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2021/04/06

芥川龍之介書簡抄29 / 大正三(一九一四)年書簡より(七) 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年八月三十日・島根縣出雲國松江市内中原町 井川恭君・消印三十一日 八月卅日 東京新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

僕は一月ばかり一の宮へ行つてゐた 每日義務のやうに泳いだりひるねしたりしてゐた その癖ひまが少しもなかつた 運動をしつゞけにするので うちにゐるときは新聞をよむのも臆劫な程くたびれてゐたのである 一の宮ヘゆく前に藤岡君から長い手紙をかけと云ふ註文があつた 所が長いにも短いにもペンをとるのがいやさにとうとう御免を蒙つてしまつた 君になると第一土佐にゐるんだか出雲にゐるんだか判然しなかつたので餘計手紙が出しそびれた 尤もこつちから出す前に何とか君の方から云つてくるだらうと云ふ橫着な了間も大分手傳つてゐたのである

今日で東京へかへつてから一週間ばかりになる 体は大分いゝ 胃病も癒つたし可成(僕としては)肥つた 瘦せまいと思つて此頃は体操もしてゐる

一の宮の町は不景氣な退屈な町だつた 僅に三里をへだてた大原[やぶちゃん注:一の宮の南方の、現在の千葉県いすみ市大原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。夷隅地域の実質的中心地。]でさヘ一の宮にくらべると餘程潑辣としてゐる

町の中央に玉前(サキ)神社[やぶちゃん注:上總國一之宮玉前(たまさき)神社。]と云ふ玉依姬の命をまつつた社があつて その左右に五六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]づゝ町が開展してゐるのだが 夕方散步をすると澤蟹が砂地の往來をもぞもぞと這つてあるく程さびれてゐる 家も大抵藁葺で瓦屋根は數へる程しかない 昔の本陣だつた家の前を通ると門の金具が綠靑にまみれて 倒れかゝつた黑塀の中には棕櫚がいつも五六本そよりともせずに立つてゐる 夜はどこの家も早く戶をしめてねてしまふらしい 僕のとまつてゐた家はその數の少い瓦葺の中で更に數の少い二階家で且一の宮の町に三軒しかない土藏づくりの家であつた 商賣は麻問屋で家族は十七になる娘を頭に弟が二人ゐるきりである 兩親は二年前に前後してなくなつたさうで 御飯をたくのでも洗濯をするのでも その娘が一人でやる 一寸見ると白兎のやうな氣のするおとなしい女だがその内に中々しつかりしてゐる所があるらしかつた 第一夜十一時にねて朝四時半におきる それから御飯をたいて 家中の拭き掃除をする 家と云つても可成廣いのだから 容易な事ではない それから洗濯をする 庭の掃除をする 店の用をする 仕事をする 風呂をくみこむ 殆間斷なく働く あんなに働いてばかりゐて何か考へるひまがあるかと思ふ程働く 其おかげで僕も大分早起きになつた

[やぶちゃん注:この記載によって、この時に芥川龍之介らが泊まった離れは、未だ旅館でではなく、麻問屋のそれであったことが判る。

「土佐」この時期に井川は土佐に旅行すると先便で言っていたようである。

「澤蟹」位置的には淡水産の日本固有種である甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani の可能性もなくはない(紀州の熊野新宮で海岸から近い位置で現認したことがある)が、海浜に近いここの「砂地の往來をもぞもぞ這」っているとなると、短尾下目イワガニ上科イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica の幼体か、イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir である可能性がより高い。]

ある時二三日腹の具合が惡くつてねた事があつた その初めの夜に夜中に便所へゆきたくなつてふと眼をさました さうしていきなり蚊帳をとび出した所が戶まどひ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]をして 何處へ何う行つたらいゝのだかわからなつて弱つた 手さぐりをすると三方に壁があつて何方へも出られない 暫く蚊に食はれながら壁をなでまはしてゐたが やつと掛物へ手がさはつたので 自分が床の間へ上つてゐたのがわかつた そこでやつと見當がついて滿足にくらい所を便所へたどりつく事が出來た それが晚の二時と一時の間であつた だから僕の行動は僕以外に誰もしる筈はないと思つてゐた 所が次の晚に又便所へ行きたくなつて(斷つておくが妙な腹下りで晝は一度もゆきたくないが夜になると大抵三度位ゆくのだ)眼をさました 見ると枕下にランプがついてゐる 今度は戶まどひをしずにすんだ それからあくる日その娘に「あなたは一昨日の晚僕が夜中におきたのをしつてますね」つて云つたら笑つて返事をしなかつた 何にも云はずにランプをつけておいたのは今でも僕の氣に入つてゐる 戶まどひをせずにすんだのが嬉しいからぢやあない 氣がついて ついた所を見せびらかさないのが奧床しかつたのである 東京の女どもも少しかう云ふ眞似をするがいゝと思ふ

