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2021/04/20

芥川龍之介書簡抄40 / 大正四(一九一五)年書簡より(六) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年六月二十九日(推定) 田端から 井川恭宛(転載)

 

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど

試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻望  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい

そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

每日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が橫濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの一しよに持つて行つてしまつた[やぶちゃん注:「の」はママ。] 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャプをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 學校ヘ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に對しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて 一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解釋して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣り[やぶちゃん注:「かさねみうり」。]の段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつぽはとぽつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉强しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉强する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな氣がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカッツェンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフオーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに  Neben werk としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千萬な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに總合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給ヘワアグネルだ」つて敎へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山宮學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に捧げて東京をしのぶよすがとする[やぶちゃん注:「第二首に」の「に」はママ。以下の短歌は評番号も含めて全体が三字下げであるが、引き上げた。]

   一

うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも

   二

あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

   三

藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

   四

うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

   五

思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

 

[やぶちゃん注:実は本書簡以降(旧全集書簡番号で一六五(本書簡)・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上は総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までは、一度、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――』で電子化しているが、今回は読み込みから総てゼロから起こしてある。

「僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ」かかっていた病院が高輪附近にあったようだ。先に示した新全集宮坂年譜の五月に、『中旬 体調を崩す。一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』とあるのと一致する。わざわざ遠くまで通院しているところから見ると、思うに、これは北里柴三郎が明治二五(一八九二)年に創設した「伝染病研究所」に、その二年後に附設された元「伝染病研究所附属病院」ではないか? ここはこの翌年の大正五(一九一六)年に「東京帝国大学附置伝染病研究所附属病院」に改められている。現在の東京大学医科学研究所附属病院(グーグル・マップ・データ)で港区白金台であるが、まあ、東で接する高輪と呼んでもおかしくない。

「體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど」井川が失恋の痛手による芥川龍之介の精神状態を気にかけ、急遽、上京した際、彼の保養を兼ねて強く松江に来ることを慫慂したことは既に注したが、そこで引いた翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の「松江」の項に、龍之介は『医者と相談し、途中』、『城崎(きのさき)で一泊するということで』、遂に彼の一高以来、井川から聴かされ、念願であった松江行が、この大正四年八月三日午後三時二十分『東京駅発の夜行で出発』することになるのである。

「試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた」ちょっと意味がとり難いが、一日の試験勉強の時間が制限されたという意味か。

「放情凭檻望  處々柳條新  千里洞庭水  茫々無限春」私が勝手に訓読したものは、

 放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば

 處々 柳條(りふでう) 新たなり

 千里 洞庭の水

 茫々 無限の春

である。「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「四」を参照されたい。

「桑木さん」哲学者で文学博士の桑木厳翼(くわき げんよく 明治七(一八七四)年~昭和二一(一九四六)年)であろう。帝国大学文科大学哲学科を首席卒業し、大学院に進学、東京専門学校講師・第一高等学校教授・東京帝大文科大学講師・同助教授を経て、明治三九(一九〇六)年に京都帝国大学文科大学教授(これで井川が知っていておかしくない)。大正二(一九一四)年東京帝国大学教授。専門はカントであった。

「非觀」ママ。何度も使っているので彼の当時の慣用語のようである。悲観と同義か、その重いものであろう。

「Begriff」ドイツ語。「ベグリッフ」。概念・観念。語源は「包括する」「把握する」。フランス語‘concept’。

「ロオレンス」既出既注

「Dickens」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家で、主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens  一八一二年~一八七〇年)であるが、この問題文は彼に就いての評伝か何かか。

