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2021/05/31

大和本草諸品圖上 ムヅヲレ草 (ムツオレグサ)

 

Muzuworegusa

 

ムヅヲレ草

 似ㇾ葦穗狗尾草

  根及莖淡紅

 

 莖高三尺許味淡甘

○やぶちゃんの書き下し文

むづをれ草

葦に似て、穗は狗尾草〔(ゑのころぐさ)〕に似る。根及び莖、淡紅。莖〔の〕高さ三尺許り。味、淡甘。

[やぶちゃん注:底本の底本としている中村学園大学図書館」の「大和本草」の「目次」を見ると、『ムヅヲレ草(みのごめ、むつをれぐさ)』としてある。但し、本巻に独立項としては存在しない。而してこれは、

単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ亜科ドジョウツナギ属ムツオレグサ亜種ムツオレグサ Glyceria acutiflora subsp. japonica

のことと判明した。当該ウィキによれば、『平地の湿地に生えるもので、時に水中にも生える』。『池の縁などでも見られるが、水田にもよく出現』し、『水田や溝などにもよく』見かけ、『本種のように水辺、あるいは水中に生えるイネ科で、円柱形の小穂が主軸にぴったり寄り添って』、『一見では総状に見える、というものは他に例が少な』いとあることから、採用することとした。『広がって生える多年生の草本』で、『全体に毛がない。稈の基部は地表を這って節毎に根を下ろし、その長さは』七十センチメートル『にも達することがある。稈の先の方は立ち上がり、葉身のある葉を付ける。立ち上がった茎は高さ』五十センチメートル『程度になる』。『葉の基部の鞘は完全な筒型で、その先端にある葉舌は高さが』三~五ミリメートルで、『幅より高さが勝り、白色膜質で』、『よく目立つ。葉身は長さ』十~三十センチメートル、幅三~六ミリメートルで、『扁平で、柔らかく』、『ほぼ滑らか』である。『先端は急に狭まって終わる』。『花期は』五~六月で、『花序は茎の先端に出て』、『長さは』十~三十センチメートル『あるが、その基部は葉鞘に包まれる。花序は円錐花序で、小穂が』八~十五『個ほどある。細長い小穂には長い柄があるが、それらすべて外向きに広がることがなく、花序の主軸に張り付くように伸びているので、一見では総状花序に見える。小穂は円柱状で長さ』二・五~五センチメートルで、『全体に淡緑色をしており』、八~十五『個の小花が左右交互に整列している。小穂の基部にある包頴は小さ』い。『和名は『六つ折れ草』の意で、小穂が熟すと』、『小花がばらばらに脱落する様子による』。『また』、『別名にミノゴメがあり、これはかつて飢饉などの際に食用とされたことによる』。但し、『「ミノ」の意味は不明である』。『なお、ミノゴメの名は』イネ科カズノコグサ属『カズノコグサ Beckmannia syzigachne の別名としても使われるので注意を要するが、牧野原著』『によると、カズノコグサの小穂は大きいが、これは包頴が膨らんでいるためで』、『中に収まる種子はとても小さくて食用となり得ず、従って「ミノゴメ」の名は本種のものだ、としている』(ということは「蓑米」或いは「実の小米」の略か。但し、ウィキの「カズノコグサ」には『ミノゴメは、平安時代の七草のうちの一つ「葟(みの)」のことで食用になる』とある)。『他にこの書ではタムギと言う別名も拾っており、これも食用になるとの意であるという』。『日本では北海道(希)、本州、四国、九州から琉球列島まで分布し、国外では朝鮮、中国中南部まで知られる』。『種としての分布は北アメリカまであり、基亜種のタイプ産地はアメリカのニューヨーク州と』いう。『その茎は、秋には株元から』二、三『本の枝を出し、往々に水面に浮かんで冬を過ごし、春になると』、『更に分枝をしながら』、『横に這い、その各節から根と茎を出し、伸びだした茎葉立ち上がって』五十センチメートル『程度になって花序を出す』。『本種の属するドジョウツナギ属には』、『北半球の温帯域を中心として約』四十『種が知られ、日本からは』七『種ほどが知られている』が、『多くのものは』、『円錐花序が散開するので』、『見た目が大きく異なる。その点で似ているのはウキガヤ G. depauperata である』とある。なお、この「ムヅヲレ草」の下方には、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示すと、「赤頭(〔アカ〕カシラ)」とあって、『荒田ニ生ス一窠灌生葉赤色不可食』というキャプションを持つ図が載り、一見、荒れた湿地か休耕田にでも生えているような根を露わに描いた絵が載るのであるが、この『荒田』(こうでん)とは広義の「荒地」の意で、田ではなく、これは双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum の異称であって、同種は調べる限り、水族ではないので、採用しなかった。因みに、アカザを「食ふべからず」というのは厳密には誤りではない。当該ウィキによれば、『葉は茹でて食べることができ、同じアカザ』亜『科のホウレンソウ』(ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科Chenopodioideae ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea )『によく似た味がする』。『茶として飲まれることもあ』り、また、『種子も食用にできる』。『「藜の羹(あつもの)」は粗末な食事の形容に使われる』とあるものの、ホウレンソウと同じく、多量に摂取すると、結石を起こす『シュウ酸を多く含むため』、『生食には適さない』とあるからである。

「狗尾草〔(ゑのころぐさ)〕」ご存知「ネコジャラシ」、穀物の粟(エノコログサ属アワ Setaria italica )の原種とされるイネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属エノコログサ Setaria viridis のこと。]

日本山海名産図会 第三巻 若狹小鯛・他州鯛網

 

  ○同小鯛(こだい)

是れ、延縄(はへなは)を以て、釣るなり。又、「せ縄」とも云。縄の大(おほ)さ、一据(にきり)許り、長さ一里許り。是に一尺許りの苧絲(おいと)に、針を附け、一尋一尋を隔てゝ、縄に列ね附けて、兩端に、樽の泛子(うけ)を括(くゝ)り、差頃(しはらく)ありて、かの泛子を目當に、引きあぐるに、百糸(ひやくし)百尾(ひゃくび)を得て、一も空(むな)しき物、なし。飼(ゑ)は鯵・鯖・鰕(ゑび)等なり。同しく淡乾(しほゝし)とするに、其味、亦、鰈(かれ)に勝る。○鱈(たら)を取るにも、此法を用ゆ也。ところにては、「まころ小鯛」と云ふ。

[やぶちゃん注:「同小鯛」は前の「若狹鰆」の附録であるため。「小鯛」はスズキ目スズキ亜目タイ科マダイ亜科チダイ属チダイ Evynnis tumifrons のこと。標準和名の「チダイ」は「稚鯛」ではなく、「血鯛」である。詳しくは私の『畔田翠山「水族志」 (二) チダヒ (チダイ・キダイ)』を参照されたい。

「延縄」(はえなわ)は日本古来の漁具で、その発祥は古く、記紀にある「千尋縄(ちひろなわ)」は、現在の延縄の原形であると考えられている。延縄は一本の縄に多数の「枝(えだ)縄」を結び附け、その先端に釣針を取り付けて魚類を釣り上げる構造で、漁獲対象とする魚種の生息水深によって「浮(うき)延縄」と「底(そこ)延縄」に大別される(ここは前者)。「浮延縄」が潮流に流されるままに漁具が移動するのに対し、「底延縄」は海底に錨などで漁具を固定して底生魚類を漁獲対象とする。延縄一組の漁具は、一本の「幹(みき)縄」、釣針を着装した数本から数十本の「枝縄」、及び、「浮子(あば:浮子玉)」を取り付ける「浮縄(うけなわ)」によって構成されており、この総て一組の漁具を「鉢(はち)」と呼び、一般に「浮子玉」間の間隔を「一鉢(ひとはち)」と呼んで漁具の単位としている。これは従来、延縄を約三百メートルごとに籠に収納していたことから、延縄の単位を「一鉢」・「二鉢」と数えたことに由来する。一回の操業に数鉢から数百鉢を用いる。漁具を設置するときは、船を一定針路に保ち、全速で航走しながら、船尾甲板から「大ボンデン」(大旗)、「浮子玉」、「ボンデン竿(ざお)」、「浮縄」、「幹縄」、「枝縄」の順に投入する。漁具投入後、約三、四時間ほど待機(「縄待ち」)してからの「揚縄(あげなわ)」の作業を行う。従来は一鉢ごとに延縄を分離した。延縄漁具の内。「幹縄」・「枝縄」・「浮縄」には、従来は藁・麻類・綿などの天然繊維が用いられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「せ縄」不詳。配置した場所の「瀨繩」か、或いは浮子が海上に並ぶのを「背繩」と言ったものか。

「一据(にきり)」「一握り」。

「苧絲(おいと)」「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ:双子葉植物綱バラ目アサ科アサ属 Cannabis )や苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを広く指す。

「一尋」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。

「泛子(うけ)」「浮き」。

「淡乾(しほゝし)」軽く塩を振って一夜干しにすること。

「鰈」前条参照

「鱈」広義のタラ類(条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae の総称)。詳しくは、私の「大和本草卷之十三 魚之下 ※魚(「※」=(上)「大」+(下:「大」の二・三画目の間に)「口」の一字) (タラ)」を参照。

「まころ小鯛」不詳。ただ、タイ科 Sparidaeではないが、スズキ目スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta がおり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコロダイのページに、「胡廬鯛」と漢字表記を示されて、『「ころだい」は和歌山県での呼び名を標準和名にしたもの。和歌山県では猪の子供を「ころ」と呼び、コロダイの稚魚にある斑紋がその猪の子供のものに似ているため』とある。ただ、このコロダイはタイっぽい面構えながら、如何にも「イサキ」色である。されば、私は、これは「眞胡廬(或いは小さいことを意味する「ころ」)小鯛」で、小型のチダイの異称かと推定する。]

 

Taihuriami
Taigotiami

 

[やぶちゃん注:ともに国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは上図が、「讃刕榎股 鯛𢸍網之次第(たいふりあみのしたい)」、下図は「鯛五智網(たいこちあみ)」。]

 

○他州鯛網

畿内、以て、佳品とする物、明石鯛・淡路鯛なり。されとも、讃州榎股(ゑまた)に捕る事、夥し。是れ等、皆、手操䋄(てくりあみ)を用ゆ。海中、巖石多き所にては、「ブリ」といふものにて追ふて、便所(べんしよ)に湊(あつ)む。「ブリ」とは、薄板(うすいた)に糸をつけ、長き縄に、多く列らね付け、䋄を置くが如し。ひき𢌞すれば、「ブリ」は水中に運轉して、木(こ)の葉の散亂するが如きなれば、魚、是れに襲はれ、瞿(く)々として、中流に湛浮(たゞよ)ひ、「ブリ」の中真(ついしん)に集まるなり。此の縄の一方に、三艘の舩を兩端に繋(つな)く。初め、二艘は、乘人(のりて)三人にて、二人は縄を引き、一人は樫の棒、或、槌(つち)を以て、皷(う)ちて、魚の分散を防ぐ。此の三艘の一ツを「かつら舩」といひ、二を「中舩(ちうふね)」と云ひ、先に進むを「䋄舩」といふ。「䋄舟」は乘人(のりて)八人にて、一人は麾(さい)を打ち振り、七人は艪を採る。又、一艘、「ブリ縄」の真中の外に在りて、縄の沉まざるが爲め、又、縄を付け副へて、是れをひかへ、乘人三人の内、一人は縄を採り、一人は艪を採り、一人は麾を振りて、能(よ)き程(ほど)を示せば、先に進みし二艘の䋄船、「ブリ縄」の左の方より、麾を振りて、艪を押し切り、「ひかへ舟(ふね)」の方へ漕ぎよすれば、「ひかへ舟」は「ブリ縄」の中をさして、漕ぎ入(い)る。「䋄舟(あみふね)」は、縄の左右へ分かれて向ひ合せ、「ひかへ縄」のあたりより、「ブリ縄」にもたせかけて、䋄を、「ブリ」の外面(そとも)へ、すべらせ、おろし、彌(いよいよ)双方より曳けば、是れを見て、初め、両端の二艘、縄を解き放せば、「ひかえ舟」の中へ、是れを、手(た)ぐりあげる。跡は、䋄のみ、漕ぎよせ、漕ぎよせ、終(つい)に䋄舟二艘の港板(みよし)を遺(や)りちがへて、打ちよせ、引きしぼるに、魚、亦、涌くがごとく、踊りあがり、䋄を潛(かつ)きて、頭を出し、かしこに尾を震(ふる)ひ、閃々(せんせん)として、電光に異(こと)ならず。漁子(あま)、是れを儻䋄(たまあみ)をもつて、「小取舩(ことりふね)」へ※(す)[やぶちゃん注:「※」=(上)「罒」+下「窠」。ルビは「すく」(掬)の脫字であろう。]ひうつす。「小取舩」は乘人三人、皆、艪を採りて、礒(いそ)の方(かた)へ漕ひで、よするなり。かくして捕るを、「ごち䋄」と云ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本一字半下げ。]

右「フリ縄」の長、凡、三百二十尋。大䋄は十五尋。深さ、中(なか)にて八尋。其次ぎ、四尋、其の次ぎ、三尋なり。上品の苧(お)の、至つて細きを以て、目(め)は指七さしなり。「アバ」あり、「泛子(うけ)」なし。重石(いわ)は、竹の輪を作り、其の中へ、石を加へ、糸にて、結(ゆ)ひ付けて、鼓(つゝみ)のしらべのごとし。尤も䋄を一疊・二疊といひて、何疊も繼き合せて、廣くす。其の結(むす)ひ繋ぐの早業、一瞬をも待たず。一疊とは幅四間に、下垂(あみし[やぶちゃん注:底本の字は「グリフウィキ」この字にごく近いので、それで示した。「あみした」の脱字か。])十間ばかりなり。

[やぶちゃん注:以下は底本二字半下げ。]

○「蛇骨(じやこつ)」と号(なづ)くる物、同國白濱に多し。故に、まゝ、此の「ごち䋄」に混じ入りて得ること、多し。

[やぶちゃん注:以下、字下げなし。]

○比目魚(ひもくぎよ)と云ふは鰈(かれ)の惣名なり。「本草」、「釋名」、『鞋底魚』と云ふは、「ウシノシタ」、又、「クツゾコ」と云ひて、種類なり。「鰈」の字、これに適(かな)へり。「若狹蒸鰈(わかさむしかれ)」のことは、「大和本草」に、悉(くわ)しく、いへり。東國にては「ヒラメ」と云。

○鯛は「本草」に載せず。是れ亦、「大和本草」に悉し。故に畧す。「鯛」の字、此魚に充てて、つたへしこと、久しけれとも、是れ「刺鬣魚(きよくれうぎよ)」を正字とす。「神代卷」に『赤目』と云う。又、「延喜式」に『平魚(へいきよ)』と書きしは「タヒラ」の意なり。中にも「若狹鯛」は「ハナヲレ」、又、「レンコ」といひて、身、小にして、薄し。色、淡黃(たんくわう)にして、是れ、一種なり。「ハナヲレ」の義、未だ詳らかならず。他國の方言に「ヘイケ」、又、「ヒウダヒ」といふも、ともに「平魚」の轉なるべし。「萬葉」九「長歌」、

 水の江の浦島が子が堅魚(かたを)つり鯛(たい)つりかねて七日まて下畧䖝丸

[やぶちゃん注:「讃州榎股(ゑまた)」この地名、探し倦んだが、個人ブログ「瀬戸の島から」の「紀州漁民に鯛網漁を学んだ香西漁民?」で氷解した。これは地名ではなく、海域名で、香川県高松市亀水町の大槌島(おおづちじま)と、香川県高松市香西本町などの沖の香西浦の間にある「榎股」という漁場名であった。この中央附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ブログ主は最後の方で『榎股というの』は『高松市生島沖の海で』ある、と述べておられる。「生島」はここだから(地図中央上にあるのが「大槌島」)、もっと限定して後者の中央附近の海域と断定出来よう。

「便所(べんしよ)」捕獲するに最も適した海上のこと。

「湊(あつ)む」底本では「グリフィスウィキ」のこの漢字であるが、「湊」の異体字なので、代えた。「集む」に同じ。

「ブリ」漢字表記は挿絵で判る。「𢸍(ぶり)」である。海中を引き回して振動させて嚇す意味であろう。

「瞿(く)々」驚き慌てているさま。

「中流」海の中層の意か。

「中真(ついしん)」「ブリ網」の真ん中の意であろう。

「かつら舩」後方中央で全体を見回して必要な指示を出す「頭船」(かしらふね)の意か。

「麾(さい)」既出既注

「縄の沉まざるが爲め、又、縄を付け副へて、是れをひかへ」折角、追い込んだ鯛が逃げように、縄に補助縄を結んで、外に向かって引き、側面の縄が沈まないようにすることであろう。

「ひかへ舟(ふね)」「控へ舟」。補助舟。

「ひかへ縄」延縄の辺縁の繩か。

「潛(かつ)きて」「かづきて」。「潛(かづ)く」で「潜る」の意。但し、ここは網から逃げようと水中で上下して暴れることを言っている。

「儻䋄(たまあみ)」攩網(たもあみ)。図に柄のついたそれが、多数、描かれてある。

「小取舩(ことりふね)」最終的な鯛を掬い揚げて搬送する舟。

「ごち䋄」サイト「サカマ図鑑」の「吾智(ごち)網漁業」に、現在の漁法がイラスト入りで紹介されてあり、『楕円形の一枚の網と、その両端に結びつけたひき綱で、包囲形をつくり、それを狭めて魚類を威嚇して網に追い込み、網目に刺させたり、からませてとる漁業で』、『「吾智網」(ごちあみ)とは、潮の流れや魚の習性、漁場などを知り尽くしたベテラン漁師』『ならではの漁法で、「吾智」という名前の由来は、「吾」の「智恵」が必要という仏教用語に由来していると言われて』おり、『それだけ、漁に精通している者でしか行えないという』意味とある。それを、ここでは、かくも、複数の船と漁師で複雑乍ら、巧妙にし遂げるわけで、まさに「吾智」或いは「五智」(大日如来が備え持つとされる五種の智恵の総称。密教では法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の五つとし、浄土教では仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智の五つとする)が如何にも腑に落ちる。

「フリ縄」「ブリ縄」。

「三百二十尋」先の長い方で、五百八十二メートル弱。

「十五尋」二十七メートル強。

「深さ、中(なか)にて八尋。其次ぎ、四尋、其の次ぎ、三尋なり」構造が複雑で、海の中層の三段階で長さが異なるのである。同前でそれぞれ順に、十四メートル半、七メートル強、五メートル半弱。

「目(め)は指七さしなり」網の目の方の長さが、指七つ分であること。十二センチメートル前後か。

『「アバ」あり、「泛子(うけ)」なし』孰れも「浮き」のことだが、どう区別しているのか、よく判らない。前例に徴すると、「アバ」は桶状のやや大きなものであるが、挿絵を見ると、網の上辺部に紡錘型の木片様のそれが見えるのでそれを「アバ」と呼んでいるか。舷に近い部分の網の所に、丸いものがあるが、これは次の「重石(いわ)」=「錘(おもり)」で、「竹の輪を作り、其の中へ、石を加へ、糸にて、結(ゆ)ひ付けて、鼓(つゝみ)のしらべのごとし」というのがそれらしい。

「四間」七・二七メートル。

「十間」十八・一八メートル。

「蛇骨(じやこつ)」具体に形状が書かれていないので不詳。しかし、海の上・中層域をトロールして混入する外道であるからには、魚と考えねばならず、わざわざ注記するということは、それが食べられることを意味しており、そうなると、「蛇骨」から私が想起するのは、棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属アカヤガラ Fistularia petimba 、或いはアオヤガラ Fistularia commersonii であるが、自信はない。識者の御教授を乞う。

「同國白濱」本主文の若狭のそれととるべきであろう。そうなると、福井県大飯郡高浜町薗部の白浜となる。

「比目魚(ひもくぎよ)と云ふは鰈(かれ)の惣名なり」既出既注。ここは、「若狹鰈」の附記となっている。

『「本草」、「釋名」、『鞋底魚』と云ふは、「ウシノシタ」、又、「クツゾコ」と云ひて種類なり』原本はベタで『本草釋名鞋底魚と云は』で頗る紛らわしい文字列なのであるが、これは明の李時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の「比目魚」の項の、「釋名」で、別名を「鰈」と挙げた次に、「鞋底魚」と挙げていることを指している。私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰈」で一部引用されてあるので、そちらも参照されたい。

「ウシノシタ」前の「若狹鰈」で注した通り、カレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae・ウシノシタ科 Cynoglossidae のウシノシタ類(流通名(主に関東)「シタビラメ」(舌平目))を指しているものと思われる。

「クツゾコ」同前。

『「若狹蒸鰈(わかさむしかれ)」のことは、「大和本草」に、悉(くわ)しく、いへり』私の「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照されたい。「丹後の『むしがれい』」と出して、有毒説を否定している。

『東國にては「ヒラメ」と云』前の「若狹鰈」の私の注を参照。

『鯛は「本草」に載せず』事実である。私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の冒頭にある「鯛」を見られたい。「本草綱目」には我々ぶお馴染みの鯛や鰹などが載らない。これは「本草綱目」の成立した地域と編者李時珍の出身地によるものと考えられている(マダイもカツオも中国でも獲れる)。そもそもが、鯛を海水魚の王様のように祭り上げて、異様に目出度い魚として好んで食う習慣は日本に特異的なものである。

『「大和本草」に悉し』私の「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」を参照。

『「神代卷」に『赤目』と云う』「赤女」の誤り。「日本書紀」の第十段の所謂、「山幸彦と海幸彦」の説話の中で、海神が失われた釣針を探すために、大小の魚を集めて問い質したところが、「不識。唯赤女【「赤女」、鯛魚名也。】比有口疾而不來。固召之探其口者。果得失鉤」(「識(し)らず。唯(ただ)、赤女(あかめ)【「赤女」は、鯛魚の名なり。】比(このごろ)口の疾(やまひ)有りて來たらず。」と。固(しひ)て、之れを召し、其の口を探さば、果して失(う)せし鉤(はり)を得。)とある。

「延喜式」養老律令に対する施行細則を集大成した古代法典。延喜五(九〇五)年に編纂を開始し、延長五(九二七)年撰進、施行は康保四(九六七)年。

「平魚(へいきよ)」鯛が他の魚に比して側扁することによる。「たい」の「た」は「平(たひら)」の「た」で、「い」は「魚(いを)」の「い」であろう。

「ハナヲレ」タイ科キダイ属キダイ Dentex hypselosomus 及び先に示したチダイの異名として現在も「ハナオレ(ダイ)」は生きている。蒹葭堂は『「ハナヲレ」の義、未だ詳らかならず』と言っているが、これは一目瞭然で、「鼻折れ鯛」で、口吻の上部の目との間の部分が直線になっているのを「鼻が折れたように見える」と言うのである。タイ科の類はかなりこの傾向が強い。「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鯛」の次の「黄穡魚」でも良安はこれに「はなをれだい」とルビし、『俗に鼻折鯛と云ふ』とし、『黄穡魚は、形色、鯛に似て、色、淺し。鼻、直にして折れたるごとし。故に鼻折鯛と名づく。味、眞鯛より劣れり』と述べている。

