伽婢子卷之三 妻の夢を夫面に見る
伽婢子卷之三
○妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る
周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまたの)與兵衞が妻は、室(むろ)の泊(とまり)の遊女なりしが、濱田、これを見そめしより、わりなく思ひて、契り深く語らひ、つひに迎へて本妻とす。
かたち、うつくしく、風流(ふうりう)ありて、心ざま、情(なさけ)深く、歌の道に心ざしあり。
手も、うつくしう、書きけるが、然るべき前世の契りにや、濱田が妻となり、互に妹脊の語らひ、此世ならずぞ、思ひける。
主君義隆、京都將軍の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ、久しく都に逗留あり。濱田も、めしつれられ、京にありけり。
妻、これを戀て、間(ま)なく時なく、待ちわび侍べり。
比は八月十五夜、空くもりて、月の見えざりければ、
おもひやる都の空の月かげを
いくへの雲かたちへだつらむ
と、うちながめ、ねられぬ枕を、ひとり、傾(かたふ)けて、あかしかねたる夜を恨み、臥したり。
其日、義隆、國にくだり給ひて、濱田も、夜、更(ふく)るまで、城中にありて、漸(ようや)く、家に歸る。
その家は惣門(そうもん)の外(そと)にあり。
雲、おほひ、月、くらくして、さだかならざりける道の傍ら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに、幕、打まはし、燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかり、今宵の月にあこがれ、酒宴する、と見ゆ。
濱田、思ふやうは、
「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人〔たれぴと〕か、こよひ、こゝに出〔いで〕て遊ぶらん。」
と恠しみて、ひそかに立寄り、白楊(やなぎ)の一樹(き)繁げりたる間に、隱れてうかゞひ見れば、わが妻の女房も、その座にありて、物いひ、笑ひける。
「是は。そも如何なることぞ。まさなきわざかな。」
と怨み深く、猶、その有樣をつくづくと見入たり。
座上にありける男、いふやう、
「如何に。こよひの月こそ殘り多けれ、心なの雲や。是に、など、一詞(〔ひと〕ことば)のふしも、おはせぬか。」
といふ。
濱田が妻、辭しけれども、人々、しひて、
「哥〔うた〕、よめ。」
と、すゝむれば、
きりぎりす聲もかれ野の草むらに
月さへくらしこと更になけ
と、よみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれに思ひつゝ、淚をながす。
座中の人は、さしも、興じて、さかづきを、めぐらす。
かくて、十七、八と見ゆる少年の前に、さかづきあれども、酒を受けざりしを、座中、しひければ、
「此女房の哥あらば、飮(のみ)侍らん。」
といふ。
女房、
「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」
といふに、きかず。
さて、かくなむ。
ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞ
わかきも年はとまらぬものを
さかづき、あるかたにめぐりて、濱田が妻に、
「又、歌うたひ給へ。」
といふに、今樣一ふしを、うたふ。
さびしき閨(ねや)の獨ねは
風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや
そよぐにつけて音づれの
絕ても君に恨はなしに
戀しき空にとぶ雁に
せめて便りをつけてやらまし
その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて、
螢火穿二白楊一
悲風入二荒草一
疑是夢中遊
愁斟二一盃酒一
[やぶちゃん訓読文:底本には結句に返り点がないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元禄本で補った。承句は底本の読みは『うたがふらくはこれむちうのあそび』であるが、気に入らないので、手を加えた。
*
螢火(けいくわ)は白楊(はくやう)を穿(うが)ち
悲風 荒草(くわうさう)に入る
疑ふらくは 「是れ 夢中の遊びか」 と
愁へ 一盃の酒を斟(く)む
*]
と吟詠するに、
「いかで今宵ばかり夢なるべき。すべて、人の世は、皆、夢なるものを。」
とて、濱田が妻、そゞろに淚を流す。
座上の人、大〔おほき〕に怒りて、
「此座にありて、淚を流す、いまいましさよ。」
とて、濱田が妻に、盃を投げかけしかば、額にあたる。
妻、怒りて、座の下より、石をとりだし、投(なげ)たりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血、走りて、流るゝ事、瀧のごとし。
