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2021/04/19

伽婢子卷之三 牡丹燈籠

   ○牡丹燈籠

 年每(としごと)の七月十五日より廿四日までは、聖靈(しやうりやう)の棚をかざり、家々、これを祭る。又、いろいろの燈籠を作りて、或は、祭の棚にともし、或は、町家(まちや)の軒にともし、又、聖靈の塚に送りて、石塔の前にともす。其燈籠のかざり物、或は、花鳥、或は草木、さまざま、しほらしく作りなして、其中に、ともし火、ともして、夜もすがら、かけおく。是を見る人、道も、さりあえず、又、其間(あひだ)に踊子どもの集り、聲よき音頭に、頌哥(せうが)、出〔いだ〕させ、振(ふり)よく、踊る事、都の町々、上下、皆、かくの如し。

 天文戌申(つちえさる)の歲(とし)、五條京極に萩原新之丞(おぎはら〔しんのじよう〕)といふ者あり。

 近きころ、妻に後(をく)れて、愛執(あいしふ)の淚、袖に餘り、戀慕の焰(ほのほ)、胸をこがし、ひとり淋しき窓のもとに、ありし世の事を思ひ續くるに、いとゞ悲しさ、かぎりもなし。

「聖靈祭りの營みも、今年はとりわき、此妻さへ、無き名の數(かず)に入〔いり〕ける事よ。」

と、經、讀み、囘向(ゑはう)して、終(つひ)に出〔いで〕ても遊ばず、友だちのさそひ來(く)れども、心、たゞ、浮立(うきた)たず、門(かど)にたゝずみ立〔たち〕て、うかれをるより、外は、なし。

 いかなれば立(たち)もはれなず面影の

   身にそひながらかなしかるらむ

と、うちながめ、淚を押拭(をしぬぐ)ふ。

Bd1
  

 十五日の夜、いたく更けて、遊びありく人も稀になり、物音も靜かなりけるに、一人(ひとり)の美人、その年、廿(はたち)ばかりと見ゆるが、十四、五ばかりの女(め)の童(わらは)に、美しき牡丹花(ぼたんくわ)の燈籠、持たせ、さしも、ゆるやかに打過〔うちすぐ〕る。

 芙蓉のまなじり、あざやかに、楊柳(やうりう)の姿、たをやかなり。

 かつらのまゆずみ、みどりの髮、いふばかりなく、あてやか也。

 萩原、月のもとに是を見て、

『是は。そも、天津乙女(あまつをとめ)の天降(あまくた)りて、人間〔じんかん〕に遊ぶにや、龍の宮の乙姬の、わたつ海(み)より出〔いで〕て慰むにや、誠に、人の種(たね)ならず。』

と覺えて、魂(たましゐ)、飛び、心、浮かれ、みづから、をさえとゞむる思ひなく、めで惑ひつゝ、後(うしろ)に隨ひて行く。

 前(さき)になり、後(あと)になり、なまめきけるに、一町ばかり西のかたにて、かの女、うしろに顧みて、すこし笑ひて、いふやう、

「みずから、人に契りて待侘(〔まち〕わび)たる身にも待べらず。唯、今宵の月に憧(あこがれ)出て、そゞろに、夜更け方、歸る道だに、すさまじや。送りて給(たべ)かし。」

と、いえば、萩原、やをら、進みて、いふやう、

「君、歸るさの道も遠きには、夜〔よ〕、深くして、便(びん)なう侍り。某(それがし)のすむ所は、塵(ちり)、塚たかく積りて、見苦しげなるあばらやなれど、たよりにつけてあかし給はゞ、宿かし參らせむ。」

と戲ふるれば、女、打笑(うちえ)みて、

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」

とて、立〔たち〕もどりければ、萩原、喜びて、女と手を取組つゝ、家に歸り、酒、とり出し、女の童に酌とらせ、少し打飮み、傾(かたふ)く月に、わりなき言の葉を聞くにぞ、「今日を限りの命ともがな」と兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ。

 萩原、

 また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)

   たゞ今宵こそかぎりなるらめ

と云ひければ、女、とりあえず、

 ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめや

   かこちがほなるかねごとはなぞ

と、返しすれば、萩原、いよいよ嬉しくて、互にとくる下紐(〔した〕ひも)の結ぶ契りや新枕(にゐまくら)、交(かは)す心も隔(へだて)なき、睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける。

 萩原、

「その住(すみ)給ふ所はいづくぞ、『木の丸殿〔きのまるどの〕』にはあらねど、名のらせ給へ。」

といふ。

 女、聞て、

「みずからは、藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕也。其比(そのころ)は、時めきし世もありて、家、榮え侍りしに、時世移りて、あるかなきかの風情にて、かすかに住侍べり。父は政宣、京都の亂れに打死(うちじに)し、兄弟、皆、絕(たへ)て、家、をとろへ、我が身獨り、女(め)のわらはと、萬壽寺のほとりに住侍り。名のるにつけては、耻かしくも、悲しくも侍べる也。」