「ミケルアンジェロ」前後、孰れもフランスの作家ロマン・ロラン(Romain Rolland 一八六六年~一九四四年)の作品。「ジャン・クリストフ」(Jean-Christophe )が一九〇四年から一九一二年の長編小説で、この「ミケルアンジェロ」は一九〇五年に書かれたイタリア・ルネサンスの名匠ミケランジェロ(Michelangelo)の芸術研究「ミケランジェロ」(Michel-Ange )であろう。但し、彼には翌年に書かれた「ミケランジェロの生涯」(Vie de Michel-Ange )もあるので確定は出来ない。「トルストイ」は、前に注で述べた、一九一一年に書かれた「トルストイの生涯」(La Vie de Tolstoï )である。

「矢代君」後の美術史家・美術評論家矢代幸雄(明治二三(一八九〇)年~昭和五〇(一九七五)年:龍之介より二歳年上)。横浜生まれ。横浜商業学校から神奈川県立第一中学校へ転校し、第一高等学校英法科を経て東京帝国大学法科大学に入学するも、文科大学英文科に転じ、この翌年大正四(一九一五)年に卒業。絵もよくし、一高時代から大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に通い、大学時代には第七回文展に入選している。実家があまり裕福でなく、自作の水彩画を売ったり、美術書の翻訳をしたりして、学費の足しにしていたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。結局、大学を首席で卒業、大学院に進み、東京美術学校(現在の東京芸大)・第一高等学校・東京師範学校で教職を務めた。大正一〇(一九二一)年から大正一四(一九二五)年にかけて欧州留学し、フィレンツェに住んでいたアメリカ人美術史家でイタリア・ルネサンス研究で著名だったバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson 一八六五年~一九五九年:リトアニア出身に師事し、サンドロ・ボッティチェッリ(一四四五年~一五一〇年)の研究を行った。研究成果をまとめた英文の著“Sandro Botticelli ”(ロンドン:一九二五年)が国際的評価を得、その後も、華族らによって組織された学術振興のための財団法人「啓明会」から資金援助を得て、ボッティチェッリ研究のための現地調査を行っている。この欧州滞在の折り、川崎造船社長で美術収集家であった松方幸次郎のロンドン・パリでの絵画購入に同行し、印象派や当時評価を高めつつあったポスト印象派の作品購入にアドヴァイスし、「松方コレクション」の形成に関わった。帰国後、帝国美術院付属美術研究所主任・美術研究所主事・帝国美術院幹事・帝国美術研究所所員・美術学校教授を経て、昭和一一(一九三六)年に美術研究所(現在の東京文化財研究所)所長に就任した。戦後は文化財保護委員・東京国立文化財研究所所長を務めた。参照した当該ウィキによれば、『日本における西洋美術史研究の祖であると同時に、滞欧歴が長く海外の知己も多いコスモポリタンとしての立場から、日本美術の紹介と国際的認知にも努めた。戦後には、日本を世界の中の「文化国家」にしようという使命感のもと、美術・文化財にまつわる制度整備にも尽力している』とある。

「銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた」前記経歴から杞憂であったわけである。

「三井君」後のドイツ文学者三井光弥(明治二三(一八九〇)年~昭和二七(一九五二)年)。山形県鶴岡市生まれ。東京帝大独文科大正四(一九一五)年卒。大正六年に雑誌『思林』(後に『動静』から『文潮』へ改題)を創刊し、昭和一九(一九三四)年まで通巻百七十二号まで発行した。シュニッツラー・ストリンドベルヒ・ヘッセの作品などを多数紹介・翻訳した。著書に「独逸文学十二講」「独逸文学に於ける仏陀及び仏教」「父親としてのゲーテ」などがある。