そこにゐる間中 本は殆どよまなかつた 歌も殆つくらなかつた 唯ごろごろして論語をよんでゐた 時々淚が出る程感心した所があつた(けれどもさう云ふ所の近所には又きつと道學者のすきさうな文句が澤山あつた)孔子の弟子では子路も無邪氣でかはいゝ 顏囘も殆孔子の壘を摩する位えらいらしい 子貢も頭がいゝ 原憲もしつかりしてゐる けれどもなつかしさから云ふと曾點が一番なつかしいかと思ふ 僕は孔子が弟子をあつめて爲さむとする所を訊ねると 外の奴が 大政治家になるの 功名を千載の後にのこすのと云ふ中に 曾點が獨り「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」と答つた[やぶちゃん注:「いつた」か。]のを何よりもゆかしく思つてゐる 孔子が喟然[やぶちゃん注:「きぜん」。溜息をつくさま。]として「我點に吳せん」と云つたのも無理はない あすこをよむと何とも云へず難有い氣がする すべての煩惱を脫離した 淸淨な心もちが何時となく心の寂からにじみ出すやうな氣がする 論語のおかげで僕も大分MORALIST[やぶちゃん注:縦書き。]になつた

[やぶちゃん注:実際には年譜を見ると、他にも、八月九日にはアイルランドの劇作家・詩人でケルト文学復興運動の中心人物の一人でアイルランドの民間伝承の収集でも知られたイザベラ・オーガスタ・グレゴリー夫人(Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年522日)のアイリッシュ・フォークロアである‘Cuchulain of Muirthemne : the story of the men of the Red Branch of Ulster (「ムルセヴネのクーフリン:『アルスターの赤い枝の男たち』の物語」一九〇二年刊)を読了しており、さらに十一日には十二首の短歌「客中戀」(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」参照)を脱稿(大正三(一九一三)年九月発行の『心の花』に載った)し、十五日には戯曲「靑年と死と」(リンク先は私の古い電子テクスト)をも脱稿している(大正三(一九一四)年九月一日発行『新思潮』第一巻第八号に発表)。

「原憲」子思の本名。

「曾點」曾晳(そうせき)の本名。曾子(そうし)の名で知られる。

「暮春には春服既に成る 冠者五六人 童子六七入 沂に浴し 舞雲に風し 詠じて歸らん」原文は、

莫春者、春服既成。冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。

訓読すると、

莫春には、春服、既に成りて、冠者、五、六人、童子、六、七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう/ぶむ)に風(ふう)し、詠じて歸らん。

「莫春」は暮春・晩春。「舞雩」は「天を祭って雨乞いをする祭壇」。ブログ「温故知新 故きを温め新しきを知る」の「子路・曾晳・冉有・公西華待坐す 論語 孔子」の現代語訳によれば(前後を含めた)、『孔子は最後に「点よお前はどうじゃ」と問われた。曾晳はいままで先生と兄弟弟子三人の問答を聞きながら、静かに琴をぽつんぽつんと弾いていた。コトリと音をさせて琴を置いて立ち上がり、「私は三君の抱負とはおよそ種類を異にしていますから」と遠慮した。ところが、孔子は、「めいめい思ったことを言ったのだから、なにも遠慮することはいらないよ」とおっしゃった。そこで、曾哲は答えて、「晩春の好時節に、春服に軽く着替えをして、元服したばかりの二十歳ぐらいの青年五六人と、十五、六歳のはつらつとした童子六、七人を連れて郊外に散策し、沂の温泉に入浴し、舞雲の雨乞い台で一涼みして、歌でも詠じながら帰ってきたいと存じます」と申し上げた。これを聞いた孔子は、深いため息をつきながら、「わしも点の仲間入りがしたいものだなあ」と言われた』とある。]

海は大へん浪が荒い 少し風がある日は二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]の奴が澎湃[やぶちゃん注:「はうはい」水が漲(みなぎ)って逆巻くさま。]としてよせてくる 始めての日にははいるとすぐ浪にひつくりかへされた 水の中で恐ろしく体をもまれる 之は死ぬかなとさへ思つた やつと水の外へ頭が出たら腰までしかない所まで押かへされてゐた 頭へかぶつてゐた手拭も何もその時どこかへ持つてかれてしまつた それからも同じやうな目に二三度あつたが そのうちに浪をくゞる術をおぼへて少し位な狂瀾怒濤は何でもなくなつた