と、語りける言の葉、優しく、物ごし、さやかに愛敬(あいぎやう)あり。

 すでに、橫雲、たなびきて、月、山の端に傾(かたふ)き、ともし火、白う、かすかに殘りければ、名ごり盡せず、起き別れて歸りぬ。

 それよりして、日、暮るれば、來たり、明がたには、歸り、夜每に通ひ來(く)ること、更に約束を違(たが)へず。

 萩原は、心、惑ひて、なにはの事も思ひ分けず、唯、女の、わりなく思ひかはして、

「契りは、千世〔ちよ〕も、變らじ。」

と通ひ來(く)る嬉しさに、晝といへども、又、こと人に逢ふ事、なし。

 斯(かく)て、廿日餘りに及びたり。

Bd2
 

 隣の家に、よく物に心得たる翁(おきな)のすみけるが、

『萩原が家に、けしからず、若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

と思ひ、壁の隙間より、覗きて見れば、一具(〔いち〕ぐ)の白骨(はくこつ)と、萩原と、灯(ともしび)のもとに、さしむかひて、坐〔ざ〕したり。

 萩原、ものいへば、かの白骨、手あし、うごき、髑髏(しやれかうべ)、うなづきて、口とおぼしき所より、聲、響き出〔いで〕て、物語りす。

 翁、大〔おほ〕きに驚きて、夜の明くるを待ちかねて、萩原を呼びよせ、

「此程、夜每に客人(きやく〔じん〕)ありと聞ゆ。誰人〔たれぴと〕ぞ。」

といふに、更に隱して、語らず。

 翁のいふやう、

「萩原は、必ず、わざはひ、あるべし。何をか、包むべき。今夜、壁より、覗き見ければ、かうかう侍べり。凡そ、人として命〔いのち〕生きたる間〔あひだ〕は、陽分(やうぶん)、いたりて、盛(さかん)に淸(きよ)く、死して幽靈となれば、陰氣はげしく、よこしまにけがるる也。此故に、死すれば、忌(いみ)、ふかし。今、汝は、幽陰氣(ゆういんき)の靈(りやう)と、同じく座して、これをしらず。穢(けが)れて、よこしまなる妖魅(ばけもの)と共に寢て、悟(さとら)ず。忽ちに眞精(しんせい)の元氣を耗(へら)し盡して、精分を奪はれ、わざはひ來り、病(やまひ)出侍〔いでは〕べらば、藥石・鍼灸の、をよぶ所にあらず。傳尸癆瘵(でんしらうさい)の惡証(あくしやう)を受け、まだ、もえ出〔いづ〕る若草の年を、老先(をい〔さき〕)長く待〔また〕ずして、俄に黃泉(よみぢ)の客(かく)となり、苔(こけ)の下に埋〔うづ〕もれなん。諒(まこと)に悲しきことならずや。」

といふに、荻原、始めて、驚き、恐ろしく思ふ心づきて、ありの儘に語る。

 翁、聞て、

「萬壽寺のほとりに住〔すむ〕といはば、そこに行きて、尋ね見よ。」

と、敎ゆ。

  荻原、それより、五條を西へ、萬里小路(までのこうぢ)より、こゝかしこを尋ね、堤のうへ・柳の林に行きめぐり、人に問へども、知れるかた、なし。

 日も暮(くれ)がたに、萬壽寺に入て、しばらく、やすみつゝ、浴室(ふろや)の後ろを北に行きてみれば、物ふりたる魂屋(たまや)、あり。

Bd3
 

  差寄(さしよ)りてみれば、棺(くはん)の表(おもて)に、

「二階堂左衞門尉政宣が息女彌子(いやこ)吟松院(ぎんせうゐん)冷月禪定尼(れいげつぜんじやうに)」

と、あり。

 かたはらに、古き伽婢子(とぎぼうこ)あり。

 うしろに、

「淺芽(あさぢ)」

といふ名を書(かき)たり。

 棺の前に、牡丹花(ぼたんくは)の燈籠の古きを、かけたり。

『疑ひもなく、これぞ。』

と思ふに、身の毛のよだちて、恐ろしく、跡を見返らず、寺を走り出て歸り、此日比〔このひごろ〕、めで惑ひける戀も、さめ果て、我が家も、おそろしく、暮〔くる〕るを待かね、明(あく)るをうらみし心も、いつしか忘れ、

