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2021/04/05

浅井了意「伽婢子」電子化注始動 / 序(二種)・巻之一「竜宮の上棟」

 

[やぶちゃん注:満を持してカテゴリ「伽婢子」を始動する。カテゴリ「怪奇談集」は一千記事を超えてしまい(現在、千百八十五件)、過去記事の全表示が出来なくなっていることと、本篇が有意に長いことから、独立させた。

 「伽婢子」(とぎはうこ・おとぎはうこ)は御伽婢子とも表記する、寛文六(一六六六)年に板行された仮名草子の怪奇談集で、全十三巻。作者である仮名草子作家浅井了意(?~元禄四(一六九一)年)は元武士で、後に浄土真宗の僧。号は瓢水子松雲(ひょうすいししょううん:現代仮名遣)・本性寺昭儀坊了意など。初め、浪人であったが、後に出家し、京都二条本性寺の住職となった。仮名草子期における質量ともに最大の作家であるが、その生涯は不明な点が多い。「堪忍記」・「可笑記評判」・「東海道名所記」・「浮世物語」・「狗張子(いぬはりこ)」(本篇の続編。本電子化の後に電子化注を行う予定)などの他に、古典注釈書である「伊勢物語抒海」・「源氏雲隱抄」や、地誌「江戶名所記」・「京雀」、仏教注釈書「三部經鼓吹」・「勸信義談鈔」など、その著述範囲は多岐に亙る。本書は江戸前期に数多く編まれた同種の怪奇談集の先駆けとなった著名なものである。なお、私は既に、限りなく彼の著作と考えられている壮大な鎌倉通史史話「北條九代記」の全電子化注を二〇一八年に終わっている。因みに、題名は、ネットの社団法人日本人形協会社団法人日本人形協会編「人形辞典」によれば、『ほうこ〔這子・婢子〕』で、『平安時代』『からある小児の遊び物。はじめは天児』(あまがつ:祓(はらい)に用いる人形の一種。平安時代からあり、形代(かたしろ)から進歩したもので、十文字形に作った棒の上部に、きれでくるんだ顔をつけた小児の祓いに用いられるもので、日本の人形の祖型の一つ(ここも同辞典の記載を参照した))『と同様、小児の祓いの人形だった』。『首と胴は綿詰めの白絹、頭髪は黒糸、這う子にかたどってあるので、こう名付けられた。別名をお伽婢子』(おとぎぼうこ)『ともいう』とあるのに由来する。怪談集の標題にこれを配して、魔除けと洒落たものであろう。]

 底本は所持する昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)に拠ったが、不審な箇所は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄一二(一六九九)年の版本画像と校合した。注は私の躓いた部分を中心にストイックに附すこととし、判り切った箇所には附さない(つもりだが、若い読者を考えて老婆心から添えてしまうことは今まで同様に多いであろう。元高校国語教師時代のくどさが抜け切らぬのである)。また注によっては、所持する岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)及び岩波書店「新 日本古典文学大系」の第七十五巻の松田・渡辺・花田校注「伽婢子」(「おとぎぼうこ」と訓読している。二〇〇一年刊)他を一部で参考にした(抄訳を含め、訳本は数十冊所持する。引用する場合はそれぞれ示した)が、安易な引用は厳に押さえ、私自身の探索と理解と納得によってオリジナルな言葉で記すことを心掛ける。なお、底本では目次で『とぎはふこ』と訓じているものの、序では原本を見るに『とぎぼうこ』と振ってある。なお、「上智大学木越研究室」の新字の全データ(但し、序の漢文部は訓読されてしまっている)を本文の加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、底本の質が悪いのか、誤字或いは判読・翻字の誤りと思われるものが、相当数、ある。しかし、最後の奥付を見るに、底本は私のものと全く同じ版本である。頗る不審である)。

 読み易さを考えて、シークエンスごとの改行や、句読点・記号等をオリジナルに追加した。振り仮名は一種目の「序」などでは、かなり多く附されてあるが、( )表記では五月蠅くなるので、読みが振れると私が判断したものや、難読と思われるもの、特異な読みを施してあるものに限って〔 〕で私が推定で読みを歴史的仮名遣で附した(【2021年10月17日追記】なお、まことにお恥ずかしいこと乍ら、「伽婢子卷之七 死亦契」以降、私の推定読み挿入を〔 〕でなく、《 》にしてしまい、それに気づいていなかった(他の複数の電子化で統一しているわけではないため、うっかりそれでずっと続けてしまい、最早、修正が甚だ面倒なほどに先までやってしまったので、悪しからず、ご了承戴きたい。心朽窩主人敬白)。本文でもそうすることとする(但し、底本本文はあまり振られていない)。逆に底本に振られていなくても、若い読者が読み誤りそうな単純な読みについては、本文の平仮名書きの箇所が遙かに多い早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版で補った(その違いは表示していない)。ママ注記はこれも五月蠅くなるばかりなので、原則、しないこととした。また、序の後に配されてある「目錄」は本文電子化注を完了した後に配することとする。正字か略字か迷ったものは正字を採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は所持する諸本を比較して最良のものを毎回選んだため、引用元は一定していない。なお、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版は絵が綺麗だが、明らかに書き変えられているので、比較して見られんことをお薦めする。

 長年、偏愛してきた作品であるが、あまりに著名であることと、分量が多いことから、躊躇してきたが、ここで一念発起し、オリジナルな注を心掛けて始動することとした。注は短くて済むものは文中に、纏めて附したものは、ソリッドなシークエンスと判断した後に附して、その後を一行空け、本文だけを読みたい方の便宜を図ったつもりである。【二〇二一年四月四日 藪野直史】]

 

  伽婢子

 

伽婢子序

 夫、聖人は、常(つね)を說(とい)て、道ををしへ、德をほどこして、身をとゝのへ、理(り)をあきらかにして、心をおさむ。天下國家、その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし、總て、「怪力亂神をかたらず」といへ共、若(もし)止(やむ)ことを得ざるときは、亦、述著(のべあらは)して、則(のり)をなせり。

 こゝをもつて、「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ、「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし、「春秋」には亂賊の事をしめし、「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)て、後世につたへて、明らけき鑑とし給へり。

 況や、佛經には、三世(ぜ)因果の理ををしへて、四生流轉(ししやうるてん)の業(たね)をいましめ、或は神通(じんづう)、或は變化(へんげ)の品(しな)品を說(とき)給へり。

 又、神道の幽微なる、草木土石にいたるまで、みな、その神靈ある事をしるして、不測(しき)の妙理をあらはせり。

 三敎(げう)、をのをの、靈理(れいり)・奇特(きどく)・怪異・感應(かんをう)の、むなしからざることを、をしへて、其道にいらしむる媒(なかだち)とす。

 聖經(せいけい)・賢傳、諸史百家の書、すでに牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)といふ。

 是、本朝記述の編、古今筆作(ここんひつさく)の文(ふみ)、何ぞ、只、五車(しや)に積(つむ)のみならんや。

 中にも花山法皇の「大和物語」、宇治大納言の「拾遺物語」、其外、「竹取」、「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷をはじめて、怪(あやし)く奇特(きどく)の事共をしるせるところ、手を折て數(かぞふ)るに遑(いとま)あらず。

 然るに、此「伽婢子(とぎぼうこ)」は、遠く古へをとるにあらず、近く聞つたへしことを載(のせ)あつめて、しるしあらはすもの也。

 學智ある人の、目をよろこばしめ、耳をすゝぐためにせず。只、兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也。

 その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也。

 陰陽五行(いんやうぎやう)、天地の造化は廣大にして測(はかり)がたく、幽遠にして知がたし。

 時(とき)、面(まのあたり)見ざるをもつて、今、聞所を疑(うたがふ)ことなかれと、云尒(しかいふ)。

 干時寬文六年正月日

         瓢水子松雲處士自序

 

[やぶちゃん注:底本には原本の影印があるので、それを判読した(上部に活字に起こしてあるが、それは敢えて参考にしなかった)。

「夫」「それ」。発語の辞。

「聖人」以下の筆者の解説で判る通り、儒教のそれを限定する。

「その風(ふう)にうつり、その俗(しよく)を易(かふ)ることを宗(むね)とし」この「風」は人々に影響を与えてなびかせるところの感化力で、転じて永くその地で行われ、守られている規範的「風」習・様式を指し、「俗」(音「ショク」は漢音。我々が普通に使っている「ゾク」は呉音)その影響を受けて正しく変化するところの下位の民間習「俗」を指す。

「怪力亂神をかたらず」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「亂」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な人知では解明出来ない、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「則(のり)をなせり」これは反面教師としての手本とした、という謂いであろう。以下に出る四書のそれがまさにそうした例となっているのである。

『「易」には龍(れう)の野(や)に戰かふといひ』「易経」に、『龍戰于野。其血玄黃』、『龍戰于野、其道窮也』(龍、野に戰ふ。其の血は玄黃(げんわう)なり。「龍、野に戰ふ」とは、其れ、道、窮まればなり)とある。不測の悪しき事態の出現のシンボライズ

『「書」には鼎(かなへ)の中に雉の鳴(なく)ことをしるし』「書經」第十五の「高宗肜日」(こうそうゆうじつ)の冒頭の一節。殷の高宗が先祖を祀る祭りを行ったところ(「肜」は「本祭の翌日に行う祭り」の意)、「有飛雉升鼎耳而雊。」(飛べる雉、有りて、鼎(かなへ)の耳に升(のぼ)りて雊(な)けり。)という不吉が予兆される出来事が起こった。「高宗」は殷朝の第二十二代の王であった武丁(ぶてい)のこと。当該ウィキによれば、『殷墟(大邑商)の地に都を置いた』とし、『また』、『甲骨文はこの武丁の時代から見られる』とあり、『鬼方という異民族を』三『年かけて討ったと』「易経」に『あり、軍事的にも』、『殷の勢力を四方に拡大した。夫人の婦好も自ら軍を率いて敵国を征伐したという』とある。

