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2021/04/08

伽婢子卷之二 十津川の仙境

 

伽婢子卷之二

 

   ○十津川(とつがは)の仙境(せんきやう)

 和泉の堺に藥種をあきなふ者あり。その名を長次〔ちやうじ〕といふ。久しく瘡毒(さうどく)をうれへて、紀州十津川に湯治しけり。病に相當せしにや、十四、五日の間に平復し侍べり。

 長次、或日、思うやう、

『年比、聞傅へし、「十津川の溫泉(いでゆ)の奧には、人參(にんじん)・黃精(わうせい)といふもの、生(おひ)出〔いで〕て、尋ねあたれば、多く有り」といふ。此〔この〕なぐさみに、近き所を搜し見ばや。』

と思ひ、僕をば、宿にとゝめ、唯一人、山深く入〔いり〕しかば、道に、ふみ迷へり。

[やぶちゃん注:「十津川」現在の奈良県の最南端に位置する吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の正式な読みは「とつかわ」である。面積は奈良県で一番大きく、紀伊半島の内陸にある山村で、南東端のごく一部で三重県と、南西で和歌山県と県境を接する。本文で「紀州十津川」と出ることを「新日本古典文学大系」版脚注は殊更に採り上げて、『「和州」が適するか』とするが、確かに大和国の圏内とは言え、南東端には知られた有意に広大な和歌山県飛地(私は地理が大好きで、小学三年の頃、これを地図上に見出して驚いたのを忘れない)と接していることからも判る通り、当時の実生活の経済上の関係を考えても、十津川の水運がその生命線の重要な導線であったのであり、私はここで「紀州」と言っていることには違和感を全く覚えない。

「瘡毒」「新日本古典文学大系」版脚注は単に『かさ。腫れもの』とするが、通常、江戸期にかく言った場合は、ほぼ梅毒(実際には正確に分類されていたわけではないその他の性感染症群をも多量に含む)を指していると考えてよい。無論、湯治ごときで治るものではないが、梅毒の発症機序や進行様態は時間的に数十年に及ぶ場合も珍しくなく、初期症状の発生後に疑似的な緩解期が何度も起るから、何ら不思議ではない。そもそもが、この主人公は薬種屋であるから、相応な治療薬も自ら服用していたものとも思われる。

「十津川の溫泉」この場合は、十津川の温泉で最も古い歴史がある現在の湯泉地温泉(とうせんじおんせん)に限定されるので注意(他の「十津川温泉」と「上湯(かみゆ)温泉」は源泉の発見が本書刊行よりも後であるからである)当該ウィキによれば、単純硫黄泉で、 源泉温度六十度。湯は無色透明。『十津川の湯が文献に現れるのは』、天文二二(一五五二)年の本願寺第八世蓮如の『末子の実従の湯治』が「私心記」に載るのが最初とされ、その後も天正九(一五八一)年に佐久間信盛(?~天正一〇(一五八二)年:元織田家家老。初め、織田信秀に仕え、後に信長に従って「近江佐々木氏討伐」・「比叡山焼打」・「三方ヶ原の戦い」・「朝倉攻め」や一向一揆の鎮圧及び松永氏の討伐などに功があったが、天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って落飾した。湯治の記載は「多聞院日記」に拠る)が、天正一四(一五八六)年には顕如上人(「宇野主水記」)が、文禄四(一五九五)年に大和中納言秀保(大名。豊臣秀吉の姉の子で後に豊臣秀長の婿養子となり、彼を嗣いで大和国国主となった人物。湯治は「多聞院日記」に拠る)が『訪れている。信盛、秀保はどちらも療養のため』に『訪れたこの地で亡くなったため』、『十津川の湯が文献に残された』とある。『十津川には泉脈も多く』、『湧出地は変わるため』、『前述の十津川の湯が』現在の湯泉地温泉と『同じ場所とはいいきれないが』、宝徳二(一四五〇)年に『温泉が湧出した』(「東泉寺縁起)『という湯泉地付近と推定され』ており、『当地には佐久間信盛の墓も残る』(ここ)とある。『かつてこの地には薬師如来を本尊とする東泉寺という寺があった。今も残る』「東泉寺縁起」に『よると、役行者が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ』、『湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね』、『薬師如来を造顕した』とされ、宝徳二(一四五〇)年に地震が発生し、『湯脈が変わり』、『武蔵の里』(現在の十津川村武蔵はまさに佐久間信盛の墓のある場所である)『に湧出し、いつしか』、『十津川沿いの現地に移ったとされている』。『なお』、『湯泉地温泉の名は東泉寺に由来する』とある。

「人參」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「黃精」漢方生剤「オウセイ」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ(甘野老・萎蕤)連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum或いは同属ナルコユリ(鳴子百合)Polygonatum falcatum の根茎を用いる。降圧・強心・抗血糖作用などがあるとされるが、生で用いると、咽を刺激するため、蒸した「熟黄精」を使用する。漢方では他に補気・潤肺・強壮・胃腸虚弱・慢性肺疾患・糖尿病・病後の食欲不振・咳嗽・栄養障害などに用いられ、砂糖とともに焼酎に漬けた黄精酒は古くから愛飲されている。]

