芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛
大正四(一九一五)年七月十一日・田端発信・井川恭宛(転載)
手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど 今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく 醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい 今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごくprosaic な用があるのだから困る
三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ
藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄へ上つた
成瀨はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の溫泉へ思索にゆくさうだ
但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね
出まかせに詩をかく
I
こゝあはれはドンホアン
紅いマントをひきかけて
ひるはひねもすよもすがら
市をひそひそあるきやる――
市のおと女は窓のかげ
戶のうしろからそつとみて
こはやこはやとさゞめけど
一どみそめた面ざしは
終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭
なりひゞくまでわすられぬ――
こひとおそれの摩訶不思儀
ドミニカ法師の云ふことにや
羊の趾爪(けづめ)犬の牙
地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が
紅いマントの下にゐて
市のおと女を一人づゝ
こひの彈機(はぢき)につりよせる――
こゝにあはれはドンホアン
心もほそく身もほそく
ひるはひねもすよもすがら
市をひそひそあるきやる――
こひとおそれの摩訶不思儀--
Ⅱ
月輪は七つ
日輪は十一
その光にてらされて
のそのそとあるいてく
きりん 白象 一角獸
地にさくのは百合と牡丹
空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア
山は 靑い三角形をならべ
その下に弓なりの海
海には 金の雲が下りて
その中にあそぶ赤龍白龍
岸には 綠靑の栴檀木
その下にねころぶパン人魚セントオル
月輪は七つ
日輪は十一
荒唐の國のまひるを
のそのそとあるいてく
東洋は日本の靑年
Ⅲ
われは今桃花心木の倚子の上に
不可思儀の卷煙艸をくゆらす
その匂と味とは ものうき我をかりて
あるひは 屋根うらのランプの下に
あるひは ノオトルダアムの石像の上に
あるひは 若葉せるプラターヌの
ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)
あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と
そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)
あるひは ヘロヂアスの娘の饗宴に
あるひはジアンダルクの火刑に
ほしいまゝなる步みをはこばしむ
不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは
わがオノーレ ド バルザックの語なり
龍
井 川 君
[やぶちゃん注:前に一度注したが、この「転載」というのは、角川書店版「芥川龍之介全集別巻」からのそれである。既に述べた通りで、これも一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。
「今月の末までは手のぬけない仕事がある」新全集の宮坂覺氏の年譜の同年七月の頭に、『この月、第四次「新思潮」の刊行資金を工面するため、久米正雄、松岡譲、菊池寛』(当時は京都帝大文学部英文学科本科二年生)『らと分担して翻訳することを決める』。『月末の締切で、約百五十枚を引き受けた』というのがその顕在的な「仕事」の内容である。一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、その翻訳とは、ロマン・ロランの「トルストイ伝」であり、『本は成瀬正一訳として』この翌年の対象『五年三月、新潮社』から刊行され、『雑誌発刊にはその印税をあて、以後は会費制とした』とある。この翻訳のことは次の井川宛書簡(後日電子化する)の冒頭にごく手短かに記されてある。また、他にも、『この月、新原得二の受験勉強の世話をするため、二週間ほど芝の新原家に滞在する』とある。偶然ではあろうが、芝は通院にも近く、都合がよかったに違いない。また、更に別件もあって、七月二十三日には実は翌大正五年八月一日発行の第四次『新思潮』に発表する「仙人」を早くも脱稿しているのである。しかも、この作品、典拠をアナトール・フランスの「聖母の軽業師」に採り、舞台を昔の中国としたものであるが(「青空文庫」のここで読めるが、新字新仮名である)、かの「羅生門」(現在、最初期草稿執筆はこの大正四年中と推定されている)のための習作ともされる作品なのである。則ち、弥生との破恋をバネとして、まさに彼がそこで周囲に感じた「人間の中のエゴイズム」を主題とした具体的な小説創作への蠢動が、いやさかに燃え上がる前夜が、ここに既にあったのである。
「prosaic」散文的・殺風景な・面白くない。
「三並さん」龍之介と井川の共通の恩師である一高のドイツ語嘱託教師であった三並良。既出既注。