「今夜(こよひ)、もし、來らば、いかゞせん。」

と、隣の翁が家に行て、宿をかりて、明(あか)しけり。

 さて、

「いかゞすべき。」

と、愁へ歎く。

 翁、を敎へけるは、

「東寺(とうじ)の卿公(きやうのきみ)は、行學(ぎやうがく)、兼備(かねそなへ)て、しかも驗者(げんじや)の名あり。急ぎ、ゆきて、賴み參らせよ。」

といふ。

 荻原、かしこにまうでゝ、對面(たいめん)を遂げしに、卿公、仰せけるやう、

「汝は、妖魅(ばけもの)の氣に、精血(せいけつ)を耗散(がうさん)し、神魂(しんこん)を昏惑(こんわく)せり。今、十日を過〔すぎ〕なば、命は、あるまじき也。」

と、のたまふに、荻原、ありの儘に語る。

 卿公、すなはち、符(ふ)を書〔かき〕て與へ、門(かど)に、おさせらる。

 それより、女、二たび、來らず。

 五十日ばかりの後〔のち〕に、或日、荻原、東寺に行きて、卿公に禮拜〔らいはい〕して、酒に醉(え)ひて、歸る。

 さすがに、女の面影、戀しくや有〔あり〕けん、萬壽寺の門前近く、立寄〔たちよ〕りて、内を見いれ侍りしに、女、忽ちに前に顯はれ、甚(はなは)だ恨みて、いふやう、

「此日比、契りしことの葉の、はやくも僞りになり、薄き情(なさけ)の色、見えたり。初めは、君が心ざし、淺からざる故にこそ、我身を任せて、暮に行き、あしたに歸り、何時(いつ)まで草のいつ迄も絕(たへ)せじとこそ、ちぎりけるを、卿公とかや、なさけなき隔(へだて)のわざはひして、君が心を餘所(よそ)にせしことよ。今、幸(さいわい)に逢ひまゐらせしこそ、嬉しけれ。此方(こなた)へ、入給へ。」

とて、荻原が手を取り、門より、奥に、連れてゆく。

Bd4
 

 

 めしつれたる荻原が男は、肝を消し、恐れて迯げたり。家に歸りて、人々につげければ、人皆、驚き、行て見るに、荻原、すでに、女の墓に引込〔ひきこま〕れ、白骨と、うちかさなりて、死して、あり。

 寺僧(じそう)たち、大〔おほき〕に恠しみ思ひ、やがて、鳥部山に墓を移す。

 その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく。

「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ。」

とて、あたり近き人は怖れ侍べりし。

 萩原が一族(ぞく)、これをなげきて、一千部の「法華經」を讀み、「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」を墓に納めてとぶらひしかば、重ねて現はれ出〔いで〕ずと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。恐らく、知られた「牡丹燈籠」の最初期の正統的翻案物の名篇として、本書の中でも最も人口に膾炙している一篇である。「伽婢子」という書名も私は了意が遺愛の本篇に基づいてつけたものと考えている。事実、本作は格段に詞章が選りすぐられて、漢籍の翻案を感じさせぬ、近世怪談の白眉の一つとしてよいと考えている。今回の電子化をしながら、私は新之丞ととりわけて彌子に強く感情移入してしまい、目頭が熱くなったことを告白しておく。私自身、高校時代より、原話の「牡丹燈記」(明の瞿佑の作になる志怪小説集「剪燈新話」中の一篇)から激しく偏愛し続けているもので、原本・関連書籍・評論など、特異的に多数所持している。本話譚は本書と同時代的な怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」(著者不詳・貞享四(一六八七)年板行であるが、ずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされる)の第六巻の「女人、死後、男を棺の内へ引込みころすこと」や、後の上田秋成の「雨月物語」の巻之三の「吉備津の釜」及び卷之四の「蛇性の淫」などのように、原話を素材転用したもの、大ヒットの火付け役となった三遊亭円朝の「牡丹燈籠」(後半は復讐譚に転じて原話全体は複雑である。円朝による創作は彼が二十三、四の頃、文久三(一八六三)年か翌年と推定され、最初の出版は速記本で明治一七(一八八五)年に東京稗史出版社から出た)はもとより、その後、明治二五(一八九二)年七月に三代目河竹新七により「怪異談牡丹燈籠」として歌舞伎化されて、五代目尾上菊五郎(天保一五(一九〇三)年~明治三六(一九〇三)年)主演で歌舞伎座で上演されて大当たりとなるなど、近代に至るまで実に枚挙に暇がない。ここでは、そうした中の本篇のインスパイアの一篇で、先般、電子化した「御伽比丘尼卷四 ㊀水で洗煩惱の垢 付 髑髏きえたる雪の夜」と、小泉八雲の『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次訳) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』を示しておくに留める。さて、そうした私には強い思い入れがあるものであるからして、今回は、特異的に底本のそれと、元禄本の影印とを細かく対照し、最良の校訂本文を目指し(但し、読み易さを考え、本文の漢字表記や和歌の濁点表記などは底本を概ね優先し、送り仮名を元禄本の表記をもとに添えた)、句読点もかなり考えて打って、電子化してある。以下、注はあくまでストイックに附すことにした。