一の宮には蔭山金左エ門も堀内利器と云ふ專賣特許の井戶堀り機械のやうな名の友だちもゐたが 君のしつてる上瀧嵬[やぶちゃん注:「かうたきたかし」。複数回既出既注。]も八月の始めにはやつて來た 所が之も第一の日に浪にひつくりかへされて やつと浮いてみると眼鏡がどこかへ行つてしまつたので常人ばかりか僕たちまで大分迷惑した 近眼も五度となると大分不便なものだ 第一眼鏡屋へ行つてもそんな度のつよいのはない その上眼鏡をかけずにゐると何も見えないで 頭痛計りするさうだ そこでその日の中に東京へひきかへした あとで「一の宮の海を一眼みる爲に金を三圓つかつて一日むだにくらしたと思ふとがつかりする」とかいて來たのは滑稽だつた

一の宮は加納子爵の領國だが今の子爵のおぢいさんの何とか院殿が大へん明君だつたさうだ 前にかいた堀内と云ふ男のおぢいさんの堀内村次と云ふのが家老で 加藤藤内と云ふ男と一緖に殿樣の御前へ出てゐると 歌が出來たと云つてかう云ふ歌をかいてみせたさうである(丁度黑船が日本へ來た時分である)

   黑船ヘ一番槍を九十九(つくも)潟先を爭へ村次藤内

そこで村次が聲に應じて

   我こそは一番槍を九十九潟藤内などは及び申さぬ

とやると藤内もまけぬきになつて

   及ばぬか及ぶか今度九十九潟一番槍は加藤藤内

とやつたので君臣三人相顧みて一笑したさうだ

村次氏はまだ健在で刀劍と歌と西瓜が大すきだと云つてゐる 一度歌のお相手をして「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」と云ふ定家鄕のやき直しのやうな歌をつくつたら大へんほめられて恐縮した

一の宮の町から少しはなれた所に洞庭と云ふ湖があるがこの名もその何とか院殿がつけたんださうだ 岸に櫻が澤山あつてその中に壺の石文に擬した石碑が立つてゐる 刻してあるのは櫻樹百五十株を天女に獻ずる文で之も亦その何とか院殿の風流の餘戲である事は云ふ迄もない

[やぶちゃん注:「加納子爵」加納久宜(ひさよし 嘉永元(一八四八)年~大正八(一九一九)年)は最後の上総国一宮藩主。

「おぢいさんの何とか院殿」先々代の上総一宮藩第二代藩主加納久徴(ひさあきら 文化一〇(一八一三)年~元治元(一八六四)年)。但し、第三代目も四代目久宜も孰れも養子で直系血族ではない。当該ウィキによれば、『若くして山鹿流軍学を学ぶとともに、歴史・文学・芸術を愛する教養人でもあり、文武に優れた藩主であった』。天保一五(一八四四)年、『領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた』(ここ)。『内憂外患の幕末動乱においては、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない』、天保一五(一九四四)年には『高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ』、弘化二(一八四五)年には『他藩に先駆けて』、『九十九里浜に砲台を建設』し、『さらには家臣のみならず』、『町民や農漁民を募り、オランダ式の部隊編成や練兵訓練を施して「加納の陣立て」と評判を呼んだ』。文久三(一八六三)年十一月に「真忠組(しんちゅうぐみ)の乱」(房総半島・九十九里浜片貝地方で蜂起した攘夷派の民間集団による決起)が『起こると、下総佐倉藩や多胡藩、陸奥福島藩と協力して』文久四(一八六四)年一月に『鎮圧するという功績を挙げた』とある。

「堀内」既に出た芥川龍之介をここ一の宮に誘った堀内利器。

「堀内村次」不詳。

「加藤藤内」不詳。

「おち方の峯の霞もほのぼのと櫻にあくる志賀の山越」元歌は定家の「櫻花ちらぬこずゑに風ふれて照る日もかをる志賀の山ごえ」か。

「立田川鹿のなく音のしげゝれば紅葉は枝にたへずやありけむ」同前で「龍田川紅葉亂れて流るめり渡らば錦中や絕えなむ」か。]

東京へかへつてからも何にもしない 折角肥つたのがやせやしないかとそれのみ心配してゐる 何でも烏啄骨の胸に接してゐる端より肩胛骨に接してゐる端の方が上つてゐればいゝのださうだ 下つてゐれば肺病で平ならば用心する必要があると云ふのだからおそろしい 鏡へむかつてみると僕のは平よりも少し上つてゐる位だ 君もやつて見給へ これが何でも一番確に呼吸器の强弱をみる方法なんださうだ 下の圖をみるべし

