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2021/04/13

伽婢子卷之二 狐の妖怪 / 伽婢子卷之二~了

 

   ○狐の妖怪

 

Youko1

 [やぶちゃん注:右図から左図へと絵巻風に展開する。]

 江州武佐(むさ)の宿(しゆく)に、割竹(わりたけの)小彌太といふものあり。元は甲賀(こうか)に住(すみ)て、相撲(すまふ)を好み、力量ありて、心も不敵なりけるが、中比〔なかごろ〕、こゝに來り、旅人に宿(やど)かし、旅館(はたご)を以つて、營みとす。

 ある時、所用の事ありて、篠原堤(しのはらつゝみ)を行きけるに、日すでに暮かゝり、前後に人跡〔じんせき〕もなし。

 只、我獨り、道をいそぐ其間(そのあひだ)、道の傍らに、一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。

 又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。

 落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。

 小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる。

 その美しさ、國中には並びもなく覺えたり。

 日は暮はてゝ、昏(くら)かりしに、小彌太が前(さき)に立(たち)て、聲、打あげ、物哀れに啼きつゝ、行く。

 元より、小彌太は不敵者なれば、少しも怖れず、女のそばに立寄り、

「如何に。これは誰人(たれ〔びと〕)なれば、何故に、日暮て、たゞひとり、物悲しく啼(なき)叫び、いづくをさして、おはするやらん。」

といふ。

 かの女、なくなく答へけるは、

「みづからは、是より、北の郡(こほり)余五(よご)といふ所の者にて侍べり。このほど、『山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城を責(せめ)とらん』とて、木下藤吉郞とかや聞えし大將、はせむかひ、其引足〔ひきあし〕に、余五・木下(きのもと)のあたり、皆、燒拂ひ給へば、みづからが親兄弟は、山本山にして、打死(うちじに)せられ、母は、おそれて、病出〔やみいで〕たり。かゝる所へ、軍兵〔ぐんびやう〕、打入〔うちいり〕て、家にありける財寳は、一つも殘さず、奪ひ取たり。母、聲をあげて恨みしかば、切殺(〔きり〕ころ)しぬ。みづから、怖ろしさに草むらの中に隱れて、やうやうに命をつぎけれ共、親もなく、兄弟もなし。賴む陰(かげ)なき孤子(みなしご)となり、いづくに身をおくべき便りもなければ、『今は唯、身を投げて死なばや』と思ひ侍べるに、悲しさは堪えがたくて、人目をも知らず、啼侍べるぞや。」

といふ。

 小彌太、聞て、

『まさしく、狐の化けて、我をたぶらかさんとす。我は又、此狐をたぶらかして、德、つかばや。』

と思ひ、

「げにげに、哀れなる御事かな。親兄弟も、皆になりて、立よるかげもおはしまさずは、幸(さいわひ)に、それがしの家、まことに貧しけれ共、一人を養ふほどの事は、ともかうも、し侍べらん。我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば、賴もしく見とゞけ侍べらん。」

といふ。

 女、大〔おほき〕によろこびて、

「あはれみ思召し、やしなうて給らば、みづからがため、父母の生れかはりと思ひ奉らん。」

とて、打連れて、武佐の宿(しゆく)に到り、小彌太が妻に對面して、さきのごとくに、かきくどき、なきければ、妻もあはれに思ひ、ことさら、形の美くしきを見て、いたはり、いつくしむ。

 小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず。

[やぶちゃん注:「江州武佐(むさ)」現在の滋賀県近江八幡市武佐町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中山道の六十六番目の宿で、この後、「守山宿」・「草津宿」・「大津宿」を経て京都(三条大橋)に着く。

「割竹(わりたけの)小彌太」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竹を割るほどの強力の持ち主の意を込めた命名か。あるいは「割竹」は丸竹の先を割った、罪人をたたく刑具』に使用したもの(箒尻(ほうきじり)と称し、江戸時代に敲(たたき)や拷問に用いた棒で、割竹二本を麻糸で包み、その上を観世紙縒(かんぜこより:和紙を細長く裂いて縒(よ)ったもの、或いはその「紙縒り」を縄状に縒り合わせたもの)で巻く)であるから、『情け容赦を知らないの意か』とある。

「中比〔なかごろ〕」「語り物」にあって「執筆時制からあまり遠くない昔」の意を示す語として頻繁に用いられる語であるが、ここは小弥太の生活史を語っている中での用法であるから、『「中年」になってから』の謂いである。

「篠原堤(しのはらつゝみ)」近江八幡市の南西隣りの滋賀県野洲市の大篠原に今もある、中山道沿いの西池の西北の堤。ここがそれであること、この堤が平安末期には築かれてあったことが判る「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤」を読まれたい。