「聖靈(しやうりやう)の棚」盂蘭盆会の精霊棚(しょうりょうだな)。

「しほらしく」歴史的仮名遣は「しをらしく」が正しい。華美でなく派手でもなく可憐な感じで。健気(けなげ)なさまに。

「踊子どもの集り」盆踊りである。「新日本古典文学大系」版脚注に、『天文から文禄年間』(一五三二年から弘治を挟んで一五七〇年)『にかけては、盆の前後に風流(ふりゅう)』(中世芸能の一つて、華やかな衣装や仮装を身につけて、囃し物の伴奏で群舞したもの。後には華麗な山車(だし)の行列や、その周りでの踊りを指すようになった。民俗芸能の「念仏踊り」・「雨乞い踊り」・「盆踊り」・「獅子舞い」などの元となった)『の灯籠踊が盛んとなり、公家方から、町へ繰り出されて、路次の万灯会とも称されて隆盛を見た。以後』、『様々な風流踊が出現し、盆の行事として継承された』とある。ここでは、しかし、その踊りや歌・囃子・音頭取り声などのそれは、決して読者の耳を騒がせず、寧ろ、新之丞には、そのざわめきがすうっと遠のくように、先年に妻を失った傷心の新之丞の心象を対位法的に描出する役割を担って、優れたSE(サウンド・エフェクト)としても効果をあげているのである。

「頌哥(せうが)」(現代仮名遣「しょうが」。私は清音の「せうか」の方が好みである)ここでは仏教の有難い德や、亡き人の功徳・功績などを偲んで礼讃した歌の意。

「振(ふり)」舞踊の所作。

「天文戌申(つちえさる)の歲(とし)」天文十七年。その七月十五日はユリウス暦で八月十八日で、グレゴリオ暦換算で八月二十八日に当たる。前後を見ると、二年前の天文十五年末に足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しており、十七年の大晦日には長尾景虎(後の上杉謙信)が兄晴景に代わって家督を継いで越後春日山城に入城、翌十八年には美濃国斎藤道三の娘濃姫が尾張の織田信長に嫁いでいる。

「五條京極」現在のこの中心附近(グーグル・マップ・データ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、平安古来の本来の「五条通り」は、そこの二本北の「松原通」で、現在の京極町と接するところが当該地であったが(「平安条坊図」参照)、このまさに話柄内時制である天正一七(一五八九)年に、『秀吉が方広寺建立のために大橋を移築して以来、二筋南の通』(旧「六条坊門小路」)『を称するようになった』とある。なお、所持する太刀川清氏の論考「牡丹灯記の系譜」(一九九八年勉誠社刊)には、典拠との比較を通して、卓抜な見解が示しされてある。

   〈引用開始〉

 事件の展開と人物の関係をそのままにする翻案では、時代、場所そして人物の設定は重要である。それでも翻案は翻訳と違って漢臭があってはならない。「牡丹灯龍」の天文戊申の十七年(一五四八)は足利将軍義輝の時代、応仁の乱(一四六七-一四七七)後の疲弊した京の町の一圃、五条京極に設定された。原話で喬生の住む鎖明嶺下は『剪灯新話句解』によると鎖明嶺は寧波府の南にあって高さ数十丈の山らしいが、高田衛氏によると、そこは寧波府の明州の目抜き通りであった(『百物語怪談集成』月報 昭和六二年 国書刊行会)が、至正庚子の二十年二三六〇)頃は原話の冒頭の「方氏之浙束ニ拠ルヤ」とあって元末の群雄の一人方国珍がこの辺一帯を占拠していたらしく、応仁の乱後の京都もこの明州の事情に似たところがあったであろう。それでも五条京極は東西に通じる五条大路と南北に通る東京極通りの交叉する京の目抜き通りであったから孟蘭盆の精霊祭も賑やかであった。しかしそれよりもこの五条は『源氏物語』の夕顔の巻の舞台でもある。源氏が夏の夕暮、病の乳母を見舞ったとき、五条の大路のほとりのあやしい垣根のうちに見た女、それが落魄の美女夕顔である。了意は原話の符女にこの夕顔の女のイメージを重ねていたのではなかったか。十七歳で亡くなったあとは家人にも捨て去られ、いまだに仮殯のままであった原話の美女を、了意は弥子として、父は応仁の乱で討死し、兄弟みな絶えてひとり万寿寺の近くで詫び住居する女にかえたのは、確かに「夕顔」が関っている。しかもその万寿寺も、天正年間に京都の万寿寺町(束山区)に移る前は下京五条通りにあった寺である(江本裕『東洋文庫伽婢子』昭和六三年 平几社)から、これもその界隈である。

 弥子に夕顔の女のイメージがあるなら、金蓮を浅茅と名づけたことには、これまた『源氏物語』の「蓬生」の巻が関っていた。源氏の離京のあとも、ひたすらその米訪を信じて浅茅が原の故宮の屋敷に侘び住いして日を送る末摘花に、世に忘れ去られた符女の面影を見、さらにその侍女に及んだのである。「夕顔」に関って「五条」が、そして万寿寺という設定が出来上り、さらに金蓮を浅茅とすることで『源氏物語』を想定しながら、「牡丹灯籠」は始まるのである。

   《引用終了》

そうだ! 私がこの弥子に惹かれるのは、私の好きな夕顔の面影あればこそなのだ!