『「春秋」には亂賊の事をしめし』「春秋」の三伝を調べたが、この「亂賊」という文字列は見当たらない。「新日本古典文学大系」版脚注では「春秋」の教科書的な判り切ったそれだけで、出典や意味をスルーしてしまっている。これは恐らく、後代の「孟子」などが頻りに示すところの「春秋」が本来謂わんとするところの義理とする「周室を尊び、乱賊を誅伐する」という解説に基づいた謂いであろう。「亂賊」は万民の生活基盤である自然及び日常生活を乱す悪者・反逆者のことであろう。

『「詩」には「國風鄭風(こくふうていふう)」の篇を載(のせ)』「詩経」(三百余篇)(重複がある)は風・雅・頌(しょう)の三つのジャンルから成り、「風」とは「民謡」の意(因みに「雅」は「天子諸侯が賓客をもてなす際の楽歌」を、「頌」は「祭儀の折りの楽歌」を指す)。「詩経国風」は各地に発生したそれぞれの国或いはある地方の民謡を集めたもの。「鄭風」は「国風」の中の一つである。従って四字でセットとした。並列ではおかしく(「新日本古典文学大系」は中黒で『国風・鄭風』としてしまっている)、敢えて言うなら、「國風に鄭風などあり」であるべきところであろう。優れた中国詩詞サイト「詩詞世界 二千六百首詳註 碇豊長の漢詩」の鄭風の一詩「狡童」の語釈によれば、『東周のころの鄭の國の歌。男女の情愛を歌ったものが多い。鄭は、現・河南省黄河南岸の鄭州市あたりになる』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三世(ぜ)因果」過去・現在・未来の三世(但し、この場合は、前世・現世・後世(ごぜ)と同義。本来のそれはこの「因果」律による個的な衆生の「輪廻」の閉鎖的循環系ではなく、三世は全時間軸に於けるそれである)に亙って、善悪の報いを受けるということ。過去の「因」により、現在の「果」を生じ、現在の「因」によって未来の「果」が生ずることを説いたものである。

「四生(ししやう)」仏教に於ける生物の出生・発生様態によって分類した分類法。「胎卵湿化」などとも呼ぶ。「胎生」(たいしょう:現代仮名遣。以下同じ)は「母親の胎内から出生するもの」を、「卵生」(らんしょう)は「卵殻様物体から出生するもの」を、「湿生」(しっしょう)は「湿潤なじめじめした場所から出生するもの」(広義の卵のごく小さな昆虫類などをそう捉えた)を、最後の「化生」(けしょう)は「純然たる業(ごう)によって何も存在しない時空間で、如何なる親子や血族関係もない状態で、忽然と突如、出生するもの」(天人・地獄の亡者などをそれとした)を指した。最後の「化生」は無生物から有情物が生まれるケース(山芋が鰻となる例)にも用いられる。

「業(たね)」所謂「業(ごふ)」に当て訓したもの。

「神通(じんづう)」如何なることも自由自在になし得る、人智を超えた計り知れない不思議な能力。

「變化(へんげ)」ここは仏教でのそれで、人間以外の、より高位の霊的存在が、本来の形を変えて、種々の姿や人間の形をとって現われることを指す。但し、ここでは本書の内容に関わって、それらが神から零落した際の謂い方、則ち、動物などが姿を変えて異形の「物の怪(け)」や人の姿に変じて現れる「化け物」「妖怪変化」の意味も字背に嗅がせていると読んでよい。

「品(しな)品」「しなじな」。

「三敎(げう)」以上の儒教・仏教・神道。

「感應(かんをう)」(現代仮名遣:かんのう)は「人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心」が原義で、そこから「信心が神仏に通じること」及びそれによって生じる「超自然的な奇蹟や怪奇な事件が発生すること」を指す。これも本書用の嗅がせ薬。

「聖經(せいけい)・賢傳」聖人の述作した書物と、それに基づいて賢人の書き伝えた書物。

「牛(うし)に汗(あせ)し、棟(むなぎ)に充(みつ)」「汗牛充棟」(かんぎうじゆうとう(かんぎゅうじゅう)。「引っ張れば、牛馬が大汗をかき、積み上げれば、家の棟木(むなぎ)にまで届くほどに多い量」の意で、蔵書が非常に多いことの喩え。柳宗元の銘文「唐故給事中陸文通墓表」の「其爲ㇾ書、處則充棟宇、出則汗牛馬。」(其れ、書を爲すこと、處(お)けば、則ち、棟宇に充ち、出ださば、則ち、牛馬、汗す。)が典拠。

「編」編著書。書物の意。

「五車」五台の荷車。

『花山法皇の「大和物語」』平安中期の和歌説話集である「大和物語」(全二巻。約百七十三段。天暦五(九五一)年か翌年頃には現存本に近い形態が成立していたと推定されている。全体は大きく二部に分かれ、主として宇多上皇を中心とする廷臣や女性たちに関する和歌説話を集めた部分と。「葦刈り説話」・「菟原処女 (うないおとめ)」 説話などの伝承的な和歌説話を集めた部分から成る)の一伝本である狩谷本系統の「静嘉堂文庫所蔵狩谷棭斎旧蔵本」の奥書に「花山の院の御つくりものがたりなりとある本にあり」とあり、予想外に近代まで、かの花山院が書いたとする説が信じられていた。

『宇治大納言の「拾遺物語」』鎌倉前期の建暦二(一二一二)年から承久三(一二二一)年頃の成立と推定される説話物語集「宇治拾遺物語」であるが、これは、同書が平安後期の公卿であった『「宇治大納言」源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)が編纂したとされる説話集「宇治大納言物語」(現存せず)から漏れた話題を拾い集めたもの』という意味であるとする説に拠った謂いで、誤りに近い。しかも、他に全く異なる「拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名」ともされ、編著者も未詳である。

『「うつほ」の「俊景(としかげ)」の卷』「俊景」は「俊蔭」の誤り。「うつほ物語」(「宇津保物語」とも書く)は平安中期に成立した長編物語。全二十巻。著者不詳だが、「和名類聚抄」の作者として知られる源順(したごう)とする説などがある。「竹取物語」の伝奇的性格を受け継いだ、日本文学史上、最古の長編物語で、「枕草子」に優劣論争が記され、「源氏物語」の「絵合」の帖にも「竹取物語」と「宇津保物語」の比較論が展開されている当該ウィキによれば、最初の第一パートである「俊蔭」のシノプシスは、『遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため』、『波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は』、二十三『年を経て』、『日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞』(うつほ)で『子(藤原仲忠)を育てながら』、『秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った』とあるのを指す。異国での長年の遍歴と在野の死、秘められた琴の奥義の奏法伝授、木の洞(うろ)で育てられる稚児と、奇譚的内容が色濃いことで、本書の内容と親和性を嗅がせてある。

「奇特(きどく)」ここは仏教のそれではなく、フラットな「非常に珍しく不思議なさま」の意。

「耳をすゝぐ」「耳を漱ぐ」。「耳を洗い清める」の謂いだが、これは「潁川(えいせん)に耳を洗ふ」に基づく。聖王の堯が、潁川の畔(ほとり)に隠れ住んでいた賢人許由に「天下を譲ってやろう」と言ったを聴くや、「汚ない話を聞いて耳が穢れた」と潁川で耳を洗ったとする故事によるものである(これには、後段があって、牛に水を飲ませようとしてたまたまそこに来ていて、その許由の言葉を聴いた高潔の士巣父(そうほ)は、「そんな汚れた話で穢れた川の水は牛に飲ませられぬ」といって牛を牽いて帰った)。ここには、了意が怪力乱神を聴ことしない、インキ臭い学智ある人は、恐らく本書のてんこ盛りの怪力乱神話に「目」は「よろこばしめ」ても、必ずや、「耳を洗う」だろうと言い放っているのである。しかも、それでこそ、後の対句である「兒女の聞(きく)を、おどろかし、おのづから、心をあらため、正道におもむく、ひとつの補(をきぬい)とせむと也」との謂いを、正当なる見解として胸を張って述べている矜持が逆に感じられるように書かれてもあるのである。

「その目をたつとびて、耳を信ぜざるは、古人のいやしむ所也」「新日本古典文学大系」版脚注では、『元来は、「耳を信じて目を疑ふは、俗の常のへい(弊)也」(平家物語・法印問答)と言われ、人の言うことは信ずるが、自分が実際に見た者は信じないという態度が批判された。出典「耳ヲ貴ビテ目ヲ賤ム者ナリ」[やぶちゃん注:「者」はママ。](文選。東京賦、顔氏家訓。慕賢)。ここでは、その逆を言い、自著等』、『書きものの有用性を説こうとしたもの』とある。

「云尒(しかいふ)」。「尒」は「爾」の異体字。

「干時」訓じて「ときに」。

「寬文六年」「丙午」(ひのえうま)は影印では横に一列に小文字で表記されているが、ブログでは表記不能なので、一般に普通に見られ、また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本でもそうなっているところの形に従って示した。一六六六年。

「瓢水子松雲處士自序」の署名位置も元禄本に従った。底本ではクレジットの真下にダラダラ続いている。

 以下は二種目の擬古漢文の真名序。同じく底本の影印のみを判読した(句読点のみ仮りに附した)。訓点附きであるが、白文で示し、後に訓点に従った訓読文を附した。]

 

 

伽婢子序

伽婢子、松雲處士之所監者也。凡若干卷、槩言神怪奇異之事。言辭之藻麗也、吟咏之繁華也、也、膾炙人口者不可勝言焉。論語說曰子不語怪神矣。玆書之作不免懷詐欺人之謗乎。云不然。厥士之志于道者搜載籍之崇阿、涵禮法之淵源、擇云擇行、積善累德而施不滅之名。若夫庸人孺子之不知讀詩書、耳無博聞之明、身無貞直之厚。虛浮之俗、日々以長。偶聞精微之言疾首蹙顙啾〻焉退。經典沉源、載籍浩瀚、譬如會聾鼓。之何益之有。伽婢子爲書、言、摝新奇、義、極淺近。怪異之驚耳、滑𥡞之說人寐得之醒焉、倦得之舒。是庸人孺子之所好讀易解也。男女淫奔、則念深誡。幽明神恠、欲則覈理。雖非君子達道之事、願欲便庸孺之監戒而已。