 

Totugawa

 

 一つの谷に、くだりて見れば、美くしき籠(こ)[やぶちゃん注:人の作った籠(かご)。]の流れ出〔いで〕ければ、

『此水上に、人里あり。』

と思ひ、水にしたがうて、のぼるに、日は、すでに暮かゝり、鳥の音〔こゑ〕、かすかに、ねぐらを爭ふ。

 かくて、十町ばかり[やぶちゃん注:凡そ一キロメートル。]行(ゆく)かと覺えし。

 岩をきりぬきたる門に致り、内に入〔いり〕て見れば、茅葺(かやぶき)の家、五、六十ばかり、軒を並べて立〔たち〕たり。

 家々のありさま、石(の)垣、苔、生(おひ)て、壁、みどりをなし、竹の折戶(おりど[やぶちゃん注:ママ。])、物淋しく、蔦かづら、冠木(かぶき)をかざる。

 犬、ほえて、砌(みぎり)をめぐり、鷄、鳴(なき)て、屋(いへ)にのぼる。桑の枝、茂り、麻の葉、おほひ、誠に住ならしたる村里也。樵(こり)つみける椎柴(しゐしば)、舂(うす)つきてほす粟(あは)・粳(うるしね)、さすがに、わびしからずぞ、見えたる。

 人の形勢(ありさま)、古風ありて、素袍(すはう)・袴に、鳥帽子、着〔き〕て、行還(ゆきゝ)しづかに、威儀、みだりならず。

[やぶちゃん注:「冠木」左右の門柱を横木(冠木)によって支えた門。古くは下層階級の家に用いられた造りであったが、後に諸大名の外門などにも盛んに用いられた。

「砌(みぎり)」ここは「庭」の意。以下、明らかに陶淵明の「桃花源記」の「有良田美池桑竹之屬。阡陌交通、鷄犬相聞。」(良田・美池・桑竹(さうちく)の屬(ぞく)有り。阡陌(せんぱく)交はり通じ、鶏(けい)・犬(けん)相ひ聞ゆ。)を確信犯で意識させる。

「樵つみける椎柴」木を樵(こ)りて積み上げられた椎や柴の薪(たきぎ)。

「粳(うるしね)」通常の主食とする粳米 (うるちまい) がとれる稲。

「素袍」直垂 (ひたたれ) の一種。裏をつけない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸紐に革を用いる。略儀の装束で、室町時代には庶民も日常用として着用した。江戸時代には形式化し、ここに出る通り、長袴 (ながばかま) を穿くのが普通となり、大名の礼服である大紋(だいもん)と同じように定紋(じょうもん)を附け、侍烏帽子 (さむらいえぼし) に熨斗目 (のしめ) 小袖を併用し、平士 (ひらざむらい) や陪臣の礼服とされた。]

 

 長次が、立やすらひたる姿を見て、大〔おほき〕に怪(あやし)み、驚きて、問ひけるやう、

「如何なる人なれば、此里には、さまよひ來〔きた〕れる。世の、常にして知るべき所にあらず。」

といふ。

 長次、ありのまゝに語る。

 こゝに、ひとりの老人、衣冠正しきが、蓬(えもぎ)の沓(くつ)をはき、藜(あかざ)の杖をつきて、みづから、

「三位中尉。」

と名のり、長次に向ひて日(いはく)、

「こゝは、山深く、岩ほ、そばだち、熊・狼、むらがり走り、狐・木玉(こだま)のあそぶ所にして、日は暮たり、此まゝ打捨なば、是ぞ、水に溺れたるを見ながら、拔(すく)はざるに、おなじかるべし。こなたへおはせよ。宿、かし侍らん。」

とて、家に連れて歸りぬ。

 内〔うち〕のてい、きたなからず、召使はるゝ男女〔なんによ〕、更に、みだりならず。

 既に一間の所に呼びすゑ、ともし火をかゝげ、座、定りてのちに、長次、問けるやう、

「此〔この〕所は、ありとも知らぬ村里也。如何に住そめ給ひしやらん。」

といふ。

 あるじ、眉をひそめて、

「是は浮世の難を逃れし人の、隱れて住〔すむ〕ところなり。若〔もし〕、しひて[やぶちゃん注:ママ。「强(しい)て」。]そのかみの事を語らば、徒らに愁(うれへ)を催すなかだちならん。」

といふ。

 長次、あながちに、其(その)住初(すみそめ)し故をとふに、あるじ、語りけるは、

「我は、平家沒落して西海の浪に沈みける比より、此所に住初たり。

 我は是、小松の内府(だいふ)重盛公の嫡子三位中尉維盛と云ひし者也。祖父(おほぢ)大相國淸盛入道は、惡行重疊(ぢうてう)して、人望にそむき、父内府は、世を早うし給ひ、伯父宗盛公、世を取〔とり〕て、非道不義なる事、法に過ぎたり。

