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2021/04/23

伽婢子卷之三 梅花屛風 / 伽婢子卷之三~了

 

   ○梅花屛風(ばいかのびやうぶ) 

 天文のすゑ、京都の兵亂、打續き、三好と細川家、年を重ねて合戰に及び、その時の公方(くばう)は光源院源義輝公、しばしば、是を鎭めんと謀(はかり)給へども、威、輕く、權、薄くして、更に是を用ひ奉る人、なし。

 こゝに周防の國山口の城主太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ、兵部卿を兼官して、權威高く西海に輝きしかば、公卿・殿上人、多く、義隆を賴みて、周防の國に下り、山口の城に身を隱し、世の亂(みだれ)を逃れ、京の騷ぎを免がれ給ふ。

 然るに、義隆、久しく武道を忘れ、詩歌風詠の遊びを事とし、侫人(ねいじん)を近づけ、國政をないがしろにし、物の上手と言えば、諸藝者、多く集めて、晝夜、榮耀をほしいまゝにせられしかば、その家老陶(すへ)尾張守晴賢、謀反して、義隆を追出し、長門の大亭寺に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

 尾張守は、豐後の國主大友入道宗麟が舍弟三郞義長を、山口の城に迎へて、主君とし、政道、執(とり)行ふ。

 此時に當つて、前〔さきの〕關白藤原尹房(たゞふさ)、前左大臣藤原公賴(きんより)は、山口の城を迯出〔にげいづ〕るに度(ど)を失ふて、流矢にあたりて、薨じ給ふ。從二位藤原親世(ちかよ)は髮を剃りて逃れ出給ふ。

 其中にも、中納言藤原基賴卿は、謀〔はかりごと〕逞しく、しかも諸藝に渡り、繪、よく書給ひ、手跡・哥の道に賢きのみならず、武道を心に掛け、馬にのりて手綱の曲(きよく)を究め、水練に其術を傳へ、半日ばかりは、水底〔みなそこ〕にありても、物とも思はず、又、よく、水を泳ぎ、潜る事、魚の如し。

 これは殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、此度〔このたび〕、京都の兵亂にも、別義を以て、山口によびくだし參らせ、かしずき、もてなし、城の外に家造りして置き奉らる。

「此上は。」

とて、妻妾(さいせう)・奴婢(ぬび)まで、よびくだし、暫くは心安くおはしけるに、俄に、陶(すゑ)が謀反、起こりしかば、中納言殿は北の方・家人(けにん)等、重寶(ちやうはう)の道具ども、船に取積み、夜もすがら、山口の城を迯げ逃れて、京都を心ざして上られたり。

 安藝の國に入て、「高砂(たかさご)」・「たゞの海」まで漕つけて、風あしければ、鹽がゝりし給ふ。

 北の方、なくなく、かくぞ、聞えし。

  たゞの海いかにうきたる船のうへ

   さのみにあらきなみまくらかな

 夜ふけがた、月、傾(かたふ)きけるに、中納言殿、酒、取りいださせ、北の方もろともに、少しづゝ打飮み、破子(わりご)やうの物、取開らき、舟人にも食はせなむど、し給ふ。

 舟人は、こゝより一里ばかり東のかた、能地(のうち)といふ所の者なるが、船に積みたる諸道具・財寶、皆、金銀をちりばめ、絹・小袖、多く見えしかば、舟人、忽ちに惡心をおこし、

『今宵、此ともがらを殺し、財寳を奪ひとり、德つかばや。今の世は、所々、みだれ立〔たち〕て、さして咎むる人も有まじ。』

と思ひ、夜、いたく更て、月も入はて、暗き紛れに、家人等男女三人は、海へ投げ入たり。

 

Bb1

 

