伽婢子卷之四 入棺之尸甦恠
○入棺之尸甦恠
[やぶちゃん注:標題は「につくわんのしかばね、よみがへるあやしみ」とルビがある。以下の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。]
いにしへより、今につたへて、世にいふ。
「およそ、人、死して、棺にをさめ、野邊におくりて後に、あるひは、うづむべき塚の前に甦り、或は、火葬する火の中より、甦るものあり。皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、若(もし)は、病(やまひ)重くして絕死(ぜつし)する者、若(もし)は、氣のはずみて、息のふさがりし者、或は、故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり。是等は、定業(ぢやうごふ)、天年、未だ盡ず、命籍(みやうじやく)、未だ削(けつら)ざる者なれども、本朝の風俗は、『死する』とひとしく、尸(かばね)を納(おさ)め、棺に入て、葬禮をいそぐ故に、たとひ、甦(よみがへ)るとても、葬場(さうば)にて、生(いき)たるをばもどさずして、打殺す。」
誠に殘りおほし。
されば、異國にしては、人、死すれば、まづ、「殯(かりもがり)」といふ事をして、直(すぐ)に葬送は、せず。
此故に、書典(しよでん)の中に、死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。
それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし。
頓死・魘死(おびへしに)などは、心すべし。
されば又、
「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり。」
といふ。
京房(けいばう)が「易傳」に、
「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」(至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。)
と、いへり。
「死人、久しくありて後に甦る事は、これ、下剋上の先兆(せんてう)なり。」
といふ。
此故に、甦りても、打殺す事なりと聞こゆ。
大内義隆の家の女房、死(しに)けるを、野に送り出し、埋(うづ)まんとせしに、俄に甦りぬ。
「打殺さんは、無下〔むげ〕に、かはゆし。」
とて、連れて歸りしに、髮は剃り落としぬ。
是非なく、尼になり、衣を着て、半年ばかりありて、又、死たり。
其年、果して、家臣陶(すゑ)尾張守がために、義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり。
永祿年中に、光源院殿の家の下部(しもべ)、俄に死〔しに〕けるを、二日迄、置(をき)けれども、生出(いきいで)ざりければ、若き下部(しもべ)ども、尸(かばね)を千本に送りて埋まんとするに、忽(たちまち)に甦る。
「打殺して埋まん。」
といふに、此者、手を合せ、泣き叫びて、
「助けよ。」
といふ。
さすがに、
「不敏(〔ふ〕びん)の事。」
とて、つれてかへり、部屋に置ければ、四、五日の内に、日ごろの如くなりたり。
その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ。
「尸(かばね)は陰氣にして、甦れば、陽に成りたる也。是れ、下として上を犯す先兆也。」
といふが故に、
「葬所(さうしよ)にて甦りし者は、二たび、家にもどさず、打殺す。」
と也。
此(この)理〔ことわり〕は、ある事歟(か)、なき事歟。
さもあれ、死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを。
[やぶちゃん注:漢文部は白文を示し、訓点に従って読んだものを後ろに附した。これは怪奇談というよりも、寧ろ、蘇生を凶兆とする言い伝えを評釈(それを示すために多く鍵括弧を附した)という体裁で示したもので、怪奇譚としては、今一つ、面白味を欠く。この手のものは枚挙に暇がなく、私も好むことから、複数の類型怪談を電子化しているが、私は断然、三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」の「入定の執念」を推す。私の偏愛する一篇で、ブログ新翻刻注版と、古いサイト版訳注版があるので参照されたい。
「棺」江戸時代の土葬の場合の棺桶は、樽や桶のような縦型の「座棺」で、遺体は手足を折り曲げた「体育座り」のような状態で納められた。これは二人いれば、担いで埋葬することが出来るという、至って実用的意味が、まず、あったものであろう。
