芥川龍之介書簡抄33 / 大正三(一九一四)年書簡より(十一) 井川恭宛二通
大正三(一九一四)十一月三十日・京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣・卅日 芥川生
引越して一月ばかりは何やかやで大分忙しかつた 此頃やつと壁もかはいたし植木屋も手をひいたので少し自分のうちらしいおちついた氣になつたがまだしみじみした氣になれないでこまる
學校へは少し近くなつた その上前より餘程閑靜だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕かたは二階ヘ
上ると靄の中に駒込臺の燈火が一つづーゝともるのがみえる
地所が三角なので家をたてた周圍に少し明き地が出來た これから其處に野菜をつくらうと云ふ計畫があるがうまく行くかどうかわからない 庭には椎の木が多い 楓や銀杏[やぶちゃん注:「いてふ」。]も少しはある
たゞ厄介なのは田端の停車揚へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難澁だ そこで雨のふるときには一寸學校がやすみたくなる やすむとノートがたまる 此頃はそれで少しよはつてゐる 近所にポプラア倶樂部を中心とした画かき村があるだけに外へでると黑のソフトによく逢着する 逢着する度に藝術が紺絣を着てあるいてゐるやうな氣がする
步いても大學迄四十分位でゆかれるさうだ 之はまだあるた[やぶちゃん注:ママ。]事がないんだから確には云へない 僕は山の手線で上野へ行つてあれから觀月橋を渡つて岩崎の橫を本鄕臺へ上る 不忍池のまはりは博覽會の建物ののこりが立つてゐて甚汚い 其中に敗荷が風に鳴つてゐるのが氣の毒な氣がする 此分では今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になるかもしれない
セエゾンが來たので音樂會や繪の會が大分ある こなひだ近代音樂會で未來派の音樂をきいた あれなら僕にも作曲が出來る
繪の會では美術院と二科會がよかつた 文展はだめ
二科會でみた梅原良三郞氏の椿にはすつかり感心してしまつた あの人が個人展覽會をやるといゝと思ふ 美術院では安田靫彥氏のお產の褥がよかつた 今村氏の熱國の春も面白い 大觀と觀山(殊に觀山)には不感服
文展では世間の人が今更のやうに滿谷氏のポストイムプレシヨニズムになつたのを騷いでゐるがポストイムプレシヨニスチツクになつたのは滿谷氏ばかりぢやあない 文展のどの洋画にだつて(不折氏のやう人[やぶちゃん注:ママ。]のは別)影響の跡はみとめられる
それから前にかき落したが巽画會[やぶちゃん注:「たつみぐわくはい」。]も一寸面白かつた 木村莊八氏が大分うまくなつた 岸田劉生氏がボツチシエリやセガンチニのやうな色と線とをつかひ出したのも面白い が、その眞似をしてモナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた
この次の日曜にはフイルハアモニイがある 戰爭なんぞあると音樂會できつと靑島陷落歌と云ふやうなものをやるからたまらない
音樂會で思ひ出したが靑島陷落の日に慶應の英語會へ行つたらユンケルが圓い座蒲團のやうな帽子をかぶつたおかみさんと一しよに來てゐた さうして「獨乙皇帝の野心は遂に破られたり」だの「獨乙の軍國主義は破產せり」だのと云ふ演說をへんな顏をしてきいてゐた 少し氣の毒だつた
此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする 殆誰にもあはうと云ふ氣がおこらない 時々は隨分さびしいが仕方がない 其代り今までの僕の傾向とは反對なものが興味をひき出した 僕は此頃ラツフでも力のあるものが面白くなつた 何故だか自分にもよくわからない たゞさう云ふものをよんでゐるとさびしくない氣がする さうして高等學校にゐた時よりも大分ピユリタンになつた
この前の君の手紙に繪の事があつたから云ふが繪にも僕は好みがちがつて來た ほんとうと云ふとおかしいかもしれないが此頃になつてほんとうにゴーホの繪がわかりかけたやうな氣がする さうして之がすべての画に對するほんとう[やぶちゃん注:ママ。]の理解のやうな氣がする もつと大膽に云へば之がすべての藝術に對するほんとうの理解かもしれないと思ふ
之だけでは何の事だか君にはわからないのにちがひない けれども語にすると肝じんの所がにげさうな氣がするしこれでも事によると君が同感するかもしれないと思ふから之だけにしておく
兎に角僕は少し風むきがかはつた かはりたてだからまだ余容[やぶちゃん注:ママ。「余裕」の誤記。]がない 僕は僕の見解以外に立つ藝術は悉く邪道のやうな氣がする そんな物を拵へる奴は大馬鹿のやうな氣がする だから大がいの藝術家は小手さきの器用なバフーンのやうな氣がする 大分鼻いきが荒いがまじめなんだからひやかしてはいけない それから天才の眞似をしてるんでもないから心配しなくつてもいゝ 余裕がないから切迫してゐる 切迫してゐるとすぐ喧嘩腰になりさうでいけない 一体僕は人の感情を害するやうな事をするのは大嫌なのだが此頃は反意志的に害しさうで困る 山宮さんなんか大分氣をるくして[やぶちゃん注:ママ。]ゐるらしい 兎に角僕がよくないのだ