 一門のともがら、多くは皆、奢りを極め、榮花にほこり、家運、たちまちに傾き、東國には兵衞の佐(すけ)賴朝、譜代の家人〔けにん〕を催して、義兵をあげ、北國には木曾の冠者義仲、一族郞等〔らうどう〕をすゝめて、謀反(むほん)す。

 其外、諸國の源氏、蜂の如くに起り、蟻の如くに集(あつま)りけるを、玆(こゝ)に、はせむかひ、かしこに、責寄(〔せめ〕よ)するに、更に軍(いくさ)の利なく、味方の軍兵〔ぐんぴやう〕、たびたびに打れて、終に、木曾がために都を追落(をひをと)され、攝津國一の谷に籠り、暫く心も安かりしに、九郞義經が爲に、こゝをも破られ、一門の中に、通盛(みちもり)・敦盛以下、多く亡び給ひ、まの當り、魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])を消し、胸をひやし、うきめを見聞(みきく)かなしさ、生〔しやう〕をかゆるとも、忘るべき事かや。

 とかくする程に、讃岐國八嶋の州崎に城郭を構へ、一門の人々、楯籠(たてこも)りしかば、故鄕は雲井の餘所(よそ)に隔り、思ひは妻子の名殘〔なごり〕に止(とゞ)まり、身は八嶋に在りながら、心は都に通ひければ、萬(よろづ)につけて、あぢきなく、『行末とても賴みなし』と、うかれ果たる心より思ひ立〔たち〕て、譜代の侍〔さぶらひ〕與三兵衞重景(〔よさうびやうゑ〕しげかげ)、石童丸(いしどう〔まる〕)といふわらは、武里(たけさと)といふ舍人(とねり)は、舟に心得たる者なれば、此三人を召具〔めしぐ〕して、忍びて、八嶋の内裏を出〔いで〕て、阿波の由木(ゆうき)の浦につきて、

 をりをりはしらぬうらぢのもしほ草

   かきおく跡をかたみともみよ

 重景、返しとおぼしくて、

  我おもひ空ふく風にたぐふらし

   かたぶく月にうつる夕ぐれ

石童丸、淚をおさへて、

 玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に

   心はいとゞあこがれにけり

 それより、紀伊國、和歌・吹上の浦をうち過〔すぎ〕て、由良(ゆら)の湊より、舟をおりて、戀しき都をながめやり、高野山にまうでて、瀧口時賴入道にあうて、案内せさせ、院々、谷々、をがみめぐり、

「これより、熊野に參詣すべし。」

とて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より、「和歌の浦」、「吹上の濱」、「古木〔ふるき〕の杜」、「蕪坂(かぶらざか)」・「千里(ちさと)の濱」のあたり近く、岩代(いはしろ)の王子〔わうじ〕をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

 岩田川ちかひの舟にさほさして

   しづむ我身もうかびぬるかな

 それより、本宮(ほんぐう)にまうでつゝ、新宮・那智、のこりなくめぐりて、「濱の宮」より、舟に乘り、磯の松の木をけづりて、

 

  權亮(ごんのすけ)三位中尉平惟盛

  戰場を出(いで)て那智の浦に入水す

  元曆元年三月廿八日 惟盛 廿七歲

  重景 同年  石童丸 十八歲

 生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ

   定なき世にさだめありける

 

と書〔かき〕て、世には「入水〔じゆすい〕」と知らせけれども、今、この山中に隱れしかば、肥後守貞能(さだよし)、跡をもとめて尋ね來れり。

「平氏の一門、沒落して、皆、ことゞく、壇の浦にて、水中に入給ふ。都に隱れし平氏の一類も、根を斷ち、葉を枯らしけり。」

と、貞能、かたり侍べるにぞ、

「よくこそ、のがれけれ。」

と、かなしき中に、心を慰め、田をうゑ、薪(たきゞ)とり、みずから、淸風朗月に心を澄まし、物靜(〔もの〕しづか)にして、たましひを、やしなふ。人里絕〔たえ〕て、音づれも、なし。

 花の咲くを春と思ひ、木の葉のちるを秋と知り、月のいづるを、かぞへ盡して、月なき時を晦(つごもり)と、あかし暮らす身と、なり侍べり。

 貞能・重景・石童丸が子孫、ひろごりて、家居を並べて住〔すみ〕ける也。

 さだめて、賴朝、世をとりぬらん、今はこれ、誰〔たれ〕の世ぞ。願くは、物語せよ。」

とあり。

[やぶちゃん注:贋の遺書は前後を一行空け、句読点を附さなかった。維盛の語りは非常に長いので、シークエンスごとに段落成形した。

「蓬の沓」「えもぎ」はヨモギ(本邦の狭義のそれは中央アジア原産と考えられているキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii )の別称。「新日本古典文学大系」版脚注は『不詳』とするが、ウィキの「靴」によれば、『これまでに発見された世界最古の靴は』一九三八『年に米国オレゴン州のフォートロック洞窟にあったもので、紀元前』七千『年頃に』、『ヨモギの樹皮で作られたサンダルである』とある。参考元の英文記事はこちらであるが、この左の写真キャプションにある‘Sagebrush’というのは、ヨモギ属オオヨモギ(ヤマヨモギ) Artemisia montana で、本邦でも近畿地方以東の本州・北海道・南千島などに分布し、名の通り、草丈が高くなり、時として二メートルを超えるという。されば『樹皮』というのは違和感がない。私は文字通り、「蓬の繊維で編んだ沓」でよいと思う。因みに、七千年前の日本は縄文時代前期で縄文海進の最盛期に相当する。