「ヘイケ」不審。これは形状の「平」ではなく、赤味を帯びた色から「平家」の旗の赤である。

「ヒウダヒ」不詳。漢字も想起出来ない。識者の御教授を乞う。

『「萬葉」九「長歌」、「水の江の浦島が子が堅魚(かたを)つり鯛(たい)つりかねて七日まて下畧䖝丸」高橋虫麻呂(生没年不詳)が浦島伝説を詠んだ一首「水江(みづのえの)浦嶋の子を詠める一首幷短歌」(一七四〇・一七四一番)の長歌の本題に入ったところの一節。短歌も含めて全歌を示す(講談社文庫中西進訳注版を参考に漢字を恣意的に正字化して示した)。

   *

春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出でゐて 釣舟(つりふね)の とをらふ見れば 古(いにしへ)の ことぞ思(おも)ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣り矜(ほこ)り 七日(なぬか)まで 家にも來ずて 海境(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海神(わたつみ)の 神の娘子(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相ひとふらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り 海若(わたつみ)の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に たづさはり ふたり入り居(ゐ)て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを 世の中の 愚か人(びと)の 我妹子(わぎもこ)に 告(つ)げて語らく 須臾(しましく)は 家に歸りて 父母に 事も告(の)らひ 明日(あす)のごと 我れは來なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世邊(とこよへ)に また歸り來て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めし言(こと)を 墨吉に 歸り來りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠(あや)しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歲(みとせ)の間(ほど)に 垣もなく 家滅(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとの如(ごと) 家はあらむと 玉篋 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世邊に 棚引きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反側(こいまろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情(こころ)消失(けう)せぬ 若くありし 肌も皺(しわ)みぬ 黑かりし 髮も白(しら)けぬ ゆなゆなは 息さへ絕えて 後(のち)つひに 命死にける 水江の 浦嶋の子が 家地(いへどころ)見ゆ

    反歌

常世邊に住むべきものを劔刀(つるぎたち)己(な)が心から鈍(おそ)やこの君

   *]

2021/05/30

ブログ1,540,000アクセス突破記念 梅崎春生 喪失 / 恐らく、現在、読める最初(昭和九(一九三四)年五月満十九歳)の梅崎春生の小説(その2)

 

[やぶちゃん注:前回の「明日」に続き、昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第二号に発表されたもので、梅崎春生満十九歳の若書きの一篇で、現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)である。当時は、熊本五高二年であった。

 底本は「明日」と並置される昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」(本巻最終巻)の「初期短編補遺」(但し、「明日」と本篇の二篇のみ)に載るそれを用いた。

 本来なら、戦前の作品であり、恐らくは正仮名が用いられ、漢字も正字であったろうが、原雑誌を見ることが出来ないので(掲載雑誌については中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜の昭和九年のパートに『怠け癖から、三年生になる際に平均点不足で落第し』たとあり、この年、『同人誌「ロベリスク」に参加し』たとある)、この雑誌は当時の熊本五高の友人であった霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:後に左派小説家となった春生の盟友。日本共産党員でもあったが後に除籍された)とともに出した同人誌である(同誌に発表した『梅崎春生 詩 「海」(私の勝手復元版)』なども参照されたい)。詩篇とは異なり、歴史的仮名遣の手入れが異様に多くなるので、底本のままに新字新仮名とした。一部、文中に注を附した。

 本篇は梅崎春生の小説としては、主人公や脇役の設定が極めて特異点である。ネタ晴らしになるのでこれ以上言わないが、梅崎春生の知られた作品の中には、このようなキャラクターを設定をした小説を、私は、思い出せない。

なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが先ほど1,540,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021530日 藪野直史】]

 

   喪  失

 

 目には見えない程繊細な春雨が……しかしまだうすら寒い三月の雨が黄昏の舗道をしっとりと濡らして居た。もう夕闇が色濃く立ちこめて居て、巷に時折明滅する広告燈も夢の様にうるんで居り、舗道を流れて行く、雨に光った黒塗の自動車も、微かに水をはじく音を立てるだけで警笛の響きも聞えず、丁度辷って行く影の様に思えた。道子は細い女持ちの傘を拡げて先刻から濡れて光る舗道にうつる傘の蒼白い感覚を淋しみながら歩いて居るのだが、先刻まで映画館の座席で中岡と一しょに見て居たあの銀幕の上の白い影像などがおりの様に頭の底に沈澱して居り、まだ現実と夢幻の間を漂々と彷徨して居るような茫とした気持で、丁度山の中にある大きな滝などの側に居る時、瀑音にじんと気押されて細々とした感覚は吹き飛ばされ、その後に何かしらぬ静寂を味得する――丁度あの様な感じで、此の巷の静寂をじんと感じて居るのであった。

 そうして道子は此の静寂の中に、何処かで激しく奔騰して居る様な水の音が、先刻から聞えて居るような気がしていた。空耳かしら――と、じっとりと濡れてしまって、氷片の様に神経を失いかけた右手からそっと左手に傘を待ち換えると、その瞬間そこで別れた中岡の半ば子供らしい、しかし端麗な容貌がふっと思い浮べられて来て、自分の中岡に対する気持は一体どんなものだろう、矢張り友達としての淡々とした交際かしら、それとも――それとも、もう自分程の年になると、こうやって情熱を圧迫して居ても、一寸した隙からひょっと顔を出すあの戯れ見たいに冒険を愛する気持かしらん、とぼんやり考えながら歩いて居ると、大きな広告燈の光芒が並んだ家並の唐突なとぎれに戸惑いしてちらちらとためらって居る――川だった。ああ先刻から聞えて居た水の様な音もこれだったんだな、と道子はそう思いながら着物が欄干に着かないようにそっと川面を覗いて見ると、意外なまでに水面が黝々[やぶちゃん注:「くろぐろ」。]と上って居り、橋げたにぶっつかっては幾つもの渦を作って川下へ流れて行く。では川上の方では大雨が降ったのかしら、ここじゃこんな細かな雨が降ってるのに、といぶかりながら、なおも立止まって、川上から流れて来たらしい白い木片が、可成な速力で辻って行き、ぐるぐる廻ったり、見えなくなったりして下の方に流れて行くのを見て居ると、単なる感情の戯れの中に、中心を失いかけたこまの様に廻ろうとして居る自分の裸身を覗いて居るような気がして、くらくらと眩惑見たいな気持を感じ、思わず目を川から外らして、も一度傘を持ち換えると、コツコツと橋の上を歩きながら、きっと感情の危機なんだわ、と誰に言い聞かせるともなくそう呟いて見た。

 ――道子が女学校を卒業した時、彼女はその当時まだ可愛い少女であった妹の由紀子と二人、全くの孤児になって居た。然し相当の遺産があった為に、二人は此の都の片隅にある、あるアパートに部屋を借りて、由紀子は其処から程遠くない女学校に通い、道子はまだ世間知らずの無鉄砲さで社会に飛び込もうと企てたのだけれども、結局気弱い感情が彼女の中に住んで居り、それは彼女を束縛して手も足も出ないようにしたのであった。此等の不安だった、しかし華かだった日々の事を道子は今でも、匂いの様に弱々しい感傷と共にはっきり思い出しても見る事は出来るのだが、結局そうした変遷の後現在のある同人雑誌の一員として加わるまでに、由紀子も、あの腺病質にさえ見えた蒼白い少女時代から成長して、道子に似てうるんだ瞳を持った美しい女になって居た。そうして中岡が出現したのもその頃であって、中岡も同人の一人として、時折発表する創作が未だ乳臭い感傷から脱け得ないものではあったにしろ、道子はその稚気に可成の好意を持って居り、その中岡の人柄と考え合わせて見て好もしい微笑すら感ずる事があった。そうしてその頃からごく自然に姉妹の生活に中岡は浸透し始めて来たのだったが、素直な青年でまだ二十二にしかならず、道子より二つも年下になるわけだった。しかし此の中岡に対する感情が、ともすれば友情以上に溢れ出ようとするのを意識し始めた道子が例の気弱さと、まだ世慣れない女が持つ臆病とでその感情の危機を鋭敏に感受し、警戒し始めたのも当然であったと言えよう。そんな内面の闘争を心に秘めて道子は今、橋の上をコツコツと歩みながら次第に拡がって来るらしい稀薄な憂鬱と不安とをどうする事も出来なかった。

 濡れた裾をひるがえす風も無く、霧雨だけがいたずらに降る此の道は長かった。しかし道子は、此の道の果てる所に遠くまたたくアパートの燈をみて居て、その窓の一つに点(とも)るあかりの下には、由紀子もやはり此の湿った空気を呼吸して居るだろうと思って見た。しかしそれは、無定見な白分を意識の中から放逐する事は出来ず、かえって由紀子に対する自責の念をぐっと盛り上げて来て、ああ男の人と映画なんか見て居て――と言う感情が、自然道子の足を早めるのだった。丁度幼かった日、夜までつい遊びすぎて、おずおずと家の門口近くへ歩いて行く、あの走り出したいような焦燥と、どうにもならない不安とがそこにあって、道子は身動きも出来ないように自分の心理の陥穽に陥ったと言う感じがしながらも、それを抜け出そうと努力する事は由紀子に対して何か済まないと言う決定的な肉親への感情をひた守りに守ろうとしながら、近頃急速度で深くなった中岡への交際と、詩集だに拡げて見ない自分の不勉強を由紀ちゃんは一体どんなに考えてるかしらと思って見るのであった。時折此の四五年の過去をふりかえって、由紀子を今のようにまで育て上げた自分の努力に道子はヒロイックな快感を感ずる事があったけれども、その自己陶酔の背後に巣くう淋しさ――喪失させんとする青春への哀借が急速調に感ぜられて来て、そんな時道子の心は何時も何かに合わせて没落の歌をうたって居り、また嵐の様に唐突に襲って来る情熱の衝動に虚無的な触手を異性の前に伸ばそうとする道子の心を――あたしの心を、由紀ちゃんは一体どう思ってるのかしら、由紀ちゃんと中岡との間のあたしの生活には、どこかしら足りない所があるんだ、或いはあたしが重大な根本的な錯誤をでもして居やしないか、と道子は再び自分の生活への疑問符を荒々しく自分自身へ投げつけたのだった。

 丁度アパートの前に来た時道子は一寸雨に煙る街の黄昏をふりかえって、長かった思考を断ち切るように傘をたたんだ。そうして階段を登って、部屋の扉を押し開いた時、あんなにもつれた思索を持った場合に持ついらいらした気持には、突然全然空虚な世界に投げ出されたように、そこに由紀子一人がむこうむきになって机の前に坐っている平和な雰囲気が生暖かいものの様に感じられ、あんなもつれた思索と此の平和な情景とが由紀子と言う導体を中において結び付けられて居ると言う事は、道子には全く不思議に思える程だった。しかし由紀子が、其の音にふりむくと、意外な程明るい微笑をたたえた顔で、

「面白かった?」

 と訊ねて来た時、道子は瞬間、自分の意識が、その平和な雰囲気を、先刻の思索の世界に急激に荒々しく引きずり込もうとするのが感ぜられ、その目まぐるしい流れに何も考える余裕も無く、直ぐに、

「ええ、面白かったわ。とても」

 と答えてしまったが、その後で、ふと思い出すように浮んで来たあの自責の念に、何て残酷な返事をしたものだろうと気付いて、由紀子が向うをふりむいて何か小説にでも読みふけって居るらしい姿勢に戻り、道子が傘を片隅に立てかけに行くまで、道子は心にとげでも剌さった様に感ぜられ、壁に映った由紀子の大きな影法師に、思考に疲れた空ろな瞳を投げて居るのだった。

 部屋の真中にぼんやり立って居ると、先刻から素足にまつわる濡れた裾の不快さが此の平和な情景に自分自身をそのまま融合させるのに邪魔になって居て、それが此の継ぎはぎのある気持を産み出して居るのだと言う気持が道子にはあって、それ故道子は部屋の片隅に行き、わびしいスタンドの光芒を離れて帯を解き乍ら、ふとうつむいて見ると暗さの中に傲岸と揺れている白い乳房がぼおとその輪郭を道子の瞳に投げている。それを見ると再び苦しい感情、甘い感情が乱れた線のようにもつれて来て、中岡のおもかげがつい思い出されてしまう。しかし此処では先刻のあの概念的な中岡として道子の頭に浮んで来たのでは無く、それは一人の男性として、非常に実体的な感覚的なものとして道子の頭脳に拡がって来るのであった。そうして冷えた手足をじんじんと廻り始める血球の一つ一つがナカオカ、ナカオカと叫びながら馳けめぐって居る様に見える。――ああ、ほの白き欲情のふくらみ――とその切迫した感情を道子は自嘲にも似た気持と一しょに此んな詩の言葉を口吟んで見るのだが、やはり道子は客観的な世界にまで飛躍する事は出来ず、じめじめと情欲の中にはいまわってる――駄目。飛躍も出来ない。霧雨のように沈む心、茫然と白さを凝視して居る。あたし、こんな湿っぽい日に映画なんて見て、やっぱり頭が疲れたんだわと思うのだった。

「お姉さま」

 と突然呼びかけた由紀子の声に、ふと非常に恥かしい事でもして居たようにあわててふりむくと、明るさを背景にして、暗さの中に矢張り和やかな陰影をただよわせながら。

「今日はとても面白い事聞いて来てよ」

 と先刻から言おうと思って居たんだなと言う心組みを道子に感じさせる様な語調で由紀子が話しかけて来ると、道子は意識的な飛躍の足場がやっと見つかったようなほっとした気持と、その話の内容に対する子供らしいような好奇心との入り組んだ気持で、

「どんな事?」

 と訊ねると由紀子は笑いながら、

「今日ね。信ちゃんがお姉さまたちの同人雑誌の批評してた」

「まあ。どんな風に」

「お世辞だったかも知れないけど、ほめてたわ」

 と悪戯な瞳をひょいと道子の顔からはなして壁を這わせ乍ら、

「特にお姉さまのをとてもほめてたわ」

 と再びちらと瞳を道子の瞳に戻すと、道子はそれに答える前に、由紀子の瞳の中にとぼけたような無邪気な意志を感じるとつい笑い出して居た。由紀子の無邪気に歪められた情熱と対象としての信子を道子は女らしい敏感さでさとって居て、由紀子が此の可愛い信子と一しょに持った休み時間の会話の材料として持ち出されたあたしたち。あたし。楽しい時間の流れ。あたしが此んな心持に今まで苦しんでるのに、亦何て朗らかに話せる由紀ちゃんだろう。由紀子と信子。あたしと中岡。と中岡の事が又思い出され、つい不用意に、

「中岡さんの、どんなだった?」

 と訊ねて見ると由紀子は道子の先刻からの表情の変化をくわしく観察して居て、その予期して居た質問に思わずクックッと笑い出しながら、

「言っても良い? 姉さん怒りゃしない?」

 と道子の心理にぐさりと針を剌し込むような質問に、はっと虚をつかれた思いで、

「何言ってんのよ。信ちゃんがいくら中岡さんの悪口を言ったって、あたしと何の関係があるって言うの。悪い子ね」

 と、思わず赤らめそうになった顔をかくす為ににらむ真似をして見せると、由紀子は一寸首をかしげて、

「信ちゃんったらひどいのよ。あんな創作なんか可笑(おか)しくって見て居れないだって」

 と無雑作に結論を投げ捨てると、本当に可笑しくってたまらない様に机の上に笑い崩れるのであった。道子もついそれにつられて笑い乍ら、その言葉を聞いた瞬間、信子の子供らしい思い上りにかっとした軽蔑が心の底に動くのをどうする事も出来なかった。全然異なった世界に住む人々に対する何とはない反感、いきどおろしさが、道子にあんな乳臭い少女に何が判るものかと思わせて居り、又、道子は一方で、先刻由紀子が、言っても怒りゃしないと言って居た言葉が非常に皮肉なものに感じられ、だんだんとこわばる顔貌を意識すると――ああ、あたし仮面をかぶって居るのだわ、もう由紀ちゃんの前でとても仮面なしじゃ生活出来ないのだわ、と淋しい気持になって居た。そうして此の感情の変化をかくす為に道子はそのまま窓の方に行くと、一寸柱にかけてある鏡をのぞき何でも無かったような姿体をして窓から外を茫然と見て居た。巷は霧にうらぶれて、いくつもの燈が遠くから来る物音にふるえて居る。埋葬された街。じっと見て居ると、自分の詩を賞められた時、良い気持になって居た自分の姿が苦しくも反省される道子の耳朶に、同じアパートの住人らしいレコードの響きが、auld lang syne を乗せて湿った空気を動かすと、それは此の苦しい心の根本をぐらぐらと動かすもののように聞えて来て道子は思わず耳に蓋をしてしまう。そうして音の無い世界の中で、もう中岡さんは帰ったかしらと思ったりして居ると、じんと鳴る耳朶にまだその旋律がつきまとって来て青春への Farewell を告げる様に道子の舌も何時の間にかその auld lang syne のリズムを口吟んで居るような淋しい境地であった。[やぶちゃん注:・「auld lang syne」「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne )は、スコットランドの民謡にして非公式な準国歌。本邦では「蛍の光」の原曲としてよく知られる。・「Farewell」別れ。]

 

 その雨が晴れて翌日は朗らかに晴れた日曜であった。そうしてその午後、道子は由紀子を連れて中岡と郊外に散策を持つ事になって居り、こうして三人で出かけて来たのだが、チカチカと貝がらの様に光る海が眺められる小高い丘に来た時その丘が、此の前来た時とすっかり変って、全く青くなって居るのにびっくりする程だった。生命は此処にも萌え出るのだ。あのチカチカ光る海にも、ゆるやかな波の起伏が光線の戯れにさんざめいて躍って居よう。魚も銀鱗を輝かし始め、深海の海藻もその乏しい光の中でユラユラと身悶えして居よう。その様な光の戯れも、色彩の動きも、久しぶりに長い間忘れて居た感覚が身内によみがえって来て、今まで氷の中に閉じ込められた目高がピチピチと動き出す日のように、青い丘も、青い風も、目に、耳に、肉休に媚びるあらゆる感覚も、道子には此の上無く快いものに思えた。そうして昨日まで澱んで動かなかった血液が急に動き出し、心臓がドクドクと荒々しい調子で刻み始め、朗らかな気持がどこからともなく道子に帰って来て居た。そうしてゆるゆると青い丘の間を縫う一条の小径を爪先上りに上りながら、由紀子がずっと向うの海岸から突出て居る突堤の先にそそり立つ真白い燈台の姿を見つけて。

「まあ、いいわねえ」

 と感嘆の叫びを上げ、中岡が、それに応じて、

「本当に詩の様な景色ですね」

 と答えるのを聞くまでは、道子はその感覚に身も心もゆだねて、夢幻の中を歩いて居たと言っても良かった。そうしてそんな常套的な、春らしい言葉を聞いた時、再び、そんな月並な文句が言えるあの若い日を慕う心が油然[やぶちゃん注:「ゆうぜん」(歴史的仮名遣「いうぜん」。「ユウ」は漢音で「ユ」は呉音)。盛んに湧き起こるさま。そのように心に浮かびくるさま。]と湧き起ったのだけれども、道子はそれを意識する前に理智の扉を固くとざして、春風が裾を嬲(なぶ)る快よさにうっとりと陶酔して居るのであった。例えば心が陽炎(かげろう)となり、橙(だいだい)色の蝶々となり、片々たる塵埃となって遠く海面へ流れて行き、白い燈台を廻って見果てぬ夢に酔うように、その快よさは幾度と無く身内によみがえっては、道子は此の若さを前にして目を細める心地なのだ。

 青い丘を登り切って三人とも黙って海が目の下に見える風景に、茫然として、各々大気を吸い込んで居た。さんさんと降りそそぐ太陽の光だった。そうしてその光の中で、中岡が若々しい顔をふりむけると。

「こんな風景でも詩になりますか?」

 と微笑しながら問うのだった。道子は今まで見て居た遠い白帆の影から目を離すと、

「駄目よ、あたしなんか」

 と叫んで見たがそれは思いがけない程若々しい声音だったので、道子は急に可笑しくなって来て、つい笑い出してしまったのだが、中岡は一体此の女は今まで何を考えて居てこう突然笑い出したりしたのだろうと不審そうな瞳を道子の白い額の所に向けて居た。しかし道子は笑いながら中岡の問いが此んな風景が詩になり得るかと言う客観的な質問だったにも拘らずすぐ自分の事に取って、少し己惚(うぬぼ)れて居たような気がし、気恥かしい面持でなお笑いながらうつむき加減に中岡の視線を避けようとすると、今まで白いスカートを海から来る風にひらめかして居た由紀子が急にふりむくと、

「お姉さまは詩の評判が良いので嬉しいのよ」

 と、道子の方をちらりと見ながら、由紀子は悪い子でしょうと言ったような微笑を一寸見せると、すぐ風の様に晴れ晴れと笑って見せた。しかし道子は、それが皮肉に聞えない程明るい気持になって居て、やさしく由紀子ににらむ真似をして見せると、中岡がそれを逃さないようにすぐ、

「素晴らしい感覚を持った閨秀詩人なんて見出しで、きっと賞められるでしょうね」

 とおおいかぶせるように迫って来て、道子はそれを反撥する前にくすぐったい気持になり、つい弱気になって、応酬すべき良い言葉も失って、

「駄目、駄目。そんなに賞めても、私なんか詩人としても全く疲れてるんだから、詩人の廃業よ」

 と自分でもびっくりする程蓮(はす)っ葉(ぱ)な笑い声を立てた。しかし、その笑い声のうしろに、意識して虚偽の仮面をかぶり、空虚な姿体をよそおった自分の姿が居るような気がして、――ああ亦いつもの厭な癖が始まった――とそれを打消すように、昨日聞いた中岡の創作の批評を聞かしてやろうかとも思ったけれど、それも悪戯すぎる様な気がして、由紀子と中岡の顔を等分に見比べながら、言おうか言うまいかといたずらめいた心を持てあましながら、自分の蓮っ葉な哄笑に和して居る二人の笑い声が、煙草の煙の様に風に流れて行くのを聞いて居るのであった。

 しばらくして丘を下りて行く時、道子は再び黙って居て、先刻の夢の様な甘さをじっと味わって居るつもりだったが、しかし、そこにはもう感覚的な快よさがほとんど失せた気持がし、沈んだ心象を知って居て、これはあの根低のない浮々した気持の反撥だと思って居た。そうして中岡とはなれた時はあんなに色々中岡の事が思い出される癖に、こう接して見るといつの間にかあたしは違った性格を振りかざして居て、内部のものを見せまいと努めて居る。何故こう弱いんだろうといぶかって見たり、亦、先刻は何て詰らない事を言ったものだろう、詩人の廃業なんて、と責めて見たり――そんな時間の流れに由紀子の歌ううたが乗って、少女らしい感傷を心から味わって居る、そんな由紀子に向って中岡が、

「由紀ちゃんは何時までも若いんだね」

 とからかいかけると由紀子はすぐ歌を打ち切って、

「いやよ、中岡さんたら」

 と腰から上を後ろにくねらせて中岡の方を振りむく、濡れたような瞳が語る少女らしい媚体に見えて、その態度に道子はハッとして、そうかも知れないと言う不吉な予感に、自分の邪推にも似た敏感さを呪う心地だった。しかしその時道子の休内には姉らしい感情がふつふつとして流れ始め、そんな大胆な想像を笑いたい気持で、そんないやなもつれた考えから遠ざかりたいと思う。しかしそう思えば思う程、いやな癖で、意識の一部がその思考を追って行こうとし、道子はそれを止めようとするのに一生懸命なのだ。しかし、此の沈黙の時間に、その思考を追う事は道子に意地悪い快感を与える事は事実であろうけれども、道子の神経はそれに堪え得ないだろうと思う。由紀ちゃんはもしかしたら中岡さんに特別な感情を持ってるんじゃなかろうか。もし由紀ちゃんがそうだったら――本当そうだったら、あたしとてもそんな悲劇に直面出来ない。一体中岡さんもどんな気持かしら。一体男ってものは、年上の女に恋なんか感ずる事があるものだろうか。あたしに、あたしに――と絶句するような思いで、先刻からうっすらと汗ばんで居る白い脚が、なおも汗ばみしたたるかとも思われて、わざと中岡から離れて道の端を歩きながら、外の景色に心をうばわれて、愉しい沈黙を味わって居るふりをして居る道子だった。

