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2021/04/15

ブログ・アクセス1,520,000アクセス突破記念 梅崎春生 ある顚末

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十月号『文芸』初出。翌昭和二十三年二月思索社刊の作品集「日の果て」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。一部、文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日の初更に1,520,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021415日 藪野直史】]

 

 あ る 顚 末

 

 彼は先刻ついでに買い求めて来た風邪マスクを顔にかけ、そして立ち上って背広の上に釣鐘マントを羽織った。マントは今日同僚の家を訪ねて借りて来たものである。母親が急病で北海道まで帰るからと嘘(うそ)をついて、それと共にスキイ帽まで借用して来たのだった。スキイ帽はかなり古びていて、縁についた兎の皮は白っぽく汚れていた。彼は壁からそれを取りおろして目深に冠った。机の上に斜に立てた卓鏡に彼の頰がぼんやり映った。彼は一寸身体を構えて、暫(しばら)くの間鏡面に眼を据(す)えていた。風邪マスクはおそろしく大型で、手術する時お医者さまがつけるような、頰も唇も鼻も一緒におおってしまう式のものだった。だから目深な廂とマスクのために顔はほとんど隠されて、彼が鏡で見ているのは自分の眼だけであった。眼のいろは暗く、その癖きらきら光っていた。彼はそれに視線を固定させたまま、此のたくらみが実は残酷で野卑な所業であることを、膜を隔てたようにうすうすと感じ始めていた。

 突然脅(おび)えたように彼は顔を動かした。境の唐紙(からかみ)が幽(かす)かに鳴ったからである。マスクを素早くむしり取って、身体をそちらに構えた。音はそれ切りで止んだ。マントをずり落しながら彼は忍び足で唐紙に近づいた。そして指をかけて音のしないように少し開(あ)けた。

 細長い四畳の部屋には薄暗い電燈がぼんやり点(とも)っていて、部屋のすみに積み上げた蒲団に背をもたせ、老婆がうとうとと居眠りをしていた。老婆の重みが唐紙にかかったものらしかった。彼の気配で老婆はふと眼をひらいた。まぶしげな顔で彼を見たが、直ぐ何時もの愛想笑いが皺(しわ)になって彼女の頰に浮び上って来た。

「ついうとうとしちまって」老婆は弁解するように呟(つぶや)いた。そして背を起して坐りなおした。「いいあんばいに今夜は暖くてねえ」

「いや別に用事はなかったんだよ」彼は老婆が座蒲団を動かそうとするのに、少しあわてて掌を振った。「一寸出掛けようと思ったんでね」

 此の薄暗い部屋には、蒲団と炊事道具と壁にかかった二三枚の着物だけしか無かった。着物は赤い裾裏を見せてだらりとぶら下っていた。彼の視線は二三度そこに走った。

「で、泉(せん)さんも留守なんだね」

 彼はふと苦しそうな声でそう訊ねた。泉が留守なことは、彼は先刻からはっきり知っていたのである。老婆の浮べた愛想笑いに、光線の加減かへんに狡猾な影が走ったようだった。心を見抜かれたように彼はすこし赧(あか)くなった。老婆がぼんやりした声で答えた。

「ほんとに、あの子も貴方さまにも失礼ばかり申し上げて、昔から聞かない子でござんしてな、内地に帰ってからというものは、ほんとに片意地なふるまいばかりで」

 今朝起きぬけに聞いた泉の尖った声を彼は想い出していた。それは老婆をなじる声音だったが、隣室の彼をはばかってか低く押殺した調子であった。老婆はそれに二言三言抗弁した。抗弁というより哀願するような口調だった。顔を枕につけたまま彼はその会話を聞いていた。老婆は電気按摩器を買って呉れといっているのだった。そこの露店で売っていて、売子が老婆の背中に試みて呉れたがそれがほんとに具合が良かったという話だった。泉の声が少し荒くなると老婆の声はぽつんと消えて、暫(しばら)くして寝返りを打って黙り込んだ気配であった。此の老婆は何故聞きわけのない子供のように寝覚めに物をほしがるのだろう。二三日前は洗濯盥(たらい)だった。その前はラジオに衣裳簞笥(たんす)だった。

「食べるものにも事欠いているのに、そんなもの買えるわけないじゃないの」

 洗濯盥をほしがった朝は老婆は何時になく頑強であった。小さなバケツでは洗濯し切れないというのである。着物など丸洗いする時は少しずつ漬けて、部分部分を揉み洗うから、老婆の力ではうっかりすると二三時間も一枚にかかるのだった。いくら貧乏しても盥ぐらい買えない筈はないというのが老婆の言い分であった。

 だから昨日彼が紙幣を包んで泉に渡そうとしたのは、これで盥を買うように、というつもりであった。しかし彼は黙ってそれを差出した。上げるとも貸すのだとも言わなかった。それはどちらでも彼にはよかった。泉が受取って呉れさえすれば良かった。それが紙幣であることを知った時、泉は突然硬い顔になってそれを押返そうとした。

