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2021/04/01

芥川龍之介書簡抄26 / 大正三(一九一四)年書簡より(四) 六月二日井川恭宛 長編詩篇「ふるさとの歌」

 

大正三(一九一四)年六月二日・井川恭宛・封筒欠

 

  ふるさとの歌

      TO MR.IKAWA

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

 

何故なくのだか誰もしらない――

葉の黃色くなつた橡の木の下で

日の沈んだあとのうす赤い空をみて

女はいつ迄もしくしくないてゐる

 

お前が大事にしてゐる靑瑪瑙の曲玉を

耳無山の白兎にとられたのか

お前の夫の狹丹塗の矢を

小田の鳥が啣へ行つたのか

 

何故なくのだか誰もしらない――

雨手を顏にあてゝしくしくと

すゝなきながら女は

とほい夕日の空をながめてゐる

 

そんなにお泣きでない

腕にはめた金の釧が

ゆるくなるほどやせたぢやあないか

そんなにお泣きでない

 

女はなきやめるけしきはない

それもそのはづだ

とほい夕日の空のあなたには

六人の姊妹(きやうだい)がすんでゐる

 

六人の姊妹は女の來るのを待つてゐる

一番末の妹の女の來るのを待つてゐる

空のはてにある大きな湖で

 

湖の上にういてゐる六羽の白鳥が

女の來るのを待つてゐる

 

靑琅玕の水にうかびながら

妹の來るのを待つてゐる

 

七年前に七人で

この國の海へ遊びに來たときにー

海の水をあびて

白鳥のうたをうたひに來たときに――

 

海の水はあたゝかく

砂の上には薔薇がさいて

五月の日の光が

眞珠の雨のやうにふつてゐた――

 

七人とも白鳥の羽衣をぬいで

白鳥のうたをうたひながら

海の水をあびてゐた時に――

七人の少女(をとめ)が水をあびてゐた時に

 

卑しいこの國の男が砂山のかげヘ

そつとしのびよつて羽衣の一つを

知らぬ間にぬすんだので

――何と云ふきたないふるまひだらう――

 

卑しい男のけはひに七人ともあはてゝ

羽衣をきるのもいそがはしく

白鳥に姿をかへてとび立つと

――丁度櫨弓の音をきいたやうに――

 

空にとび立つたのは六羽

羽衣を着たのは六人――

一番末の妹は羽衣をとられて

裸身のまゝ砂の上に泣きながら立つてゐた

 

その時その卑しい男にかどわかされた

一番末の妹を思ひながら

六羽の白鳥は湖の空に

七つの星をかぞへながら待つてゐる

 

一番末の妹は夫になつた卑しい男が

ゐなくなると何時でもしくしくと

泣きながら夕日の赤い空をながめてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

 

卑しい男の妻になつた女は

何時空のはてにあるあの大きな湖ヘ

六人の姊がまつてゐる湖ヘ

歸ることが出來るだらう

 

女の夢には湖の水の音が

白鳥の歌と共にきこえてくる

なつかしい湖の水の音が

月の中に睡蓮の咲く湖の水の音が

 

卑しい男の妻になつた少女は

湖の水を戀ひて

每日ひとりでないてゐるが

何時あの湖へかへれるだらう

 

耳をすましてきけ

おまへのたましひのたそがれにも

しくしく泣く聲がするのをきかないか

 

耳をすましてきけ

お前の心のすみにも

白鳥の歌がひゞくのをきかないか

 

人がゐないと女はしくしくないてゐる

葉の黃いろくなつた橡の木の下で

白い馬のつないである橡の木の下で

           (一九一四・六・二)

             R.AKUTAGAWA

 