「一つの狐、かけいでゝ、人の曝髑髏(しやれかうべ)を戴き、立あがりて、北に向ひ、禮拜(らいはい)するに、かの髑髏、地に落(おち)たり。又、とりて、戴きて、禮拜するに、又、落たり。落れば、又、戴く程に、七、八度に及びて、落ざりければ、狐、すなはち、立居(たちゐ)心のまゝにして、百度ばかり、北を拜む。小彌太、不思議に思ひて、立とまりて見れば、忽に、十七、八の女〔をんな〕になる」これは妖狐が人間に化ける呪法の定規法である(なかなか手間がかかることが判る)。江戸前・中期の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:鳥取生まれ。後に岡山から大坂に移り住んだ)の随筆「消閑雑記」に(「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」内の影印本の当該部を視認し、漢文部は訓読(一部推定)した)、

   *

○狐はあやしきけもの也。常に人にばけて、たふらかし、また、人の皮肉(ひにく)に入てなやまし、あらぬ妙をなす事多し。「抱朴子(はうぼくし)」に曰はく、『狐(こ)、壽は八百歳也。三百歳の後(のち)、變化(へんげ)、人の形と為る。夜、尾を撃(うつ)て、火、出だし、髑髏を載(いたゝ)き北斗を拜み、落ちざるときは、則ち、人に變化(へんげ)す』と。これほと、修行(しゆぎやう)なり、功、つみたるものなれども、一旦、やき鼡(ねつみ)の香くはしきを見て、たちまち、わなにかゝり、命をうしなふ。人も、また、おなし。智惠・才覚(かく)、拔群(ばつぐん)のうまれつきにて、かくのことくの人も道にまとひ、利にまとひて、生涯(しやうがい)をうしなふ事、狐に同しきものなり。「人、以つて、狐にしかざるべし」か。

   *

ここの出る「やき鼡」(「燒鼠」)は鼠をあぶって焼いたもの或いは油で揚げたもので、狐の好物とされ、罠の餌に用いた。最近の私のものでは、「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」に妖狐が「油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふ」とある。これは道教・神仙道の理論実践書「抱朴子」(東晋の葛洪(かっこう)撰。四世紀初頭の成立)の引用で判る通り、中国伝来で、後の晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:八六〇年頃成立)の「巻十五 諾皋記(たくこうき)下」の一節にも、

   *

舊說野狐名紫狐、夜擊尾火出。將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。

(舊說に、『野狐は「紫狐」と名づく。夜、尾を擊ちて、火を出だす。將に怪と爲(な)るに、必ず、髑髏を戴き、北斗を拜し、髑髏、墜ざれば、則ち、爲して人と化す』と。)

   *

ちなみに、「しゃれこうべ」という語は「されかうべ」の転化で、「され」は動詞「曝(さ)れる」の連用形からで「風雨に曝(さら)されて肉が落ちた頭骨」の意。「野曝(晒)(のざら)し」である。なお、当初は「女」を「むすめ」と読もうと思うたが、「十七、八」とする年齢、後の段で男と契ってからも、読みが一斉に振られていないことから、「をんな」とした。「心のまゝにして」は変化叶ったことから、「思う存分」歓喜して例謝(恐らくは北斗七星)しているのである。

「小彌太が前(さき)に立(たち)て」小弥太の行く道の先に立って。騙さんとすること、明白。化けざまを総て見られていて気づかなかったこと、なかなか化けられなかったことからみて、未だ若い狐で、これが人に化けた始めでもあったか。

「余五(よご)」旧伊香郡(いかぐん:古くは「いかご」)の余呉地区は現在は長浜市であるが、かなりの広域である。南部は琵琶湖の最北端で、羽衣伝説で知られる余呉湖付近であるが、北部は岐阜・福井県境まで殆んどは峡谷を伴う険しい山岳地帯である。

「山本山(〔やま〕もと〔やま〕)の城」滋賀県長浜市湖北町山本にあった。サイト「城郭放浪記」の「近江 山本山城」によれば(地図有り)、『築城年代は定かではない。平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。その後』、『京極氏の被官阿閉』(あつじ)『氏の居城となったが、永正年間』(一五〇四年〜一五二一年)『頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期』浅井亮政(あざいすけまさ)と『対立したが』、『後にその傘下に組み込まれ』、『再び阿閉氏が城主となった』。『織田信長による』主城『小谷城攻撃では、阿閉』淡路守貞征(さだゆき)の『籠る山本山城が天正元』(一五七三)『年』、『羽柴秀吉』の『謀略によって開城となり、小谷』(おだに)『城は孤立し』、『落城した』とある。この部分、ウィキの「阿閉貞征」を見ると、実は貞征は秘かに『信長に内応し』て『山本山に織田軍を引き入れたため、小谷城は孤立し』、『主家滅亡の遠因をつく』り、貞征は八月八日には子とともに『信長に降参し、後』、『すぐに朝倉攻めの先手を務め』ているとある(その後、天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」の後、彼は『明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を占領し』、「山崎の戦い」に参加して『先鋒部隊を務めるが、敗戦。秀吉方に捕縛され』、『一族全て処刑された』とある)。「新日本古典文学大系」版脚注によると、「木下藤吉郞」は『この合戦の戦功を認められ』、『浅井氏の旧領を得て、木下から羽柴に改姓』したとある。さて、本文では、山本山城へ「木下藤吉郞」が「はせむかひ、其引足〔ひきあし〕」をした(一回、兵を撤退させた)とあるのは、実は、その内応を受けての「やらせ」のポーズであり、さればこそ、貞征は直ぐに投降し、山本山城は落城ではなく、開城となり、信長の配下となったことが判る。