座中、驚き、立騷ぐか、と見えし。
ともしび、消えて、人もなく、唯、草むらに、蟲のみぞ、殘りたる。
濱田、大に怪しみ、
「さては、我妻、むなしくなりて、幽靈の顯れ見えけるか。」
と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻は臥してあり。
「如何に。」
と驚かせば、妻、起あがり、喜びて語るやう、
「餘りに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり、草むらに酒飮み遊びて、歌を望まれ、其中にも、君のみ戀しさをよそへて、うたひ侍べり。座上の人、みずからが淚を流す事を忌みて、盃を投げかしを、みずから、石を取(とり)て、打ち返すに、座中、さはぎ立〔たつ〕、と覺えて、夢、さめたり。『盃の額に當りし』と覺えしが、夢、さめて、今も頭(かしら)の痛くおぼゆ。」
とて、歌も詩も、
「かうかう。」
と語る。
白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少しも、違はず。
濱田、つらつら思ふに、
『白楊陰(やなぎかげ)に隱れてみたりし事は、我妻の夢のうちの事にてありける。』
と、なむ。
[やぶちゃん注:詩歌は総て前後を一行空けた。「今樣」(室町小歌。後注参照)は句分けを並列させた。
「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易し、また、フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与えた。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃した。
「濱田與兵衞」不詳。
「室(むろ)の泊(とまり)」旧兵庫県揖保郡室津(むろつ)村、現在の兵庫県たつの市御津町室津(みつちょうむろつ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。播磨灘に面する港町。湊町として実に約千三百年もの歴史を持ち、奈良時代に行基によって五つの湊が整備され、江戸時代には栄華を極め、宿場町としても栄えた。近代に至るまで多くの文人墨客を魅了した景勝地でもある。
「わりなく」この上もなく。どうしようもないほどに。
「此世ならずぞ、思ひける」の主語は二人である。二世・三世の契りの意を添えて、相思相愛のさまを言う。
「將軍」室町幕府第十二代将軍足利義晴(永正八(一五一一)年~天文一九(一五五〇)年/在職:大永二(一五二二)年~天文一五(一五四七)年)。義澄の子。細川高国に擁立されて将軍となったが、実権がなく、その後、三好氏に圧倒され、しばしば近江国に逃れ、天文十五年に将軍職を長子義輝に譲り、四年後に病死した。
「主君義隆、の召によりて上洛し、正三位の侍從兼(けん)太宰(だざいの)大貳に補任せられ」「新日本古典文学大系」版脚注に、義隆の『正三位昇位は』「本朝将軍記」では、『天文十六年二月』『とするが』、「公卿補任」『では天文十五年』とあるとする。前者では、義晴が将軍職を退いており、史実に合わない。後者ならば、義晴の譲位は天文十五年十二月(一五四七年一月)であるから、問題ない。
「間(ま)なく時なく」絶える間もないほどに。
「おもひやる都の空の月かげをいくへの雲かたちへだつらむ」岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)では、「新葉和歌集」の『巻三に「菖蒲ひく今宵ばかりや思ひひやる都も草の枕なるらむ」とあり、そのすぐ後に「君があたり幾重の雲か隔つらむ伊駒の山の五月雨の頃」の歌がある』。この『傍線部を合せて、新作した歌であろう。旅の夫を恋』慕う『歌で、歌意は、「都の夫をしのんで月を見ようとしたが、その月さえ、多くの雲がおしつつんで見せてくれないことよ」。』とある。
「比は八月十五夜」仮に天正十五年のこととするならば、ユリウス暦一五四六年の九月九日、グレゴリオ暦換算で九月十九日に当たる。
「城中にありて」大内氏の居館(守護館)であった大内氏館は現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)附近にあった。浜田与兵衛は重臣の一人であるから、その居館の「惣門(そうもん)」(居城外郭の表大門)の外のごく近くに住まいを構えていたのである。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『大内氏の惣門は、館跡の南』西『方』の『下堅小路』(しもたてこうじ。ここ)と『久保小路』(下堅小路の南。ここ)『の交わる辺りに位置した。門以南が町地であった』とあるから、浜田の屋敷はこの附近にあったか。