 中納言殿、聞付けて、起立ち給ふ所を、後(うしろ)にまはりて、はねあげ、海に投げ入たり。

 北の方、

「これは、いかに。」

と、のたまふを、舟人、捕へていふやう、

「心安く思ひ給へ。君をば殺すまじきぞ。わが子、二人あり。太郞には新婦(よめ)迎えて、次郞には、まだ、妻もなし。わが新婦にすべし。」

とて、舟を出し、能地の家に歸り、財寳・小袖やうの物、出し、賣りけり。

 北の方、

「心地、少しあしければ、よくならんまで、待給へ。次郞殿と夫婦になり侍べらん。」

とありしに、舟人、嬉しげ也。

 九月十三夜、舟人、子ども・新婦・姑、打つれて、舟に乘りつゝ出て遊び、夜ふけ方、皆、酒に醉(ゑひ)て、前後も知らず、臥たりけるを、中納言殿の北の方、ひそかに岸にあがり、足に任せて、夜もすがら、走り迯げつゝ、夜の明方に狐崎(きつねさき)の「かれいの山」もとに、かゝぐりつき給ふ。

 步みもならはぬ濱路・山道を凌ぎ越ゆるに、

「跡より、追手(おうて)やかゝるらん。」

と、悲しく、怖ろしく、足は、ちしほのくれなゐの如く、茨(いばら)に搔破(かきやぶ)り、石に損ぜられ、兎角して、明〔あけ〕はなれたる霧のまぎれより見れば、林の中に、家あり。

 

Bb2

 

 門の内に走り入ければ、經讀み、念佛する聲、聞え、尼一人、立出て、

「是は。こゝもとには見馴れぬ人なり。如何なれば、朝まだきに、かちはだしにて、是へは、おはしける。」

と問に、北の方、

「みづからは、和布苅(めかり)のとまりに住ものにて侍べり。我夫は、去年、都に上りて、うたれ、孀(やもめ)となりて、姑(しうとめ)に仕へ參らするに、姑の心、はしたなく、又、小姑、つらく當り、剩へ、あらざる濡衣、着せて、浮き立ち、よる晝、ものうき事、いふばかりなし。今夜、『十三夜の月見に』とて、家内、舟に乘りて、酒、飮みつゝ、みづからに、酌、取らせ侍べり。過ちて、盃を海に落しぬ。さだめて恐ろしき責(せめ)に逢ひ侍べらん事の悲しさに、夜に紛れて逃げ走り、是(これ)まで、さまよひ參りて侍べり。」

といふて、淚を流す。

 尼のいふやう、

「同じくは是より家に歸り給へ。我等、送りて、姑の託言(わびこと)すべし。若し又、ここもとにして夫(をとこ)持ち給はんには、然るべき媒(なかだち)を賴みて參らせむ。とにかくに、世の常ならぬ御有さまの、痛はしさに申すぞや。」

といふに、北の方、更に受(うけ)こはず、唯、

「尼になして、たべ。」

とばかり仰せけり。

 尼のいふやう、

「此所は、昔、淳和天皇の后、出家して武庫(むこ)の山に籠り、『如意比丘尼』と申き。此人、修法のいとま、こゝに來り、浦島子(うらしまがこ)が箱を納め、空海和尙を以て、供養したまへる寺なれども、時世移りしかば、幽かなる跡となり、其時作り給へる、櫻木の如意輪觀音の胸の内に、かの箱を納められ、靈佛にておはしけるに、國の守(かみ)、掠め取り、其家、共に燒(やけ)、亡(ほろ)び給へり。然るに、此寺は、濱近くして、波の音、騷がしく、人影まれに、蓬・葎(よもぎ・むぐら)しげりつゝ、たまたま友とするものは、うしろの山に叫ぶ猿の聲、前なる潮(しほ)に千鳥のなく音〔ね〕、松吹く風、岸うつ波、これより外には、言問(ことゝ)ひ交(かは)す者、なし。同行〔どうぎやう〕の尼三人、何れも五十ばかりの年にて、召使はるゝ侍者(じしや)の尼も、齡(よは)ひは若かけれども、おこなひは、愼めり。今、君、美しき花の姿を墨染にやつし、柳の髮を剃り落として、尼となり給はんは、いと惜しき事ながらも、愛着・執心を切り離れて、誠の道に入ぬれば、身は幻の如く、命は露に似たり。今、出家し給はゞ、坐禪の床に妄念の雲を拂ひ、燈明の光に無明の闇を照し、香の煙は、おのづから心法の穢(けがれ)を拂ひ、花を摘めば、ひたすら煩惱の焰、凉くなり、朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ、緣に隨ひ、あるに任せて、年月を送る。恨もなく、嫉みもなし。心靜かに、身穩か也。徒(いたづら)に世にかゝはりて、苦しき物思ひに來世の愁へを求めむよりは、世を厭うて出離(しゆつり)の道を行はんには、まさるべからず。」