[やぶちゃん注:「烏啄骨」「うたくこつ」と読む。「烏口骨」(うこうこつ)とも呼ぶ。脊椎動物の肩帯にある骨。両生類・爬虫類・鳥類に発達し、哺乳類では退化して、肩甲骨の上部にカラスの嘴のように体側方向に突き出た烏口突起として残存する。]

Utakukotu

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集よりトリミングした。キャプションは、右が、「これがそれ」、左が、「より上つてゐればいゝのだ」である。]

僕は卒業論文に W. Moris をかかうと思つてるんで本をとりよせたいんだが戰爭でお斷りを食つてる 前にたのんだ本も來るか來ないかわからないさうだ 何より之が悲觀だ 事によるとプリラフアエライト ムーブメント全体にするかもわからないが

[やぶちゃん注:「W. Moris」イギリスの詩人・工芸家・思想家(マルクス主義者)ウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)。初め、建築家を志したが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで画家志望に転ずる。一八五〇年代の終わりには、広く生活環境の美化を目ざすようになり、一八六一年に知人たちとともに「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立(一八七五年には「モリス商会」となった)、壁面装飾からステンドグラス・家具・金工に至る室内装飾の一切に取り組んだ。一八七七年には最初の講演「装飾芸術」を行い、また、「古代建築保存協会」を設立するなど、対社会的なアピールが始まった。詩人としても、すでに「ジェイソンの生涯と死」(The Life and Death of Jason :一八六七年)などで知られていたが、文学に於けるその唯美主義的傾向は、工芸家としてのモリスの中世礼讃と交錯しつつ、やがては十九世紀文明への批判という形をとることになる。則ち、モリスが相対する社会とは、産業革命が招来した愚かしい機械の時代、そして貧富の差が極端な時代であった。日々の労働が創造の喜びに包まれたかつての時代を復興するため、彼としては社会変革にとりかかる必要があり、社会主義を宣言して政治活動に身を投じることになった。「ユートピア便り」(News from Nowhere :一八九〇年)はこの時期の文学作品である。工芸方面の仕事も多くの領域に亙って続けられたが、彼の仕事そのものが二十世紀に向けての工芸の道を切り開いたとは言い難く、多分に懐古的な傾向さえ見られる。しかし、一八八〇年代に入ってモリスの教えに刺激された各種工芸家の組織が形成され、近代デザイン運動の発端を開いた。この動きは「アーツ・アンド・クラフツ運動」(Arts and Crafts Movement)と呼ばれる。晩年は「ケルムスコット・プレス」を設立(一八九一年)、印刷・造本の仕事に没頭し、ここでケルムスコット版チョーサーとして知られる「カンタベリー物語」(一八九六年)などが印刷・製本された。モリスの思想は大正から昭和初期にかけて日本にも紹介され、各方面に大きな影響を与えた。柳宗悦(やなぎむねよし)らによる日本の「民芸運動」もモリスの理念の展開として捉えられる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」(『文藝消息』(大正五(一九一六)年六月三日発行)では「詩人ウヰリアム、モリス」とある)であったが、龍之介の執筆活動が盛んになった中、内容は「Young Morris」に縮小化された(卒論の完成は大正五年四月月末で、五月下旬に卒論の合格が出、六月六日に口頭試験、十五日に卒業試験が終わり、七月十日卒業した。卒業成績は二十人中二番であった。以上は新全集宮坂年譜に拠った)。なお、同論文は戦災で焼失し、残念ながら、現在、我々はその完成論文を読むことは出来ない。]

この頃フランシス上人の傳記を讀ながらよんでゐるが時々妙な事がかいてあるので面白くつていゝ 何でもフランシスと弟子のマセオと二人で旅をしてゐると道が三つになつてゐる所へ出た 一つはフイレンツエヘ 一つはシエナヘ 一つはアレツオヘゆく道である そこでマセオがどつちへ行かうと云ふとフランシスが己がいゝと云ふ迄小供のやうにどうどうめぐりをしろと云ふ それからマセオは一生懸命になつてぐるぐるまはつたがいつ迄たつてもフランシスがいゝと云はない 何度も眼がまはつて地びたへ倒れたが又立つてぐるぐるまはる とうとうしまい[やぶちゃん注:ママ。]にフランシスが「よし」と云つた時に顏がシエナの方へむいてゐたので 二人共そつちへゆく事にしたさうである これが神の示した方角だつてフランシスが云つてゐるが唯マセオが弱つたらうと思ふとおかしくなる 北伊多太利亞[やぶちゃん注:ママ。]の街頭で坊主がぐるぐる獨樂のやうにまはつてるのは誰が見ても滑稽にちがひない

