伽婢子卷之二 眞紅擊帶
○眞紅擊帶(しんくのうちをび)
越前敦賀の津〔つ〕に、濱田の長八とて有德(うとく)人ありて、二人の娘を、もちたり。
その隣(となり)に、若林長門守が一族、檜垣(ひがきの)平太といふもの、武門を離れ、商人(あきびと)となり、金銀ゆたかにもちて、住〔すみ〕侍べり。
是(これ)に一人の子あり。平次と名づく。長八が娘と、おなじ年頃にて、いとけなき時は、常に出合〔いであ〕ひて、遊びけり。
平太、すなはち、
「長八が姊娘(あねむすめ)を、我が子の妻とすべき。」
よし、媒(なかだち)を以て、いはせければ、やがて、受けごひけり。
「さらば、其しるしに。」
とて、酒・さかなとゝのへ、眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり。
天正三年の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て、虎杖(いたどり)・木芽峠(きのめたうげ)・鉢伏(はちふせ)・今條(いまでう)・火燧(ひうち)・吸津(すひづ)・龍門寺(りうもんじ)、諸方の要害に楯(たて)ごもる。
其中に、若林長門守は、河野の新城に籠りしかば、信長・信忠父子、八萬餘騎を率(そつ)して、敦賀(つるが)に着陣あり、木下藤吉郞におほせて、河野(かうの)の城をとりかこませらる。
檜垣平太は、若林が一門なれば、敦賀にありて、とがめられむ事をおそれ、一家を開(あけ)のきて、所緣につきて、京都にのぼり、五年までとどまりつゝ、その間に、敦賀のかたへは、風のたよりも、なし。
長八が娘は、年、すでに十九になり、容顏(ようがん)うつくしかりければ、人皆、これを求むれ共、娘、更に聞入れず、
「みづから、いとけなき時より、一たび、平次に約束して、今、たとひ、捨てられたりとも、又、こと夫(をつと)をまうくべきや。その上、平次、もし、生(いき)てかへり來らば、誠に恥ずかしき事なるべし。」
とて、朝夕は、深く引籠り居たりけるが、平次が行方〔ゆくへ〕の戀しさ、露〔つゆ〕忘るる隙〔ひま〕なく、只、かりそめの手すさみにも、其人の事のみ、あらまされて、人しれぬ物思ひに、淚を流すばかりなり。
つひに、思ひくづをれて、病(やまひ)のゆかに臥し、半年餘(あまり)の後、つひに、むなしく成ければ、二人の親、大〔おほき〕になげき悲しみつゝ、「小鹽(こしほ)」といふ所のてらに、埋みけり。
母、その娘の額(ひたひ)をなで、平次がつかはしける眞紅の帶を取出(とり〔いだ〕)し、
「是は、いましの夫の、とらせたる帶ぞや。跡にとどめて、何にかせむ。黃泉(よみぢ)までも、見よかし。」
とて、むなしき娘が腰に結びて、おくり、埋みけり。
[やぶちゃん注:「擊帶」「新日本古典文学大系」版脚注には、『糸組みの帯』で、『組目をへらで打ち固めるところからの名。平打ち・丸打ちの二種があり、挿絵』(最初に掲げたものの駕籠の下方に落ちているそれ)『に見る網状の帯は丸打ちで、近世初期(十六世紀末十七世紀初頭)に流行した。本書巻八ノ三』の「歌を媒(なかだち)として契る」『にも』「花田の打帶一すぢ繩のやうなる」『とある。当時の風俗画によれば、主に少女や若い女性が着用し、体に数回巻いて大きく蝶結びにしたのち、房のついた両端を長く垂らした』と非常に詳しい説明が載る(但し、この注の冒頭で『別名、名古屋帯』とされておられるのだが、現行の和服業界では、「名古屋帯」は、近代(大正期)に考案された、速やかに締めることの出来る帯の名称として現に流通しているので、そこは外したことをお断りしておく)。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、ここで結納品としてこれを贈ることは『縁を結ぶしるしとして用いられた』とあることで、縁起物としてのそれが腑に落ちる。
「越前敦賀の津」現在の福井県敦賀市の「湊」の意。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「若林長門守」若林九郎左衛門。「怪奇談集」の「三州奇談」の注で非常にお世話になった昭和一七(一九三二)年金沢文化協会刊の日置謙氏の編になる「加能郷土辞彙」(「金沢市図書館」のこちらの使い勝手が非常によい)の「若林長門」によれば、『ワカバヤシナガト 若林長門 一向一揆の首領で、石川郡劔城』(白山山麓の加賀舟岡城の別名)『に居た。天正二』(一五七四)『年本願寺顯如の命により、長門は越前に入り、七里賴周』(しちりよりちか:本願寺の坊官(寺院の最高指導者(別当・三綱)などの家政を担当した僧。