伽婢子卷之一 黃金百兩 / 伽婢子卷之一~了
○黃金百兩
河内國平野と云所に、文(あやの)兵次とて、有德(うとく)人あり。しかも、心ざし、情ある者也。
同じ里に、由利(ゆりの)源内とて、生才覺(なまさいかく)の男、兵次と親しき友だち也。松永長慶(ながよし)に召抅(めしかゝへ)られ、代官になり、老母・妻子共に、大和國に引〔ひき〕こしけり。其(その)まかなひに詰(つま)り、兵次に黃金百兩を借(かる)。元より、親き友なれば、借狀・質(しち)物にも及ばず。
[やぶちゃん注:「黃金百兩」の標題は目録の読みに従うと(言い忘れたが、目録は本文のそれとは孰れも一致せず、説明的な長いもので、例えば、本篇の場合は「文兵次黃金をかして損却する事付過去物語」である。いちいち頭で出してもいいが、これで内容が判ってしまうのはちょっと私には面白くないので、敢えて添えない)、「わうごんひやくりやう」である。
「河内國平野」大阪府柏原市(かしわらし)平野(グーグル・マップ・データ。以下同じ)かと思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注では、その北に接する『山ノ井町』とする。
「有德」ここは裕福なこと。
「生才覺」中途半端な才能。生半可な知恵。猿知恵。
「松永長慶」戦国から安土桃山時代の武将松永弾正(だんじょう)久秀(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)を、当初に仕えた主君三好長慶(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)と混同した誤りであろう。堺代官となり、永禄二(一五五九)年に奈良に入部して多聞城,・信貴山城などを築き、山城の国人を追い出した。三好家家老となるに及び、勢力を伸張して三好義継に足利義輝を殺害させ、畿内に実権を揮った。同十年、三好三人衆と戦い、東大寺大仏殿を焼き、翌年に織田信長が入京するや、これに従って大和信貴山を安堵された。しかし、その後の信長の天下統一の政策に対し、足利義昭を挟んで、表裏のある行動を重ねたために信長の攻撃にあって信貴山城で自害した。
「まなかひ」「賄料(まかなひれう)」の略。「ある事柄にかかる経費」。ここはその引っ越しに掛かった総額費用。
「借狀」借用証文。
「質物」(しちもつ)は担保物件のこと。]
こゝに、此ころ、細川・三好の兩家、不和にして、河内・津の國わたり、騷動す。兵次は一跡(せき)殘らず、亂妨(らんばう)せられ、一日を送る力も、なし。
[やぶちゃん注:「細川」戦国大名で室町幕府第三十四代管領にして山城国・摂津国・丹波国守護であった細川晴元(永正一一(一五一四)年~永禄六(一五六三)年)。彼の武将となっていた三好長慶が将軍を巻き込んで反逆に及び、天文一六(一五四七)年以降、摂津・河内で断続的に戦さを交え、永禄四(一五六一)年に当主に代えていた次男細川晴之が三好軍に敗退して戦死し、三好長慶と和睦したものの、摂津の普門寺城に幽閉された。
「津の國」「攝津」。
「一跡」後継者に譲るべき跡目一式で全財産の意。
「亂妨」暴力を揮って物を奪い取ること。]
弘治年中、暫らく、物靜(しづか)に成ければ、三好は京都にあり、其〔その〕家老松永は和州に城を構へ、大〔おほき〕に、民百姓を貪る。
去〔さる〕ほどに、兵次は妻子をつれて、和州に行き、源内を尋ぬるに、松永が家にして、權威高く、家の内、賑々(にぎにぎ)し。兵次、おとろへて、形、かじけ、おもがはりしたり。その近きあたりに宿かりて、妻子を置き、我身ばかり、源内に逢て、
「かうかう。」
といふ。
源内、初めは忘れたりけるが、故鄕・名字、こまごまと聞て、
「誠に。」
と驚き、酒、進めて、飮ませながら、借金の事は、一言も、いはず。
兵次も、いふべき序(つゐで)なく、立歸る。