と述べられたり。

 北の方、やがて、佛前にまうで、髮切りて剃らせ、法名「梨春」とぞいひける。

 もとより、此女房は、いとけなき時より、歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ、書典(しよでん)を讀みては、文字(もんじ)、ことごとく覺えし人なりければ、出家して幾程もなきに、内典(ないでん)・經論の深き理〔ことわり〕を悟れり。

 院主の尼公も、後には皆、此梨春に尋ねてこそ、佛法の理、經論の文義(もんぎ)をも會得せられけれ。

 梨春、かくぞ、口すさびける。

 中々にうきにしづまぬ身なりせば

   みのりの海のそこをしらめや

まことに、「佛種は緣より起る」とは、これらぞ、ためし也ける。

 常には奧深く引籠り、聖敎(しやうげう)に眼(まなこ)をさらし、容易(たやす)く人にも、逢ふ事、なし。

 或日、一人の俗、來りて、院主の尼公に、

「心ざす事、侍べり。經讀みて給(たべ)。」

とて、布施物(ふせもの)參らせ、一幅の梅の繪を、

「供養のため。」

とて、佛前に打置たり。

 尼公、是を取りて、屛風におされたり。

 梨春、是を見るに、まさしく、我箱に入〔いれ〕たる繪なり。

 尼公に、

「如何なる者の、奉りし。」

と、とふに、

「是は能地の舟人、此寺の檀那にて、來〔きた〕る。世にいふ、『此者は、人を殺し、剝掠(はぎかすめ)て世を渡る』といふ、誠か、知らず。」

と語る。

 梨春、

『さては。疑ひなく、彼(か)の舟人よ。』

と、思ひながら、色にも出〔いだ〕さず、筆を取りて、繪の上に書けるは、

 わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに

   思ひの外に君や來まさむ

 尼公、更に其下心(した〔ごころ〕〕を知らず、唯、美しき筆の跡を譽めたるばかり也。

 古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ。

 備後の國鞆(とも)の住人品治(ほんぢ)九兵衞といふ者、子細ありてこの寺に來り、

「屛風の繪と歌と。何れも、不思議の筆跡なり。」

と、見咎め、尼公に請(こひ)受けて歸り、わがすむ所に立〔たて〕て、もてあそぶ。

 こゝに中納言基賴卿は、敢(あえ)なく、水中に突落され給ひしか共、元より、水練の達者なれば、波をくゞり、潮(うしほ)をしのぎて、十町許りの末にて、岸にあがり、それより、足に任せて、備後の國鞆の浦まで落ち來り、山名玄番頭(げんばのかみ)が家にいたり、