当該組織をも指し、行政機関に於ける「政所」に相当する)『と共に軍事を督した』(彼はこの時、朝倉景鏡(かげあきら)を倒し、越前を加賀と同じく一向宗門徒領国にする功に与(くみ)した)『が、三年八月織田信長は羽柴秀吉を派して一揆を討伐せしめるや、八月十碁五日秀吉は海を渡つて河野浦に上陸し』、『新城を攻め、長門等』が『之を防いだが』、『敗れて遁走し、戰死二』、『三百人に及んだ。總見記にこの時長門も亦歿したと記するのは誤である。長門は八年金澤御坊の陷落後も尙存命してゐたが、柴田勝家は之を討たんと欲し、十月七日自ら粟生に陣し、柴田勝政等をして柏野に進擊せしめた。長門は敵の先鋒と爭ふこと少許』(すこしばかり)『の後』、『松任に退き、若し舊領を安堵するを得ば降を容れんことを申出で、勝政は佯』(いつは)『つて之を許したので、長門は子雅樂助』(「うたのすけ」であろう)『・甚八郞と共に、勝家の恩を謝せんが爲その本營に赴いた。勝家乃』(すなは)ち部下の三人を『一室に伏せしめ、長門の一禮するを待つて之を斬り、二子も亦別室で殺され、勝家は十一月二十日附の注文で、是等の首を安土に送つたといふ。併し關屋政春古兵談には、長門が越前丸岡に至つて柴田勝政に謁した際殺されたのであるとしてゐる』とある人物である。正直、「新日本古典文学大系」版脚注よりも実事績がはっきり判る。
「受けごひけり」「諾(うけご)ひけり」。受諾した。
「さらば、其しるしに」「とて」「眞紅(しんく)の擊帶(うちおび)ひとつ、娘に、とらせたり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『婚約成立のしるしとして』、『結納に帯を贈る風習があった』として、「女重宝記」(おんなちょうほうき)の巻之二の「嫁取言入ならびに日取の事」を引用する。所持する一九九三年社会思想社刊本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該部の画像を見て示すと(右頁後ろから三行目)、
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中(ちう)より下(した)のたのみ[やぶちゃん注:男方から女形への結納を「賴み」と呼ぶことが同条の最初の方に記されてある。]には、帶又は金銀に樽・さかな、そゆるもあり。
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とあってここと一致する。「中より下」というのは身分(経済状況の差を含む)の違いを言っているようである。
「天正三年」(一五七五年)「の秋、朝倉が餘黨、おこり出〔いで〕て」「新日本古典文学大系」版脚注に、『八月越前国朝倉が余党おこりて下間和泉守』(足羽郡司であった下間(しもつま)頼俊のこと。後に出る下間頼照の長男)『虎杖の城にたてごもる。石田正光寺』(福井県鯖江市杉本町にある旧石田山西光寺、現在の石田殿西光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。後の幕末の万延元(一八六〇)年に関白九條兼実から直筆の殿号額を下賜されて寺院では全国で唯一の殿号寺院となった)。天正三(一五七五)年西光寺第五世真敬の時、木芽峠に山寨を構え、信長勢と戦ったが、多勢に無勢、真敬は木芽峠で自刃した。以上は竹内敏夫氏のサイト「写真で訪れる蓮如の里 吉崎御坊とその周辺」の「西光寺」に拠った)『は木芽峠に要害をかまへ、阿波賀三郎兄弟』(阿波賀景賢(あばが かげたか)と弟か。朝倉孝景の家臣)『下間筑後守』(下間頼照(らいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は頼俊の父。通称、筑後法橋。顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣されて平定し、実質的な本願寺領としたことから、実際には越前守護又は守護代として在住していたと考えられる。この年の織田の侵攻では、頼照は観音丸城に立て籠もったが、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり(一揆の主力であった地元勢力は大坂から派遣された頼照らによって家臣のように扱われることに激しい不満を抱いていた。実際に天正二(一五七四)年には反乱を起こして頼照ら本願寺勢力によって弾圧された経緯があった)、織田方の猛攻に拠点の城は落城、頼照は海路をのがれようとしたが、同宗内で対立していた真宗高田派の門徒に発見されて首を討たれて死んだ。ここは当該ウィキに拠った)『今条と火燧が城と二箇所をかため、大垣円幸寺』(不詳)『吸津の城にこもり、河野の新城には若林長門守たてごもり、三宅権之丞』(不詳。最初の織田侵攻の際に織田勢を破った人物ではある)『は竜門寺にこもる』とある。