「井上君」後の文部官僚で「日本国憲法」の審議に参加した井上赳(たけし 明治二二(一八八九)年~昭和四〇(一九六五)年)。島根県生まれ。一九三〇年代の国語読本である「小学国語読本」(通称「サクラ読本」)の中心編集者であった。県立松江中学校から一高(同期に近衛文麿・山本有三・土屋文明がいる)、東京帝大文科大学国文学科を卒業、大正一〇(一九二一)年、鹿児島県の第七高等学校造士館教授であった折り、大学の先輩であった国文学者で、当時、文部省図書監修官であった高木市之助に誘われ、同じ文部省図書監修官となり、以後、二十年に亙って、国定教科書の編集に関わった。大正一四(一九二五)年から一年刊、教科書研究のために欧米に留学している。昭和六(一九三一)年から「小学国語読本」編纂に着手し、従来、巻一の冒頭で「単語」から教えていたものを、井上は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」に象徴されるように、「文」から習うように改めた。また、「源氏物語」や「東海道中膝栗毛」などを教材に取り入れるなど、文学教育の要素も強化した。この読本は昭和八年から実施された。昭和一六(一九四一)年の国民学校への移行に際し、「ヨミカタ」・「初等科国語」(通称「アサヒ読本」)を石森延男らと編集した。「アサヒ読本」は軍部からの圧力に屈せず、児童中心主義を守り通したことで知られる。昭和一九(一九四四)年、図書局廃止(国民教育局へ改組後、学徒動員局となる)に抗議して辞職した。戦後は昭和二一(一九四六)年から翌年まで、衆議院議員を務め、「日本国憲法」などの審議に参加し、その際、二十六条二項の正文中で、「children」の訳語に「子女」を提言したのは井上であった。後、東京文科大学(現在の二松学舎大学)・共立薬科大学の教授を務めた。当時の唱歌の教科書は「国語読本」と密接な関係にあったことから、井上は文部省唱歌の作詞も手がけており、人口に膾炙している「電車ごっこ」(「新訂尋常小学唱歌」所収・信時潔作曲)や「花火」(『うたのほん』所収・下総皖一(しもおさかんいち)作曲)などは、実に彼の作詞であった。

「僕の中學の先生」三中の恩師廣瀨雄(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)。既出既注こちらの注での引用では、田端文士村形成の重要人物として評価されているが、さても、彼がこの辛辣極まりない批評を加えている書簡を読んだとしたら(没年から見て、その可能性は非常に高い)、どう思ったであろう。かなり、気になるところだ。

「板倉と云ふ華族」調べれば、判るだろうが、その気にならない。悪しからず。

「累身賣りの段」歌舞伎の「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」(初演は明治三七(一九〇四)年、歌舞伎座)の一段。もとは新内節「鬼怒川物語」の一段で、こちらは安永 (一七七二年~一七八一年)頃に一世鶴賀若狭掾作曲とされる。

「小山と云ふ畫かき」小山栄達(明治一三(一八八〇)年〜昭和二〇(一九四五)年)。小石川生まれ。洋画と日本画の双方を学び、東京勧業博覧会・日本美術院等で褒状を受賞、明治三八(一九〇五)年、戦画博覧会を開催し、注目を集めた。大正六(一九一七)年に芸術社を創立し、文展・帝展で活躍した。大正三(一九一四)年頃に田端四三四番地に居住していた旨、サイト「田端文士村記念館」のこちらにあった。芥川家は田端四三五であるから、間違いない。

「僕の弟」新原得二(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。龍之介の七つ下の異母(実母フクの死後に後妻に入った道章・フクの末妹のフユ)弟。上智大学中退。父敏三に似た激しい性格で、岡本綺堂について、戯曲「虚無の実」を書いたりもしたが、本人自身が文筆への興味を失い、後には日蓮宗に入れ込んでしまい、後年の芥川を悩ませた。異母弟とはいえ、以上の通りで、血が濃い故に、龍之介はなんとかしてやろうという気持ちが強くあったに違いない。しかし、龍之介の遺書には、実姉ヒサ及びこの得二とは義絶するようにという指示があった伝えられている(芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」参照。但し、当該部は遺族による確信犯の部分的焼却によって現存しない)。

「わしもしらない」武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「カッツェンヤムマア」Katzenjammer。ドイツ語で「二日酔い」の意。