寬文六年龍集丙午正月下澣

      雲樵 

○やぶちゃんの書き下し文(〔 〕は冒頭注で述べた通り、私が推定で補った読み)

「伽婢子」序

 「伽婢子」は松雲處士の著はす所ろなり。凡て、若干卷、槪むね、神怪奇異の事を言ふ。言辭の藻麗なるや、吟咏の繁華なるや、人口に膾炙する者の、勝〔あげ〕て言ふべからず。

 「論語說」に曰く、『子、怪神を語らず』と。茲〔こ〕の書の作、詐〔うそ〕を懷〔いだき〕て人を欺くの謗〔そしり〕を免れざらんか。

 云く、然らず。

 厥〔そ〕れ、士の、道を志す者の、載籍〔さいせき〕の崇阿〔すうあ〕を搜り、禮法の淵源に涵〔かむ〕し、言を擇び、行を擇び、善を積み、德を累〔かさね〕て、不滅の名を施す。若〔も〕し、夫れ、庸人・孺子〔じゆし〕の詩書を讀むことを知らざる、耳、博聞の明〔めい〕無く、身、貞直の厚〔こう〕無し。虛浮〔こふ〕の俗、日々に以〔もつて〕長ず。偶〔たまたま〕、精微の言〔げん〕を聞〔きき〕て、首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め、啾々焉〔しうしうえん〕として退〔しりぞ〕く。經典の沈深なる、載籍の浩瀚なる、譬へば、聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし。之〔これ〕、何の益か、之、有〔あら〕ん。

「伽婢子」の書たる、言〔げん〕、新奇を摝〔ふるひ〕、義、淺近を極む。怪異の、耳を驚〔おどろか〕し、滑稽の、人を說〔よろこば〕しむること、寐〔いね〕て、之を得れば、醒め、倦〔うみ〕て之を得れば、舒〔よろこ〕ぶ。是れ、庸人・孺子の、好みて讀み易く解する所なり。男女の淫奔を言ふがごときは、則ち、深く誡〔いまし〕めんことを念ず。幽明神恠は、則ち、理を覈〔あきら〕めんと欲す。君子達道〔くんしたつだう〕の事に非ずと雖も、願くは、庸・孺の監戒に便〔びん〕せんと欲するのみ。

  寬文六年龍集〔りゆうしふ〕丙午正月下澣〔げかん〕

                                  雲樵

 

[やぶちゃん注:「藻麗」「麗藻」に同じ。詩や文章などが麗しくて見事なこと。

「吟咏」「吟詠」に同じ。

「論語說」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に、『「論語説」は同名の書が多く、誰の編著のものか明らかにし難いが、論語本体を引かなかったの了意』の『自序との重複を避けたもの』とある。

「茲〔こ〕の書」本「伽婢子」全体を指す。

「士の、道を志す者」日本文学が江戸以前に手本とした中国文学は基本的に〈士官の文学〉であり、人格と地位ともに一致した「仁者」としての「君子」へと一途に向かうことが理想とされた。

「載籍〔さいせき〕」多様な事柄を記載した多量の書物。

「崇阿〔すうあ〕」「隅から隅まで」の意。

「禮法の淵源に涵〔かむ〕し」儒教の基本規定であるところの礼法の根源まで遡って、十分にそれに浸って。

「庸人」一般普通の凡庸なる常人。

「孺子〔じゆし〕」小僧っこ。子ども。

「貞直」正しく真っ直ぐな人柄。

「虛浮〔こふ〕の俗」「新日本古典文学大系」版脚注に、『行動や態度がおろそかない下俗の風体』(ふうてい)とある。

「精微の言」詳しく、且つ、緻密な言説(ディスクール:フランス語:discours)。

「首を疾〔しつ〕して、顙〔ひたひ〕を蹙〔しか〕め」「新日本古典文学大系」版脚注に、『頭痛のために顔をしかめ、額に皺をよせる』とある。

「啾々焉〔しうしうえん〕」小声でしくしくと泣き続けるさま。

「聾〔ろう〕を會して鼓〔こ〕するがごとし」耳が聴こえない人々を集めて、そこで如何に大太鼓をどろどろと鳴らしても、何の意味も効果もないこと。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「聾」はここは無知者の喩え』とある。

「摝〔ふるひ〕」音「ロク」。「振る・揺らす・ゆり動かす」(他に「水中のものを取る・掬い取る」の意がある)で、「揮ふ」に同じ。発揮する。

「龍集」「りようしふ」とも読む。「龍」は星の名で、「集」は「宿る」の意。この星は一年に一回周行するところから、「一年」の意。多くの場合、年号の下に記す語して「歳次」を示す語である。

「下澣〔げかん〕」「下浣」とも書く。月末の十日間。下旬。

「雲樵」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『未詳』とするのみ。仮名序を意識した内容といい、どうも怪しい。これは号(「雲」が同じで何となく似ている感じを与える)を変えて、実は了意が他人を装って書いたものではなかろうか?]

 

伽婢子卷之一

 

    ○龍宮の上棟(むねあげ)

 江州勢多の橋は、東國第一の大橋(けう)にして、西東にかゝれり。橋より西の方、北には滋賀辛崎もまのあたりにて、山田・矢橋(やはせ)の渡し舟、鹽津・海津(かいづ)の、上り舟に帆かけて走るも、得ならず、見ゆ。南の方は石山寺、夕暮つぐる鐘の音に、山づたひ行く岩間寺(いはまでら)も程近く續きたり。橋より東のかた、北には「任那(しな)の里」、ここは名におふ蓮の名所にて、六月(みなつき)の中比より、咲きみだるゝ、蓮花(はちす)匂ひは四方に薰じて、見に來る人の心さへ、自ら濁りにしまぬ、たのしみあり。橋の南には田上(たなかみ)山の夕日影、鳴送る蟬の聲に、夏は凉しさ、勝りけり。うしろは伊勢路に續き、前には湖水の流れながく、「鹿飛(しゝとび)の瀧」より宇治の川瀨に出るといふ。その北には「螢谷(ほたるだに)」とて洞(ほら)あり。四月(うづき)の初かたより、五月(さつき)の半ばに至るまで、數(す)百萬斛(ごく)の、螢、湧出て、湖水の面に集り、或は鞠の大さ、或は車の輪のごとく、かたまり、圓(まる)がりて、雲路遙かにまひあがり、俄に水の上に、「はた」と、おち、「はらはら」と碎けて水に流るゝ有さま、點々たる柘榴花(せきりうくは)の五月雨(さみだれ)にさくが如くにて、光りさやかにみだれたるは、又、すてがたき眺めなり。されば、世の好事(かうじ)の輩(ともがら)、僧俗ともに遊び來(き)て、歌、よみ、詩、つくる、其言葉、多く、口につたへ、書に記(しる)せり。

[やぶちゃん注:長いので注を挟み、その後は一行空けた。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本篇は『俵藤太の龍宮伝説を背景として、若干を剪灯新話』(明の瞿佑(くゆう)撰の志怪小説集。一三七八年頃の成立。三遊亭円朝「牡丹灯籠」の原話としてよく知られる。本「御伽婢子」は同書を原拠としたものが多い)『一ノ一「水宮慶会録」に負いながら、その殆んどの構想を』、別に同書に依って書かれたかと思われる『金鰲新話』(きんごうしんわ:朝鮮李朝前期の漢文伝奇小説集。金時習撰。執筆年代は一四六六年から一四七一年頃と推定される。完本は失われ、「万福寺樗蒲記」・「李生窺牆伝」・「酔遊浮碧亭記」・「南炎浮洲志」と、この「竜宮赴宴録〉の五編のみが伝わる)『「竜宮赴宴録」に基づき、上棟の慶事を明るくにぎやかに述べて』本「御伽婢子」の『冒頭を飾る一話』とある。私は原拠考証には踏み込むつもりはまるでないので、比較考証に興味のある方は、同書を購入し、その注及び附録の影印「剪燈新話句解」を参照されたい

「江州勢多の橋」瀬田唐橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「東國」ちょっと戸惑うが、「新日本古典文学大系」版脚注に、『近江国逢坂の関』(ここ)『以東』を言ったとある。

「滋賀辛崎」現在の大津市唐崎の唐崎神社のある琵琶湖西岸。

「山田」現在の滋賀県草津市北山田町。以下、多くは琵琶湖水上交通の要所や景勝地の命数で疑似的な道行文となっている。

「矢橋(やはせ)」「近江八景」の一つとして知られる琵琶湖の名勝「矢橋帰帆」の地。旧栗太郡老上(おいかみ)村で現在の草津市八橋町(やばせちょう)

「鹽津」滋賀県長浜市西浅井町塩津浜。琵琶湖の北端奥。

「海津(かいづ)」滋賀県高島市マキノ町海津。琵琶湖の北端の西部にある。

「得ならず」連語で「何とも言えないほど、すばらしい」の意。中世以降の用法。

「石山寺」滋賀県大津市の唐橋の下流一キロメートル半ほどの瀬田川右岸にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(いしやまでら)。標高二百三十六メートルの伽藍山南東山麓の瀬田川直近にある。聖武天皇の発願(ほつがん)により天平一九(七四七)年に東大寺開山で別当であった良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされる。

