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2021/04/27

伽婢子卷之四 夢のちぎり

 

        ○夢のちぎり

 大永の比ほひ、舟田左近(ふなたさこん)といふ者あり。武門を出〔いで〕て、凡下(ぼんげ)となり、山城の淀といふ所にすみけり。心ざま、優(ゆう)にして、なさけ深く、しかも無雙(ぶさう)の美男(びなん)なり。家、富(とみ)て、ゆたかなりければ、人みな、あしくもいはず。年廿二になるまで、妻をもむかへず、たゞ色好みの名をとりたり。

 橋本といふ所に田地(でんぢ)をもちければ、秋のすゑつかた、

「田を、からせむ。」

とて、舟にのりつゝ、ゆくゆく、橋本の北に酒賣る家ありて、住居(すまゐ)、にぎにぎしう、内の躰(てい)、奇麗に見ゆ。

 舟田は、舟(ふね)を家のうしろの岸につけて、酒を買(かふ)て、のまんとす。あるじ出て、

「こなたへ。」

とて、よび入しに、かけづくりにしたる亭(てい)に、のぼる。

 亭の西の方には、ふりたる柳、枝たれて、紅葉にまじはり、嵐〔あらし〕にちりおち、下葉うつろふ萩が露、枝もと、をゝに、おもげなり。秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき、籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも、あだにゆかしき心地ぞする。

 北の方を見渡せば、淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに、あそぶ心ぞ、しらまほし。「楊枝(やうじ)が島」もほどちかく、「渚(なぎさ)の院」もこゝなれや。水野を過〔すぎ〕て山崎や、「うど野」につゞく三嶋江まで、たゞ一目にぞ見わたさるゝ。

  あるじ、盃(さかづき)出し、酒すゝめて、

「是は松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)にはあらねども、かの玄惠(げんゑ)法印が庭(には)の訓(をしへ)に名をほめたる淀鯉(よどごい)の鱠(なます)とて、とりそなへて出したり。又、これは吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)には侍べらねど、貫之(つらゆき)が、詠〔なが〕めにつみたる、水野の澤(さは)の根芹(ねぜり)にて侍べる。」

など、心ありげにもてなしければ、舟田、あるじの心を感じて、數盃(すはい)をかたぶけたり。

 その家に、むすめあり。年十八ばかり、未だいづかたにも緣を結ばず、亭に續きたる一間(ま)の部屋に住みけり。親、もとより、ゆたかなりければ、哥雙紙(〔うた〕さうし)なんど、おほくもとめてよませ、手はすぐれねども、物かく事、流るゝが如し。心ざま、やさしく、なさけあり。舟田が、亭にありけるを見て、心惑ひしつゝ、帳(ちやう)の隙(ひま)よりさしのぞき、或は、顏を、皆ながら、さしあらはし、或は帳の外に立ち、又、内に引籠り、又、帳より外に出つゝ、耻かしさも忘れて、こがるゝばかり、なまめきたり。

 舟田、これをみるに、女のかほかたち、世にたぐひなく美しく、輝(かゝや)くばかりに覺えて、知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん、たがひに心を通はせて、目と目を見合せ侍べりしか共、更に一言葉(〔ひと〕ことば)をいふべきよしもなく、日、すでに、傾(かたふ)きしかば、舟田は、暇乞(いとまごひ)し、座を立〔たち〕て、舟に乘り、我が宿に歸りしかども、たゞ、その人の面影のみ、身にしむ秋の、風さえて、ひとり、まろねの床の上、しらぬ淚ぞ、おちにける。

 その夜〔よ〕の夢に、橋本の酒うる家にゆきて、後(うしろ)の川岸より、門に入〔いり〕、直(すぐ)に女の部屋にいたりぬれば、部屋の前には、小さき「つくり庭」ありて、さまざまに疊(たゝみ)たる岩組(〔いは〕ぐみ)、峯よりくだる谷のよそほひ、ふもとよりつたふ道の續き、風情おもしろく、山より山のかさなれるに、洲濱(すはま)の池は、水淸く、さゝやかなる魚、おほくあそび、汀(みぎは)に生(おふ)る忍草(しのぶ〔ぐさ〕)、窓に飛びかふ螢火の、消え殘りたる秋の暮、鈴虫の聲、かすかなり。