 すこし後れ目になって歩いて居ると、そう言う考えの為に道子の心は耳をしっかりと抑えて居て、先刻まで聞えて居た雲雀(ひばり)の声が、雲の中へとけ入りでもしたかのように聞えなくなって居る。しかし耳をすますと遠くから来る物音が蜂の羽音の様にぶんぶんと聞えて来る。それは耳鳴りの様に道子から離れない。じんと鼓膜が圧迫されて居て、道子は此処の空気がとても密度が高いような感じを持って居る。道子は乾いた唇をそっと手でおさえる。顔がかげった。手が蒼く染った。道に青い光斑を投げている林の間を縫う小径だった。

 此の沈黙の中に道子は考えて居る。道子の沈黙は、中岡と由紀子の沈黙とは全然異った種類のものだったので、道子はあとの二人と同じ様に、此の春の風景を楽しんで居る様に装わねばならなかった。それ故、道子は、目を上げて、木の葉に反射する光線の蒼さを見たり、振りむいて歩いて来た道を眺めたり、小さい声で歌を口吟んだりしながら、中岡と由紀子が無神経にそれらを愉しんで居る様子を見ると神経の千切れる様な鋭い悲しみを感じ、来なきゃよかった、来なきゃよかったと思っている。昨日、映画館の中で二人きりになった時持ったあの安らかな気持が、由紀ちゃん一人を加えると亦なんていらだたしい心だろうと道子は考えて見るのだった。

 林が尽きて、も一度広い野原が闊(ひら)け、遠くに畠が見える所まで歩いて来ると、今まで小さな声で歌を口ずさんで居た由紀子が急に道子の方に振り返ると、

「一寸、あんな所に」

 と呼びかけて、右手にあたる方向を指さして居る。しかし道子はその方向を見るけれども、一面に黄色にまぶされた菜種の畠が見えるだけで、由紀子が何を見たのか分らない。小鳥でも飛んで居るのかしら、それとも――と道子はそれが何であるかを見極めてしまわねば、何か、とても不吉な事がありそうな気がして、手をかざし、目を細めて、陽炎の立つ彼方を眺めて見る。でも結局分らなかった。一分位経って、由紀子が感に堪えたように、

「良いわねえ」

 と嘆声を発した時、道子は、やはりその方向を茫然と見ながら、自分でも判らない気持で、

「ええ、本当良いわねえ」

 と答えて見たけれども、すぐその後で、一体あたし何を考えてるんだろうと烈しい自己嫌悪の気持で、積木のように整然と重ねられた感情が、一つ一つ崩壊して行くような感じを味わいながら、一寸中岡の方を見る。そうして中岡が促された様に、

「本当に良いですね」

 と口真似の様に答えるのを聞きながら、此の問題から早く切り離れようと、二人に先んじて歩き出して居た。それに促されたように歩き出した二人の跫音を後ろに聞いても、道子は何故かほっとした気持を持つ事は出来なかった。

 

 二三日経った日の夕方、道子は自分の部屋で、書きかけた詩の原稿を前にして、中岡と二人話して居た。窓から流れ入って来る日没の反映が中岡の顔にまわって、中岡はまぶしそうに目を細めながら道子と話して居て、日を後ろにして居るんだから、あたしの表情は、中岡さんには判りにくいに違いないと言う確信が道子の心を可成大胆にさせて居た。しかし、いつも中岡と一緒に持つ時間には安らかな気持で会話し得る道子だったけれども、今日は、いつもと違って、たった二人で部屋の中に居るせいか、かなり切迫した感じがするのを道子は不思議に思った、そうして会話を、ある方向へ、ある方向へと引きずろうとする自分の心を、悲しい事と思って見たり、或いは、これで良いんだと思って見たりして居る。しかし矢張りそれから逃れようと努力しながら、由紀子は学校から帰って信子と映画見に行った――由紀ちゃんはお友達と映画に行ったのよ、と言おうと思うのだか、あの日の事がどうしても心にこびりついて居て、之を言い出した時の中岡の表情を彼女は見るに堪えないだろうと思うのだ。そうして、先刻から由紀子の居ないのに気付かなければならない中岡が、それについて一言も発しない事が、中岡が平然と仮面をつけて居るような気もするし、亦自分とこうやって話す事に愉しさを感じて居るのかも知れない。そうするとあの午後自分の心象にうつって来たあらゆる事は、みんなうつろの事実だったかも知れない。無論そうなんだわと叫ぶものが道子の心の中にある。しかし道子は、わざと大きな瞳をして、何でもなさそうに中岡の顔を眺めて見る。何てにがいコーヒーだろうと、前に置かれてあるなめらかな陶器の茶わんに唇をつけて一寸すすりながら、道子はそう思って居た。

「昨晩はダンスに行きました」

 と今までの会話の流れと全然別の事をポツンと話し出す、それが中岡の癖ででもあったのだが、道子は、中岡がそのおしせまった空気から逃げ出そうとする為に話題を変えたように思えて、中岡にすがるように、

「そう。面白かったの」

「ええ。でも踊ってますと、あんな華かな音楽の中に居るんだけど、妙に淋しくなって来ましてね、何だこんなもの何だこんなものと、呟きたがら踊ってるんですよ。相手の女が、もうとっくの昔に感情なんか喪失した女の様な、丁度動物のような感じがしましてね」

「その人美しかった?」

「ええ、でも白痴のような美しさでした」

「そう」

 とその女と中岡が二人で踊って居る様子をちらりと頭の中に画きながら、

「あたしもダンサーになって見たいわ」

 と、ぼんやりと此んな一聯の言葉をはき出すと、遠くを見るような目付をして中岡から視線を外して居た。道子はその時、五六年前、退屈な生活に倦んで、強烈な刺激にひたりたく、ダンサーにでもなりたいと思ったあの日々の事を思い出しながらそう言って見たのだったが、言ってしまって、それが中岡には別な意味に響くだろうと言う事に気付くとあわてて目を中岡に戻すと、うつむき加滅になって居る中岡の瞳には、道子が予期した様ないぶかりもおどろきもなくて、……よかった。何も反応がなくてと道子は思った。しかし、此の身動きも出来ないひしひしとした気持。密閉した部屋に二人きりになれた機会。考えまいとすればする程道子の頭には、そんな事が考えられる。道子は部屋の中にある光線の量で、日没を知った。目を上げると鳩時計がコツコツと呟いて居り、その文字板は白い仮面をかぶって居る。道子は心の中で、中岡に知れないように仮面を外す。あたしは今空ろな眼をしてるに違いない。いけない、いけない。こんな、状態では。

「本当にあなたは疲れて居られるようですね」

 と顔を上げて、中岡は、道子の顔をまじまじと見つめながら、今までその事を考えて居たように言うのだった。道子はその目に真面目なものがあるのを感じると、先刻の言棄を素直に取って呉れた中岡に、済まないような気持と、こみ上げるような淋しさを感じると、感情危機を敏感に感受した警戒心で素早く仮面をかぶってじっと見返しながら、

「まあ。突然ね。しかしあたしが疲れてるのは事実だわ」

 そして暫くして、

「それもあたし一人じゃどうにもならないらしいのよ」

 それはほとんど聞えない程低い声で言ったつもりだったのだが、それは意外な程高い言葉となり、道子は瞬間混乱し始めた感情を感じてうつむくと、二三日前からはぐくまれて居たいろいろな悲しさ、苦しさ、淋しさが大波のようにどっと襲って来て、道子はそれにおし流されるように、押える事の出来ない涙をにじませて居た。そうして、あたりの物象が道子の意識の中にぼうと薄れて行き、ただ淋しさだけが取り巻いて居るように思える、ほとんど狂的に近い気持で涙の底に、にじみながらぼやけて行く自分の膝を見て居ると、ますます悲しくなって来て、あとからあとから涙が頬を伝い始めた。そうして中岡が、道子の此の唐突な変化に驚きながら、

「どうなすったんです」

 と顔を覗き込むように、顔をかたむけて、あわててたずねて来ると、道子は、人の前でこんなに取り乱してと言う理性の芽を摑んで離すまいともがきながらも、なお激しくなろうとする涙の中に、

「あたしもう詩も書けない。何にも出来ないのよ」

 とむせび上げるような甲高いかすれた声で言って、もう堪え切れずにそのまま中岡の膝の上に突伏すのだった。

 中岡の膝のふるえが中岡のあわて方を道子におしえた。そして涙の中にただよう男の休臭を道子は好もしいものに思った。三十秒。一分。二分。頰でしろじろと冷えて行き始めた涙を感じ始めた時、道子はやっと冷静に似た気持を取り戻した。しかし時折せぐり来る新しい涙が道子の肩をふるわせた。そうして道子は、中岡の手の重さを、肩に全神経を集めて感覚して居るのだが、それは何等積極的な働きかけを持って居ない重さである事を複雑な感じで――本屋で買いたい詩集を見て買おうか買うまいかと迷った揚句、買わないで帰る時の、あの買わないでよかったと言う気持と、何かしら淋しい気持の入り組んだあの感じ――そんな感じで自覚した。所詮お芝居だったわと、道子は思いながら、今中岡さんはどんな気持かしら、そして今、目をどこに向けているだろう。やはりあり来りのラヴ・シーンみたいにあたしの背中に向けてるかしら。それとも、空虚な目を天井に走らせてるかしら、といたずらのような疑問を空想する程冷静になって居て、今自分のやった行為をも一度頭の中で反芻する心地だった。そうして膝の上で、丁度一本道を歩いて居る時向うから人が一人来る、こっちが右へ寄ろうとすると向うも右に寄り、こっちが左へ寄ろうとすると向うも左へ寄る、どちらも相手に衝突しないで此の道を通り抜けようとして居るのだが、此の偶然の一致に二人とも全くあわてて、結局ぶっつかってしまう――その様に、先刻から会話と会話が、ついに避くべからざるもののように衝突したと言う感じだった。中岡さんは、こんな時にでも働きかけ得ない程初心なのかしら。それともあたしに対して何の興昧もないのかしらと考えながら、道子は舌の先で、流れ込んだ涙のしおからさを味わっで居る。そうして、こんな姿勢じゃいけない。所詮敗けたにしろ、起き上らなくちゃいけないと思って、まばゆいように顔を上げると、中岡の視線を避けながら手巾で涙をおさえて、「失礼しました」と話しかけようと口を開きかけると、丁度それが、中岡が何とか言おうとした言葉とぶっつかって、あわてて言葉をつぐむ、そうして中岡もはっとして小さい殼に立てこもったのを道子は感じる、お互に心の底を探り合うような瞬間、つぎはぎだらけの雰囲気、でも道子は中岡が何とか言い出す前に顔を上げると。

「すみません、つい昔の事を思い出してしまって」

 とうそをついたのだが、道子はうそを言ったような気は全然しなかった。そしてそれが中岡でも、うそと知るだろうと言う事ははっきりと道子にも分っては居るのだけれども、もはや正視出来ない様なまばゆさは感じない、それも道子には淋しく思われた。そうして中岡が、

「何か御事情でもあるのですか、聞かしていただけませんでしょうか」

 と言うのを聞いて、道子はも一度心の中を手でさぐりまわして見る、何も無い空虚の心だった。もはや冷たい仮面をかぶった心なのだ。道子は中岡の顔を見ながら、

「今日は何も言いたくないのよ。失礼するわ。一人になりたい気持がするのよ」

 中岡が一寸した別れのあいさつして立って扉の所まで行くと、道子も立って扉の所まで行って、後ろ姿に口をよせて、

「本当にすみませんでしたね」

 とささやいたが、その時再びせぐり上げて来た淋しさの為に、新しく涙する心地だった。そうして扉から一間[やぶちゃん注:約二メートル弱。]程の所で中岡がふりかえり、

「元気を出しましょうね」

 となぐさめるように微笑して廊下を向うに歩いて行く跫音の一歩一歩遠くなって行くのを聞きながら、道子は扉にすがって折り崩れたいような疲れを感じて居た。

 扉をしめると、道子は鏡台の前に行き、顔をうつして見た。化粧した頰は涙に汚れて感情の推移を示して居る。指でおさえると、亦ぷくんともどって来る。そっと微笑して見ると、黄昏のように淋しい。何年ぶりの涙だろうと道子はしみじみと思って見た。遠いもののように思えたあの中岡の姿が先刻はどれほど近いものに見えた事だろう。しかし再び遠くへ逃げて行った中岡の影像を、自分の顔になぞらえて鏡面をじっと見て居る。白い鏡だった。

 鏡から離れて窓にに立つと、もう日が沈んで居る。燈もつく頃だろう。道子は茫然としながら、家並の黝い瓦を見て居てはげしい緊張の後に来る空虚なものを感じて居た。そうして目を舗道にうつした時、人混みにまじって急ぎ足で戻って来る由紀子の姿が目にうつった。その時道子は始めて、ああ、あたしの生活には由紀ちゃんも居たんだなと感じ、一寸の間それが不思議なように思われた。あたしが、中岡と一緒に映画を見ての帰り、あの由紀ちゃんに対する自責の念を盛り上げた霧雨の夕べのように、由紀ちゃんもやはり今あたしに対して何か済まないって言う感じを持って居ないかしら、だからあんなに急ぎ足でかえって来るのかも知れない。そう考えると道子は急に由紀子に、おさえ切れないようないとおしさを感じて、帰って来たら思い切って抱きしめてやりたい程肉親の愛情に胸がたかぶって来るのだった。

 そうして、もう間近くなった由紀子のまだこちらに気付かないで歩いて居る、その黄昏の風にはためくスカートの動きを見ると、ああこれが人生だと呟きながら、それ故も一度にじみ出る淋しさを心から意識しながら、両手をそっと頰に当てると、じっと目を閉じて見るのであった。

 

大和本草諸品圖上 山芹 (セリ・ヤマゼリ)

 

Yamazeri

 

山芹

 可ㇾ爲ㇾ蔬味佳水ニモ陸ニモ

 宜シ國俗山芹ヲ人參ト云

 實ハ零餘子如シ根甘シ

 テ如胡蘿蔔

○やぶちゃんの書き下し文

山芹〔(やまぜり)〕

 蔬〔(そ)〕と爲すべし。味、佳し。水にも、陸にも、宜〔(よろ)〕し。國俗、「山芹」を「人參」と云ふ。實〔(み)〕は零餘子〔(むかご)〕のごとし。根、甘くして、胡蘿蔔〔(コラフ/にんじん)〕のごとし。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。ここでは一緒くたにしているが、まずは「水」辺の日本原産である、

双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica

そして、「陸」と「水」辺の、

セリ科ヤマゼリ属ヤマゼリ Ostericum sieboldii 

である。後者も「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」の後半で出ている。有毒植物に似ているものが多いので、必ず、リンク先の私の注を参照のこと。

「蔬」食用の野菜。

「零餘子」植物の栄養繁殖器官の一つで、脇芽が養分を貯えて肥大化したものを指す。主として地上部に生じるものを指し、葉腋や花序に形成され、離脱後、新たな植物体となる。葉が肉質となることによって形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium )など、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)などで見られる。両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形で、後者は小粒の芋の形になる。孰れにしても、根茎の形になるとは言える。ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica )などの栽培に利用され、食材として単に「むかご」と呼ぶ場合は、一般にはヤマノイモ・ナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya )などの山芋類の「むかご」を指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩茹でする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある以上は当該ウィキに拠った)。私の大好物である。但し、無論、セリの実は「むかご」ではないし、私自身、食べたことはない。今度、食べてみよう。

「胡蘿蔔」セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)亜種ニンジン Daucus carota subsp. sativus )のこと。中国での呼び方で、胡国(西域)から渡来した蘿蔔(双子葉植物綱アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン Raphanus sativus var. hortensis の漢名)の意。「こらふく」とも読む。]

大和本草諸品圖上 カハホネ・河ヂサ (コウホネ・カワチシャ)

 

Kawahonekawajisya

 

カハホ子

 水草也

 夏開黃花根大ニ乄而如ㇾ骨

○やぶちゃんの書き下し文

かはほね

 水草なり。夏、黃花を開く。根、大にして、骨のごとし。

――――――――――――――――――

河ヂサ

 

 四月開ㇾ花可ㇾ爲ㇾ蔬ト

 水苦𦽿ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

河ぢさ

 四月に花を開く。蔬〔(そ)〕と爲すべし。「水苦𦽿〔(すいくか)〕」なり。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの左頁の画像をトリミングした。前者は、

双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica 

で、大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(かはほね) (コウホネ)」を参照されたく、後者は、

双子葉植物綱シソ目オオバコ科クワガタソウ属カワヂシャ Veronica undulata 

にして、大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 水萵苣(かはちさ) (カワチシャ)」を読まれたい。

「蔬」食用の青物・野菜のこと。

「「水苦𦽿〔(すいくか)〕」「𦽿」の読みに異論があるなら、御教授願いたい。言っておくが、ネットを検索しても、日本語のページで読みを振ってあるのは、私のページばかりである。最近、こういうガックリのケースが多い。特定の漢字や熟語或いは日本語のフレーズが、ちょっと気になって調べようと検索を掛けると、自分の作ったページばかりが、ずらずらと並んで出る始末なのである。]

大和本草諸品圖上 ナギ (ミズアオイ・コナギ)

 

Nagi

 

ナギ水中ニ生ス

 夏開碧花

 有白花

○やぶちゃんの書き下し文

ナギ

水中に生ず。夏、碧花を開く。又、白花の者、有り。

[やぶちゃん注:画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここから。他の三種は水族ではないのでこれだけをトリミングした。「菜葱(なぎ)」「菜葱(みずなぎ)」の古い別名を持つ、

単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii

或いは、近縁種でサイズが小さい、

ミズアオイ属コナギ Monochoria vaginalis var. plantaginea

である。「大和本草卷之八 草之四 水草類 浮薔(なぎ) (ミズアオイ)」を見られたいのだが、この添え書きにはちょっと問題があって、上記二種の花は、孰れも、かなりはっきりした青紫色であって、白色は呈さない。この最後の部分は、全く別の種を誤認しているものと私は判断する。

譚海 卷之四 東海道掛川驛東西の分たる事

東海道掛川驛東西の分たる事

○東海道は、遠州掛川の驛をもつて、東西の分とするに似たり。掛川までは京都の風俗あり、夫よりこなたはみな江戸の風俗にかよへり。

[やぶちゃん注:「掛川の驛」掛川宿は東海道五十三次の二十六番目の宿場で確かに丁度、ほぼ中間地点に当たり、地図上でも直線距離で、実際にそうである。現在の静岡県掛川市の中心部(グーグル・マップ・データ)に相当し、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町でもある。当該ウィキによれば、『また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している宿場でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」』(同ウィキの画像)『には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と参詣者の姿が描かれた。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名がある』とある。]

譚海 卷之四 加州能生の事

加州能生の事

○加賀國に能生(のふ)[やぶちゃん注:底本のルビ。]と云所あり、則ち北國往還の海道なり。神のひらきたる道なりとて、みな盤石のうへをかよふ。左右は椿のはやし陰森として白日に黃昏を行くが如し、壹里あまりかくのごとし。

[やぶちゃん注:不詳。現在の新潟県糸魚川市になら、能生(のう)があるが。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

譚海 卷之四 加賀境錦帶橋の事

 

○加賀と越前との境に錦帶橋といふあり。大川にかかりたるはしなり。兩國のさかひなるゆゑ加賀の方よりは材木を用てかけられ、越前の方より石をもちてかけらる、壹つのはしを木と石にて造りたるめづらしき製作也。

[やぶちゃん注:なお、今回より、国立国会図書館デジタルコレクションで発見した国書刊行会本(大正六(一九一七)年刊。恐らくは国立国会図書館蔵本が底本)を校合に使用することとした。本条はここなお、標題の「附」は「つけたり」で、前条の「加州里數幅幷あいもとの橋の事」の附録の意である。にしても、この橋、ネット上にデータが全くない。「加賀と越前との境」にある「大川」となると、大聖寺川しか考えれないが、現在の大聖寺川は河口からすぐ北上して加賀藩支藩の大聖寺領となるので、流域に変化があるにしても、大聖寺川の河口近くあったとしか考えられない。名前といい、奇体な石と木の半々の橋――どなたか、資料があれば、切にお教え戴きたく思う。

甲子夜話卷之六 32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事

6ー32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事

享保十巳年までは、中の御門は御先手組、二丸銅御門は御持組、西丸御書院御番所は大番組にて護りたるよし。其頃までは臺部屋口より理御門通りは、老中方も供なしにて、卸先手當番の同心一人付きそひ、供は中御門より寺澤御門通り、理御門外へ越して、主人に從ふ例のよし。其時御先手柘植五大夫當番の日、同僚天野彌五右衞門通りしに、同心居眠してありしかば、彌五右衞門、五大夫に向ひ、其怠りを戒むべきよしを云ふ。五大夫心付の忝を謝し、扨其邊は老中さへ供なしに往來ある所を、貴殿當番にもなく、なにゆゑ通られ候や。組のものも、頭の同僚ゆゑ見とがめもいたしがたく、眠りたるふりを致したるも難ㇾ計候。重ては妄りに通られまじくと、にがにがしく申て、後に組のものをばひそかに戒おきけるとかや。

■やぶちゃんの呟き

「御先手組」先手鉄砲組・先手弓組の併称。寛永九(一六三二)年に鉄砲十五組、弓十組の計二十五組と定めたが、後に二十八組(鉄砲二十組、弓八組)となった。江戸城内外の警衛・将軍出向の際の警固・市中の火付盗賊改などに当たった。

「柘植五太夫」織田(柘植)正信(つげまさのぶ ?~宝永四(一七〇九)年)。五大夫・隠岐守。

「天野彌五右衞門」天野弥五右衛門長重(元和七(一六二一)年~宝永二(一七〇五)年)。「思忠志集」の筆者。氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)で私はよく知っている。それによれば、貞享四(一六八七)年で御歳六十七、先手鉄炮頭(てっぽうがしら)を務めた旗本(知行二千五百石)であったとある。

「享保十巳年」享保十年乙巳(きのとみ)。一七二五年。

「中の御門」大手中ノ御門。個人サイトと思われる「城郭」内にある、「江戸城本丸図」の「中之門」であろう。

「二丸銅」(あかがね)「御門」同前の「銅門」(あかがねもん)。

「御持組」(おもちぐみ)は将軍直衛の弓・鉄砲隊。持筒組と持弓組があり、前者は鉄砲隊。時代によって増減するが、寛永九年で持筒組四組・持弓組三組。

「西丸御書院御番所」同前の「冠木御門」か。

「大番組」老中配下。江戸城・大坂城・京都二条城及び江戸市中を交代で警備した。

「臺部屋口」よく判らない。本丸東側にある台所に通じる通路のことか。先の地図では東側に「石之間」というのがある。

「理御門」「うづみごもん」。これは通常は固有名詞ではなく、城郭の石垣又は土塀の下を潜る門を指すが、先の江戸城本丸図」を見ると、本丸の南端の「富士見丸」の東側に「下埋門」と「上埋門」がある。これか。

