芥川龍之介書簡抄50 / 大正四(一九一五)年書簡より(十六) 谷森饒男宛
大正四(一九一五)年十月六日・田端発信・牛込區辨天町 谷森饒男宛(葉書)
1 平安朝にて無位無官の人間が佩きたる太刀はどんなものに候や。矢張後鞘などかけたるもに候や。柄は葛卷か鮫か又は柄糸にてまきしものに候や。
2 無位無官の人間のかぶりものはどんな物に候や。普通の折鳥帽子に候や。
3 同上の人間のはき物はどんなのか。普通に候や。藺の履などは少し上等すぎまじくや。
右三件、國史大辭典にては埒あかず候間御尋ね申上候。何とぞ御敎示下され度願上候。匁々。
五日
田端四三五 芥川龍之介
[やぶちゃん注:本書簡は岩波版旧全集には所収しない。岩波新全集で初めて公にされたものらしく、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に載る(私は新全集の書簡部を所持しない)。ここでは恣意的に漢字を正字化して示した。私がこれを採ったのは、前にも述べたが、現在、かの「羅生門」(大正四年十一月一日発行『帝国文学』初出)の脱稿が、この書簡を出した前の九月と推定されているからである。底本の石割氏の「佩きたる太刀」への注に、『これら谷森への問いは、「羅生門」発表直前に平安時代の風俗を確認しようとしたのか、新たな作品の構想に必要であったのかは不明。因みに「羅生門」では「聖柄の太刀が鞘走るらないやうに」とある』とあり、「折鳥帽子」の注にも、『「羅生門」では「揉烏帽子が」とある』とされるのである。私にはこれが「羅生門」と無関係とは、到底、思えないのである。実際の「羅生門」の決定稿の脱稿はこの書簡の直後だったのではあるまいか?
「谷森饒男」既出既注であるが、再掲する。谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学―」(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。
「後鞘」不詳。読みも不詳。「あとざや」か。所謂、太刀の鞘の先の部分の石突(いしづき)金物のことを指しているか。刀剣用語でもヒットしない。
「柄糸」「つかいと」。刀の柄に巻く組糸(平たい紐)のこと。
「藺の履」「ゐのくつ」。「藺履(ゐぐつ)」。藺草(いぐさ)で編んで紙の緒を付けた裏張のない草履。
「國史大辭典」底本の石割氏の注に、明治四一(一九〇八)年に『八代国治らの編集で吉川弘文館刊』で、大正二(一九一三)年には『増補改訂版が刊行された。日本最初の本格的な日本史辞典』とある。]
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