「うかれをる」ここは特異的にネガティヴな意味。空虚でアンニュイな喪失感に心を奪われて、ぼうっとしていて、やや正常でない気鬱なさまに陥っていることを指す。先に述べたように、盆踊りのさんざめきの「浮かれ居る」それと、真逆のコントラプンクト(Kontrapunktである。

「いかなれば立(たち)もはれなず面影の身にそひながらかなしかるらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の脚注によれば、「新拾遺和歌集」巻十四の「恋四」にある寿暁法師の一首、

    題しらず

 いかなれば立ちも離れぬ面影の身にそひながら戀しかるらん

を改変したものとされ、ここでの新之丞の込めた『歌意は「なぜだろう、亡き妻の面影がこんなにも側にありながら、こんなに悲しいのは」の意』とある。

「さしもゆるやかに打過〔うちすぐ〕る」雅びな女人であてもそれ以上にはとても出来まいというほどに緩やかに風雅に通り過ぎてゆく。既にして、彼女が実は現実の世界の女でないことが、ここで仄めかされているのだと私は思う。異界との接触のスイッチがここで起動して、画面がスローモションになるのである。

「芙蓉」読みは「ふよう」でよいが、ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis ではなく、ここは古くから美女の形容として多用されたそれで、蓮(はす:ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)の花を指す。

「楊柳(やうりう)」キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica

「かつらのまゆずみ」底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)では「かづらのまゆ」であるが、どうもおかしい感じがした。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄版に従った。「新日本古典文学大系」版も「かつらのまゆずみ」である。「桂の黛(まゆずみ)」で「桂」は中国の伝説で月の世界に生えているという木を指し、転じて、「月」を意味し、三日月のような形に細く引いた美しい眉墨を指す美称語である。「萩原、月のもとに是を見て」に応じている。

「あてやか」「貴やか」人柄や容姿・態度・物の様子などが上品で美しいさま。

「なまめきけるに」何気ないふうを装いながら、相手にそれとなく内心を仄めかしたところが。

「一町」百九メートル。

「そゞろに……」何とも言えず、「夜更け方」の暗い道を、かくも女二人で「歸る道」は、もうそれだけで「すさまじや」(「凄じや」)、「ひどく恐ろしゅう御座います」というのである。

「やをら」静かに。そっと。

「進みて」二人の前に進み出て。

「便(びん)なう侍り」とても貴女さまにとってよろしからざる危ういことにて御座います。

「たよりにつけて」私を頼りになろうかと思うて戴いて。

「戲ふるれば」好色の意図を内に秘めつつ、言いかけたところ。

「窓もる月を、獨り詠〔なが〕めてあくる侘しさを、嬉しくも、の給ふ物かな。情〔なさけ〕によわるは、人の心ぞかし。」「窓から漏れ来る月の光を、たった独り、眺めては、夜明けを迎えるは、まことに、侘しきもの……さても、まっこと、嬉しくも、お言葉をおかけ下さりました。人の優しさにほだされるのは……これ、また、人の心に常で御座いましょうほどに。」。

「わりなき言の葉を聞くにぞ」とても言いようもないほどに深い自分への思いを匂わせて語るのを聴くにつけても。

「今日を限りの命ともがな」「小倉百人一首」にも採られている「新古記和歌集」の巻第十三の「恋歌三」(同巻巻頭)の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の一首(一一四九番)、

    中關白通ひそめ侍けるころ

 忘れじの行く末まではかたければ

    今日(けふ)を限りの命ともがな

の下句を引いた。儀同三司母は中(なかの)関白藤原道隆の室で伊周・定子・隆家らの母。歌意そのものが、男の心の変わり易きを言い、だから、「今夜こうしてお逢しているこのままに死んでしまいたい」とする。しかし、そこには命をかけてもいいという女の激しい思いがある。が、しかし、同時にこれは、新之丞をも道連れにした本篇のカタストロフの不吉な予兆でもある。

「兼(かね)ての後〔のち〕ぞ思(おもは)るゝ」枕をともにした後、二人が深い縁(えにし)で結ばれるであろうという確信が、新之丞の腑に落ちてゆくのである。但し、次の一首からは、逢瀬自体の属性としての儚さを読みつつ、それへのやや臆病な気持ち(亡き妻への気持ちをもとにするのであろう)も含められた印象はある。但し、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『不吉な予兆にならねばいいがと、萩原の行く末が案じられることだ』と作者が直接に登場して伏線を張っていると解釈しておられる。確かに、ここは文章の流れから見ると、ちょっと澱みがあり、そう捉えると、腑に落ちるとも言える。

「また後のちぎりまでやは新枕(にひまくら)たゞ今宵こそかぎりなるらめ」「新日本古典文学大系」版脚注を見ると、原歌を山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「初遇恋」の国冬(鎌倉中・後期の住吉神社神主で歌人の津守摂津守国冬(文永七(一二七〇)年~元応二(一三二〇)年)であろう)の歌を一部変えて用いたとする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「21」コマ目、HTMLだと、ここの左頁の終わりから行目である。起こす。右頁に部立「戀部二」とあり、最上段に「初遇戀」とある。