「こんなもの頂けません」

 包みを渡そうとする手と押戻そうとする手がもつれて、泉が立ち上ろうとした時、泉の掌がはずみで彼の頰に触れたのだ。それは平手打のような音を立てた。金包みは掌から離れて畳の上に落ちた。彼は始めて真蒼な顔になった。泉は立ち上ったまま、いじめられた幼児のような切ない表情をたたえて彼を見おろしていた。そして絞り出すように叫んだのだ。

「それは侮辱というものよ。ほんとに侮辱というものよ」

 打たれた部分が熱くなって来るのを感じながら、彼はじっとその言葉に堪えていた。老婆が泉の片意地なふるまいと言ったのは、具体的にはこれを指しているに違いなかった。その時老婆はびっくりしたような顔でその争いを見ていたのだった。――

 薄笑いを浮べた老婆の顔に、では頼みます、と低く言い残して彼は再び音を立てないように唐紙をしめた。自分の部屋の風景がまた彼に戻って来た。畳にすべり落ちていたマントを拾い上げながら、彼はも一度部屋の中を見廻した。低い机が一脚と座蒲団と、洗濯した靴下をかけた衣桁(いこう)、此の部屋に見えるものはそれだけだった。壁にかかった古い星座表の真下の部分が白くなっているのは、本箱のあった跡だった。彼はそれを中身もろとも、一週間ほど前に売飛ばしていたのだった。泉に渡そうとしたのもそれの一部分であった。

 彼はマントを背にかけ、釦(ボタン)をひとつひとつとめた。修道僧が着るような長いマントで、裾は足首の近くまで垂れていた。スキイ帽を先刻から冠ったままであることに、彼はその時気付いた。老婆がへんな薄笑いを浮べていたのも、部屋の中でこんなものを冠っている彼をおかしく思ったのかも知れなかった。ふとそんなことを考えながら、彼は机の上から此の間の金包みを拾い上げ、丸めてマスクと一緒に、マントをはねて上衣のポケットに収めた。鏡の中に再び彼の顔が映った。彼は瞬間それに視線を止めた。そして呟いた。

「――囚人みたいな眼をしている」

 眼は少し血走っていて、顔を鏡に近づけると、白眼の部分に糸蚯蚓(みみず)のように走る細い血管がはっきり見えた。眼球は茶色に透っていて、電球の形が小さく映っていた。彼は手を伸ばして鏡をパタリと倒した。

 へんに荒々しい精気が身内にあふれていたにも拘(かかわ)らず、彼の気分はむしろ沈欝に折れ曲っていた。机の上に残っていた配給の焼酎の残りをコップにうつすと、彼は静かにそれをあおった。匂いのある熱い液体が咽喉(のど)を焼いて、そのまま拡がるように胃の方におちて行った。庭に出る縁側から彼は靴をつけて地面に降りた。ぼこぼこした土を踏んで表の方に廻ろうとすると、井戸端に泉の小さなバケツが置いてあって、中には布片が黒く沈んでいるのだった。月の光が水の中にも射していた。手押ポンプの木の台に、真中の部分が凹型に磨(す)り減った洗濯石鹸が置き忘れられていた。地面に溜った水たまりに靴を入れないように注意しながら、そこを廻り抜けると門をくぐって露地に出た。長い片側塀に沿って二三度折れ曲り、彼は明るい広い道に出た。生ぬるい夜風の中を、彼は顔を上げてまっすぐ駅の方にすすんで行った。

 街の両側には明るい店舗が並んでいて、人通りも可成り多かった。月は出ていたが、西の空に黒い雲がひろがるらしく、風はなまぬるく湿気を帯びていた。どの店舗にも二三人お客が入っていて、品物を眺めたり金を渡したりしていた。ラジオ屋からは音楽が街に流れ出ていた。彼が耳にとめたのは女声合唱のアンニイロウリイの終末の旋律であった。すぐそれは終ってアナウンサーの声がし、にぎやかな別の歌が始まった。彼は顔を上げたまま、急ぎ足で舗道を歩いた。靴の踵(かかと)の触れる音がカツカツと身体に響いて来た。

(あんな店に入って食事をするのは、どういう人達だろう?)

 戦争が終ってから出来た二階建の支那料理屋で、内部は八分通り客が詰って莨(たばこ)を喫ったり食事をしたりしていた。白い服を着た給仕人が調子をつけたような歩き方で皿を運ぶのも眺められた。

(こんな場所ではこんなに沢山紙幣がやりとりされているのに、何故自分たちの方には廻って来ないのだろう?)

 彼は突然、それは侮辱というものだ、と叫んだ泉の語調を鋭く思い出していた。その時泉の顔は歪(ゆが)んで今にも泣き出しそうだったが、眼だけはぎらぎらと獣のようにひかっていたのであった。憎しみに満ちたその瞳を、彼は血の気を失った顔で受止めていたのだ。

(金を融通しようとするのが、何故侮辱ということになるのか?)