「岩間寺(いはまでら)」滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗岩間山(いわまさん)正法寺(しょうほうじ)の別称。開山は加賀国白山を開いた泰澄。岩間寺(いわまでら)。西国三十三所第十二番札所。十三番の石山寺の南西約四キロメートルの、滋賀県と京都府との府県境の一部をなす岩間山(標高四百四十三メートル)南腹の標高三百九十メートル付近にある。

「任那(しな)の里」滋賀県草津市志那町(しなちょう)。ここ志那浜のハスは既に室町時代には景勝地として知られていた。

「田上(たなかみ)山」滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高四百から六百メートルの山塊の総称。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)

「鹿飛(しゝとび)の瀧」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「瀧」は滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。

「螢谷(ほたるだに)」石山寺の北北西五百メートルほどの位置(瀬田川右岸)に現在、滋賀県大津市螢谷という地名及び同名の公園がある。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」にも記載があるので、参照されたい。

「數百萬斛(ごく)」一石(斛は平安末頃までの古い表記)は十斗で百升。誇張表現。

「柘榴花(せきりうくは)」ザクロの花。]

 

 橋の東南のかた、湖水の渚(みぎは)にそふて、子社(こやしろ)あり。

 むかし、俵藤太秀鄕(たはらとうだひでさと)、此あたりより龍宮に行て、三上の嶽の「むかで」を退治し、絹と俵と鍋と鐘(つりかね)とを得て歸る。中にも、鐘は三井寺に寄付して、今も其名、高く、世にのこれり。

[やぶちゃん注:「子社」現在の瀬田唐橋の東詰を少し下ったところに勢多橋龍宮秀郷社と、その東北直近に秀郷を祀る雲住寺がある。

「俵藤太秀鄕」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。「柴田宵曲 妖異博物館 百足と蛇」の最初の私の注辺りを参照されたい。個人的には、そのパロディであるが、私の『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝 (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』がすこぶる面白いと思う。

「鐘(つりかね)」は何故か人気の部分で、怪奇談にこれだけが独立して後日談形式で語られることが甚だ多い。例えば私の「諸國里人談卷之五 三井鐘」を参照されたい。]

 

 後柏原院の朝(てう)、永正年中に、滋賀郡(しがのこほり)松本といふ所に、眞上阿祇奈君(まがみ あきな きみ)といふ人、あり。

 もとは禁中に伺公して、文章生(もんしやうがく)の官職にあづかりし人なれども、世の怱劇をいとひて、冠(かふり)をかけて、引きこもり、此所に跡をとゞめ、心しづかに月日をぞ過されける。

[やぶちゃん注:「後柏原院の朝」後柏原天皇の在位は戦国時代の明応九(一五〇〇)年から大永六(一五二六)年。

「永正」一五〇四年から一五二一年まで。

「滋賀郡松本」滋賀県大津市松本。琵琶湖南西岸で瀬田唐橋の北西四キロメートル強。

「眞上阿祇奈君」「新日本古典文学大系」版脚注に、「阿祇奈」について、『古事記・孝元天皇の条に見える阿芸奈(あぎな)臣』(のおみ)『に発する姓(かばね)』。但し、『拾芥抄・中にこれに属する氏として二百氏弱を記すが、真上氏は見えない』とする。「君」尊称の接尾辞。

「伺公」「伺候」に同じ。

「文章生」古代から中世にかけて、律令制の大学寮で紀伝道(大学寮内の学科四道(他に「論語」・「孝経」などの経書(けいしょ)を講究した明経(みょうぎょう)道・古代の律・令・格(きゃく)・式など法律を講究した明法(みょうぼう)道・算道)の一つ)の学生。中国の史書・詩文を講究した。当初は「文章道 (もんじょうどう)」と呼ばれたが、平安時代に入って、「紀伝道」が公称となり、四科の中で最も重んぜられるようになった。天平二(七三〇)年に設置された。明経生が貴族の子弟に限られていたのに対し、庶人にまで門戸を開いたものであったが、紀伝道の地位上昇に伴って結局は貴族化してしまい、また、当該道(課程)の下位に学生(がくしょう)・擬文章生などの予科課程を持つに至り、寮試・省試などの科挙試のまがいものの試験を通過して、初めて与えられるという閉鎖的な地位となってしまった。文章得業生となって対策に及第して晴れて任官するのが本来であるが、文章生から直ちに対策となったり、或いは文章生を経ただけで任官するケースもあった。読みは「もんぞうしょう」「もんじょうのしょう」もある。ここでは底本にある音をとった。

「怱劇」「そうげき・そうけき」は「忩劇」とも書く。孰れの字も「慌ただしく急ぎ、忙しいこと」を指す字)で「忙しく落ち着かぬこと」・「混乱すること」・「いざこざなどによって発生する世の中の種々の厭な騒ぎ」の意。

「冠(かふり)をかけて」漢語「掛(挂)冠」を訓読した慣用句である「冠を掛く」(かうぶりをかく)は中古からあった連語で、官人の正装の象徴である冠を脱いで掛けてしまう、「官職を辞する」の意。

「過されける」私は「すぐされける」と読みたい人種である。]

 

 或日の夕暮に、布衣(ほい)に烏帽子着たる者、二人、來り、庭の前に跪きて、

「これは、水海底(すいかいてい)の龍宮城より、迎え奉るべき事ありてまゐり侍べり。」

といふ。

 眞上、おどろき、色を替(かへ)て、

「龍宮と、人間と、道へだたり、異なり、如何でか行〔ゆき〕いたるべき。『いにしへは、其道ありし』と聞つたへしかども、今は絕へて、其跡を知らず。」

といふ。

 使者のいふよう、

「よき馬に、鞍おきて、門外に繫ぎおきたり。これにめして赴き給はんには、水漫々として波高くとも、少しも苦しき事あらじ。」

といふ。

 眞上、怪しみながら、座を立〔たち〕て、門に出たれば、その長(たけ)七寸(なゝき)ばかり、太逞(ふとくたくま)しき驪(くろ)の馬に、金幅輪の鞍おき、螺鈿(らでん)の鐙(あぶみ)をかけ、白銀〔しろがね〕の轡(くつわ)をつかませて、引〔ひつ〕たて、白丁(はくてう)、十餘人、

「はらはら」

と立て、眞上を馬にかきのせ、二人の使者は、前にはしり、馬は、虛空にあがりとぶがごとし。

[やぶちゃん注:「布衣(ほい)」六位以下の者が着す無紋(無地)の狩衣。

「長(たけ)七寸(なゝき)」「寸(き)」馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺七寸(一・四二メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。これは作品内時制では、かなり大きい馬である。

「驪(くろ)の馬」黒毛の馬。

「白丁(はくてう)」底本にはルビがなく、元禄版で添えた。しかし、「新日本古典文学大系」は『はくちやう』と振り、歴史的仮名遣はこれが正しい。小学館「日本国語大辞典」の「はくちょう」「白張・白丁」の二番目の意で、『白布の狩衣を着た下男。かさ・くつなどを持ったり、馬の口取などをするもの』とある。]

 

Rm1

[やぶちゃん注:画像元の「新日本古典文学大系」版脚注の挿絵解説には、『宮殿は極彩色の壁画』で、『中に象の画も見えるか』とある。]

 

 眞上、

「眞下。」

と見おろせば、足の下は、たゞ雲の波、煙(けふり)の苒々(ぜんぜん)として、其外には何も見えず、しばしの間に宮門に至り、馬より下りて立てり。

 門まもる者共は、蝦魚(えび)のかしら、螃蟹(かに)の甲(から)、辛螺(さゞい)、貝蛤(はまぐり)の殼に似たる、甲(かぶと)の緖をしめ、鎗・長刀(なぎなた)を立ならべ、きびしく、番をつとむる。眞上を見て、皆、ひざまづき、頭(かうべ)を地につけて、敬ひつゝしめり。

 二人の使者内に入て後、しばらくありて、綠衣の官人とおぼしきもの、二人、出(いで)て、門より内に、引て、あゆむ。

 門の上には、「含仁(がんじん)門」といふ額をかけたり。門に入りて、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり行ければ、水精(すゐしやう)の宮殿あり。

 階(みはし)を登りて入りければ、龍王、すなはち、彩雲(さいうん)の冠(かぶり)をいたゞき、飛雪(ひせつ)の劍(けん)を帶(をび)、笏を正しくして、立出つゝ、眞上を延(ひき)て白玉(はくぎよく)の床〔ゆか〕に座をしめたり。

 眞上、大に敬ひ、禮拜して、

「我は、これ、大日本國の小臣なり。草木と共に腐(くち)はつべき身なり。いかでか、神王の威を冐(をか)して、上客(しやうかく)の禮をうけ奉らんや。」

といふ。

 龍王のいはく、

「久しく名を聞〔きき〕て、今、尊顏をむかへ侍り、辭退し給ふにおよばず。」

とて、强て、床の上にのぼせ、自ら、又、七寶の床にのぼり、南に差し向うて、座したり。

 かゝる所に、

「賓客、入來り給ふ。」

といふ。

 龍王、又、座をくだり、階に出てむかえ入れたりければ、三人の客、あり。

 いづれも、氣高(けたか)きよそほひ、此世の人とも、覺えず。

 玉の冠をいたゞき、錦の袂をかひつくろうて、威儀正しく、七寶の手ぐるまより下りて、靜(しづか)に殿上(てんしやう)にのぼり、床に坐したり。

 眞上は床を退〔しりぞ〕きて、金障(きんしやう)のもとに隱れうづくまる。

 巳に、座、定まりて、龍王語りけるは、

「人間世界の文章生をむかへ奉れり。君たち、これを疑ひ給ふな。」

とて、眞上をよびて、すゝめしかば、眞上、出て、禮拜するに、三人の客、また、禮をいたす。

「前の玉座に上り給へ。」

と云(いふ)に、眞上、辭して曰く、

「我は、これ、一个〔いつこ〕の小臣也。いやしきが、貴族に對して、床にのぼらん事、おそれあり。」

と。

 三人の客(かく)、おなじく曰く、

「誠に人界(にんがい)と龍城と、其境、隔ちて、通路、絕えたれども、神王、已に人間をかんが見る事、明らけし。君、これ、たゞ人ならんや。こゝに請じ奉れり。何ぞ辭するに及ばん。早く床に坐し給へ。」