「國主歸り給ひ、家々、喜びをなす。誰人か、こよひ、こゝに出て遊ぶらん。」「国主様がお帰り遊ばされて、民草は家々で心静かにそれを喜んでおる。にも拘わらず、それを『我、関せず』のふうを見せて、浮かれ出ておる! これ、一体、何者が、かくも、御城の近くにて、無礼にも遊びほうけておるのか!?!」と、甚だ「恠」(あや)しみ、憤っているのである。
「白楊(やなぎ)」ここは挿絵からも通常のキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica ととってよい。
「まさなきわざかな」「国主の足下であってはならない濫り事じゃ!」。
「など」「どうして」「何故に」。ここは反語である。
「一詞(〔ひと〕ことば)のふしもおはせぬか。」「この残念なる景色のさまに対し、どうして、誰も、歌の一つなりと、ものさぬとは、これ、いかがなものか?」。
「きりぎりす聲もかれ野の草むらに月さへくらしこと更になけ」「かれ野」は「聲も嗄(か)れ」と「枯れ野」に、また、「かれ」は「枯れ」に「離(か)れ」も掛けられている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これは原拠である「五朝小説」に所収されてある「夢遊録」の中の「張生」の『原話の張生の妻の』詠んだ詞の『翻案歌』であるとされる。』「五朝小説」は明代に編集された伝奇・志怪小説の叢書で、魏・晋・唐・宋・明のそれらが収められているもので、「伽婢子」の原拠としては、最近になって判ったものである(「新日本古典文学大系」の解題に拠る)。私は基本的に本書の原拠考証には手を出さない(手を出すと、注がエンドレスになるからであり、そもそも私は私の奇体な怪奇談集蒐集癖に従って成しているのであって、学術的なものとして本電子化注を目指そうなどとはさらさら思っていないからである。関心のある方は「新日本古典文学大系」版で詳細に考証されてあるので、そちらを参照されたい)つもりだったが、ここはそこを少しだけ覗き見しておく。原拠のそれは、「中國哲學書電子化計劃」のここで電子化されており(但し、本サイトは校訂を経ていない機械判読の電子化がそのまま出されてあり、とんでもない誤判読が頻繁にあるので注意。ここでもそれがシッカリ恐ろしくある)、そこでは影印本も見ることが出来る(これ)。さて、この短歌の原拠となったそれは、
*
衰草絡緯聲切切
良人一去不復還
今夕坐愁鬢如雪
*
である。本篇の原拠との精密な対比分析が行われてある花田富二夫氏の論文「近世初期翻案小説『伽婢子』の世界 〈遊女の設定〉」(PDF)の冒頭に、本話の全編の訓読文が載るので、それを参考に訓読すると、
*
衰草(すいさう)に歎ずる絡緯(たくゐ)の聲 切切たり
良人 一(ひと)たび去つて 復た還へらず
今夕(こんせき) 愁ひに坐して 鬢(びん) 雪のごとし
*
「衰草」は枯れかけた弱った草でいいが、「絡緯」は一筋繩ではいかない。これは、漢籍に出るのであるからして、現代の中国と同じく「広義のキリギリス」を指すが、現行では、
◎直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Tettigoniinae の中国産種
であって、本邦のキリギリス
○キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリスGampsocleis buergeri (近畿地方から九州地方に棲息)
及び、
○ヒガシキリギリスGampsocleis Mikado (青森県から岡山県に棲息。詳しくは「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」私の注を参照)
とは全く異なり、本邦の、キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリTettigonia orientalis と同属の
◎Tettigonia chinensis などが「中国のキリギリス」
であるようである。
「でも、ここは山口が舞台なんだから、ヒガシリキリギリスでええんでないの?」
という方がいるかも知れないが、それはさても――致命的に二重に――誤っている。
一つは、彼女は兵庫の室津の遊女だったからで、仮にここで鳴いているは確かにニシキリギリスであっても、
彼女のイメージの中のそれはヒガシキリギリスのそれである可能性が高い
という仮定に加え、さらに困ったことに、実は、
彼女だけではなく、作者の浅井了意や出版当時の江戸時代の読者全員が、この「きりぎりす」を現在のキリギリスではなく、現在のコオロギだと認識していたというとんでもない大問題
が後に控えているからなのである。先リンク先の私の注の最後を見て戴きたいのだが、
「きりぎりす」は古典文学研究者の間では、まことしやかに、一律に――「きりぎりす」は「キリギリス」ではなく、「こほろぎ」、則ち、現在の蟋蟀(コオロギ)だ――とされている