 見ず知らずの男からも金を受取っているのではないかと思うと、急に不快な濁った焦噪が胸いっぱい拡がって来るのを感じながら、彼は急ぎ足で中華飯店や麻雀荘や果物屋の前を通り抜けた。釦をとめてあるので、マントの裾だけが変な形に風にふくらんだ。道の果てる処に省線の駅の燈が見えた。彼はそれに向ってまっすぐ進んで行った。

 灰色の駅の建物に彼は入って行った。まだお客が出入りしたり黒い制服の駅員が動いたりしているのに、荷受台の下にはもはや浮浪児が二人抱き合って寝込んでいたりするのだった。駅の時計は八時三分前を指していた。彼は窓口の人造石の台に金を出しながら、小さな声で或る駅名を言った。そして切符とつり銭を受取った。白い小貨幣が石の台にふれてカチカチ鳴った。

 それは十日程前、泉がそこの陸橋に居るのを彼が見た、その駅の名であった。それは此処から電車で二十分位かかる小さな駅だった。彼は役所の所用で、その方面に行き、そして遅くなったのだった。はじめ彼が泉を見つけたのは遠くからだった。少くとも車道ひとつをななめに隔てていた。泉は向う側の歩道の、燈をちょっと避けた場所にぼんやり立っていたのである。彼はふと眼を疑ったが、それは首にかけたショールの色で泉に紛れもなかった。黒い生地に暗赤色の花模様が浮き出たものであった。彼はゆっくり陸橋を渡り終えると、突然立ち止った。そして外套の襟を立て、反対側のたもとに背をもたせ、悟られないようにちらちら横目で泉のいる方を眺め始めた。何故泉がこんなところに立っているのか。ある予感のために彼の胸はすでにしめつけられていたのだ。この予感が当らないようにと、彼は心の中で何度も繰り返しながら、もし泉が何でもなくあそこに立っているものとしたら、俺はこの予感を持ったということだけであの女を侮辱した事になる、と彼はまた考えた。そう思うと急に甘い切なさが彼の胸にのぼって来た。しかし泉があそこに立っているとしても、俺までが何のために物蔭にひそんでそれを監視しようとするのか。そんな思いが胸をかすめるのを感じながら、それでも彼は頑固にそこから離れないでいた。そして彼は引下げた帽子の廂(ひさし)から、燃えるような眼で時々小さな泉の姿を眺めた。泉はショールがなびくのを気にしながら、時々不安そうに位置を換えた。陸橋の下から吹上げて来る風は冷たくて、やがて彼の足尖(あしさき)から背筋まで鈍痛を伴った冷感がひろがって来た。陸橋の下を電車が通り、歩廊の前に軋(きし)みながら止ると、暫くして階段をのぼって来た降客が次々に改札口から流れ出て、駅の前で四方に散って行った。それでも泉はぼんやり佇っていた。何か終末を見届けようとするための不安が、しきりに彼の心をおびやかしていたが、彼もまたじっと背をもたせ、そしてしんしんと長い時間が経った。電車のつくのが段々間遠になり、降りる客も次第にまばらになって行った。改札に立っている駅員が鋏をかちゃかちゃ鳴らしながら、勤め終えて帰り仕度した同僚とふざけているのが、彼の眼に小さく見えた。それは非常に平和な情景に見えた。彼の心にさむざむと喰入った想念から、へんに遠くかけ隔たっていた。彼は何となく舌を鳴らして唾をはいた。そして彼がも一度顔を泉のいる方に向けたその時、彼は全身の血がひとつに凝集したような衝動を受けて立ちすくんだ。

 泉が男と話していたのだ。彼の眼には男の幅広い後姿が見えた。薄色の春外套を着たその姿は、たしかにちょっと前改札口を抜げて来た降客の一人に違いなかった。泉の姿はそのかげにかくれていて、ショールの端だけがちらと見えた。それは極く短い時間だった。ふっと泉が先に立って歩き出すと、男の身体があわてたようにそれに続いた。二人の姿はもつれながら陸橋をむこうに渡り、そして線路の崖の上に沿った道に折れた。

 そこまで見届けた時、彼は背を冷たい橋欄から離して歩き出した。彼は駅の建物の方には行かず、ぼんやり彼等が消えた方に陸橋を渡ろうとしていたのだ。しかし彼は突然せき止められたように立ち止った。

(俺はあとをつけようとまでする積りなのか?)

 彼は歩道と車道の間に立ちすくんだまま、そう考えた。ひややかな戦慄がその時彼の背筋を奔(はし)り抜けた。あとをつけずともすべては明白な筈だった。彼が此処で監視していたのが既に一時間に近かったから、泉はその前の時間を加算すると、相当長い間立っていたことになるのだ。人と待合せるのに、こんな寒いのに、一時間以上も待っている筈がない。彼は凝然とそんな事を考えた。それはあの肩幅の広い男が行きずりの男であるに違いないということだった。

 暫くして彼はゆっくり車道を横切り、さっき泉の佇っていた場所に来た。手すりに掌をのせると、ひやりと冷たかった。彼はそして身体をのりだして線路の谷間を見下した。幾条ものレエルがキラキラ光りながら走っていた。歩廊の側は明るかったが、反対側は暗い崖になっていて、その上の道を彼等が歩いて行った筈だった。そこらあたりに燈が見えないところを見ると焼跡に違いなく、暗い空には星がいくつも光っていた。何か荒涼たるものが次第に彼を満たし始めていたのである。明るい駅の歩廊に電車を待つ人が思い思いの姿勢で動いたり立ち止ったりしていた。皆暖かそうな服装をしているようであった。そして暗い崖の上ではどんなことが起っているのか。手袋をつけていない掌に、しんしんと冷たさが沁み入って来るのを堪えながら、彼はしばらく暗い崖の上を見詰めていた。やがて彼の顔は土偶のように血の気を失い始めて来た。……

