一九一五)年九月十九日・田端発信・井川恭宛(転載)
詩四篇
井川君に獻ず
I 受胎
いつ受胎したか
それはしらない
たゞ知つてゐるのは
夜と風の音と
さうしてランプの火と――
熱をやんだやうになつて
ふるへながら寢床の上で
ある力づよい壓迫を感じてゐたばかり
夜明けのうすい光が
窓かけのかげからしのびこんで
淚にぬれた私の顏をのぞく時には
部屋の中に私はたゞ獨り
いつも石のやうにだまつてゐた
さう云ふ夜がつゞいて
いつか胎兒のうごくのが
私にわかるやうになつてくると
時々私をさいなむ
胎盤の痛みが
日ごとに强くなつて來た
あ神樣
私は手をあはせて
唯かう云ふ
Ⅱ 陣痛
海の潮のさすやうに
高まつてゆく陣痛に
私はくるしみながら
くりかへす
「さはぐな 小供たちよ」
早く日の光をみやうと思つて
力のつゞくだけもがく小供たちを
かはゆくは思ふけれど
私だつてかたわの子はうみたくない
まして流產はしたくない
うむのなら
これこそ自分の子だと
兩手で高くさしあげて
世界にみせるやうな
子がうみたい
けれども潮のさすやうに
高まつてゆく陣痛は
何の容赦もなく
私の心をさかうとする
私は息もたえだえに
たゞくり返す
「さはぐな 小供たちよ」
Ⅲ めぐりあひ
何年かたつて
私は私の子の一人に
ふと町であつた事がある
みすぼらしい着物をきて
橦木杖をついた
貧弱なこの靑年が
私の子だとは思はなかつた
しかしその靑年は
挨拶する
「おとうさまお早うございます」
私は不愛相に
一寸帽子をとつて
すぐにその靑年に背をそむけた
日の光も朝の空氣も
すべて私を嘲つてゐるやうな
不愉快な氣がしたから
Ⅳ 希望
こんどこそよい子をうまうと
牝鷄のやうに私は胸をそらせて
部屋の中をあるきまはる
今迄生んだ子のみにくさも忘れて
こんどこそよい子を生まうと
自分の未來を祝福して
私は部屋のすみに立止まる
ウイリアム・ブレークの銅版畫の前で
一九一五 九月十九日
龍 之 介
[やぶちゃん注:全体が四字下げであるが、これは私には、芥川龍之介の新生、それも作家芥川龍之介の新生を予告する詩篇のように思われる。
「橦木杖」は「しゆもくづゑ(しゅもくづえ)で普通は「撞木杖」と書く。頭部が丁字形になった杖。但し、「橦」も音が「シュ」であり、「天秤棒や旗竿などの真っ直ぐな棒」・「鐘を撞(つ)く棒」の意や、動詞で「突く・突き破る」の意があるから違和感はない。]
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