からなのである。
但し、私は、この、生物学に疎い上に頭の硬い非博物学的な文学者が、明治になって突如、《「鈴虫」相互交換「松虫」説》と一緒に、伝家の宝刀の如く、この《「螽斯」相互交換「蟋蟀」説》をぶち上げたことを致命的な誤りと考える人種である。それについては、「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」で芥川龍之介の「羅生門」の『唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる』を例に、硬直したアカデミズムが如何なる誤った見解を教育で植え込んでいたかを指弾してあるので、そちらを見て戴くこととし、ここでは繰り返さない。
個人的には、確かに、ある種の和歌の中で「きりぎりす」の鳴き声とあるのは、あの、やや喧(やかま)しく感じるキリギリスのそれよりも、ある種の淋しさをも感じさせる「こおろぎ」の方が相応しいと感覚的に感ずるケースは、ままある。しかし、それも私の個人的な感性上のものに過ぎないであって、近世までの標準的日本人の一般的な秋の虫に対する汎日本的な感じ方が、今の私の感じ方と全く同じであったなどとは、毫も思いはしない。ただ、では、どこぞの学者先生の誰かの意見こそ絶対に正しいというわけにも、これ、ならないのは明白である。則ち、この論争や同定比定に決着をつける者は未来永劫、出てこないということである。さすれば、この本篇の和歌の「きりぎりす」は、
○直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ亜科 Gryllinae に属するコオロギ類
である可能性もまた、どうしても挙げねばならないということなのである。
「さしも」その歌のなんともしみじみとした風情に。
「しひければ」「强ひければ」。
「一首こそ、思ふ事によそへても、よみけれ、免し給へ。」「先ほどは『一首だけ』とのことなればこそ、気ののらぬままに、仕方なく、今の私の憂えた心にことよせて、詠んだまでのことですのに、もう、どうか、まず、ご勘弁下さいまし。」。
「さて、かくなむ」そこで、仕方なく、次のように詠んだ。
「ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、
*
落花徒繞枝
流水無返期
莫恃少年時
少年能幾時
*
落花 徒(いたづ)らに 枝を繞(めぐ)り
流水 返るに 期(とき)無し
恃(たの)む莫(な)かれ 少年の時
少年 能く幾時(いくばく)ぞ
*
である。
「さかづき、あるかたにめぐりて」盃の酒がその場にある会衆方総てに一巡したところが。
「今樣」ここは平安末のそれではなく、室町時代に上方を中心に流行した「室町小歌」。「小歌」とは本格的で伝統的な歌曲「大歌(おおうた)」に対して、民間で歌われる世俗的な歌謡や「猿楽能」や「田楽能」の「謡(うたい)」及び「狂言小歌」などを指す。永正一五(一五一八)年にはこの「小歌」に関する最も古い文献である「閑吟集」(作者はある「桑門」(遁世者)とあるのみで未詳。三百十一首を収録)が成立している。詩型は「七五七五」形・「七七七七」形・「七五七七」形など、雑多。「狂言小歌」の中には、当時、流行していた歌謡を劇中歌の形でそのまま取り入れたものもある(以上は主文を「文化デジタルライブラリ―」のこちらに拠った)。
「さびしき閨(ねや)の獨ねは 風ぞ身にしむ荻(をぎ)はらや そよぐにつけて音づれの 絕ても君に恨はなしに 戀しき空にとぶ雁に せめて便りをつけてやらまし」同前なので同じ仕儀で示す。原話のそれは、
*
怨空閨
秋日亦難暮
夫婿斷音書
遭天鴈空度
*
空閨を怨み
秋日 亦 暮れ難し
夫婿(ふせい) 音書を斷ち
遙天の鴈(がん) 空を度(わた)る
*
後の二句とインスパイアされた「今樣」も蘇武の「雁書」(がんしょ)の故事を示し、それが「その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、打淚ぐみて」を引き出すようになっている。
「螢火穿白楊……」の五言絶句は原拠に従うが、結句が改変されてある。原拠のそれは、
*
螢火穿白楊
悲風入荒草
疑是夢中遊
愁迷故園道
*
「愁迷故園道」は「愁ひて迷ふ 故園の道」。「故園」は故郷に同じ。しかし、またしても了意の改変は、前例と同様、漢詩を弄ることに於いて初歩的な致命的なミスを犯している。鉄則の押韻が「酒」では「草」と合わないのである。
「そゞろに」感極まって。ひどく。「何とはなしに」の意もあるが、このシークエンスには前の意の方がよい。
「驚かせば」眼を醒まさせたところが。
「みずから」二箇所ともに自称の一人称。]
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