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2021/04/09

芥川龍之介書簡抄32 / 大正三(一九一四)年書簡より(十) 二通

 

大正三(一九一四)年十一月一日・田端発信・井川恭宛

 

拜啓今般左記へ轉居致候間御通知申上候 敬具

    北豐島郡瀧野川町字田端四百三十五番地

   大正三年十月

                芥川 道章

                芥川龍之介

   銀杏落葉櫻落葉や居を移す

 

[やぶちゃん注:住所と二名連記署名は下方にあるが、引き上げた。この大正三年十月末に新築中の田端(現在の北区田端)の家が竣工し、転居した。ここ(グーグル・マップ・データ。「芥川龍之介旧居跡」標識のあるストリートビュー画像)。新全集宮坂覺氏の年譜によれば、『この地は、道章の一中節仲間だった宮崎直次郎(自笑軒主人)の紹介によるもので、芥川にとっては終生の住居となった。当時の田端には、小杉放庵、香取秀真』(芥川家の隣り)、『石井柏亭らが住み、近くには美術クラブ「ポプラ倶楽部」があり、美術家村の観があった』とされ、附記されて、田端が『文士村になるのは、芥川文壇登場以後』とする。なお、同日発信のこの前(旧全集書簡番号一四三)の浅野三千三宛転居通知では、住所の上部に『田端停車場上白梅園向ふ橫町』と記している。]

 

 

大正三(一九一四)年十一月十四日・田端発信・原善一郞宛

 

原君 大へん長い間御無沙汰をしました

いろんな面倒な事や忙しい事があつたので時々頂くはがきの返事がのびのびになつてしまひました相不變御壯健の事と思ひますがのすたるじあも起りませんか此十月の末に僕は田端へ越しました小野のうちから七町[やぶちゃん注:約七百六十四メートル。]ばかり雛れた靜かな所です其内に先生も丁度小野のうちと僕のうちとの中間位な所へ越してお出になる筈です

學校へは相不變出てゐますが講義のつまらないのには閉口です此頃は文科の講義をそつちのけにして波多野さんの希臘哲學の講義を休まずきいてゐます大塚さんと波多野さんは僕の一番尊敬してゐる先生です

白樺ではブレークの展覽會をやるさうです日本ではブレークがはやつてゐるんです尤も詩の方も抒情詩人のブレークだけでミスチックとしてのブレークは本がないので誰もやらないやうです僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつたのですがブレークの Complete Works を取寄せようとしたら絕版で一册85圓になつてゐるのでとうとうお流れになりました

戰爭が始まつてから獨乙の本が來ないので少しこまります現に學校で KANT の講義をするのに本がなくつてよわつてゐる位です本と云ふ點では戰爭と云ふ氣もしますが其外の點では僕などは全[やぶちゃん注:「まつたく」。]戰爭があるやうな氣がしませんそれに獨乙に可成同情がありますこの夏一の宮にゐた時分はアメリカと戰爭が始まると云ふやうな風說がありましたが今では完く太平な氣がします

戰爭の記事をよんでしみじみさう思ふのは英國の弱い事です今度の戰爭に勝つても英國はきつとバルカン問題でロシアに甘くみられるでせう少し可哀さうな氣もします尤もアメリカと英國文明の繼承者がある以上はもう亡びてもいゝんですが

戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました年よりですから早く來ないと死にやしないかと思つて心配です何にしても戰爭はよくないものです

アメリカのセイゾンは面白ござんせう僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたいと思ひます尤も之はさう思ふだけでそんな甘い口のないのはわかつてゐるんですが

アメリカの詩人で日本で今はやつてゐるのはホイットマンですホイットマンばりの散文のやうな詩が澤山出ます其癖日本の詩人は Leaves of the Grass も碌によめない位英語が出來ないんですが

もうそろそろ冬が來ます冬になると日本人はよけいきたならしくなります自分もそのきたならしい仲間だと思ふと少しがつかりしますどうも冬は西洋人にかぎるやうです毛皮の外套の襟にうづめるには黃色い顏ぢやあ幅がきゝません