「武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が」芥川龍之介は志賀直哉(作家になってからは常にその文体・表現には彼のそれを羨望し続けた)とともに武者小路の作品に親しんでいた。例えば、大正六(一九一七)年八月発行の『文藝俱樂部』に寄せた「私の文壇に出るまで」では(この注のために先ほどブログで電子化した)、「高等學校を卒業して大學に入つてからは、支那の小說に轉じて、『珠邨談怪』や、『新齋諧』や、『西廂記』、『琵琶記』などを無闇と讀んだ。又日本の作家のものでは、志賀直哉氏の『留女』をよく讀み、武者小路氏のものも殆ど全部讀んだと思ふ」と述べている。しかし、一方で大正八(一九一九)年一月の『中央公論』に発表した自伝的小説「あの頃の自分の事」では、『我々四人は、又久米の手製の珈琲を啜りながら、煙草の煙の濛々とたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路實篤氏が、將にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。從つて我々の間でも、屢氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽な空氣を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵に接して來た我々の時代、或は我々以後の時代の靑年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に對する評價の大小に、徑庭があつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に對する評價が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが眞に近いかは疑問である。念の爲に斷つて置くが、自分が同じ事だと云ふのは、程度まで含んでゐる心算ぢやない。)が、當時の我々も、武者小路氏に文壇のメシヤを見はしなかつた。作家としての氏を見る眼と、思想家としての氏を見る眼と――この二つの間には、又自らな相違があつた。作家としての武者小路氏は、作品の完成を期する上に、餘りに性急な憾があつた。形式と内容との不卽不離な關係は、屢氏自身が『雜感』の中で書いてゐるのにも關らず、忍耐よりも興奮に依賴した氏は、屢實際の創作の上では、この微妙な關係を等閑に附して顧みなかつた。だから氏が從來冷眼に見てゐた形式は、『その妹』以後一作每に、徐々として氏に謀叛を始めた。さうして氏の脚本からは、次第にその秀拔な戲曲的要素が失はれて、(全くとは云はない。一部の批評家が戲曲でないやうに云ふ『或靑年の夢』でさへ、一齣一齣の上で云へばやはり戲曲的に力强い表現を得た個所がある。)氏自身のみを語る役割が、己自身を語る性格の代りに續々としてそこへはいつて來た。しかもそこに語られた思想なり感情なりは、必然性に乏しい戲曲的な表現を借りてゐるだけ、それだけ一層氏の雜感に書かれたものより稀薄だつた。「或家庭」の昔から氏の作品に親しんでゐた我々は、その頃の――「その妹」の以後のかう云ふ氏の傾向には、慊らない[やぶちゃん注:「あきたらない」。]所が多かつた。が、それと同時に、又氏の雜感の多くの中には、我々の中に燃えてゐた理想主義の火を吹いて、一時に光焰を放たしめるだけの大風のやうな雄々しい力が潜んでゐる事も事實だつた。往々にして一部の批評家は、氏の雜感を支持すべき論理の缺陷を指摘する。が、論理を待つて確められたものゝみが、眞理である事を認めるには、餘りに我々は人間的な素質を多量に持ちすぎてゐる。いや、何よりもその人間的な素質の前に眞面目であれと云ふ、それこそ氏の闡明した、大いなる眞理の一つだつた。