 軒には、小鳥の籠、ひとつかけて、たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ。つくえには、うつくしき甁(かめ)に、菊の花、すこしさして、硯箱あり。床(とこ)には「源氏」・「伊勢物語」、其外、おもしろく書(かき)たる双紙(さうし)を積み重ね、壁に寄せたる東琴(あづまごと)は、思ひをのぶるなぐさめかと、目とまる心地して立たりければ、女は、是れを見て、嬉しげに近づき、うち笑みて、舟田が手をとり、閨(ねや)に入て、

「心に積もる言の葉、百夜(もゝよ)も盡きじ。」

と、うち佗び、

「互ひに契りをかはしまの、水のながれて終(つゐ)にまた、末は逢瀨(あふせ)をならしばや、しばし人目を忍ぶ草、その關守こそつらからめ。」

など、さまざま語らひけるほどに、人の別れを思ひ知らぬ、八聲(〔や〕こゑ)の鳥もけうとげに、はや、『明がた』と打ちしきれば、灯火(ともしび)の色、いとしろく、窓の本(もと)に、夢はさめたり。これより、每夜、夢のうちに行通〔ゆきかよ〕〕ひて、契りをなさぬ夜は、なし。

 ある夜の夢には、女、琴をひきて「想夫戀(さうふれん)」の曲をなす。その爪音(つまをと)、たえにして、ひゞきは雲路(くもぢ)にいたるらむと、いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける。

 ある夜の夢には、又、かの家に行たりければ、女、白き小袖を縫(ぬひ)たりしに、舟田、ともし火をかきあぐるとて、小袖のうへに燈花(ちやうじがしら)をおとして、痕(あと)、つきたり。

 又、ある夜の夢には、女、白かねの香合(かうばこ)を、をくる。舟田、水精(すいしやう)の玉を、あたへたり。夢、さめぬれば、香合は舟田が枕もとに、あり。わが水精の玉は、なし。大きにあやしみ思ひて、

 君にいま逢ふ夜あまたのかたらひを

   夢としりつゝさめずあらなむ

とうち詠(なが)めて、あまりに堪(たへ)がたかりければ、舟に棹さして、橋本にゆきつゝ、かの家に立〔たち〕いり、酒を求めしに、あるじ、出て、舟田をみて、はなはだ喜び、内に呼びいれて、殊更に、もてはやす。

 かくて、物語しけるやう、

「それがし、たゞひとりの娘を持つ。年いまだ甘(はたち)に足らず。去年〔こぞ〕、秋の暮に、君、こゝに酒飮み給ふ時、娘見まゐらせしより、思ひ初めて、終(つゐ)に病(やまひ)となり、たゞ欝々として、ねぶれるが如く、ひとり言(ごと)するありさま、酒に醉(ゑひ)たるに似たり。醫師をたのみて治(ぢ)すれども、露ばかりのしるしも、なし。陰陽師(をんやうじ)にはらひせさするに、猶、おもくわづらひて、心地、たゞしからず。折々は『舟田左近』と、名をよぶ事、あり。しかも、昨日、いふやうは、『明日(あす)は君、必ず、こゝにおはしまさん』と、いひけれども、『例の狂氣より、いふ事ならん』と思ひ侍べりしが、君、けふ、來り給へり。これ、ひとへに、神の告(つげ)給ふ所ならん。願はくは、君、これを妻とし給へ。侘びてすむ、それがしの跡、殘りなく、參らせむ。」

といふ。

 

Yumeenotigiri

[やぶちゃん注:以上の挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。左近が娘との婚意を告げ、主人がそれを受け入れて、やおら、娘の部屋で対面した大団円シーンである。小さくて分かりにくいが、左幅の棚の上に積まれた草紙に「古今」「万や」(万葉)の題箋が貼られているのが見える。但し、怪奇談集の挿絵としては、頗るつまらぬものである。]