「奉公せん。」

と、のたまふを、人々、世の常ならぬ有樣を見咎め、山名に、

「かうかう。」

と、いひければ、出〔いで〕て對面し、奧に呼入て、こまごまと、とひ聞けるに、ありの儘に語り給ふ。

「扨は。痛はしき御事かな。京都も未だ靜かならねば、上り給ふとも住所(すみ〔どころ〕)あるべからず。暫くこれにおはして、世の變をも見給へ。」

とて、とゞめおく。

 品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ、

「かやうの物、求めたり。」

と物語するに、中納言殿、心もとなく、取寄せて見給ふに、覺えず、淚ぞ、流されける。

 山名、あやしみて、問ければ、中納言殿、

「是は某(それがし)の書きたる繪なり。此歌は、まさしく、我妻の手跡也。『たゞの海』にて、妻子・家人、皆、水中に沈められし。財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん。妻は如何にして、命、生(いき)けん。此畫(ゑ)は、何の故に、此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん。」

と、のたまふ。

 山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり。

 梨春に對面して、

「ありの儘に語り給へ。」

といふに、

「今は何をか包み侍べらん。」

とて、舟人の有樣、語り給ふにぞ、疑ひもなく、中納言殿の北の方とは知られけれ。

 

Bb3

 

「扨は。」

とて、鞆の浦へ呼び迎へ參らせ、中納言殿と對面しては、たゞ夢のやうにぞ覺え給ひける。

 かはる姿とて、互ひに衰へ給ふ有さま、今更、哀れぞ、まさりける。

 暫く、鞆におはしける間(あひだ)に、京都の世の中、移り替り、三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば、都に上らむとし給ふ處に、中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ。

 梨春は直(すぐ)に尼になり給ひ、廿日ばかりののち、打續きて、夢に、『中納言殿、さそひ來り給ふ』と見て、程なく、北の方も、むなしくなり給ふ。

 山名、是を、同じ所に埋み奉りけり。

 中陰のはての日、二つの塚より、白き雲、立のぼり、西をさして行くか、と見えし。

 異香(いきやう)、すでに山谷〔さんこく〕にみちみちたり。

 時の人、奇特(きどく)の思ひを、なしけり。

 

伽婢子卷之三終

 

[やぶちゃん注:本篇の挿絵は特異的に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」を用いた。「江戸怪談集」及び「新日本古典文学大系」版は擦れ・白飛びや、人物の顔が潰れていたりで、見るに堪えないからである。

「天文のすゑ……」既に同一の作品内時制で歴史的な内乱の事実やそれに関わった武将らについては、さんざん注してきたので、ここでは省略する。話柄そのものに関わらない歴史上の人物も省略するか、簡単なものに留めた。最後に「三好・松永、滅びて、義昭將軍、武運、開けしかば」とあることから、本話柄内時制は歴史的には天文一七(一五四八)年頃(翌天文十八年六月末には三好長慶が主筋である管領細川晴元に逆らって三好政長(宗三)を討伐した「江口の戦い」が起こっている)から天正六(一五七八)年頃までという、特異的に三十年という長い設定となることになる。室町幕府第十五代にして最後の将軍となった足利義昭は、混迷する京都の統御力を完全に失い、天正四(一五七六)年二月に西国の毛利輝元を頼って、その勢力下にあった備後国の「鞆の浦」に移った(ここは嘗て足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた由緒ある場所であり、第十代将軍足利義稙(よしたね)が大内氏の支援の下で京都復帰を果たした地でもあった)。義昭はこの地から京都への帰還や信長追討を目指して全国の大名に御内書(室町幕府の将軍家が発給した文書の名称。様式は公式文書の御教書(みぎょうしょ)に対して、私的な普通の書状の形ではあるが、次第に公的意義を持つようになった。将軍以外の関係者の副状(そえじょう)が添えられた場合もあった。なお、徳川将軍家もこの御内書を用い、花押の代りに印を押しているものもある)を発給した。天正四(一五七六)年に三好長治が自害に追い込まれて阿波の三好家中が混乱すると、天正六(一五七八)年、輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦し、連合して織田氏に対抗しようとした。義昭自身は当初、和睦に反対であったが、最終的に同意して近臣真木島昭光(まきしま あきみつ)に仲介を命じた。しかし、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって、目論見は水泡と化したのであった(後半部分はウィキの「足利義昭」に拠った)。