「余五」これは琵琶湖北岸の余呉湖周辺。

「木下(きのもと)」現在の長浜市木之本町(きのもとちょう)

「おそれて、病出〔やみいで〕たり」恐ろしさのあまり、気分が悪くなり、病み臥せってしまった。

「德、つかばや」『一つ、こちらが知らんふりをし、上手く扱って、なんでもいいから、逆にこやつを上手く使って、逆にこっちが何かせしめてやろう!』。

「皆になりて」皆、死んでしまって。

「我(わが)家の事、心にしめて、まかなひ使はれ侍べらば」「我が家の家政(旅宿経営)に就いて、性根を据えて、なにくれとなく学び励み、使用人となるということを厭わぬとのことでありますならば」。

「賴もしく見とゞけ侍べらん。」「まずは、そなたを信頼して、暫くは、これ、様子を見てやろうとは存ずる。」。

「小彌太、露ばかりも、妻に、狐の事を語らず」この措置はなかなか思い切れるものではない。下手をすれば、小弥太の家産そのものを乗っ取られたり、潰されたり、命を失わぬとも限らぬのだから。彼の深謀遠慮は阿閉貞征も舌を巻くとも言えようか。

 

 天正のはじめ、江州、漸(やう)やく靜(しづか)になり、北の郡(こほり)は木下藤吉郞、是を領知し給ふに、石田市令助(いちのすけ)、京より下りける次に、武佐の宿、小彌太が家に留(とゞ)まり、かの女を見て、限りなく愛(めで)まどひ、

「如何にもして、此女を我に與へよ。」

と、いはれしかば、小彌太いふやう、

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず。それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」

といふ。

 石田、聞て、金子百兩を出し與へ、女を買(かい[やぶちゃん注:ママ。])とり、打ちつれて、岐阜に歸られたり。

 女、いと、才覺あり、よろづにつきて、さかざかしう利根(りこん)にして、人の心にさきだち、物をまかなふ事、石田が思ふ如くなれば、本妻をも、かたはらになし、只、此女を寵愛す。

 されども、女は、少〔すこし〕も、高ぶるけしきもなく、本妻の心をとりて、

「みづからは妾(おもひもの)なり。いかでか、本妻の心をそむき奉らんや。」

とて、夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば、本妻も、さすがに憎からず、ねんごろに、いとほしみけり。

 出入〔いでいる〕ともがらにも、ほどほどにつきて、物なんど、取らせけり。あるひは、絹小袖・ふくさ物・針・白粉(おしろい)やうの類(たぐひ)、いつ、もとめおくとも見えねど、取出(とり〔いだ〕)して、賦(くばり)つかはす。

 しかも、其身、麻績(をうみ)つむぎ・物縫ひ・ゑかき・花結び迄、くらからず、侍べり。

「石田が家にこそ、賢女を求めけれ。」

と取沙汰あり。

 半年ばかりの後、石田、又、京都に上る。

 女、いふやう、

「必ず、忠義をもつぱらとして、私を忘れ、千金より重き御身を、小細(ささい)の事に替(かへ)給ふな。御内(みうち)の事は、みづからに任せ給へ。」

とて出〔いだ〕し立て、京にのぼらせたり。

[やぶちゃん注:「北の郡(こほり)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『近江国琵琶湖北岸』の『諸郡の総称』で、旧『浅井氏の領国にほぼ重なる』とある。

「石田市令助(いちのすけ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『市令は市正(いちのかみ)の唐名。「市令」も漢名のつもりであろうが、市司(いちのつかさ)の次官』は「助」ではなく、『市佑(いちのすけ)』であるとあった。目から鱗。岩波文庫の高田衛氏の注では、『石田三成の父』(石田正継(?~慶長5(1600)年)。近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)出身の地侍或いは京極氏の被官であったか。「関ヶ原の戦い」で息子に先んじて自害した)『を連想させる設定』とある。

「歷々の諸大名、みな、望み給へども、今に、いづかたへも、參らせず」時間経過から見ても、これは完全な噓としか読めない。「德」「つかばや」の小弥太の意識が敏感に感応して始動したのである。

「それがし、身すぎのたより、よろしく宛(あて)おこなひ給はゞ、奉らん。」「拙者の世過ぎの糧につき、よろしく、何かあてがって差配し下さるとなら、差し上げましょう。」。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「宛(充)て行ふ」は多く』、『役職や知行を下し与える場合に用いる語で、ここは、戯れて主従関係に擬しおもねっている』と注しておられる。