「藜」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum である。本邦には北海道から沖縄まで全国に分布し、畑地・荒地に最も普通に見られる雑草で、長ずると一メートル以上になる。意外に思われるかも知れないが、本種は秋になって枯れた茎を乾して老人用の杖にした。軽くてしかも強く、使い易い杖になったのである。「笈日記」の芭蕉の句「宿りせん藜の杖になる日まで」の伊藤洋氏の「芭蕉DB」のこちらの解説を参照されたい。

「三位中尉」これは平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男であった、名将にして享年二十六で壇の浦に散った平小松三位中尉維盛(これもり 平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年)の別名である。平家一門の嫡流として出世したが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際、追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」では、夜、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った情けなさで知られる。翌年三月の「尾張墨俣の戦い」では源氏を撃破し、その功により、右近衛権中将・従三位となったが、翌寿永元(一一八二)年、木曾義仲追討では「倶利伽羅合戦」で大敗、義仲が上京し、平家一門が西国に没落した折りには、一時は都落ちしたらしいが、その後、消息不明となった。物語類では「屋島の戦い」の最中に平家の陣を抜け出し、高野山で出家し、熊野灘へ舟を出して、入水して果てたとされる。なお、私は鎌倉史を趣味で調べている関係上、以下の面子はほぼ顔見知りで、注の必要を感じない者が多い。教科書的に総てを等し並みにいりもせぬ注をすることはしないことをここで断っておく。

「通盛」(仁平三(一一五三)年?~元暦元(一一八四)年)平清盛の異母弟である権中納言平教盛と藤原資憲の娘との嫡男。弟に私の好きな能登守教経がいる。「一の谷の戦い」で討死した。「平家物語」では、「平家都落ち」の直前に宇治橋を固めて応戦し、都落ち以後も西国で戦う様子が記されてある。また、愛人小宰相が後を追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。二人の恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る。

「生をかゆるとも、忘るべき事かや」「仮に輪廻転生したとしても、いっかな、忘れることなどできようものか!」。

「興三兵衞〔よさうびやうゑ〕重景」彼の父平景康(景泰・景安とも)は平重盛の家人で、「保元の乱」に参戦し、「平治の乱」では主君を守り、二条堀河の辺りで鎌田兵衛と組み合いとなったところを、頼朝の兄悪源太義平に討たれてしまったため、維盛に育てられて、名も彼から与えられた。父子ともに重盛父子の乳母子(めのとご)となったのである。乳母子は当時、主君と命をともにするのが倣いであった。読みは「新潮日本古典集成」版の「平家物語」の「巻第十」の「横笛」のルビに従った。

「石童丸」維盛の臣下の少年であるが、出自不詳。

「武里」不詳。

「舍人」牛車の牛飼や、馬の口取りなどを担当した下人。

「阿波の由木(ゆうき)の浦」阿波国海部(かいふ)郡三岐(みき)村由岐(ゆき)。現在の徳島県海部郡由岐町(ゆきちょう)

「をりをりはしらぬうらぢのもしほ草かきおく跡をかたみともみよ」整序すると、

 折々は知らぬ浦路の藻鹽草かきおく跡を形見とも見よ

で、塩を作るための海藻を「搔き」集めるに、辞世の歌を「書き」置くに掛けたもの。これらの歌のシークエンスは「源平盛衰記」の巻三十九巻の「維盛屋嶋を出でて高野に參詣付けたり粉川寺(こかはじ)法然房に謁する事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 折々はしらぬ浦路のもしほ草(くさ)書置(かきをく)跡を形見共(とも)見よ

とある。

「我おもひ空ふく風にたぐふらしかたぶく月にうつる夕ぐれ」整序する。

 我れ思ふ空吹く風に比(たぐ)ふらし傾(かたぶ)く月に移る夕暮れ

で、「……私の今のこの限りなき切なき思いは、虚空を吹き退(すさ)ってゆく風にでも比える得るものだろうか――傾く月に漆黒の闇へと移ってゆくこの夕暮れの間合いには……」と言った謂いか。「源平盛衰記」では、

 我(わが)戀(こひ)は空吹(ふく)風にさも似たり傾(かたふ)く月に移ると思へは

とある。これは「源平盛衰記」の方が遙かにいい。

「玉ぼこの道ゆきかねてのる舟に心はいとゞあこがれにけり」同前。

 玉鉾(たまぼこ)の道行き兼ねて乘る舟に心はいとど憧(あこが)れにけり

で、「玉ぼこの」は「道」の枕詞。「……道中、いかにも心から赴こうとする意志もなく、行きかねてかくも乗った舟ではあるけれど――でも――この行く先が西方浄土ならんかと思えば――いよよ、心が憧(あくが)れることです……」の謂いか。「源平盛衰記」では、