君が京都にゐる中に一ぺんゆきたい 鼻息のあらい時にゆくと君があきれてしまふかもしれない 尤もいくらあらくつても自分のものがいゝと思つてゐるわけではない 人のものがあんまり卑怯でのんきだから不愉快なのだ 同時に自分のものも其仲間入りをするかもしくは其以下になりやすいのだから猶不愉快なのだ でも少し位あらいのではあきれまいと思ふからやつぱり行きたい 要するに君が京都へいつたのはよくない あはうと思つても一寸あへないのはおそろしく不自由だ 手紙では埒があかないし(僕はいやになるほど文がまづい いくらほんとうをかいてる氣でもよみなほすとうそとしや[やぶちゃん注:ママ。]思へないやうな語ばかりならべてあるんだいやになる)ゆくには遠いし甚よくない
何だかする事が澤山あつて忙しい 体は大へんいゝ 胃病は全く癒つた
いつか寮で君が云つたやうに朝おきた時にミゼラブルな氣もちがする事だけは少しもかはらない 醫科の男に何故だらうつてきいてみたら血液の後頭部へどうとかする具合だらうつて云つた その男もあまりよくわかつてゐないのだから僕はなほさらわからない
新思潮はとうの昔癈刊した それでもあれがあつたおかげで皆かいたものがすぐ活字になる權利を得てゐる 久米が少し肺尖になつた 今逗子にゐる ロメオとジユリエツトを坪内さんの譚から重譯してゐる 同人の中で正直な所僕は豐島君にだけ多少の興味を持つてゐる
僕はこの頃今までよんだ本を皆よみかへしたいやうな氣がする 何もわからずによんでゐたやうな氣がして仕方がない
世の中にはいやな奴がうぢやゐる そいつが皆自己を主張してるんだからたまらない 一体自己の表現と云ふ事には自己の價値は問題にならないものかしら ゴーホも「己は何を持つてゐるか世間にみせてやる」とは云つたが「どんなに醜いものを持つてゐるかみせてやる」とは云はなかつた
一しよに一高を出た連中ともめつたにあはない 谷森君には時々昔の本をかりるから別
それからこんな事がある 三週間ばかり前に八木君がどこかの庇髮[やぶちゃん注:「ひさしがみ」。]とあるいてゐるのにあつた 何でもさむい風のふく晚で宵の口だつたけれど白山の通りでは大がい戶がしまつてゐたと思ふ 二人で活動寫眞か何かへゆく所らしい 所があつて「やあ」と云ふ おぢぎをして二三步ゆきすぎると僕はたまらなくおかしくなつて來た 君には想像できるかどうかしらないがとにかく可笑しくつて可笑しくつてどうにも出來なくなつた(其癖何故だかわからないのだから不思儀[やぶちゃん注:ママ。]だ)さうしてとうとう「あは…」と笑つてしまつた だが笑ひ聲がきこえるとわるいと思つたからいきなり向ふ見ずにかけ出してしまつた 半町[やぶちゃん注:約五十四メートル半。]ばかりかけてからでも笑がとまらなかつた あんなおかしな事は始めてだ
未だに何故おかしかつたのだかよくわからない
画がかけたら水彩を一枚でも二枚でもくれないか 僕の所の壁にかけるのだから おちついた靜な画がいゝ 贅澤を云つてすまないけれど
長崎君やなんかによろしく 尤も面倒だつたらよろしく云はなくつてもいゝ 京都にゐる人は君以外に思出す事は殆ない
こなひだ逗子へ行つた時の事を思出して出來るそばからかく
驛路(はゆまぢ)はたゞ一すぢに靑雲(あをぐも)のむかぶすきはみつらなれるかも
烏羽玉の烏かなしく金の日のしづくにぬれて潮あみにけり
海よ海よ汝より更に無窮なる物ありこゝに汝をながむる
ねまくほしみ睫毛のひまにきらめける海と棕櫚とをまもりけるかも
嗄聲(からごへ[やぶちゃん注:ママ。])に老いたる海はしぶきつゝ夕かたまけて何かつぶやく
わが聞くは海ひゞきか無量劫おちてやまざる淚の音か
夕されば海と空とのなからひにくゞまりふせる男の子ちさしも
この海のかなたにどよむ海の音のありやあらずや心ふるへる
もうやめ ずゐぶんまづい「鳥羽玉の」と云ふのだけ少し歌らしいやうだ
[やぶちゃん注:「駒込台」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。芥川家の北西或いは西直近に当たり、同一の台地上にある。
「柳町の坂」恐らくは市谷柳町の焼餅坂であろう。個人サイト「東京散歩」の「焼餅坂」を参照されたい(地図有り)。私は一度、芥川龍之介の自宅周辺を未明に歩いたことあるが、田端駅からの坂はかなりの急坂ではある。この坂というと、私はその坂の上の方に芥川龍之介のシルエットを幻視するのを常としているが、実は当時、田端の駅は現在地にはなかった。「今昔マップ」のこちらを見られたい。一時的に現在の北西に三百メートルほどの、現在の山手線と京浜東北線が分岐する直前位置に移動していたのである(後に、また現在の元の位置に戻った)。則ち、ここで彼が「長」い「坂」と言っているのは、推測するに、現在の「八幡坂通り」が「田端高台通り」に接した、その東北を下る坂と考えられるのである(この中央附近)。話を戻す。私の幻視は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(『改造』昭和二(一九二七)年九月号初出。リンク先は私の古い電子テクスト)の「13」に拠るものである。
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13