 

 たがひに名字をあらはし、やがて領掌(れうじやう)して、娘(むすめ)の部屋に入ければ、部屋の躰(てい)、庭の面(おも)、みな、夢に見たるに違(たが)はず。

 女、其のまゝ枕をあげ、心地、たゞしくなりぬ。

 その顏容(かほかたち)・ものいひ・聲(こは)つき、聊(いさゝか)も、夢にかはらず。

 かくて、女、かたるやう、

「去〔さん〕ぬる秋のころ、君を見そめまゐらせしより、その物思ひ、むねに塞がり、面影、すでに、身をはなれず、夜ごとに君に契るといふ夢をみる事、いかにとも、いはれを、しらず。」

といふに、舟田が夢も、そのごとくに、小袖に灯花(とうくわ)の落〔おち〕たる痕あり。琴を彈きたる曲の名、香合(かうばこ)の事、みな、夢は、同じ夢也。

 是れを聞〔きく〕に、おどろき、あやしまずといふこと、なし。

 まことに、神(たましゐひ)の行〔ゆき〕かよふて、ちぎり、あさからず、「わりなきなからひ」とぞ聞えし。

 

[やぶちゃん注:今回は底本の漢字表記を元禄版のかな書きと対照し、敢えて漢字をひらがなに直した箇所が有意にある。流れの美しい和歌的な文脈のリズムをなるべく澱ませぬようにしたいと考えたからである。挿絵は底本のものを用いた。

「大永」戦国時代の一五二一年から一五二八年まで室町幕府将軍は足利義稙(よしたね)・足利義晴。

「舟田左近(ふなたさこん)」不詳。

「凡下(ぼんげ)」中世に於いて、侍身分に属さない一般庶民の称。「甲乙人」「雑人 (ぞうにん)」などとも呼んだ。

「山城の淀」京都府京都市伏見区の南端に当たる淀地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる部分で、水運の要衝であった。

「橋本」京都市八幡市橋本。三川の合流点の左岸の船泊りで、石清水八幡宮の門前町及び京阪を結ぶ大坂道の宿場町として栄えた地でもある。

「田をからせむ」使役になっているのは稲刈りを雇いの百姓に刈らせるのを監督するためである。

「ゆくゆく」副詞で「行く道すがらに」の意。

「にぎにぎしう」「賑ぎ賑ぎしく」。

「かけづくり」「懸造」。水辺(川岸・池沼・湖・海岸・人口の庭の池など)の岸や崖などの高低差が有意にある土地に、長柱や貫(ぬき:柱等の垂直材間に通して支える水平材)で床下を固定し、その上に建物を建てる建築様式。「崖造」「舞台造」などとも呼ぶ。ここは挿絵では、川から水を引き込んで作った庭の泉池の上に張り出してあるように見える。立地場所から見て、相当に管理をちゃんとしないと、水害に襲われると話柄に関係ないことを危ぶむのは、僕の悪い癖。

「下葉うつろふ萩が露」「古今和歌集」の巻第四の「秋歌 上」の詠み人知らず(後書に一説に柿本人麻呂とする)の一首(二一一番)に、

 夜(よ)を寒み衣(ころも)かりがねなくなべに

    萩の下葉(したば)もうつりひにけり

とあるのに基づくか。「夜(よ)を寒み衣」までが「衣を借りる」と同音異義となって「かりがね」の序詞となっている。

「枝もと、をゝに、おもげなり」「をゝに」は「ををる」という動詞を形容動詞化したもので、元は「撓(をを)る」で、「枝や葉が撓(たわ)む」の意であるが、多くの場合、「花が枝もたわわに咲いているさま」を表わすのに用いる。万葉以来の古語である。「後撰和歌集」の巻第六の「秋 中」の詠み人知らずの一首(三〇四番)に、

