大和本草附錄巻之二 魚類 「神仙傳」の「膾」は「鯔魚」を「最」も「上と爲す」とするに就いて「ぼら」と「いな」に比定 (ボラ) / 魚類 撥尾(いな) (ボラ)
神仙傳云介象與吳王論膾何者最美象曰鯔魚爲
上○ボラトイナトノ膾尤ヨシト也
撥尾 子魚之小者子魚一名鯔魚ボラ也【スバシリハイナヨリ大】
○やぶちゃんの書き下し文
「神仙傳」に云はく、『介象、吳王と論ず。「膾〔(なます)〕は何に者が最も美(よき)や。」。象、曰はく、「鯔魚〔(しぎよ)〕を上と爲〔(な)〕す。」と。』と。
○「ぼら」と「いな」との膾、『尤もよし』と、なり。
撥尾(いな) 子魚〔(しぎよ)〕の小者。子魚、一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」。「ぼら」なり【「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕。】
[やぶちゃん注:連関するので二項を纏めて示した。これは、言わずもがな、
ボラ目ボラ科ボラMugil cephalus
で、益軒は本巻の「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」で既に出生魚としてのボラを詳述している。現行のボラの出世魚としての異名は、そちらの私の注を参照されたい。
「神仙傳」四世紀初めの晋(三一七年~四二〇年)の道士にして神仙道研究家であった葛洪(二八三年~三四三年:江南の貴族の出身)の著になる仙人の伝記集。全十巻。同人の名著道学書「抱朴子」(三一七年)と並ぶ、中国史上、最も重要な仙人伝で、広成子(こうせいし:古代の伝説的仙人)・老子以下 九十二名の神仙の道を極めたとされる人物及び伝承上の架空人物の伝記を収める。本書は理論書である「抱朴子」と表裏を成すもので、神仙の歴史的存在性を証明することと、先行する同種の書である劉向 (りゅうきょう) の「列仙伝」を補うことを目的として、仙書・諸子の書及び伝説を集めて著わしてある。但し、「漢魏叢書」や「説郛(せっぷ)」などの叢書に収められてある、現在、我々が読んでいるものは、葛洪と同時代の郭璞 (かくはく) の伝が入っていることなどから、後世の改編と考えられている。以下の引用は、巻九の「介象」の一節。介象は会稽出身の道士。邪気禁圧の術を得意とし、市中の人を総て座ったままで動けないさせたり、身を隠して草木鳥獣に変ずるなど、様々な仙術を使うことができた。三国時代の呉の初代皇帝孫権(一八二年~二五二年/在位:二二九年~二五二年:劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」で知られる覇王)がいたく気に入り、かなり長い間、彼の元で厚遇されている。これはその中の一節であるが、あまりに部分的で「神仙伝」の趣がない。表記の関係から、「太平御覧」(北宋・九七七年~九八四年)の「飲食部二十」の「膾」に「神仙伝」からとして引くものを示す。
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與吳主共論膾魚何者最美、象曰、「鯔魚爲上。」。吳主曰、「論近魚耳、此海中出、安可得耶。」。象曰、「可得耳。」。乃令人於殿庭中作方坎、汲水滿之、幷求釣。象起餌之、垂綸於坎中、不食頃、果得鯔魚。吳主驚喜、問象曰、「可食否。」。象曰、「故爲陛下取以作生、安敢取不可食之物。」。乃使廚下切之。吳主曰、「聞蜀使來、有蜀姜作齏甚好、恨時無此。」。象曰、「蜀姜豈不易得。愿羌所使者幷付直。」。吳主指左右一人、以錢五十付之。象書一符、以著靑竹杖中、使行人閉目騎竹、竹止便買姜、訖、復閉目。此人承其言、騎竹、須臾已至成都、不知是何處、問人、人言蜀市、乃買姜。于時吳使張溫先在蜀、既於市中相識、甚驚、便作書寄其家。此人買姜畢、投書負姜、騎杖閉目、須臾已還到吳、廚下切膾亦適了。