「中御門」本丸南東にある「中之門」であろう。

「寺澤御門」中之門外を南南西に六十メートルほど行った位置に「寺沢門」がある。

「其時……」以上、静山はぐちゃぐちゃ言っているが、以下のシチュエーションの舞台は「中之門」ということにある。

「心付」「こころづけ」。注意。

「忝」「かたじけなき」。

「頭」「かしら」。

「重ては」「かさねては」。

日本山海名産図会 第三巻 若狹鰈(わかさかれ)

 

Wakasakarei

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「若狹鰈(わかさかれあみ)」。本文にも出る通り、鰈と同大の巨大な蟹(私にはワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus のように見える)も網に掛かっている。]

 

   ○若狹鰈

 

海岸より三十里ばかり沖にて捕るなり。其の所を「鰈塲(かれば)」といひて、若狹・越前・敦賀三國の漁人(きよじん)ども、手操網(てくりあみ)を用ゆ。海の深さ、大抵、五十尋(ひろ)。鰈は、其の底に住みて、水上に浮(うか)む事、稀なり。漁人、三十石斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]の船に、十二、三人、舟の左右にわかれ、帆を橫にかけ、其の力を借りて、䋄を引けり。「アバ」は水上に浮き、「イハ」は底に落ちて、䋄を廣めるなり。外に子細なし。䋄中(もうちう)に混り獲(と)る物、蟹、多くして、尤も大(おほ)ひ也。

 

Wakasamusigareiseihou

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。作業の細部が判るように、前に示したものよりも大版でダウン・ロードして用いた。キャプションは「若狹蒸鰈制(わかさむしかれをせいす)」。この絵、何か、懐かしい。]

 

○塩藏風乾(しほぼし) 是れを「むし鰈」と云ふは「鹽蒸(しほむし)」なり。火氣(くわき)に觸れし物には、あらず。先づ、取り得し鮮物(まゝ)を、一夜(いちや)、塩水(しほみつ)に浸し、半熟し、又、砂上に置き、藁薦(わらこも)を覆ひ、溫濕(うんしつ)の氣にて、蒸して後(のち)、二枚づゝ、尾を糸に繋ぎ、少し乾かし、一日の止宿(しゆく)も忌みて、即日、京師に出だす。其の時節(じせつ)に於ては、日每(ひごと)隔日(かくじつ)の往還とは、なれり。淡乾(しほほし)の品(しな)、多しとはいへども、是れ、天下の出類(しゆつるい)、雲上(うんしやう)の珍美(ちんみ)と云ふべし。

[やぶちゃん注:以下に若狭の「小鯛」と「他刕鯛網」が続くが、魚種が違うので別立てとした。

「若狹鰈」この名で当地の名産品として古くから知られた種は、

棘鰭上目カレイ目カレイ亜科カレイ科ヤナギムシガレイ属ヤナギムシガレイ Tanakius kitaharae

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『北海道南部以南の日本各地のほか、黄海、渤海』、『朝鮮半島沿岸に分布する。体は長楕円』『形で、著しく扁平』を成し、『上眼は頭の背縁に接し、下眼より』、『わずかに後ろにある。口は小さく、両顎』『に門歯が連続して一列に並ぶ。側線は』胸鰭の『上方で』、『湾曲』は『しない。体色は有眼側は褐色で』胸鰭と尾鰭の『後部は暗色。無眼側の体は白い』。水深二百から四百『メートル前後の砂泥底にすみ、おもに小形の甲殻類、多毛類、二枚貝、ヒトデ類など海底の小動物を食べる。産卵期は』十二~七月で、北方地ほど、『遅い。卵は油球のない分離浮性卵。孵化仔魚(ふかしぎょ)は全長約』三・四『センチメートル』で、一年で八『センチメートル』、三年で十五『センチメートル』五年で二十『センチメートルほどになる。最大体長は』三十『センチメートルほど』まで成長する。『底引網で多量に漁獲される。ほかのカレイ類』(カレイ科 Pleuronectidae)『に比べて、形や色合いに品があるうえ、脂肪が少なくて淡泊であり、干物として最高級品である。乾製品はワカサガレイやササガレイの名前で売られている』。『ヤナギムシガレイの名前は、体つきと色合いはムシガレイ』(カレイ科ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi )『に似ているが、体が薄くて細く』、『ヤナギの葉のようであることに由来する。ヒレグロ』(カレイ科ヒレグロ属ヒレグロ Glyptocephalus stelleri )『に似るが、ヤナギムシガレイは上眼が頭部背縁に接すること、無眼側の体は白いことなどで容易に区別できる』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のヤナギムシガレイのページをリンクさせておく。そこに『抱卵期の大型は』一キログラム『あたり』四千『円を遙かに超える超高級魚である』とある。前の引用の棲息深度は深過ぎる気がする(これでは深海のレベルである)。こちらでは、百~二百メートルとあり、「WEB魚図鑑」でも『水深』百『メートルほどの場所で多い』とあって、その方が私は腑に落ちる(次注参照)。なお、本書では一貫して、「鰈」(漢語「鰈」は「枼」=「葉」のように平たい「魚」の意であり、漢語では別に「比目魚」(ひもくぎょ)で元来、中国では「カレイ」(棘鰭上目カレイ目 Pleuronectiformes)と「ヒラメ」(カレイ目カレイ亜目ヒラメ科Paralichthyidaeヒラメ属 Paralichthys )を区別せず、この漢字で総称する)。「比目魚」は本来は両面が黒かった魚が左右に裂けたもので、目のある方が片身を捜しているとする「片割魚」伝承がある。但し、「本草綱目」の「比目魚」は別名を「鞋底魚」としており、盛んに履(くつ)絡みの異名が並び、これは高い確率でカレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae・ウシノシタ科 Cynoglossidae のウシノシタ類(流通名(主に関東)「シタビラメ」(舌平目))を指しているものと思われる)に「かれ」とルビするが、本邦の「かれひ」(かれい)の語源は、この中国の「片割魚」の和訓(歴史的仮名遣。以下同じ)「たわれいを」に由来するという説の他、「韓(から:朝鮮半島南部)でよく獲れる平たい鱏(えい)のような魚、或いは、鱏よりも美味い魚」(但し、「韓」には「舶来品・高級物品」の意もあるので地域には限定出来ない。なお、朝鮮では強力なアンモニア臭で世界の「臭い食物」ではアジアのトップに君臨すると言ってよい「ホンオフェ」(軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes を用いる)「エイ」は冠婚葬祭に欠かせない高級な料理である)という意味の「からえひ」が転訛した「かれひ」が「かれい」になったとする説もある。なお、現在ではカレイ類を「鰈」、ヒラメ類を「鮃」と別々の漢字を用いて区別しているが、江戸初期の辞書「倭爾雅(わじか)」(元禄七(一六九四)年)では「比目魚」を「かれひ」と読ませており、その際、カレイとヒラメとを区別していない。但し、この頃以降の本草書や字書の「物類称呼」(方言辞典。安永四(一七七五)年)の中では、大小、或いは、正しく別種とするものが、登場し始めているようではある。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照されたい。また、そこでも述べておいたが、誰もが伝家の宝刀の如く「左ヒラメに右カレイ」という絶対識別法が叫ばれているが、この分類法は厳密には正しくなく、頭部の左側に目を持っているヌマガレイ属ヌマガレイPlatichthys stellatus がいる(島根県中海以北・千葉県九十九里以北。朝鮮半島からオホーツク海及びベーリング海を経て、南カリフォルニアまで分布する。当該ウィキによれば、『一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼であるが、本種は目の向きの奇形が多く、カリフォルニア沿岸で約』五十『%、アラスカ沿岸で約』七十『%、日本近海はほぼ』百『%が左に目があり、正常型のほうが少ないという状況になっている(視神経の走り方からするとヌマガレイも通常のカレイ同様に右に目があるのが正規である)』とある。また、そこには、『食用は可能であるが』、『脂がなく』、『パサつくため』、『商品価値が低く、市場に出回ることはない』とあるが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、『最近、関東には活魚・活け締めでの入荷が増えている。値段は活魚でもあまり高くはない。野締めはほとんど値がつかない』。九十センチメートル)『にもなる大型ガレイだが、入荷してくるのは全長』四十センチメートル『前後』のみとあるので、ウィキの記載は書き変えられるべきである)。なお、本項で「かれ」なのは、歴史的仮名遣の「かれひ」の「ひ」が発音し難く、流通の便から脱字されたものと私は考える。また、「塩藏風乾(しほぼし)」の製品は見るからに、淡く綺麗に「枯れ」た感じにもなり、その親和性もあるように思われる。なお、ウィキの「打瀬網漁(うたせあみりょう)には、かなり細かな本書の記載の言及があるが、それはこの注を書き上げた後に確認したもので、遺憾乍ら、私は全く参照にしていないので、参照されたい。

「五十尋(ひろ)」既に述べたが、「尋」の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。前者換算で約九十一メートル、後者で七十五・七五メートルとなる。

「三十石斗の船」こちらの狛林秀雄氏の「淀川三十石船今昔」の「三十石船の由来」によれば、江戸初期、『世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船』として、『三十石船』『が登場し』、『米を三十石積めることから』「三十石船」『と呼ばれ、別名を過書船とも云われ』たとある(「過書船」は「かしょぶね」と読み、「過所船」とも書く。江戸時代に淀川を運航して京都―大坂間の貨物・乗客を運んだ川船で、元来、広く過書(関所手形)を所持する船の称であった。慶長三(一五九八)年、徳川家康により、「過書座の制」が設けられ、それまで水運に従事していた淀船と、新設の三十石船とを包括し、過書船奉行が配置された)。『全長五十六尺』(約十七メートル)、『幅八尺三寸』(約二・五メートル)、『乗客定員』は二十八人から三十人で、『船頭は当初』、四『人と決められてい』『たが、幕末には』「早舟三十石船」が現れ』、『船頭も』四、五人から五、六人と『なり、上り下り』ともに『時間が短縮され』たとある。この解説は客船であるが、挿絵の漁船のサイズはやや小振り乍ら一致し、乗っている漁師十五人を数え、未だ余裕があるから、これをほぼ同じようなものと考えてよかろう。

「アバ」網に装着した「浮き」。挿絵では網上辺の紡錘型のもの。これは木製であろう。

「イハ」錘(おもり)。

「鮮物(まゝ)」二字へのルビ。

「一日の止宿(しゆく)も忌みて」僅か一日でも搬出せずに置きおくことを嫌って。

「其の時節(じせつ)」同種ヤナギムシガレイ、及び、それをかく加工した「蒸し鰈」の旬(しゅん)のこと。

「淡乾(しほほし)」一夜干し或いは軽く塩を振った干物。]

2021/05/29

芥川龍之介書簡抄73 / 大正六(一九一七)年書簡より(五) 塚本鈴子・塚本文子宛(前部欠損)

 

大正六(一九一七)年五月三十一日・鎌倉発信(推定)・東京市芝區下高輪町東禪寺橫町 塚本鈴子樣 同文子樣

 

[やぶちゃん注:前部欠損。]ボクは每日忙しい思をしてゐます

今日鵠沼の和辻さんのうちへ行つたら松林の中にうちがあつて そのうちの東側に書齋があつて そこにモナ・リサの大きな額をかけて、その額の下で和辻さんが勉强してゐました 藝者のやうな奧さんと可愛い女の子が一人ゐて みんな大へん愉快らしく見えます ボクは何だかその靜な家庭が羨しくなりました(芸者のやうな奥さんはちつとも羨しくはありません)ああやつて落着くべき家庭があつたら ボクも勉强が出來るだらうと思つたのです

とにかく下宿生活と云ふものはあんまり面白いものぢやありません

文學なんぞわからなくつたつて いいのです ストリントべルクと云ふ異人も「女は針仕事をしてゐる時と子供の守りをしてゐる時とが一番美しい」と云つてゐます ボクもさう思ひます

手紙もかざつてなど書かない方がいいのです 思ふ事をすらすらそのまま書く方がいいのです だからいつもの手紙で結構です少しもまづいともおかしいとも思ひません いつ迄もああ云ふすなほな手紙が書けるやうな心もちでお出でなさい 氣取つたり 文章をつくつたりするやうになつてはいけません

今は夜です 遠くで浪の音がしてゐます 雨も少しふつてゐます 戶をあけたら 何の花だか甘い匀がしました

文ちやんの事を考へながらこの手紙を書きます もう今頃はねてゐるでせう 以上

    五月卅一日午後十一時 芥川龍之介

   塚木文子樣粧次

 

[やぶちゃん注:この書簡の八日前の五月二十三日に処女作品集「羅生門」が阿蘭陀書房から刊行されている。収録作品は「羅生門」・「鼻」・「父」・「 猿」・「 孤獨地獄」・「運」・「手巾」・「尾形了齊覺え書」・「虱」・「酒蟲」・「煙管」・「貉」・「忠義」の十四篇である。モノクロームだが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で視認出来る。

「塚本鈴子」(明治一四(一八八一)年~昭和一三(一九三八)年)芥川龍之介の妻となる塚本文の母にして、龍之介の三中以来の親友山本喜誉司の姉。

「和辻さん」哲学者で評論家の和辻哲郎(明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)。兵庫県神崎郡(現在の姫路市)生まれ。東京帝大文科大学哲学科明治四五(一九一二)年卒。後の昭和七(一九三二)年に京都帝大にて文学博士。東京帝大在学中に、谷崎潤一郎らと第二次『新思潮』を刊行して文筆生活に入る。東洋大学教授。法政大学教授などを経て、大正一四(一九二五)年、京都帝大倫理学助教授となって、翌年から昭和三(一九二八)年にはドイツに留学し、昭和六年、同大教授に昇進した。ニーチェ・キェルケゴールや日本思想史などを研究し、独自の倫理学体系を確立して、近代日本を代表する思想家となった。主な著書に「ニイチェ研究」(大正二(一九一三)年)、「ゼエレン・キェルケゴール」(大正四年)や、大和古寺巡りのブームを起した「古寺巡礼」(大正八年)・「風土」(昭和一〇(一九三五)年)等で知られる。なお、彼はこの後に鎌倉市雪ノ下に住んだ。同邸宅は後に映画事業家として知られれる川喜多長政・かしこ夫妻に買い取られている。ここ(グーグル・マップ・データの個人作製版)。]

芥川龍之介書簡抄72 / 大正六(一九一七)年書簡より(四) 五通

 

大正六(一九一七)年四月二十六日・消印二十五日・東京市芝區白金三光町成瀨正恭樣方 松岡讓君・廿六日 龍(葉書)

 

⑴倫盜の續篇はね もつと波瀾重疊だよ それだけ重疊恐縮してゐる次第だ 姶は一日に三四枚づつかいたがしまひには一日に十七枚書いて我ながら長田幹彥位にはなれると思つたよ 何しろ支離滅裂だからこの頃支離滅裂なりに安心しちまつたがね 今月號をよんぢまつた以上は續篇もよんでくれ 僕が羽目をはづすとかう云ふものを書くと云ふ參考位にはなるだらう とにかくふるはない事夥しいよ

 

 

大正六(一九一七)年四月二十六日・消印二十五日・東京市芝區白金三光町成瀨正恭樣方 松岡讓樣・廿六日 龍(葉書)

 

⑵この間菊池にあつたらあいつは erste nacht に Dreimal も Braut を苦しめたさうだ さうしてその後も morgenbegattung をやつてるんださうだ あきれたね 何が Homo-sexua1 だかわかりやしない こんどあつたら牛耳つてやれよ 京都の舞妓はピグミイみたいで何だか氣に食はなかつた sex の感じがないだけならいいが sex 以上に自然な人間らしい所がないやうな氣がする やつぱり寺が一番いいよ 寺の中でみると繪や佛像も博物館にあるより餘程いいね 庭のいいのも少し見たよ 奈良で鏡を一つ買つて灰皿にしたが古道具屋をもつとゆつくりあさるひまが欲しかつたつけ 貧乏でとてもおみやげなんか買ふ餘裕はないからだめだ 何しろ奈良の天平貞觀の彫刻は大したもんだつた これからひまと金さへあればあつちへ行つて見たい氣がする

 

[やぶちゃん注:連続投函なので纏めて注する。この日は木曜日であり、月日から判断して鎌倉発信と推定する。筑摩全集類聚版ではそうなっている。

「續偸盗」当時、『中央公論』四月一日発表分に続く「偸盗」の続編を執筆中。既出既注。七月一日に同誌に発表したが、未完であった。おちゃらけながら、書き悩んでいる様子がつたわってくる。

「長田幹彥」(ながたみきひこ 明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)は東京生まれの小説家・作詞家。劇作家・詩人の長田秀雄の弟。 明治四五(一九一二)年の早稲田大学英文科卒業前から、北海道を放浪して、そこで知った旅役者の生活に取材した「澪 (みお)」や、「零落」をまさに『中央公論』に発表し、人気作家となった。続く「霧」・「扇昇の話」(孰れも大正二(一九一三年)や「自殺者の手記」(大正四年)で、一時は谷崎潤一郎と並び称された。「祇園夜話」(大正四年)以後は、所謂、情話作家としてその手の小説を大量生産した。「祇園小唄」・「島の娘」・「天竜下れば」などの流行歌の作詞も手掛けた。

「erste nacht」「エールスタ・ナハト」。ドイツ語で「初夜」。菊池寛はこの大正六(一九一七)年に高松藩旧藩士奥村家の奥村包子(かねこ)と結婚した。彼はこの結婚を機に、作家活動に専念した。

「Dreimal」「ドレィマル」。同前で「三回」。

「Braut」「ブラオト」。同前で「花嫁」。

「morgenbegattung」「モルゲン・ベガットゥン」。同前で「朝の性交」。

「何が Homo-sexua1 だかわかりやしない」これは既に注した、菊池が一高を退学処分となった「マント事件」の真犯人佐野文夫との関係を揶揄しているものと思われる。

「ピグミイ」ピグミー。Pygmy。特に身長の低い(平均一・五メートル未満)特徴を持つところの、アフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民の総称。中央アフリカ全体の熱帯雨林を生活拠点としており、人種学的には「ネグリロ」(Negrilo)と呼ばれる。なお、この語は古代ギリシャの肘尺(ひじしゃく)である「ピュグメ」で、肘から拳までの長さを一単位とし、約三十五センチメートル相当である。肘から中指の先までの間の長さに由来する古い身体尺「キュビット」(英語 : cubit:四十四~六十四センチメートル。ラテン語の“cubitus”(クビトゥス)はラテン語で「肘」を意味する“cubitum” (クビトゥム)に由来する)に似るが、遙かに短い。]

 

 

大正六(一九一七)年四月・鎌倉発信・井川恭宛(葉書)

 

白浪も寄せこぬ里ののどさはさゝぬ門べにひるがほの花

 

[やぶちゃん注:短歌のみ。底本では三字下げであるが、引き上げた。]

 

 

大正六(一九一七)年五月一日・鎌倉発信・秦豐吉宛

 

   一中節

   新曲戀路の八景       宇治紫川

[やぶちゃん注:頭の「新曲」は底本では横書ポイント落ち。]

シテ〽心なき身にもあはれはしみじみとツレ〽たつな秋風面影の何時か夢にも三井寺や入りあひつぐる鐘の聲シテ〽まづあれをばごらんぜよ神代(かみよ)以來の戀の路ツレ〽瀨田の夕照(せきせう)いまここにぽつと上氣のしをらしさかざす屛風の袖さヘも女ごころの三下り〽花薄(すすき)根ざしはかたき石山や合ノ手〽鳰のうきねの身ながらもナヲス〽あだに粟津のせいらんとほんにせはしいころびねの合ノ手シテツレ〽あらしははれてひとしぐれぬれて逢ふ夜はねて唐崎コトウタ〽松もとにふく風ならで琴柱におつる鴈がねはツレ〽君が堅田の文だよりああなんとせう歸帆(きはん)もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髮のふじ額(びたひ)比良の暮雪をさながらにかはせどつきぬ初枕うるはしかりける次第たり

 

論文をかき了つて新曲をつくる愉味御高察下され度候この曲澁くして餘情ありまことに江戶趣味の極まれるものと存候御高覽の上は久米へも御序の節御見せ下さる可く小生ここ代の作と云ふばかりにてもその位の價値は可有之と愚考仕候まづはとりあへず新曲御披露まて[やぶちゃん注:清音はママ。]

    五月一日       芥川龍之介

   秦 豊 吉 様

二伸例の件小生の知人の宅に子供が生れし爲その人に催促するわけにもゆかず目下一向發

展致さず候

三伸「歸帆も知らで」は惡の如くに候へどこは文政頃より江戶にポピユラアなる地口の一つに候へば用ひ候註釋まで 匆々

 

[やぶちゃん注:「一中節」(いつちゆうぶし(いっちゅうぶし))は浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が、元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて、京都で創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以て、その特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に広く愛好されたが、後に江戸に下って、歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。養父芥川道章は一中節を趣味としており、龍之介には親しいものだったのである。「八景」は以下で判る通り、近江八景を道行文としてあるのである。以下の「シテ」は能の主役相当、「ワキ」はシテに対する主要な相手役としての脇役相当。

「心なき身にもあはれは」「三夕(さんせき)の歌」で知られる西行の、「新古今和歌集」の巻第五の「秋歌上」の一首(三六二番)、

 こゝろなき身にも哀(あはれ)は知られけり

         鴫(しぎ)立つ澤の秋の夕暮

をインスパイアした。

「三下り」(さんさがり)は本来は三味線の調弦法の一つで。本調子の第三弦を一全音(長二度)下げたものを言う。ここは粋や艶を表わす、長唄・小唄に多く用られたそれの、脇役相当。

「三井」の「み」に「夢にも」「見」(見た)を掛ける。

「かざす屛風の袖」含羞して袖を屛風のように立てて顔を隠したのである。

「合ノ手」歌の調子に合わせて入れる手拍子や囃子詞。

「鳰のうきねの身」「鳰」は水鳥の鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei のこと。その「浮き寢」を「憂き身」に掛ける。また、言わずもがな、琵琶湖の別称は「鳰の海」である。

「ナヲス」元は浄瑠璃で、他の音曲から取り入れた節(謡・歌など)を浄瑠璃本来の節に戻すことで、「二上り」や「三下り」を本調子に戻すことで、それに相当する音調の戻しを指す。

「粟津」「逢はず」に掛ける。

「コトウタ」「琴唄」で本来は琴などの三味線とは違う弦楽器に合せて歌うものを指す。

「ふじ額(びたひ)」「富士額」。女性の額の髪の生え際が、富士山の頂の形に似ているもの。美しい必須条件とされ、美人の代名詞となった。]

大和本草諸品圖上 ヒヱ藻(モ) (ホンダワラ属)

 

Hiwemo

 

ヒヱ藻(モ)

 海中ニ生ス乾(カハキ)テ黒色細

 絲ノ如ク又人ノ髮ノ如シ

 

 賤民飯上ニ置蒸(ムシ)テ食フ

 又味噌ニテアエ物トシ食フ

 性未ㇾ詳

○やぶちゃんの書き下し文

ひゑ藻(も)

海中に生ず。乾(かはき)て、黒色。細〔き〕絲のごとく、又、人の髮のごとし。賤民、飯の上に置き、蒸(むし)て食ふ。又、味噌にて、あえ物とし、食ふ。性、未だ詳らかならず。