 玉鉾(たまぼこ)や旅行(たびゆく)道のゆかれぬはうしろにかみの留(とゞま)ると思へば

とある。こちらは本篇の方がずっと上出来。

「紀伊國、和歌・吹上の浦」「和歌」「の浦」は和歌山市の歌枕である「和歌の浦」。古くはこの中央の海岸一帯を指した。「吹上の浦」は現在の紀ノ川河口の和歌山城附近の当時の海浜の貫入していた部分から(砂丘状になってた。吹上の地名が残る)、南西の雑賀崎附近を指すが、ここは「和歌の浦」の後背部北側に当たる。

「由良(ゆら)の湊」和歌山県日高郡由良町。順序にちょっと違和感がある。但し、これは参考にした「平家物語」の巻十の「横笛」や「源平盛衰記」の先の箇所の叙述に従ったまでのことであり、都の方を遠望するには、まあ、少し戻るものの、違和感はない。でも、私は『僕なら、せめて今の大阪湾口が開ける加太(かだ)を北に回り込んだ和歌山市大川辺りまで出向くけどな』とは思う。

「戀しき都をながめやり」見えるわけでは無論、ない。遠く見やるのである。

「瀧口時賴入道」平重盛に仕え、宮中の「滝口の武士」をも勤めた齋藤時頼。芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫の疋田(ひった)斉藤茂頼(もちより)の子。彼と、建礼門院の雑仕女(ぞうしめ)横笛の悲恋と、まさにここに語られる維盛の入水を描いた歴史小説高山樗牛の「瀧口入道」は私の偏愛する作品である。時頼は横笛の死後、出家して高野山に入っていた。

「三藤(とう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『和歌山市山東中(さんどうなか)近辺。熊野街道が通り、高野山から下る道筋との合流地域』とある。ここ

「藤代(ふぢしろ)」現在の海南市藤白

「古木〔ふるき〕の杜」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、かなり突っ込んで同定比定可能性を探っているが、私には興味がないので引かない。

「蕪坂(かぶらざか)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『海草郡下津町。有田市との境に』ある『蕪坂峠』(現在は「かぶらさかとうげ」と清音)。『峠を越えた所に蕪坂塔下(とうげ)王子がある』とあるが、現在は海南市下津町になった。蕪坂塔下王子はここ

「千里(ちさと)の濱」「新日本古典文学大系」版脚注に、『日高郡南部町。千里王子社がある』とあるが、現在は和歌山県日高郡みなべ町と表記が変わっており、王子社社跡とする。

「岩代(いはしろ)の王子」現在の日高郡みなべ町西岩代。また、今は岩代王子跡とする。「新日本古典文学大系」版脚注には、『この拝殿の板に熊野参詣者名前や和歌を書きつけて奉納した』とある。

「岩田川」「新日本古典文学大系」版脚注に、『西牟婁郡富田川中流、岩田付近の呼称。』水『垢離場として著名』だった場所で、『歌枕』とある。ここ

「岩田川ちかひの舟にさほさしてしづむ我身もうかびぬるかな」整序すると、

 岩田川誓ひの舟に棹さして沈む我が身も浮かびぬるかな

で、やはり「源平盛衰記」の巻四十巻の「維盛入道熊野詣付けたり熊野大峯の事」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を見られたい。そこでは、

 岩田川誓(ちかひ)の舩(ふね)にさほさして沈む我(わが)身も浮(うかび)ぬる哉

の表記である。「誓ひの舟」とは、「弘誓(ぐぜい)」(菩薩が自らの悟りと、ありとある衆生の済度を願って立てた広大なる誓願)を煩悩の大海から総ての衆生を救い揚げて西方浄土へ向かう「船」に喩えたもの。

「本宮」熊野本宮大社

「新宮」熊野速玉神社

「那智」熊野那智大社。以上で熊野三山を成す。神道嫌いの私が例外的に敬虔に総て参詣した人生唯一の三社である。私は後、出雲大社だけはちゃんと参拝したいと考えている人種である。

「濱の宮」和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮。「源平盛衰記」の巻四十巻の「中將入道水に入る事」を見よ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。ここはまさに無謀な補陀落(ふだらく)渡海信仰のメッカで(私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」を参照)、天台宗熊野山補陀洛山寺(ふだらくさんじ)があり、私も参り、裏にある平維盛供養塔も墓参した。

「元曆元年三月廿八日惟盛廿七歲」これが実遺書でないことは、元号でバレバレ。平家政権はは後鳥羽天皇の即位を認めず、「元曆」(げんりゃく)を用いず、「壽永」を引き続いて使用していたからである。則ち、ここは「壽永三年」でなくてはならないのである。この日附や維盛の年齢は「源平盛衰記」のままであるが(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ)、重景と石童丸の年齢は記されていない。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「公卿補任」『記載の維盛』の『年齢に従うと』、『二十五歳に当た』り、合わないことが示されてある。なお、「源平盛衰記」の同前の終わりの方(左ページの五行目から次の頁にかけて、維盛の生存説が複数、附されてある。しかし、こういうところは、私が「源平盛衰記」の致命的な瑕疵部分と考えている、厭なところである。