と。

 眞上、すなはち、床に座す。

 龍王かたりけるは、

「朕(われ)、此程、新たに一つの宮殿をかまへ造る。木工頭(もくのかみ)・番匠(たくみ)の司(つかさ)あつまり、玉のいしずゑをすゑ、虹(にじ)のうつばり・雲のむなぎ・文(あや)の柱、皆、具(そな)はり、もとめしかども、只、ともしきものは、上梁(むねあげ)の文(ぶん)・祝拜(しゆくはい)のことば也。ほのかに聞つたふ、眞上の阿紙奈(あきな)君は、學智道德の名、かくれなし。此故に、遠く招きて、請じ奉る。幸(さいわい[やぶちゃん注:元禄版のママ。])に、朕、爲に、一篇をかきて給(たべ)。」

といふに、二人の童子、十二、三ばかりなるが、髮、からわにあげて、一人は碧玉の硯に、湘竹(しやうちく)の管(ぢく)に文犀(ぶんさい)の毛さしたる筆、とりそへ、神苓(しんれい)の灰に、紅藍(こうらん)・麝臍(じやさい)を和(くは)したる墨、すり湛えてさゝげ、一人は鮫人(かうじん)の絹一丈をもちて、眞上にすゝむ。

 阿祇奈君、辭するに言葉なく、筆をそめて、書きたり。

[やぶちゃん注:「苒々(ぜんぜん)」巡り進み、次第にのびやかになるさま。

「螃蟹(かに)」「螃」もカニの意。

「辛螺(さゞい)」現行では、狭義には腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa 等を指し、広義には外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称である。詳しくは「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」の私の注を見られたいが、さらにここは「大型の巻貝」の意で用い、それに「さざい」、則ち、腹足綱古腹足目リュウテン(龍天)科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo sazae (タイプ種)を当て訓したもの。

「貝蛤(はまぐり)」ここは取り敢えず、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria としておく。

「含仁(がんじん)門」「新日本古典文学大系」版脚注に、『竜王の仁徳に満ちている』という意を持つ『命名か』とある。

「水精(すゐしやう)」水晶に同じ。

「飛雪(ひせつ)の劍(けん)」剣の刃紋からの呼称であろう。

「延(ひき)て」連れ導いて。

「手ぐるま」貴人用の乗り物。屋形に車輪を附けた車で、前後に突き出ている轅 (ながえ) を人の手で引く輦(てぐるま)。輦車 (れんしゃ) 。

「金障(きんしやう)」金箔を張った衝立。

「木工頭(もくのかみ)」律令制で宮内省に属し、宮中の殿舎の造営や木材の伐採などを司った木工寮(もくりょう)の長官。龍宮が現実の禁中と相同に構成されているのである。

「番匠(たくみ)」ここは木工寮に所属する龍宮禁中の大工・工匠。

「虹(にじ)のうつばり」「虹の梁(うつばり)」。虹の如く、天井を上方に向かって、なだらかに湾曲した反りを与えてある梁(はり)のこと。或いは実際に虹色に七色に輝いていたものとイメージすると、龍宮が総天然色となって、よりよい。

「雲のむなぎ」雲形の棟木。ここも同前で、実際、雲で出来ていると思うのも一興。

「文(あや)の柱」精緻で美しい模様を彫り出した柱。

「ともしきもの」足りない物。

「髮、からわにあげて」「からわ」は「唐輪」。髪の結い方の一つ。髻(もとどり)から上を二つに分けて、頂きで二つの輪に作ったもの。鎌倉時代の武家の若党や、元服前の近侍の童児の髪形である。唐輪髷(からわまげ・からわわげ)。

「湘竹(しやうちく)」伝説の聖王舜の妃であった湘夫人が舜の死を悲しんで泣いた涙が竹に滴ったところ、その竹が斑(まだら)になったという「博物志」の「史補」に見える伝説からの命名。特に中国産の斑竹(はんちく)。斑紋のある竹。

「管(ぢく)」筆の筆先を除く本体部。

「文犀(ぶんさい)」「新日本古典文学大系」版脚注に引かれた「天中記」の引用を見るに、サイの体毛らしいが、実際にサイであったかどうかは怪しい。

「神苓(しんれい)の灰」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『藜(あかざ)』(ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum )『の灰は古く染料に用いた(本草綱目七・冬灰)。「神藜」は神聖な藜の意か』とある。

「紅藍(こうらん)」紅花(キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius )の異名。「新日本古典文学大系」版脚注には、『墨にいれると強い光を出すという(万金産業袋一)』とある。

「麝臍(じやさい)」麝香。ヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ (或いはジャコウネコ) の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分はムスコンと呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。「新日本古典文学大系」版脚注に、『韋仲将』(三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の書家)『合墨法の中に、真朱一両麝香一両を鉄臼の中で合わせる法が見えている』とある。魏の一両は十三・九二グラム。

「鮫人(かうじん)」中国で南海に棲むとされた人魚に似た想像上の生き物。常に機 (はた)を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉となるとされた。]

 

「天地(あめつち)の間(あひだ)には蒼海(あをうなはら)を最(いと)大(おほい)なりとし、生物(いけるたぐひ)のなかには、龍神(わたつみ)を殊に靈(くしみ)とす。已に世を潤すの功(いさをし)あり。いかでか、福(さいはひ)をのぶるの惠(めぐみ)なからんや。この故に、香をたき、燈をかゝげて、依(より)、いのる。飛(とぶ)龍(たつ)は、大〔おほい〕なる人をみるに利(とき)こと、あり。又、もちひて不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり。維(これ)、歲次(としのやどり)今月今日(このつきこのひ)、新(あらた)に玉の殿(みあや)をかまへ、昭(あきら)けく精(くはし)き華(かざり)を營めり。水晶・珊瑚のはしらをたて、琥珀・琅玕(らうかん)の染(うつはり)を掛(かく)。珠(たま)の簾(すだれ)をまきぬれば、山の雲、靑くうつり、玉の戶を開けば、洞(ほら)の霞、白く、めぐる。天(あめ)、高く、地(つち)、厚(あつう)して、南溟(みなみのうみ)八千里(やちさと)をしづめ、雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり[やぶちゃん注:ママ。])て、北の渚、五百淵(いほふち)を、をさむ。空にあがり、泉に下りては、蒼生(かんたがら)の望みをかなへ、形を現はし、身を隱しては、上帝(かんすべらぎ)の仁(あはれみ)を祐(たす)く。その威(いきほ)ひ、古(いにしへ)・今(いま)にわたり、その德(さいはひ)、磧礫(せゝなぎ)に曁(およ)ぼす。玄龜(くろきかめ)・赤鯉(あかきこひ)をどりて祝ひ、木魅(こだま)・山魅(びこ)、あつまりて、賀(よろこ)ぶ。こゝに歌一曲(ふし)を作りて、雕(ちり)ばめたる梁(うつばり)のうへに揭(あらは)す。

 

 扶桑海淵落瑤宮

 水族駢蹎承德化

 萬籟唱和慶賛歌

 若神河伯朝宗駕

 

をさまれるみちぞしるけき龍の宮の

  世はひさかたのつきじとをしる

 

伏てねがはくは、上棟(むねあげ)の後、百(もゝ)の福(さひはひ)、共に臻(いた)り、千(ちゞ)の喜(よころび)、偏(あまね)く來り、瑤(たま)の宮、安くおだやかにして、溟海(わだつうみ)平(たいら)けく治〔をさま〕り、天つ空の月日に齋(ひと)しく、その限(かぎり)、有べからず。

 

と書て奉る。

[やぶちゃん注:阿祇奈のものした「上梁文」は前後を一行空け、さらに漢詩と和歌も同様の処置を施した。なお、これらは底本では全体が一字下げである。漢詩は訓点附きであるが、きなたくなるだけなので、本文では白文で示し、以下の注で訓読することとした。

「龍神(わたつみ)」「海神」と同義。

「靈(くしみ)」「奇し御魂(くしみたま)」の略。万葉時代に既にある語。「神秘な力をもつ霊魂」或いは「そのような霊魂の宿るもの」を指す。江戸後期の即席の神道概説などに引っ張られる定義的なそれではない。但し、この文章は原話の漢文に基づきながらも、徹底した和文和訓文脈で読まれてあり、神道の祝詞や祭文のそれに似せた形に成形されてはある。

「依(より)、いのる」この「依り」はただ一つ信じ得る依り所としての謂いであり、祀り祈るに際して、神霊が確かに依り憑いて下さることを念じた祈りの含みもあろう。

「不測(はからざる)の迹(あと)に象(かたど)れり」飛龍のそうした類まれな鑑識眼の超能力を、「飛ぶ龍」の造形を想起することによって、それを霊験あらたかな奇瑞の、そして永遠に龍宮宮殿の不滅のシンボルとするといった意味か。

「歲次(としのやどり)」ここには人間世界では本来は元号や干支が前に付随するものであるが、ここは異界の龍宮であるから、「この年」の意で添えたものである。

「殿(みあや)」この訓は不詳。意味不明。識者の御教授を乞う。「御阿屋」(「阿」には「軒・廂」の意がある)か。

「昭(あきら)けく」見た目もはっきりくっきりと。

「琅玕(らうかん)」現行の博物学的見解では、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」、或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている。しかし、この場合は龍宮の宮殿の装飾物であるから、嬉しくないが、青系の珊瑚の可能性を排除は出来ない。私の微妙な不満は『「和漢三才圖會」巻第六十「玉石類」「珊瑚」』を参照されれば、判って戴ける。だが、正直言えば、前で並列されている「琥珀」は陸産の宝石であるからして、珊瑚の可能性に拘る必要は実は、ないのである。