「朝倉が餘黨」前注から判る通り、実は織田に討たれた朝倉義景(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)の残党ではなく、一向一揆勢を指す。ウィキの「石山合戦」によれば、『天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年』一『月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も』、『次々と』、『一揆により』、『織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく』、『一向一揆の』勢力権にある『国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった』。『これを知った顕如は、はじめ』『七里頼周』(しちりよりちか:武将にして本願寺坊官)『を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し』、四月二日、『石山本願寺は織田家に対し』、『再挙兵した』。『本願寺は長島・越前・石山の』三『拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があ』り、『信長はそれを最大限に活用して各個撃破に』出、七月、『信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の』三『個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず』、九月二十九日には『降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず』、『長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の』二『個所』で『は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害し』ているとある。
「虎杖(いたどり)」「新日本古典文学大系」版脚注では地区を示して、『福井県南条郡今庄町板取。北陸道の宿駅であるとともに軍事的な要衝としてしばしば合戦の場となり、虎杖城、西光寺城』(ここ)『などが築かれた』とある。但し、板取は現在は福井県南条郡板取であり、虎杖城自体は現在の行政地名では、その境界域の外に当たる福井県南条郡南越前町八飯(やい)に城跡がある。
「木芽峠(きのめたうげ)」同じ板取地区のここにある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『今庄』(旧板取地区を含んだ福井県南条郡南越前町今庄地区)『と敦賀との間にある木ノ目峠』(木ノ芽峠が正しい。国土地理院図)。『敦賀を経由して京都へ向かう北陸街道の枝道、西近江路の要衝。峠道を挟むように城の遺構がある』とある。個人サイト「街道の風景」の「木ノ芽峠」が非常に詳しい。必見!
「鉢伏(はちふせ)」ここ(国土地理院図)。個人サイト「城郭放浪記」の「越前 鉢伏城」がよい。
「今條(いまでう)」前の注で示した旧今庄地区のこと。「新日本古典文学大系」版脚注には、『北陸街道の宿駅で南に』木ノ芽峠、『西に山中峠、北に湯尾峠を控えた交通の要衝』とある。
「火燧(ひうち)」南今庄協会直近の今庄地区のここに城跡がある。
「吸津(すひづ)」福井県敦賀市杉津(すいづ)。地図を見ても、岡崎山砦・杉津砦・河野丸砦の山寨跡が確認出来る。
「龍門寺(りうもんじ)」福井県武生(たけふ)市本町に現存する曹洞宗の寺院附近にあった城。ここ。「城郭放浪記」の「越前 龍門寺城」によれば、天正元(一五七三)年に『富田長繁によって築かれたと云われる。もともと龍門寺があった所と云われる』。天正元年、『織田信長によって朝倉氏が滅ぼされると、朝倉氏の家臣であった富田長繁は』、『いち早く信長に降って、府中を領し』、『龍門寺城を居城とした』。翌天正二年に『一向一揆が起こると』、『それに加担して確執のあった守護代桂田長俊(前波』(まえば)『吉継)を敗り、更に魚住景固』(うおずみかげかた)『父子を謀殺して越前一国を支配した。長繁は織田信長に越前守護の朱印状を要求するなど』、『地位を固めようとしたが』『悪政を施』(し)『いたため』、天正三(一五七五)年に『一向一揆の襲撃を受け、この戦いの最中』(さなか)、『家臣の小林三郎次郎吉隆に裏切られ』て『討死にした』。同年、『越前を再び平定した織田信長は北庄城に柴田勝家を置くとともに、越前府中に前田利家・佐々成政・不破光治を柴田勝家の目付として配置し』、『府中城には前田利家、小丸城には佐々成政、龍門寺城に不破光治が入り』、『合わせて十万石を領した』。