 

 改札を通る時歩廊に電車は入ってした。マントの裾が脚にからまるので急げないうちにベルが鳴って、彼が歩廊に来た時は扉がしまったばかりのところだった。電車は彼一人を残して静かに動き出した。

 それからいくらも待たないうちに、また次の電車が入って来た。今度のはかなり空いていたけれども、彼は腰掛には掛けず柱のところに立った。動き出して歩廊を拔けると、扉の外は闇となり、扉の硝子は暗く鏡のように車内を映し出した。彼は白いエナメル塗(ぬり)の支柱を握って立っている自分の姿をその硝子鏡の中に認めた。硝子の中の彼はスキイ帽をまぶかに乗せ、大きなマントをゆったりとまとっていた。彼は暗い笑いを頰に走らせた。

(これでマスクを掛けたら、泉には俺だということが判らないだろう!)

 出がけにあおった一杯の焼酎が、今ほのぼのと廻って未るらしく、兇暴な欲念がともすれば腹の底から湧き上って来るようであった。彼はひそかにそれを押殺しながら、硝子扉の中の自像に見入っていた。マントはだらりと垂れてほとんど足首までおおっていた。あいつは大男だからな、彼はぼんやり呟いた。今日会った同僚のことを彼は考えていたのだった。その同僚は畳んだマントの上に兎の皮のついたスキイ帽をのせ、彼の方に押しやりながらこんなことを聞いた。

「で、病気の方はもう良いのかね」

 もう大丈夫なんだと彼は答えた。あの日陸橋の上で長いこと立っていたからそれで風邪を引いたらしく、彼はずっと欠勤をつづけていたのである。同僚は更に重ねて言った。

「北海道に帰るのも良いが、出来るだけ早く戻って来るが良いよ」

「何故?」

「行政整理があるらしいのだ」

 此の男は彼と同じく都庁につとめていた。

「行政整理って、そんな事が出来るのか。組合があるんだからそんな一方的なことは出来ないだろう」

「ところが財政がおそろしく詰っているらしいんでね」

 同僚はそこでいろいろ説明をして、結局組合もそれを承認するだろうということを付け加えた。彼はそれを聞きながら次第に不安になって行った。

「それで具体的に言うと、どんな連中が整理されるんだね」

「そりや先ず出勤などの成績が良くないものが先になるだろうな。任意に辞表を出させる形にしてしまうのさ」

「出さねばどうなるんだね」

「それはどうなるだろう。僕は知らん。しかしその時出せば退職金がぐんと多くなるのだ。あとで整理されるより得になるように出来てるんだ」

「そいつに皆、ひっかかるんだな」と彼はその時厭な顔をして呟いた。今年に入ってからも彼は口実をつけて何や彼やと休暇ばかり瑕っていた。こんなことが整理に影響するに違いなかった。今度の風邪にしても本当は始め二日ほど寝ただけで、あとはごろごろ寝たり起きたりして暮していた。役所のことが気懸りでないことはなかったが、どうにも出勤する意力が湧いて来なかったのである。食物のせいか身体が変にだるいからでもあったが、陸橋の上で見たあの光景が少からず影響をあたえていることも彼には否定出来なかった。あの夜泉は十二時頃戻って来たのだ。土を踏む幽かな跫音(あしおと)がして玄関をそっとあける音がつづいたのを、まだ眼を覚ましていた彼ははっきり聞いたのだった。寝床の中で彼は全身を緊張させて、泉の気配を感じ取っていた。隣室でそっと床をのべる衣ずれの音がして泉はかるいせきをした。そして床にすべり込んだらしかった。そのせきの音が妙に泉の肉体を歴然と感じさせた。彼は嫉妬に似たものがありありと胸中に燃え出すのを感じながら、寝床の中の泉の白い肉体を思い浮べていた。今まではそういう想像が湧いて来ると、彼は強いてそれを打消していたのだったが。……

 泉たちが隣室に入って来て、もう半年近くなるのであった。それまでは此の六畳と四畳という二部屋の変な造りの家を、彼ひとりで占領していたのだ。家主の話では、泉たちは家主の遠縁にあたるということだった。だから彼も一部屋さく気になったのだった。あとで泉に聞くと、親類でも何でもなく、此の部屋に入るために家主に沢山の権利金を払ったという話であった。大陸から引揚げて来たばかりで、泉は髪を切って総髪にしていたが、それがかえって女らしい効果を上げているように彼には思えた。眼が大きく濡れた感じで、ちょっと映画女優のマアゴという女に似た顔立ちをしていると彼は思った。老婆と弟と三人で引揚げて来たのだが、弟は船の中で病死して、その水葬礼の話を泉は彼にして聞かせた。それは弟を思う純粋な気持にあふれていて、彼は思わず感動した。キヤンパスに包んだ屍体が青い海に沈められようとする時、老婆が惑乱して手すりを越えようとして、船員たちが背中からしっかり抱きかかえていなければならなかったことなどを、泉は少し亢奮(こうふん)した口調で彼に話して聞かせていた。[やぶちゃん注:「映画女優のマアゴ」メキシコ生まれのアメリカの女優マーゴ(Margo 一九一七年~一九八五年:本名はマリア・マルゲリタ・グアダルーペ・テレサ・エステラ・ブラド・カスティーリャ・オドネル(María Marguerita Guadalupe Teresa Estela Bolado Castilla y O'Donnell)。代表作で私が見たことがあるのはフランク・キャプラ(Frank Russell Capra)監督作品の空想冒険映画「失はれた地平線」(Lost Horizon :一九三七年)。ハリウッドの「赤狩り」で苦しめられた。当該ウィキを読まれたい。]