「さかざかしう利根(りこん)にして」非常に賢く、それはまた、生まれつきの利発さであり、口のきき方も上手であったがため。

「百兩」ウィキの「両」によれば、天正年間の「一両」=「米四石」=「永楽銭一貫文」=「鐚銭(びたせん)四貫文」とほぼ等価であったとある。先にある換算サイトでは、戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、これを永楽銭で換算すれば、一千五百万円相当、鐚銭では三百七十五万円相当となる。お好みで解釈されたい。

「岐阜」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『信長は、美濃稲葉城を攻略した翌年の永禄十一(一五六八)年に「井ノ口」を旧名の「岐阜」に復したという』とある。

「人の心にさきだち、物をまかなふ事、」人がどう考え、感じているかを事前に素早く察知して。この場合は、直後に「石田が思ふ如くなれば」とするものの、「本妻の心をとりて」(察して)常に彼女を立てたが故に、「本妻も、さすがに」(夫の言う好評化や想像した以上の仕え方をしたので(「夜晝、まめやかに仕へ侍べりしかば」)、改めて感心し)、この女を「憎からず」思ったというのであればこそ、不特定多数の人間に対してもそうであったと考えてよかろう。妖狐ならではの読心術による、そつのない仕舞わしと言える。

「かたはらになし」そっちのけにして。

「出入〔いでいる〕ともがら」石田市令助の屋敷に出入りする武士の配下の下男・下女及び御用伺いの商人や家作の者たち。

「ほどほどにつきて」その身分や立場に応じた相応な。

「ふくさ物」「袱紗・服紗・帛紗」は、ここは「茶の湯」で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いたりする、縦九寸(約二十七センチメートル)・横九寸五分(約二十九センチメートル)の絹布。

「針」身分の低い女性には有難かったであろう。

「いつ、もとめおくとも見えねど」何時、何処で買い求め、何処に蓄えておいたものかもまるで判らぬのだが。

「賦(くばり)つかはす」配り、与えるのである。

「麻績(をうみ)つむぎ」「苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎ」は苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて糸にすること。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。病的に執拗(しゅうね)きものである。

「ゑかき」「繪描き」。「新日本古典文学大系」版脚注に、次の『花結びとともに女性の嗜みとされた手芸』とある。この場合の「手芸」は広義の「手先の技術」としての絵描きであると思われるが、女性のそれは大和絵の一種である葦手絵(あしでえ:樹木・草花・岩などの一部を図案化したものに、さらに文字を装飾的に組み込んだ絵)のように、装飾的な料紙の下絵にしたり、それが発展して次第に装飾的模様へと変化し、工芸品としての蒔絵や服飾などに用いられるようになったのであった。

「花結び」「飾り結び」とも。紐を使って装飾的に結ぶ手法。当該ウィキによれば、『日本では、そのうち特に、中国から伝わった結びをもとに発達したものを指』し、「花結び」とも『呼ばれる。一般に』「組み紐」と『呼ばれることも多いが』、「組み紐」の方は『糸を組んで紐を作る工芸であり、紐を結んで作る』「飾り結び」とは『別である』。『日本の』「飾り結び」は、『仏教とともに伝わったいくつかの結びと、遣隋使が持ち帰った下賜品に結ばれていた紅白の麻紐が起源とされる(水引と同じ)』。『飾り結びは中国のものと共通するものも多いが、日本で独自に考案されたものも数多くある。特に茶道においては、仕服(茶碗・茶入れなどを入れる袋)を封じる紐に飾り結びを施すことで、装飾性を増すとともに、知らぬ者が開封した場合に元通りにしにくくすることで、みだりに開封できないようにする鍵の役目を持つ結びが多数』、『考案された。これらを特に』「花結び」と『呼ぶこともある』とる。

「小細(ささい)な事に替(かへ)給ふな」「小細」は「些細」の当て字。「採るに足らぬことに気をとられてはなりませぬ」。既にして後にくる事態を予知していたのである。

「みづからに」「みづから」には前に出た一人称自称である。]

 

 京にして、高雄の僧、祐覺(ゆうがく)僧都に對面す。

 祐覺、つくづくと見て、

「石田殿は、妖恠に犯されて、精氣を吸れ給ふ。はやく療治し給はずは、命を失ひ給ふべし。此相(さう)、それがし、見損ずまじ。」

といふに、石田、更に信ぜず、

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」

とて、打笑ひしが、程なく、心地、わづらひ付き、面(おもて)の色、黃に瘦(やせ)て、身の肉(しゝむら)、かれて、膏(あぶら)、なし。唯(たゞ)、

「うかうか」

として、物事、正しからず。

 家人等、驚き、さまざま醫療すれども、しるしなし。

 此時に、高雄の僧のいひし事を思ひ出して、祐覺を請じて、見せしむ。

 僧のいはく、

「此事、我、更に見損ずまじ。初め、わがいふ事を信ぜずして、今、この病、現れたり。佛法の道は慈悲をさきとす。祈禱を以て是を治(ぢ)せむ。早く國に歸りて待(まつ)べし。我も下りて、しるしを、あらはさん。」