天正八年、『不破光治は没し、不破直光が家督を相続したが、賤ヶ岳合戦後は前田利家に仕えた』とあり、『現在の龍門寺一帯が龍門寺城跡である』とされ、天正一六(一五八八)年になって、『再び龍門寺が再建されて現在まで続いているが、城域はもっと広く本町一帯であったと考えられて』おり、『明瞭な遺構は残っていないが』、『寺の南側にある墓地が堀跡の名残として周囲より一段低い位置になっている』とある。この附近か(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「河野の新城」現在の福井県南条郡南越前町河野。「新日本古典文学大系」版脚注には、『府中(武生市)と西街道で結ばれ、敦賀へ船の便があった』とあるだけで「城」については述べていない(私の示した同一の場所を指している)。ただ、調べてみても、この地区に城塞があったことを確認出来ない。識者の御教授を乞う。
「開(あけ)のきて」住んでいたところを引き払って立ち退いて。
「みづから」「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。
「こと夫(をつと)」「異夫」。
「かりそめの手すさみにも」気晴らしのために歌などを詠んで書いてみたり、遊戯をしたり、物見遊山をしたりしてみても。
「あらまされて」自然に胸中に思い巡らされて。
「思ひくづをれて」「思ひ崩折れて」。重い心身症のような状態になったのであろう。
『「小鹽(こしほ)」といふ所のてら』「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。似た地名に越前国南仲条郡王子保(福井県武生市大塩町)があるが、菩提寺としては遠過ぎるか』とあり、調べると、ここで、ちょっと遠過ぎて、あり得ない。後で四十九日の墓参のシーンが出るが、駕籠を使うとは言え、女連れで、朝に出でて、夕暮れに戻ってこれるような距離(往復で六十キロメートルはある)では物理的にないからである。一方、岩波文庫「江戸怪談集(中)」では、『敦賀郊外の地名。「をしほの西光寺にをくりて土葬にいたし」(平仮名・因果物語』巻四の六)』とある。この寺が現在の福井県敦賀市大比田の西光寺であるとすれば、往復で二十六キロ程度で、まあ、一日で行けぬ距離ではない(但し、侍女を歩かせてのそれは、かなりきつい気はするが)。
「むなしき娘が腰に結び」これが執心の契機となっていることに注目しなくてはならない。
「おくり」野辺の送りをし。]
三十日あまりの後、平次、すなはち、來りぬ。
長八、これをよびいれて、
「如何に。」
と問へば、答へていふやう、
「若林長門守が、河野の新城に楯籠りしかば、信長公、八萬餘騎にて此敦賀に着陣あり。もし、『若林が一族なり』とて、尋ねいましめられん事を恐れて、とる物もとりへず、京都にのぼり、所緣につきて、暫く住居(すまひ)せし所に、打續きて、二人の親、むなしくなりければ、往昔(そのかみ)の契約、わすれがたくて、ここに歸り來れり。」
といふ。
濱田夫婦、淚を流していふやう、
「姊娘は、そのころより、そこの御事を思ひあこがれ、病を受けて、去〔いん〕ぬるつきの初めつかた、つひに、むなしくなり侍り。久しく便りのなかりつる事を、さこそ恨み思ひけむ。これ、見給へ、硯の蓋に書おきたり。」
とて、なくなく、取り出して、平次に見せたり。
その歌に、
せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花
しらぬ山路のおくにさくとも
平次、是を見るに、我身のつらさ、今更に思ひ知られて、悲しき事、かぎりなし。
佛持堂にまいり、位牌の前に花香たむけ、念佛となふれば、二人の親、うしろに來りつつ、
「これこそ、汝が戀ける平次の手向〔たむけ〕なれ。よくよく、うけよ。」
とて、ふしまろび、悲しみ歎きければ、平次を初めて、家にある人、皆、一同に聲をそろへてなきけるも、あはれなり。
濱田夫婦、いふやう、
「今は父母もおはせねば、獨身〔ひとりみ〕となりて、心細かるらむ。今、姊娘の死したればとて、餘所(よそ)にやは見るべき。同じくは、此家におはして、ともかうも、身の業(なりはひ)をいとなみ給へ。」
とて、家の後ろに、住所〔すみどころ〕しつらひて、とゞめおきたり。
[やぶちゃん注:「すなはち」(前触れもなく)急に。
「せめてやは香(か)をだににほへ梅(むめ)の花しらぬ山路のおくにさくとも」「香」は「音信」を、「しらぬ山路のおく」に「平次のいる知らぬ異郷」を、平次への変わらぬ思慕の念を梅の花の香りの漂いに掛けたもの。岩波文庫「江戸怪談集(中)」によれば、「千載和歌集」の「巻第一 春歌上」一の道因法師の一首(六二番)、
花の歌とてよめる
