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2021/04/24

芥川龍之介書簡抄44 / 大正四(一九一五)年書簡より(十) 井川恭宛松江招待旅行感謝状

 

大正四(一九一五)年八月二十三日・井川恭宛・(封筒欠)

 

大へん御世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有かつた

難有く思つただけそれだけ胃の惡い時には佛頂面をしてゐる自分が不愉快だつた だからさう云ふときは一層佛頂面になつたにちがひない かんにんしてくれ給ヘ

汽車は割合にすいてゐたが京都へはいる時には非常な雷雨にあつた それから翌日は一日雨でとうとうどこへもよらずにどしや降りの中を東京へかへつた 途中で根岸氏が東京へゆく人を一人紹介してくれたので大抵その人と一しよにだべつてゐた 大分おんちだつた

非常にくたびれたので未に眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない

     波根村路

   倦馬貧村路

   冷煙七八家

   伶俜孤客意

   愁見木綿花

     眞山覽古

   山北山更寂

   山南水空𢌞

   寥々殘礎散

   細雨灑寒梅

     松江秋夕

   冷巷人稀暮月明

   秋風蕭索滿空城

   關山唯有寒砧急

   擣破思鄕万里情

     蓮

   愁心盡日細々雨

   橋北橋南楊柳多

   櫂女不知行客淚

   哀吟一曲采蓮歌

君にもらつた葡萄がいくら食つても食ひつくせなくつて弱つた 最後の一房を靜岡でくつた時には妙にうれしかつた 桃は橫濱迄あつた 旅行案内のすみヘ

   葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

と書いた まだ駄俳病がのこつてゐると思つた

京都では都ホテルの食堂で妙な紳士の御馳走になつた その人は御馳走をしてくれた上に朝飯のサンドウイツチと敷島迄贈つてくれた さうして画の話や文學の話を少しした わかれる時に名をきいたが始めは雲水だと云つて答へない やつとしまひに有合せの紙に北垣靜處と書いてくれた「若い者はやつつけるがいゝ 頭でどこ迄もやつつけるがいゝ」と云つた 後で給仕長にきいたら男爵ださうである 四十に近いフロツクを着た背の高い男だつた 一しよにのんだペパミントの醉で汽車へのつてもねられなかつた すると隣にゐた書生が僕に話しかけた 平凡な顏をした背のひくい靑年である 一しよに音樂の話を少しした 何故音樂の話をしたかは覺えてゐない 所がその靑年はシヨパンの事を話し出した シヨパンの數の少い曲のうつしくさ[やぶちゃん注:ママ。]は音と音と間にある間隙に前後の音が影響するデリカシイにあると云ふのである あとでその人のくれた名刺をみたら高折秀次としてあつた 僕はこの風采のあがらない靑年がシヨルツと一しよにシヨパンのノクテユルヌを彈いたのをきいた事がある 高折秀次氏は昨年度の音樂學校卒業生の中で一番有能なピアニストなのである

僕はこの二人の妙な人に偶然遇つた事を面白く思つた 何となく日本らしくない氣がするからである

うちへかへるとアミエルがきてゐた

皆樣によろしく 殊にわが敬愛する完ちやんによろしく云つてくれ給へ もう一つの手紙は公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]の御礼の手紙だ

    廿三日夜九時     芥川龍之介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:書簡中の漢詩四首は既にサイト版の芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」で総て訓読して注釈も附してあるのでそちらを見られたい。

「根岸氏」不詳。しかし、かく井川に書き送っているからには、井川の知っている人物である。しかし、京都に一人で一泊したはずの龍之介が、この井川と共通の知人「根岸氏」なる人物に、どこでどうやって逢い、東京まで行くという、その「根岸氏」の知り合いを紹介してくれるという事実は、何か妙におかしい気がする。一番、自然なのは、松江を立つ際にこの、井川の知人である根岸氏が京都まで同行し、二人は京都で降りたが、その根岸氏の会社関係等の知人で翌日東京に立つ人物がいたことから、話し相手として紹介しておいて、そこで別れたというシチュエーションである。ともかくも、この根岸なる人物が判らないのはちちょっと痛い(筑摩全集類聚版脚注には注がない)。

「大分おんちだつた」この一文、筑摩全集類聚版ではカットされている。この「音痴」は自分の能力や他人の思惑にお構いなく、何かというと熱くなって喋りまくる人という意味であろう。

「都ホテル」明治二三(一八九〇)年に油商西村仁兵衛が華頂山麓に保養遊園地「吉水園」を創業し、十年後の明治三十三(一九〇〇)年にその園内に「都ホテル」を創業、以来、日本最大の観光地京都の迎賓館として最高級ホテルとして君臨し続けたそれ。現在の正式名称はウェスティン都ホテル京都」(グーグル・マップ・データ)。

「敷島」当時の煙草の銘柄。多くの作家の小説に登場する。明治三七(一九〇四)年六月二十九日から昭和一八(一九四三)年十二月下旬まで生産・発売された。参照した当該ウィキによれば、『発売当初は国産の高級たばこであった。なお、「口付」は現在のフィルターとは異なり、紙巻きたばこに「口紙」と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口を着けたもので、喫煙時に吸いやすいようにつぶして吸ったものである。敷島には、江戸時代から高級葉として知られる国分種など鹿児島産在来葉と水府葉(茨城県久慈地方で産した良質の葉)が』六十%『も使用されていた(同じ口付銘柄の朝日は』『四十%)』(「朝日」は私も大学生の初めの頃に吸ったことがある。口付は二箇所で互い違いに十字に潰すのが正統と教わった記憶がある)。