   *

 又のちのちきりたのまぬ新枕たゝこよひこそかきりなるらめ

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 また後のちぎりたのまぬ新枕ただ今宵こそかぎりなるらめ

   *

である。了意の改変の方がぼかしが入っていて、この話柄中では寧ろ、違和感がない。

「ゆふなゆふなまつとしいはゞこざらめやかこちがほなるかねごとはなぞ」『「いつだって夕べに待っているよ」と言うて下されば、毎夕、来ぬことがありましょうや。そのように思い侘びて、不吉な前言をおっしゃるは、何故?』という謂いであろう。しかしこれも、実は不祥なる伏線となるのである。

「睦言(むつごと)は、まだ、盡きなくに、はや、明方にぞ、なりにける」「古今和歌集」の巻第十九の「雑体」(「雜躰(ざつてい)」)の凡河内躬恒の一首(一〇一五番)、

    題しらず

 むつごともまだ盡きなくに明けにけり

    いづらは秋の長してふ夜は

をインスパイアした。下句は「何処へいってしまったのか? 『秋の夜長』というその夜は?」の意。

「木の丸殿〔このまるどの〕にはあらねど、名のらせ給へ」切り出したままで加工していない丸木で造った粗末な宮殿。「きのまろどの」とも読む。普通名詞だが、一般には斉明天皇が百済支援の出兵に際し、筑紫の朝倉(現在の福岡県朝倉市山田。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に造った行宮(あんぐう)(「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『のち天智天皇の御所と伝承され』、『用心のために往還の人々を名乗らせて通したという故事による』とあり、この新之丞の謂いの後半部はそれを受けたもの)を指すことが多い。高田衛氏は先の岩波の脚注で、これは「新古今和歌集」の巻十七の「雑歌 中」の天智天皇の歌とされる一首(一六八九番)、

 朝倉や木の丸殿(まろどの)に我がをれば

    名のりをしつつ行くはたが子ぞ

に基づくとされる。

「藤氏(ふぢうぢ)のすゑ、二階堂政行の後〔あと〕」二階堂氏は藤原姓で藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで、初代工藤行政(生没年未詳:母が源頼朝の外祖父で熱田大宮司であった藤原季範の妹であった)は文官として頼朝に仕え、建久三(一一九二)年十一月二十五日に中尊寺を模して建立させた永福寺(ようふくじ:二階建ての仏堂があった。現存しない)の近くに邸宅を構えたことから二階堂行政を称したとされる。建久四(一一九三)年に政所別当となり、強力な幕府ブレインであった大江広元の片腕として活躍、初期鎌倉政権を支えた実務官僚として知られる。ウィキの「二階堂氏」の「信濃流二階堂氏」によれば、『鎌倉時代の二階堂行政の子・行光の流れで、行盛の代から政所執事を独占した。相次ぐ当主の急逝や隠岐流』(二階堂行政の子行村流)『に執事職を奪われたことで衰退するが、室町時代になると再び勢いを取り戻し、室町幕府評定衆として活躍した。細かく分けると、行盛の子である行泰を祖とする「筑前家」』、『同じく行盛の子である行綱を祖とする「伊勢家」』、『同じく行盛の子である行忠を祖とする「信濃家」』『に分けられる』。三『家とも鎌倉幕府の滅亡や観応の擾乱で足利直義方に付いたことで大きな打撃を受けたが、赦された後は勢力を持ちなおして、康安元年』(一三六一年)『の畠山国清失脚後は、行春(筑前家)、行詮(伊勢家)、氏貞(信濃家)が備中家の行種と持ち回りで鎌倉府の政所執事に就任し、永享の乱による鎌倉府崩壊まで執事職を独占した』。『足利持氏期に執事を務め、その使者としてたびたび室町幕府と交渉した二階堂盛秀は系譜不明であるが、信濃守の受領名から伊勢家の行朝の系統と推察される』。『京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する』。『行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に、義満元服時の政所執事が二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏は縁戚関係にあり、長く執事職を独占してきた伊勢氏が忠行に執事を譲ることを同意したのも大きい)』。『忠行の子である二階堂政行』(★☜これが彼★)『は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った』。『だが、義尚が急死するとその反動で失脚に追い込まれ』た。『その後、嫡男である二階堂尚行が継承し、足利義澄の元服の際には義満・義政の例に倣うということで伊勢氏から』一『日だけ政所執事を譲られているが』、『父に先立って病死している』。『尚行の急死後は弟の有泰、その子とみられる晴泰に継承されている。晴泰は足利義昭の時代まで活動しているのが知られるが、義昭が織田信長に追放された後の消息は不明である』とある。以下、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『室町幕府でも執事などをつとめた名家で、二階堂政行(山城守)は長享元年(一四八七)九月の足利義尚による近江出兵に随陣している』とある。二階堂政行については、忠行の子で、通称は左衛門、将軍足利義政より偏諱を賜ったとあり、その子に二階堂尚行(又三郎・室町幕府政所執事(将軍足利義澄元服の一日のみ)・将軍足利義尚より偏諱を賜う)と二階堂有泰(評定衆・中務大輔)とあるのみである。