花ゆゑに知らぬ山路はなけれどもまどふは春の心なりけり
に基づくとある。上手くインスパイアしてある。
「我身のつらさ」平次が彼女にかけてしまった辛い思いを知って、己(おのれ)の薄情に思い到ってつらく思うているのである。
「佛持堂」持仏堂。持仏や先祖の位牌を安置した室。仏間。言わずもがな、浄土真宗であろう。
「餘所(よそ)にやは見るべき」「どうして赤の他人のように冷たく突き放すことが出来ようか、いや、出来はせぬ」。]
[やぶちゃん注:武家が用いる高級な駕籠に(二人乗りと思われ、妹娘の奥に長八の妻が乗るか)奥には前に被(かづき)をした侍女二人、杖を突いて両脇差を指し、釘貫(くぎぬき)紋をあしらった裃を着ているのが長八であろう。下人一人(こちらも両脇差)と挟箱を負うた下男もいる。平次は長脇差一本である。これから、我々が想像する以上に浜田長八は分限者であることが判る。但し、彼が武士であるかというと、戦国時代の本百姓の村長(むらおさ:江戸時代の名主・肝煎クラス)では名字帯刀(事実上の安全のためにである)した者が多かったから、そうと早合点することは出来ない。ただ、平次の父檜垣平太は若林九郎左衛門の一族とあり、彼の方から浜田長八に娘を嫁に呉れと「頼み」をしているからには、浜田も事実上の武士格であったと考えて構わない。なお、駕籠舁きが頭部に死者のする三角巾をしていることに気づかれるであろう。これは実は現在でも、地方によって、葬儀の折りに火葬場や墓へ向かう送迎の運転手を親族が行う場合に行われる葬送儀礼として残っている。私が思うには、原初、死者の亡骸は魂のない「骸(から)」であることから、悪霊がそこに入り込み易いと考えられたことから、複数の死者を生者が演じることによってその侵入を阻止する目的があったものと考えている。四十九日の法要にそれをやる習慣が、今、残っているかどうかは定かでないが、少なくとも江戸時代にはそうした習慣(その意味認識はなかっただろうが)が実行されていたことを証明する挿絵として重要である。]
かくて、四十九日の中陰、とりおこなひ、家、こぞりて、「小鹽」の墓にまうでつゝ、平次をば、留主(るす)せさす。
下向のとき、日すでに誰(たそ)がれに及びて、平次は、門に出〔いで〕むかふ。
みな、をのをの、入〔いり〕たりけるに、いもうと娘、今年、十六歲なるが、乘物の内より、何やらむ、おとしけり。
平次、ひそかにひろふてみれば、眞紅の帶也。
ふかくおさめて、内に入つゝ、わが住〔すむ〕かたに歸り、ともしびのもとに、物思ひつゞけて、ひとり、座し居たり。
[やぶちゃん注:「中陰」中有(ちゅうう)に同じ。「四有(しう)」。生有(しょうう:衆生生まれる瞬間)・本有(生まれて後、死ぬまでの身)・死有・中有の一つ。死有から次の生有までの間で、人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までの間を指す。
「平次をば、留主(るす)せさす」彼を連れて行かないのは、彼がつらいと思うことを考えたのではなく、冥界に存在を異にする娘の執心を憚ってのものであろう。しかしそれは帯を結んだ時点で無効となっていたのである。
「誰(たそ)がれ」古くは「たそかれ」と清音。語源は「誰 (た) そ彼 (かれ) は」で、「暗くなって人(或いは魔物。さればこそ別に「逢魔が時」とも呼ぶ)の見分けがつきにくい時分」の意で、夕方の薄暗い頃、夕暮れを指す。
「ふかくおさめて」懐深く収めて。字背に「秘かに」(誰にも気づかれぬうちにさっと)の意が強く籠められてある。]
夜ふけ、人、しづまりてのち、妻戶を音づるゝもの、あり。
戶をひらきて見れば、妹娘(いもとむすめ)なり。
そのまゝ内に入て、囁(さゝや)きいふやう、
「みづから、姊にをくれて、嘆きにしづめり。向(さき)に眞紅の帶を投(なげ)しを、君、ひろひ給ふや。ふかき宿世(すくせ)、わすれがたくして、これまで、しのびてまいり侍べり。契りをむすびて、偕老のかたらひをなさん。」
といふ。
平次、きゝておどろき、いふやう、
「ゆめゆめ、あるべき事ともおぼえず。御父母(〔おん〕ちゝはゝ)のなさけありて、我をやしなひ給ふだにあるを、ゆるされもなくして、正(まさ)なきことをおこなひ、もし、もれなん後〔のち〕をば、いかゞせむ。とく、とく、歸り給へ。」
といふ。
妹、大にうらみ、いかりて、云やう、
「わが父、すでにむこの思ひをなし、此家に、やしなへり。みづから、こゝに來れる心ざしをむなしくなし給はゞ、身をなげて死なんに、必ず、後〔のち〕の悔みをなし、生をかへても、怨みまいらせむ。」
といふ。
平次、力なく、その心に、したがひけり。
曉になりて、妹は、おきて、いにけり。
[やぶちゃん注:「妻戶」一般には両開きの板戸で、家屋の端(つま:角)に設けた外部に通ずる戸の意。
「姊にをくれて」姉に先立たれて。