[やぶちゃん注:御覧の通り、書信はなく、この詩篇のみである。筑摩全集類聚版脚注では、『(写)』とあり、これは原書簡に当たることが出来ず、先行する従来の全集からの「写し」の意である。所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」の第七巻は昭和四六(一九七一)年刊であるが、これは概ね岩波書店の第三次「芥川龍之介全集」新書版全集(昭和三〇(一九五五)年刊。岩波の編集者は『小型版全集』と呼びならわしている)を親本としているのだが、私の所持する一九七八年版はその後の第四次である。そこには「轉載」の文字はないので、原書簡を確認していることが判る。しかし、『封筒缺』というところが怪しく、実際には井川に当てた書信があった可能性も捨てきれない。或いは、井川が誰れかに提供する際、そこに書かれた内容が芥川龍之介自身にとって不名誉な内容であるか、或いは、提供当時には未だ生存している誰彼(井川自身を含めて)に対して問題がある内容が書かれてあったために、書信部分をそっくり除外して示したものとも、とれる、ということである。詩篇の持つ意図しない男と結ばれるという辺りで憶測では複数の念頭に置いている実在のの女性の可能性は考え得るが、この時期の年譜的事実自体が乏しい状態なので、控えておく。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata 。東京帝大の庭にあったこと以外に、どうも芥川龍之介自身が好きな木だったように思われる。特徴のある花をまさにこの五月から六月頃にかけて咲かせる。葉の間から穂のようになった有意に長く高く立ち上がる花で、穂は一つ一つの花と花弁(白或いは薄い紅色)はさほど大きくないが、雄蘂が伸び、全体として賑やかで目立つものである。或いはこの漢字「橡」或いはその「とち」という響きを彼は愛していたのかも知れない。手っ取り早い解釈としては、トチノキの近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキAesculus hippocastanum のフランス名が「マロニエ」(marronnier)であり、フランスの象徴派詩人たちが、よく詩篇中に点描したことも挙げられるかも知れない。或いはここでも「マロニエ」と読んでいないとは言えない。但し、筑摩全集類聚版では編者は『とち』と振っている。

「靑瑪瑙の曲玉」「あをめなうのまがたま」。

「耳無山の白兎にとられたのか」この「耳無山」(みみなしやま)は特定の固有山名ではなく、耳の長い御伽噺しの中の「白兎」の「兎」に掛けた洒落であろう。

「夫」「をつと」。

「狹丹塗の矢」「さいにぬりのや」。赤い土や顔料で塗った特別な神聖を持つ矢。「古事記」の神武天皇の皇后の出生譚が〈丹塗矢(にぬりや)〉型の本邦の神婚説話の初期形で、三輪山の大物主神が美女勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ、彼女が廁で「糞まるする時」、「丹塗矢」と化して「そのほと(火登:女性生殖器)を突」いた結果、妊娠するという判り易いファルスのシンボルである。

「小田の鳥」「小」は「小さな」とする必要はなく、詩語として美称ととるべきである。

「啣へ」「くはへ」。

「何故」「なぜ」。

「誰」「たれ」。

「すゝなきながら」ママ。啜り泣きながら。筑摩全集類聚版では、勝手に『すゝりなきながら女は』と書き変えてある。個人的には私は龍之介の脱字だとは考えていない。無論、「すす泣く」という語はないけれども、龍之介は万葉語として存在した、「すす」(爲爲)という連語を想起したのではなかったかと考えるからである。動詞「す(爲)」の終止形を重ねたもので、「~しつつ・~しながら」で、畳語となるものの、「すすりなきながら」という弛んだ音形より遙かに美しいと私は思うからである。

「金」「きん」。

「釧」「うでわ」であろう。腕輪。筑摩全集類聚版は龍之介の本文に勝手にルビを振っているものだが、そこでも『うでわ』である。

「はづだ」ママ。「筈」は「はず」でよい。

「靑琅玕」「あをらうかん」。暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉。碧玉に似た美しい宝石。江戸時代以来の本邦では、多く濃緑色の硬玉の勾玉(まがたま)を指すが、一般には同色の硬玉・軟玉を広く指し、本邦では、専門家によって、これは現在の「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。私の『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』の私の注を参照されたい。