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所持する平凡社「中国の古典シリーズ4 抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経」の沢田瑞穂先生(この方の著作は好きで多く所持している)の訳を引用する。
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また呉王が、膾(なます)にする魚は何が最も美味(うま)いかということについて話しあったとき、介象は、「鯔(ぼら)の膾が最上です」と答えた。「いや、この近辺の魚についていっているのだ。あれは海でとれるもので、手に入るはずがない」と呉王がいった[やぶちゃん注:呉はが長江流域にあったが、首都は建業(現在の南京付近)で完全な内陸であった。]。すると介象は、「手に入りますとも」といって、戸前の庭に方形の穴を据らせ、それに水をいっぱい汲み入れさせた。そして釣鈎(つりばり)を請い受けると、介象は立ち上がってそれに餌をつけ、釣糸を穴に垂れた。しばらくすると鯔が釣れたので、呉王は驚喜して、「それは食べられるのか」と訊いた。「わざわざ陛下のために釣って膾にしようとしたものゆえ、食べられぬ物を釣るはずがござりましょうか」といって、台所へやって緋調理させることにした。
呉王がいった、「蜀(しょく)からきた使者のいうには、蜀の生薑(しょうが)を刻んでヷ(あえ)ると、まことに美味(うま)いとのことであるが、こんな時にそれがないとは残念至極じゃ」すると介象が、「蜀の生薑を手に入れるくらい、わけはありませぬ。どうか使者に代金を渡してお差し遣わし願いたい」といったので、呉王は近習(きんじゅう)の一人を指名し、それに銭五十文を渡した。
さて介象は一通の護符を認(したた)めると、これを青竹の杖の中に納め、使者には目を閉じて杖に跨(またが)らせ、杖が止まったところで生薑を買い求め、それが済めば再び目を閉じるように指示した。使者は教えられたとおり杖に跨ると、しばらくして止まった。見ると、すでに成都(せいと)に着いていたが、それが何処(どこ)だかわからない。人に訊ねて、やっとそれが蜀の市中であることを知ったので、生薑を買いととのえた。
そのころ、呉の使者の張温(ちょうおん)というものが先に蜀にきていたのであるが、市中で出遇ってびっくりし、手紙を書いて、自分の家に届けてくれと託(ことづ)けた。使者は生薑を買ってしまうと、手紙をもち生薑を背負い、杖に乗って目を閉じると、程なく呉に帰り着いた。おりしも合所では魚を膾(なます)に刻み終ったばかりであった。
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なお、沢田先生は補注で、『膾にする魚を釣る話および生薑を蜀に買いにゆく話は、『後漢書』一一二左慈伝では、魏の曹操と左慈とのことになっている』とある。私もそちらで先に知っていた。
「ぼら」「いな」後者が成魚でも若いやや小さなものである。一般に「ボラ」の出世名は、
「ハク」(約2㎝~3㎝)≒「シギョ」
↓
「オボコ」「スバシリ」(約3~18㎝)≒「エブナ」
↓
「イナ」(約18~30㎝)≒「エブナ」「ナヨシ」
↓
「ボラ」(約30㎝以上)=「クチメ」「コザラシ」
↓
「トド」(特に大型の個体)
の順で、関東では一般には、「オボコ」→「イナッコ」→「スバシリ」→「イナ」→「ボラ」→「トド」である。
「撥尾(いな)」ボラは成魚になると、尾で強く水面を叩いて飛び上がる習性がある(理由は不明。体表の寄生虫を除去すいるためとも言うが、怪しい)ことによる漢字表記。
「子魚〔(しぎよ)〕」『一名「鯔魚〔(しぎよ/なよし)〕」』音を別字で示したもの。孫権絡みであるから、「君子魚」の意味を込めたものとも思われる。
『「すばしり」は「いな」より、大〔なり〕』不審。これは現行のそれとは反対である。但し、これらの出生名には地方によってブレ(前後の入れ替え)があるので、当時の福岡ではそうであったものかも知れない。]
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