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2021/04/02

芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)

 

[やぶちゃん注:以下は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」に載るものを底本とした。本書簡の最初のものは、実際に送られたものではなく、葛巻氏によって『大正三年夏上総一宮にて』とし、書簡の『草稿断片』記されたもので、クレジットはない。既に述べたが、この年の七月二〇日頃から八月二十三日(帰宅)まで、友人の堀内利器(りき 明治二四(一八九一)年~昭和一七(一九四二)年:府立三中の龍之介の一年先輩の友人。一高を経て、京都帝国大学理科を卒業後、「高砂香料」・「台湾有機合成会社」等を創立した。国立国会図書館デジタルコレクションに没年に刊行された「アセチレン工業に就て」(講演速記版)がある)の紹介で彼の故郷千葉県一宮海岸(現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町(いちのみやまち)一宮の現在の「一宮海水浴場」(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。に行き、約一ヶ月滞在している。新全集宮坂年譜によれば、『滞在中は、読書はあまりせず、海水浴や午睡が日課だった』とあり、この前の七月十六日附の、三中の三中の後輩で親しかった浅野三千三宛書簡の末尾にも、『廿日から僕は一の宮へゆく 神經衰弱をすつかり療』(いや)『さうと思ふ』『試驗成績は僕も餘りよくなささうだ』と記している。ここは現在、長生郡一宮町一宮字林下の旅館「一宮館」の離れとして、泊まった時のままに残されて「芥川荘」(「千葉県教育委員会」公式サイト内)と呼ばれてある。因みに、「芥川龍之介 愛の碑」(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの碑の裏面)なる吉田弥生の名を記したものが、この海岸線のここに建っている。無論、この「愛」というのは、後の大正五(一九一六)年八月二十五日の、ここへの二度目の止宿の際の、後に妻となる塚本文へのよく知られた求婚書簡が書かれたというハイブリッドの意味があり、それが碑文にもあるのだが、これ、吉田(金田一)弥生が生きていたら、驚愕卒倒するに違いない。だいたいからして妻文と並んで刻まれてあるというのは、如何なものか? しかし、この碑の建立は昭和四九(一九七四)年十月。弥生は前年の昭和四八(一九七三)年二月に亡っている。満を持して建てたということか。少し、複雑な座りの悪い感じがする文学碑である。芥川龍之介も微苦笑すること、間違いない。

 この「神經衰弱」というのは、広義の心身疲労・持続的不安・抑鬱及び心身症としての頭痛・神経痛・勃起不全などを総称したもので、一八六九年(明治二年)にアメリカの神経内科医ジョージ・ミラー・ビアード(George Miller Beard 一八三九年~一八八三年)が、過労を主とする日常生活のストレスによる中枢神経系の減衰症状として「ニュラスティニア」(Neurasthenia:神経衰弱症)を造語したものである。二十世紀初頭に、この概念は世界的に広く受け入れられたが、西洋では比較的早くに(一九三〇年代以降)徐々に使用されなくなった。しかし、本邦では、好んで使われ(漱石は盛んに用い、この年に発表された「こゝろ」でも「先生」は遺書の中で(リンク先は私の初出復元版)、Kのことを『彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです』と言わしめている。私がKなら、強迫神経症の猛者である漱石なんぞには、そう言われたくはない気が大いにする)、精神科医が殆んど使用しなくなったのは戦後であるが、今でも一般の日本人の中には、手軽で安易な精神的疲労を示す語として生き残ってしまっている。DSM-IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:「精神障害の診断と統計的便覧」。現在は第五版まで出ている)では、「鑑別不能型身体表現性障害」(Undifferentiated Somatoform Disorder)とされる。英語圏では俗称で「ナーバス・ブレイクダウン」(nervous breakdown)と呼ばれる。また、「慢性疲労症候群」の旧称と言い換えることは一面的には妥当とも言えるが、重篤な統合失調症などの精神疾患の初期症状をそれで見過ごすことが多く、また、一部では不定愁訴型の「慢性疲労症候群」の病原として何らかの病原体感染が疑われている昨今では、私は最早、隠れた差別語として死語とすべきものと考えている。