「太宰大弐義隆は、そのころ、從二位の持從に補任せられ」大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一七(一五四八)年に従二位に昇叙した。兵部卿・大宰大弐・侍従は如元。

「物の上手と言えば」何につけ、「これこれの物の上手がおります」と御注進されるや。

「長門の大亭寺」大寧寺の誤り。現在の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲萬歳山大寧(たいねい)護国禅寺(グーグル・マップ・データ)。

に押詰め、義隆、つひに自害せらる。

「藤原尹房」(明応五(一四九六)年~天文二〇(一五五一)年)は天文一四(一五四五)年以降、次男良豊とともに大内義隆を頼って周防国山口に滞在していたが、陶晴賢の謀反事件に遭遇し、陶の兵によって殺害された。

「藤原公賴」三条公頼(明応四(一四九五)年~天文二〇(一五五一)年)は天文二〇(一五五一年)八月に大内義隆を頼って下向していたが、直後、同じく陶晴賢の謀反に巻き込まれて殺害された。

「度(ど)を失ふ」ひどく慌てて心の平静を失う。周章狼狽する。

「從二位藤原親世」「新日本古典文学大系」版脚注に、『正しくは従三位。「従三位藤親世五十八、右兵衛督。九月日於防州落髪云云」』(「公卿補任」天文二十年)とある。

「中納言藤原基賴卿」本話の男の主人公であるが、「新日本古典文学大系」版脚注には、『京都将軍家譜・下・義輝に「中納言基頼従二位藤親世等剃髪逃走」とする人物の名を借りるが、これは陶晴賢謀反のとき山口にあって落髪した(公卿補任・天文二十年)という権中納言藤原(持明院)基規を誤ったものか』とある。但し、後者はサイト「公卿類別譜」のこちらによれば、持明院基規(本名は家親とし、「系図纂要」では『名は基親』ともある)は明応元(一四九二)年生まれで陶晴賢の謀反の際に死亡したとある。

「謀〔はかりごと〕逞しく」智謀術数に長け。

「手綱の曲(きよく)」手綱捌き。

「殊更に、義隆、都に上りける時は、官加階の事、よろず、執(しつ)し申給ひて、禁中の事、とかく懇ろに取まかなひ給ふ故に、」大内義隆のこの時の従二位昇叙というのは、武家では将軍以外には例のないことで、それについて、この主人公基頼が、万事万端の執り回しを――特に禁中に対する細かな配慮などを綿密に執り賄い申し上げた、という業績を指している。

「高砂(たかさご)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『安芸国の高崎浦(現広島県竹原市高崎町)か』とされる。ここ

「たゞの海」現在の広島県竹原市忠海町(ただのうみちょう)。ここ

「鹽がゝり」「潮係り」。潮目が変わるのを待って舟を岸近くに係留すること。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。食物を入れて携行する容器。檜の白木の薄板を折って円形・四角・扇形などに造り、中に仕切りをつけて蓋をしたもの。平安時代、主に公家の携行食器として始まったが、次第に一般的になり。曲物(まげもの)による「わっぱ」や「めんぱ」などの弁当箱へと発展した。

「能地(のうち)」広島県三原市幸崎町(さいざきちょう)能地(のうじ)(国土地理院図)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の注には、『海賊の寄港地であったことがある』とあり、この舟人もその血を臭わせているとも読める。

「はねあげ」抱えた状態から前方へ向かって放り投げ。

「狐崎(きつねさき)」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある狐崎(国土地理院図)。

「かれいの山」「新日本古典文学大系」版脚注に、「大道中名所鑑」の下より引いて、『「きつねさきより三町ほど下にかれいと申山あり」』とし、『「下」は西の方角を意味する』とのみある。この距離と方位に従えば、山という感じではないが、国土地理院図の「室浜」という鼻がそれらしい。グーグル・マップ・データ航空写真で同じ場所を見ると、狐崎から小室浜海岸を挟んで西の、こんもりとした三崎であり、背後にはお誂え向きに寺もある。