 秋萩の枝もとをゝになり行くは

    白露重く置けばなりけり

があるが、これはしかし、萩の枝が花が咲く前から伸びてたるんで撓(しな)るようになる生態を、花の重さではなく、白露の重さのせいであったのだった、と風雅に意味づけしたものであり、而して、この一首は「万葉集」の巻十の大伴宿禰像見(おおとものすくねかたみ)の一首(一五九五番)、

 秋萩の枝もとををに置く露の消(け)なば消(け)ぬとも色に出(い)でめやも

のインスパイアともとれる。こちらの歌は明らかに恋歌で、露のように儚く消えてしまっても、この想いを人に知られたりはすまい、その恋心を顔色に表わしたり、そんな素振りを見せたりはするまい、という意味で、それを元歌とするならば、本編の伏線となっている。

「秋をかなしむ蟲のこゑ、をばながもとに、よはりゆき」「新後拾遺和歌集」の巻第五の「秋歌下」の津守国冬の一首、

   嘉元の百首の歌奉りけるに

 浪を越す尾花がもとによわるなり

    夜寒の末の松蟲のこゑ

に基づく。

「籬(まがき)の菊は咲き匂ひ、袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」「新千載和歌集」の伏見院の一首、

 咲き匂ふ菊の籬(まがき)の夕風に

    花の宿かす袖の白露

に基づく。「袖のかほりを誰(たれ)ぞとも」は未だ現れない娘の伏線を感じさせる。

「あだにゆかしき心地」儚くもなんとなく心惹かれる心地。

「淀の川波、浮きし沈む、鷗の聲は、をちこちに」「新日本古典文学大系」版脚注では、筆者浅井了意の地誌「出来斎京土産」の七に載る、

 雲雀あがるみづ野うへ野を詠(なが)めれば

    霞流るゝ淀の河波

を参考歌として挙げる。

「あそぶ心ぞ、しらまほし」「浮きたってくるこの風流の思いを、しっかりと味わってみたいものだ」の意か。

「楊枝(やうじ)が島」「新日本古典文学大系」版脚注に、『改修前の宇治川が淀川に合流する淀小橋近くにあった小島。千鳥の名所』とある。橋本の北で見える位置となると、「今昔マップ」のここの砂州が切れた細長い楊枝のようなそれ(現在の淀川河川公園内)らしく思われる。

「渚(なぎさ)の院」「伊勢物語」の第八十二段、通称「渚の院」の舞台となるそれだが、大阪府枚方市渚に比定されており、位置的には橋本より四キロメートル以上も下流であるので、不審だが、ここは道行文(次注参照)の調子で、旧跡の名勝跡を読み込むことのみが念頭におかれているのであろう。

「こゝなれや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『道行文によく使われる言い回し』とある。

「水野」現在の京都市伏見区淀美豆町(よどみづちょう)。

「山崎」橋本の淀川対岸に当たる大阪府三島郡島本町(しまもとちょう)、及び、その北に接する京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざいちょう)の広域地名。

「うど野」大阪府高槻市鵜殿。淀川左岸で先の渚の対岸の少し上流。

「三嶋江」高槻市三島江。橋本からは十キロメートル以上下流の淀川左岸。

「松江(ずんがう)の鱸魚(ろぎよ)」蘇軾の「後赤壁賦」の一節に、

客曰、「今者薄暮、舉網得魚、巨口細鱗、狀似松江之鱸。顧安所得酒乎。」。

(客、曰はく、「今は薄暮、網を舉げて、魚を得たり。巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり。顧ふに、安(いづ)くの所にか、酒を得ん。」と。)