[やぶちゃん注:これは「ひゑも」では確認出来ないが、叙述内容を、本巻の「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」の記載と比してみるに、

不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme

と酷似することが判る。しかし、図には楕円や倒卵形かと思われる気胞体のようなものが有意に見られ、一見すると、

ホンダワラ科 Sargassaceae 或いは、ホンダワラ属 Sargassum

のホンダワラの仲間(何故、種名を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラ)」の私の冒頭注を参照)のように見える。但し、そもそもがヒジキ自体がホンダワラ属なのである。しかし、ヒジキの場合は、ホンダワラ属に多く見られる、この気胞が殆んど見られない(その代わり、主枝の円柱形は潰れた紡錘のようには見える)から、敢えて図だけから近い種を挙げるならば、気胞がよく発達する、北海道を除く全国各地で見られる、

ホンダワラ属ホンダワラ亜属マメタワラ Sargassum piluliferum

或いは、本州中部から南部及び南西諸島に分布する、

ホンダワラ属ホンダワラ亜属ヤツマタモク Sargassum patens

となろう。「何でホンダワラじゃないの?」と不審に思われる方のために言っておく(前のリンク先でも述べているのだが)と、狭義の真正の「ホンダワラ」である不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus テレティア節 Teretia ホンダワラ Sargassum fulvellum は専門家の記載を読むと、実は日本近海では稀なのである。なお、人の髪の毛のようだからといって、モズク類(褐藻綱ナガマツモ目モズク科モズク属 Nemacystus )とするわけにはゆかない。彼らはこんな気胞体は持たないからである。最後に言っておくと、底本の「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある貝原益軒「大和本草」(目次ページ)では、この部分に『○ヒヱ藻(みそなほし)』とあるのだが、これは何かの誤りであろう。「みそなほし」とは、陸生植物のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属マメ科ヌスビトハギ属ミソナオシ Desmodium caudatum で、本州静岡県以西・四国・九州・沖縄諸島及び朝鮮半島・台湾・中国・インドからマレーシアに分布する半低木で、山地や道端に生える。高さ三十~九十センチメートルほどで、草本状になり、下部は木質化する。葉は互生で三出複葉。花は夏、淡黄色から白色の小さな蝶形の花を咲かせる「東邦大学薬学部付属薬用植物園」公式サイト内のこちらに拠った)ものだから、全く合致性がないからである。]

伽婢子卷之六 伊勢兵庫仙境に至る

 

伽婢子卷之六

 

  ○伊勢兵庫仙境に至る

 

Ise1

[やぶちゃん注:以下、総ての挿絵は、大判を二枚含んでいる底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」を使用した。かなり丁寧に清拭した。これは二幅一図。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、左幅の氏康の前に平伏する右が江雪で、左(水際側)が兵庫頭とある。]

 

 伊豆の國北條氏康は、關八州を手に入れ、威勢、大いにふるいて、しかも武勇のほまれ、世に高し。

 ある時、浦に出て、遠く南海にのぞみ、澳(おき)の方、はるかに眺めやりて、仰せけるやう、

「昔、鎭西八郞爲朝、伊豆の浦にながされ、夕暮かたに、鳥のかけりて、澳をさしてゆくを見て、

『さだめて、海中に嶋ぞあるらん。しからずば、鳥のかけりて、夕暮かた、沖におもむき飛べきや。』

とて、舟を出〔いだ〕して、鳥の飛(とび)行く方に、こぎ行〔ゆき〕しかば、「鬼のすむ」と云ふ嶋に、至りぬ。これ今いふ八丈が嶋成べし。それより、このかたは、誰人(たれ〔ひと〕)の渡りしとも、聞えず。願くば、誰〔たれ〕か八丈が嶋にゆきて、その有樣見て、歸る人、あるべきや。」

と仰せければ、坂見岡江雪(さかみをかかうせつ)・伊勢兵庫頭〔いせのひやうごのかみ〕、兩人、すゝみ出て、

「我等、かしこにおもむき、嶋の躰(てい)、よく見て、かへり侍らん。」

と、いとやすく、うけごひ、大船(たいせん)二艘をこしらへ、江雪・兵庫、兩大將として、同心二十騎づゝさしそへ、吉日をえらびて、海にうかび、南をさして、押し出〔いだ〕す、心のうちこそ、はるかなれ。

 伊豆のおきには七嶋ありと云り。いづれとは知らず、嶋近く、押寄せしところに、俄に、風、變り、浪、高くあがりて、雪の山の如し。

 江雪(かうせつ)は、とかくして、ひとつの嶋につきて、あがりしかば、年ごろ聞傳へし八丈が嶋につき、嶋のありさま・人のよそほひ、よく見めぐりて、歸りぬ。

 兵庫頭は、吹き放されて、南を指してゆく。

 夜る・ひるの、さかひもなく、十日ばかり行ければ、風、すこし吹よわり、ひとつの嶋に流れよりたり。

 岸にあがりて見れば、岩石、そばだちて、靑きは碧瑠璃(へきるり)の如く、白きは珂雪(かせつ)の如く、黃(き)なるは蒸粟(むせるあは)に似て、赤きは紅藍花(かうらんくわ)に似たり。

 其外、種々の奇石、日本の地にしては、いまだ見ざる所也。

 草木の有樣、又、めなれざる花、咲き、木(こ)の實(み)、結べり。

 

Ise2

 

 あやしき人、磯近く出たるを見れば、かしらに羅(うすもの)の帽子をかつぎ、身には、もろもろの草木、おりつけたる直垂(ひたたれ)に、花形(〔はな〕がた)つけたるくつを、はきたり。

 年のころ、廿(はたち)ばかりなるが、色、甚だ白く、まみ毛(げ)高く、鐵漿(かね)、黑うつけて、かたちは「もろこし人」に似て、物いひは、日本の言葉に通ず。

 兵庫頭を見て、大〔おほき〕にあやしみ、

「如何なる者ぞ。」

と問ければ、兵庫、ありのまゝに語る。

 此人いふやう、

「こゝをば『滄浪(そうらう)』の國と名づく。日本の地よりは、南のかた、三千里に及べり。是より、觀音の淨土、補陀洛世界(ふだらくせかい)も程近し。いにしへ、淳和(しゆんわ)天皇の御時に、橘(たちばな)の皇后の仰せによつて、惠蕚僧都(ゑがくそうづ)といふ法師ばかりこそ、かの補陀洛世界には渡りけれ、そのついでに、此嶋に船をよせて物語せられしと聞傳へたり。さしも遙かなる海上(かいしやう)をしのぎて、これまで來〔きた〕れる、さぞや、疲れ侍らん。こなたへわたりて、心を休められよ。」

とて、家につれて歸り、九節(きうせつ)の菖蒲酒(しやうぶしゆ)、碧桃(へきたう)の花蕊酒(くわずいしゆ)をいだし、玉の盃(さかずき)をもつて、これを、すゝむ。

 兵庫頭、數盃(すはい)を傾けしに、神氣、さわやかに、覺えたり。

 あるじ、物語する事、保元・平治のあひだの有樣、今みるやうに、のべ、きこゆ。

 その家の有樣、金をちりばめ、玉を飾り、家材・雜具(ざふぐ)にいたるまで、みな、此世の物とも思はれず。

 床(とこ)の上に、方(はう)二尺餘りの石あり。「松風石(しようふうせき)」と名づく。内外、透通(すきとほ)りて、玉の如く、色は、靑く、黃なり。七寶の盆にのせて、又、七寶のいさごを敷きたり。その石、谷峯の道、分れ、『瀧の白玉、とび散るか』と、あやしまれ、たゞ、水音の落ちたぎらぬぞ、石の紋(もん)とは、おぼえけれ。まことに、絕世の盆山(ぼんさん)也。石の腰(こし)より、一本の松、生ひ出て、高さ、一尺七、八寸もありなむ。年ふりたるかたち、さこそ、『千とせの春秋を、いくかへり知(しり)ぬらん』と、昔の事を問はまほしきに、枝の間〔あひだ〕より、凉しき風、吹き出て、座中に滿ち、枝、かたぶき、葉、うごき、颯々(さつさつ)たるよそほひ、九夏(きゆうか)三伏(ふく)、氣も、おのづから、さめぬべし。

 玳瑁(たいまい)の帳臺には馬腦(めなう)の唐櫃(からひつ)あり。大〔おほい〕さ、三尺ばかり、その色、茜(あかね)の如くにして、鳥・けだ物・草木の圖、いろいろに彫(えり)つけたるは、更に人間の所爲(わざ)にあらず。

 又、かたはらに、一つの瓶(かめ)あり。大さ、一石(こく)あまりを入〔いる〕べし。其色、紫にして、光りかゝやき、内外、透(すき)とほりて、水精(すゐしよう)の如く、厚(あつさ)は一寸ばかり、輕(かろ)きこと、鳥の毛を、あぐるに似たり。内には名酒をたゝへて、「上淸珍歡醴(じやうせいちんくわんれい)」といふ簡(ふだ)を付〔つけ〕たり。

 その傍(そば)に、大さ、二斗(とう)をうくべき壺あり。その色、白く、光り輝けり。内に名香(めいかう)をいれて、「龍火降眞香(りうくわかうしんかう)」といふ簡(ふだ)あり。

 又、百寶の屑(すりくず)を擣(つ)き篩(ふる)ひて、壁にぬり、瑤(たま)の柱、こがねのとばり、銀の檻高(おばしま)、見あぐる樓あり。「降眞臺(かうしんだい)」といふ額を、かけたり。

 庭のおもてには、目なれもせぬ草木の花、咲き亂れて、二、三月の比〔ころ〕の如し。

 孔雀・鸚鵡(あふむ)のたぐひ、其外、色音(ね)面白く、名も知らぬ鳥、多く、木々の梢、草花の間に、鳴〔なき〕さえづる。

 

Ise3

 

 十五間の厩(むまや)に立ならべたる馬共、或は、毛の色、綠(みどり)なる、或は、紺靑色(こんじやうしき)なる、その中に又、連錢(れんぜん)なる、白き、黑き、さまざまの名馬、いづれも、五寸(〔ご〕き)・六寸(むき)、みな、龍馬(りうめ)のたぐひなり。

 その飼(かふ)ところの秣(まぐさ)は、茅(ちがや)に似て、白き花、あり。更に餘(よ)の草、まじへず。

 碧瑠璃(へきるり)の色をあざむく棗(なつめ)、秦珊瑚(しんさんご)の光りをうつす栗、みな、その大さ、梨の如くなる、枝の間(ひま)なく生(なり)こだれたり。

 垣の外を見れば、金闕(きんけつ)・銀臺・玉樓・紫閣、鳳(ほう)の甍(いらか)、虹の梁(うつばり)、雲をおかして、立〔たち〕並べり。

 音樂、雲にひゞき、異香(いきやう)、砌(みぎり)に薰ず。

 山際に行〔ゆき〕て見れば、峯より落つる瀧つぼに、湛へたる水、みどりにて、流れて出〔いづ〕る川瀨のかたはらに、池、あり。二町四方もありなん。其水、はなはだ强くして、金銀といへ共、沈まず、石を投げれども、猶、水の上に浮(うき)あがる。此故に、くろがねを以つて、舟を造り、國人、これに乘りて、心を慰む。

 水底(みなそこ)のいさごは、皆、金の色也。

 井出〔ゐで〕の山吹、水にうつり、おのづから、金(こがね)花咲くよそほひ、今ぞ思ひ合せらる。

 水中に魚(うを)あり。其色、赤くして、こがねの如く、皆、おのおの、四の足あり。

 其のあたりは、廣き野邊なり。金色の莖に紺靑色(こんじようしき)の葉、ある草、多し。葉の形は、菊に似て、牡丹の如くなる花あり。花の色、黃色にして、内、赤し。白き糸の如くなる蘂(しべ)ありて、糸房(ふさ)の如し。風、すこし、ふけば、其花、動きめぐりて、蝶の飛ぶに似たり。國中の女は、これをとりて、首(かしら)のかざりとす。十日を經(ふ)れども萎(しぼ)まず、といふ。

 およそ、國中の男女〔なんによ〕、いづれも、よはひ、廿(はたち)ばかりにて、老人は、ひとりも、見えず、其の顏かたちのうるはしき事、日本の地には、いと、稀なり。

 

Ise4

 

[やぶちゃん注:二幅一図。右に池辺を逍遙する兵庫頭(右)と仙主が描かれ、池中には四足を持った奇体な魚が二尾いる。左幅は鉄製の船で遊覧する仙人と仙女。]

 

 兵庫、

『同じくは、此所にすまばや。』

と思ひしかども、

『主君の仰せによりて、舟を出だし、風に放されて、こゝに來り、世にたぐひなき事を見つゝ、此まゝ歸らずは、不忠不義の名をよばれ、身の後〔のち〕までも、恥を殘す事も、口惜し。如何にもして、古鄕に歸らむ。』

と思ひ、あるじに、

「かくかく。」

と、いひければ、あるじ、大に感じて、

「さらば、凌波(りようは)の風を起して、送りまゐらせん。是れまで來り給ふしるしには、馬一疋・鸚鵡一羽を舟に入れたり。」

 それより、暇乞ひして、舟にのりければ、栗・棗やうの物、おほく、靑磁の鉢にもりて、あたへ、ともづなときて、押し出〔いだ〕せば、順風徐々(じよじよ)として、吹起る。

 すでに帆を引上(あぐ)れば、一日の程に、伊豆の浦に、つきたり。

 舟よりあがりて、まづ、城中の參りしかば、氏康は、もはや、病死、あり。

 氏政、世をとりて、國家を治めらる。

 兵庫、大〔おほき〕に嘆き悲しみ、淚とともに、かの嶋の物語りして、

「昔、垂仁(すいにん)天皇の田道(たみち)の間守(まもり)に仰せて、常世(このよ)の國につかはし、香菓(かくのみ)をもとめ給ひし、是れ、今の橘(たちばな)也。すでに採りて歸りしかば、帝(みかど)は、早や、崩御まします。間守、大に嘆き悲しみ、『わが心ざしの至らぬ故也』とて、なき死(しに)侍べり、といふ。氏康、すでに病死ありて、只今かへり來る事、これ、心ざしを失ふ也。」

とて、腹切つて、死(しに)たり。

 兵庫頭が物語を書〔かき〕とゞめ置かれて、のちに、世に廣まれり。

[やぶちゃん注:「北條氏康」(永正一二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)は戦国武将で相模小田原城主。隠居後は相模守、「御本城様」などと敬称され、太清軒と号した。天文六(一五三七)年七月の武蔵河越城攻略の頃から、父氏綱の家督継承者として政務に関与し、同十年七月の父の病没前後に家督を継いだ。翌十一年から翌年にかけて、相模・南武蔵・伊豆などで代替わりの検地を実施している。同十四年、駿河の富士川以東の支配を巡って今川義元との紛争が再燃し、不利な形勢下での講和により、これを失ったが、翌十五年四月の「河越城の戦い」で圧勝、扇谷上杉氏を滅ぼし、関東管領上杉憲政を上野平井城に敗走させた。以後、大石氏・藤田氏などの北武蔵の武将らは、氏康に服属するようになった。内政面では同十九年から弘治元(一五五〇)年にかけて、諸行政や税率改正などの改革を行い、領国経営の基礎を固めた。天文二〇(一五五一)年には、憲政を平井城から白井城へと追い詰め、翌年一月には、遂に越後に遁走させた。また同年十二月、古河公方足利晴氏に対し、家督をその子義氏(母は氏康の父氏綱の娘)に譲らせている。その後、富士川以東の地を奪回するため、駿河に侵攻する一方、武田・今川両氏と、相模・甲斐・駿河三国の同盟を結んだ。天文二十三年十一月には、晴氏・藤氏父子を捕らえ、相模波多野(現在の秦野市)に幽閉、義氏の家督を安堵させた。永禄二(一五五九)年二月には、主として家臣らへの普請役賦課の状況を調査させ。基本台帳「小田原衆所領役帳」を作成している。同年十二月頃には家督を子氏政に譲り、隠居したとみられている。この代替わりと前後して、北条氏の支城制はほぼ固まった。隠居後は氏政の後見として第一線を退いたが、永禄十二年閏五月に成立した相模と越後の同盟は、氏康の主導によるものであった。中風の発病後、一年余りで死去した。若い頃から鎌倉史を研究してきた私は、税制改革を初めとして諸制度の整備を成し遂げ、領国の支配体制を確立した、戦国武将では特異的に最も優れた「小国寡民」の名武将であったと私は思っており、氏政を致命的な無能者と捉えている(以上の主文は「朝日日本歴史人物事典」を元にした)。

「鎭西八郞爲朝」(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は平安末期の武将。源為義の八男で、源義朝の弟。「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)で父為義に従い、崇徳上皇方に組みするも敗れ、伊豆大島に配流となった。粗暴にして強腕、稀代の弓の使い手として知られた。生き延びて、沖繩へと流れて行き、琉球王朝の祖となったという伝承の他、御霊伝説に事欠かないヒーローであり、私の好きな人物である。

「坂見岡江雪(さかみをかかうせつ)」初め、北条氏(氏康・氏政・氏直三代)の家臣で、後に秀吉に仕えた板部岡(越中守)江雪(いたべおか こうせつ 天文五(一五三六)年~慶長一四(一六〇九)年)がモデルであろう。板部岡能登守の遺領を継ぎ、板部岡と改めたとも、また、伊豆下田の真言宗の僧であったとも伝えるが、不明。鎌倉幕府末期の執権北条高時の遺児時行の子孫ともされる。天正一〇(一五八二)年に北条氏直が徳川家康と講和を結んだ折りや、同十七年に小田原を狙う豊臣秀吉との交渉に際して、使者として活躍した。北条氏滅亡後には秀吉の御伽衆となり、氏を「岡野」と改めている。秀吉没後も徳川家康に起用されている。和歌・連歌。茶湯にも通じた教養豊かな能吏であったという(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文に用いた)。

「伊勢兵庫頭」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注でも、同定を困難としている。

「七嶋」江戸時代に伊豆諸島の主な有人島である伊豆大島・利島(としま)・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島の七島を指す。

「珂雪(かせつ)」古語・雅語で「真っ白な雪・潔白なもの」の意。

「紅藍花(かうらんくわ)」双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius の古名。

「觀音の淨土、補陀洛世界(ふだらくせかい)」「華厳経」・「千手経」・「陀羅尼集経」及び玄奘三蔵の「大唐西域記」にも記された観音菩薩が降り立つとされる伝説上の山である補陀落山(ふだらくせん)のこと。インド南端の海岸にあり、八角形の山容を成すとされ、サンスクリット語で「ポータラカ」と呼ぶ。「補陀落」はその漢音写。特に現世利益傾向が甚だしい中国では現在の浙江省杭州の沖合、上海市の南方洋上にある舟山(しゅうざん)群島が比定地とされて爆発的に補陀落信仰が流行った(ここ。グーグル・マップ・データ)。本邦でも、熊野や日光が補陀落に擬えられて信仰を集めた(「日光」という地名起原には、「補陀落」→「二荒(ふたら)」→「二荒(にこう)」→「日光」となったという説もある。中世になると、観音信仰に基づいて、熊野灘や足摺岬などから、密閉された小舟に乗って補陀落を目指す無謀な「補陀落渡海」も盛んに行われた(以上はウィキの「補陀落」を主文に使った)。私はこの「補陀落渡海」に強い関心を抱いており、そのメッカであった熊野那智の補陀洛山寺を二〇〇六年夏に念願の来訪を果たし、親しく渡海僧の供養塔や復元された渡海舟も見た。奇体にして危うい同信仰については、私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」の本文及び注も参照されたい。

「淳和天皇」は「じゅんな」が通常の読み。在位は弘仁一四(八二三)年から天長一〇(八三三)年(仁明(にんみょう)天皇へ譲位)。但し、前の私のリンク先での「惠蕚法師」の注で判る通り、彼が渡唐したのは、承和一四(八四七)年と斉衡年間(八五四年~八五七年:再渡唐)であり、史実上では、ここは次代の仁明天皇(在位/天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年:先々代の嵯峨天皇第二皇子)でなくてはおかしく、了意にして致命的な誤りである。

「橘(たちばな)の皇后」嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)。前の齟齬から本来は「皇太后」となくてはおかしい。「北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起」でも、『淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す』とやらかしており、これこそが、「北条九代記」が間違いなく浅井了意の作であることの証左ともなっていると私は思う。

「惠蕚僧都(ゑがくそうづ)」(生没年未詳:なお、「そうづ」は底本・元禄本のママ)は平安前期の僧。承和の初めに本文に出る「橘太后」、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の命を受けて渡唐し、「五臺山」(山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった)に袈裟などを寄進し、承和一四(八四七)年に日本に禅を広めることを志して、義空を伴って帰国したが、斉衡年間に再び渡唐し、その帰途、現在の浙江省の舟山列島の補陀(ふだ)山に補陀洛山寺(後の普済寺)を開いて、遂にその地に留まったという(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。唐から初めて禅僧を招聘したこと、平安文学に大きな影響を与えた「白氏文集」の本邦での後の普及発展の動機を与えたことなど、当時の日本の東アジア交流に大きな足跡を残した人物である(ここは勉誠出版二〇一四年刊田中史生編「入唐僧恵蕚と東アジア 附 恵蕚関連史料集」の同書店解説に拠った)。先に示した私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」の本文及び注も参照されたい。但し、本篇で彼が「かの補陀洛世界には渡りけれ、そのついでに、此嶋に船をよせて物語せられしと聞傳へたり」と神仙の島人が述べる時、史実と幻界の咬み合わせが甚だ苦しくなる。前の私のリンク先を見て戴ければわかる通り、恵萼の行った「補陀落山」は伝説上のそれでは全くなく、実在する舟山群島のそれであり、そうなると、この、後で「滄浪(そうらう)」と名指される国は、日本と舟山群島の間、則ち、ヒ東シナ海のど真ん中に存在していると考えるべきであろう。日本語が通じるとなれば、更に具体に琉球弧(南西諸島)を含むことになる。これは最初に源為朝を出したところで、迂遠に伏線であったのだとも言えるが、中国で古くより東海の洋上に浮遊するとされた神仙の理想郷蓬莱山を念頭に置いていることは言うまでもない。

「九節(きうせつ)の菖蒲酒(しやうぶしゆ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『九つの節を持つ菖蒲を持つ菖蒲で仙薬』とする。「節」とは単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属 Acorus の、薬用にする根茎の意であろう。

「碧桃(へきたう)」小学館「日本国語大辞典」では、最初に『白色の桃の花。または、白色の桃の実』で白桃を指すとしつつ、二番目に『桃の実の一種。青みがかったものか。また、仙人の食用とするものとも』として明の李時珍の本邦での本草書のバイブル「本草綱目」を引くが、当該の巻二十九の「果之一」の「果類」のそれは、名前だけで解説がない。まあ、桃は中国では古来より不老長寿の仙薬・霊薬であり、その「碧桃」の花の蘂だけを漬けこんだ酒とは、これまた贅沢である。

「保元・平治」一一五六年~一一六〇年。北条氏康の没年の元亀二(一五七一)年からは、四百年以上前となる。

「その石、谷峯の道、分れ、『瀧の白玉、とび散るか』と、あやしまれ、たゞ、水音の落ちたぎらぬぞ、石の紋(もん)とは、おぼえけれ」自然物でありながら、細部に至るまでが、徹底した時空間を切り取ったミミクリーを示しているのである。