その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。
「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」
この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。
「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」
その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。
[やぶちゃん注:「最後の別れ」には「○」の傍点があるが、ここでは太字とした。]
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「ポプラア倶樂部」既注。
「觀月橋」不忍池(グーグル・マップ・データ)の中央にある弁天島(寛永寺を建立した天海が不忍池を比叡山の傍の琵琶湖に見立て、中之島として築いたもの)には、この七年前の明治四〇(一九〇七)年三月から七月まで開催された東京勧業博覧会(東京府主催。政上野公園を第一会場、不忍池畔を第二会場、帝室博物館西側を第三会場として開催された。不忍池に飾られたイルミネーションや、同所に設けられたウォーター・シュート及び観覧車などが評判になった。イルミネーションは夜の会場を楽しむ観客が、多数、集まり、夏目漱石の「虞美人草」(初出は同年六月から十月に『朝日新聞』連載)の舞台にもなっている)のために、弁天島から西に向かって「観月橋」が架けられていた。この橋は昭和四(一九二九)年に撤去されて、代わりに現在の弓形の桜並木の遊歩道が造られて、池は現在の四分割された形となった。
「岩崎の橫を本鄕臺へ上る」「岩崎」は筑摩全集類聚版脚注に、『三菱商事を起した岩崎家の邸』宅で、『不忍(しのばず)池畔にあ』ったとある。現在の旧岩崎邸庭園。ここ。その「橫」の「本鄕臺へ上る」坂は無縁坂で、登り切ったところが、東京帝国大学医科大学に入る旧「鐡門」(通用門)があった(現在のそれは二〇〇六年再建の新しいもの)。
「博覽會」東京大正博覧会。既出既注。この十日後の大正三年三月二十日から七月三十一日にかけて東京府主催で東京市の上野公園地を主会場として開催された博覧会。
「敗荷」枯れた蓮(はす)。
「今にほんとうにヨツトを浮べるやうな事になる」前注した東京勧業博覧会の際の不忍池のイルミネーションやら、ウォーター・シュートやら、観覧車やらを苦々しく思い出した龍之介が、「何でもアリ」の「とんでもない破廉恥で奇天烈で場違いなこと」の例として挙げたもの。
「セエゾン」既出既注。saison。セゾン。フランス語で「季節・時候・時期・シーズン」で、ここは「時機・時宜」の意で、日本で言うところの「芸術の秋」といった限定的な謂いであ「近代音樂會で未來派の音樂をきいた」新全集宮坂年譜に、この十一月四日(土曜)に『近代音楽鑑賞会(神田青年会館)に出かける』とある。イタリアの「未來派」(フトゥリズモ(Futurismo)の音楽(ルイージ・ルッソロ(Luigi Russolo 一八八五年~一九四七年)が知られる)だったら、龍之介でなくとも、私でも「あれなら僕にも作曲が出來る」と感じる(私は幾つかを聴いたが、二度と聴きたくない)。
「美術院」美術団体「日本美術院」。明治三一(一八九八)年に東京美術学校校長を排斥されて辞職した岡倉天心を中心に創設され、天心とともに教職を辞した橋本雅邦を始め、横山大観・下村観山・寺崎広業・菱田春草などの日本画家・彫刻家・工芸家ら十数名が集って、東京谷中初音町(一時は茨城県五浦(いづら)に研究所を設けて、美術研究と「院展」と呼ぶ展覧会を開催して力作を発表した。また『日本美術』を発刊、在野派として明治末期の美術界に著しい業績を挙げた。その後、経営困難や天心の渡米などで一時中絶していたが、この大正三(一九一四)年九月に大観・観山に木村武山・今村紫紅・小杉放庵・安田靫彦(ゆきひこ)らが加わって再興した(この時、「再興日本美術院」と称したが,その後、「日本美術院」・「院展」と呼んで現在に至っている)。後に洋画部と彫刻部が解散して、現在は日本画だけとなっている。
「二科會」美術団体。「文展」(次注参照)第二部(洋画)の二科制設置の建議を文部当局に拒否されて「文展」を脱退した石井柏亭・坂本繁二郎・梅原龍三郎・小杉放庵ら十一名によって、この大正三年に結成された。同年十月の第一回展以来、会員に変動はあるが、常に新傾向の作家を吸収し、毎年秋季に展覧会を開催、大正八(一九一九)年に彫刻部を設けた。昭和一九(一九四四)年に太平洋戦争のため、一時、解散したが、翌年の敗戦後に東郷青児らを中心として再建が企図され、昭和二一(一九四六)年に第三十一回展が開催された。新たに工芸部・写真部・漫画部・商業美術部を設置し、多角的な展覧会を開き、今日に至る。
「文展」「文部省美術展覧会」の略称。明治四〇(一九〇七)年に黒田清輝・正木直彦らの建議により、政府が開設した最初の官製展覧会(「官展」の別称となる)。各派総合の美術展として美術振興に貢献したが、官製としての制約が優れた新人作家の離反を齎した。大正八(一九一九)年に「帝国美術院展覧会」(帝展)に改組されたが、昭和一二(一九三七)年には「帝国美術院」の廃止に伴って復活した。昭和二一(一九四六)年に「日本美術展覧会」(日展)と改称している。