「お婆さんはそれからがっくり、歳を取んなすったのよ」

 大陸ではどんな暮しをしていたのか知らないが、持って来た荷物もほとんど無く、男手の弟が病死したとあっては、たちまち生活に困るのは目に見えていた。しかし泉たちは内地にたどりついたということだけで、その時は満足しているように見えた。それから唐紙ひとつ隔てて二つの生活が始まった。彼も縁側から出入するようにしたし、泉たちも唐紙をみだりに開くことなどはなく、ひっそり暮している風だった。そして半年近く経ったのだ。――

 電車がガタンととまって、彼の姿をうつした硝子扉が軋(きし)みながら開いた。身をひるがえして彼は扉の外に出た。長い歩廊にはなまぬるい風が吹いていた。彼は階段の方に歩きながら、ぼんやりと斜を見上げた。そこには陸橋が黒々とかかっているのだった。橋梁(きょうりょう)の下は暗く沈んでいたが、陸橋の上にはちらほら人や自転車が通るのが小さく見えた。泉はいないかも知れない。そんな疑念がふとその時彼の心に浮んでいた。彼女は今日黄昏(たそがれ)時に家を出て行ったのである。彼は階段を一歩一歩登りながら、ポケットからマスクを取出し、それでいそいで顔をおおった。そしてスキイ帽の廂(ひさし)をぐいと引下げた。マスクを出す時彼はポケットの中の、あの金包みにもふと触れていたのだ。

(あの時泉は、俺の顔を意識して打ったのか?)

 どんな表情をして自分があの金包みを差出したかを考えると、彼は思わずマスクの中で、后を嚙んだ。あの日以来思い出すたびに自己嫌悪に陥るのは、泉から頰を打たれたということではなくて、すべてその一点にかかっているのだった。盥(たらい)を買うように、と思って差出したけれど、それは自分の心への言訳にすぎなくて、泉が見抜いたのは彼の表情にぎらぎら露呈していた欲望であるのかも知れなかった。それは侮辱だと泉が叫んだのも、金を出そうとした彼の心をそんな風に受取ったからに違いなかった。それを思う度に何ものへとも知れぬ痛烈な憤怒が、彼の心をしたたか衝き上げて来るのであった。今夜の此の野卑で残酷なたくらみも、その底に此の気持を根深くひそめていることを、彼は始めからはっきりと意識していたのである。しかし此の卑しい所業が今度首尾よく完了したところで、自分も泉も今よりは一層惨めになるだけの話で、二人とも決して幸福になる筈がないことを考えると、背骨が冷たくなるような深い絶望感が、ふと彼を摑んで来るのだった。

 階段を登り切ると彼はマスクの中で青ざめたまま、切符を若い駅員に渡して改札を通り抜けた。そこの売店を曲ったところから陸橋が始まるのである。マントの裾を身体を曲げてはばたくと、彼はまっすぐ立って陸橋の歩道をあるき出した。さっき部屋にいた時のあらあらしい精気が、その時再び身内によみがえって来た。十五米おき位に燈が点っていて、歩いて行く彼の顔は暗い隈をつくったり又ぼうと明るみに浮んだりした。彼はするどく気を配りながら、一歩一歩すすんで行った。三分の二を渡り終えても彼は泉の姿を認めなかったのだ。あとの三分の一はしらじらと風が吹きぬけていて、人影はひとつも見当らなかった。彼は身体全体がふくれ上って来るような妙な衝動に襲われながら、それでも歩調をみださず、橋を渡り終えた。たもとの影にも誰もいなかったのだ。彼はそこで愕然としたように立ち止った。そして湧き上って来るはげしいものを押潰して呟いた。

「これは一体どうした事だろう」

 頭の内側に弾(はじ)け散る火花みたいなものを感じながら、暫(しばら)く彼は首を廻して暗い崖沿いの道を見詰めていた。突然ある言いようのない汚辱感が彼の胸にひろがって来たのである。此の場末の駅の陸橋に、借物の帽子とマントをまとい大きなマスクをかけてやって来た自分の姿が、それも只みにくい交尾慾のためはるばるやって来た自分のあり方が、我慢出来ない醜悪なものとして彼の意識に鋭く折れ込んで来たのだった。彼は微かな呻きを洩(も)らしながら短い間をそれに堪え、そして靴を鳴らして廻れ右をした。靴は舗石にすれてギシギシと厭な音を立てた。そして今来た道を戻り出した。夜風が頰をかすめた。