「九夏(きゆうか)三伏(ふく)」(きゅうかさんぷく)は四字熟語として、「夏」或いは「夏の最も暑い時期」を指す。「九夏」は「夏の九旬」で「夏の九十日間」、広義の「夏」全体を指す。「三伏」は「初伏」(夏至後の三度目の庚(かのえ)の日)・「中伏」(四度目の庚の日)・「末伏」(立秋後の初めての庚の日)のことで、これが特に「夏の最も暑い時期」を指している。

「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。

「帳臺」貴人の座所(居間)や寝所として屋内に置かれた方形の大型の調度具。四方に帳(とばり)を垂らす。その材料が鼈甲とは恐れ入った。

「内外」私は「うちと」と読みたい。

「水精(すゐしよう)」「水晶」に同じ。

「上淸珍歡醴(じやうせいちんくわんれい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「上清」は玉清・太清と並ぶ道教の三天』(道教の最高神格である三清(さんせい)である「太元」を神格化した最高神「元始天尊」・「道」を神格化した「霊宝天尊」(太上道君)・老子を神格化した「道徳天尊」(太上老君)の三柱が住むとされる場所)『の一。「醴」は酒で、客をもてなすための天酒の意か』とある。

「屑(すりくず)」読みは元禄版もママ。

「銀」「しろがね」と読んでおく。

「檻高(おばしま)」欄干。

「降眞臺(かうしんだい)」道家や道教で理想とされる最高の人を指すのが「眞人」。俗世界を超越して無為自然の絶対不可知の宇宙原理を感得し得た「道(タオ)」の極致に達した者を指す。具体な「仙人」の意ととっても良いが、私は厭だ。仙人には上から下まで等級が無数にあり、しょうもない仙人も多数いるからである。

「十五間の厩(むまや)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『厩の一間は。室町時代で七尺五寸程度』(二・三七メートル)。『厩の規模は、公方で七間』(十二・七三メートル)、『管領家で五間』(約九・一〇メートル)、『細川家は十三国拝領したので十三間』(二十三・六三メートル)『の大きさという。「十五間」』(二十七・二七メートル)『は良馬三十頭を収容できる最大の規模(武家名目抄四)』とある。

「連錢(れんぜん)」「連錢葦毛」。馬の毛色の名。葦毛(灰色の馬。肌は黒っぽいものの生えている毛が白く、遠目には白馬である)に銭を並べたような灰白色の斑模様のあるもの。

「五寸(〔ご〕き)・六寸(むき)」「寸(き)」は馬の大きさを示す特殊な数詞で、読む場合には「寸(き)」と読んで「すん」と弁別したもの。地上から跨ぐ背までの高さが四尺(一・二一メートル)を標準として(一寸(き))とし、それよりも高いものを寸単位で「寸(き)」と呼称してプラスして示したもの。「五寸」は一メートル三十六センチメートル、「六寸」は一メートル三十九センチメートルとなり、戦国時代としても破格に大きい馬である。

「茅(ちがや)」  単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica 。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ(当該ウィキに拠る)。

「あざむく」見紛う。

「棗(なつめ)」双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba 。南ヨーロッパ原産であるが、中国・西アジアへ伝わり、一説では中国原産ともされる。日本への渡来は奈良時代以前とされる。

「秦珊瑚(しんさんご)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「秦」は「榛」』(双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii 、或いはカバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica を指す)『と同意に用いて、繁茂した珊瑚樹』双子葉植物綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var.awabuki )『を指すか』とある。

「生(なり)こだれたり」植生のさまで、特に徐々に低くしな垂れたり、地に伏すような状態になったりすることを指す。

「金闕(きんけつ)」王宮の門。

「銀臺」銀で飾った高楼。

「玉樓」美しい高楼。

「紫閣」「紫色の御殿・美しい宮殿」の意であるが、ここは「神仙のいるところ・隠者の住まい」の意。

「鳳(ほう)の甍(いらか)」豪壮な宮殿に美称。

「虹の梁(うつばり)」虹のように反りを持った壮大な梁。

「砌(みぎり)」原義は「軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所」であるが、ここは転じて、「庭・区切られた境域」の意。

「二町」約二百十八メートル。

「井出〔ゐで〕の山吹」「井出」は現在の京都府南部の地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。木津川に注ぐ玉川の扇状地にあり、奈良へ至る交通の要地。井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が別荘をおいた所で、「山吹」と「かわず」(カエル)の名所。「井手の玉川」は六玉川(むたまがわ)の一つであり、歌枕。バラ目バラ科サクラ亜科ヤマブキ属ヤマブキ Kerria japonica の枕詞のように用いたもの。

「おのづから、金(こがね)花咲くよそほひ」自然、金がそのままに花となって咲いたかと見紛う美容。

「水中に魚(うを)あり。其色、赤くして、こがねの如く、皆、おのおの、四の足あり」至四足を持った幻魚は中国の幻想地誌類や本草書によく出現する。敢えて大山椒魚(「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」を参照)などを比定する必要はない。

「古鄕」「ふるさと」と訓じたい。

「凌波(りようは)」波浪にあって船舶を正しく航行させることの出来る波。

の風を起して、送りまゐらせん。是れまで來り給ふしるしには、馬一疋・鸚鵡一羽を舟に入れたり。」

「氏康は、もはや、病死、あり」北条氏康は元亀二年十月三日(一五七一年十月二十一日)に享年五十七で小田原城内で病死した。当該ウィキによれば、元亀元(一五七〇)年八月頃から、『中風とみられる病を得ており』、八『月初旬には鎌倉』の円覚寺塔頭『仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、「風聞としてではあるが』、『氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、信玄が豆州に出たことも分からないようだ」と記し伝えている。その後』、十二『月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、明けて元亀』二『年に入ると』、『氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。そして』同年五月十日を『最後に文書の発給は停止されている』とある。

「垂仁(すいにん)天皇」在位は垂仁天皇元年(機械換算:紀元前二九年)~垂仁天皇九九年(同前で七〇年)。実在は疑われている。

「田道(たみち)の間守(まもり)」現行の読みは「たぢまもり/たじまもり」。当該ウィキによれば、「日本書紀」では「田道間守」、「古事記」では「多遲摩毛理」「多遲麻毛理」と表記されている。天日槍(あめのひぼこ:新羅からの伝承上の渡来人)の後裔で、三宅連(三宅氏)の祖。『現在は菓子の神・菓祖としても信仰される』。「日本書紀」の垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇九〇年二月一日、『田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」』(不老不死の仙郷「常世の国」にあるという不老不死の果実。一般に「橘」(双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana )とされるが、この同定は頗る怪しい)を『求めに常世の国に派遣された。しかし垂仁天皇』九九年七月一日、『天皇は崩御』し、『翌年(景行天皇元年)』三月十二日、『田道間守は非時香菓』「八竿八縵」(やほこやかげ:』『竿・縵は助数詞で、葉をとった』八『枝・葉のついた』八『枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したと』される。「古事記」垂仁天皇の『段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」』『を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くと』、『その実を取り』、「縵八縵矛八矛」を『持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため』、「縵四縵矛四矛」を『分けて大后に献上し』、後の「縵四縵矛四矛」を『天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだと』とする。また、「万葉集」巻第十八(四〇六三番)では『田道間守の派遣伝承を前提とした歌が』、同巻(四一一一番・反歌四一一二番)では『田道間守を題材とする歌が載せられている』。『現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓に仮託され』ている。『この小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の』「御陵図」には、『島の存在が描かれていないため、明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測されている』。但し、「廟陵記」などに於いて、『周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある』。『後述する田道間守の菓祖神としての信仰により、現在は小島の対岸に拝所も設けられている』。『「たじまもり/たぢまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説があ』り、その『類音からタチバナ伝来の物語が引き出されたと見られ』ており、『「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある』。『また、タチバナは植物の名前であると同時に』、『大王家の宮殿があった大和国高市郡の橘とも関わりがあり、田道間守の説話はこの橘の宮殿に出仕していた但馬の三宅連の祖先の説話として位置づける説もある。特に允恭天皇の皇女である但馬橘王女は三宅連による奉仕の対象であったとされる。更に大和から但馬へ向かう際の交通の要所に当たる摂津国猪名に「タチバナ」(中世の橘御園を経て、現在の兵庫県尼崎市立花町)という地名があるのも、同地が大和の橘の宮殿および但馬の三宅連に関連する所領であったとする見方もある』。『上記説話に見えるような果物や薬草を求めて異界に行く話は世界各地に伝わるが、この説話には』、『特に中国の神仙思想の影響が』明らかに働いており、『秦の徐福が蓬萊に不老不死の薬を求める伝説』との酷似性が指摘できる。『内藤湖南は』「卑彌呼考」において、「魏志」倭人伝に、『卑弥呼から魏へ遣わされたと見える大夫』(たいふ)の難升米(なしめ)を『田道間守に比定しているが』、「日本書紀」では『卑弥呼は神功皇后の時代とされており、田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇』九十『年を機械的に西暦に換算すると』、紀元後六十一『年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた』紀元後五十七『年に近いため、書紀の編者は田道間守を倭奴国の大夫と考えていたことが推測され』なくもない。なお、「日本書紀」では、田道間守の『父の清彦』(きよひこ)『による出石神宝の献上説話の後に』、この『田道間守説話が掲載されている』ことから、『前者はレガリア』(ラテン語:regalia:王権などを象徴するアイテム。古代中国や日本では斧鉞(ふえつ:おの)であった)『献上に伴う出石族』(いずしぞく・天日槍を奉斎した氏族)『のヤマト王権への服属を象徴し、後者はそれ以後に出石族が王権に忠節を尽くす様を象徴すると見られている』とある。『田道間守』は、記紀の『説話に基づいて菓子神・菓祖とする信仰があり、中嶋神社(兵庫県豊岡市、位置)では「田道間守命」の神名で菓子神として祀って』おり、『この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている』。『また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える』とある。

「腹切つて、死(しに)たり」遊仙思想に従うなら、仙界に行った者は現実世界を倦厭し、戻ることはしない。ここは忠義を建前として所謂、人体の死を以って仙人となる、最も下等な「尸解仙」と私は読む。]

2021/05/28

大和本草諸品圖上 ウケウト・サクラ苔(ノリ) (「おきゅうと」(エゴノリ・イギス)・サクラノリ)

 

Ukeutosakuranori

ウケウト

 海草其葉如此煮レハ凝

 テ如ㇾ冰心太ノ如シ色紫ナ

 リ人食ㇾ之有小毒

○やぶちゃんの書き下し文

うけうと

 海草。其の葉、此くのごとし。煮れば、凝〔(こご)〕りて、冰〔(こほり)〕のごとし。心太〔(ところてん)〕のごとし。色、紫なり。人、之れを食ふ〔も〕、小毒、有り。

――――――――――――――――――

サクラ苔(ノリ)

 壹岐島ニ產ス可ㇾ食

[やぶちゃん注:前の二種は水族でないので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからトリミングした。前者は加工食品としての「おきゅうと」で、主材である、

紅色植物門真正紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides

をまず挙げ、それに代えたり、配合したりする、

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科ギス連イギス属イギス(海髪)Ceramium kondoi

も挙げておかないとだめだ。何故なら、図が簡略に過ぎて、イギスではないとは断言出来ないからである。「おきゅうと」及び以上の二種などについては、「大和本草附錄 うけうと (おきゅうと)」を参照。

後者は、

紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科ムカデノリ属サクラノリ Grateloupia imbricata

だが、この図は拙劣に過ぎる。「大和本草附錄 櫻苔(サクラノリ) (サクラノリ)」を見られたいが、そこでも引いた、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」のこちらのサクラノリの生体藻体画像と比べられたい。博物画の「は」(いや、絵の「いろは」の「は」だ!)の一画目にさえ至らない!]

只野真葛 むかしばなし (29)

 

 工藤のぢゞ樣は、獅山樣、御隱居に付(つき)、めし出(いだ)されし。桑原ぢゞ樣は、○忠山樣御代のかたの御奉藥なり。されどこの殿は、四十そこらの御よはひにて、かくれさせ給ひし故、獅山樣御かくれ後、餘り、ほどもなかりしなり。父樣は徹山樣御代より御つとめ被ㇾ成し。ぢゞ樣、○獅山樣御看病づかれがもとゝ成(なり)て、はてられしに、とゝ樣御つとめがけは、御孫の御代と成しをもて、年數、考らるべし。

○獅山樣は御食味を分(わけ)らるゝこと、妙なる殿にて有しとぞ。御茶さし上るに、一口めし上りて、是はいづかたの井より、くみし水、といふ事を、たしかに、しらせられしとなり。ひぢり坂のもとに燒餠を多年賣るぢゞ有しとぞ。いづちの御通行の時にや、獅山樣、御覽じ付て、歸らせられてより、

「ひぢり坂のもとなるぢゞに、餠、やかせよ。」

とて、御臺所より、餡《あん》を、ねらせ、皮を、とゝのへさせて、役人、あまた見分して、其ぢゞに餠をやかせてさし上しに、

「よくやきし。」

とて、御ほうび、おほく賜りしとぞ。さて後、折々、御好(おこのみ)にて、ぢゞがもとに被ㇾ仰しに、ある時、もて來りし餠を一目見給ひて、

「是は、例のぢゞが燒たるには、あらじ。」

とて、御手、つかざりしとぞ。御側の者、はしり行て、事のよしをたゞすに、「ぢゞがやきしにたがはぬ」よしを申上しかば、

「さあらば、鍋のたがひたるぞ。元の鍋にて、やかせよ。」

と被ㇾ仰し故、ぢゞがもとに行て、そのよしをとふに、

「元の鍋、ちいさくて、餠やくには、ゆかぬ故、『大きなるを、ほしゝ』と、ねがひをりしかども、力およばで有りしを、此ほど、御ほうびにほこりて、大鍋あつらへいでこし故、古鍋は行通(ゆきどほり)の地金買《ぢがねかい[やぶちゃん注:ママ。]》に賣りてありしが、たづぬべきやうも、なし。」

とて、なげきゐたりしとぞ。

 そのよしを申上しかば、殿、

「鍋肌のよさに、申付(まうしつけ)しことぞ。」

と被ㇾ仰て、後、さして、御沙汰なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:この「○」であるが、節約のために擡頭(たいとう:敬意を表わすべき人名や特別な語の直前で改行し、その語をほかの行の先頭より一文字から数文字高いところから書き始めること)の代わりに使っていることが頭の部分で判る。

「獅山樣」複数回既出既注であるが、少し休んだので、再掲しておく。仙台藩第五代藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。当該ウィキはこちら

「忠山樣」同第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。当該ウィキはこちら

「徹山樣」同第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のそれ。戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら因みに、本書「むかしばなし」は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。

「たしかに、しらせられし」確実に言い当てられた。

「ひぢり坂」「聖坂」。現在の東京都港区三田四丁目にある聖坂(グーグル・マップ・データ)。

「行通の地金買」たまたま通りがかった金物買い。]

大和本草諸品圖上 澤桔梗(さはぎきやう)・雌(め)がや (サワギキョウ・アブラガヤ)

 

Sawagikyoumegaya

 

澤(サハ)桔梗

 澤中ニ生ス秋開碧花

 桔梗色

○やぶちゃんの書き下し文

澤桔梗(さは〔ぎきやう〕)

 澤中に生ず。秋、碧花を開く。桔梗色のごとし。

――――――――――――――――――

雌(メ)ガヤ

 一名油ガヤ

 

 九月有ㇾ花花臭(カ)

○やぶちゃんの書き下し文

雌(め)がや

 一名「油がや」。

 

 九月、花、有り。花に油の臭(か)、有り。

[やぶちゃん注:底本では20コマ目で、左の二図が「水族」ではないので、国立国会図書館デジタルコレクションのそれをトリミングした。前者は、

双子葉植物綱キク亜綱キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ属サワギキョウ Lobelia sessilifolia

「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤桔梗 (サワギキョウ)」を参照されたいが、問題は下方の後者で、これは調べてみると、湿地に生えるカヤ類の、

単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科アブラガヤ属アブラガヤ Scirpus wichurae

であり、私の補塡した広義の「水族」と言えると判断した。しかし、では、本巻で立項しているかというと、調べた限りでは、ない、のである。一応、カヤ類の総論的な「大和本艸卷之六 草之二」の「民用草類」の「芒(スヽキ/カヤ)」(右と左のルビ)を確認したが、本種らしい記載はない。しかし、私の眼に触れ、湿生植物である以上、これは採用することとした。当該ウィキによれば、『アブラガヤ属でもっとも普通な植物』。『大きな株を作る多年生草本』。『茎は株立ちになり、多数の根出葉を出し、その葉は長さ』五十センチメートル『ほどになり、幅は』一センチメートル『前後、その基部は長い鞘にな』り、『葉は茎の節からも出る』。『花期は』八~十月で、花茎は高さ一~一・五メートルに『達し、硬く』、『その断面は角の鈍い三角形をしている。花茎はほぼ直立する』。『基部から先端までの間に』六~九『の節がある』。『花序は』二個~五個で、『先端と、より下の節から出て、それぞれ』二『回から』五『回ほど分枝して、多数の小穂を着ける。個々の枝先には小穂が単独に着く例もあるが』、五『個程度までまとまって生じる。特に』二、三『個集まって着く例が多い』。『花序の基部には苞があり、その基部は鞘になっており、先端には葉状部が長く生じる。 小穂は多数の鱗片がらせん状に並んだもので、長楕円形で長さ』四~八ミリメートルで、『赤褐色をしている。個々の鱗片は広倒卵形で長さ』二ミリメートル。『鱗片の下には雄しべ、雌しべ、および糸状の花被片が含まれる。果実は長さ約』一ミリメートルで、『楕円形』を成し、『断面はやや平らな』三『稜形になっている。柱頭は』三『つに分かれる。花被片は』六『本あり、糸状で長くてくねるように折れ曲がり、また先端近くにはその縁に上向きの小突起が並んでいる』。『和名は油ガヤの意味で、穂の色が油っぽく、また多少』、『油臭い臭いがあることに依る。また別名としてナキリ、カニガヤがある』。『ただし、和名の意味については茎に油がついているような光沢があるため、とする説もある』。『北海道、本州、四国、九州に分布し、日本固有種である』。『低地から山地にかけて湿地に見られ』。『ごく普通に見られるものである』。『本種は変異も多く、また近縁種との区別にも議論が多かった』。二〇一一年のデータで、『日本産のこの属には本種を含め』、九『種が記されている』とある(以下、それら種のやや詳しい記述が続くが、省略する)。要は、益軒はカヤ(カヤツリグサ科 Cyperaceae)やススキ(単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属ススキ Miscanthus sinensis )をほぼ一緒くたに捉えて細分分類はしなかったと考えられる。見た目では結構、違うのだが、ね。]

譚海 卷之四 加州里數幅幷あいもとの橋の事 附越前國船橋の事

 

○加賀國は東西殊に短し。越後より越前のさかひまで、わづかに三十五里あり、是加賀の國はゞ也。南北は百里にあまりて、城下より南信州堺までは八十里にあまれり。其外能登のはなは北海上へさし出たる所四十里よと云へば、南北は百里にあまりたり、加賀の國ざかひ、信州と越後の際に妙高山といふ殊にたかき山有、寒水石など出(いづ)る山なり。往古金ありとて掘(ほる)事二日ばかりせしかど、領主より止(とめ)られたりとなん。又其國あいもとのはしといふは、兩山の絕頂にかけたるものにて、大川兩山の際(きは)を流るゝ事瀧の如し。此はし左右よりもち出(いだし)てかけはじめ、中央にてあふやうにかけたるはしなり、人力のおよぶ所にあらず。かけはじむるとき、岸より細引のつなをさげていく筋となくさげ、それに木を橫たへかけて足代(あししろ)となし、細引にすがりてくだり、絕壁に杭をうち組あげたるはしにて、下よりのぞめは恐ろしき事いふばかりなし。又越前國には舟橋おほし、みな舟を鐡のくさりにてつなぎ、錠をさして板を舟にわたしたるうへを往來とす、平地のごとし。洪水にいたれば錠(ぢやう)をあけくさりをとけば、つなぎたる舟くさりにつらなりて左右の岸にわかれなびき、舟の損ずる事なし。

[やぶちゃん注:標題の「附」は「つけたり」と訓ずる。附録の意。

「寒水石」一般には純白の大理石を指す。

「あいもとのはし」富山県黒部市宇奈月町下立(うなづきまちおりだて)と同市宇奈月町中ノ口(なかのくち)に跨る、黒部川中流に架かる愛本橋(あいもとばし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。よく理解していない人が多いが(大学時代に中高と富山で過ごしたと言うと、東京人に限らず、富山県の位置を正確に指せる人間が極めて少ないことに啞然としたのを思い出す)、加賀藩は加賀・能登・越中(現在の富山県)の三国の大半を領地としたから、ここも加賀藩内なのである。ウィキの「愛本橋」によれば、現在は鉄骨製トラス橋であるが、『かつては全長』六十一・四二メートル、幅三・六二メートルにも『及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の』一つに数えられた名橋であった。『かつて黒部四十八ヶ瀬ともいわれ、河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた、北陸街道の上街道に架かる橋で、加賀藩』五『代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる』。『綱紀は、弱冠』三『歳にして父』であった四『代藩主・光高が亡くなり』、五『代目藩主となったが、幼少期は』三『代利常が後見人となって、江戸屋敷にとどまっていた』。『やがて利常も亡くなり』、寛文元(一六六一)年七月満十八歳の時、『初めて領国入りした』際、『参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を無事に越えて金沢に到着した後、家臣たちを集めて会議を開き、黒部川下流域の入膳宿がある北陸道の下街道を迂回する山沿いに新道を開いて』、『黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようと相談した』。『家臣たちは、領地防衛の要害地に橋を架けることに反対したが、綱紀』は『ただひとり』、『「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれている』。『橋は、甲斐の猿橋と同じ形式の刎橋で、橋長』三十三間(約六十メートル)、幅十尺(約三メートル)で『架橋されて愛本橋と名付けられた』。『両岸は岩山で上流部をのぞけばもっとも川幅が狭く、洪水時には大量の土石と水が集中する。橋脚は』一『年も持たずに流されてしまうために橋の中間に立てることが非常に難しく、川の両岸から大木を突き出す構造であった』。『旧愛本橋が架けられていた場所に近いところには、幕末の儒学者である頼三樹三郎がこの橋を称えた詩碑があ』るとある。

「舟橋」越中の例だが、「三州奇談卷之五 神通の巨川」の本文と私の注を、是非、参照されたい。そこでリンクさせた「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」の絶景や、「富山市郷土博物館」公式サイト内の「博物館だより」のこちらと、こちらも見られたい。]

日本山海名産図会 第三巻 鰆(さわら)

 

Saharanagasiami

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「鰆流網(さはらながしあみ)」。左の二艘が石を投じて群れを驚かしている。]

 

    ○鰆(さはら)