「梅原良三郞」洋画家梅原龍三郎(明治二一(一八八八)年~昭和六一(一九八六)年)の旧名。京都生まれ。この大正三(一九一四)年までは「梅原良三郎」を名乗っていた。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と、豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開し、昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。因みに、私は彼の絵に「感心し」たことは只の一度もない。
「安田靫彥」(明治一七(一八八四)年~昭和五三(一九七八)年)は東京府出身の日本画家・能書家。本名は新三郎。東京美術学校教授。芸術院会員。前田青邨と並ぶ歴史画の大家として知られ、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。この「お產の褥」(「しとね」か)は「御產の禱(いのり)」という画題の誤記。現在、東京国立博物館蔵。これ(Facebookの個人の「美人画集」の画像)。「紫式部日記」に着想を得たとされる名品である。
「今村氏の熱國の春」日本画家今村紫紅(明治一三(一八八〇)年~大正五(一九一六)年)。横浜市出身。本名は寿三郎。初めは歴史画を好んで描き、晩年には新南画を開拓しようとしたが、惜しくもこの二年後に三十五歳で早逝した。大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。「熱國の春」とあるが、これは「熱國の卷」の誤り。現在、東京国立博物館蔵で重文指定。参照した当該ウィキに画像がある。
「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)。和歌山出身。本名は晴三郎。当該ウィキによれば、代々紀州藩に仕えた小鼓方幸流の能楽師の三男として生まれた。明治一四年年八歳の時、『一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄』二『人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受け』た。『常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けととされ』、明治十六年観山十歳の『頃にはもう』その号を『使用していたとされる』。明治十九年に『芳崖が制作で忙しくなると、親友である橋本雅邦に紹介して師事させ』た。明治二二(一八八九)年、『東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学。卒業後は同校で教えていたが』、明治三一(一八九八)年に『岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし』、『横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した』。明治三六(一九〇三)年二月には『文部省留学生として渡英』し、同年十二月に帰国している。明治三十九年に『天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際』には、『大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し』、『画業を深めた』。大正六(一九一七)年、帝室技芸員。この時の出品作は「白狐」(二曲一双)で「文化遺産オンライン」のこちらで見られる。なお、筑摩全集類聚版脚注によれば、横山大観の出品作は「山路」であったとある。個人ブログ「クラシック音楽とアート」の「大観の樹木|山路 松並木 若葉|生誕150年」がよい。画像も大きい。
「滿谷氏」洋画家満谷国四郎(みつたにくにしろう 明治七(一八七四)年~昭和一一(一九三六)年)。岡山賀陽郡門田村(もんでむら:現在の総社市門田)出身。当該ウィキによれば、『叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人』物で、『幼い国四郎は堀家に行くたびに』、『和平の画技を見て』、『強い感銘を受けた。さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた』洋画家『吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)で松原三五郎に画才を認められた。明治二四(一八九一)年、『中学を三年で退学。徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた』という。『東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して』、明治三一(一八九八)年、『油絵「林大尉の死」を発表した。