芥川龍之介書簡抄34 / 大正三(一九一五)年書簡より(十二) 吉田彌生宛ラヴ・レター
[やぶちゃん注:以下の手紙の相手である吉田彌生については、非常に変則的な形で悪いのだが、「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」の私の冒頭注の太字より後の部分でこの前後の経緯をコンパクトに記しておいたので、そちらを読まれたい。ここでは繰り返さない。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)の「書簡補遺」の中にあるもので、葛巻氏の割注解説は『大正三年末、詩稿と共に』とだけある。しかし、この葛巻氏の説明には私は甚だ不審を抱いている。何故なら、これはそのまま引用書の「書簡補遺」の解説と軌を一にしたものとして理解するなら――大正二年の年末に詩稿と一緒に芥川龍之介が吉田彌生に当てて送った書簡原本――ということになるからである。例えば、先の彼女宛の芥川龍之介のそれである「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」は、標題でも示した通り、葛巻氏が割注解説ではっきりと『草稿断片』と明記しているから、現存(「芥川龍之介未定稿集」刊行当時)していても何ら、問題ないし、不思議でも何でもないのであるが、この解説には「草稿」とか「下書き」という言葉がないのが極めて不審なのである。そもそもが、現在まで、芥川龍之介が吉田彌生に送った書簡というのは全集には載っていないのである。最初のリンク先の注で私が纏めたように、後の吉田彌生、結婚してからの金田一彌生は、その後、終生、芥川龍之介に関連した談話をすることはなかったとされており、夫光男に至っては、戦後、龍之介に関わるインタビューをしに来た記者を邪見に追い返してさえいるのである。さすれば、岩波の第一次以降の「芥川龍之介全集」に彼女宛の書簡が載らないのも、恐らくは当時の編集者が求めた書簡貸与依頼にも一切、終生、応じなかったし、今もそんなものが現存するという話は、この葛巻氏の「未定稿集」以外には私は知らないのである。第一次の編集者の一人であった葛巻が、その時か、或いはその後、個人的に彼女に接触し、借り受けたものという可能性も全否定は出来ないものの、知る限りの彌生の様子や金田一家の雰囲気からして、私は芥川龍之介の生前のとっくの昔に原書簡は廃棄されている気がするのである。寧ろ、これは詩稿が含まれているため、芥川龍之介が下書きしたものを筐底に詩稿用の保存として残していたものを、葛巻は実際に送られた書簡のように出したのではないか? と考えた方が、遙かに現実的で自然なのである、とだけは、どうしても言っておかねばならない。そもそもが、この解説の「詩稿」がどのようなものなのかも葛巻は言っていないし、同「未定稿集」の「詩」のパートにもそれと確かに名指し示すことが出来得るものは載っていないと私は断言してよいと考えている。或いは、私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中の未定稿詩篇の中にはあるのかも知れないし、ないのかも知れない。それは判らぬ。だいだいからして、詩稿と一緒に送られたものならば、詩を添えて示すか、同書の「詩」のパートに載せてこの吉田宛書簡に添えてあった詩だと示しておくべきであろう。既に全集に収録されているのであれば、それを名指すべきで当然である(こうした不全性や怪しい感じ(資料を恣意的に小出しにしているのではないかという疑惑)が葛巻氏が芥川龍之介研究者から甚だ不人気な理由なのである)。或いは、単に、葛巻は、この『詩稿』という言葉で、詩稿の断片に中に彌生宛の草稿らしきもの・下書きらしきものがあった言ったつもりだったのかも知れぬが、それはそれで、甚だ致命的な手抜かりであると言わざるを得ぬのである。]
大正三(一九一五)年十二月末・吉田彌生宛
こは人に御見せ下さるまじく候
YACHANとよびまつらむも
かぎりあるべく候 いつの日か
再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を 共
にきくこと候ひなむや
[やぶちゃん注:「YACHAN」は縦書き。]
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