と、いはれしかば、家人等、驚き、祐覺ともろ友に、夜を日につぎて、岐阜に歸り、壇を飾り、廿四行(がう)の供物、二十四の燈明、十二本の幣をたて、四種の名香(めいかう)をたきて、一紙の祭文(さいもん)をよみて、禳(はらひ)して、いはく、

 

「維年(これとし) 天正歲次(としのやどり)甲戊(きのへいぬ[やぶちゃん注:ママ。])今月今日 石田氏某 妖狐の爲に惱さる

 夫(それ) 二氣 はじめて別れ 三才 巳にきざし 物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて 性分(せいぶん) その形をうけしよりこのかた 品位(しなくらゐ) みな ひとしからず

 こゝに狐魅の妖ありて 恣まゝに恠をなし 木の葉を綴りて衣とし 髑髏(しやれかうべ)をいたゞきて鬘(かつら)とし 貌(かたち)をあらため 媚(こび)を生ず

 渠(かれ) 常に氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事 時として忘れず 尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し 祟(たゝり)を作(なす)こと 更に止(やま)ず

 此故に 大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り 百丈は因果の禪を詰(なじ)る 千年の恠(くわい)を兩脚(〔りやう〕きやく)の譏(そしり)にあらはし 一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ

 粤(こゝ)に石田氏某(それがし)は軍戶(ぐんこ)の將師 武門の命士也

 何ぞ妄りに汝が腥穢(せいゑ)を施して其精氣を奪ふや

 身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ

 汝が狀(かたち)は綏々(すいすい) 汝が名は紫々(しゝ)

 式(もつ)て 其醜(みにくき)をいひ 唱(となへ)て 其恧(はぢ)を示す者也

 首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふと雖も 虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)ことは 隱すべからず

 汝 今 すみやかに去(され) 速かに去(され)

 汝 知らずや 九尾 誅せられて 千載にも赦(ゆるし)なき事を

 誰か 汝が妖媚(えうび)を いとひにくまざらん

 もし すみやかにしりぞき去(さら)ずば 州郡(しうぐん)大小の神社を驚かし 四殺(せつ)の劔(けん)を以て殺し 六害(りくがい)の水に沈めん」

 

Youko2

 [やぶちゃん注:上の挿絵は、左右はシークエンス上は繋がるように描かれているが、同一場面ではないので注意。]

と、讀(よみ)終りしかば、俄に、黑雲(くろくも)、棚引(たなび)き、大雨、降り、雷電、夥しく鳴渡りければ、女、はなはだ、恐れまどひ、そのまゝ倒れて、死(しゝ)けり。

 家人等〔けにんら〕、驚き、立〔たち〕よりて見れば、大なる古狐(ふるきつね)なり。

 首(かしら)に、人のしやれかうべを戴きて、落〔おち〕ずして、あり。

 此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり。

 石田氏が心地、快然と凉(すゞ)やかになり、忽(たちまち)に平復して、此物どもを見るに、恠しき事、限りなし。

 狐の尸(かばね)をば、遠き山の奧に埋み、符(ふ)を押(をし[やぶちゃん注:ママ。])て、跡を禳(はら)ひ、丹砂(たんしや)・蟹黃(かいわう)なんど、調合の藥を服(ぶく)せしめて、その根本(こんぽん)を補ひ、さて、武佐の小彌太を尋ねさするに、女を賣(うり)て、德つき、家を移して、いづち行けるとも、知らず。

 まさに、狐魅(こみ)、よく人を惑はし、祐覺僧都の法驗(はうけん)を感歎しけるとぞ。

 

伽婢子卷之二終

 

[やぶちゃん注:佑覚僧都の祭文は底本では全体が一字下げ(元禄本は三字下げ)であるが、引き上げて、その代わり、前後を一行空け、句読点をわざと振らずに、読み易く区切れるところで改行を施した。この方が呪文らしい感じが出ると感じたからである

「高雄」京都府京都市右京区梅ヶ畑付近を指す地名で、ここはそこにある真言宗高雄山(たかおさん)神護寺。

「祐覺(ゆうがく)僧都」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、源頼朝に決起を促した『神護寺の文覚に重ねるか』とされ、『文覚は法力ある験者で、優れた相人』(そうにん:人相見)『ともされ』、文覚を主人公とした『幸若』舞『の「文学」』(もんがく)『では、壇を築き、一八〇本の幣串(へいかん)』(神に供える幣帛を挟んだ串。祓(はらえ)に用いる。多くは本体に白木の棒を用いる)『を立てて平氏に対する調伏の法を行っている』とある。私もこの意見には賛同する。