「政宣」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「政宣」の名は寛政重修諸家譜に見えない。政行の次は有泰。「有泰(ありやす) 天文五年正月二十日従四位下」(同)。戦死の記事もなく、この女(弥子)の父には相応しない』とある。

「京都の亂れに打死(うちじに)し」「新日本古典文学大系」版脚注には、『特定はできないが、本話の』時制の『二十年前の大永七年(一五二八)年には、京都桂川で細川高国が柳本賢治』(たかはる)『方に敗北し、将軍足利義晴を奉じて近江に逃れるという大きな戦乱があった。以後、京都周辺は細川方と三好方の争いが続き、これらを背景としたか』とある。

「絕(たへ)て」表記はママ。

「萬壽寺」現在は移転して京都市東山区本町にある臨済宗で東福寺塔頭の万寿寺。嘗ては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに「京都五山」の一つとして栄えたが、永享六(一四三四)年)の火災後に衰微し、天正年間(一五七三年~一五九二年)には五山第四位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転している。旧寺地はこの中央附近である。了意の語りでは、その衰微した末期をロケーションとすることになる。なお、この位置は新之丞に居宅からは実測でも六百メートルほどで、そう遠くはない。

「さやかに」はっきりとした。

「愛敬(あいぎやう)」可愛らしさ。魅力。

「なにはの事」「新日本古典文学大系」版脚注に、『事の次第。「難波」によく掛けられる』とある。前掲書で高田氏は『なにくれの事も』と訳された上で、「源氏物語」の「澪標」の一節を使用例として引いておられる。

「わりなく」「理無(わりな)く」。「その対象が理性や道理では計り知れない」ことを意味し、ここでは「冷たい理屈・分別を超えて親しい・非常に親密である」ことを言う。

「けしからず」怪しく奇妙なことに。妻の一周忌にして不思議なことではある。

若き女の聲して、夜每に歌うたひ、わらひあそぶ事のあやしさよ。』

「一具(〔いち〕ぐ)」一揃い。

「今夜」今朝未明。

「死すれば、忌(いみ)、ふかし」死んだ者が出れば、その穢れを厭うて、早々に遠く避けて、重く忌むのである。

「精分」健全な陽気に満ちた精気。元禄本や「新日本古典文学大系」版は「性分」であるが、気に入らないので、底本で採った。

「をよぶ」ママ。

「傳尸癆瘵(でんしらうさい)」漢方用語としてはそれぞれに意味を与えているが、「傳尸」も「癆瘵」も孰れも肺結核の古称である。

「惡証(あくしやう)」漢方では、自覚症状及び他覚的所見から、互いに関連し合っている症候を総合して得られた状態(体質・体力・抵抗力・症状の現れ方などの個人差)を意味する漢方独特の用語としてある。その甚だ悪性の様態を言う。なお、底本では「証」は「證」であったが、元禄本の判読を採用した。

「浴室(ふろや)」所謂、江戸時代の民間の営業用の「銭湯」ではなく、万寿寺の僧の浴室である。「新日本古典文学大系」版では右に『よくしつ』とルビし、左に『ふろや』と意解訓のルビを附す。同脚注に、『「ゆどの」「ゆや」とも。禅門では山門の右に位置し、跋陀婆羅』(跋陀婆羅尊者(ばったばらそんじゃ。跋陀婆羅菩薩とも呼ぶ。「水」によって悟りを開いたとされることから、浴室や水場で祀ることが多い)『の像を安置する「湯屋 風呂也。北嶺相国寺よりはじまる。鈸※(はつせ)菩薩は湯の音(こゑ)に得導(とくだう)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にもちゆ」(新撰庭訓抄・九月往状)』(「※」=「方」+「它」。)とある。ウィキの「銭湯」によれば、『日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった』。『鎌倉時代になると』、『一般人にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになった。これが銭湯の始まりと言われている』。「日蓮御書録」によれば、文永三(一二六六)年に弟子の武士『四条金吾(四条頼基)にあてた書に「御弟どもには常に不便のよし有べし。常に湯銭、草履の値なんど心あるべし」とあることから、詳細は不明ながら、このころにはすでに入浴料を支払う形の銭湯が存在したと考えられている』。『なお、建造物として現存する最古の湯屋は東大寺に』延応元(一二三九)年再建、応永一五(一四〇八)年に『修復されたもので、「東大寺大湯屋」として国の重要文化財にも指定されている』。『室町時代、京都の街中では入浴を営業とする銭湯が増えていった。この頃、庶民が使用する銭湯は、蒸し風呂タイプの入浴法が主流だった』。『また、当時の上流階層であった公家や武家の邸宅には入浴施設が取り入れられるようになっていたが、公家の中には庶民が使う銭湯(風呂屋)を、庶民の利用を排除した上で時間限定で借り切る「留風呂」と呼ばれる形で利用した者もいた』。『なお、室町時代末期に成立した『洛中洛外図屏風』(上杉本)には当時の銭湯(風呂屋)が描かれている』とある。