久しく自然主義の淤泥にまみれて、本來の面目を失してゐた人道(ユウマニテエ)が、あのエマヲのクリストの如く「日昃きて[やぶちゃん注:「かたぶきて」。]暮に及んだ」文壇に再[やぶちゃん注:「ふたたび」。]姿を現した時、如何に我々は氏と共に、「われらが心熱(もゑ[やぶちゃん注:ママ。])し」事を感じたらう。現に自分の如く世間からは、氏と全然反對の傾向にある作家の一人に數へられてゐる人間でさへ、今日も猶氏の雜感を讀み返すと、常に昔の澎湃とした興奮が、一種のなつかしさと共に還つて來る。我々は――少くとも自分は氏によつて、「驢馬の子に乘り爾[やぶちゃん注:「なんぢ」。]に來る」人道を迎へる爲に、「その衣を途に布き[やぶちゃん注:「みちにしき」。]或は樹の枝を伐りて途に布く」先例を示して貰つたのである』とも述べている(引用は岩波旧全集に拠った。全文は「青空文庫」のこちらで読めるが、新字体である)。翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「武者小路実篤」の項(瀧田浩氏執筆)では、本書簡のこの部分について、『文意は明瞭ではないが、「あの頃の時分の事」同様、文壇の空気を大きく動かす者への評価と感謝、そしてある種の軽侮が見える。「待たれてゐる」「誰か」はむしろ芥川自身と意識されているようだ。「靴の紐をとく資格もない」は、キリストの先駆者、洗礼者ヨハネの自らに対することばだ。ヨハネの「後に来る者」=「メシヤ」の役目をも主体的に受けとめようとするかに見える文壇の先行者武者小路に対し、芥川はヨハネの位置を冷たく差し出している』と述べられ(非常に同感する)、続く「クリストと偶像」では、『芥川が文壇に登場する以前に、千家元麿や岸田劉生など後発の文学者・芸術家が武者小路のもとに集まり出していたためもあろうか、武者小路は芥川に冷談である。「芥川君の死」(『中央公論』1927・9)は、数少ない彼による言及であるが、「芥川君については正確な印象を得てゐない」「第一あまり読んでゐない」「五六の作品で見た処では真実さがいく分不足してゐるやうに思つた」と素っ気ないことばが並ぶ。それに対して、芥川は晩年の発言の中でも、武者小路を「道徳的な力」においてはホイットマンにたとえ、また晩年敬愛の深かった志賀直哉と「大小の比較はできない」と語っている(「新潮合評会」『新潮』1927・2)』。『武者小路は自身の創作の目標について「他人を描くのも自分を描くのも要するに唯自分のモヌメント[やぶちゃん注:底本では傍点「・」。以下同じ。]を立てる事に外ならない」(「作品上の自他」『文章世界』1912 ・ 6 傍点は引用者による、以下同じ)と書いたことがあったが、芥川は「闇中問答」』(遺稿。私の古い電子化がある)『の中で「僕」に「若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう」(『文芸春秋』1927・9)と、語らせている。「西方の人・続西方の人」(『改造』1927・8~9)』(私の「西方の人(正續完全版)」がある)『で、芥川が自身をも投影しつつ「私のクリスト」と呼んだのは、「みづから燃え尽きようとする一本の蝋燭」のような無垢なロマン主義者であった(「ヨハネはロマン主義を理解出来ないクリストだつた」)。無垢なクリストたちの彼岸に、清濁併せのむ多力なゲエテたちがいる。「続西方の人」の末尾は、後代のクリストたちのゲエテヘの嫉妬であった。芥川の武者小路への思いは、偶像になりえる彼の多力さへの軽蔑と嫉妬ではなかっただろうか』と評しておられる。因みに私は、中学二年の時に「その妹」や「真理先生」を読んだが、全く感銘しなかった。今も彼の作品を読みたいとは毫も思わぬ。あ奴の色紙のお蔭で「日々是好日」という文字列には激しい嫌悪を感じるほど、嫌いである。