[やぶちゃん注:「弘治」一五五五年から一五五八年まで。室町幕府将軍は足利義輝。天文二二(一五五三)年三月に義輝と三好長慶が決別し、七月に細川晴元が義輝から赦免されると再び義輝とともに長慶と交戦した。しかし、翌月、義輝方の霊山城が三好軍に落とされると、晴元は義輝と一緒に近江国朽木へ逃亡した。播磨国では香西元成が明石氏と結んだが、弘治元(一五五五)年に明石氏が三好軍に攻撃されて降伏、丹波国でも元成や三好政勝らが波多野元秀と手を結び、長慶派の内藤国貞を討ち取ったものの、国貞の養子で長慶の武将であった松永長頼に反撃され、弘治三(一五五七)年頃には丹波は総てが三好の領国となってしまい、晴元は勢力拡大した長慶の前に手も足も出せない状態になっていたのであった(ウィキの「細川晴元」に拠った)。
「松永は和州に城を構へ」ウィキの「松永久秀」によれば、天文二四(一五五五)年に『久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾して』おり、『また』、『長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている』。久秀は弘治二(一五五六)年には『奉行衆に任』ぜられ、同年六月には長慶とともに『堺で三好元長の二十五回忌に参加して』おり、翌月には、『久秀の居城滝山城へ』『長慶が御成し』、『歓待され』、『久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした』とある。
「かじけ」「悴け」痩せ細って衰え弱る。
「おもがはり」「面變り」。
「序」機会。きっかけ。]
妻、いふやう、
「是まで流浪して來〔きた〕るも、『源内が惠(めぐみ)あるべきか』と思ふに、僅(わづか)の酒、飮(のみ)たるとて、百兩の金に替て、一言をもいはずして歸る事や、ある。斯くの如くならば、我らは頓(やが)て、道の傍(かたはら)に飢(うへ)て死すべし。」
といふ。
兵次、これを聞〔きく〕に、理(ことわり)に過〔すぎ〕て覺えしかば、夜明(あく)るを待かね、又、源内がもとに行たれば、源内、出〔いで〕て、對面して、
「誠に、其かみ、金子を借(かり)たる事、今も忘れず。その恩を、おろそかに思はんや。其時の手形あらば、持來り給へ。數の限り、返し參らせむ。」
といふ。
兵次、答(こたへ)ていふやうは、
「同じ里に親しき友と、互に住たる契り、淺からねば、手形・質物にも及ばず、借(かし)奉りし金子なり。今、我、刧盜(ごふたう)の爲に一跡を、うばひとられ、身のたゝずみなき故に、如何にも此金子を給はらば、然るべき商買(しやうばい)をもいたして、妻子を養ひ侍べらばやと思ふなり。只今、我を『とり立るよ』とおぼして、右の金子を惠み返し給へ。」
といふ。
源内、打笑ひ、
「手形なくしては、算用、なり難し。されども、思ひ出さば、數の如く、返し侍らん。」
とて、兵次を歸らせたり。
[やぶちゃん注:「數の限り」その手形・証文に記されただけの金子をきちっと耳を揃えて。
「刧盜」元禄版もこれで、読みは「こうだう」。「强盜」の当て字であろう(「新日本古典文学大系」版脚注もそう注する)。
「身のたゝずみなき」「身の佇(たたず)み無き」衣食住の立てようが全くなく。
「商買」「買」は「賣」と通義。
「とり立るよ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『面倒をみて立ち直らせ』やろうぞ! との意とある。
「算用」借金の返済決算。
「思ひ出さば、數の如く、返し侍らん」「いや、拙者は借りたことは覚えて御座るが、それが幾らだったかを覚えておらぬのじゃ。まずまず、思い出したならば、しっかとお返し申すほどに。」とうそぶいているのである。]
かくて、半年ばかりを經て、極月[やぶちゃん注:「ごくげつ」。十二月。]になりぬ。古年をば、送りけれ共、新しき春を迎ゆ[やぶちゃん注:ママ。]べき手だて、なし。
食、ともしく、衣、うすければ、妻子は飢凍(うゑこゞえ)て、只、泣〔なく〕より外の事なし。
兵次、これを見るに、堪がたくて、源内が許に行〔ゆき〕いたり、淚を流していふやう、
「年、すでに推(おし)つまり、新春は近きにあれ共、妻子は飢凍えて、又、一錢の貯へなく、炊(かしぎ)て食すべき米(よね)もなし。假令、借(かし)奉りし金子、皆、返し給はらずとも、年を迎ゆるほどの妻子のたすけをなし給はゞ、是に過(すぎ)たるめぐみはあらじ。」