「生れてはつひに死(しぬ)てふことのみぞ定なき世にさだめありける」前のリンクで「源平盛衰記」のそれが見られるが、特段の異同はない。因みに、実際の維盛は、生活史の孤立感からみても、かなり早期に、かなり重い鬱病、或いは強い抑鬱症状をきたす重度に精神疾患に罹患していたのではないかと私は考えている。

「肥後守貞能」伊賀国を本拠とする平氏譜代の有力家人であった平貞能(さだよし 生没年不詳)。父は平氏の直参の郎等であった平家貞。当該ウィキによれば、『保元の乱・平治の乱に参戦し、平清盛の家令を勤め』、『清盛の「専一腹心の者」』(「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年七月七日の条)『といわれた』。仁安二(一一六七)年五月、『清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤忠清が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど』、『九州方面での活動が顕著である』。治承四(一一八〇)年十月、『平氏の追討軍は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大』し、十二月に『資盛が大将軍として近江攻防に発向すると、貞能も侍大将として付き従った。畿内の反乱はひとまず鎮圧されたが、翌治承五年閏二月に『清盛が死去し』、『後継者となったのは清盛の三男・平宗盛であり、重盛の小松家は一門の傍流に追いやられることになる。同じ頃、九州でも反乱が激化しており』、『肥後の豪族・菊池隆直らは大宰府を襲撃した』。四月十日、『宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され』て、すぐに『菊池隆直追討宣旨が下され』、同年八月に『貞能は反乱鎮圧のため』、『一軍を率いて出発』した。『備中国で兵粮の欠乏に直面し』、『追討は困難を極めたが、翌』養和二(一一八二)年四月、『ようやく菊池隆直を降伏させることに成功した』。寿永二(一一八三)年六月、『貞能は』一千『余騎の軍勢を率いて帰還するが』翌七月には、『木曾義仲軍の大攻勢という局面に遭遇する。貞能は資盛に付き従い』、『軍勢を率いて宇治田原に向かったが、この出動は宗盛の命令ではなく』、『後白河法皇の命令によるものだった。小松家が平氏一門でありながら、院の直属軍という側面も有していたことが伺える。宗盛は都落ちの方針を決定するが、貞能は賛同せず』、『都での決戦を主張した。九州の情勢を実際に見ていた貞能は、西国での勢力回復が困難と認識していた可能性もある』。二十五『日の夕方、資盛・貞能は京に戻り、蓮華王院に入った。一門はすでに都落ちした後で、後白河法皇の保護を求めようとしたが』、『連絡が取れず、翌』二十六『日の朝には西海行きを余儀なくされる』。「平家物語」の『一門都落の章段によれば、貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし』、『遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという』。『平氏は』八『月中旬に九州に上陸するが、豊後国の臼杵氏、肥後国の菊池氏は形勢を』傍観するばかりで『動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど』、『現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後国は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄』(これよし)『が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから』、『資盛・貞能が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。平氏は』十『月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり』、『平氏本隊から離脱した』。『また』、「玉葉」の寿永三(一一八四)年二月十九日の条には、『資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている』。『平氏滅亡後の』元暦二(一一八五)年六月、『貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願し』(「吾妻鏡」七月七日の条)。『この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など』、『貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである』とある。

「淸風朗月」さわやかな涼しい風と、明るく清らかな月。風雅な遊びや、自然をこころゆくまで嘆賞するさま。]

 

 長次、大に驚き恐れ、

「『只、かりそめの山住(やまづみ)、世の常の事』にこそ思ひ奉りしに、かゝる止事(やごと)なき御身とは、露も思ひよらざりけり。」

とて、首を地につけ、禮義をいたす。

 三位中尉、

「いやとよ、今は然〔しか〕るべからず。それそれ。」

と、の給ふに、貞能・重景・石童丸、立出たり。

 いづれも、その歲、六十ばかりに見えたるが、貞能いふやう、

「迚(とても)うちとけ給ひたる御事也。その世の移り替りし事共、語りてきかせ給へ。」

と也。

[やぶちゃん注:この展開は読者にとって、ネガティヴな貴種流離としての維盛の諸々のイメージを破壊し、面白い予感を引き出させる。或いは、他の作家(例えば後のお喋りな曲亭馬琴)なら、ここに出たバイ・プレイヤーらにじゃかじゃか語らせるところだが、そもそもが、貞能を除く、肝心の重景・石童丸の史実的認識が読者には不足している。さればこそ、ここで本当に読者のようにエキサィテイングになれるのは、主人公である長次自身であることに了意は気づくのだ! そこが素晴らしい! もし、読者が「自分がここで長次なら、どう答えて語るだろう?」というミソを、しっかり受けて以下が開陳されるのである。しかもそれは在野の史家でもある了意の独擅場とも言えるのである。

「いやとよ、今は然るべからず。それそれ。」「いや、そんな風にされては困ったことじゃて! 今はもう、そのように畏まられてしまうは、慮外のことじゃによってのぅ。そうじゃ! お~い、皆々、出でて、参れぇ!」。]

 