 ここでの龍之介のそれも、そうした抑鬱的な精神状態の不定愁訴的なニュアンスを指していると考えてよいが、敢えて原因を考えるならば、帝国大学入学後、山本喜誉司や井川恭のような親友が身近になかなか出来ず、講義にも有益性を殆んど認めぬために出ても面白くなく、サボることも多くなって、『新思潮』の同人活動以外には(それ自体も初期には同人間では相対的に見て必ずしも積極的ではなかった)、まるで先験的な希望が見出せない大学生活そのものがこの頃の彼にとっては完全に乖離した世界として意識されていたこと、そして、そこにここに見られる本格的な結婚を想定した吉田弥生(彼女についてはこちらの私の注を参照)への強い恋慕の情が強く絡んできたことによる焦燥に起因するものであろう。但し、それが、心身症のレベルでないことは、この一の宮での健壮な河童生活でも明らかである。というよりも、寧ろ、最後の弥生へのもやもやこそが「神經衰弱」というメランコリーの核心にあり、それが、以下のラヴ・レターの発信により、解消されたとも言える程度にごく軽い精神不安に過ぎなかったもののようにも私に窺われるのである。

 最初に掲げた草稿断片の前の二葉の頭その他には「・・・」とあるが(全三ヶ所)、これは葛巻氏が省略に用いるものであるので、除去した。また、ここでは途中に注を挟んだ。]

 

大正三(一九一四)年七月:吉田彌生宛(日付不詳であるが、葛巻氏の提示が順列であるとすれば、二十日以降から二十八日までとなる)。上総一宮にて執筆された書簡草稿断片三葉。間に「*」を施した)

 

氣になつて 同じ豆らんぷの下で ペンをとりました これで彌ちやんへ手紙をあげるのが 二度になるのですが 二度とも ある窮屈さを惑じてゐるのは事實です それはやゝもすると 餘り自由に書きすぎはしないかと云ふ掛念[やぶちゃん注:「懸念」に同じい。]があるのです むづかしく云ふと 社會の不文律がきめてゐる制限を 知らず知らず乘越えてゐはしないかと云ふ疑懼[やぶちゃん注:「ぎく」。]の心が一行書くうちにも つきまとつてゐるのです(少し大袈裟ですが) それも社交上の修辭に富んだ人だと こんな心配はないのですが僕は其點で 單語もSYNTAX[やぶちゃん注:縦書。「構文」の意。]も非常に貧少な惡文家ですから どうも此塀を飛び越えさうな氣がして仕方がありません 其爲に僕の手紙は甚 手數のかゝつた よみ惡いもの

   *

と茄子の畠との間へ 四分板[やぶちゃん注:「しぶいた」。厚さ約一・二センチメートルの板。]を一枚 敷いて流しにした 無造作なものですが 風呂はそれでも 鐡砲のついた 小判なり[やぶちゃん注:「形(なり)」。]の風呂桶がありますから 行水ですます必要もありません うすい月が出で 豆、黍、茄子 さゝげ 甘藷などの葉が 靄の中にうなだれてゐるのを見ますと 久しぶりで 漢詩でも作つて見たくなります 「種豆南山下 辨盛豆苗稀」と云ふ 名高い陶淵明の雜詩を思ひだすのも此時です 時々僕は 厄石湖の田園詩集を 忘れて來たのを 殘念だと思ふ事があります