といふ。
源内、うち聞て、
「誠に痛はしく思ふといへども、我さへ、僅(わづか)の知行なれば、今、皆、返し參らせむ事は、叶ふべからず。明日、まづ、米二石・錢二貫文を奉らん。是(これ)にて、兎も角(かう)も、年、とり給へ。」
といふ。
[やぶちゃん注:「米二石」一石は一合の一千倍で、約三百キログラム相当。
「錢二貫文」一文銭を紐に一千枚通したものが一貫文で千文が一貫。換算サイトで戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、三十万円相当。]
兵次、大に悅び、我家に歸り、
「明日、かならず、惠、つかはされん。侍まうけて、此程のわびしさを慰まん。」
といふに、妻子、限りなく『嬉し』と思ひ、夜の明(あく)るを遲しと、其子を門に出して、
「錢・米をもちて來る人あらば、『こゝぞ』と敎(をしへ)よ。」
とて、待せておく。
須臾(しばらく)ありて、内に走り入て、いふやう、
「米を負(をひ)たる人こそ來れ。」
と。
急ぎ出〔いで〕て見れば、其家の門は、見向きもせずして、打過〔うちすぐ〕る。
『もし、家を忘れて打通るか。』
と思ひ、
「其米は文(あやの)兵次が家に給はるにてはなきか。」
と問へば、
「いや。是は城の内より、肴(さかな)の代(かはり)に遣はさるゝ米也。」
といふ。
又、しばしありて、其子、走り入て、
「只今、錢をかたげたる人こそ來れ。」
と。
兵次、かけ出て見るに、その門口をば、空知らずして、打通る。
是も『家を知らざるか』とて、引き留めて、
「此錢は由利源内殿より兵次が許へ遣はさるゝにや。」
と問(とへ)ば、
「是は弓削(ゆげ)三郞殿より、矢括(やはぎ)の代物〔だいもつ〕に送らるゝ。」
とて過行けば、兵次、耻しき事、いふばかりなし。
正月まかなひの用意とて、錢・米持運ぶ事、急がはしきを、引とめ、引きとめ、尋問〔たづねとふ〕に、いづれも、源内がもとより出る錢・米ならで、一日のうち、待暮し、漸(やうやう)人影も見えざりければ、内に入ぬ。
油もなければ、燈火(ともしび)たつべき樣もなく、いとゞ闇き一間の内に、妻子、打向ひ、今は賴もしき事もなし。
米・薪〔たきぎ〕」を求むべきたよりもなければ、夜もすがら、寢もせず[やぶちゃん注:「いねもせず」。]、泣(なき)あかす。
[やぶちゃん注:「代」代金の代わりとすること。
「空知らずして」全く気にかける様子もなくして。
「弓削三郞」これは皮肉にも松永久秀を裏切って自害に追い込むことになった人物である。彼は久秀の若党として仕えていたが、実は久秀の宿敵筒井順慶が放った忍びの者であったとされる。久秀が和泉の堺の人脈を介して石山本願寺に加勢を頼むのにこの男を選んだが、三郎はここぞと、順慶と図って順慶の手下を加勢の軍勢に加えて、信貴山城内に紛れ込ませ、各所に放火して回り、落城する、文字通りの、導火線となったというのである。個人ブログ「fumi1202のブログ」の「久秀の言い分」を読まれたい。
「矢括」「括」は「やはず」で「矢の上端の弦を受ける所」を言う漢字であるから誤字。「矢作・矢矧」が正しく、これで「やはぎ」と読み、「矢を矧 (は) ぐこと」、矢竹に矢羽根を装着する職人、矢師のことを指す。
「正月まかなひ」正月用の祝い品や料理のこと。]
兵次、いよいよ、堪かね、
『口惜しき事かな。さしも、堅く契約しながら、我を欺(あざむき)けることよ。唯、源内を指殺(さしころ)して、此欝忿(うつぷん)をはらさん。』
と思ひ、夜もすがら、刀を硏ぎ、源内が門に忍び居(ゐ)たりしが、又、思ひ返すやう、
『源内こそ、我に不義を致しけれ、また、源内が老母・妻子は何の咎(とが)もなし。今、源内を殺さば、家、忽ちに滅して、科(とが)もなき老母・妻子は路頭に立〔たつ〕べし。人こそ我に不義ありとも、我は人をば倒さじものを。天道、まこと有らば、我には惠もあるべきものを。』
と、思ひ直して、家に立ち歸り、兎角して小袖・刀、賣しろなして、正月元三〔がんざん〕のいとなみは、いたしぬ。