「かゝぐりつき」やっとの思いで到着し。迷ったあげくに辿りつき。

「和布苅(めかり)のとまり」現在、尾道から向島を経て因島に架かる因島大橋(グーグル・マップ・データ)の下の海峡は「和布瀬戸(めかりせと)」と呼ばれ、国土地理院図で調べると、向島のここに「布刈鼻」を見出せる。この附近か。

「浮き立ち」乱れて、騒がしくなり。

「同じくは」「それならいっそのこと」。

「受(うけ)こはず」孰れの提案も受け入れようとせず。

「此所は、昔……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『以下は元亨釈書十八、本朝神社考五、本朝烈女伝九等に伝える如意尼の伝承を備後鞆の海辺に立つこの尼寺に付会する』とある。鎌倉末期の禅僧虎関師錬が書いた日本初の仏教通史「元亨釈書」(元亨二(一三二二)年上呈)にのそれは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右頁二行目から)。但し、全漢文。しかし、以下の注の引用と対応すれば、概ね読める。

「淳和天皇の后、出家して」天皇の没したのは承和七(八四〇)年で、次の注を見る通り、出家は全くの自身の意志である。

「武庫(むこ)の山」現在の六甲山系。具体には以下の甲山(かぶとやま)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『元亨釈書に如意尼の籠った地を「号此地神呪寺」とする』とある。この寺は兵庫県西宮市甲山山麓に真言宗神呪寺(かんのうじ:神咒寺とも表記する)として現存する。当該ウィキによれば、『寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、「仏の真の言葉」という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ』。「元亨釈書」の『「如意尼伝」に神呪寺の開基について、載っている』。『それによると、神呪寺は第』五十三『代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方』、「帝王編年記」(神代から鎌倉後期の後伏見(退位一三〇一年)に至る年代記。成立は南北朝中期(一三六四年~一三八〇年)と考えられている。撰者は僧永祐と伝えが確証はない)には、『淳和天皇皇后の正子内親王が』天長四(八二七)年に『橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせた』。『皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し』て『后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い』。『『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために』天長五年に『ひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修行をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満』三『年間、神呪寺にて修行を行ったという』。天長七年に『空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として』天長八(八三一)年十月十八日に『本堂は落慶した。同日、妃は空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた』。『この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった』。『空海は海人系の氏族の出身だったといわれる』。元天長(八二三)年、『空海は雨乞い争いで、妃の水江浦島子の筐を借り受けて、勝ちを得たという。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが』、「元亨釈書」にも『登場するこの神とは』、『六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた』。『鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある』。『戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建』。『当初の寺領は淳和天皇より』、百五十『町歩の寄進があり、合わせて』二百五十『町歩となったが、現在は境内地の』二十『町歩』のみである。『山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更し』た。『神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている』とある。この本尊は『平安』『当時の本尊』ではあるが、『寺伝にいう空海の時代の作ではなく』、十『世紀後半から』十一『世紀前半の作とされる。如意輪観音像には』六臂像と二臂像が『あるが、この像は』六臂像で、しかも、『通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に』は非常に『珍しい作例である』。

「浦島子(うらしまがこ)」前記引用で意味が判る。

「心法(しんほう)」心。正確な歴史的仮名遣は「ほふ」。「法」は普通は「はふ」であるが、仏教用語では「ほふ」と表記する慣例がある。

「朝(あした)には、粥を食(じき)し、午(むま)の剋(こく)に齋(とき)を行ひ」既に注したが、前者の粥のみが僧の食事(「齋」。食事も身を清める精進であるからこの漢字を使い、その正式な一回きりの「とき」料を「時」に掛けて、それ以外の非正式な食事を、意味も併せて「非時(ひじ)」と言う)の正式なもので、一日一回、午前中にしか食事は出来ない。「新日本古典文学大系」版脚注はあたかもこの後半のものもその正しい「齋」のように書いているが、これはおかしい。午前と午後のはざかいの午(うま)の時であろうと、これは既に二度目の食事となって紛れもない「非時」である。