とある通り、松江(ずんごう)、則ち、江蘇省の呉淞江(ごしょうこう:江蘇省南東部から上海西部を流れる黄浦江の支流。全長百二十五キロメートル。太湖の瓜涇口(かけいこう)に発し、呉江県北部を東に流れ、上海に入り、蘇州河とよばれ、外白渡(がいはくと)橋に至り黄浦江に注ぐ。太湖流域の主排水路であり、同時に内陸水路として太湖東岸と上海とを結び、長江三角州の東西幹線交通路の一つ)は古来より、高級食材の一種に挙げられている「松江鱸魚」(スンジャンルユイ:或いは「四鰓鱸」とも呼ばれる)の獲れる川として知られていた(現在の呉淞江では水質汚染によって激減しており、「幻しの魚」となっている)。確かに本邦の「鱸」、

スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus

も想像を絶する内陸の上流域まで遡上は出来る。詳しくは私の「大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)」を見られたいが、実はスズキは本邦以外には朝鮮半島東部及び南部と沿海州にしか分布しない。則ち、呉淞江にいる「松江鱸魚」は本種スズキではあり得ないのである。では「松江鱸魚」は何かというと、スズキとは似ても似つかぬ、異形と言ってもいい、

スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus

なのである。同種は「降河回遊」の生活史を持つ中型のカジカ類の一種であり、東アジア沿岸に広く分布するものの、本邦では有明海奥部と筑後川を始めとする、その流入河川に限られている(本邦では汚染により激減して絶滅危惧IB (EN)に指定されている)。されば、「後赤壁賦」(湖北省黄岡市黄州区にある赤壁は長江を河口から遡ること、実に九百キロメートル弱も上流の左岸に位置する)の「巨口・細鱗、狀(かたち)、松江の鱸(すずき)に似たり」というのも、そのヤマノカミか、或いはその近縁種の淡水カジカではないかと思われる。しっかりした漢詩紹介のサイトなどでも、無批判に鱸(スズキ)と訳して、何の注も附さないものが多いので、一言、言っておく。

「玄惠(げんゑ)法印」玄慧(?~正平五/観応元(一三五〇)年)は「玄惠」とも書き、「げんね」とも読む、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で儒者。「元亨釈書」を著した禅僧虎関師錬の弟とする説もあるが、不詳。延暦寺で修学し、法印権大僧都にまで昇った。禅にも深い関心を寄せ、また、程朱学にも詳しく、後醍醐天皇の侍読となって、天皇や側近の公卿たちに古典を講じた。その講義の席が後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府転覆計画の場であったという話があるが、これは「太平記」によって流布したものである。「建武の新政」の瓦解後には、足利氏に用いられて「建武式目」の起草に関与したとも伝えるが、これも不詳である。「源平盛衰記」の編者の一人ともされ、彼は等持院で足利直義の前で「太平記」を朗読したともされる。「太平記」の第二十七巻には「玄慧法師末期事」が記されてあるのだが、一説には「太平記」の四十巻本の内、巻初の第一巻から第十巻までは玄慧の作であり、第十一巻と第十二巻も玄慧が関わったのではないかという説もあるが、これもまた、不詳である。

「庭(には)の訓(をしへ)」寺子屋で習字や読本として使用された「庭訓往來(ていきんわうらい)」の作者が玄慧という説がよく言われるものの、これも確証に乏しい。擬漢文体で書かれ、衣食住・職業・領国経営・建築・司法・職分・仏教・武具・教養・療養など、多岐にわたる一般常識を内容とする実用書であるが、内容は一年十二ヶ月の往信・返信各十二通と八月十三日の一通を加えた二十五通から構成されており、多くの単語と文例が学べるように工夫されている。「手本系」・「読本系」・「注釈本系」・「絵入り本系」の多種が多く存在し(古写本で三十種、板本で二百種に達する)、時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ってあるため、江戸時代に入っても寺子屋などでの教科書としてよく用いられた。「庭訓」とは、「論語」の「季子篇」の中にある、孔子が庭を走る息子を呼び止めて詩や礼を学ぶよう諭したという故事に因んだもので、父から子への教訓や家庭教育を意味している(以上は当該ウィキに拠った)。