讃刕(さんしう)に流し網にて捕(とら)ふ。五月以後、十月以前に多し。大いなるもの、長さ、六、七尺にも及ふ。漁子(れふし)、魚の集まりたるを見て、數(す)十艘を連ねて、魚の後(あと)より、漕ぎまはり、追ふことの甚しければ、魚、漸(やうやう)勞れ、馮虛(ひやうきよ)として、醉ふがごとし。其時、先に進みたる船より、石を投けて、いよいよ驚かし、引きかへして迯げんとするの期(とき)を見さだめ、網をおろして、一尾も洩すことなし。是れを「大網」、又、「しぼる」とも云ふなり。さて、網をたくり、攩網(たまあみ)にて、すくひ取るなり。○「鰆」の字、亦、國俗の制なり。尤も、字書に「春魚」とあれども、纔かに、二、三步ばかりの微魚にて、さらに充つべからず。「大和本草」「馬鮫魚(さはら)」に充てたり。曰、『魚、大なれども、腹、小に、狹(せは)し。故に、「狹腹(さはら)」と号(なつ)く。「さ」は「狹少(さしう)」なり。「閩書(みんしよ)」に曰、『靑斑色(あほまたらいろ[やぶちゃん注:左ルビ。以下二箇所は同じ。])。無鱗(うろこ、なし)。有齒(は、あり)。其小者(そのちいさきもの)、謂靑箭(さごし)[やぶちゃん注:左ルビ。]云〻。』。○此の子、甚だ大いなり。是れを乾したるを、「カラスミ」といへり。卽ち、「乾(から)し子(こ)」と云。但し、鰡(ほら)の子の乾子(からしこ)は、是れに勝(まさ)る。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius 。蒹葭堂も引いている「大和本草卷之十三 魚之下 馬鮫魚(さはら)(サワラ)」の私の注を参照されたい。そこで私が注したものは繰り返さない。なお、「鰆」は漢語であるが、漢語としては、スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata の俗称であり、サワラを指さない。「鰆」を「さわら」に当てて読んだのは国訓である。

「讃刕」讃岐国の異称。現在の香川県。

「流し網」帯状形の漁網を直線又は鈎(かぎ)形或いは波状に張り下し、海流や風波のままに自由に流す刺網を指す。漁網は、「浮子(あば)」(浮き)はあるが、「沈子(いわ)」(錘(おもり))を欠くものが多く、沈子を有するものも、その沈降力は、甚だ少ないのが普通であった。網を流し、それに伴って船を移動するので、内海・沿岸よりは、沖合で使用するに適している。この種の漁業は、刺網漁業中、最も進歩したもので、河川で行われたサケ・マスの流し網を除くと、イワシ・マグロ・サワラ・トビウオ・サバ・サンマ・カツオなどの各流し網漁業はその代表的なものとして、いずれも江戸中期から明治期にかけて開始されたものが多いが、実際に大規模に盛んになったのは、明治後期以降のことである(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「馮虛(ひやうきよ)」原義は「大空に身をゆだねること・空中に浮かぶこと」である。海中のサワラの群れの慌てふためくさまの比喩表現。

「攩網(たまあみ)」「たもあみ」のこと。竹や針金の枠に、袋状の網を張り、柄を附け、魚を掬うのに使う小形の網。

『「鰆」の字、亦、國俗の制なり』国字であるとを言う。

『字書に「春魚」とあれども、纔かに、二、三步ばかりの微魚にて、さらに充つべからず』例えば、本草書のバイブル「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の「鱊魚」の項で、別名を「春魚」とするが、この「鱊魚」とは、「大和本草卷之十三 魚之上 鱊魚 (イサザ)」で考証したが、中国では、骨鰾上目コイ目コイ科タナゴ亜科バラタナゴ属ウエキゼニタナゴ Rhodeus sinensis という中国産タナゴの一種で、最大でも五・二センチメートルと、ごく小型である。

『此の子、甚だ大いなり。是れを乾したるを、「カラスミ」といへり。卽ち、「乾(から)し子(こ)」と云。但し、鰡(ほら)の子の乾子(からしこ)は、是れに勝(まさ)る』「子」は言うまでもなく、卵巣のこと。詳しくはウィキの「カラスミ」を見られたいが、蒹葭堂の語源説は眉唾である。やはり「唐墨」であろう。そこに『日本ではボラ』(ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus )『を用いた長崎県産のものが有名だが、香川県ではサワラあるいはサバ』(スズキ目サバ亜目サバ科サバ属マサバ Scomber japonicus など)『を用いる』としっかり書かれてある。]

芥川龍之介書簡抄71 / 大正六(一九一七)年書簡より(三) 塚本文宛・井川(恒藤)恭宛

 

大正六(一九一七)年四月十八日・鎌倉発信・塚本文宛

 

こないだは、よく來てくれましたね 人が來たり何かして、ゆつくりしてゐられなかつたのが、殘念です 二人だけで、何時までも話したい氣がしますが さうも行きません

五六日前に 電車の中で、不良靑年が どこかのお孃さんのあとをつけてゐるのを見ました そのお孃さんは 何でも學校のかへりらしいのです 不良靑年の方は 三人ゐました みんな下等な いやな奴ばかりです 原町かどこかで、そのお孃さんが電車を下りたら、みんな一しよに下りました ひるまですが、氣の毒にもなり 心配にもなりました さうして、もしそんな事が文ちやんにあつたら 大へんだと思ひました その時は夏目さんへゆく途中だつたのですが 向うへ行つて奧さんにその話をしたら 夏目さんのお孃さんたちの所へも 支那の留學生があとをつけて來た事があると云ふんで、驚きました あとをつける所ぢやない 何時までも門の外に立つて、お孃さんの出るのを待つてゐたり 電話をかけたりするんださうですから 不屆きです その時も 少し文ちやんの事が心配になりました それから橫須賀の學校へ行つて、東京の不良靑年の話をしたら、橫須賀にもそんな連中が五六人ゐて、ナイフで羽織を切つたり 途中で喧嘩をふきかけたりするんだと云ふので、愈物騷な氣がし出しました 世の中には 我々善良な人間が考へてゐるよりも 遙にさう云ふ連中が多いのです よく氣をつけて下さい 僕たち二人の爲にですから

來年の今頃にはもう、うちが持てるでせう 尤も月給が六十圓しかないんだから ずゐぶん貧乏ですよ それでやつて行くのは 苦しいが がまんして下さい 苦しい時は 二人で一しよに苦しみませう その代り樂しい時は二人で一しよに樂しみませう さうすれば又 どうにかなる時が來ます 下等な成金になるより 上等な貧乏人になつた方がいいでせう さう思つてゐて下さい

僕には 僕の仕事があります それも樂な仕事ではありません その仕事の爲には ずゐぶん つらい目や苦しい目にあふ事だらうと思つてゐます しかしどんな目にあつても、文ちやんさへ僕と一しよにゐてくれれば僕は決して負けないと思つてゐます これは大げさに云つてゐるのでも 何でもありません ほんとうにさう思つてゐるのです 前からもさう思つてゐました 文ちやんの外に僕の一しよにゐたいと思ふ人はありません 文ちやんさへ、今の儘でゐてくれれば 今のやうに自然で、正直でゐてくれれば さうして僕を愛してさへゐてくれれば

何だか氣になるから ききます ほんとうに僕を愛してくれますか

この手紙は 文ちやん一人だけで見て下さい 人に見られると 氣まりが惡いから

    四月十六日          龍

   文 子 樣

 

[やぶちゃん注:この前の四月十二日に芥川龍之介は養父道章を伴って、京都・奈良見物に出かけ、この日の午後には、井川改め恒藤恭の新家庭を訪問しており、翌十三日には恒藤恭の案内で、東本願寺・嵐山・清涼寺・金閣寺を訪れ、夕方には都踊りを見物、十四日(土曜日)、道章と二人で奈良を見物した後、午後八時二十分発の列車で京都を立って、翌十五日に田端の実家に戻っている。この時、養母儔(トモ)が丹毒(化膿菌の一つである連鎖球菌が皮膚に感染し、真皮内に化膿性炎症を起こす疾患。小外傷・熱傷・湿疹などが細菌の侵入契機となる。顔と手足に好発し、悪寒・発熱を伴って、皮膚に境界のはっきりした発赤と腫れが生じ、触れると硬く、灼熱感と圧痛があり、リンパ節も腫れて痛む。病変は高熱とともに周囲に拡大し、粘膜の侵された病状や、小児・高齢者に生じた場合は重症となる。治療は安静にして抗生物質の全身投与を行い、病変部には湿布を行う。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)で高熱を発して床に就いていた(五月初旬に軽快した。以上は併載した次の恒藤恭宛書簡も参照されたい)。また、この数日後の四月二十日には書き悩んだ「偸盗」の続編を脱稿している(七月一日『中央公論』に掲載された。以上は総て新全集宮坂年譜に拠る)。

「原町」現在の東京都新宿区原町にあった市電(当時は東京市)の停車場名。後に「小石川原町」と改称し、都電廃止とともに消滅した。]

 

 

大正六(一九一七)年四月二十二日・消印二十四日・京都市外下鴨村松原中ノ町八田方裏 井川恭樣[やぶちゃん注:ママ。]・四月廿二日 東京田端四三五 芥川龍之介

 

 先達はいろいろ御厄介になつて難有う

その上、お土產まで頂いて、甚恐縮した 早速御禮を申上げる筈の所、かへつたら、母が丹毒でねてゐた爲、何かと用にかまけて 大へん遲くなつた。

 かへつた時は まだ四十度近い熱で、右の腕が腿ほどの太さに 赤く腫れ上つて 見るのも氣味の惡い位だつた。何しろ 命に關る病氣だから、家中ほんとうにびつくりした が、幸とその後の經過がよく、醫者が心配した急性腎臟炎も起らずにしまつた 今朝患部を切つて、炎傷から出る膿水をとつたが それが大きな丼に一ぱいあつた 今熱を計つたら卅七度に下つてゐる このあんばいでは、近近快癒するだらうと思ふ 醫者も もう心配はないと云つてゐる、

 何しろ かへつたら、芝の伯母や何かが、泊りがけで 看護に來てゐたには、實際びつくりした 尤も腕でよかつたが、

 醫者曰く「傳染の媒介は 一番理髮店で、耳や鼻を剃る時にかみそりがする事が多い さう云ふのは 顏へ來る。顏がまつ赤に腫れ上つて 髮の毛が皆ぬけるのだから女の患者などは 恢復期に向つてゐても、鏡を見て氣絕したのさへあつた」と 用心しないと、あぶないよ 實際

 とりあへず御禮かたがた 御わびまで

 まだごたごたしてゐる

    廿一日夜           龍

 

[やぶちゃん注:「芝の伯母」既出既注であるが、「伯母」とするが、叔母で龍之介の母フクの死後に敏三の後妻となったフクの妹フユのこと。義母に当たることから「伯母」と呼んでいるのであろう。]

大和本草諸品圖上 山葵葉(わさび) (ワサビ)

 

Wasabi

 

山葵葉(ワサビ)

 二月細白花

○やぶちゃんの書き下し文

山葵葉(ワサビ)

 二月に細き白花を開く。

[やぶちゃん注:底本では15コマ目で、他の三図が「水族」ではないので、トリミングした。以上の通り、使用した国立国会図書館デジタルコレクションのそれでは、旧蔵者の朱点が入っている。

 【「小字通」。】

であろうが、この「小字通」という字書・辞書或いは類書は知らない。「菜」は中文サイトのこちらに出現し、「六叶复叶」と標題し、学名を Moringa pterygosperma Gat. とする。先に言っておくと、この種は山葵とはなんの関係もない木本である。従って、この朱点者のそれは完全に無効である。これはウィキの「ワサビノキ」によれば、広く栽培されている食用植物で、民間や流通でもの属名のまま「モリンガ」で呼ばれることが多い、双子葉植物綱アブラナ目ワサビノキ科ワサビノキ属ワサビノキ Moringa oleifera のシノニムである。『インド北西部のヒマラヤ山脈南麓を原産とし、熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されている。栽培地域を中心に若い果実や葉が野菜として食される他、浄水や手洗いに用いられ、時に薬用植物とされる』。『属名のモリンガ(Moringa )はタミル語のムルンガイ(murungai、「捻じれた莢」の意)に由来する』。『種小名の oleiferaは「油を持つ」を意味し、搾油できる特徴による』。『ワサビノキは、成長が速い樹木であり、環境に応じて常緑性または落葉性を示す。成木は高さ』十~十二メートル、直径四十五センチメートルに『まで達する』。『樹皮は白みがかった灰色で、厚いコルク層に覆われている。若い芽は、紫や緑がかった白の毛むくじゃらの樹皮を持っている。樹冠は開けており、枝は脆く垂れやすく、葉は』三『回羽状複葉』とある。『日本においては沖縄県(沖縄本島、宮古島、石垣島等)、鹿児島県与論島、熊本県大矢野島等で限定的ながら』、『産業としての栽培が行われている』という。詳しくは引用元を参照されたい。

 本図に戻る。日本固有種である、

双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科ワサビ属ワサビ Eutrema japonicum

である。先般、やったばかりの『大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 山葵(わさび) (ワサビ) / 幻の「ワサビ」の漢語「山菜」の古記載を発見した!』を参照されたい。]

大和本草諸品圖上 海帆(うみまつ) (ウミカラマツ・ムチカラマツ・ウミウチワ・イソバナ等)

 

Umimatu

 

海帆(ウミマツ)

 紅色如ㇾ彩トルカ海中ノ岩ニ生ス

 又靑色ナルアリ奇品也

○やぶちゃんの書き下し文

海帆(うみまつ)

紅色。彩〔(いろ)〕どるがごとし。海中の岩に生ず。又、靑色なるあり。奇品なり。

[やぶちゃん注:底本の12コマ目左下。これ以外三品は水族ではないので、特異的に国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。「大和本草」の本巻内には「海帆」は立項されないし、少なくとも私の電子化した同書の水族と判断した本文中にも「海帆」「海帆」はない。しかし、そもそもが、「海帆」は一般名詞そのままの馬鹿な命名であっておかしい。そして、その「帆」と、ルビの「ウミマツ」と、解説と、図から、これは枝状の珊瑚と誰でも判る。されば、これは、「大和本草卷之八 草之四 海藻類 石帆 (×海藻ではない刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間)」の附図と採ってよい。そこで私は、まず、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目 Antipatharia の仲間である、

ウミカラマツ Antipathes japonica

ムチカラマツ Cirripathes anguina

を第一候補とし、次に、現代中国語で「石帆」は“sea fan”に英訳され、これは別名を「海団扇」とすることから、

刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ヤギ目角軸(全軸/フトヤギ)亜目トゲヤギ科ウミウチワ属ウミウチワ Anthogorgia bocki 及びその仲間

を加え、さらに同形態を示す同じヤギ目の、

イソバナ科イソバナ属イソバナ Melithaea flabellifera

も同定候補とした。リンク先注の内容に特に変更を加える必要は感じない(一部で属名を落していたのを見つけたので追記しておいた)。なお、「青いのは青珊瑚じゃないの?」と突っ込まれる方のために一言言っておくと、八放サンゴ亜綱共莢(アオサンゴ)目アオサンゴアオサンゴ Heliopora coerulea の群体は枝状になることもあるにはあるが、多くは角状・指状・板状であり、このような繊細に綺麗な枝状を呈することはまずなく、あっても太い無骨なものである。嘘だと思うなら、学名でグーグル検索したのをリンクさせておく。ほうら、一つも、ないでしょう?]

2021/05/27

大和本草諸品圖上 蓴菜・睡蓮・荇菜

 

1_20210527170201

 

蓴菜

 睡蓮

 蓴菜

 荇菜

 三種

 一類

――――――――――――――――――

睡蓮

――――――――――――――――――

荇菜

――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:遂に最後の「諸品圖」巻(上・中・下三巻)に入る。囲み字は太字に代えた。画像は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を使用した(当該部はここ)。裏写りがかなり強いが、細部の描写は、こちらの方が元の筆致を伝えていると私は判断するものであるからである。底本の中村学園大学図書館蔵本画像PDF11コマ目)はすこぶる明瞭なものの、読み易さを考えて、明度が異様に高く設定されていて、非常に見やすいとは言え、実は原本の筆致が失われていると感ずるからである。以下、特別なケースを除いて、これでゆく。

 なお、本ページの如く、最大で左右頁四種の内三種が水族の場合は、図を纏めて、トリミングせずに示し、翻刻して注を附す。その場合、本図の右上の「宮城野ハギ」のように水族でないものは翻刻や注対象からは外す。囲み字は太字に代える。電子化では各図の間をダッシュで区切った。ここでは、訓点を含めて原本に忠実に翻刻し(但し、熟語指示のダッシュは省略した)、必要と認めたものだけを訓読することとする。

 正直、この「諸品圖」の絵は博物画として決して上手くはない。しかし、それでも「諸品圖上」と「同中」の植物は静物であるだけに、それほど「下手」とは思われず、寧ろ、枝葉の細部をかなり細かに描いて、時に花や実を拡大して添えたりしており、絵だけでも種同定がかなり可能な感じがするが、これが、「同下」(中村学園大学図書館蔵本画像・PDF)の「禽類」に入ると。かなり怪しくなってくる。事実、所持する平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」でも、鈴木道男氏が、『身近な小鳥はよく要点をおさえて図も描いており、この時期の版本としては上出来のものである。しかしアオサギやトキ、バン、クイナ(いずれも推定)』(これは甚だ深刻な謂い方であって、標題はそれぞれそうなっていても(実際にそうなっているのである)、実際に現在の当該種に同定出来る確証がないことから、かく言っておられるのである。これは本草図譜としては、かなり深刻にして致命的な事態と言わざるを得ない)『といった水禽類など、まだ図のみから識別できる水準にはない』と注されておられるのである。さらに、これが続く「魚類」(底本12コマ目参照)になると、正直、目も当てられない感じのものが増えてくるのである。私は実はこの図の内、少なくとも「魚類」パートのそれは、筆致や対象把握のレベルが著しく落ちており、益軒の自筆とは思っていない。恐らくは、絵心のあまりない彼の弟子の手になるものなのではないか? と推測している。中でもトビッキリの仰天デフォルメの最たるものが、「カブトガニ」の図で、これは、二〇一八年四月の『大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図 一挙掲載!』で特別にフライングして示したが、御覧の通り、「御当地キャラ」と見紛うものである。こんなシュール(絵としては面白いし、カブトガニの甲殻機動隊的イメージはよく出てはいる)なものは、私なら、博物画として載せることを――絶対に――許さない。あの世から化けて出ても、だ。芳賀氏も前掲書で、この『魚類図には、大雑把に描かれたものが多い。水棲動物を空気中で描くのだから作画自体が困難ではあるが。』(ここで句点を打っておられる芳賀氏の内心が私にはよく判る)『これらの絵図は、益軒本人の作なのか、彼の死後』、『余人が描いたものか不明だが、私は後説を採りたい』とはっきり述べておられるのである。そういうこともあって、殊更に仰々しく一図一図をトリミングはしないのである。悪しからず。

「蓴菜」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi 「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を参照されたい。

「睡蓮」双子葉植物綱スイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea 亜属 Chamaenymphaea 節ヒツジグサ Nymphaea tetragona 「大和本草卷之八 草之四 水草類 小蓮花 (ヒツジグサ)」を参照されたい。

「荇菜」私は双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属ガガブタ(鏡蓋) Nymphoides indica 或いは、アサザ属ヒメシロアサザ Nymphoides coreana に同定した。「大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」を参照されたい。]

大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 水萵苣(かはちさ) (カワチシャ) / 大和本草本巻からの「水族」抽出~了

 

【外】

水萵苣 葉ハ蓼ニ似テ微大ナリ救荒本草曰

Kahatisya

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像を最大でダウン・ロードしてトリミングした。ここである。この図がこの本文の二行目の冒頭に配され、以下、次の行に示したものが、下に書かれてある。]

一名水菠菜水邊多生苗髙一

尺計葉似麥藍葉而有細鋸齒兩葉對生每兩葉

間對叉又生兩枝稍間開靑白花結小靑蓇葖如

小椒粒大其葉味微苦性寒○萵苣ト葉ノ形狀

不同味ハ粗似タリ生ニテモ煮テモ食ス性冷滑熱

毒ヲ消ス虚寒ノ人ハ不宐本草ニ柔滑類ニ水苦

𦽿アリ或カハチサト訓ス恐クハ非ナラン與木萵苣

別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

水萵苣(かはちさ) 葉は、蓼〔(たで)〕に似て、微〔(やや)〕、大なり。「救荒本草」に曰はく、『一名、「水菠菜〔(すいはさい)〕」。水邊に多く生ず。苗の髙さ一尺計り。葉、麥藍〔(ばくらん)〕の葉に似て、細き鋸齒、有り。兩葉、對生〔(たいせい)〕す。兩葉の間每〔(ごと)〕に、叉〔(さ)〕に對し、又、兩枝を生ず。稍〔(やや)〕間〔ありて〕、靑白の花を開き、小〔さなる〕靑〔き〕蓇葖〔(こつとつ)〕を結ぶ。小椒〔(こせう)〕の粒の大きさのごとし。其の葉、味、微〔(やや)〕、苦く、性は、寒なり。』〔と〕。

○萵苣〔(ちさ)〕と葉の形狀、同じからず。味は粗〔にして〕、似たり。生にても、煮ても、食す。性、冷、滑、熱。毒を消す。虚寒の人は宐〔(よろ)〕しからず。「本草」に「柔滑類」に「水苦𦽿」あり。或いは「かはちさ」と訓ず〔れども〕、恐くは非ならん。「木萵苣」と〔は〕別なり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱シソ目オオバコ科クワガタソウ属カワヂシャ Veronica undulata当該ウィキによれば、『別名、カワヂサ、カワジサ』。『茎は円柱形で柔らかく、直立または斜上して、高さは』十センチメートルから一メートルにも『なり、淡緑色で毛はない。葉は対生し、葉身は狭卵形または長楕円状狭卵形で長さ』は二・五~八センチメートル、幅は五ミリメートルから二・五センチメートルで、『先端は』少し尖り、『基部は葉柄がなく』、『円形になって茎を半ば抱き、縁にはややとがった鋸歯がある。葉質は』、『やや肉質で柔らかく、茎とともに毛はない』。『花期は』五~六月で、『葉腋から長さ』五~十五センチメートル、幅一~一・五センチメートルになる『細長い総状花序を出し』、五十から百二十個もの『花をつける。花柄は長さ』三~五ミリメートルに『なり、腺毛が生え、斜上し、果時にはまっすぐに伸びる。萼は深く』四『裂し、裂片は狭卵形で』、尖る。『花冠は径』四~六ミリメートルで『皿状に広く開き』、四裂し、『白色から白紫色になり』、『淡紫色から淡紅紫色の脈がある。雄蕊は』二『個、雌蕊は』一『個ある。果実は蒴果となり、球形で、長さ、幅ともに』二・五~三・二ミリメートルで、『先端はわずかにへこみ、先端に長さ』一~一・五ミリメートルの『花柱が残る。種子は板状の楕円形で』、『多数あり、長さ』〇・五ミリメートル、幅〇・四ミリメートルと小さい。『日本では、本州、四国、九州、琉球諸島に分布し』、『川岸、溝の縁、水田のあぜなど多湿地に生育する』。『世界では、台湾、中国大陸、東南アジア、インドに分布する』。『和名カワヂシャ(川萵苣)は、「川べりに生えるチシャ』」(=「萵苣(ちしゃ)」=レタス=双子葉植物綱キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa )『の意味』である。『種小名』の『undulata は、「波状の」「うねった」の意』である。『和名の由来のとおり、若葉は軟らかく、キク科のレタス類のように食用にされる』とある。

「蓼〔(たで)〕」双子葉植物綱ナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ(ペルシカリア)節 Persicaria の広義のタデ類或いは、狭義には同属同節のヤナギタデ Persicaria hydropiper を指す。私は似ているとは全く思わない。