 半分も渡らない時、彼はふと反対側の歩道のたもとに、見覚えあるショールが風をはらんでなびいたのを視野の端にとらえて、ぎくりとして立ち止った。立ち止ったのは瞬間だけで、彼は直ぐぎごちない足どりを踏み出していた。それはあの夜彼がひそんでいたあたりであった。彼は顔をまっすぐ立てたまま、眼だけを最大限に横に廻して進んで行った。泉はあそこにいたのだ。何気ない風(ふう)に手すりにより、ぼんやり線路の谷間を見おろしている風であった。彼は動悸が高まって来るのを意識に入れながら、そして陸橋を渡り終えた。もはや先刻の汚辱感が、次第に他のものと交替して行こうとするのを、嘔(は)きたいような抵抗と一緒に感じ取りながら、彼は明るい売店の前に立ち止って顔を硬ばらせたまま、並べてある雑誌などに暫く無意味な眼を走らせていた。

(此のまま電車に乗って戻ってしまおうか)

 彼は胸の奥を吟味するようにそんなことを考えた。しかしその考えは唇の先だけで果敢なく消えた。彼はマスクの上の眼を急にたけだけしく光らせながら、泉のいる方向にゆっくりむき直った。泉の姿は先刻の位置からやや移動していた。淡い燈の光が斜に彼女の頬を照らし出していた。泉は掌を上げてほつれ毛を整えるような仕草を二三度くり返した。彼はマントの中で手を組合せると、あらあらしい動作で歩道に戻り、両側に注意するふりを装いながら車道を一気に通り抜けた。そしてふと顔を背(そむ)けて泉の側(そば)に立ち止った。腕をマントの間から出して、予定していたような動作で軽く泉の肩にふれた。

 泉はぎょっとしたように肩を引いたが、ふと彼を見た瞳が大きく濡れたように輝いて、直ぐ低い声で早口にささやいた。

「こっちよ」

 粟立つような緊迫の中で、彼はその声をはっきり捕えていた。

 泉は肩をふってショールを引上げると、そのまま小刻みな足どりで歩き出した。彼も黙ってそれに続いた。泉の髪の匂いが幽(かす)かにただよった。それは泉の部屋の匂いと同じものだった。彼は老婆ひとりがいるあの四畳間を、突然頭によみがえらせていた。泉は外套を着ていなくて、赤い毛糸の上衣だけだった。そして脚は素足だった。白いふくら脛が光をかげらせながら小刻みに動いた。ある生理的な予感が歪んだ形のまま幽かに高まって来るのを感じながら、彼はマントの釦(ぼたん)を内側からひとつ外していた。夜の塵を集めて風が走るらしく、舗石にかさかさと鳴った。

 陸橋のたもとから直角に折れると、暗い瓦礫(がれき)の散らばった凸凹道になるらしかった。千切れた黒雲の断(き)れ目から、月の光は青く落ちるのだが、道は凸凹のまま少しずつ登り坂になるらしい。泉に遅れまいと道を歩き悩みながら、彼はちらちらと眼の下の線路を隔てた歩廊に視線をおとしていた。歩廊に佇(た)つ人々は此の前見たと同じようにおだやかな形で電車を待っているのだが、此の暗い坂路をのぼる彼の今の眼には、何故かそれがおそろしく無感動な重圧となってのしかかって来るように見えるのであった。それに堪えながら、彼は瞼をあげた。ここらはずっと焼跡らしく、やがて目慣れて来た彼の視野に、瓦礫の暗みからそこだけ残った白い門柱や立ち枯れた樹々の形がぼんやり浮び上って来た。先に立った泉の後姿がほっと肩を落すと、一寸佇ちどまって彼を待ち、いきなり彼の脇に身を寄せて来た。

「風邪でもひいたの?」

 それは柔かく屈折した声だった。すべてをあずけたように身体をもたせて来て、そのまま歩調がゆるんで来た。彼はマントをはねて右手で泉の身体を半分抱きながら、その安心し切ったような泉の肉体のゆるみに、ふと激しい嫉妬がのぼって来るのを意識した。彼が黙っていると泉は首を廻して彼の顔を見上げた。

「だって、そんなマスクをかけているからさ」

 投げやりな調子だったけれども、顔は何か戸惑った表情だった。彼は次第に指先に力をこめながら、此の肉体が今日の昼間、隔絶された存在として彼の身辺にあった事を考えていた。泉が今身体の重みを彼にあずけるのも、彼を見知らぬ男と信じているからこそだと思うと、彼は二重にも三重にも錯綜(さくそう)した不思議な感情がはげしくひろがって来るのを感じてレた。しかしその情感は何か不倫の臭いを伴っていて、それが暗く歪んだまま彼の欲望をそそるらしかった。破局的な予感に脅えて、彼はその瞬間背筋をぶるっと慄わせた。泉は急に身体をはなして、危いわよ、とささやいた。道が尽きてこわれた石の階段になっていたのである。