「淀鯉(よどごい)」読みはママ。国立国会図書館デジタルコレクションの榎本直衛編「繪入 庭訓徃来」(明治一四(一八八一)年刊)の四月復状の諸国名産の列挙部分のここ(左ページ四行目)に「淀鯉(よどのこひ)」とある。また、後代のものだが、寛政九(一七九七)年刊の平瀬徹斎著になる諸国物産書の「日本山海名物図会」の巻五の「淀鯉」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部画像。それを視認して以下に起こした。読みは一部に留め、一部に濁点・記号を打った。標題は底本では囲み文字であるが、太字に代えた。■は判読出来なかった字)に、

   *

淀鯉

鯉は河魚(かはうを)の㐧一上品。「神農本草」に「鯉を魚の王とす」といへり。山城國淀の產を名物とす。中にも淀城の水車(みづくるま)のあたりに住(すむ)鯉、一(ひと)しほ、賞翫する也。しかれども、水車の邊(ほとり)にて網打(あみうつ)ことは、淀の御城より御制■(せいたう)あれば、猟師、みだりに魚を取(とる)こと、叶はず。鯉の大小は「一年物」・「二年物」・「三ねんもの」とて、年にとりて、高下(かうげ)を、わかつ。年久しくへたるほど、魚は、おほきし。

   *

とある。なお、淀城はここにあった。

「鱠(なます)」切り分けた魚肉に調味料を合わせて生食する料理を広く指す。全くの刺身の他、本邦では後代には酢漬けにしたものが専ら言われるようになった。

「吳中(ごちゆう)の蓴菜(じゆんさい)」「蓴羹鱸膾」(じゅんこうろかい)の頭の部分を指す。「晉書」の「文苑傳」の「張翰」に「翰、因見秋風起、乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾、曰、人生貴得適志、何能羈宦數千里以要名爵乎。遂命駕而歸。」(翰、秋風の起こるを見るに因りて、乃(すなは)ち、吳中の「菰(まこも)の菜(さい)」・「蓴(じゆんさい)の羹(あつもの)」・「鱸魚(ろぎよ)の膾(なます)」を思ひ、曰はく、『人生は、志しの適(かな)ひて得るを貴(たふと)ぶ。何ぞ能く宦(くわん)に羈(つな)がる數千里を以つて、名爵(みやうしやく)を要せんや。』と。遂に駕を命じて歸る。)とあるのに基づく(「宦」は「官」に同じ)。ウィキの「張翰(晋)」が上手く前後を含めて解説に代えてあるので、参考にすると、晋(二六五年~四二〇年))の文人張翰(生没年不詳)は呉の大鴻臚の張儼の子として生まれた。文章を得意とし、任官に拘らなかったため、当時の人に「江東の歩兵」(歩兵校尉だった竹林の七賢の一人で代表的詩人阮籍のこと)と称された。洛陽に行った際、斉王司馬冏(けい)に認められて大司馬東曹掾となったが、秋風が立つのを見て、故郷呉郡呉県の真菰(単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia 。水辺に群生し、成長すると大型になり、人の背丈程まで高くなる。その新芽に黒穂菌(くろぼきん)の一種である Ustilago esculentaが寄生して肥大したものを「真菰筍(まこもだけ)」と呼んで食用にする。古くは「万葉集」にも登場し、中国や東南アジア諸国でも食用・薬用とされる。私も一度、食したことがあるが、とても美味しい)料理・蓴菜(私の好きな淡水水草であるスイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi 。天然の菱の実や蓴菜を採ったことがある私は私の世代(昭和三十二年生まれである)では珍しいであろう。本邦では以前は「めなは」「ぬなは」などもと呼んだ)の吸い物・鱸魚の膾(先に見た通り、ヤマノカミ Trachidermus fasciatus のそれ)を思い出し、「人生は心に満足を得られるのが大切なのだ。どうして数千里の異郷で官につながれて、名利や爵位を求められようか!」と言い放ち、故郷への思いを述べた「首丘の賦」(惜しくも本文は現存しない)を書くと、官を捨てて故郷に帰った。まもなく司馬冏が敗れたことから、人々は皆、張翰が時機をよく見ていたと讃えたという。