[やぶちゃん注:「フランシス上人の傳記」小鹿原敏夫氏の論文「菊池寛『真似』について」(PDF・『京都大学國文學論叢』二〇一二年九月発行所収)によれば、この時、芥川龍之介が読んでいた聖フランチェスコの伝記は、『英訳されたサバティエの『聖フランチェスコ伝』(1912)か、カスパート著『アッシジの聖フランチェスコ伝』(1912)であったと思われる』とあった。]

新思潮の連中は成瀨と久米と菊池と山宮氏とはたつしやなんだらうと思ふ 豐島君は肺尖がよくなつたかどうかしらない 山本や土屋は多分旅に出てゐるんだらう 石田君が九州や木曾から二三枚たよりをよこした 谷森君も京都からたよりがあつた あとは誰が何をしてゐるんだかちつともしらない

いよいよ城下良平氏が京都へゆく。お世話になる機會があるかもしれないからよろしく願ふ 僕も來年の春休みには櫻をみにゆかうかと思ふ さうしたら僕もよろしく願ふ

[やぶちゃん注:「城下良平」(?~昭和四六(一九七一)年)は三中の芥川龍之介の三年後輩。大正二(一九一三)年卒。新全集の「人名解説索引」によれば、『一時』、『芥川の淡い同性愛の対象とされた』とある。]

田端のうちは十月初めに引こせる程度に出來た 二階の設計は君と二人で考へたのと大体同じだ 圖の如し

Tabataakutagawake2kai

[やぶちゃん注:同前。上図のキャプションは中央上が「書棚」、右手上から「壁」・「障子」、中央に「八疊」、下方中央に「廊下」、左上から「戸棚」・「板の間」、その左に「窓」、下方に「戶袋」。下図は上の左部分の側面立体図であろう。]

炬燵もきつた 今年の冬やすみに東京でお正月をするといゝ 今度は今よりひろいから君がゐるのにも萬事に大分便利だ 二階が二間あるから一間づゝ一人でゐる事が出來る

シユレーデルさんの奧さんの事が朝日に出てた 日本の子供をよくそだてゝてえらいと云ふだけにすぎない ユンケルはどうしたかわからない あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう

オイケンがこなくなつたので三並さんもがつかりしたらう

[やぶちゃん注:「シユレーデル」ドイツ人牧師エミール・シュレーデル(Emil Schroeder)。新全集の「人名解説索引」によれば、『普及福音新教伝道会教師』で、明治四一(一九〇八)年に『来日』し、『小石川上富坂町に』、三田の統一教会牧師で一高のドイツ語教師でもあった『三並良』(みなみはじめ)『の協力を得て』、『日独学館寄宿舎を開設した』人物で、『井川恭』・『長崎太郎』・『藤岡蔵六らが寄宿しており』、『芥川もたずねたことがある』とある。]

「ユンケル」既出既注。「あいつは愛國家だからこんな時に困るだらう」ドイツが一九一四年七月二十八日に勃発した第一次世界大戦で、本邦は八月二十三日、ドイツと国交を断絶していた。

「オイケン」ドイツの新理想主義の哲学者ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。既出既注。筑摩全集類聚版脚注に、『来日予定だったが、世界大戦が起こり』、『中止となったことをさす』とある。

 この後は一行空けとなっている。]

 

最後に別封小包は君の妹さんに差上げて頂きたい もつとずつと早く送るのだが君が京都や土佐にゐたのでかへるのを待つてゐたのだ ずつと早くではわからないかもしれない いつか綿を頂いた時に差上げるつもりで買つて來ておいたのだ つまらないものなんだからお禮なんぞ云つて來ちやあいけない 勿論僕の家から差上るので僕からぢやあない

  ユンケル先生を憶うてうたへる

    先生の忠實なる門弟 壽陵余子

今ぞかも頭禿げたるユンケルはゆたにたゆたにものおもふらむ

ユンケルよ時こそ來ぬれ「ラインヘ」の歌高らにうたひ出よかし

國がため思ひなやせそ帶皮もカラアもゆるくなりにけらずや

眉目(まみ)靑く頭禿げたる獨乙びとその獨乙びと見ればかなしも

日本に住みもはつべき望さへあちこちとしもなりにけらしな

[やぶちゃん注:最後の部分(前書と短歌)は全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて引き上げた。「先生の忠實なる門弟 壽陵余子」は前書の下方に九字下げで配されてある。太字「あちこち」は底本では傍点「○」である

「壽陵余子」芥川龍之介の号の一つ。既注であるが、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの。リンク先は私の電子化注)を参照されたい。]

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