 階段の両脇には四角な混凝土(コンクリート)の門柱が立残っていて、細長い白いエナメル塗りの門標がはめこんであるのを彼は見た。階段を登るとひろびろとした廃址(はいし)の感じは、此処はたしかに学校の跡にちがいなかった。崖に沿って茂みがつづき、やがてそれが断(き)れた処に奇蹟のようになだらかに凹んだ場所があって、泉はそこに入って行った。そして泉はぎごちなくそこにすわった。月の光は此処にも静かに落ちていた。彼は凹地の縁に立って、黙って泉を見下していた。彼は泉の顔に、ある苦痛のいろが漲(みなぎ)って居るのを見ていたのである。泉はやがて力尽きたように仰向けに上半身をたおした。彼はそれに視線を据え、悔恨に似た痛切なものをひとつひとつ潰しながら、静かにマントの釦をゆるめ始めていた。

 時間がしゅんしゅんと流れた。

 泡立った擾乱(じょうらん)が彼の意識をひたし始めていた。さまざまの想念や記億が千切れ雲のように彼の頭をよぎった。彼は泉の肉体に、感覚の全体を集中しようと努力しながら、それを邪魔する黒い影のようなものをひしひしと感じていた。それが何であるのか判らなかったが、それは冷たく確実に彼の背をおびやかしていた。彼はそれから逃れる為に、意識をぼんやりした一つの流れに乗せようとした。彼は過去に眺めた泉の影像を思い浮べた。弟の水葬礼を物語る泉の表象が、その時浮び上って来た。それを聞いた時の感動が匂いを伴うようにしてよみがえって来た。

(俺は何時から泉にある感情を持ち始めたのだろう)

 それは彼の記憶になかった。極めて徐々に確実にその感情は彼の意識下にはぐくまれていたらしかった。あの夜薄色の春外套を着た男の後姿を見た瞬間、それは嫉妬という形ではっきり彼の心に浮んで来たのだった。泉の不幸を実体として目撃した一瞬が、彼が愛情と自認するものの起点になっていた。そこに何か錯乱があるらしかった。意識下にひそんでいた泉への愛情と、不幸の形式への彼の傾倒が、何か乱れた交叉をつづけていて、彼は静かに身体を動かしながら、突然今日の同僚のことを思い出した。

(あの時の不安が尾を引いているんだな?)

 同僚の口ぶりは何気ないようでいて、どこか故意に彼をおびやかす調べを帯びていたのだ。まだ一度も欠勤した事のないという血色の良い同僚の顔には、絶えず冷たい薄笑いが浮びつづいていたのだった。暗い坂路をのぼる時歩廊を眺めおろしたあの漠然たる畏怖も、今彼の胸の中でそこに結びついていた。世俗の軌道から正に外(はず)れかかろうとしている自分が、何故泉の不幸を自ら確めようとして、マントやマスクを用意したのか。今夜のことは俺が案出した陰惨な遊びに過ぎなかったのではないか、という荒涼とした思いが突然彼の胸をいっぱい満たしてきた。彼はにがいものを口の中に感じながら、大きく瞼を見開いて泉の顔貌を真下に見詰めた。泉は眼を閉じて、薄い眉根を寄せていた。それは明かに陶酔の表情ではなかった。何かを堪え忍ぶ表情だった。月の光の中で、泉の顔は暗く歪んでふと別人に見えた。泉はその時うすく眼をひらいて彼を見た。疑惑がふと眼の中に浮んだようだった。彼はあの何物へとも知れぬ憤怒が俄(にわか)に再び胸を貫くのを感じながら、清らかなものがすべて死滅したことをその瞬間ありありと知覚した。

(泉への愛情を俺が抱いていたとしても、それはマスクを買求めた瞬間で終ってしまったのだ!)

 風がそうそうと茂みをゆるがせていた。凹地の中からはもはや柔かい若草の匂いが立っていたけれども、地面は冷たく湿気を帯びていた。崖の下の線路の遠くから、貨物列車の音らしい鈍重な響きが、幽かに空気をゆるがせて伝わって来た。それは幽かに幽かにゆっくりと、そして次第に力を増しながら調子を早めて、空気と地面をゆるがせて彼の身体に伝わって来た。彼はその時彼の感覚がひとつの流れにのって、ようやくある陶酔の座に入って行くのを自覚した。若草の匂いにまじって、茴香(ういきょう)に似た甘い体臭が大気にひろがった。貨車の響きは段々早く、段々音律を強めて近付いて来る。それは極めて徐々に。徐々に力強く。そそるような甘美な響きとなり、そして顔を反らした彼の表情に、貨物列車の前燈が血のように赤い光茫を突然投げかけた。その光茫は段々強ぐなる。タンタンタンと響く格調が、俄に轟然たる音の流れとなって、彼の全細胞を満たした時、泉の右手が豆蔓(つる)のように伸びて、彼のマスクを指にからめたと思うと、白い布片は生き物のようにひらめいて地面に落ちた。それはおそろしい瞬間だった。彼はその姿勢のまま甘美な Orgasm が急激に凝集した苦痛に取って代られるのを直覚した。赤光にまみれた表情を外らす間もなく、彼は病獣のようにうめき声を立てた。口辺に泡をふきながら彼は、その瞬間総身の苦痛をひとところに絞り上げて Spermatism 完了した。腕の下から必死に身をよじって逃れ出る泉の肉体を感じながら、彼の身体からやがて苦痛は潮のようにゆるやかに引いて行った。彼は芝草に掌を支え、凝然と瞼を上げた。貨車の響きは崖下を通過した瞬間から、急速に衰え薄れて行くらしかった。[やぶちゃん注:「茴香」セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare はフェンネル(Fennel)のこと。当該ウィキによれば、『ウイキョウの若い葉および果実は、甘い香りと苦みが特徴』とするが、『この芳香は女性ホルモン(エストロゲン)』(Estrogen)『と同じ働きをする』『植物性エストロゲン』である『フィトエストロゲン』(Phytoestrogens:内分泌系により産生されたものではなく、フィトエストロゲン植物を摂取したことによる外因性の物質が内分泌された女性ホルモンのように機能するところの外因性エストロゲン様の振る舞いをする物質を指す語)『が豊富に含まれている』とある。]