「向(さき)に」先ほど。
「ふかき宿世(すくせ)」前世からの非常に親密な因縁。古く中古より、夫婦・親子の縁は二世(或いは前者の相愛するものは三世とも)、主従は三世の縁と言う。
「偕老のかたらひ」偕老同穴の「語らひ」(男女が契りを交わすこと)。夫婦が仲睦まじく添い遂げること。夫婦の契りが堅く仲睦まじい喩え。「夫婦がともに睦まじく年を重ねて、死後は同じ墓に葬られる」の意から。「偕」は「ともに」の、「穴」は「墓の穴」の意。出典は「偕老」の方は「詩経」の「邶風(はいふう)」にある「撃鼓」で、「同穴」は同じ「詩経」の「王風」にある「大車(たいしゃ)」の句に基づく。なお、生物としての海綿動物門六放海綿綱リッサキノサ目 Lyssacinosida カイロウドウケツ科カイロウドウケツ属カイロウドウケツ Euplectella aspergillum と、その網目構造内の胃腔の中に、雌雄で片利共生する十脚(エビ)目抱卵亜目オトヒメエビ下目ドウケツエビ科ドウケツエビ Spongicola venusta については、私の「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(7) / ドウケツエビの注はちょいと面白いぜ!」を参照されたい。
「正(まさ)なきことをおこなひ」父上の許しを得ずに交わって、道理に外れたことを行い。
「むこの思ひをなし」私(妹娘)の婿としたつもりで。
「いにけり」「去にけり」。]
それよりは、ひたすらに暮に來りて、朝(あした)にかへる。
よひよひごとの關守をうらむるばかり、うちとけて、わりなく契りけり。
三十日ばかりの後、ある夜、又、來りて、平次に語るやう、
「今までは、人、更にしらず。されども、ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん。君、我をつれて、垣をこえて、跡をくらまし給へ。心やすく、偕老を契らん。」
といふ。
平次も、此うへは、わりなき情の捨難くして、うちつれて忍び出つゝ、三國(みくに)の湊に被官のものありける、それがもとに行て、
「かうかう。」
と名のり、
「賴む。」
よし、いひければ、かひがひしくうけいれて、一年ばかり、かくれ住〔すみ〕侍べり。
[やぶちゃん注:「よひよひごとの關守うらむるばかり」「毎夜毎夜の逢瀬を邪魔する者をいつもいつも恨むほどに、一夜として来ぬ日はなく、繁く」の意。「伊勢物語」第五段、
*
むかし、男ありけり。東(ひむがし)の五條わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば[やぶちゃん注:人に知られては困る秘かな通い場所であったので。]、門(かど)よりもえ入らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地(つひぢ)のくづれより、通ひけり。人しげくもあらねど[やぶちゃん注:その家は人の出入りがたいして多くはなかったのだけれども。]、たび重なりければ、あるじ、聞きつけて、その通ひ路(ぢ)に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、え逢はで歸りけり。さて、よめる、
人知れぬわが通ひ路の關守は
宵々ごとにうちも寢ななむ
[やぶちゃん注:「うちも寢ななむ」は「眠ってしまってほしいものだ」の意。「うちも」は「うち」が強調の接頭語で、「も」も係助詞で強意。「なむ」は願望の助詞。]
と、よめりければ、いといたう、心やみけり[やぶちゃん注:主語は女。]。あるじ、許してけり。
二條の后(きさき)にしのびて參りけるを、世の聞えありければ、兄人(せうと)たちのまもらせ給ひけるとぞ。
[やぶちゃん注:「許してけり」警護を緩くした。「二條の后」在原業平と悲恋で知られる藤原高子(たかいこ)。後の清和天皇の女御となった。]
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に引っ掛けたもの。
「ことは、もれやすければ、もし、あらはれて、うきめをやみん」「新日本古典文学大系」版脚注に、『秘密の漏れやすいことをいう諺の「言(こと)ノ洩レ易キハ禍(わざはひ)ヲ召』(まね)『ク之』(の)『媒(なかだち)也」に即した表現。原拠は臣軌・慎密章』とある。「臣軌」(しんき)は、中国唐代の典籍で六七五年に高宗の皇后武則天の命を受けた周思茂(しぼう)・元万頃(ばんけい)・范履冰(りひょう)・苗神客(びょうしんきゃく)・胡楚賓(そひん)により編纂された、儒家の伝統的な道徳概念を基礎として、臣下の心構えや忠君を説いたもの。二巻十編(国体・至忠・守道・公正・匡諌・誠信・慎密・廉潔・良将・利人)より構成されており、当時の官人及び科挙受験者たる挙人らの必読の典籍とされた。中国では早くに原本が失われたが、本邦では後世まで伝わり、江戸末期に林述斎により、編纂された「佚存叢書」などに収録されている(以上は当該ウィキに拠った)。