「南溟(みなみのうみ)」この場合の「溟」は大海原の意。

「八千里(やちさと)」後の「五百淵(いほふち)」ともに大数表示に過ぎない。

「雨順風調(あめ したがひ かぜ とゝのふり)」元禄版と「新日本古典文学大系」版では「調」の読みは「とゝのをり」である。

「蒼生(かんたがら)」人民。蒼氓。訓は「神寶」(かんだから)としての神・天子(=「上帝(かんすべらぎ)」)の赤子のこと。

「磧礫(せゝなぎ)に」河原の小石にまでも。

「曁(およ)ぼす」「及ぼす」に同じ。

「玄龜(くろきかめ)」はここでは明らかに四神の一つである玄武の属性を示唆していよう。

「山魅(びこ)」言わずもがなであるが、「やまびこ」(「木霊」)である。龍宮は海底でも異界という点で人間界とは違って通底連絡性が極めて近いのである。本邦の龍宮説話は山中の渓流や池沼にも通じているのである。

 

●漢詩訓読と語釈:先に述べてしまうと、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、この『漢詩は、「剪灯新話の上梁の文より語句を抜き出して、新御殿の落成と竜宮の繁栄を祝う』ものに作り成したものである。

扶桑海淵落瑤宮

水族駢蹎承德化

萬籟唱和慶賛歌

若神河伯朝宗駕

 扶桑(ふさう)の海淵 瑤宮(ようきう)を落(はじ)む

 水族(すいじよく) 駢蹎(べんてん)として 德化(とくくわ)に承(したが)ふ

 萬籟(ばんらい) 唱和す 慶賛(けいさん)の歌

 若神(じやくしん) 河伯(かはく) 朝宗(てうそう)の駕(が)

・「扶桑」中国神話に現われる「太陽の昇る木」。幻想地誌「山海経」の「海外東経」には、「東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから、太陽が昇る」とする。当該ウィキによれば、『古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという』。後に「梁書」が書かれて『以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されており、この場合の「扶桑」とは実在のどの植物のことかを』巡る論争が、これまた、比定地の一つの論点ともなっている(引用元に詳しい)。ともかくも、『扶桑は東海の海上にあるとされ』たことから、後に『日本の異名となった』。

・「瑤宮」「瑤」は「美しい珠玉」で、美麗な宮殿のこと。

・「落む」落成する。

・「水族(すいじよく)」この読みは不審。「族」に「ジヨク(ジョク)」の音はない。「屬」と勘違いしたものか?

・「駢蹎」「新日本古典文学大系」版脚注には『連なり、並ぶこと』とあるのだが、不審。「駢」の意はそれでいいが、「蹎」は「躓(つまず)く」の意しかないからである。

・「萬籟」風が物にあたって発するあらゆる音。ここは海中なれば、「風波」の意か。

・「若神」海神の異名。「楚辞」の「遠遊」に「東海若」は「東海の神」とし、「海若」とも記すとある。

・「河伯」中国神話に現われる黄河の神。しばしば、日本の在来妖怪である「河童」を同一とする説を見るが、私は断固、反対する。その主張は、最近、「怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ」で注したので繰り返さない。

・「朝宗」「朝」は「春に天子に謁見する」、「宗」は夏のそれの意で、古代中国に於いて「諸侯が天子に拝謁すること」を指す。

 切り張り細工の漢詩というのが気になった。そこで一応、平仄と韻を調べてみた。

○○●○●○○
●●○○○●◎
●●●●●●○
●○○●○○◎

であった。これが七律であるとするなら、起句末の「宮」と承句末の「化」及び結句末の「駕」が押韻していなくてはならないが、「化」と「駕」は同韻であるが、「宮」は韻を踏んでいない。それだけでも致命的だが、さらに、これは起句の二字目が平声の正格である平起式となるが、起・承句はいいものの、転句は二・五・六字目が、結句は二・四・六字目がアウトで、拗体もいいところで、話にならない。「韻ぐらい合わせろよ!」と了意に突っ込みたくなった。

「をさまれるみちぞしるけき龍の宮の世はひさかたのつきじとをしる」整序すると、

 治まれる道ぞ著(しる)けき龍の宮の世は久方のつきじとを知る

で、「久方の月路」と「盡じ」が掛詞となっている。こちらも、いやさかに龍宮の繁栄を永久(とわ)に言祝ぐ歌である。]

 

Rm2

 

 龍王、大〔おほきに〕に悅び、三人の客に見せしむるに、皆、感じて、ほめたり。

 則ち上梁(むねあげ)の宴を開きて曰(いはく)、

「阿祇奈君は人間にありて、末だ終に知り給はじ。一人(ひとり)は『江(え)の神』、一人は『河の神』、一人は『淵の神』なり。君と友となり、今日のあそびには、更に心を、とけ給へ。何か憚ることあらん。」

とて、盃をめぐらし、酒(しゆ)を勸む。

 廿〔はたち〕ばかりの女房、十餘人を出〔いだ〕し、雪の袖を飜(かへ)し、歌ひ、舞(まふ)。

 その面(かほ)かたち、世に未だ見ず、うるはしく、たをやかにして、玉の釵(かんざし)に花を飾り、白き羅(うすもの)に、袖つけて、歌ふ聲、雲に響きつゝ、少時(しばし)、舞て、退きければ、又、びんづら、結(ゆう)たる童子、十餘人、其うつくしさ、雛(ひいな)の如くなるが、繡(からぬひ)のひたゝれに、錦の袂を翻(ひるがへ)す。哥(うた)の聲、すみのぼり、梁(うつばり)の塵や、飛ぬらん。糸竹(いとたけ)の音に和(くわ)して、面白さ、限りなし。

 舞、巳にをはりければ、主(あるじ)の龍王、よろこびに餘り、盃(さかづき)を洗ひ、銚子を更(あらた)め、阿祇奈君が前に置(をき)、みづから、玉の笛を吹鳴らし、「嶰谷吟(かいこくぎん)」を歌ひいて後、

「其座に有ける者共、まかり出て、客(かく)の爲に戯(たはふれ)の藝を盡せ。」

とあり。

 畏(かしこま)りて出たる人、みづから、

「郭介子(くわくかいし)。」

と名のる。

 これ、蟹の精也。

 其うたひける詞に、

「我は谷かげ・岩まに隱れ、桂(かつら)の實のる秋になれば、月淸く、風凉しきに催され、河にまろび、海に泳ぐ。腹には、黃(き)を含み、外は、まどかに、いと堅く、二(ふたつ)の眼(まなこ)、空に望み、八(やつ)の足、またがり、其形は、乙女の笑(わらひ)を求め、其味(あじはひ)は、兵(つはもの)のかほばせを喜ばし、甲(よろひ)をまとひ、戈(ほこ)を取り、沫(あは)を噴(ふき)、瞳(ひとみ)を廻らし、『無腸公子(ぶちやうこうし)』の名を施し、つな手の舞けらし。」

とて、前に進み、後に退(しりぞ)き、右に駈(かけ)り、左に走りければ、其類(るい[やぶちゃん注:ママ。])の者、拍子をとる。

 座中、笑壺(ゑつぼ)に入〔いり〕て、笑ひ、にぎはふ。

[やぶちゃん注:底本では「郭介子」の歌は全体が一字下げである。

「びんづら」「みづら(みずら)」の音変化。「角髪」「角子」「鬟」「髻」などと書く。上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分け、両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後は主として少年の髪形となった。

「雛(ひいな)」雛人形。

「繡(からぬひ)」縒(よ)り糸で紋様を刺繡したもの。

「ひたゝれ」「直垂」。男性用和服の一種。平安末期に庶民の労働着として発達し、筒袖の垂領(たりくび)の上衣に、丈の短い四幅袴(よのばかま)姿であった。これを武士が鎧の下に着用するようになり、鎌倉時代には武士の日常着となり,袖も広袖となった。袴と合せて用いる二幅の身に一幅半の袖を附け、衽(おくみ)がなく、闕腋(わきあけ)を特色とした。武士の台頭につれ、公家にも私服として着用されるようになり、武士の場合は袷(あわせ)であったが、公家の場合は単(ひとえ)で、袖に袖くくりの紐を通し、先が露として垂れていた。従来の直垂は「鎧直垂」と称されて、専ら軍陣用のものとなった。室町時代には上級武士の礼服となり、袴も長袴となって、地質も綾などの絹が使用された。江戸時代になると、直垂は将軍以下諸大名、三位以下侍従以上の大礼服となり、白小袖に直垂・風折烏帽子(かざおりえぼし)というのが武家の最上の礼装となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。各語の意味が判らない方は、幾つかはリンク先にリンクがある)。

「梁の塵や、飛ぬらん」歌が上手いことの喩え。漢の虞公という歌の名手が歌うと、その声が響き渡って、梁の上の塵まで動いた、という故事(「劉向(りゅうきょう)別録」)に由来する。

「糸竹」管弦楽器。

「嶰谷吟(かいこくぎん)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「嶰谷」は崑崙の北谷の名。黄帝の時、伶倫』(「伶」自体が「楽人」を指す漢字)『がここの竹を取って吹き』、中国音楽の最初の十二律の『音律を定めたという』とある。ここはそれに擬えて了意が勝手に創作した管楽曲名であろう。

「郭介子」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原話「金鰲新話」に『郭介士』の名で出るとし、『蟹が』ガサゴソと『動くことを』漢語で『「郭索」と言い、蟹の異名でもあることによる命名か。「介子」は介士、甲冑を着た武人』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「かに 蟹」にも、異名として「郭索」「橫行介士」「無腸公子」が載り、「本綱綱目」から引いて、『蟹は池澤諸水の中に生ず。此の物、亦、蟬のごとく、秋の初め、殻(から)を脫(ぬ)ぐ。蟹と名づくの意、此の義を取る。其の橫に行くを以て螃䲒と曰ふ。其の行く聲を以て郭索と曰ふ。其の外骨を以て介士と曰ふ。其の内の空なるを以て無腸公子と曰ふ』とあるので、是非、参照されたい。

「桂(かつら)の實のる秋」これは実際のユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum ではなく(同種の花期は三月から五月で、秋に合わない。因みに同種は雌雄異株である)、月世界に植わっているとされた理想を体現した「月の桂」のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「他の事はともあれ、月の桂ばかりは、花をば貫之の歌を証歌にし春とし、桂は実る三五の秋と詩にも侍れば、実をば秋に定度(さだめたき)もの也」(俳諧御傘四・月の桂の花)』とある。ただ、この「月の桂」の伝承元は中国で、中国の「桂」はカツラではなく、秋に結実して冬を越し、春に熟すシソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans である辺りに、この「ややこしや」はあるんではなかろうか?