いつぞや頂いた Poor の本は面白く拜讀しました(大分むづかしい本でしたけれども)けれどもあの著者のやうに立體派や未來派に贊成する事は僕には出來ませんそれは理論は認めますしかし藝術は認められません(ピカソなぞは全くわからない繪が澤山あります)畫かきでは矢張マチスがすきです僕のみた少數な繪で判斷して差支へないならほんとうに偉大な藝術家だと思ひます、僕の求めてゐるのはあゝ云ふ藝術です日をうけてどんどん空の方へのびてゆく草のやうな生活力の溢れてゐる藝術です其意味で藝術の爲の藝術には不贊成です此間まで僕のかいてゐた感傷的な文章や歌にはもう永久にさやうならです、同じ理由で大抵の作者の作には不質成至極です、鼻息が荒いなんてひやかしちやあいけませんほんとうにさう思つてゐるんです

此頃はロマン・ロオランのジヤン・クリストフと云ふ本を愛讀してゐます

咋日逗子の海岸からかへつて來ました其處ででたらめに作つた歌を御らんに入れます創作と主張とはうまく一致しないものなんですからまづくつても笑つちやいけません

   烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり

   眠(ね)まくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも

   きらめくは海ぞも棕櫚の葉の下に目路のかぎりを鍍金するぞも

                   龍

 

[やぶちゃん注:「原善一郞」既出既注

「小野」小野八重三郎。既出既注

「先生」三中の恩師廣瀨雄(たけし)。既出既注。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「広瀬 雄」の項(内藤淳一郎氏執筆)によれば(そこには広瀬は大正二年『末頃から田端に住む』とあるが、これはこの書簡から大正三年の誤りと思われる)、大正一〇(一九二一)年に、『同郷』(広瀬は金沢の旧加賀藩士の次男であった)『の室生犀星が広瀬の隣に越し』て来て、三者は『家族ぐるみで交際』が始まったとし、『田端文士村の人々の関係は指定隣人ではなく、その人々の生涯を左右するものであった。その中にあって文士でも芸術家でもない一教育者広瀬雄は、三中生の芥川・堀辰雄・平木二六・山崎喜作や、金沢や金沢の四高に係わる犀星・多田不二・中野重治・窪川鶴次郎・宮木喜久雄・吉田三郎・尾山篤二郎。高柳真三など数多い田端文士村の住人がつながりを持つ鍵となる人物である』とある。

「波多野さん」哲学史家・宗教哲学者波多野精一(明治一〇(一八七七)年~昭和二五(一九五〇)年)。当時は東京帝国大学文科大学講師であった。後に玉川大学第二代学長となった。西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者で、東京帝大での教え子には石原謙・安倍能成が、京都帝大では田中美知太郎らがいる。また、指導学生ではなかったが、波多野の京都帝大での受講者で彼から強い影響を受けたとされる人物に、かの三木清がいる。

「大塚さん」美学者で当時は既に東京帝国大学教授であった大塚保治(やすじ 明治元(一八六九)年~昭和六(一九三一)年)。夏目漱石や正岡子規との交友で知られる。芥川龍之介が大正一三(一九二四)年四月に『アルス新聞』に連載した「正岡子規」(リンク先は「青空文庫」の新字旧仮名版)を参照されたい。

「白樺」白樺派。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『『白樺』同人主催第七回美術展覧会は』、この翌大正四(一九一五)年に、『ブレークの複製版画六〇枚を展示した』とある。武者小路実篤の年譜を確認したところ、展示会は大正四年一月に東京で行われ、翌月には京都でも展示している。

「ブレーク」芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)。

「ミスチック」mystic。神秘的な。

「僕の友だちの一人も卒業論文をブレークにするつもりだつた」彼の友達で詩と絵画趣味があったという条件からは、成瀬正一ではないかと私は思う。

「85圓」総合的換算で大正初期の一円は現在の四千円ほどに当たるので、三十四万円相当となる。それも一冊が、である。仮にさすがの成瀬だったとしても(彼は十五銀行頭取成瀬正恭(せいきょう)の長男であった)、二の足を踏むどころではないだろう。