明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し』翌年には『「妙義山」が外務省に』、明治三三(一九〇〇)年の『「尾道港」は再び宮内省に買上げとなり、彼の名声が一挙にたかまった。同年には『水彩画「蓮池」を』、『フランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり』、『銅メダルを獲得し』ている。『鹿子木孟郎』(かのこぎたけしろう)『らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン=ポール・ローランスの門に学』び、明治三十五年に『帰国するや、吉田博・丸山晩霞等と語らって「太平洋画会」を創立し、その理事となった。第二回太平洋画展に「楽しきたそがれ」、明治四十年の『東京勧業博覧会には「戦の話」「かりそめのなやみ」を発表し』え一等を受賞、『翌年の文展に「車夫の家族」などを次々に発表』して、遂に彼は『三十四歳という若さで文展審査員のひとりに挙げられた。この頃は、社会風物を鋭く描いた時期である』。明治四十四年、『大原孫三郎の援助で再度渡欧し、パリで初歩からデッサンに取り組み』、『勉強した。新しい研究成果を身につけて』大正元(一九一二)年に『帰朝、後期印象派などの影響により、幾分』、『象徴主義的な画風へと転じた。そのころの作に「椅子による裸婦」「長崎の人」などがある』。『その後、画面は次第に醇化され、独自の画境が切り開かれていった』。その後の『四度にわたる中国旅行で、明治リアリズムからの蝉脱を模索していた国四郎は、大陸の自然や風物に接し、「十五老」(国四郎のもじりで、九・二・四老)と称して、油絵具を使いながら、彼の絵には東洋画の落ち着きと、気品が加わった。また筆やすみを使って、山水を描く南画風の絵も描くようになり、いっそう独特の画境を示すようになった』。大正一四(一九二五)年には『帝国美術院会員となり、太平洋画会の一員として多くの後進を指導し、岡山県人では吉田苞・柚木久太・片岡銀蔵・三宅円平・石原義武らを育てた』。『晩年の作品は、的確なフォルム、温か味のある色彩により、平明で装飾的な画面を作りあげている。「女ふたり」「緋毛氈」などの彼の代表作がこの頃の作品である』。『中村不折は国四郎を評して「幸か不幸か満谷君には文章が書けぬ。しゃべるのも下手だ。それで自分というものの吹聴や説明がうまくできぬのだ。そこで君は黙って仕事をしていくより他はない。なんらのかけひきもなく、ただ作品そのもの、言いかえれば芸術の力のみによって、ひた押しに押して行こうとするのが満谷君である。」と言っている』。また、『総社市立総社小学校校長室に掲げられている「フランス・ブルターニュ半島の風景」は、国四郎の遺志によって』、昭和一二(一九三七)年に『遺族によって贈られたものである』が、『その当時の校長重政良一は、「満谷国四郎略伝」の中で、「我等ニハ是ノ如キ大先輩アリキ 出デヨ 第二ノ満谷国四郎、第三ノ雪舟禅師 今此ノ文ヲ草シテ未来ノ画聖ヲ待望シ必ズ出ズベキコトヲ確信ス。諺ニ『二度アルコトハ三度アル』ト」と記している』とある。
「ポストイムプレシヨニズム」ポスト印象主義(Post-Impressionism/フランス語:Post-impressionnisme)。「後期印象派」と訳されるが、意味がおかしい。「印象派」の後に、フランスを中心として主に一八八〇年代から活躍したそれぞれに「印象派」のレッテルを越えようとした画家たちを指す呼称である。一般にはフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌなどを代表者とする。
「不折氏」中村不折。「芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡」で既出既注。ここに出、また注で述べた同時代の画家たちの多くも、そちらで私が注してあるので、見られたい。
「巽画會」(たつみがかい)は、明治二九(一八九六)年に深川在住の村岡応東・遠山素香・大野静方(しずかた)の三名が発起人となって発足した。当該ウィキによれば、『新傾向派の青年画家の拠点となり、後に上野竹の台五号館で展覧会を開催するまでに発展した。やり手の南米岳が経営にあたり、京都にまで範囲を及ぼし』、明治四十三年には『審査員に鏑木清方、菱田春草、山田敬中、上原古年、高橋広湖、今村紫紅、木島桜谷、菊池契月、上村松園、尾竹竹坡、尾竹国観、山内多門、町田曲江、信近春城、安田靫彦、田中頼章、小室翠雲などがあたるようになった。また、会の機関紙『多都美』』(後に『たつみ』・『巽』と改称)『を出版し』とある。