 長次、居なほりて、

「さらば、あらあら、聞〔きき〕つたへし事、かたり侍べらむ。

 扨も、平氏の一門、西海の波に沈み給ひ、兵衞佐〔ひやうゑのすけ〕賴朝、天下ををさめ、いくばくもなく、病死し給ふ。

 蒲冠者(かばのくわんじや)範賴・九郞判官義經、みな、賴朝にうたれ、賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり。賴朝の二男賴家の舍弟、跡を治め給ふ。

 賴家の妾(おもひもの)の腹に子あるよし、聞つたへ、尋出して鶴岡〔つるがをか〕の別當になさる。禪師公曉(ぜんじくげう)と號す。

 和田・畠山・梶原等が一族、此君の時、うちほろぼさる。

 実朝卿、鶴岡社參の夜〔よ〕、かの禪師の公(きみ)、實朝を殺す。

 北條義時、その跡を奪ひて、天下の權を、とる。

 是より、九代にいたり、相撲守高時入道宗鑑(そうかん)、大に奢りて、國、亂れ、新田義貞、鎌倉をほろぼす。

 足利尊氏と新田と、いくさあり。足利、つひに、義貞をほろぼし、その子息義詮(よしのり)を京の公方と定め、二男左馬頭基氏を鎌倉の公方と定め、天下、暫く、しづかなりしかども、王道は地に落〔おち〕て、あるかなきかの有さま也。

 武家、世をとりて、權威、たかし。

 後に、京都・鎌倉の公方、不會〔ふくわい〕になりて、鎌倉の執權上杉の一族、公方を追おとす。

 此時に當りて、京都の公方も權威を失なひ、諸國の武士、たがひに、そばだち、天下、大〔おほき〕に離れて、合戰、やむ時、なし。

 三好修理(しゆりの)大夫、其家人(けにん)松永彈正は、畿内・南海に逆威(ぎやくゐ)をふるひ、今川義元は駿河・遠州をしたがへ、國司源具敎(とものり)は勢州にあり、武田睛信、甲・信兩國にはびこり、北條氏康は關八州にまたがり、佐竹義重は常陸にあり、蘆名(あしなの)盛高は會津を領じ、長尾景虎は越後より、おし出〔いづ〕る。朝倉義景、越前を守り、畠山が一族は河内にあり、陶(すゑ)尾張守は、周防長門を押領(あふりやう)し、毛利元就、安藝におこり、尼子(あまこ)義久は、出雲・隱岐・石見・伯耆にひろごり、豐後に大友、肥前に龍造寺、その外、江州に淺井〔あざゐ〕・佐々木、尾州に織田、濃州に齋藤、大和に筒井、其外、諸國群邑(ぐんゆう)の間〔かん〕に黨を立て、兵を集め、たがひに、村里をあらそうて、攻戰(せめたゝか)ひ、奪ひ、とる。

 古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年、天子、すでに二十六代、鎌倉は、賴朝より三代、北條家九代、足利家十二代、京都の足利、今すでに十三代、新將軍源義輝公と申す也。」

と、語りしかば、三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ。

 夜、すでに更〔ふけ〕ゆけば、山の中、物しづかに、梢をつたふ風の音、軒近く聞えて、長次が魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])、すみわたり、凉しく覺えたり。

 あるじ、さまざま、酒をすゝめらる。

 夜、すでにあけて、山の端(は)あかく、橫雲、たなびきて、鳥の聲、定かになれば、長次、

「今は。是までなり。」

とて、拜禮、つゝしみて立出〔たちいづ〕れば、あるじ、のたまはく、

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ。」

とて、

 みやまべの月は昔の月ながら

   はるかにかはる人の世の中

と、よみて、わかれをとり、内に入給へば、長次は、切通しの門を出て、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりに一所づゝ、竹の杖をさして、記(しるし)とし、十津川の宿に歸る事を得て、來年の春、酒・さかな、とゝのへつゝ、又、かの山路に分入〔わけいり〕て尋ぬるに、たゞ、古松・老槐(らうくわい)に橫たはり、岩ほ、そばだち、茅(ちがや)・薄(すゝき)しげり、樵(きこり)の通ふところ、鳥の聲、かすかに、草刈りの行〔ゆく〕ところ、谷の水、流れ、しるしの竹も見えねば、たずねわびつゝ立〔たち〕かへる。

 そもそも、これは、仙境の道人(だうにん)なりけん。その類(たぐひ)、しりがたし。

[やぶちゃん注:鎌倉時代の部分は先に述べた如く、注する気はまるでない。不明な委細があれば、私のカテゴリ『「北條九代記」【完】』(同じ浅井了意の作と推定される)を読まれたい。ただ、ここでの鎌倉史概説部に大きな不満が残るとすれば、維盛の子六代(ろくだい 平高清(承安三(一一七三)年?~?)のことが全く語られていないことであろう。「平家物語」の「六代斬られ」で人口に膾炙している彼のことを、了意が忘れていたことなど、到底、考えられず、そもそも維盛が個人的に後のことを知りたいと思うた中に、一番のそれは、六代をおいて他にはないはずだからである(言っておくが、この六代を最後として清盛の嫡流は完全に断絶しているのである)。しかし、それは、語れば、維盛にとって非常に重鬱な思いをさせざるを得ず、これから超時空を経ねばならぬ、縮圧したドライなドライヴの出鼻を、これ、挫くことになることは明白である。さればこそ、了意の判断は正しいと言えるのである。なお、南北朝から戦国に至る部分も一部を除いて多くの読者には不要であろうからして、注は附さない。

