《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 私の文壇に出るまで
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に「私の文壇に出るまで」の標題を大見出しとして、「文壇諸家立志物語(4)」の副題で掲載され、初出誌では、『初めは歷史家を志望』との見出しが付されてあると、底本(以下)の後記にある。
芥川龍之介は、この年の五月二十三日に、処女作品集「羅生門」(阿蘭陀書房)を刊行している。
底本は一九七七年岩波書店刊の旧「芥川龍之介全集」第一巻を用いた。
原本では傍点が「・」(人名・作家名)と「△」(書名・作品名)の二種が用いられているが、前者を下線で、後者を太字で示すことにした。また非常に多くのルビが振られてあるが、特に読みが振れるもの、難読と思われるもののみに附すこととした。「私」は途中で一箇所「わたし」と振られてあるので「わたし」で通読してよい。「德富蘆花」の「富」はママである。
ブログで書簡を抄出して注釈を行っているうちに、本篇がネット上で電子化されていないことに気づいたので、急遽、行った。従って、注は附さない。]
私の文壇に出るまで
私は十位の時から、英語と漢學を習つた。高等小學の三年から第三中學に入つた。恰度上級には後藤末雄、久保田萬太郞の兩氏があつた。私は大層溫和(おとな)しかつた。そして書くことは好きであつたけれども、五年の時に唯一度學校の雜誌に『義仲論』といふ論文を出したきりで、將來は歷史家にならうと思つてゐた。私が中學を卒業した年から、無試驗入學が始まつて、第一高等學校の英文科に入學した。その時分には、もう歷史をやるといふ志望は放擲してしまつた。それでは作家にならうといふ考があつたかといふと、さうではなかつた。まあどうかして英文學者にでもならうといふつもりでゐた。そして讀書をした。高等學校の三年間は、さうして過ぎた。その間にはまだ久米、松岡、成瀨、菊池達と親しくしてはゐなかつた。
大學一年の時、豐島だの、山宮だの、久米だので第三次の『新思潮』をやつた。その時短篇を初めて書いた。それは題を『老年』にといふのであつた。雜誌は一年ならずして廢(よ)した。三年になつてから、『新思潮』の次を出した。それから小說を書き出して、今日(こんにち)まで作家になるとも、ならないともつかずに小說を書いて來た。まづ本街道は右の通りである。
少し脇道に入つて、私のこれまで讀んだものなどに就いて話せば、小學時代、私の近所に貸本屋(かしぼんや)があつて、高い棚に講釋の本などが竝んでゐたが、私はそれを端から端まですつかり讀み盡してしまつた。さういふものから導かれて、一番最初に『八犬傳』を漬み、讀いて『西遊記』、『水滸傳』、馬琴のもの、三馬のもの、一九のもの、近松のものを讀み初めた。德富蘆花の『思ひ出の記』や、『自然と人生』は、高等小學一年の時に讀んだ。その中で『自然と人生』は幾らか影響を受けたやうに思つた。中學時代には漢詩を可成り讀み、小說では泉鏡花のものに沒頭して、その悉くを讀んだ。その他夏目さんのもの、森さんのものも大抵皆讀んでゐる。中學から高等學校時代にかけて、德川時代の淨瑠璃や小說を讀んだ。その時分から近松の中に出て來る色男、文化文政の色男といふものに對する同情は、決してもつことが出來なかつた。次には西洋のものを色々讀み始めた。當時の自然主義運動によつて日本に流行したツルゲネーフ、イブセン、モウパツサンなどを出鱈目に讀み獵(あさ)つた。高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ。殊にロマン・ローランの『ジヤン・クリストフ』には甚(ひど)く感動させられて、途中でやめるのが惜しくて、大學の講義を聽きに行かなかつたことがよくあつた。しかし、私は遂に藤村の詩だとか、『天地有情』といつたやうな日本の詩からは、何等の影響をも受けないでしまつた。かうして、今迄のところでは、甚(はなは)だ平凡な一介の讀書子として來た。それ以外に何にもありはしない。ただ夏目先生の許ヘ一年ばかり行つてゐるうちに、芸術上の訓練ばかりでなく、人生としての訓練を叩き起されたと云ふ氣がする。
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