「バルカン問題」十九世紀後半から二十世紀初頭、トルコ支配下にあったバルカンの領土及び民族問題を巡って生じた国際的諸問題。一方にはセルビア・ギリシアに始まった非イスラム諸民族の独立運動があり、他方には南下政策と汎スラブ主義をとるロシア、東進政策を推進するオーストリア、東方植民地の経営と拡大を推進するイギリスとフランスなど、列強の帝国主義的利害が複雑に対立していた。後には三B政策(ドイツの行った近東政策。ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium:イスタンブールの旧名)・バグダッド(Baghdad)の頭文字をとったものであるが、反ドイツ陣営で用いられた語であるので注意)を始めたドイツも加わって、第一次世界大戦の要因となった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。

「戰爭があつたので日本へ來る筈のオイケンが來なくなりました」「芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛」の私の注を参照。

「セイゾン」saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いである。

「僕もどつかアメリカの大學の日本文學の敎授の助手か何かになつて行きたい」これは、ある意味で芥川龍之介が小説家以外の人生の選択肢として本気で考えていた希望であったと思われる。後に龍之介は海軍機関学校教官を辞する当たって、慶応大学の英文科の教授職を選択肢の一つとしており、その実際運動も図られている。芥川龍之介が内外の教授になっていたとしたら?……「もしも」はやめておこう……

「ホイットマン」アメリカの詩人ウォルター・ホイットマン(Walter Whitman 一八一九年~一八九二年)。ロング・アイランドの大工の子に生まれ、多くの職業を転々とした。エマーソンの著作に刺激され、一八五五年に詩集「草の葉」(Leaves of Grass )を発表して反響を呼んだ。南北戦争が始まると、奴隷制に反対して傷病兵の看護に努め、一八六五年には予言的な戦争詩集「軍鼓の響き」(Drum-Taps )を纏めた。一八七一年に未来への確信に満ちた文学論「民主主義の将来」(Democratic Vistas )を出版した後は「自選日記」(Specimen Days :一八八二年)を書き、静かな晩年を過ごした。個人主義と民主主義、同性愛的同胞愛、肉体賛美と神秘主義といったテーマを大胆な自由詩形で謳いあげ、アメリカ詩の伝統の大きな潮流を作り上げた詩人である(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。私は「草の葉」にのめり込んだ(哀しいかな、和訳本(長沼重隆氏訳)だったが)中学二年の時を思い出す。私が最初に愛した詩人は、日本人ではなく、ホイットマンだったのだ。

「Poor」未詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』。石割氏は注せず。以下の龍之介の感想から現代美術評論らしい。

「藝術の爲の藝術には不贊成です」おや? まあ!

「ロマン・ロオランのジヤン・クリストフ」フランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の全十巻からなる長編小説「ジャン・クリストフ」(Jean Christophe )。一九〇四年から一九一二年まで、実に八年の歳月をかけて文芸評論誌『半月手帖』(Cahiers de la quinzaine )に発表された。シノプシスは当該ウィキがよい。彼はこの作品によってノーベル文学賞を授与されている。私は青少年向けに縮訳された本(文学好きの同級生の女の子の松本さんから借りた。誰の訳だったかは判らない)を小学六年の時に読んで、心打たれた(特にそのコーダに)のを遠く思い出す……ロランにホイットマン……遠い遠い少年の僕の後ろ姿…………

「咋日逗子の海岸からかへつて來ました」新全集宮坂年譜に、この月の『中旬 逗子(成瀬正一の別荘か)に滞在する』とある。

「烏羽玉の」「うばたまの・ぬばたまの・むばたまの」。枕詞ではなく、原義のままに「黒い色をした」とカラスに続く。

「眠(ね)まくほし」「眠まく欲し」。眠りたい。

「み睫毛」「みまつげ」。「み」は美称の接頭辞。

「棕櫚」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei か、トウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianusウィキの「シュロ」によれば、ワジュロは『日本では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中ではもっとも耐寒性が強いため、東北地方まで栽培されている』とあるし、トウジュロの項には『中国大陸原産の帰化植物で』あるが、『江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである』とある。

「鍍金」「めつき」。鍍金。]

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