「腹には、黃(き)を含み」卵巣の肥大を指す。

「無腸公子(ぶちやうこうし)」底本は「ぶ」は清音。元禄版も同じ。ここは躓くので、「新日本古典文学大系」版で訂した。摂餌不足や産卵直後のカニ類の内臓は空っぽに見えることに由る。

「つな手の舞」何時もは天敵である漁師が舟を引く「綱手」の姿を「舞」いとして、カリカチャライズしたものか。

「笑壺(ゑつぼ)に入て」上機嫌になって笑い転げ。鎌倉時代以降の連語。]

 

 其次に、

「玄先生(げんせんじやう)。」

と名のりて駈(かけ)出つゝ、袖を飜(かへ)し、拍子をとり、尾をのべ、頚(くび)を動かす。

 是、龜の精也。

 其歌ひける詞に、

「我は、これ、蓍(めどき)の草むらに隱れ、蓮(はちす)の葉に遊び、書(ふみ)を負(おう)て、水に浮び、網をかぶりて、夢をしめす。殼(から)は人の兆(うらかた)を現はし、胸に士(つはもの)の氣を含む。世の寳(たから)となり、道の敎(をしへ)をなす。六の藏(かく)して伏し、千年(ちとせ)の壽(ことぶき)を保つ。氣を吐けば、糸筋のごとく、尾を曳(ひき)て、樂(たのしみ)を極む。靑海(あおうみ)の舞を舞(まふ)べし。」

と、頭(かしら)を動かし頚(くび)をしゞめ、目をまじろき、足をあげ、しばし、かなでゝ引入〔ひきいり〕ければ、滿座の輩〔ともがら〕、聲をあげ、腹をさゝげ、おきふして、笑ひどよどみ、興を催す。

[やぶちゃん注:「玄先生」の歌は底本では全体が一字下げである。

「蓍」これは本邦では、バラ亜綱マメ目マメ科ハギ属メドハギ亜種メドハギ Lespedeza juncea var. subsessilis である。ここで、この植物を出したのには大きな意味がある。何故なら、このメドハギという和名は「目処萩」であり、これは元は「筮萩(めどぎはぎ)」と言ったのが訛ったものとされるからである。則ち、本家中国以来、このメドハギの茎を乾燥させたものを、占いをするための筮竹(ぜいちく)の替わりに用いたことによるからである。但し、これは了意のオリジナルではなく、「爾雅」の「六曰筮龜」の注で「常在蓍叢下潛伏。見龜策傳。」(常に蓍(し)の叢下に在りて潛伏す。「龜策傳」を見よ。)とある。この「龜策傳」とは、「史記」の列伝中にある、前の「日者列傳」とともに占卜者群の包括的解説が成されてある「龜策列傳」である。但し、「常在蓍叢下潛伏」の文字列は「史記」の「龜策列傳」にはなく、「爾雅」の注に拠るものの、それと同内容の「能得百莖蓍、幷得其下龜以卜者。百言百當、足以決吉凶。」(能く百莖の蓍を得ば、幷びに其の下に以つて卜者とする龜を得。百言百當して、以つて吉凶を決するに足る。)がある(以上の訓読は私の自然流で、原文は「中國哲學書電子化計劃」の同列伝を参考にした)。意外に思われるのは、ここには「龜卜」の語は出現せず、その代わりとなっているのが「蓍龜」(しき)、蓍(し)の茎と亀甲なのであった。ただ、ここでどうしても追加を必要とする記載を見出した。それはウィキの「蓍亀」で、そこには『ノコギリソウと亀甲を指し、昔は占いに用いていた』とあるからである。則ち、中国で「蓍」が指すのはメドハギではなく、キク亜綱キク目キク科ノコギリソウ属ノコギリソウ Achillea alpina であるということである。則ち、中国ではメドハギとは全くの別種であるノコギリソウの茎を、同様に乾燥させて筮竹の代わりにしていたという事実を確認しておく必要があるのである。この決定的違いは「新日本古典文学大系」版脚注にも記されていないので、注意を要する。

「蓮の葉に遊び」同じく、「龜策列傳」に「余至江南、觀其行事、問其長老、云龜千歲乃遊蓮葉之上、蓍百莖共一根。又其所生、獸無虎狼、草無毒螫」(余、江南に至り、其の行事(亀の甲羅を用いた卜占)を觀て、其の長老に問ふに、云はく、「龜の千歲にして、乃(すなは)ち蓮の葉の上に遊び、蓍(し)百莖と共に一根たり。又、其の生ずる所、獸、虎・狼無く、草、毒・螫(どくむし)無し」と。)とある。蓮の葉の上にいるカメは既にして、霊亀なのである。「本草綱目」の「介之一」冒頭の「水龜」にも「在山、曰靈龜」、「『抱朴子』云。『千歲靈龜、五色具焉。』。」とある。

「書を負て」「尙書中候」(「後漢書」の注)に、「堯率羣臣東沈璧于洛。退候至于下稷。赤光起。元龜負書出。背甲赤文成字止壇。」(堯、羣臣を率いて東し、璧を洛に沈む。退きて下稷に至りて候すに、赤光、起り、元龜、書を負ひて出で、背甲に赤文あり、字して「止壇」と成す。)。因みに、仏教では有難い書物どころか、須弥山や我々の住む世界全体を背中に支えているではないか。

「網をかぶりて、夢をしめす」「新日本古典文学大系」版脚注に、『漁師の網にかかった神亀が夢枕に立ったので都に召し寄せ、国の繁栄を計ったという宗の元王の故事』が「史記」の同じく「龜策列傳」に載るとあるが、この「宗」は「宋」の誤りである。この「元王」とは春秋時代の宋(紀元前一一〇〇年頃~紀元前二八六年)の第二十七代君主。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「龜策列傳」(全文)のタイトル「11」から「27」と長い。

「殼は人の兆を現はし」言わずもがな、亀卜のそれを指す。

「胸に士の氣を含む」亀甲を甲冑に擬えてその属性を述べたもの。

「六の藏(かく)して伏し」カメは一般に頭・尾及び前足・後足二対の六つの体躯の肢を総て亀甲に内蔵させる(それが出来ない種もいる)ことから、別名を「六藏」と称した。ただ、この部分、歌詞として表現が不全である。「六藏(ろくざう)して伏し」の方がいい。

「尾を曳て、樂を極む」知られた私の好きな「壯子」の「秋水」の一節。

   *

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境内累矣。」。莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎。」。二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」。莊子曰。「往矣。吾將曳尾於塗中。」。』

   *

 莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫二人をして往かせ先(みちび)かしむ。曰はく、

「願はくは境内(けいだい)[やぶちゃん注:楚の国内。]を以つて累(わづら)はさん。」

と。莊子、竿を持ちて顧みずして曰はく、

「吾れ、聞く、『楚に神龜有り、死して已に三千歲。王、巾笥(きんし)して[やぶちゃん注:絹の袱紗にうやうやしく包んで。]之れを廟堂の上に藏す』と。此の龜は、寧ろ、其れ、死して、骨を留(とど)めて貴(たふと)ばるるを爲さんか。寧ろ、其れ、生きて、尾を塗中(とちゆう)[やぶちゃん注:泥の中。]に曳(ひ)かんか。」

と。二大夫曰はく、

「寧ろ、生きて尾を塗中に曳かん。」と。

莊子曰はく、

「往け。吾れ、將に尾を塗中に曳かんとす。」

と。)

「靑海の舞」「源氏物語」の「紅葉賀」のシークエンスで知られる雅楽の「青海波」の舞い。本来は二人舞いで、最も優美なものとされる。特別な装束を用い、青海波と霞の模様が刺繍された下襲に、牡丹などが織られた半臂を纏い、千鳥が刺繍された袍の右肩を袒(はだぬ)ぎ、太刀を佩き、別甲を被る。龍宮での披露は如何にもしっくりくる選曲ではあるが、ずんぐりむっくりのカメが六肢を出したり、引っ込ませたりするそれは、確かに一座の大爆笑を受けたに相違ない。

「腹をさゝげ、おきふして」腹を抱えて、文字通り、腹の底から波状的に笑わさせられるために、尺取り虫のように起き伏しを繰り返すことになるのである。何気ない描写だが、シークエンスが髣髴とされる優れた描写である。] 

 

Rm3

[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注の絵の解説によれば、『竜宮城内を巡覧の場面。室内にあるのが、右より雷公の鼓、電母の鏡、哨風の革袋、洪雨の箒』(上に載っているもの。取っ手ではない)、『先導するのが吹雲の官人。蜃の精として頭部の甲は水管など貝の内臓の一部を模したものか。真上は狩衣、指貫』とある。]

 