「我をあざむく賣僧(まいす)の妄語、今に始めず。」「儂(わし)を欺(ざむ)く売僧(まいす)の妄言、出鱈目じゃ! んなことは、今に始まったこっちゃ、あ、る、ま、い、よ、ってえんだ!!」。「賣僧」の「まい」は「賣(売)」の慣用音、「す」は「僧(僧)」の唐宋音。特に禅宗に於いて同宗の中の僧形で物品の販売などをした堕落僧のことを指した。転じて、「一般に僧としてあるまじき行為をする僧」、また、僧侶を罵って言う卑語。「糞坊主」に等しい。

「唯(たゞ)うかうかとして、物事、正しからず」常に異様にぼんやりとした感じで、見当識がない、生気がない、正気を失ったような感じで、することなすこと、これ、尋常普通でない。

「思ひ出して、祐覺を請じて見せしむ」市令助の一の家臣が主語であろう。その場にいなかったとしても、直後に市令助が腹を立てて、そうしたことを周囲に語ったことは容易に想像される。

「此事、我、更に見損ずまじ」「この有様(病態)は、どうじゃ! 我ら、やはり、最早、見損じたのではなかったわッツ!」。

「廿四行(がう)の供物」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、『阿弥陀の二十四本願(等覚経)にもとづく、二十四種の供物』とある。腑に落ちる。一般に阿弥陀は如来となるに当たって四十八誓願を立てて、それが成就されない限り、自分は如来とならないと言っていることは存知であろう(因みに、その第十六誓願では、「たとひ、われ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、わが國に生ぜんと欲(こ)ひて、乃至十念せん。若(も)し、生ぜずは、正覺を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法(しやうほふ)とをば除く。」という核心のそれで、ここでは阿弥陀は生きとし生ける全衆生を救うことが出来ぬとなら、私は如来とならないと言っているのであり、これは絶対の予定調和であって、阿弥陀が既に如来となっているおいうことは、我々衆生(あらゆる時空間に於ける人間)は既に極楽往生が定まっているといことを指しているという真理が示されているわけである。なお、例外の「五逆」は「殺父」・「殺母」・「殺阿羅漢」(聖者を殺すこと)・出仏身血)(仏の身を傷つけ、血を流させること)・「破和合僧」(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、「誹謗正法」は「唯一真実の正法(しょうぼう)である仏法を謗(そし)る者を指す)。ところが、この阿弥陀の誓願の数は初期の漢訳経では「二十四誓願」であるものが、「無量寿経」などでは倍の「四十八誓願」となって、そちらの方が今に説かれる命数として有名になってしまったのである。これは、その二十四誓願に応じた数の種類の供物ということである。それぞれが何か特定のものであった可能性が高いがそれは私には判らない。

「祭文(さいもん)」通常は祭りの際に神に捧げる祝詞(のりと)の意であるが、「新日本古典文学大系」版脚注では、特にここでは、『祝詞に対し、個人的或いは中国伝来の祭などの読まれる』とある。この注は中国由来の漢文訓読型の文体「祭文(さいぶん)」、祭時に於いて神霊に対して誦される文章で、中国では死者葬送・雨乞・除災・求福を目的とするそれが存在し、以下の冒頭の「維年(これとし)」(いねん)は必ずその発語の辞とされるものである。

「天正歲次(としのやどり)」「さいじ」。古くは「さいし」と清音。「歳」は「歳星」、則ち、木星、「次」は「宿り」の意。昔、中国では木星が十二年で天を一周すると考えられていたところから、「としまわり」「とし」「干支」の代語・指示語となったもの。

「二氣 はじめて別れ」混沌(カオス)の原初態から陰陽の気が天地開闢の時に分離し。

「三才 巳にきざし」天・地・人の三つの「働き」(「才」)を現わし、そこから転じて「宇宙の万物」を現わす。ここはその三者それぞれの全時空間の境界的上の差別化が生ずることを謂う。

「物と人と おのおの 其類(たぐひ)にしたがうて」ここではヒトとそれ以外の対象物(人以外の生物を総て含む)を二分化して、差別化することで「人」を上に挙げる。

「性分(せいぶん)」「新日本古典文学大系」版脚注は、『未詳。性質を異にし、それぞれの外形を与えられて、の意か』とされる。腑に落ちる。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」

「渠(かれ)」彼。

「氷(こほり)を聽〔きき〕て水を渡り 疑(うたがひ)を致す事」これは直ちに諏訪湖を渡る狐の話を私は想起する。私の『堀内元鎧「信濃奇談」 諏訪湖』「甲子夜話卷之三 23 諏訪湖幷同所七不思議の事」を見られたい。但し、これは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」にも、『「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所なり。其の名を「紫(し)と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合(あ)ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』と。』とあって中国でも古くから観察されている習性で、本邦でも広く各地の伝承に多く残されてもおり、また、「新日本古典文学大系」版脚注でも、『疑い深いことをいう成語の「狐疑」を説明する故事』とし、二例の水音を量って後に氷った川を渡るという習性をそうした広げた属性として理解しているケースを示してある。

「尾を擊(うつ)て 火を出〔いだ〕し」妖火の狐火は一説に狐同士が尾を打ち合わせて火を起こしたものともされ、尾の先に灯るともされる。私の「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」等、参照されたい。 