「雲水」行脚僧。

「北垣靜處」北垣確(読み及び生没年未詳)は画家で第三代京都府知事で当時は枢密顧問官を勤めていた北垣国道(くにみち天保七(一八三六)年~大正五(一九一六)年)の長男。同志社予備校に明治二〇(一八八七)年九月入校するも、翌年には同志社英学校を退校して慶応中学に転校、その後、京都市立工芸美術学校を出て、日本画家となり、「北垣静處」と号した。大礼使典儀官(天皇の即位の儀式の執行担当官)も務め、父と同じく男爵であった。以上は国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらと、父親北垣国道のウィキを参考にした。当時、「四十に近」かったとすれば、明治一〇(一八七七)年前後の生まれか。

「ペパミント」リキュールの一種であるペパーミント酒(Peppermint liquor)。ペパーミント(シソ目シソ科ハッカ属ペパーミント Mentha × piperit の花を枝ごと、水蒸気蒸留して抽出した精油)をアルコール液に溶かして砂糖及び各種の芳香油エッセンスなどを加え、緑色色素で着色したもの。

「高折秀次」高折宮次(たかおりみやじ 明治二六(一八九三)年~昭和三八(一九六三)年:龍之介より一つ年下)。この大正四(一九一五)年に東京音楽学校器楽科を卒業し、大正十四年にドイツに留学して、レオニード・クロイツァー(Leonid Kreutzer ロシア語: Леонид Давидович Крейцер/ラテン文字転写:Leonid Davidovič Krejcer/カタカナ音写:レオニート・ダヴィードヴィチ・クレーイツェル 一八八四年或いは一八八三年~昭和二八(一九五三)年:ドイツと日本で活躍したロシア・サンクトペテルブルク生まれのピアニストで指揮者。昭和八(一九三三)年の再来日後、近衛秀麿の求めに応じてドイツに帰らず、死去するまで東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授を勤め、茅ヶ崎市に定住した)に師事し、翌大正十五年以降は母校で教えた。戦後の昭和二五(一九五〇)年に北海道大学教授となり、以後、北海道学芸大学教授・洗足学園大学教授を歴任した。演奏活動の他にウィーンやワルシャワでの国際音楽コンクールの審査員を務め、皇太后美智子にもピアノを教えている。著書に「ショパン名曲奏法」がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「シヨルツ」パウル・ショルツ(Paul Scholz 一八八九年~昭和一九(一九四四)年)はドイツのピアニスト・音楽家。ライプツィヒ生まれ。既出既注であるが、再掲すると、ハンブルク音楽院からベルリン高等音楽学校に進み、一九一二年卒。翌大正二(一九一三)年に来日し、東京音楽学校でピアノ教師として多くの弟子を育てた。九年後の退職の後も東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教師などを務め、東京を拠点にピアニスト・音楽教師としての活動を続けて演奏活動や後進の育成を行った。東京で亡くなった。

「ノクテユルヌ」フランス語「ノクチュルヌ」(nocturne)。夜想曲。ショパンの全二十一曲がピアノ曲のそれとして最も知られる。

「アミエルがきてゐた」人ではない。スイスの哲学者・詩人で文芸評論家でもあったアンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frédéric Amiel 一八二一年~一八八一年)の三十年に渡って書かれ、死後に出版された「アミエルの日記」のことである(Tagebuch :「ターゲブー」ドイツ語で「日記」。一八三九年~一八八一年)。一万七千ページに及ぶもの)。ウィキの「アンリ・フレデリック・アミエル」によれば、これは彼の死後、発見されたもので、発見されて間もなく、二巻本として刊行されるやいなや、『その思想の明晰さ、内省の誠実さ、個々の正確さ、実存の諦念的な幻想や自己批判的な傾向などにより、世間の耳目を引き寄せた。この日記は』十九世紀末から二十『世紀の』、『スイスのみならず』、『ヨーロッパの作家たちにも大きな影響を及ぼした。その影響をこうむった作家の中には、レフ・トルストイも挙げられる。日本でも戦前から翻訳され、河野与一訳(岩波文庫全』四『巻)や土居寛之抄訳(白水社)で長く読まれている。「心が変われば行動が変わる/行動が変われば習慣が変わる/習慣が変われば人格が変わる/人格が変われば運命が変わる/運命が変われば人生が変わる」が有名である』とある。私も二十代前半に岩波版を買ったものの、一巻目でリタイアした。

「完ちやん」井川の下の弟。末っ子。関口安義氏のシンポジウム記録・論文「文学青年から法科志望へ―恒藤恭の新たな出発―」(PDF)の注の⑴に、井川恭は八人兄弟の第五子で、上に三人の『姉(フサ(房)、シゲ(繁)、セイ(清)と一人の兄、亮ががおり、下に一人の妹、サダ(白)と二人の弟、真と完がいた』とある。彼自身の名からみて、「かん」と読んでよかろう。

「もう一つの手紙は公の御礼の手紙だ」こちらの方は旧全集には載らない。

「廿三日夜九時」帰宅した翌日の夜である。]

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