「木村莊八」(しょうはち 明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は洋画家・版画家・随筆家。当該ウィキによれば、『牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第』八『支店に生まれる』。父の死後、浅草から京橋の『いろは』『支店』を移り住み、『帳場を担当しながら』、『兄・荘太の影響により』、『文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ご』した。著書「東京の風俗」所収の『自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校』四『年生の頃から』、『学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという』(明治四三(一九一〇)年同校卒)。その翌年、『長兄の許可を得て』、『白馬会葵橋洋画研究所に入学し』、『画家を目差すこととなる』。明治四十五年には、『岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会』(既出既注)『の結成に参加した』。大正二(一九一三)年に、、『いろは牛肉店』を辞めて独立、『美術に関する著作・翻訳を行う傍ら』、『洋画を描き注目された』。大正四年、『劉生たちと共に草土社を結成』大正十一年まで『毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね』、大正七年の院展出品作「二本潅木」では『高山樗牛賞を受賞した』。大正一一(一九二二)年、『春陽会創設に客員として参加し』、大正十三年に『同正会員となり』、『そこで作品の発表を続けた』。この年『以降は挿絵の仕事が増し』てゆき、昭和一二(一九三七)年には『永井荷風の代表作』「濹東綺譚」(『朝日新聞』連載)に『おいても』、『挿絵を担当し』、『大衆から人気を博した』。『他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説』を多く手掛けた。『新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた』。昭和二〇(一九四五)年頃には、『新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している』。『晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作』「東京の風俗」・「現代風俗帖」など『を多数出版』し『た。多忙のため』、『病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し』、亡くなったとある。
「岸田劉生」(明治二四(一八九一)年~昭和四(一九二九)年)は洋画家。東京生まれ。ャーナリスト岸田吟香(ぎんこう)の四男。黒田清輝らの白馬会研究所に学び、雑誌『白樺』の同人と交わり、ポスト印象派を知り、大正元年、高村光太郎らと「ヒュウザン会」を起こした。大正四年には木村荘八らと「草土社」を結成、静物画や風景画に独特の細密表現を完成した。なお、木村も岸田も巽画会展洋画部の審査員として参加していた。
「ボツチシエリ」初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli 一四四五年~一五一〇年)。フィレンツェ生まれ。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi)。「Botticelli」は彼の兄が太っていたことからついた「小さな樽」という兄弟族の綽名。代表作は言わずと知れた「ヴィーナスの誕生」(La Nascita di Venere :一四八五年頃)。
「セガンチニ」イタリアの画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini 一八五八年~一八九九年)多くの風景画を残し、「アルプスの画家」として知られるが、「悪しき母たち(Le cattive madri :一八九四年)などの幻想的な作品は、「世紀末芸術」の一つに数えられることがある。
「モナ・リサの複寫のやうな馬鹿な画をかいた奴もゐた」不詳。出品リストでも見れれば、或程度は特定出来そうだが。
「この次の日曜にはフイルハアモニイがある」筑摩全集類聚版脚注には、『第十四回が十二月六日から帝劇で開かれている』とある。既出既注の岩崎小弥太の作った音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」のそれである。但し、年譜ではそれを聴き行った事実は見当たらない。
「靑島陷落」第一次世界大戦中のこの大正三(一九一四)年十月三十一日から十一月七日にドイツ帝国の東アジアの拠点青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」。当該ウィキによれば、『日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市への爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された』。『しかし、大量の装備の上陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに』二ヶ月もの『時間を要したものの、砲撃後』一『週間で決着がついた戦いは、国民に「弱いドイツ軍相手にだらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作戦」と揶揄された』『が、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や装備の十分な確保により』、『断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるものであ』った。『この戦争で日本は満洲』―大連―芝罘(しふう)『間通信線の所有』及び『運用権を譲り受けた』とある。