[やぶちゃん注:「我に不義を致しけれ、また……」ここは『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。本篇のコペルニクス的展開点として、非常に重要な箇所である。
「賣しろなして」売り払う品物にし成して。売って金に代えて。
「元三」一月一日元日、或いは、元日からの三日間の「三が日」。
「いとなみ」「營み」。仕度。]
かくて、兵次、或(ある)朝(あした)、家を出て、泊瀨(はつせ)の觀音にまうで、行末ふかく祈り申〔まうし〕て、山の奧にわけ入しが、覺えず、ひとつの池の邊(ほとり)に到り、誤ちて、池の中に落ちたりしに、其水、兩方に別れて、道、あり。
[やぶちゃん注:「泊瀨(はつせ)の觀音」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺。本尊は十一面観世音菩薩。創建は奈良時代の八世紀前半と推定されるが、詳しい時期や経緯は不明。寺伝では天武天皇の朱鳥元(六八六)年に僧道明(どうみょう)が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、神亀四(七二七)年に僧徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂位置)に本尊十一面観音像を祀ったとするが、これらは正史に見えない。八百年代中頃には官寺と認められて別当が置かれたものと推定される。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、先に示された弘治の次の『永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『には戦乱のため衰微していた』とある。]
道をつたうて、二町ばかり行ければ、城(じやう)の惣門にいたる。
樓門の上に「淸性舘(せいせいくはん)」と云ふ額をかけたり。
内に入て見れば、人氣もなく、物しづかにて、幾年(いくとせ)經たりとも知られぬ、古木の松、枝をかはして、生並〔おひなら〕べり。
廊下めぐりて、奧の方にいたり、御殿の階(きざはし)にのぞめども、人も見えず、とがむる者、なし。
只、鐘の聲、遙に、振鈴(しんれい)の響(ひゞき)に加(くは)して聞えたるばかり也。
兵次、餘りに、飢つかれて、石礎(いしづゑ)を枕として、臥(ふし)て休み居(ゐ)たり。
[やぶちゃん注:「二町」二百十八メートル。
「惣門」外構えの大きな正門。
「振鈴」密教の修法で諸尊を勧請する際などに仏呪具の金剛鈴(こんごうれい)を振り鳴らすこと。]
かゝる所に、眉・髯(ひげ)、長く生(はひ)のび、頭(かしら)には、帽子、かづき、足には、靴をはき、手に白木(しらき)の杖をつきたる老翁、來りて、兵次を見て、打笑ひ、
「如何に久しく對面せざりしや。昔の事ども、覺えたるか。」
といふ。
兵次、おきあがり、跪(ひざまづい)て、
「我、更に、此所に來れる事は、今ぞ、初なる。如何でか、昔の事とて、知べき道、侍らん。」といふ。
老翁、聞て、
「げにも。汝は飢渴の火にやかれて、昔を忘れたるも理り也。」
とて、懷より梨と棗(なつめ)とを取出して、食はしめたるに、兵次、胸、凉しく、心さわやかに、雲霧(くもきり)のはれ行(ゆく)空に、月の出るがごとく、まよひの暗(やみ)、みな、除(のぞこ)りて、過去の事共、猶、きのふの如くに覺えたり。
老翁の曰、
「汝、昔、過去の時、初瀨(はつせ)の近鄕を領ぜし人なり。觀音を信じて花香(けかう)・灯明(とうみやう)をそなへ、常に步みをはこびしか共、只、百姓を貪り、賦斂(ふれん)をおもく、課役を茂くして、人の愁(うれへ)を知らず。此故に、死して、惡趣に落つべかりし處に、觀音の大悲をもつて、惡を轉じて、二たび、この人間に返し給へり。しばらく富貴(ふうき)を極めしかども、昔の業感(ごうかん)に困りて、今かく貧(まずしく)なれり。然るを、汝、源内が不義を怒(いかり)て、一念の惡心を起せしかば、惡鬼、たちまちに、汝が後にしたがひ、妻子一家(け)、跡なくほろぶべかりしを、又、忽ちに、心を改めしかば、神明(しんめい)、已に、是をしろしめし、福神(ふくじん)、これに立添ひて、惡鬼は遠く逃去ぬ。すべて、惡業(あくごふ)・善事、其むくひある事は、形に影のしたがひ、聲の響きに應ずるが如し。今より後も、苟且(かりそめ)の事といふとも、惡を愼しみ、善を求むべし。然らば、かならず、安樂の地に一生を送らん。」