「大安(〔だい〕あん)は羅漢の地に奔(はし)り」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「大安」は唐代の僧。則天武后の寵用する読心術に長けた女性と対決し、その正体を狐と見破った(太平広記四四七・大安和尚)』とある。「太平広記」(北宋の太宗の勅命により李昉(りぼう)ら十二が九七七年から翌年にかけて編纂した類書。「太平御覧」・「文苑英華」・「冊府元亀」と合わせて「四大書」と称せられる。全五百巻・目録十巻)のそれは巻四百四十七の「狐一」の「大安和尚」で出典は「広異記」(唐代伝奇の一つ。戴孚 (たいふ) 著。八世紀後半(中唐)の成立。諸書に佚文として見られるのみ)で、以下が原文。訓読は自然勝手流。

   *

唐則天在位、有女人自稱聖菩薩。人心所在、女必知之。太后召入宮,前後所言皆驗、宮中敬事之。數月、謂爲眞菩薩。其後大安和尙入宮、太后問見女菩薩未。安曰、「菩薩何在。願一見之。」。敕令與之相見。和尙風神邈然。久之、大安曰、「汝善觀心、試觀我心安在。答曰、「師心在塔頭相輪邊鈴中。」。尋復問之。曰、「在兜率天彌勒宮中聽法。」。第三問之、「在非非想天。」。皆如其言。太后忻悅。大安因且置心于四果阿羅漢地、則不能知。大安呵曰、「我心始置阿羅漢之地、汝已不知。若置于菩薩諸佛之地、何由可料。」。女詞屈、變作牝狐、下階而走、不知所適。

   *

 唐の則天、在位のとき、女人有りて自から「聖菩薩(しやうぼさつ)」を稱す。人の心在り所、女、必ず、之れを知れり。太后、宮に召し入るに、前後に言ふ所、皆、驗(しる)し。宮中、之れを敬事す。數月にして、

「眞の菩薩たり。」と謂へり。

 其の後、大安和尙、入宮し、太后、問ひて、

「女菩薩を見しや未だしや。」

と。安曰はく、

「菩薩、何くにか在る。願はくは之れを一見せん。」

と。敕令して、之れと相ひ見(まみ)ゆ。

 和尙、風神邈然(ばくぜん)として[やぶちゃん注:あたかも風神の気骨をもって悠然と立ち向かふこと。]、之れ、久し。

 大安曰はく、

「汝、善(よ)く心を觀るとなり。試みに我が心の安(いづ)くに在るや、觀よ。」

と。答へて曰はく、

「師が心、塔頭相輪の邊りの鈴の中に在り。」

と。尋ねて、復た、之れを問ふに、曰はく、

「兜率天の彌勒の宮中に法を聽きて在り。」

と。第三に、之れを問ふに、

「非非想天に在り。」[やぶちゃん注:天上界における最高の天である有頂天の異名。非想非非想天とも。]

と。

 皆、其の言のごとし。太后、忻悅(きんえつ)す[やぶちゃん注:甚だ満足して喜んだ。]。

 大安、因りて、且に置心を四果阿羅漢地[やぶちゃん注:修行者の到達出来る最高地。]に置くに、則ち、知る能はず。

 大安、呵して曰はく、

「我、心、始めより阿羅漢の地に置けるに、汝、已だ知らず。若し、菩薩・諸佛の地に置(を)るとせば、何に由(ゆゑ)料(はか)れるべし。」

と。女、詞に屈し、牝狐(ひんこ)に變じ作(な)して、階(きざはし)を下りて走り、適(ゆ)く所を知らず。

   *

「百丈は因果の禪を詰(なじ)る」中唐の禅僧百丈懐海(えかい 七四九年~八一四年)。この話は私のすこぶる好きな話である。私の「無門關 二 百丈野狐」で原文・訓読・藪野狐禪現代語訳もある。そこでこの意味は判る。この場合の「詰(なじ)る」というのは、全問答の一つの手法で、「相手を問い詰めて責める」形を以って「煩悩・迷妄を破り、断ち切らせる」の意である。何なら、その「無門關」(全)サイト版もある。訳の面白さにかけては、ちょっと自信があるぜ!