「賴朝の子息賴家、世をとり、子なくして、病死あり」言わずもがな、事実は初代執権北条時政による凄惨な謀殺である。「北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向」参照。

「義詮(よしのり)」読みはママ。「よしあきら」が正しい。

「不會〔ふくわい〕」仲違(たが)い。不和。

「三好修理大夫、其家人松永彈正は、畿内・南海に逆威をふるひ」前話「黃金百兩」で詳注。

「國司源具敎」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は北畠晴具の長男。伊勢国司。織田信長に攻められ、永禄一二(一五六九)年伊勢大河内(おおこうち)城を捨てて降伏し、信長の次男信雄(のぶお)を長男具房の養嗣子とし、国司を譲った。塚原卜伝に学んだ剣客としても知られる。信長の命をうけた旧家臣に襲われて自刃した。彼を以って北畠家は滅亡している。

「押領(あふりやう)」(現代仮名遣「おうりょう」)元来、律令制下にあっては「兵卒を監督・引率すること」を意味し、令外官(りょうげのかん)の一つである「押領使」の名もこれに由来したが、平安中期頃以降は「他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを強引に侵害して奪うこと」を意味するようになり、中世になると、専ら、この意味で用いられるに至った。

「古へ、安德天皇、西海に赴き給ひし、壽永二年癸卯(みづのとう)より、今、弘治二年丙辰(ひのへたつ)の歲まで、星霜三百七十四年」「壽永二年」は一一八三年。「弘治二年」は一五五六年。数えで起点の年を入れるので計算に誤りはない。陶淵明の「桃花源記」は作品内時制を晋の太元年中(東晋(三一七年~四二〇年)の孝武帝の時の年号(三七六年~三九六年)の出来事とし、桃花源の人々は秦代(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の乱を避けてここに入ったと述懐するから、彼らの方は、最大六百十九年、最小で五百八十二年の超時空を隔てていることになる。

「天子、すでに二十六代」実際には数えてみると安徳天皇を入れて当代の後奈良天皇までは三十代である。但し、安徳の四代後の仲恭天皇(在位期間は天皇の中で最短の七十八日間)。は江戸以前は九条廃帝として数えないのが普通だったこと、さらに、平家政権が認めなかった後鳥羽天皇の在位の初めは安徳天皇とダブることから、これを憚って後鳥羽を数えないとしても、二十八である。或いは、「承久の乱」でごたついた平家にとって不快な後鳥羽天皇及び、後鳥羽と同様にあろうことか配流されてしまった土御門天皇・順徳天皇と九条廃帝の四人をカットした数字を指すか。よく判らない。なお、この「弘治二年」の翌年、弘治三年十月二十七日に後奈良天皇から正親町(おおぎまち)天皇に譲位されている。

「新將軍源義輝」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五/在職:天文一五(一五四七)年~永禄八年)。天文二三(一五五四)年二月に従三位に昇叙するとともに名を義藤(よしふじ)から義輝に改めている。永禄八年五月十九日に松永久秀長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。

「三位中將、これを聞き給ひて、不覺の淚を流し給ふ」ここで実は維盛はそこに語られなかった実子六代の末路もそこに感じて、涙したのではなかったろうか。

「我ら、更に、仙人にもあらず、幽靈にもあらず。おほくの年を重ねし事、思はざる外の幸ひなり。なんぢ、歸りて、世に語る事、なかれ」陶淵明の「桃花源記」のコーダ「不足爲外人道也。」(外人の爲めに道(い)ふに足らざるなり。)とあるように、諸話に於いて仙境や桃源郷を去る当たっての戒めの御約束事である。

「みやまべの月は昔の月ながらはるかにかはる人の世の中」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話である「剪灯新話」の巻之二の二話目「天台訪隠録」の中の『詩句「時移リ事変ジテ太ダ怱忙」を和歌にしたもの』とある。「太ダ」は「はなはだ」、「怱忙」は「そうばう(そうぼう)」で「忙しくて落ち着かぬこと」を意味する。

「わかれをとり」別れを交わし。

「古松・老槐(らうくわい)に橫たはり」「老槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。ただ、この助詞「に」は戴けない。これでは文字列上は「枯れた古い松が、年経て倒れた槐の倒れた上に横たわっていて」という意味になるが(「生きている古松が、年経た巨木の槐に倒れ掛かるように生えており」という意には流石に私はとれない)、どうも、いただけない。「の」か、助詞なしで「古松や老いた槐が半ば朽ちて横たわって行く手を塞ぎ」でいいのではないかと思う。

「道人」世俗の事を捨てて、しかも、驚異的寿命が得られる神仙の道を修得した人。]

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