と敎へられたり。
[やぶちゃん注:「賦斂」税を割り当てて取り立てること。
「惡趣」「三惡趣」。生命あるものが、生前の悪い行為の結果として死後余儀なく赴かなければならない地獄・餓鬼・畜生という三悪道の世界。連声(れんじょう)して「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」「三悪道 (さんまくどう)」とも読む。
「人間」「人間道(にんげだう)」。六道の内のこの世。]
兵次、
『さては。此所〔このところ〕は人界(にんかい)にあらず、神聖の住所(ぢうしよ)なり。』
と思ひつけて、事のちなみに、當世の事をさして、問けるやう、
「今、世の中、絲の亂れのごとくにして、諸方に側起(そばだち)る者、蜂の如し。いづれか、榮え、いづれか、衰へん。願くは、その行先を示し給へ。」
といふ。
老翁、答へられけるは、
「人の心、更に豺狼(さいらう)の如く、彼を殺して、我、立ち、餘所(よそ)を打て、おのれに合(あは)せんとす。此故に、王法、ひすろぎ、朝威、衰へ、三綱五常の道、斷えて、五畿七道、互に爭ひ、國々、亂れざる所、なし。臣としては、君を謀(はか)り、君としては、臣をそむけ、或は、父子の間と雖も、快からず、兄弟、忽ちに敵〔かたき〕となり、運つよく、利に乘る時は、いやしきが、高くあがり、小身なるが、大に、はびこり、運、衰へ、勢、つきては、大家・高位も、おし倒され、聟(むこ)を殺し、子を殺せば、一家一族のわりなきも、只、危きにのみ、心を碎きて、安き暇(いとま)、更になし。」
とて、當時諸國の名ある輩、
「それ、かれ。」
と指を折り、其身の善惡と行末の盛衰を、鏡に懸(かけ)て語られたり。
兵次、重ねていふやう、
「由利源内、今、すでに、人の債(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢(いきほひ)に誇る。此者とても、行末、久しかるべしや。」
と。
老翁の曰、
「源内が主君、まづ、大なる不義を行ひ、權威、よこしまに振うて、民を虐(しへたげ)、世を貪る。冥衆(みやうしゆ)、是を疎み、神靈これを惡(にく)み、福壽の籍(ふだ)を削られて、其身、杻(てかせ)・械(くびかせ)にかゝり、其首に累紲(るゐせつ)の繩をかけて、肉(しゝむら)を腐(くたし)、骨を散されん事、何ぞ遠からん。源内、又、是に隨ひ、惡逆無道(ぶたう)なる事、譬ふるに、言葉なし。人の債(おひもの)を返さゞる、かれが財物(ざいもつ)は、皆、これ他(た)の寳也。己(をのれ)、いたづらに、守護するのみ。今、見よ。三年を出ずして、家運つきて、災(わざはひ)、來るべし。汝、必ず、その災を恐るべし。源内が家近く住〔ぢゆう〕せば、惡〔あし〕かりなむ。京都も靜(しづか)なるべからず。早く歸りて、山科の奧、笠取(かさとり)の谷に移り行け。」
とて、黃金十兩を與へ、道筋を敎へて、出し返す。
[やぶちゃん注:「豺狼」「犲」はこれで「やまいぬ」と訓ずる。山犬と狼(おおかみ)であるが、ここは転じて「残酷で欲深い人。惨(むご)いことを平気でする悪者」を言う。前二者の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」と、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を読まれたい。
「王法」国主の政治。
「ひすろぎ」「磷(ひすろ)ぎ」。「ひすらぐ」とも読む。薄れて弱まる。
「三綱五常」儒教に於いて人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義。