「千年の恠(くわい)」千年の寿命を以って妖狐と化したもの。

「兩脚の譏(そしり)」冒頭で女に化ける際にそうした通り、二本足で立った狐のことであろう。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『腹黒い人を罵る語』とする。

「一夫の腹を双手の賜(たまもの)に破らしむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」は注せずにスルー、「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』。私も判らない。

「粤(こゝ)に」発語の辞。「ここに」「さて」の意。漢字は音(呉音「エチ」・「オチ」。漢音「エツ」)の仮借に過ぎない。

「軍戶(ぐんこ)」武家。

「命士」名立たる選ばれし精鋭の武士。

「腥穢(せいゑ)」なまぐさくてけがれていること。

「身を武佐の旅館によせて 愛を良家の寢席に興(おこ)さしむ」恐らくはこの妖狐は割竹小弥太が自分が狐であることを知っていることや、小弥太がその上で自分を利用して金儲けを目論んでいることも、実はお見通しだったのだと私は思う。しかも、それらを総て知ったうえで、知らんぷりをして、小弥太の宿屋では、心底、「身」を尽くしたのである。謂わば、自分がステージを上げて、より騙すに足る、恰好な傲慢な相手と接触を持つ機会を伺い、まさにそれに応えるように小弥太は彼女を高直で売り払い、さても彼女は遂に「愛」を口実として惑わし、悠々と精機を吸い取るに(それで妖狐のステージがいやさかに上がるわけだ)申し分のない単細胞男市令助の「愛」(=精気)をうまうまと手に入れた、というわけなのである。この構造は、妖狐譚としては、かなり特異的で非常に面白い

「綏々(すいすい)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『独行して配偶者を求める艶な様子。古来』、『狐についてよく言われる』とある。

「汝が名は紫々(しゝ)」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐の別名。中国で、紫という昔の淫婦が化して狐になったという』とある。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」を参照。

「式(もつ)て」(その名は)以って。

「恧(はぢ)」「恥」に同じ。

「首丘(しゆきう)は其本(もと)を忘れざる事をいふ」岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注に、『狐が死ぬ前にその首を元住んでいた丘の方へける意。「狐死、正丘首、仁也」(『礼記』)に拠る』とある。これは本邦の狐狸譚でも、しばしば言われる。彼らの死に当たっての礼節の表現なのである。

「虎威(こゐ)を假(かる)の奸(かたましき)こと」言わずもがな、漢文でよくやった、「戦国策」の「楚策」の「虎の威を借る(狐)」のこと。

「九尾」本邦の妖狐の女王九尾狐。中国の伝説に見える尻尾が九つに分かれた狐。本来は天下が太平になると出現するとされる祥瑞の一つであった。「古本竹書紀年」には、夏(か)の伯杼子(しょし)が東征して「狐の九尾なる」を得たといい、「山海経」の「海外東経」には、「青丘国にいる狐は九尾である」とあるように、東方の霊獣と考えられていたらしい。「白虎通」では、「九尾は子孫が殖えることを象徴する」と説明し、また「呉越春秋」には、「禹(う)は九尾狐を見て塗山氏の娘を娶った」とあるように、実は、意外な祥瑞観念の背後には、婚姻と子孫の多産などの生命力に関する狐信仰があったものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。岩波文庫「江戸怪談集(中)」脚注には、妖狐化してからについて、『天竺では斑足(はんそく)太子の塚の神、唐土では』西『周の幽王の后褒姒(ほうじ』:笑わなかったことで知られ、それが国を亡ぼす契機となったことで有名)、『または殷の紂王の妲妃(だっき)、日本に渡来して鳥羽院の寵姬玉藻前(たまものまえ)となって、院を悩ました妖狐は九つの尾を持っていたという伝説。那須で射殺されて殺生石となったとする』とある。ウィキの「九尾の狐」も参照されたい。それによれば、朝鮮やベトナムにもいたという。

「千載にも」長い年月を経ても。

「四殺(せつ)」「六害(りくがい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、孰れも『易の算木占いの盤を九つに区切った』中の『四区と六区の名称』とされ、ここでは『算を置きながら九図の名を呪文のように唱えたものか』と記されたあと、『ここでは霊力を備えたものの喩え』とする。

「此物どもを見るに、恠しき事、限りなし」前段の『此女の手より、人に遣はし與へたる物ども、取よせて見れば、「絹小袖」と見えしは、皆、芭蕉の葉、「白粉」といひしは、糠埃(ぬかほこり)也。「針」かとおもひしは、松の葉也けり』という変成実態を見てのことであろう。

「符(ふ)」強い妖物は死滅後もいろいろな災いを起すのでそれを封じるための護符であろう。

「丹砂(たんしや)」辰砂に同じ(中国の辰州で産する砂の意)。水銀の硫化鉱物。六方晶系で結晶片は鮮紅色でダイヤモンド光沢を持つ。多くは塊状又は土状で赤褐色。低温熱水鉱床中に産し、水銀の原料や朱色の顔料として古くから用いられている。有機水銀や水に易溶性の水銀化合物に比べ、水に難溶であることから毒性は低いと考えられており、現在でも鎮静薬・催眠薬として使用されている。

「蟹黃(かいわう)」カニ類の消化器官・卵巣を含む、所謂、「味噌」。漢方薬であるが、中文サイトを見てもかかってこない。やっと見つけたのは、「青空文庫」の齋藤茂吉の「念珠集」の「5 漆瘡」で、そこに漆瘡に『生蟹黄調塗』とあったとある。ぴんと来ないが、まあ、卵巣なら、精気の回復には向いてるってか?

「根本」漢方で謂うところの生命力の核心部分。]

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