「貫之(つらゆき)が詠〔なが〕めにつみたる」「新日本古典文学大系」版脚注に、『貫之集他に見出せないが「沢の根芹」は、恋の歌に用いられる』とある。「根芹」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica のこと。同種は別名を「シロネグサ」(白根草)。今は多くの人が緑の葉ばかりを食するものと思い込んでいるが、若い白い茎や根に独特の香りがあって美味いのである。私は昔、今は消えてしまった裏山の農業用水池の湿地で、よく、亡き母と、初春、二人で摘んだ……バスケットいっぱいに……あの時だけが、私は真に幸せだった気がする……

「水野」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注は、「本草綱目啓蒙」の第二十二巻の「水斳」(「セリ」のこと)の最後の箇所を引いて(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該画像。左頁四行目から)、根芹は『城州宇の産、根、最(もつとも)長』く、名の通り、『莖・葉を去(さり)て根を賞す』とあるから、この「水野」は地名ではなく、一般名詞であって「水」気の多い「野」、湿地のことを言っているのかも知れない。

「心ありげに」如何にも彼を気に入ったと見えて(或いはある種の目論見を持ってか)非常に手厚く。娘の存在を事前に匂わせる仕掛けという感じがするが、ややこれ見よがしで、私は好まぬ形容である。

「哥雙紙(うたさうし)」例えば「源氏物語」や七代集などから和歌を抜き出した歌の本。或いは和歌についての初心者向けの歌学書。

「手はすぐれねども」手跡は決して上手くはなかったけれども。

「物かく事、流るゝが如し」文章を書くことにかけては、まさに「流麗」と評するに足る力を持っていた。

「なまめきたり」意識してではなく、自然と艶っぽい表情となった。

「知らず、わが魂(たましゐ)も、女のたもとに入〔いり〕ぬらん」倒置法によって強調してあり、ここが本篇の展開点となっていることが判る。実際には「たがひに心を通はせて」とあって、この瞬間、魂が相互に憬(あくが)れ出でて、交感してしまったのである。

「しらぬ淚ぞ、おちにける」「人知れず、涙を落した」、誰にも語れぬ、しかも、相手にも自身のこの切ない思いを伝えられぬ、という多重な動機に基づく落涙である。

「つくり庭」所謂、坪庭に人工的に作った、自然をコンパクトに模したパロラマ風の小庭(と言っても次の池の叙述からは、かなり大きい)。

「洲濱(すはま)の池」その「つくり庭」に、これまた、人工的に作った池。それは河川・湖・海の洲や浜や岸に想像の中で読み換えられる。

「忍草(しのぶ〔ぐさ〕)」特定の植物を指していない。本来は「偲(しの)ふ種(くさ)」で、ある過去の時間を懐かしむ種(たね)の意。思い出すための縁(よすが)で、後に「忍ぶ草」と混用して盛んに歌や文に読み込まれた。

「たきしめらかしたる香のにほひ、心もつれて、こがるらむ」敢えて他動詞「薰(た)きしめる」にさらに他動詞を作る接尾語「かす」を添えて「如何にも~そのようにさせる」という強調形にすることで、単なる事実のそれを、燃えて燻(くすぶ)り立つ「縺(もつ)れ」るように燃え上がる「心」が恋「焦(こが)」れるのであろう、と畳みかけた表現となっている。