「垣をこえて」「新日本古典文学大系」版脚注には、『家の垣を踏み破って。「垣を越す」には道理や決まりを破るの意味もある』とあった。目から鱗の優れた注である。
「三國(みくに)の湊」福井県坂井市三国町。敦賀との位置関係が判るようにリンクさせた。
「被官のもの」「新日本古典文学大系」版脚注に、『本百姓に隷従する水呑百姓や商家の下男下女など』、『身分の低い者』を指すとし、『平次の家で侍の時分に召し使っていた下人か』とある。
「かひがひしく」「甲斐甲斐しく」。即座に、頼もしくも。]
女、ある時、いふやう、
「父母のいましめのおそろしさに、君と、つれて、こゝには迯(にげ)來りけれ。すでに一年の月日を過〔すぐ〕したれば、二人の親、さこそ、みづからを思ひ給ふらめ。今は、いかにも、つみ、ゆるし給はん。いざや、古鄕にかへらん。」
といふ。
平次、
「此上は。」
とて、つれて、敦賀にかへり、まづ、女をば、舟にをきて、我身ばかり、濱田が家にいたり、案内(あんない)して、對面(たいめん)をとげていふやう、
「さても、我、さしも、いたはりおぼしけるを、御ゆるされもなく、まさなきわざして、不義の名をかうふりし事、そのつみ、かろからずといへども、すでに年を重ねぬれば、今は、いかりもゆるくなり給はん。此故に、これまで、つれて、歸り侍べり。罪、ゆるし給はんや。」
といふ。
[やぶちゃん注:「いましめ」駆落ちに対する勘当などの懲戒。
「さこそみづからを思ひ給ふらめ」「みづから」は先の一人称自称。「さぞかし、私のことを思って心配なさっておられることでしょう」。
「此上は。」「そう言うのであれば、そうしよう。」。
「舟にをきて」浜田の家が敦賀湾に近いか、笙の川或いは井の口川の河口からそう遠くない位置にあったことが窺える。
「案内して」来意を告げて、取り次ぎを頼み。
「さしも、いたはりおぼしけるを」あれほどまでに、私めを労わって下さり、よきように計らって下さったにも拘わらず。
「御ゆるされもなく、まさなきわざして」お許しもないのに、およそ道理から外れた行いをなし。
「不義」不義密通。]
濱田、聞て、
「それは、いかなる御事ぞ。更に、心得がたし。」
といふ。
平次、ありのまゝにかたりて、眞紅の帶を取出して、みせたり。
その時、濱田、大〔おほき〕におどろき、
「此帶は、そのかみ、姊に約束せし時に給はりし物也。姊、むなしくなりければ、棺におさめて、うづみ侍べり。又、妹は、やまひおもく、床にふしてあり。君とつれて、他國にゆくべき事、なし。」
とて、
「舟にとゞめをきたり。」
といふをきゝて、人をつかはしてみするに、舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。
[やぶちゃん注:「舟には、ふなかたの外は、更に、人、なし。」「ふなかた」は船頭。私は個人的にはこの部分は甚だ不満である。ここは平次自らが舟に赴いて彼女を連れてくるべきであった。それは私が最後の注で語る、本話の本当の原話に沿うものであり、その原々話の驚愕のシークエンスこそが、本話の幻想性を最も高らかに掲げるものとなったはずだからと考えるからである。さらに言えば、こうした結果、次の頭の『「是は。そもいかなる事ぞ。」とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ』というシーンが、浜田夫婦が驚き、疑う理由が、『平次は気狂いになったのではないか?』という上手くない感じのシーン挿入になってしまうばかりだからでもある。]
「是は。そもいかなる事ぞ。」
とて、濱田夫婦は驚き、うたがふ處に、妹の娘、そのまゝ、床より立あがりて、さまざま、口ばしりて、
「我、すでに平次に約束ありながら、世をはやうせしかば、をくり捨られて、塚の主〔あるじ〕となされしかども、平次に、ふかきすぐせの緣、あり。此故に、今、又、こゝに來れり。ねがはくは、我が妹をもつて、平次が妻となしてたべ。然らば、日比〔ひごろ〕の病(やまひ)も、いゆべし。これ、みづからが、心に望むところなり。もし、此事をかなへ給はずは、妹が命をも、おなじ道にひきとりて、我が黃泉(よみぢ)の友とせむ。」
といふ。
家うちの人、みな、驚きあやしみて、其身をみれば、妹のむすめにして、その身のあつかひ・物いふ聲・こと葉は、皆、姊の娘に、少しも、たがはず。
父の濱田、いふやう、
「汝は、巳に、死したり。如何でか、其跡までも、執心深くは思ふぞや。」
と。
物(もの)の氣(け)、答へていふやう、