「魂屋(たまや)」御霊屋(みたまや)。仏壇。前者は狭義には神道のそれだが、弥子は戒名で仏葬である。

「伽婢子(とぎぼうこ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原話は「盟器婢子」。「盟(明)器(めいき)」は中国古代からの習俗としての死者への副葬品。「婢子(ひし)」は婢女の意で、埋葬時に添えられた人形のことか。句解』(「剪燈新話句解」尹春年(一四三四年〜?:朝鮮朝の文人)訂正・林芑(生没年未詳:同前)集釈。慶安元(一六四八)年京都で板行された影印本が同岩波本の最後に総て画像で載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の「巻二」の「牡丹燈記」がこちらPDF)の27コマ目からも総て視認出来る)『注「芻人」も葬具の人がた』(上記リンクの「30」コマ目。右頁の本文六行目の割注。但し、表記は「蒭人」(「芻」の異体字で「乾燥させた草」。それで作ったフィギアである))。『ここも弥子葬礼時に添えられた人形のこと。「伽婢子 トギボフコ〈又云露仏。本名天倪(アマカツ)〉(書言字考)、「ハウコ 大きな人形」(日葡)』とある。前掲書で高田氏は、『這う子にかたどった布製の呪術的人形』とされ、「はうこ(ほうこ)」の語源が明かされおり、さらに『江戸時代には庶民が幼児の祓(はら)いの具として用い、夜の守りとして犬張子を添えて飾った。又、嫁入りに持参したり、棺の中に入れていっしょに埋葬したりした』とあって目から鱗の注となっている。

「東寺(とうじ)」京都市南区九条町にある真言宗の根本道場で密教研学の中心拠点であった八幡山東寺(全ロケーションが入るように配した)。教王護国寺とも呼ぶ。

「卿公(きやうのきみ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注には、『高僧を敬った言い方か』とある。

「精血(せいけつ)」漢方で人体を構成する基本物質とするもの。生命活動を維持するための肉体に必須な栄養物質及びそれに支えられた健常な精神も含むのであろう。正常な心身総体の生物的代謝と精神的エネルギを指すととっておく。

「神魂(しんこん)」生者の持つ正常な霊魂。

「昏惑(こんわく)」眩(くら)まされ、惑わされている状態。

「符(ふ)」護符。後の有象無象の牡丹灯籠譚では小賢しい展開のアイテムとして活用される。

「おさせらる」「押させらる」。「しっかりと貼り付けるように」と、お命じになった。

「禮拜〔らいはい〕」仏教では「らいはい」と読む。

「内を見いれ侍りしに」門外から寺の中を遠く覗いたのである。

「何時(いつ)まで草のいつ迄も」「何時(いつ)まで草(ぐさ)」は「何時迄草・常春藤」のなどと書き、セリ目ウコギ科 Aralioideae 亜科キヅタ(木蔦)属キヅタ Hedera rhombea のこと。当該ウィキによれば、常緑の蔓性木本。落葉性のツタ類(全く異なるブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus tricuspidata 或いは同属種)に対し、常緑性で、冬でも葉が見られることから「フユヅタ」(冬蔦)とも呼ばれ、その葉をデザインした紋は、『ほかの樹木や建物などに着生する習性から』、「付き従うこと」に『転じて、女紋として用いられることがあった。蔦が絡んで茂るさまが』、『馴染み客と一生、離れないことにかけて』、『芸妓や娼婦などが用いたといわれる』ともあった。高田氏は前掲書脚注で、『「何時まで」の序詞。「いつまで草のいつまでも変らぬ友とこそ」(謡曲『松虫』)』と注されておられる。

「絕(たへ)」ママ。

「餘所(よそ)にせし」本来は「いい加減にして顧みないでいる・疎かにする・棚に上げる・放っておく」の意であるが、ここは新之丞の意識を、彼女から離させて、別な方へ向けたことを非難している。

「幸(さいわい)」ママ。

「恠しみ思ひ」奇体にして、まがまがしいことだと思い。弥子の霊を邪霊・悪鬼と断じて、体よく寺域から京の日常世界の辺縁へ追い出したのである。

「鳥部山」鳥辺野。京都市東山区の清水寺の南側に広がる野。「徒然草」の「化野(あだしの)の露、鳥部山の烟」で知られる通り、古く平安初期から京都近郊の葬送地の一つとして知られた。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「その後〔のち〕、雨降り、空曇る夜〔よ〕は、荻原と女と、手を取組み、女(め)の童(わらは)に牡丹花の燈籠、ともさせ、出〔いで〕てありく」『「是に行逢〔ゆきあ〕ふものは、重く煩(わづら)ふ」とて、あたり近き人は怖れ侍べりし』とは言わずもがな、鳥部山の墓地の近くでは、ない。五条・京極・万寿寺辺りの二人にとって懐かしい場所に、である。

「一日頓寫(〔いちにち〕とんしや)の經」追善供養のために大勢の者が集まって分担し、一部の経を一日で書写し終えること。多くは「法華経」を写す。「法華経」は二十八品、「一部八巻」と呼ばれ、総字数は六万九千三百八十四文字とされ、四百字詰の原稿用紙に換算すると、百七十三枚余となる。]

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