「皆、家に歸さず、打殺(〔うち〕ころ)す事、」文章としては以下への繋がりが悪い。後で述べる通り、これ(その場で打ち殺すこと)が通例であったのだから、「打殺す事を常軌とす。」とでも添えて切って解釈するべきところである。実際、江戸時代、こうした仮死状態で葬送されてしまい、その途中で生き返るケースは、ままあった。その場合、放逐されるのはいい方で(その場合、当時は被差別民となることになる)、実際に打ち殺されたという事例も知っている。その場合、被差別民であった穢多・非人が打ち殺す役を命ぜられ、最悪の場合、蘇って殺された者の死体は埋葬もされず、刑場や牛馬の死体置き場に捨てられたという記事も読んだことがある。特に公儀の「仕置き」(死罪ではないレベルのそれ)の結果として「死んでしまった」と見做された者が蘇生してまった場合は、後者の処理が必ず行われたようである。信じられない方のために因みに言っておくと、氏家幹人氏の「武士道とエロス」(一九九五年講談社刊)によれば、かの知られた高田馬場が、『ふだんは白骨の捨場になっていると、延宝八年(一六八〇)に天野弥五右衛門』長重(旗本・先手鉄炮頭・知行二千五百石余)が記した「思忠志集(しちゅうししゅう)」に『高田馬場、馬乗之儀遠ク、白骨捨場ニ成候事』と『書きとめているのである。一口に「白骨」といっても、必ずしも人骨とは限らず牛馬犬猫の骨も含まれていたとは思われるが、それにしても、将軍代替りの折にハレの流鏑馬が華々しく催されるその同じ場所が、あたかも無縁墓地のようであったとは……。すくなからぬ驚きを感じないではいられな』い、と記しておられるのである。本「伽婢子」の刊行は寛文六(一六六六)年で、かく天野が記す僅か十四年前である。既に白骨の放置は始まっていたのではあるまいか? ともかくも、身分によるであろうが、「葬送のシステム」が既に起動してしまって、相続などの後処理が進行している中では、「甦(よみがえ)り」は決して歓喜すべきものではなかったことが多いことは認識しておく必要がある。
「絕死(ぜつし)」「氣のはずみて、息のふさがりし者」孰れも仮死状態(一過性の呼吸停止・呼吸減衰・心停止などの心肺機能の一時的低下)になることを言う。
「故ありて、迷塗(めいど)を見る者あり」本書でも「地獄を見て蘇(よみがへる)」の孫平のように、蘇生後に「冥途を見てきた」と語り出す事例である。怪奇談には仮死まで行かなくとも、人事不省中に地獄に行って帰ってきたとするものは、これまた、枚挙に暇がない。一つ、私の「小泉八雲 閻魔の庁にて (田部隆次訳) (原拠を濫觴まで溯ってテツテ的に示した)」をリンクさせておこう。
「定業(ぢやうごふ)」前世から定まっている善悪の業報 (ごうほう) 。決定業 (けつじょうごう) 。定まった「生死」(「天年」天然自然と正法(しょうぼう)があらかじめ定めた命数・生存期間)から外れれば、それは、無効である。
「命籍(みやうじやく)」「死籍(しせき)」に同じ。地獄の閻魔王のところに保管されているとされた、死者の名と死すべき命数を記した帳籍。「未だ削(けつら)ざる者」とあるからには、死がその帳簿通りに正しく発生し、地獄の審判が終了すれば、その名は削除されるということになる。
「殘りおほし」「親しい親族にとっては、情の上では、やはり心残りが多い」というのであろう。心情的には非常に納得出来る。
「異國」先に「本朝」として述べたから、この場合は外国、中国(後注参照)を指すと考えてよい。但し、「殯(かりもがり)」=「殯(もがり)」の習俗は本邦にも古代からある。高貴な人物は、蘇生を望む残された者たちの気持ちもあって、天皇の「殯宮」(もがりのみや:「万葉集」には「あらきのみや」とする)はよく知られているから、この限定は不審である。
「死して、三日、七日、十日ばかりの後に甦り、迷途(めいど)の事共、語りけるためしを、多く記(しる)せり。それも、十日以後は、また甦るべき子細も、なし」「新日本古典文学大系」版脚注に、『蘇生説話の多くは十日以内。中には塚中より十数年後に蘇り、父に帰還を拒絶された話(太平広記三七五・崔涵)もある。「趙簡子死シテ七日ニシテ甦ル。…程子ノ曰ク、死シテ復(また)甦ル者有リ。故ニ礼ニ三日ニシテ斂』(れん)『ス。イマダ三日ニナラズシテ斂スルハ皆之(これ)殺スノ理有リ遺書』事文前集五十一・死・七日復甦」。』とある。「太平広記」の「再生一」の「崔涵」は「中國哲學書電子化計劃」のここから(「塔寺」を出典とする。影印本を選んだ)。「趙簡子」は春秋時代の晋の政治家趙鞅(ちょうおう ?~紀元前四七六年)のこと。
「頓死」急死。予兆のない俄かな異常な死の意。
「魘死(おびへしに)」恐懼のためのショック死。但し、この語は古くは「睡眠中に魘魅(えんみ:物の怪・夢魔・恐ろしい夢)に襲われたまま、眠りから目覚めないこと」を指す語であるから、この場合の仮死状態に非常によく合致する。
「葬禮の場にて甦りしをば、家にもどさず、打殺すものなりといひ傳ふる事も、故あり」この理由は以上の文脈では必ずしも明らかでない。寧ろ、古い汎世界的な信仰としての、死んだ者の死骸は、文字通り、魂が抜けてしまった「骸」=「から」=「空」であり、そこには邪悪な悪霊や魔の物が入り込んで、生き返ったように見せ、禍いを齎すとしたもので説明されるべきである。了意は敢えて意味深長に「故あり」とのみ出して、以下の凶事の予兆説を展開する枕としたのである。
「京房(けいばう)」京房(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家。元の姓は「李」であったが、自ら「京」氏に改姓した。
「易傳」ウィキの「京房」によれば、『京房の著作として『京房易伝』が残っているが、これは『漢書』五行志にしばしば引用されている『京房易伝』とはまるで一致せず、『漢書』の引用の方が信頼できるものであるとされている』とある。
「至陰爲陽下人爲上、厥妖人死復生」前注引用に従い、「中國哲學書電子化計劃」で「漢書」の当該部を見つけた。影印の後ろから二行目と最終行にかけて類似する文字列を見る。
