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2021/04/25

芥川龍之介書簡抄45 / 大正四(一九一五)年書簡より(十一) 井川恭宛夢記述

 

大正四(一九一五)年八月三十一日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)

 

車が止つたから下りて見ると内中原町の片側が燒けて黑く焦げた柱が五六本立つてゐる間から煙が濛濛と立つてゐた 火は見えない 燒けた所の先は大へん賑な通りで淺黃のメリンスらしい旗に賣出しと書いたのが風に動いてゐる そのわきに稻荷の鳥居がたくさんならんでゐる そこで「なる程 桑田變じて海となる だね 大へんかはつたね」と云ふと格子戶をあけて立つてゐた君が「うん變つたよ」と云つた

すると車夫がまだ立つてゐたから蟇口を出して「いくらだい」ときくと「三十錢頂きます」と云ふ 生憎細いのがないので五十錢やるとおつりを三十錢よこした「これでいゝのかい」と云ふと「この通り三十錢頂きました」と云つて車夫が掌をひろげて目の前へ出した 見ると成程十錢の銀貨が三つ日に燒けた皮膚の上に光つてゐる「さうさう三十錢と三十錢で五十錢だつた」と思ひながら うちへはいつた 見るとうちの容子も大へん變つてゐる 濠の水が緣側のすぐ先まで來ておまけにその水の中から大きな仁王の像が二つぬいと赤い半身を出してゐるから奇拔である「これは定福寺の仁王かね」「あゝ定福寺の仁王だよ」

こんな會話を君と交換してゐる内に外で誰か君をよぶ聲がした「春木の秀さんがよびに來たから一寸失禮する」かう云つて君が出て行つたあとでさうつと懷の短刀を拔いてみた さうして仁王の肩の所を少し削つてみた すると果して豫想通りこの仁王は鰹節の仁王であつた

それから その短刀を持つて外へ出ると長い坂が火事のある所と反對の方角につゞいてゐる その上の方に杉の皮で張つた堺があつて その塀の所に君が小指ほどの大きさに立つてゐる「おおい」と云ふと君の方でも「おおい」と云ふ 何でもあの家の向ふが海で海水浴をやつてゐるのにちがひない そこで一生懸命に走つてその坂を上り出した 坂は長い いくら上つても上の方に道がつゞいてゐる 始は短刀を拔き身のまゝぶら下げて登つた 中ごろでは口へ啣へながら登つた 最後に鞘へおさめて 元の通り懷へ入れた 坂はのぼつてものぼつてもつきない この坂をのぼつてから汽車へのると今度はトンネルが澤山あるんだなと思つた 來るときにはさう苦にならなかつたがかへりは大へんだなと思つた すると眼がさめた

ゆうべねる前によんだ君の手紙がこんぐらかつてこんな變な夢になつたのである

詩は當分出來ない 從つて定福寺の老佛へ獻じる事も先づ覺束かないだらう

そゞろに松江を思ふにたへない

   粽解いて道光和尙に奉らむ

   馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

   武者窓は簾下して百日紅

    卅一日早曉       芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の残した筆記の中でも特異点と言える非常に興味が満載の夢記述である。夢記述のチャンピオンを自負する自分としては、井川の前書簡が読めないのが、非常に惜しい。

「定福寺」島根県松江市法吉町にある曹洞宗の常福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の誤り。本尊は十一面観世音菩薩。私の『井川恭著「翡翠記」二十三』『二十四』『二十五』『二十六』を読まれたい(「翡翠記」の最後を飾る場面であるが、ここの和尚と奥方に優しくされたことと合わせて爽やかなコーダとなっている。実はその『二十六』で既にこの書簡は私がその注で電子化しているが、今回は全くゼロから新たに起こした決定版である)。ここから北に向かった「新山城跡」とあるのが、この寺を中継地として以上のリンク先の中で井川と龍之介が登ったのが、この「眞山」なのである(国土地理院図で山名を確認出来る。標高は二百五十六・二メートル)。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「松江連句(仮)」にも、

   *

  定福寺

禪寺の交椅吹かるゝ春の風  阿[やぶちゃん注:芥川龍之介。]

   *

そこで私は協力者とともに、『「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく』と注した。さらに、

   *

   直山

蕨など燒く直山の烽火かな  井[やぶちゃん注:井川恭。]

   *

とある。そこで私は協力者とともに、『当初、私は無批判に、この「直山」は、石見銀山の産地であった御直山(おじきやま)と呼ばれた代官所直営の操業地のことを言うか、等と言う好い加減な注を附していた(ここに石見銀山では如何にも場違いであった)。その後、この「直山」について、極めて大切な情報を入手した。「松江一中20期ウェブ同窓会・別館」を運営されている知人からの指摘である。以下にそのメールの一部を引用する。

   +

これは「眞山」のことではないでしょうか? 少し後に、「再 眞山」、さらに「三度 眞山」とありますが、それ以前には「眞山」がなく、この「直山」しかないようです。眞山は松江の市街地の北側にあって、市民に親しまれている山です(私は登ったことがないのですが……)。井川と芥川も登っています(『翡翠記』五十七ページ)。また、「定福寺」と「三度 眞山」に出てくる定福寺やそこの梵妻の話も『翡翠記』の同じ場所に出てきます。