「羽衣」所謂、「羽衣」伝説である。これは、本邦だけでなく、世界各地に存在する伝説の一類型で、本邦の「天の羽衣」の現在に残る最古のそれは「風土記」の逸文として残っており、現在の滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが、「近江國風土記」に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが「丹後國風土記」にそれぞれ見られ、日本の他の地方に広く見られる「羽衣」伝説は、これら最古の伝説が、各地に周圏的に広まり、その地に根づいて変形されたものと考えられる。天女はしばしば「白鳥」と同一視されており、神話学では「白鳥」処女説話(Swan maiden)系の類型と考えられている。則ち、これは異類婚姻譚の類型の代表的な一つであり、日本のみならず、広くアジアや世界全体に見られ、天女を、その部族の祖先神と見做す小規模な創世神話の一型としての大切な属性を持ったものであ、一説にその起原はインドのプルーラブアス王の説話であるとされる。詳しくは参照したウィキの「羽衣伝説」を見られたい。

「櫨弓」筑摩全集類聚版では『はじゆみ』とルビするが、私は音数律から、「はじ」と読みたい。「波自由美」「黄櫨弓」「波士弓」とも書き、辞書等では、一律にハゼノキで作った弓とするのだが、廣野郁夫氏の素晴らしいサイト「木のメモ帳」の『木の雑記帳 「はじ弓」には何の木を使ったのか』を見ると、この辞書記載は甚だ怪しいものであることが判る。そこで廣野氏は、これを「広辞苑」第六版の記述例を引かれ、『この中で』『櫨(山漆)で造った弓』『波自由美、波士弓の表記を見る』が、『はじゆみ(櫨弓)の説明として、「櫨(山漆)」の説明はどう理解すればよいのであろうか』とされ、『「櫨」は普通はハゼノキ』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum )『を指し、括弧書きの「山漆」(ヤマウルシ)』(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『とは明らかに種類が違う。しかも、ハゼノキはわが国に本来の自生はなく、古代から中古にハゼ(櫨)、ハジ(櫨)、ハニシといったものは、わが国に自生する別種のヤマウルシ又はヤマハゼ』(ウルシ属ヤマハゼ  Toxicodendron sylvestre )『である【木の大百科】というから』、『ややこしい』と述べられた上で、『また、例えば古い時代の染色の黄櫨染(こうろぜん)についても、ハゼノキを使用したものとする説明が多いが、先に紹介した説明のとおり、本当はヤマハゼを使用したもののようである』。『歴史的な経過としては、ハゼノキの名は元々』、『現在』の『ヤマハゼと呼んでいる種に対する呼称であったとされ、蝋の採取を目的に栽培がより拡大した自生種ではない種が』、『いつのまにか名前を奪ってしまって、自生種はこれと区別するために新たにヤマハゼと呼ばれるようになったといわれている』。『こうした事情を念頭に置くと、「はじゆみ」とは』、『やはり「ヤマハゼ」を素材としたものなのであろう。ただ』、『気になるのは、ハゼノキは大径木になるのに対して、ヤマハゼやヤマウルシは大きくなる木ではないから、素性のよい素材を手に入れるのは』、『なかなか』、『難儀であろうと思われる点である。あるいは、仮に弓の呼称が各素材に対して共通的な認識の下に使用されていなかったとすれば、遺跡出土品のみからその歴史を知るしかないということになる』。『現在でも見られる弓道のための和弓は、宮崎県の都城市において』、『木刀と併せて生産が盛んで、古くからの技術が継承されていると思われるが、弓本体の積層構造の部材を構成する広葉樹として一般的に使用されているのは、皮肉なことに』、『側木としてのハゼノキがほとんどで、かつて丸木弓として利用されたと思われるヤマハゼの出番はないようである。側木を使用する弓の構造は江戸時代以降とされるから、導入栽培されたハゼノキの利用に関しては当時から利用されていたとしても不自然なことはない。ただし、ハゼノキを弓の芯材の一部(側木)として使用することに特別こだわる理由があるのかについては謎である。ハゼノキの利用に関しては、多くの樹種を試用した結果というよりも、はじ弓(もちろんこれはヤマハゼであるとして)の歴史がある中で、ハゼノキの材色の魅力がデザインとして有用であることから利用が定着したものなのではないだろうか』と考察しておられる。]

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