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「不則爲私、厥妖人死復生。」。一曰、「至陰爲爲陽、下人爲上。」。「六月、長安女子有生兒、兩頭異頸面相鄕、四臂共匈俱前鄕。」。
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この前半の二つの異文を、了意は恣意的に合成したものと思われる。
「至陰(しいゐん)、陽と爲り、下人(かじん)、上(かみ)と爲る。厥(これ)、妖人(えうじん)死(し)せり、復(ま)た生(よみが)へる。」意味はよくは判らぬが、
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「死」という究極の「陰」が変じて、真逆の「陽」として「生」者に戻るということは、陰陽説から見れば、あってはならない異常な事態であり、さればこそ、人間社会に喩えれば、身分が「下」の人間が何らの理論的裏付けなしに、突如、「上」となることに外ならない。これは、妖しげな人間が既に死んだのに、再び蘇るように見えるということで、確かに予兆されることである。
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という意味で了意は採っていると私は思うのである(本当にそうかどうかはよく判らぬが、引用した後半部は明らかに先天性奇形の双頭型の結合双生児の出生を示しているが、それも凶兆の最たる現われとするものなのであろう。さすれば、チェルノブイリ原発の事故後の出来事ははまさに「ニガヨモギ」の星の落下による致命的な汚染の「黙示録」の再来と言えるであろう)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『京房易伝第二句「下の者が上に剋(か)つ」の思想。鎌倉中期から応仁の乱の最盛期を経て、戦後時代を通じる時代精神となった』とある。
「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は既出既注だが、再掲しておく。戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。
「家の女房」「新日本古典文学大系」版脚注には、『侍女、もしくは側室。後者とするなら、義隆の最初の正妻は万里小路』(までのこうじ)『殿の息女で、次いでそのお付きであった』「おさいの方」『が、さらに広橋殿の息女も側室であったという(大内義隆記)。なお、室町殿物語一・大内義隆、九州発向の事では、持明院基規の息女も妻とされ、義隆自害後、入水したと記す』とある。
「無下〔むげ〕に」捨てて顧みないでいるには。
「かはゆし」見るに忍びない。可哀そうで見ておられぬ。
「義隆は國を追出〔おひいだ〕されたり」注した通り、追い出されるどころか、追い詰められて自害している。
「永祿」一五五八年~一五七〇年。室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭であるが、実際には以下から「永禄の変」の年であるから、永禄元年から永禄八(一五六五)年四月以前の閉区間となる。
「光源院殿」第十三代将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五)年/在職:天文一五(一五四七)年~没年)の戒名「光源院融山道圓」の院号。松永久秀の長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。討死とも自害とも語られており、定かではない。
「千本」「新日本古典文学大系」版脚注に、『京都市上京区今出川町から北の地域。蓮台野の墓地を控え、閻魔堂や釈迦堂があった』とある。この附近。
「不敏(〔ふ〕びん)」「不憫」「不愍」の当て字。可哀そうなこと。憐れむべきさま。
「その年、五月に三好・松永、反逆(ほんぎやく)を起しぬ」「永禄の乱」は永禄八(一五六五)年五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日/グレゴリオ暦換算六月二十七日)で、この日に義輝は没している。
「さもあれ」「然もあれ」。それにしても。ともかくも。ままよ。さもあらばあれ。ここは「それにしても」がいい。何故なら、やや判りにくい「死人(しにん)の一族は、殘り多く侍らんものを」というのは、「死んじまった者の遺族や一族当人どもは、皆、平然と、永く生き残っているというのに強い疑義と批判である。これは、「蘇生した人間を残ってぴんぴんしている連中が、打ち殺すということは人道に悖る」ということを最後に了意は述べているのだと思うからである。了意は「悪人正機」を奉ずる浄土真宗の僧である。基本に於いて、正法(しょうぼう)が認めた命数に満ちていないのだからこそ正当に甦ったのであり、その者を打ち殺すということは仏法の絶対の「理」に於いて認められないからである。仮に、悪しき霊が憑依して生き返ったかのように見えている物の怪であっても、それは、そもそも、正しき阿弥陀如来の不可思議な光=力によって調伏されるはずのものなのであって、人が安易に殺すべきものではあり得ないし、正真正銘の物の怪ならば、寧ろ、物理的に殺すことは凡人には出来ないはずだ、というような疑義が漏れ出たもののようにも、私には思われるのである。]