   +

気がつかなかった! 一応、私のタイプ・ミスかもしれないと思い、確認してみたが、岩波版新全集は確かに「直山」としており、他はすべて「真山」(しんやま)である(私のポリシーで旧字に変換してあるが)。これは間違いなく芥川か井川の「真山」の誤記もしくは新全集編集上の誤判読である。井川が出身地の地名を誤記することは考えにくいから、誤記(または誤転写)したのは芥川龍之介である可能性が高い(実際、本連句でも芥川は「常福寺」とすべきところを「定福寺」と記している)。更に言えば、本作が山梨県立文学館所蔵の原稿写真から起こされたものである以上、旧字の「眞」と「直」の類似性からも新全集編者の判読ミスも充分ありうると思われる。言わば、最新の岩波版新全集の校訂を、この知人と私はやったことになる。快哉! 真山は「しんやま」と読み、「新山」とも書く。平安時代末期、平忠度の築城と伝えられ、永禄六(一五六三)年、毛利軍が、尼子氏の拠点白鹿(しらが)城攻略ために、吉川元春をここに布陣した。現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみである。

   +

この「松江連句(仮)」は新全集で初めて公開されたものであるが、「眞(=真)山」の誤判読であり(致命的に三ヶ所もある)、現地居住の井川が誤ることはあり得ず、芥川龍之介の誤記か、または旧新編集者の誤判読である。これは今後、訂正されるか、注記を施さなければ、鑑賞出来ないレベルの誤りである。他に、

   *

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

  (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

   *

この句の「梵妻」とは「僧侶の妻」を言う語。嘗ては僧侶の「隠し妻」を指した。「ぼんさい」とも読み、また「大黒」とも書く。大黒は厨房に祀られる神であることから、寺院の「飯炊き女」を指したが、そこから転じて、妻帯を認められない宗派に於いて、世を憚って「飯炊き女」と偽って隠し持ったことによる。

「老佛」「老仏爺」の意であろう。中国語では「ラァォフォーイエ」で、この呼称は中国史上の悪女西太后が周囲に自分のことをかく呼ばせたことで専ら知られる悪名であるが、原義は「仏のように慈悲深い人」という尊称で、ここは世話になった常福寺の和尚のことを指している。

「そゞろに松江を思ふにたへない」芥川龍之介が如何にこの松江旅行に心打たれかがよく伝わってくる。この旅を経てこそ、吉田弥生との破恋からの龍之介の新生があったと言ってよい感懐であると言える。

「粽解いて道光和尙に奉らむ」「粽」は「ちまき」。「道光和尙」は江戸時代前期の黄檗宗の禅僧鐡眼道光(てつげんどうこう 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)。当該ウィキによれば、『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという』。『鉄眼の主著である』「鐡眼禪師假名法語」は、元来は』、『ある女性に向けて法を説いたものであった』。『はわかりやすく平明な表現で仏教の真理を説き明かした、仏教の最良の入門書と言える。終生、法嗣をたてず、弟弟子に当たる宝洲に寺を付嘱した。その奇特な行ないによって』、「近世畸人傳」(江戸後期の歌人で文筆家伴蒿蹊(ばんこうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)が書いた奇人伝の傑作)の『巻二に立伝されている』とある。同項は「日文研」のこちらで挿絵とともに原文(新字)が読める。ここは、自由闊達な常福寺の和尚を彼にカリカチャライズしたものであろう。

「馬頭初めて見るや宍道の芥子の花」「松江連句(仮)」では、

 馬頭初めて見るや馬潟(まがた)の芥子の花

と推敲している。「馬頭」は馬頭観音であろう。但し、音数律から「めづ」と読ませているかと思われる。「馬潟」(島根県松江市馬潟町(まかたちょう))。このルビは芥川が附けたものと思われるが、「まかた」が正しい。

「武者窓は簾下して百日紅」「松江連句(仮)」では、

 武者窓に簾下ろして百日紅

となっている。「武者窓」は「武家窓」とも呼び、天守や櫓又は大名屋敷の長屋門の武家長屋などに用いられた太い竪格子の窓。格子が横に入った窓は「与力窓」と呼ぶ。

 なお、新全集宮坂年譜には、この八月の条の冒頭に、『この頃、塚本文への想いが芽生え始める。山本喜誉司に「正直なところ時々文子女史の事を考へる」などと書き送っている【190】』とあるのだが(最後の数字は新全集書簡番号)、私は新全集の書簡部を所持しておらず、旧全集には八月のパートにはそのような書簡なく、調べてみると(こういう時には一九九四年に岩波書店から出た宮坂覺氏の旧全集を対象とした強力な「芥川龍之介全集総索引」の「人名索引」が甚だ便利である。この本のお蔭でどれほど調査時間が短縮できたことか「芥川文」の「文子女史」で一発で判った)、「正直なところ時々文子女史の事を考へる」と言う文字列は底本の旧全集書簡番号「二一六」の山本宛書簡であることが判った。ところが、この書簡は旧全集では翌年の大正五年八月一日として入れてある。しかし、確かに「Y」というイニシャルでしめす明らかな吉田弥生に纏わるそれは、大正四年のものとする方がしっくりくる内容ではあるように見える。新全集では確認がなされて、移動したものであろう。但し、私はその移動理由などの理由も判らないので、そのまま大正五年の部分で電子化することとする。

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