 其外、蝦・蜊(はまぐり)・木玉(こだま)・山びこ、よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

 眞上(まがみ)、袖、かきをさめて、たのしみは、こゝに極めぬ。

「願はくは、龍宮城の有樣、あまねく見せたまへ。」

と望みしに、

「いと易き事。」

とて、階を下り、庭に出て步(あゆま)せらるゝに、雲とぢて、何も見えず。

 龍王、則ち、吹雲(すいうん)の官人(くはんにん)を召されたり。

 其姿、首(かしら)に七曲(なゝわた)の甲(かぶと)を着し、鼻高く、口大なるもの、これ蜃(おほはまぐり)の精なるべし。

 口をしゞめて、天に向ひ、吹〔ふき〕ければ、世界、ひろく、平かに、山もなく、岩(いはほ)もなし。

 霧雲(きりくも)、數(す)十里、はれひらけ、玉の樹(うゑき)、庭に、列(つらね)うえ、金のいさごを敷渡し、梢に五色の花開け、池には四色の蓮(はちす)さきて、匂ひ、又、こまやかなり。

 廻(めぐ)れば、金(こがね)の廊(わたどの)あり。庭には、瑠璃の塼(かはら)をしきたり。

 官人を差副(さしそ)へ見せしめらる。

 一つの樓閣あり。坡梨(はり)・水晶にて造りたて、珠(たま)をちりばめて飾りたり。是に登れば、虛空を凌ぐ心地して、一の重(ぢう)には、あがり得ず。

「こゝは、下輩凡人(げはいぼんにん)の登る事、協(かな)はず。神通(じんつう)のものこそ、行至〔ゆきいた〕れ。」

と。

 それより又、ひとつの樓臺(たかどの)に登れば、側(かたはら)に圓〔まろ〕き鏡の如くなるものあり。

「きらきら」

と、光かゝやき、睛(ひとみ)を、くるめかして、立向ひ難し。

 官人いふやう、

「これは『電母(でんぼ)の鏡』とて、少し動せば大なる電(いなびかり)出て、世の人の目を奪ふ。」

といふ。

 又、かたはらに太鼓あり。大小、その數、多し。

 眞上、『これをうちてみん』とす。

 官人、とゞめていふやう、

「若〔もし〕、强く打ならせば、人間界の山川・谷・平地(ひらち)、震鳴(ふるひなり)はためき、人みな、膽(きも)を失ひ、命を亡(ほろぼ)し、死なずとも、耳を失はん。これは『雷公のつづみ』也。」

といふ。

 又、かたはらに橐籥(ふいご)の如くなるものあり。

 眞上、『これを動かさん』とす。

 官人、又、とゞめていふやう、

「是は『哨風(さうふう)の革嚢(かはぶくろ)』なり。これを强くうごかさば、山、くづれ、岩石、飛(とび)て空にあがり、人の家は皆、吹破〔ふきやぶ〕れて、四方に散亂(ちりみだ)れん。」

といふ。

 その傍(そば)に水瓶(みづがめ)あり。箒(はゝき)のごとくなる物を上にのせたり。

 眞上、『是をとり、水に差し入れて打ふらん』とす。

 官人、おし留(とゞ)めて、

「是は、『洪雨の瓶(みずがめ)』なり。此箒に浸(ひた)して、强く打(うち)ふらば、人間世界は、大雨洪水、押流(をしなが[やぶちゃん注:ママ。])され、山もひたり、陸(くが)は海にぞ、なりなん。」

といふ。

 阿祇奈君、とひけるやう、

「扨、これらを司る官人は、いづくにありや。」

と。

 答(こたへ)て云(いふ)やう、

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩〔ともがら〕なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ[やぶちゃん注:ママ。])められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず。若し、出〔いだ〕して、其役を勤むる時は、比所に集(あつま)り、雨風[やぶちゃん注:「あめかぜ」。]・いかずち・電(いなびかり)、みな、分量ある事にて、それより過(すぎ)ぬれば、科(とが)に行はれ、侍べる。」

 凡そ、あらゆる宮殿樓閣は、見盡す事、かなはず。

 それより立歸れば、龍王、さまざま、もてなし、瑠璃の盆に眞珠二顆(くは)、氷の絹二疋を、歸るさの餞(はなむけ)とし、禮儀あつく、龍王、階(みはし)に送り出て、官人に仰せて、送り返さる。

 阿祇奈君、目をふさげば、空をかける心地して、勢多の橋の東なる龍王の社の前に出(いで)たり。

 珠と絹をもちて歸り、寳とす。

 其後〔そののち〕、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず。

[やぶちゃん注:「蜊(はまぐり)」当て訓はママ。龍宮到来の折りに「貝蛤」で「はまぐり」と振っている(そこでは私は「取り敢えず」と添えて斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria とした)から、ここは或いは、漢字の方の「蜊」を意識するなら、マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum 及びアサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus(アサリよりも殻幅や套湾入が、若干、小さい)、さらには全くの別種であるが、アサリに似るも、それより少し大きくて厚いマルスダレガイ科フキアゲアサリ属オキアサリ Gomphina semicancellata 或いは遺伝的に近似しているために自然環境化では雑種化することがあるとされる同フキアゲアサリ属コタマガイGomphira melanegis 及びその雑種を同定候補と出来る。それに真正のハマグリの小型個体も含めねばならない。そもそもが、こんなおかしな表記をするということは、当時の庶民レベルではハマグリの小型個体やアサリの大型個体は区分認識などされていなかったと考えた方がいいからである。

「木玉(こだま)」「木靈」。

「山びこ」「山彥」。木霊に同じ。前に述べた通り、龍宮でも異界性で地下で山の異界とは通底している。いや、寧ろこの木霊類は海底の岩の洞の中や、嵐の海潚(かいしょう)の齎す反響や轟音を齎す妖怪を想起して構わぬように私には思われる。

よろづの魚(うを)、おのれおのれが能(のう)をあらはし、藝をつくす。

 巳に酒酣(たけなは)にして醉(ゑひ)に和(くわ)しつゝ、三神の客座をたち、拜謝(をがみまうし)てかへりしかば、主の龍王、階(みはし)のもと迄、送られたり。

「七曲(なゝわた)の甲(かぶと)」幾重にも曲がりくねった奇妙な兜。これは正体から蜃気楼の幻の天をつんざく妖しい幻しの楼閣のシンボライズである(次注のリンク先及び次々注を参照)。

「蜃(おほはまぐり)」私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」の私の考察をお読み戴きたい。中日孰れも貝類の二枚貝の分類と、妖怪としての蜃気楼の発生源生物に関しては、博物学的知識のレベルが頗る低いのである。私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「わたりかひ 車螯」=「蜃」も併せて見られたい。

「口をしゞめて、天に向ひ、吹ければ」蜃気楼とは蜃(おおはまぐり:正式和名にこの種はない。一部でウチムラサキ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科マツヤマワスレ亜科ウチムラサキ属ウチムラサキ Saxidomus purpurata :本種はオオアサリの異名も持つ)・コタマガイ(マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科Macridiscus属コタマガイ Macridiscus melanaegis )や外来移入種であるホンビノスガイ(マルスダレガイ科ビノスガイ属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria )の異名で今も使われることがある。但し、貝殻を見た瞬間に素人でもハマグリとは全く異なることが判る)が吐き出す気によって海上に現われる幻しの楼閣である。

「いさご」「砂・沙」。

「匂ひ」古語では視覚的な、美しい色合い・色艶や、輝くような艶やかな美しさ、及びそうした視覚的綜合的に完成された魅力・気品が嗅覚よりも優先する。ここもそれ。

「塼(かはら)」瓦。塼(音「セン」)は本来は焼成した煉瓦のことを広く指す語。中国では塼の出現以前に日乾煉瓦が用いられていたことは殷・周の建築址で確認されている。恐らくは屋根瓦の出現が契機となって塼が焼かれ始めたと推定されるが、確実な実例が確認出来るのは春秋時代からとされる。

「坡梨(はり)」玻璃。現行はガラスを指すが、ここは後の水晶と同義。質や色や採取地或いは加工した厚さや大きさで水晶と区別したものであろう。

「一の重(ぢう)には、あがり得ず」もう一階上の階があったが、どうしても、体が動かず、そこに上がることは出来なかった。

「光かゝやき」底本は「かゞやき」であるが、私はこの「かがやく」という濁音が生理的に嫌いなので、元禄版を採った。「新日本古典文学大系」版も清音である。

「睛(ひとみ)を、くるめかして」前に立った阿祇奈の瞳を勝手にぐるぐると回して。

「電母(でんぼ)」道教の雷神の名にある。「閃光娘娘(にゃんにゃん)」とも称す若い女性神。雷帝の命を受けて雷公とともに雲を起こし、雨を降らせるとする。

「橐籥(ふいご)」「鞴(ふいご)」に同じ。

「哨風(さうふう)」「哨」(ショウ)は「見張る」の意。

「箒(はゝき)」挿絵では板切れのようにしか見えないが、瓶の中の水に浸けて振るわけだから、実際には先は非常に細かなブラシ上になっているものであろう。それが細かいから遠目にはただの板にしか見えぬということで私は納得した。

「雷公・電母・風伯・雨師は、極めて物あらき輩なれば、常には獄(ひとや)に押籠(をしこ)められ、心の儘に振舞ふ事、かなはず」激烈な気象現象を支配する彼らが龍王の支配下にあるというのは少しも違和感がない。何故なら風水を支配するのは龍だからである。

「分量ある事にて」人間を含む生物界全体にとっての適切な分量・程度・限度があるのであって。

「眞珠二顆(くは)」非常に巨大なものであろう。

「氷の絹」「氷綃」(ひようせう(ひょうしょう)で「薄い白絹」。「氷綃」という漢語が見慣れないものであるから、かく書き変えたもの。

「二疋」布地でも特に絹織物を「二反(たん)」を「一疋」として数える数詞が「疋」。一疋は古くは四丈(約十二メートル)、後に鯨尺で五丈六尺(約二十一メートル)である。ここは読者の日常から後者。

「其後、名を隱し、道を行ひ、其終る所を、知らず」中国でも古来より、桃源郷や仙界・異界を知ったものは現世の穢れを嫌って行方不明となるのはお約束である。]

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