芥川龍之介書簡抄48 / 大正四(一九一五)年書簡より(十四) 矢羽真弓宛(当時の田端駅が現在位置にはなかったことが判る自宅の案内図附き)
大正四(一九一五)年九月二十一日・田端発信・矢羽眞弓宛
勿論いゝ加減な地圖です動坂からなら←[やぶちゃん注:上向き矢印。]の通りにお出でになるのが一番近い筈です私自身は先輩の所へ行くと氣がつまつていやですからあなたもさうぢやあないかと思つて心配してゐますそれさへなければ遊びに來て下さい
廿一日夜 芥川龍之介
矢羽眞弓樣梧下
[やぶちゃん注:本書簡は既に述べた田端駅が現在地になかったことを示す芥川家への詳細な地図が載るので採った(再度、「今昔マップ」の大正後期の比較地図を掲げておく)。龍之介の自筆の地図のキャプションは、中央に、
「僕の家」(旧宅跡はここ。グーグル・マップ・データ(以下同じ))
とあり、その右手奥(南東方向)に、
「白梅園」(龍之介が三年後に結婚式(内祝言。よく出る近くの天然自笑軒は披露宴が行われた場所)を挙げた料亭。大正二年に泉鏡花の「紅玉」が野外劇として上演された(既出既注)のもここ)
とあり、その下方に、
「交番」・「そばや」(蕎麦屋)・「肴屋」(魚屋)
とあり、その「肴屋」の右手のは、
「薬屋」
で、その「肴屋」の左手に、
「小料理屋」
とある。左下方は、
「廣瀨先生」(既出既注の三中の恩師(当時の近々に転居してきたもの)の家)
「瀧の川小学校」(瀧野川小学校。ここに現存するが、ここで龍之介が指示するのは、位置的に見て、同小学校の田端分教場だったのではないかとも思われ、後に同小学校から分割されて滝野川東高等小学校となり、それが現在の北区立田端中学校となっているもののように私は推理した)
で、右下方は、
「至動坂」(「至る動坂」の意。「動坂」はここ)
河川名と橋名は、
「音無川」(石神井(しゃくじい)用水のこの附近での別名。現在は下水道となって完全に暗渠化している)
「谷田橋」(交差点名として残る)
である。而して、上部(西方向になる)の左手から、
「新ステ」(ー)「シヨン駅」
「旧ステーシヨン駅」
とあるのが判る。
「矢羽眞弓」(明治二九(一八九六)年~昭和五八(一九八三)年)は長野生まれ。後に瀧澤姓に改姓。三中及び一高の龍之介の四年後輩で、後に東京帝大建築科を卒業し、数件の建築をしたが(現存建築は皆無)、後は建築学者として教職者となった。神戸高等工業学校教授。]
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