「ユンケル」一高のドイツ語のドイツ人講師。複数回既出既注。
「ラツフ」rough。粗野。
「ピユリタン」Puritan。原義はイングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループで市民革命の担い手となった。日本語では「清教徒」と訳されるが、ここでは彼らの属性である「禁欲的生活者」の意で用いている。
「ゴーホ」オランダのポスト印象派の画家フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh 一八五三年~一八九〇年)。芥川龍之介はこれ以降、終生、彼の作品を愛した。遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の草稿附き電子テクスト)でも、以下のように登場させている。
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七 畫
彼は突然、――それは實際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの畫集を見てゐるうちに突然畫(ゑ)と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの畫集は寫眞版だつたのに違ひなかつた。が、彼は寫眞版の中(うち)にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。
この畫に對する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頰の膨らみに絕え間ない注意を配り出した。
或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰(たれ)か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰(たれ)か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歲の彼の心の中には耳を切つた和蘭人(オランダじん)が一人、長いパイプを啣(くは)へたまま、この憂欝な風景畫の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……………
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「バフーン」buffoon。英語。古語で「道化師・おどけ者」の他に、転じて「馬鹿げた面白いことをする奴」・「下品な輩」「馬鹿者」の意がある。
「山宮さん」一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)。既出既注。
「ミゼラブル」miserable。惨めな・不幸な・哀れな・悲惨な。
「醫科の男」恐らく既出既注の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)。一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部を卒業後、医師となった。
「新思潮はとうの昔癈刊した」第三次『新思潮』はこの大正三年九月の九月号までの全八号を以って廃刊となった(恐らくは主に発行資金調達の経済的理由と推測される)。芥川龍之介が同誌に発表した作品は、
第一号(大正三年二月十二日発行)に翻訳「バルタサアル(アナトール・フランス)」(リンク先は「青空文庫」の新字正仮名版。以下、何も注していないそれは同所のもの)
第三号(同四月一日発行)に翻訳『「ケルトの薄明」より(イエーツ)』と書評「未來創刊號」(詩人三木露風が結成した未来社の同人雑誌『未來』の大正三年二月十五日東雲堂書店発行の同雑誌創刊号の作品評。ネット上に電子化物は見当たらない)
第四号(同五月一日発行)に小説「老年」(「青空文庫」版であるが、これは新字新仮名)
第五号(同六月一日発行)に翻訳「春の心臟―W. B. Yeats―」
第七号(同八月一日発行)に評論「シング紹介」(これは永く幻しとされていたもの。リンク先は新全集を参考に私が独自に電子化した草稿附き)
第八号(同九月一日発行)に「靑年と死と(戲曲習作)」(私の古い電子化)
であった。総て「柳川隆之介」名義である。
「肺尖」肺尖部肥厚。肺野の一番上の尖った部分の肺尖部胸膜肥厚のこと。結核の初期症状や予後に生ずることがあるが、活動性炎症の所見が見られない場合は、殆んどが昔の肺炎や胸膜炎の痕跡で放置して構わない。
「坪内さん」坪内逍遙(安政六(一八五九)年~昭和一〇(一九三五)年)。この久米正雄の重訳版「ロメオとジユリエツト」は大正四(一九一五)年一月に新潮社の新潮文庫で刊行されている。大正十一年の同社の「泰西戯曲選集」の第一編の再刊本が国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。