[やぶちゃん注:「彌ちやん」芥川龍之介との幼馴染みという関係がよく見てとれる呼びかけである。

「鐡砲」「鐡砲風呂」。木の風呂桶の中に「鉄砲」と呼ばれる鋳鉄製の筒を入れ、その筒の中に、上から、薪などの燃料をくべて湯を沸かしたもの。鉄器の及源鋳造(おいげんちゅうぞう)株式会社公式サイト「OIGEN」内の「五右衛門風呂と鉄砲風呂-昔なつかしいお風呂の鋳物-によれば、『西日本で長州風呂』(風呂釜全体が鋳鉄製の風呂。恐らくは殆んどの人が「五右衛門風呂」と考えているものが長州風呂である。底が直接釜になっているため、底板が用いられる点では同じだが、五右衛門風呂は全側面の中・上方は総て板で出来ており、側面の下方に少し鉄釜の縁が内側に迫り出しているものを言うのが本当である)『が一般的だったのに対し、東日本ではこの鉄砲風呂が昭和の時代まで普及していました』。『そしてここ水沢』(岩手県奥州市水沢羽田町)『の鋳物産地が江戸時代の頃から長らく「鉄砲」の一大生産地として名を馳せていました。及源でも昭和』三十『年代まで盛んに「鉄砲」を生産していました。水沢の近辺では江戸の頃までは風呂はそれぞれの村のお風呂屋さんにしかありませんでしたが、戦後になると鉄砲風呂が一般家庭にも広がっていきました』。『しかし鉄砲風呂は五右衛門風呂と比べるとなかなか馴染みがなく、その姿を見かけることすらありません。鉄砲風呂の沸かし方や』、『入り心地が実際どうだったのか、というのが気になるところ。まだ鉄砲風呂が現役だった昭和』三十『年代に水沢近郊の街で家業の桶屋で鉄砲風呂を作っていた石田繁さんが、鉄砲風呂の思い出を語ってくれました』。『お風呂は離れにあったので、冬場は風呂に行くまでも寒い思いをしていました。風呂桶は鉄砲が入るスペースが必要になるというのもあり、人が入る空間は狭く、膝を抱えて湯に入ります。また、同じ風呂桶のなかで薪を焚いているので、灰が湯に飛んできてしまうこともしばしばありました』。『水を汲むのと、湯を沸かすのが子どもたちの仕事でした。水汲みは何度も何度も往復して風呂桶に入れるので大仕事。湯が沸くのに鉄砲風呂はわりに早く、』一『時間弱もすれば』、『あったかいお湯になりました』。『このあたりでは、終戦後から』二十『年くらいかな、亜炭っていう炭の一種がよく採掘されて、それも燃料になりました。焚きつけは薪をつかっていたけど、お湯を保温するには亜炭がよかったんです』。『いまみたいに毎日お湯を替えるなんてことはなく、一回の湯を一週間は使います。なので次第に湯が濁ってきて、風呂から出るときは垢がつかないように気をつけました。それでも、鉄砲で火を焚いて、ヒバの香りがする風呂桶につかるのはなかなかよいものでした』。『鉄砲風呂は昭和30年代を境に家庭から消えていきました。浴槽は木桶から、ホーロー浴槽、強化プラスチック、ステンレスなどに置きかわり、燃料も薪や炭からガスの時代に変わっていきました。水沢の鋳物産地でも「鉄砲」はそれ以降、特別なことを除けば作られることはありませんでした』とある。私はこの正真正銘の鉄砲風呂に小学校三年生の頃に入ったことがある。祖母が住んでいた鵠沼の貸家で、大家と祖母の部屋の間の室内にあった。鉄に触れると、火傷するのではないかと思って、とても怖かったことを覚えている。大家さんのおじさんが親切に入り方を教えて呉れた。]

海へは 半里ばかりありますが 舟で行きますから 餘り苦になりません川の兩岸は蘆と松です 海岸は 九十九里だけに 見渡す限り 砂がついてゐますが 海は 見た所より はいつた方が遙に野蠻で のべつに一間[やぶちゃん注:一・八一メートル。]位な波がよせて來ます 泳ぐと云ふより波になぐられにはいると云つた方が適當かもしれません 海水浴場の揭示にも 泳げとは書いてないで 波に背部を打たすべしと書いてあります 始めての日には 油斷をしてゐた所を 波にひつくり返されて 頭にかぶつてゐた手拭を流されてしまひました 二日目の日には 波を越しそくなつて[やぶちゃん注:「そこなつて」に同じい。] 鹹い[やぶちゃん注:「しほからい」。]水を大分のまされました 今でもまだ 波に對する僕の抵抗力は甚 貧弱です 僕たちの連中での餓鬼大將は 工學士ですが 生憎泳ぎは拔手も碌に切れない方なので 波が來ると 僕以上に狼狽します 二人ゐる一高生の一人は蔭山金左衞門と云ふ 封建時代の名前を今日でも恥しげなく名乘つてゐる男で 一人は堀内利器と云ふ 專賣特許の井戶堀機械のやうな名の男ですが 一人は五里何町の遠泳をした事のある男ですし一人は一の宮の生れで波に慣れてゐる男ですから 二人共後鉢卷[やぶちゃん注:「うしろはちまき」。]をして泳ぐ所は 漢語で形容すると 壯士慘として驕らずと云つた調子です 其代[やぶちゃん注:「そのかはり」。] 一日に十里步いたり高い崖の上から飛び下りたりするのを得意にしてゐる人間ですから 國家圭義を標榜して僕を攻擊するのを 義務の如く心得てゐます 其おかげで 此間も學生となつては不成績なるべし 功名を望む可らずと云ふやうな議論を一時間ばかり 謹聽させられました 其癖二人とも 僕のゐた中學を首席で卒業してゐるから滑稽です 近々 此二人の志士の案内で 高藤山と云ふ山へ上る筈ですが 嘸[やぶちゃん注:「さぞ」。]豆が出來るだらうと思つて 今から大に弱つてゐます

[やぶちゃん注:「蔭山金左衞門」府立三中の二年後輩の友人。浜崎隆氏の論文「芥川龍之介研究」に拠った。

「壯士慘として驕らず」杜甫の五言古詩「後出塞五首其五」の一節。「壯士慘不驕」「壯士(さうし) 慘(さん)として驕(おごら)ず」。「血気盛んな青年兵士ももの哀(がな)しくなり、意気消沈してくる。」の意。全詩は紀頌之氏のサイト「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちら(訓読表記に一部誤りがあるので注意されたい)を参照されたい。]