「戀愛三味」オーストリアの医師で小説家・劇作家でもあったアルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler 一八六二年~一九三一年)の一八九六年戯曲(原題:Liebelei :「恋愛遊戯」)。森鷗外の訳(大正二(一九一三)年)が知られるから、これもそれか。

「パアフオーメーション」performance(演技)を performation(穿孔)という綴りを想起してしまった誤りか。

「Neben werk」作家の主な重厚なテーマ作品群とは別の傍系の気軽な感じで捜索した軽演劇的作品の意か。

「ワーグネル」楽劇王ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のネィティヴの音写は「リヒャルト・ヴァグナー」が近いか。

「temple」「殿堂」の意。

「上田さん」上田整次(明治六(一八七三)年~大正一三(一九二四)年)。石川県出身で明治二八(一八九五)年東京帝大独文科卒。文学博士。四高(金沢)・五高(熊本)教授を経て、明治四〇(一九〇七)年に母校東の助教授となった。明治四十二年にドイツに留学して帰国後、フローレンツの後任としてドイツ語学・ドイツ文学の講座を担当、この書簡の翌年の大正五年に教授に就任した。ヨーロッパの劇場史・戯曲論を研究し、没後、「沙翁舞台とその変遷」が刊行されている。

「山本文學士」山本有三のこと。但し、彼は一高時代に落第して中退し、東京帝大文科大学独文学科選科で龍之介らと同級になったのだが、選科生には学士号は与えられなかった。或いは本科転学していたかも知れないが、判らぬ。

「山宮文學士は豫定通り文部省へ出る」複数回既出既注の山宮允(さんぐうまこと)は大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、自身が言っている通り、大正八年には第六高等学校教授となっているから、文部省勤務(部局不詳)は四年ほどである。なお、後の大正十四年から翌年にかけて文部省在外研究員として渡欧しており、彼の経歴と立ち回り方を見るにまさに「官學に緣故があ」ったこと、「德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」という孫子の計略ならぬ「百年子孫の計を立てて」生きたさまがよく判るね。

「うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも」末句が六音であるため、底本では「も」にママ注記が打たれてある。「も」は、いいとは思わないが、「哉」の崩しの誤判読の可能性はある。弥生の面影。「かなしかる人の眉びきおもほゆるかも」も同じ。

「あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり」弟得二がモデルであろう。

「傴僂(くぐせ)」脊柱奇形を主症状とする、所謂、「傴僂(せむし)」。

「靑斑猫」鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科アオハンミョウ(青斑猫)Litta vesicatoria 。本邦には棲息しない。この種を乾燥させたものを漢方では「莞菁」(芫青:ゲンセイ)と称し、英名は虫名から「spanish fly」と称し、毒物「カンタリス」(cantharis/英名:cantharide)とも呼ぶ。日本産マメハンミョウ(豆斑猫)Epicauta gorhami や中国産のオビゲンセイ属 Mylabris の体内に一%程度含まれ、乾燥したものでは「カンタリジン」を〇・六%以上含む。不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。本品の粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが、腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)「スパニッシュ・フライ」として使われてきた歴史がある。詳しくは、私の「耳囊 卷之五 毒蝶の事」の「莞菁(あをはんめう)」を見られたいが、このスパニッシュ・フライ、芥川龍之介の最晩年に彼が盛んに、盟友小穴隆一に対して、何度も「手に入れて僕に呉れ」と言っていたことが、『小穴隆一 「二つの繪」(11) 「死ねる物」』他に何度も出る。但し、彼は催淫剤としてではなく、自殺するための毒薬として所望しているのである(但し、それは表向きで、やはり、妻文との夜の営みのために催淫剤として求めていた可能性も私はあると考えている)。

「切支丹坂」現行では東京都文京区小日向のここに現存するが、その東側の庚申坂が本当の切支丹坂ともされる。

「流風」「ながれかぜ」か。突風。

「せんせん」シチュエーションから言って、「ひらひらと動くさま」或いは「光り輝くさま」の意の「閃閃」であろう。

「末燈抄」親鸞(承安三(一一七三)年~弘長二(一二六三)年)の書簡集。親鸞は長岡での配流が許されて後、東国に二十年留まって布教をし、文暦元(一二三四)年頃、京へ帰った。それ以後は、主に書簡を交換する形で門弟との連絡を密にしたが、親鸞の曾孫覚如の次男従覚(慈俊)が元弘三(一三三三)年四月(鎌倉幕府滅亡の前月)、諸国に散在する親鸞の書簡や短編の法語二十二通を集め、全二巻に纏めたもの。]

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