 泉は凹地の縁に身をもたせて、乾き切った眼を大きく見開いて彼を凝視していた。月光を正面に受けたその顔は、紙のように蒼白かった。眼だけがするどく彼の顔に突刺さって来たのだ。それは憎悪とか驚愕をのり越えた空虚な眼のいろだった。かぎりなく深く、無量のむなしさをたたえた挑線であった。彼は必死になって、それに堪えていた。錯乱しようとするものを全身で支えていた。突然表情を全く喪ったその顔は、やがてくずれ始めて来た。泉は子供のように行儀よく両掌を顔に当て、静かに泣き始めた。その頃になって彼はやっと立ち上っていた。ねばねばした感触に堪えながら、彼はすべり落ちたマントを拾い上げていた。マスクは白い塊りになって、芝草の上に転がった。

(結局俺は始めから泉の肉体がほしかっただけの話なのさ!)

 彼はよろめきながらマントを羽織ると、身体をこごめてマスクを拾い上げ、顔をゆっくりおおった。泉の肉体をそっと盗んで、代償として此の間の金包みを置いて来る。始めから漠然と計画していたのはそれであった。そうすることで彼の気特は全部整理がつく筈であった。ところがマスクを剥ぎ取られるという茶番が入ったばかりに、何か順調に行っていたものがばらばらに乱れてしまったのだ。彼は強いて自分の心にそう言い聞かせようとした。

(そんな事はざらにある話じゃないか。引揚げ娘が生活に困って淫売になったというだけの話じゃないか。隣室の小役人がそれを知って仮装してその娘を買ったというだけの事じゃないか。まったく何でもない愚劣な話じゃないか)

 彼は凹地を出て崖の鼻に立った。崖は石垣を畳んで垂直に切り立っていた。遙(はる)か下方をくろぐろとレエルが幾条も走っているらしかったが、彼の眼に映るものはただ黒い闇の茫漠とした拡がりだけであった。身体がばらばらに千切れそうな深い疲労が彼に起って来た。Spermatism はあったにも拘らず充足感は少しも残っていなかった。彼はじっと闇の底に眼を放っていた。眼球だけが脱落してその中に沈んで行くようで、彼はその感じを忍びながら、ふと太古から俺はこんな姿勢で此処に立っていたのではないか、という錯覚に落ちていた。そして此のたくらみの最初から、此の終末を予感しつづけていたことを、彼は今判然と思い起していた。彼は更に身体をすすめた。靴の先は両方とも二寸位ずつ、崖の鼻から宙に浮いた。その時冷たい笑いが自ずと彼の鼻の辺にのぼって来た。

(俺の身体は今、背中を指一本で押しても、他愛なく此の闇の中に転落してしまうじゃないか)

 背後の凹地は颶風(ぐふう)の眼のように静まりかえっていた。泉の嗚咽(おえつ)は今までとぎれながら続いていたのだが、それすらも聞えなくなってしまった。粘ったものが一滴脚をつたって流れ落ちた。彼はふと身慄いしながら、あのポンプ台の上に置き忘られた石鹸のいろを聯想(れんそう)した。月の光に照らされて、それは白っぽく透きとおっていた。側にはバケツが黒い布を沈ませていた。戸板ひとつ隔てたところでは電気按摩器の夢を見ながら老婆がうとうとと眠り呆けているのだろう。……[やぶちゃん注:「颶風」ここは台風と同義。]

 彼は背面に神経を集めながら、まだ泉は立ち上らないのかと、頭の片すみでぼんやり考えあせっていた。あの泉の眼のいろをのぞいた瞬間のおそろしさは、まだなまなましく残っていた。頭を烈しく振って彼はその感覚から逃げようとした。そして乱れた頭で彼は自分の位置を手探りしているのだった。ただ一突きで俺は飛翔(ひしょう)出来る。その時俺にはとても良いことが起るに違いない。早く辞表を出せぱどっさり退職金が貰えるように、何か素晴らしいものが俺に落ちて来るだろう。すべてはそれからの話だ。――

 崖の鼻にあやうく安定を保ち、彼はしきりにそんなことを呟きながら、そのまま瞳を定め、闇の中の虚ろな一点に見入って行った。

 

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