「自(みづか)ら先世(せんぜ)に深き緣ある故に、命こそ短かけれ共、閻魔大王に、いとまを給はり、此一年餘りの契りを、なし侍べり。今は、迷塗(よみぢ)に歸り侍べる。必ず、みづからがいふ事、たがへ給ふな。」
とて、平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ、さて、いふやうは、
「かまへて、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ。」
とて、
「わなわな」
と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり。
人々、驚き、容(かほ)に、水、そゝぎければ、妹、よみがへり、病は、忽ちに、いえたり。
先の事共を問ひけるに、一つも、覺えたる事、なし。
是によりて、つひに、妹娘を以て、平次と夫婦になしつゝ、さまざま、佛事をいとなみ、姊娘が跡をとぶらひ侍べり。
これを聞(きく)人、
『きどくのためし。』
に思ひけり。
[やぶちゃん注:「妹」の肉体に姉の亡魂が憑依して口走っているわけだが、そうなると、妹が平次のところに夜這いをかけたのも妹ではなく、妹の化けた姉の化身であったということになる。しかも姉の亡霊は妹を一年余り病臥させていたことになり、妹の実存在のキャラクターが作品としては全く描けていないのである。或いは「この妹は、ある意味、ひどく可哀そうだとは言えないか?」という読者が必ずいた(いる)に違いないという感じを私は持つ。私自身が本話の初読時にその違和感を強く持ったからである。本話の最大の瑕疵はまさにそこにあるとさえ私は思うのである。そうして、後に示す原々話が卓抜であるのは、まさにそうしたものが完全に解消されているからでもあるのである。
「世をはやうせしかば」「世を早うせしかば」。早世(早逝)してしまったので。
「をくり捨られて」「をくり」はママ。野辺の送りも形ばかりに、捨てるように葬られて。夭折・早世した若者の葬儀は、古くは、一般には、半人前の存在、則ち、魂が正常でないものと考えられ、意想外に質素で簡略化された形で行われるのが普通であったと私は認識しており、この謂いは見かけ上は実は私には全く違和感はないのである。
「身のあつかひ」身振り。仕草。
「物(もの)の氣(け)」「物の怪」。則ち、ここまで了意は、姉の亡魂を〈執心に凝り固まった御霊(ごりょう)〉のように捉えて描出していることが判るのであり、ここまでの姉の霊が妹に憑依して喋りまくるシークエンスは、実は我々が思うよりも、もっと陰惨で、かなり気味の悪い怪奇場面として語っているのだということを認識しておく必要があるのである。それがやっと明るく透明な感じになるのは、「平次が手をとり、淚をながし、暇乞(いとまごひ)して、又、手を合せ、父母を拜みつゝ」、「かまへて」(副詞。意志・命令の表現を伴って「きっと・必ず・なんとしても」の意)「、平次の妻となるとも、女の道、よく守り、父母に孝行せよや。今は是までぞ」と言いおくシーンであるが、その後にも「わなわな」「と、ふるひて、地に倒れて、死入(しに〔いり〕)たり」(最後は気絶したという意)という怪奇シーンを添えているのからもよく判る。怪奇譚としては〈お約束〉であり、「別にいいじゃん」と言う方もあろうが、私は気に入らない。それほどに原々話が優れているからである。
「迷塗(よみぢ)」は「迷途」の誤字か当て字。「迷途」自体が「冥途」の誤字である。
「きどくのためし」「奇特の例」。「非常に珍しく不思議な出来事の一つ」の意。
さて。本篇は確かにの明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集「剪燈新話」の巻之一の「金鳳釵記」(きんぽうさいき)が種本ではあるのだが、一読、「金鳳釵記」自体が明らかに唐代伝奇の陳玄祐(げんゆう)撰の名作「離魂記」を焼き直したものに過ぎないことは明白である。しかも、了意なら「離魂記」を読んでいなかったとは思われないのである。「金鳳釵記」を私は高く評価しない。されば、「青空文庫」の田中貢太郎の邦訳版ででも読まれるが、よろしかろう。「離魂記」は少し古い私の電子化物で正字漢字に不全があるが、「無門關 三十五 倩女離魂」で原文・訓読・拙訳が載せてあるので、是非、本篇と対照して読まれたい。私の言ってきた意味が納得されるはずである。そこでは姉妹ではないし、亡霊でもない。女は二人の分身なのだ。それが、互いに寄り合って合体するのだ! 四十年も昔のことだが、初任校で半強制でやらさせられた漢文の補習で、「やるんなら、面白いやつをやってやる!」とこれを採用したのを懐かしく思い出す。考えてみると、あれっきり、不思議なことに、後に一度も授業では採り上げなかったな。私の中では遂に「奇特な例」だったわけだ。]