「歌・草紙讀み、手ならふ事を、のみ」この「のみ」は非常に特殊な用法で、副助詞の限定強調を指示するそれを、「のむ」という動詞の連用形のように転じて、「専らにする」という意で使用しているようにしか見えない(「新日本古典文学大系」版脚注もそう理解して注されてある)。そうした識読と書写・書道をもっぱらの日常としてきたことを謂う。

「内典(ないでん)」ここは仏教の主要経典。

「經論」主に経典の内の「經」(仏説を文学的に表現したもの)と「論」(当該経典の内容を論理的に述べたもの)を教義には言う。ここは経の評註を言っていると考えてよい。

「佛種は緣より起る」「法華経」の「方便品第二」の「未來世諸佛 雖說百千億 無數諸法門 其實爲一乘 諸佛兩足尊 知法常無性 佛種緣從起 是故說一乘」(敢えて訓読すると、「未來世の諸佛 百千億 無數の諸々の法門を說くと雖も 其れ實(まこと)には一乘の爲(ため)なり 諸佛兩足の尊 法は常に無性(むしやう)なり 佛種は緣に從ひて起こる 是の故 一乘を說く」)に基づく。「無性」とは「無自性」の略で「現実的な儚い実体というあやふやな存在をもともと持っていないこと」を謂う。

「聖敎(しやうげう)」釈迦 の説いた仏教の正法 (しょうぼう)

「心ざす事」ここは「供養のため」と称しており、読経を所望して布施を出しているので、全く以って誠実な、当人が故人と認識している人物の追善供養を指している。

「屛風におされたり」屏風絵として押し張られた。屏風絵としてお仕立て(させ)なさった。挿絵のような大振りの屏風であったなら、これは尼らの手仕事では到底、無理である。

「わがやどの梅の立枝〔たちえ〕を見るからに思ひの外に君や來まさむ」言わずもがな、この「君」とは本来の元夫である中納言藤原基頼である。これに「古歌の言葉を少し引直しける、いと思ひ入りたる心、ありけむ」(これは作者の登場した語りと読むのは風情ぶち壊しである。言わずもがな、彼女を受け入れて呉れたここの庵主の尼の心内語である)とあるが、これは前記の岩波文庫の高田氏の注で「古歌」が判る。「拾遺和歌集」の巻第一の平安中期の貴族・歌人であった平兼盛の一首(番)、