「藤岡君」複数回既注の、一高以来の共通の友人で後の哲学者藤岡蔵六。
「御獄」「御嶽」(おんたけ)の誤りであろう。
「ローレンス」既出既注。
「信州白骨の溫泉」長野県松本市安曇(あづみ)にある白骨(しらほね)温泉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
『但馬の何とか溫泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい』『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」』の本文出るように、龍之介は恐らく井川に勧められたのであろう、かの城崎温泉で二泊して松江に入った。なお、龍之介が、終生、畏敬した志賀直哉の名篇「城の崎にて」は、この二年後の発表されたものである(大正六(一九一七)年五月・白樺派同人誌『白樺』)。但し、志賀に関わって数奇な体験は松江であった。龍之介は松江に十六日も滞在したが、井川はそのために自分の実家に近い家を借りた。ここである。ところが、この家は前年の大正三年に作家志賀直哉が三ヶ月程滞在した家であり、志賀の小説「堀端の住まひ」の舞台でもあったのである。これは井川の特別な配慮によるものではなく、全くの偶然であったとされるが、まさにここで芥川は、松江の印象記を書いた。そしてそれを、龍之介に逢う以前から既にして山陰文壇の常連であつた井川が、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章を、三つ、離れて掲載したのであった(後にこれらを合わせて「松江印象記」として昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊の第一次元版と通称する「芥川龍之介全集」の最終配本となった「別册」で公開された。従って、現在の「芥川龍之介全集」に作品の一つのように載っている「松江印象記」という日記或いは随想の題名は芥川龍之介自身によるものではないのである)。私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、二十六回分割で『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む)』を、さらにサイト版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』も公開している。
『「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中 一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹渺としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと變な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい 一體江戶つ子と云ふものは 旅なれないものだからね』久しぶりに陽性の悪戯っ子っぽい龍之介の笑顔が見える! 座布団二枚!! なお「つぬしはふ」はママ。「つのさはふ」が正しい。「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などに掛かる枕詞であるが、原語義や掛かる理由も未詳とされるが、一説に、「つの」は「綱」と同義で、「蔦(つた)」を指し、「蔦さ這ふ」ところの「岩」からというのは、私は違和感なく受け入れられる。
「こゝあはれはドンホアン」「ゝ」の右手に底本編者によるママ注記が打たれてある。確かにちょっと躓かないでもない。「こはあはれドンホアン」と勝手に脳内で文字を組み替えてしまった私がいるが、第二連七行目の「こゝにあはれはドンホアン」の龍之介の誤脱字である。「ドンホアン」は好色の姦計ドン・ファン(スペイン語:Don Juan)。当該ウィキをどうぞ。無論、自己をカリカチャライズしたもの。
「不思儀」ママ。芥川龍之介の書き癖。
「ドミニカ」ドミニコ会の創設者にしてカトリックの聖人でスペイン生まれの「グスマンの聖ドミニコ」(ラテン語:Dominicus/Dominico/スペイン語名:ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(Domingo de Guzmán Garcés 一一七〇年~一二二一年)をカリカチャライズしたか。そもそも‘domingo’はスペイン語で「安息日」の意である。
「惡魔(デアボロ)」「デアボロ」はルビ。スペイン語で‘Diablo’(ディアブロ)は「悪魔」の意。ボローニャの方言ではディアベル(diavel)。
「彈機(はぢき)」バネ。発条(ぜんまい)。機械仕掛けの如き巧妙な誘惑って感じか。
「月輪」私が「がちりん」と読みたくなるが、まあ「げつりん」だろう。所謂、太陽や月にかかる淡い光の輪である「ハロ」(halo)・暈(かさ)・円光・光暈(こううん)で、それが七重・十一重に掛かるということか? しかし「七」と「十一」の命数は不明。識者の御教授を乞う。「Ⅰ」の最終行「東洋は日本の靑年」からは、龍之介が、新たに、ある種の聖なる光りに導かれて行く自分自身を擬えているようにも見える。
「ロック」ロック鳥(ちょう)。原語はペルシア語で、英語では‘roc’。中東・インド洋地域の伝説に登場する巨大な白い鳥。三頭のゾウを持ち去って巣の雛に食べさせほど、大きく、力が強い怪鳥と。「ルフ」とも呼ばれる。当該ウィキをどうぞ。
「サラマンダア」サラマンダー(ラテン語:salamandra/英語:salamander)は四大精霊の内で「火」を司る神獣・精霊・妖精(elementals)。サラマンドラ。手に乗る位の小さなトカゲもしくはドラゴンのような姿をしており、燃える炎の中や溶岩の中に住んでいるという。当該ウィキをどうぞ。