「東琴(あづまごと)」和琴(わごん)の別名。中国から渡来した琴(きん:長さ約一・二メートル。弦は七本。琴柱(ことじ)は用いずに左手で弦を押さえて右手で弾く。上代に日本に渡来したとされるが、現在は絶えた)・箏(そう:長さ一・八メートル前後の中空の胴の上に絹製の弦を十三本張って柱(じ)で音階を調節し、右手の指に嵌めた爪で演奏する。奈良時代に中国から伝来した。雅楽用の楽箏(がくそう)の他に箏曲用の筑紫箏(つくしごと)や俗箏(ぞくそう)等が生き残っている)の唐琴(からごと)に対して、日本式の琴(こと)をいう。古代に早くに生まれた。六弦で、右手に琴軋(ことさき)を持って弦を搔き鳴らし、また、時として左手指で弦を弾いて鳴らす。神楽や雅楽などを奏する時に用いた。弦を束ねる尾部が猛禽の鵄(とび)の尾に似ているので、別名を「鵄尾琴(しびごと)」とも呼ぶ。後には七弦・八弦のものも生まれた。倭琴(やまとごと)とも言う。言っておくと、私の妻は五歳から琴を習い、日本初の「邦楽研究所」第一期生であった(高校教師をしながらであったため、練習が足りず、演奏に満足出来なかったために、仲間に迷惑をかけるからと、私が止めるのも聴かずに卒業演奏直前に自ら退学してしまった)。

「互ひに契りをかはしまの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「契りを交はす」に「川島」を掛ける。川島は』一般名詞の『川中島のことで、二分された流れが』、『やがて合流するごとく、離れ離れになった二人が末に再会する喩えに使われる。「この河島の行末は逢ふ瀬の道になりにけり」(謡曲・加茂物狂)』とある。「加茂物狂(かもものぐるひ)」は四番目物。宝生・金剛・喜多流。作者不詳。三年振りに東国から都に戻った男が、賀茂明神の社前で物思いに沈んだ妻と再会する筋立て。

「末は逢瀨(あふせ)をならしばや」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「逢ふ瀬を為す」に「楢柴』(ならしば)『を掛ける。楢柴はナラ』(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の落葉性の広葉樹の総称。本邦の自生種は以下の六種。クヌギ Quercus actissima ・ナラガシワ Quercus aliena ・ミズナラ Quercus crispula ・カシワ Quercus dentata ・コナラ Quercus serrata ・アベマキ Quercus variabilis )『の枝を集めた薪』(たきぎ)『ともコナラの別称とも言う。ここでは』次の文の頭の『「しばし」と言うための序詞』に過ぎないとある。

「關守こそつらからめ」二人の逢瀬を妨げんとする者は、さぞ、情け容赦もないであろうけれど、そんなことは何のことなく無意味だ、という逆接の反語である。

「八聲(〔や〕こゑ)の鳥」朝を告げる鷄(にわとり)のこと。

「けうとげに」「気疎氣に」。如何にも面白くない、「聴きたくもない!」という感じで。

「『明がた』と打ちしきれば」「明け方だよ!」と嫌らしく続けざまに繰り返し鳴くので。

「想夫戀(さうふれん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「想夫恋」と書いて、「夫をもふてふとよむ想夫恋といふ楽」(平家物語六・小督)の意とするが』(誰が?)、『もとは「相府恋蓮」(徒然草二一四段)、また「想夫憐」(白氏文集六十七)という唐楽の曲名。「想夫恋 さうふれん」(大全)』と注する。「徒然草」のそれは(前半のみ引く)、

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 想夫戀といふ樂(がく)は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。本(もと)は「相府蓮(さうふれん)」、文字の通へるなり。晉の王儉(わうけん)、大臣として家に蓮(はちす)を植ゑて愛せし時の樂なり。これより、「大臣」を「蓮府(れんぷ)」といふ。

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「たえ」ママ。「妙(たへ)」。

「いとゞ情(なさけ)ぞ色まさりける」ひどく彼女への情が激しく燃え上がったことだった。

「燈花(ちやうじがしら)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行灯(あんどん)の灯心の先端にできることのある黒いかたまり。これを吉兆とした』とある。

「白かねの」銀製の。

「侘びてすむ、それがしの跡」謙遜もいい加減にしてほしいね!

「領掌(れうじやう)」相手の申し出や事情などを納得して承知すること。

『「わりなきなからひ」とぞ聞えし』「超自然の神仏の御縁によって決し断ち切れることのあに永劫の契りの仲じゃて!」と大いに評判となったということじゃった。]

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