「豐島君」豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡出身。龍之介より二つ年上。一高から東京帝国大学仏文科に入学。第瑣三次『新思潮』の創刊に加わり、同誌創刊号に処女小説「湖水と彼等」を発表して認められた。知的な内省と鋭敏な神経で綴る幻想的な説話性に富む作風で、地味ながら独自の文壇的地位を占めた。大正六(一九一七)年にヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を翻訳、これがベスト・セラーとなり、翻訳が主、創作が従の活動が続いた。昭和一〇(一九三五)年、東京大学講師となり、以後、晩年まで諸大学の教授職にあった。戦後は「日本ペン倶楽部」(当時の会名)の再建に尽力し、昭和二二(一九四七)年には再建された「日本ペンクラブ」の幹事長に就任した。昭和二七(一九五二)年には旧訳の「ジャン・クリストフ」がまたしても大当たりとなった。代表作は短編小説集「生あらば」(新潮社・大正六(一九一七)年)、中編小説「野ざらし」(新潮社・大正一二(一九二三)年)、随筆集「書かれざる作品」(白水社・昭和八(一九三三)年)、長編小説「白い朝」(河出書房・昭和一三(一九三八)年)、短編小説集「山吹の花」(筑摩書房・昭和二九(一九五四)年)等があり、また、数多くの児童文学作品も書いている。創作家としてよりも、名訳者として名を残した。また、太宰治が晩年に豊島与志雄を最も尊敬し、山崎富栄を伴って、親しく交際し、太宰の葬儀では葬儀委員長を務めた(以上は主に当該ウィキに拠った)。
「谷森君」既出既注。
「八木君」既出既注の八木実道(理三)であろう。同前で、『一高時代の同級生。愛知県の生まれ』。東京帝大『哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校』(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)『生徒主事兼教授』とある。
「庇髮」女性の束髪の一つ。入れ毛を使って前髪と鬢 (びん)とを膨らませ、庇のように前方へ突き出して結う髪形。明治三十年代頃、女優川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、また、女学生が多く用いたことから、「女学生」の異称ともなったが、ここはそれである。
「長崎君」既出既注であるが、再掲しておくと。一高時代の同級生で井川とも親しかった長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。
「こなひだ逗子へ行つた時」既出既注。
「驛路(はゆまぢ)」宿駅の古語。
「嗄聲(からごへ)」「からごゑ」が正しい。しゃがれ声。この一首は全体が擬人法。
「無量劫」「むりやうごふ(むりょうごう)」仏語。限りなく長い時間。永劫。
「なからひ」「仲らひ」は「男女・夫婦・血族などの人と人との間柄・人間関係・一族」の意であるが、ここはどうも、「中間に」の意で用いていているとしか思えない。まあ、その「ちさし」「男の子」を海と空の自然の中に正しく育まれた存在としてという意味で原義に繋げているとも読める。私もまさにそんな情景を、遠い二十歳の昔、見たことがあり、写真に撮ったことがあるから、この一首は非常に打たれるものがある。]
大正四(一九一五)年一月一日・消印大正三(一九一四)十二月三十一日・攝津國武庫郡西の宮香櫨園深田樣方 井川恭君・(葉書)
隆達にまなびて
薔薇はすがれて、さうよの
いのちの春が來るのは
いつであらうぞの
一月一日
[やぶちゃん注:半今様(はんいまよう)風の芥川龍之介自作の歌謡である。
「隆達」近世初期の流行歌謡隆達節(りゅうたつぶし)或いは、それを創始したとされる高三隆達(たかさぶりゅうたつ 大永七(一五二七)年~慶長一六(一六一一)年)のこと。「隆達小歌」とも呼ぶ。隆達は泉州堺の薬種商の末子に生まれ、日蓮宗顕本寺の僧となったが、兄隆徳の没後、還俗した。生来、器用な彼は、連歌・音曲・書画などに才能を現わし、自ら、小歌を作詞してこれを歌い、名声を得た。この隆達節が最も流行したのは文禄・慶長期(一五九二年~一六一五年)で、その後、元禄・宝永期(一六八八年~一七一一年)頃まで、永く流行し続けた。曲節自体は現存しないが、恐らく先行する数種の音曲を折衷し、そこに彼独自の節回しを加えたものと思われる。伴奏には主として扇拍子(閉じた扇で掌や板の台などを敲いて拍子をとること)や一節切(ひとよぎり:尺八の前身ともされる真竹製の縦笛。節が一つだけあるのを特徴としたため、この名を得た)・小鼓などが用いられた。自筆・他筆を含めて五百首以上の歌詞が現存するが、その総てが隆達の作というわけではない。内容の七割以上は恋歌で、詞型は七五七五調の半今様型が最も多く、近世小歌調の七七七五調はきわめて少ない。その意味で、隆達節は中世歌謡から近世歌謡への過渡的小歌として、歴史上。重要視されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]