    冷泉院御屛風の繪に、

    梅(むめ)の花ある家に

    まらうど來たる所

 わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ

      思ひのほかに君が來ませる

である。この原歌を知らなくても、彼女の歌が既にして伏線となっていることが容易に伝わってくる。

「備後の國鞆(とも)」現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾及びその周辺

通称「鞆の浦(とものうら)」で知られる。当該ウィキによれば、『瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり』、『鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには』、この『鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から』、『大伴旅人などによ』り、「万葉集」に『詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は』「魏志倭人伝」に『書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている』。『江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみであ』り、『江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路も』、『ほぼすべて現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用する。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がない』。以下、「歴史」の項。中世には『一帯は渡辺氏の支配下にあった』。建武三(一三三六)年には福岡の「多々良浜の戦い」に『勝利した足利尊氏が京に上る途中』、『この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝と南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた』。『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど』、『備後国の拠点の一つとなっていた』。『足利義昭は』天正二(一五七三)年に『織田信長に』よって、『京を追放された後、毛利氏などの支援のもと』、『渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は』「足利(室町幕府)は鞆で興り、鞆で滅びた」と『喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』。「近世」の項。『江戸時代になると備後国を領有した福島正則によって鞆要害を中心に市街地を取り囲む大規模な城郭「鞆城」の築城が始まるが、これが徳川家康の逆鱗に触れ工事は中止された。その後、福島氏に代わり、徳川家康の従弟水野勝成が備後福山藩の領主となり、鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置された。このとき勝成の息子で』二『代藩主である水野勝俊は鞆に住んでいたため「鞆殿」と呼ばれた。また、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され』、正徳元(一七一一)年の第八回『通信使では従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺から見た鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛した(この文を額にしたものが福禅寺対潮楼内に掲げられている)』。『しかし、航海技術が発達』するに伴い、「地乗り」(島々に沿って航行すること)から「沖乗り」(沖合を直行して航行すること)が『主流になったことにより』、『鞆の浦で潮待ちをする必要性』が『薄れていったことなどから、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていった』とある。私は映像ロケ地としてのそれには一切、関心がないが、出不精の私でも、何時か行ってみたいところである。

「品治(ほんぢ)九兵衞」不詳。

「見咎め」単に「見て、何とも言えず、不審に思って」の意。絵が素人のものとも覚えず、添えられた歌が、これまた、意味深長な含みを持っていたからである。

「もてあそぶ」賞翫した。

「十町許り」千九十一メートルほど。

「山名玄番頭(げんばのかみ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。備後国は康暦』(こうりゃく)『元年〔一三七九〕以来』、『山名氏が守護職に任じられたので、その一族であろう』とある。

「世の常ならぬ有樣を見咎め」海を凡そ一キロも泳ぎ渡って徒裸足のままに出現したのだから、恐ろしく汚れていたであろう。その見た目、乞食体(てい)の者が「奉公致したし」ときりり礼儀正しく落ち着き払って申し出るのを、よくみれば、どうも尋常の出自のものとは思われなかったので、山名へ言上に及んだのである。

「品治九兵衞は玄番頭が家人なりければ」『「かやうの物、求めたり。」と物語するに』という展開はジョイントを焦り過ぎた。暫くして、酒宴でも開いて、品治が気を利かせて屏風を持ち込むといった自然なスラーが欲しいところだ。

「心もとなく」何か妙に不安で落ち着かない気がして。「梅の花」の絵と含みある和歌に何やらん激しい胸騒ぎがしたのである。

「妻子・家人、皆、水中に沈められし」にも拘わらず、か弱き「妻は如何にして、命、生(いき)けん」!? 「財寶は、殘らず、舟人の爲に取られぬらん」はずにも拘わらず、「此畫(ゑ)は、何の故に」しかも、この「妻の手跡」の「此歌をかきて出〔いだ〕しぬらん」(最後の部分は「新日本古典文学大系」版脚注では『寺外へ持ち出すことを許したのか』と訳されてある。確かに逐語的な完全訳はそうだろうが、どうも台詞としては腰が砕ける。寧ろ、「この含みある歌を書いたものが、どうして、ここに出てきたのかッツ?!」という叫びであるべきである)!? という激しい不審と驚愕である。

「山名、則ち、品治(ほんぢ)をめして、つぶさに尋ねければ、院主の尼公(あまぎみ)、はじめよりの事を語りけり」こういうお手軽なカット・バック処理はちょっと勘弁だねぇ。

「中納言殿、俄に、いたはりつき、て空しくなり給ふ」この結末は話柄内時制が長いことも物理的に災いしている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏滅亡以来二十五年を経過し、中納言殿のモデルが持明院基規とすると、八十五歳を越えている』とある。されば、ここはコーダを急いだというより、話柄内での時制上の非現実感を押さえようとするなら、かくせざるを得なかったとも言えるのである。寧ろ、続く夢見の誘いのシーンが私は上手いと思う。]

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