ダンヌンツヨのこはいろを使ふと五人共「OLIVE[やぶちゃん注:縦書。]のやうに」黑くなりました 消化もいゝと見えて 食慾が旺盛です 勉强はあまり出來ませんが 朝のうちだけは 感心に本を少しよみます 夜もよくねます 眠る前に時々東京の事や 彌ちやんの事を思ひ出します

[やぶちゃん注:「ダンヌンツヨ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。何の作品の登場人物の「こはいろ」(聲色)かは不明だが、私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」』で全文を示した(この「芥川龍之介書簡抄」では採用していない)大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持った芥川龍之介の書簡に、ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説「Triumph of Death」(Il Trionfo della Morte :「死の勝利」)の話が出、また、この書簡の直近では、新全集宮坂年譜を見ると、ここ一の宮に来る直二週間ほど前の七月五日に、新宿の自宅で、ダヌンツィオの悲劇「ラ・ジョコンダ」(La Gioconda :一八九九年)のドイツ語訳を読み終えているから、或いは後者か。

「五人共」ママ。後の二人は誰なのか不明。但し、これは「三人」の誤記や誤判読ではなく、実際に一の宮で外に二人の人物と交流があったことは、後の八月六日附小野八重三郎宛書簡で判る。それによれば、『三中の人に二人あつた 蔭山が紹介してくれたので大分いろんな事を話した あとで「あれは何と云ふ人だね」と蔭山にきいたら「僕も知らない」と答へた 自分も知らない人間を人に紹介するのは亂暴である』とあるのがそれである。

『「OLIVEのやうに」黑くなりました』言わずもがな、オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea 。誤訳で「橄欖」。真正の橄欖はムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album でインドシナ原産。種を食用にしたり、油を搾ったりするので利用法がオリーブに似ているため、に誤って漢字訳された)の実は秋になって熟すと濃い紫色を経て、黒くなる。]

   *

  彌生樣    七月廿八日、一の宮にて

御手紙拜見致し候 二度も三度も御返事認め候へども皆意に滿たねばやめに致し候

〝赤百合〟の中によひどれの詩人出で來り候ふべし 杖に女の首を刻みて〝人道〟とかなづくる男に候 これぞヴルレーヌを描けるものに候なる わかき彫刻家も その戀人も 皆まことありし人々の由に候

この地の自然の手ざはりのあらきにはおどろかれ候 松脂のにほひと砂と海とのみ 砂丘には月見艸の花さへつけず 弘法麥と濱防風と 僅に靑を點ずるのみに候

海には每日 ひたり候へば橄攬の如く黑み候 一高生二人 常に共に泳ぎ候

都の夜など思出でられ 時にはかへりたくなり候 何となく心おちゐぬ事多く候

書くべき事多けれど 書き得ざるを如何にせむや これにて御免蒙る可く候

                龍之介

 

[やぶちゃん注:これは短い乍ら、書信の体を完全に成しており、また、龍之介宛で吉田弥生の方から前の二種の草稿以前に、書信が既にあったことが判る。にしても、草稿とは打って変わって、何か妙に硬い。

「〝赤百合〟」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九四年に発表した恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge )。十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描いたもの。パリ社交界の芸術サロン主催者でアナトールの愛人でもあったアルマン・ド・カイヤベ夫人(本名レオンティーン・リップマン Léontine Lippmannmadame Arman de Caillavet 一八四四年~一九一〇年)との交際体験に基づいて書かれた作品であった。「芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の一通目の大正二(一九一三)年八月四日附山本喜誉司宛の中で、『杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す』と言及している。今回、今一度、「Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)を調べたところ、この話は、恐らく、「90」ページの頭がそれで、‘human misery’と出現するものであることが判った。

「ヴルレーヌ」言わずもがな、フランスのかの詩人ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine  一八四四年~一八九六年)。

「月見艸」バラ亜綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera 或いはマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta 。私は可憐で清楚な前者をはなはだ偏愛するが、恐らくは太宰治「富嶽百景」の錯誤と同じく、後者であるのかも知れない。

「弘法麥」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi 。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。

「濱防風」セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis である。食用として新芽を軽く茹でて酢味噌和えにしたり、天麩羅や刺身のツマ等に利用される。なお、狭義の漢方の生薬に使われる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricate で、中国原産で別属で植物学的にも薬用としても無関係である。

「高藤山」「たかとうさん」と読む。ここ。標高八〇・四メートル。

【2021年5月18日追記】新全集まで誤って配されていた、この前後に入れらるるべき書簡を、こちらで電子化した。是非、見られたい。

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