「五畿七道」古代日本の律令制での広域地方行政区画名。「五畿」は「畿内」と同じで、大和・山城・摂津・河内・和泉の五国。「七道」は東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道(現在の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道(現在の本土九州七県)。
「君を謀り」主君を騙し。
「臣をそむけ」忠誠な家臣を蔑(ないがし)ろにし。
「わりなき」「理無(わりな)き」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。
「危きにのみ」個人に関わる災難にのみ限って。
「安き暇」心落ち着けていられる時空間。
「輩」連中。
「鏡に懸て語られたり」あたかも鏡に映し出すかの如くにはっきり判るように語って下さ「人の債」人に掛けた負債。
(おひもの)を返さず、己(おのれ)、威を保ち、勢に誇る。此者とても、行末、久しかる「よこしま」「邪」。
「虐(しへたげ)」現在の「虐(しいた)げる」の古語「しひたぐ」の古い原発音。惨い扱いをして苦しめる。虐待する。虐(いじ)める。
「冥衆」閻魔王・鬼神・梵天・帝釈天などの人の目には見えない鬼神や諸天。
「福壽の籍(ふだ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『冥府で衆生の行いを考課して福分と寿命を定め、それぞれを』予め『記しとどめおくという札』とある。
「杻(てかせ)・械(くびかせ)」手の自由や人体の動きを奪う首に打った木や金属で出来た監禁具。
「累紲(るゐせつ)の繩」「縲絏」とも。歴史的仮名遣は「るいせつ」でよい。「縲」は「罪人を縛る「黒い繩」。「絏・紲」はやはり「繩」又は「繋ぐ」の意で、これで「罪人として捕らわれること」をも意味する。
「笠取の谷」現在の京都府宇治市の西笠取川の流域であろう。山科の南東域。]
『一里餘りをゆくか』とおぼえて、山の後(うしろ)なる岩穴より出づることを得たれば、家を出てより、三十日に及ぶ、といふ。
妻子、待受けて、喜ぶ事、かぎりなし。
やがて緣(たより)を求め、山科の奧、笠取の谷に引こもり、商人となり、薪を出〔いだ〕し、賣(うり)て、世を渡る業(わざ)とす。
家、やうやう、心安く、妻子も緩(ゆる)やかなる心地す。
その後、永祿庚午の年、松永、反逆(ほんぎやく)の事ありて、織田家のために、家門、滅却せらる。
由利源内、此時に生捕(いけど)られて、殺され、日比(ひごろ)、非道に貪り貯へし財寳、みな、敵軍(てきぐん)の得物となれり。
是を聞傳へて、年月を數ふれば、僅に三年に及べり。
兵次は、今も其末、殘りて、住(すみ)けりといふ。
伽婢子卷之一終
[やぶちゃん注:「緣」当地を知れる人のあるのに頼ること。
「商人」「あきんど」と読みたい。
「永祿庚午」(かのえうま)「の年」永禄十三年。一五七〇年。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「弾正は永禄十三年に腹かき切て死けり」(古老軍物語六・三好修理大夫幷松永弾正が事)。「永禄十三年庚午年、松永弾正切腹す」(甲陽軍鑑二・信玄公御時代諸大将之事)。ただし甲陽軍鑑の写本に当該箇所を「天正七年己卯』(つちのとう)『に、筒井むほんにて松永せつぷく』とるす』と注し、更に「松永、反逆の事ありて」のところに注して、『永禄十一年に織田信長に服従して領国を安堵されたが』、『元亀三年〔一五七三〕に離反、この時は許されたが、天正五年〔一五七七〕に再度謀反を企てて自滅した』とする。松永弾正久秀は天正五年十月十日(ユリウス暦一五七七年十一月十九日)に自死している。因みに、この五年後の天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。機械換算で上記の没日を換算すると、グレゴリオ暦では一五七七年十一月二十九日となる。久秀の焚死は既に寒い中であったと思われる。]
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