「栴檀木」「せんだんぼく」。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ神仙の聖木(せいぼく)ととるべきである。芥川龍之介は晩年の詩稿でもこの実在する方の木を登場させている。私のサイト版「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」、或いは、ブログ版「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅳ ■3 推定「第二號册子」(Ⅱ) 頁12~34」を参照されたい。]
「パン」ギリシア神話に登場する牧人と家畜の神。神パーン(ラテン文字転写:Pān)。半獣神サテュロス(ラテン語:Satyrus)と同じく四足獣のような臀部と脚部及び山羊のような角に顎鬚を蓄えた獣神。山野を走り回っては好んで笛を吹く。好色で酒好きの暴れ者。
「人魚」ここのそれは西洋のマーメイド。
「セントオル」ギリシア神話に登場する半人半獣の種族ケンタウロス(ラテン語: Centaurus)馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿をしている。パーンやサテュロスと同じような属性を持つが、中には出自の異なる知的な者もおり、医学の祖とされるケイローンやアスクレーピオスなどは賢者にして不死とされる。
「荒唐」「くわうたう(こうとう)」。「荒」も「唐」も「大きくて広いこと」の意。ここはそのままの意。なお、転じて「荒唐無稽」のように「言うことに根拠がなく、とりとめのないこと」の意で用いることの方が多い。
「桃花心木」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia のこと。センダン科の常緑大高木。高さ約三十メートルになる。葉は羽状複葉。夏に黄緑色の花を咲かせ、卵形の実を結ぶ。材は紅黒色で堅く、磨くと、光沢が出るので、高級家具材などにする。北アメリカのフロリダ・西インド諸島の原産。龍之介も「マホガニイ」或いは「マホガニー」と読んでいる可能性が甚だ高い。
「プラターヌ」フランス語‘Platane’で、ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。以前の電子化した書簡では「プランターン」「プランターヌ」と音写を誤っていたが、ここは正しい。
「蘆薈」「ろくわい(ろかい)」で、単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ツルボラン亜科アロエ属 Aloe のアロエのこと。但し、「蘆」との並置からこれは「アロエ」とは読んでいないと思われる。
「タムボリン」タンバリン(tambourine)。
「ヘロヂアスの娘の饗宴」不詳。一つ思いつくのは、古代イスラエルの領主(在位:紀元前四年~紀元後三九年)ヘロデ・アンティパス(紀元前二〇年?~?)で、彼は洗礼者ヨハネを処刑したことで知られるが、共観福音書に於いてはその理由を、存命中の兄弟の妻であったヘロディア(これは別表記で「ヘロディアス」とも呼ぶ)を妻に迎えたことををヨハネに非難されたからとする。この「娘」が「妻」だったならば、それで腑に落ちるのだが。他にヘロディアス(Herodias)は中世ヨーロッパの幾つかの文献で言及されている、夜に騎行する女たちが従う女神又は神話的女性の多様な名の一つであるが、これでは「娘の饗宴」の部分が説明不能となってしまう。やはり前者か。
「オノーレ ド バルザック」フランスの近代リアリズム小説の代表者オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年:「ド・バルザック」の「ド」は貴族を気取った自称)。当初、パリで法律を修めたが、文学を志して小説・戯曲を乱作した。一方で、さまざまな事業を興したものの、孰れも失敗して膨大な借金を背負い、これを賠償すべく決意も新たに初めて本名で書いた小説「梟(ふくろう)党」(Les Chouans :一八二九年)で認められる。以後、驚異的な多作ぶりを発揮し、「ウジェニー・グランデ」(Eugénie Grandet :一八三三年)・「絶対の探求」(La recherche de l’absolu :一八三四年~一八三五年)・「ゴリオ爺さん」(Le Père Goriot :一八三五年)などの傑作を次々と発表した。その間にも、新聞経営や土地投機を試みたり、代議士に立候補したりするが、またしても悉く失敗している。その後、欧州各地を旅行し、やがてジャンル群『人間喜劇』(La Comédie humaine :一八三一年~一八五〇年)という壮大な構想を発案して、「谷間の百合」(Le Lys dans la vallée :一八三六年)・「幻滅」(Illusions perdues:一八三七年~一八四三年)・「従妹ベット」(La cousine Bette :一八四六年)・『従兄ポンス或いは二人のミュジシャン』(Le cousin Pons ou les deux musiciens :一八四七年)などの著名な作品を書いた。しかし、長年に亙る心身の酷使のため、一八五〇年に十八年来の恋人であったハンスカ夫人と結婚して間もなく、亡くなった。生涯に渡って負債には悩まされ続けた。「小説の天才」・リアリズム小説の祖とされると同時に、悪徳から神性に至る人間社会の全的世界像を創造しようとした偉大なる「幻視家」(ボードレール評)としても評価されている(以上は主文を平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。
「語」これは「こと」と読みたい。]
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