『「救荒本草」に曰はく、『一名、「水菠菜〔(すいはさい)〕」。水邊に多く生ず。苗の髙さ一尺計り。葉、麥藍〔(ばくらん)〕の葉に似て、細き鋸齒、有り。兩葉、對生〔(たいせい)〕す。兩葉の間每〔(ごと)〕に、叉〔(さ)〕に對し、又、兩枝を生ず。稍〔(やや)〕間〔ありて〕、靑白の花を開き、小〔さなる〕靑〔き〕蓇葖〔(こつとつ)〕を結ぶ。小椒〔(こせう)〕の粒の大きさのごとし。其の葉、味、微〔(やや)〕、苦く、性は、寒なり。』〔と〕。』「救荒本草」は何度も出たが、これで本巻部を終わるので再掲しておくと、明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる優れものの本草書である。全二巻。一四〇六年刊。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説していのるのであるが、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、この「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の巻二の「草部」の「水萵苣」をほぼそのまま引いている(この左がその図の頁で、こちらの次の頁の右が益軒が引用した解説部分である)。今回は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像もトリミングして以下に添える。益軒は一部で字を落しており、最後の「救荒」附記もカットしているので、煩を厭わず、それで視認して解説部の原文を示しておく。国立国会図書館デジタルコレクションのそれは享保元(一七一六)年の本邦での板行版であるため訓点が打たれているが、まず、原文を白文で示し、必要な箇所を後で注した。

   *

 

Kawajisya1

 

Kawajisya2

 

水萵苣 一名水菠菜水邊多生苗高一尺計葉似

麥藍葉而有細鋸齒兩葉對生每兩葉間對叉又生

兩枝稍間開靑白花結小靑蓇葖如小椒粒大其葉

味微苦性寒

 救荒 採苗葉煠熟水淘淨油塩調食

   *

「麥藍」は中文サイトの学名から見て、双子葉植物綱ナデシコ目ナデシコ科ドウカンソウ属ドウカンソウ Vaccaria hispanica を指すようである。同種については「東邦大学薬学部付属薬用植物園」公式サイト内のこちらを見られたい。「蓇葖」とは「袋果」(たいか)の古い呼称で、裂開果(れっかいか)の一種。一枚の心皮から生じた子房が成熟した果実で、縫目状の線に沿って裂け開いて種子を出すものを指す。トリカブト・シャクヤクなどがそれ。「小椒」胡椒に同じ。最後の「救荒」部は前に「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 山葵(わさび) (ワサビ)」で電子化した同書の「山萮菜」のそれと、ほぼ同じである。私は享保版の訓点の一部に疑問があるのでオリジナルに読むと、「苗葉を採り、煠(ゆ)で熟して、水に淘淨して[やぶちゃん注:水に浸けて浮いたものを取り去り。]、油・塩にて調へ、食ふ。」であろう。「煠」に「キ」を送っており、確かに「煠」は「焼く」とも読める。或いは「炒める」とも読めるのだが、そもそもがカワジシャの苗葉をしっかり(「熟」はその意)焼いたり、炒めたりしたら、瞬く間に焦げたボソボソの炭のようなものになってしまい、食物となろうはずがないと私は考えるのである。なお、この国立国会図書館の蔵本は旧蔵者による朱点が打たれていて面白い。二行目の頭の「麥」の「罒」は意味不明「麥四藍」かとも思ったが、そんな植物名はヒットしない。三行目の「稍」の左朱圏点は上の罫外に「梢」らしき字がある。その誤字と採ったようだ。私は「稍(やや)」でいいと思ったが、確かにその「枝の間」から青白の花が開くとした方がいいようだ。「蓇葖」の左にはやや見にくいが、「ミノ俗語」と解説しているのである。まさか、三百年も経って、学者でも何でもない在野の藪の中の野人が、あなたの朱点を読むとは思っていなかったでしょうねぇ。

「虚寒」漢方で、体内に温める力である陽が不足し、冷え易いか、或いは、既に冷えた状態になってしまっていることを指す。

『「本草」に「柔滑類」に「水苦𦽿」あり。或いは「かはちさ」と訓ず〔れども〕、恐くは非ならん。「木萵苣」と〔は〕別なり』「水苦𦽿」は「スイクカ」と読んでおく。「本草綱目」の巻二十七の「菜之二」の「柔滑類」に(囲み字は太字に代えた)、

   *

水苦蕒【宋「圖經」。】 校正【外類より移して此に入るる。】

釋名「謝婆菜」【「圖經」】・「半邊山」

集解【頌曰はく、「水苦蕒は宜州溪澗の側に生ず。葉、苦蕒に似て、厚く、光澤あり。根、白术(はくじゆつ)に似て軟かなり。二、八、九月、其の根を采りて之れを食ふ。」と。】

根 氣味 微、苦。辛寒。毒、無し。主治 風熱・上壅・咽喉腫痛及び項上の風癧、酒を以つて、磨り、服す【蘓頌。】。

   *

益軒先生、台中のサイト「認識植物」のこちらを見て下さい。明らかに「本草綱目」も確認引用されている感じで、何より、「救荒本草」の「水萵苣」「水菠菜」も記載されています。残念ながら、その学名はカワジシャです。本邦の辞書類でもカワジシャの別名とあります。

 

 さて。遂に、これを以って「大和本草」本巻からの、私の勝手な「水族」の最後の拾い出しを終わる。やっと「大和本草諸品圖」に入れる。

大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)

 

芹 圃中ノ陸ニ生シタルハ水ニ生スルニマサレリ本草ニシ

ルセリ然レ𪜈泥中ニ生シテ白根長キヲヨシトス水中

ニ生スルハ三月以後不可食蛭ノ遺子アルヲヲソル凡

芹は性味ヨシ野菜ノ内ニテ上品ナリ糞ヲ忌米泔ヲ

畏ル一種柳芹ト云アリ味ヨシ葉ノ形モ常ノ芹ヨリ

ウルハシ○紅毛芹アリ根似羊蹄根其色亦黃○山

芹山谷ニ生ス形水芹ニ似タリ葉長ク厚ク堅シ傍ニ

小刻アリイラアリ根長白シ香味ハ常芹ニ似タリ大ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

芹 圃中の陸〔(くが)〕に生じたるは、水に生ずるに、まされり。「本草」にしるせり。然れども、泥中に生じて、白き根〔の〕、長きを、よしとす。水中に生ずるは、三月以後、食ふべからず。蛭〔(ひる)〕の遺子〔(のこしご)〕あるを、をそる。凡そ、芹は、性・味、よし。野菜の内にて、上品なり。糞を忌み、米〔の〕泔〔(ゆする)〕を畏る。一種、柳芹〔(やなぎぜり)〕と云ふあり。味、よし。葉の形も、常の芹より、うるはし。

○紅毛芹(ヲランダ〔ぜり〕)あり。根、羊の蹄〔(ひづめ)〕に似て、根、其の色〔も〕亦、黃〔なり〕。

○山芹、山谷に生ず。形、水芹に似たり。葉、長く、厚く、堅し。傍〔(かたはら)〕に小〔さき〕刻〔み〕あり、いら、あり。根、長〔く〕、白し。香味は常の芹に似たり。大なり。

[やぶちゃん注:日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 私は小学生の頃、初春、亡き母と一緒に裏山の用水池の周辺の湿地で野生のセリを摘むのが好きだった。一九六八年に富山に移るまで、春の母とのセリ摘みは続いた。今はもう、その池も、その下方に広がっていた藤沢の田圃も、文字通り、藤蔓だらけの渓谷も、これ、総て、住宅地となって消えてしまった……あそこにはモッゴや田螺や天然の鰻さえもいた。頸を捩じり殺した鷄を二羽ぶら下げて農道を行く農夫の後ろを二匹の野良犬がつけていた。桑の実や木苺や木通(あけび)も食い放題だった。山芋掘りの穴が山の斜面によく空いていた……。結婚してから、鍋の具にセリを金を出して買った時、何か、ひどく淋しい気持ちになった。私の失われた少年期の記憶とセリはかくも連動している……。当該ウィキより引く。『和名セリの語源は、若葉の成長が競り合うように背丈を伸ばし』、『群生して見えることから、「競り(セリ)」とよばれるようになったと言われている』。『別名、シロネグサ(白根草)』。『中国植物名(漢名)は、水芹(スイキン)』『という』。『食用とする際の観点から、田のあぜなどに自生する野生のセリを「山ぜり」あるいは「野ぜり」、水田で栽培されているものを「田ぜり」、畑で栽培されるものを「畑ぜり」と称している』。『日本原産で』、『東アジア、インドなどの北半球一帯と、オーストラリア大陸に広く分布する』。『日本では北海道・本州・四国・九州の各地に分布する』。『湿地やあぜ道、水田』『や休耕田など土壌水分の多い場所や、細い流れがある水辺に群生する湿地性植物である』。『若葉は春の七草で、水田で野菜としても栽培される』。『常緑の多年草で、秋から冬にかけて日が短い低温期は、多数の根生葉を叢生し、春から夏にかけての日が長い時期では、泥の中や表面を』、『横に這うように』、『根元から』、『白く長い匍匐枝(ほふくし)を伸ばして、秋にその枝の節から』、『新しい苗ができて盛んに成長する』。『高さは』二十~八十センチメートル『程度』で、『茎や葉など全草に芳香があり』、『長い柄のある葉を盛んに出す』。『葉は根際に集まってつく根生葉と、茎に互生してつく葉に分けられ』、『小葉は卵形で鋸歯がある』。『根生葉は長い葉柄がつき、茎につく互生葉の柄は上部になるほど短い』。『葉柄はいずれもさや状になる』。『全体的に柔らかく黄緑色であるが、冬には赤っぽく色づくこともある』。『花期は』七~八月で、『やや高く直立して花茎を伸ばし、その先端に枝分かれした複数の傘状花序をつけて、白い花を咲かせる』。『花柄の長さは揃っているので、花序はまとまっている』。『個々の花は小さく、花弁は』五『個で』、沢山、咲く。『果実は楕円形で、長い花柱を持っている』。『野生種から選抜したものが栽培されていて、品種分化は少ない』。『栽培時期は春に苗の植え付けを行って』、『秋に収穫し、栽培適温は』十~二十五『度とされている』。『水田栽培の「田ぜり」と畑栽培の「畑ぜり」の二つの栽培方法で行われていて、水田栽培は清水があるところに早春越株を植え付けが行われ、畑栽培では匍匐枝(ランナー)を取って植え付け、たびたび灌水して育成する』。『栽培方法は各地で確立されてい』るが、『畑ぜりの栽培はごくわずかで』、『一般には秋早くに親株が水田に植えられて、冬の収穫期に緑の若葉が茂る』。『栽培品は軟白栽培されたものが主流で、野生のセリに比べて香りが穏やかで食べやすくなっている』。『市場には自生品が出回ることもあるが、最近では養液栽培も盛んである。野草としての性質が強く』、『種子の発芽率が低いため、計画的な生産には発芽率の改善が不可欠である。産地にもよるが、栽培ものと野生のものに、比較的差が少ない種である。観賞用の斑入りの品種もある』。『日本におけるせりの生産量は、平成』三〇(二〇一八)『年産では宮城県が最も多く全国の』四『割を占めており、次いで茨城県、大分県、秋田県が多い』。『数少ない日本原産の野菜のひとつで、春の七草として古くから親しまれ、七草粥にも使われている。香草であり、緑黄色野菜でもある。鍋物や油炒め、和え物などにして食べられる。独特の強い香りには健胃、食欲増進、解熱といった薬効がある』。『若いときの茎と葉を収穫して、古くから薬効のある冬の野菜として親しまれている』。『野菜としては緑黄色野菜に分類されている』。『東洋では』二千『年ほど前から食用に利用されてきているが、西洋では食べる習慣はない』。『寒冷地域では、冬季の緑色野菜が不足するときに、新鮮な香味野菜として和風料理には欠かせない食材である』。『野菜としての旬は』一『月から』三『月まで』。『秋田県湯沢市三関(みつせき)地区産の「三関せり」のように、気候や土質・水質の良さや江戸時代からの選抜育成によりブランド化した伝統野菜もある』。『なお野生のものを食べる場合は肝蛭』(カンテツ:吸虫綱二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属カンテツFasciola hepatica 。旧称「ジストマ」。吸虫類は肺吸虫症・肝吸虫症などを引き起こす厄介な(感染した場合の完全駆除が難しい)寄生虫である。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の私の注を参照されたいが、益軒の「蛭〔(ひる)〕の遺子〔(のこしご)〕あるを、をそる」を笑った奴は、このカンテツ感染の重大な指摘を計らずも述べている結果となっていることに気づかなくてはならない! この「蛭」はヒル(環形動物門ヒル綱 Hirudinea)の蛭じゃないと読むべきなのだ!)『の感染に注意が必要である。対策としては良く洗うことが挙げられる』。『日本では生薬名は特に持たないが』。『中国薬物名としては』、六~七月頃に『刈り取って乾燥した全草を水芹(すいきん)と称している』。『薬効としては、乾燥させた茎葉を布袋に入れて風呂に入れ浴湯料とすると、精油成分が湯に溶け出して血液循環をよくして、リウマチ、神経痛、血圧降下の効果に良いとされる』。『日本では古くから食用にされており、平安時代には宮中行事にも用いられていた』。『セリは春の七草の一つに数えられ、奈良時代に成立されたとされる『万葉集』にもセリ(芹子/世理)摘みの歌がいくつか知られている』。また。「万葉集」巻第十には、『「君のため山田の沢にえぐつむと 雪消の水に裳(も)の裾ぬれぬ」と詠まれた歌があり、ここで詠まれた「えぐ」はクログワイ』(単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ハリイ属クログワイ Eleocharis kuroguwai 「大和本草卷之八 草之四 水草類 烏芋(くろくはい) (クログワイ・シログワイ・オオクログワイ)」を参照)『とする説もあるが、植物研究者の細見末雄や深津正はこれを否定し、セリ説を唱えている』。平安時代の「後拾遺和歌集」の『中に曽禰好忠が「根芹つむ春の沢田におり立ちて 衣のすそのぬれぬ日ぞなき」と詠んだ歌があり』、これは前述の「万葉集」の『歌を本歌とした取歌であると』もする。なお、「広辞苑」によれば、『高貴な女性がセリを食べるのを見た身分の低い男が、セリを摘むことで思いを遂げようとしたが徒労に終わったという故事から、恋い慕っても無駄なことや思い通りにいかないことを「芹を摘む」という』とある。以下、類似する毒草につては、太字にする。『自生するセリは、小川のそばや水田周辺の水路沿いなどで見られるが、大型で姿かたちがよく似ている毒草のドクゼリ』(セリ科ドクゼリ属ドクゼリ Cicuta virosa :毒成分はシクトキシン(Cicutoxin)・シクチン(Cicutin)で、中毒症状は痙攣・呼吸困難・嘔吐・下痢・腹痛・眩暈・意識障害などだが、死に至る場合もある。五グラム以上の摂取で致死的中毒の可能性が生ずる)『との区別に配慮が必要である』。『特に春先の若芽はセリと間違いやすい』。『ドクゼリは地下茎が緑色で太くタケノコ状の節があり、横に這わず、セリ独特の芳香がないのに対し、セリは白いひげ根があるで区別できる』。『キツネノボタン』(双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属キツネノボタン Ranunculus silerifolius :毒成分はラヌンクリン(ranunculin)で誤食すると、口腔内や消化器に炎症を起こす。茎葉の汁が皮膚につくだけでかぶれる)『もセリと同じような場所に生育する毒草である』。『ドクニンジン』(セリ科ドクニンジン属ドクニンジン Conium chaerophylloides :各種の有毒物質を含むが、特に神経毒コニイン(Coniine)が猛毒で、ソクラテスの処刑に用いられたことでも知られる。コニインは、最初、中枢神経興奮麻作用を示した後、逆の中枢神経抑制作用を示し、次いで、運動神経の末梢から麻痺が進んでいく。悪心・嘔吐・口渇・瞳孔散大・手足末端の麻痺(脚部→腕部→表情筋の順)・痙攣・呼吸筋麻痺による呼吸障害へと順に進行する。意識は最期まで正常に保たれたままで死に至るとされる猛毒である)『は、ニンジンにも似たヨーロッパ原産のセリ科有毒植物で、日本には関東地方から中国地方の範囲に帰化しており、草原に生えて』おり、『個々の小葉だけを取ると』、セリに『似ているので間違えるおそれがある』とある。

『圃中の陸〔(くが)〕に生じたるは、水に生ずるに、まされり。「本草」にしるせり』「本草綱目」巻二十六の「菜之一」の「葷辛類」下に「芒斳」として立項され、「釋名」に「芹菜」「水英」「楚葵」の別名を載せ、「集解」に至って「恭曰はく、水斳、卽ち芹菜なり」と出、さらに見て行くと。「詵曰はく『水芹、黒滑地に生じ、之れを食ふ。高田の者は如かず』とあるのがそれであろう。

「然れども、泥中に生じて、白き根〔の〕、長きを、よしとす」益軒先生、ご名答! 日本固有種のセリはそれです!

「糞を忌み」これはセリが香りを持つ草であるから、糞臭を嫌うのというのは、腑には落ちるが、多分に臭気という類感的呪術的な忌避であろうと読む。

「米〔の〕泔〔(ゆする)〕を畏る」「泔」は米の研ぎ汁である。ある種のえぐみのある植物や腥い魚類などの臭みを抑えたり、除去するのに、米の研ぎ汁はしばしば用いられるから、これは一種の相殺するという効果からの類感的呪術のようなニュアンスかと私は想像した。

「柳芹〔(やなぎぜり)〕」「味、よし。葉の形も、常の芹より、うるはし」と言っているからには、別種ではありえない。セリが清浄な好条件下で、ストレスが加わらず、最大伸長しているものであろう(私は母と摘んだセリよりも美味いセリに出逢ったことは嘗てない)。柳の枝のようにしなやかで、且つ、歯応えや香りもよいものは、いかにもこう呼びたくなる気はする。

「紅毛芹(ヲランダ〔ぜり〕)」セリ科オランダゼリ属(又はオランダミツバ属)オランダゼリ Petroselinum crispum 。そう、parsley、パセリのことである。ウィキの「パセリ」によれば、『南イタリアおよびアルジェリアが原産と』され、『古代ローマ時代から』、『料理に用いられており、世界で最も使われているハーブの』一『つでもある』。『地質や気候への適応性に優れ、栽培が容易なため世界各地で栽培されているが、乾燥には弱い。なお』、『葉が縮れているものは人間の品種改良によって生み出されたものであり、自然界では不利になる形質である』。『日本には』十八『世紀末にオランダ人によって長崎に初めて持ち込まれたとされ、長崎で栽培されていた』。『このため、「オランダゼリ」「洋ゼリ」などの名でよばれていた』。但し、『本格的に日本で栽培が始められたのは明治初年以降である』とある。福岡藩の益軒にはこの情報はごく近距離のものである。

あり。根、羊の蹄〔(ひづめ)〕に似て、根、其の色〔も〕亦、黃〔なり〕。

「山芹」セリ科ヤマゼリ属ヤマゼリ Ostericum sieboldii であろう。当該ウィキによれば、『高さは』五十~一メートルと葉が「長く」、『小葉』『の縁に粗い鋸歯がある』とあるのが、よく一致する。本邦では『本州、四国、九州に分布し、山地の林下や渓谷の縁などに生育する。世界では、朝鮮半島、中国大陸(東北地方の南部)に分布する』とあるので、私の広義の「水族」に入れてよかろう。本種については、Windborne植物生態学者の橋本郁三氏か?)のブログ「食べられる野生植物の写真と,秘密の料理」で食用を確認した。他にもブログ「山野草を育てる」にも「ヤマゼリ(山芹)とドクゼリ(毒芹)の比較」があった(但し、食用とする記載はない)。]

大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 慈姑(くはい) (クワイ)

 

慈姑 其子ハ根蔓ノ末ヨリ生ス舊本ハカレテ母子ハ

ノコリテ又來春生ス水田ニ多クウヘテ利トス甚繁生ス

味美シ然トモ塞氣本草生薑ト同ク煮テ佳シト云

如此スレハ不塞氣ヨク煮テ水ヲカヘ再煮或明日再

煮テ尤ヨシヲモタカハ是ト別ナリ水草ニ見ハスヨク似タリ

可分別春月生苗時其苗生スル処根ノ三分一ヲ切テ

水ニ栽レハヨク活生ス三分二ハ食スヘシ○一種スイタ

クハイト云物アリ葉モ根モ慈姑ニ似テ小ナリ花ナ

シ味佳シ慈姑ヨリ味濃ナリ攝州吸田邑ヨリ出タリ

○やぶちゃんの書き下し文

慈姑(くはい) 其の子は、根・蔓の末より、生ず。舊本は、かれて、母子は、のこりて、又、來春、生ず。水田に多くうへて、利とす。甚だ繁生す。味、美〔よ〕し。然れども、氣を塞ぐ。「本草」、『生薑と同じく〔して〕煮て佳し』と云ふ。此くのごとくすれば、氣を塞がず。よく煮て、水をかへ、再び煮、或いは、明日、再び煮て、尤もよし。「をもだか」は、是れと別なり。「水草」に見(あら)はす。よく似たり。分別すべし。春月、苗を生ずる時、其の苗、生ずる処、根の三分〔の〕一を切りて、水に栽ゑれば、よく活生す。三分〔の〕二は食すべし。

○一種、「すいたくはい」と云ふ物あり。葉も根も慈姑に似て、小なり。花、なし。味、佳し。慈姑より、味、濃なり。攝州吸田邑より出でたり。

[やぶちゃん注:オモダカの栽培品種である、

単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia 'Caerulea'

である。当該ウィキによれば、『別名田草、燕尾草、クワエともいう。歴史が古いことや葉の形から、地方では様々な呼び方がされている』。『日本などで食用にされる』。『クワイの語源は、収穫した外観が農機具の鍬(クワ)に似ていることから「鍬芋」(くわいも)と呼ばれたのが、転訛してクワイになったという説』『や、河芋(かわいも)が変化したという説やクワイグリ』(「グリ」は栗であろう。「くわい」は以下のヴェトナム語(旧安南語)が中国を経由して齎された説を私はとる)『から転じた等の伝承がある』。『大陸から伝わった根菜の一つで、ベトナム語では根菜を一般にkhoai』『と表記し、語感的には「くわい」と聞き取れる事から、そのままその呼び名が日本に入って来たと考えられる』。『日本へは平安初期に中国から伝来したという説がある』。『アジアをはじめ、ヨーロッパ、アメリカの温帯から熱帯に広く分布する』。『野生種は東南アジア原産とされているが、栽培品種は中国で作られた』。『クワイの栽培品種は青藍色の青クワイ、淡青色の白クワイ、小粒の吹田クワイの』三『種類があり、いずれも水田で栽培される。葉は矢尻形をしており、原種のオモダカ』(単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia 「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)」を見よ)『に比べ、塊茎の大きさが大きくなる。 吹田クワイは最も野生種に近く、牧野富太郎は渡来系とは別に日本で栽培品種化されたオモダカの変種として学名を与えている』。『日本での主流は青クワイで、ほくほくとした食感が特徴である。白クワイは中国での主流であり、シャリシャリとした食感が特徴』で、『デンプン質が豊富で栄養価が高く』、百『グラムあたりのカロリーは』百二十六『キロカロリーとサツマイモに近い。炭水化物の他にカリウム、葉酸、カテキンなどを含む』。『欧米では観賞用が主である。日本と中国では塊茎を食用とし、特に日本では「芽が出る」縁起の良い食物と評され、煮物にしておせち料理で食べられる習慣があるため、世界でも日本で最も普及している』。『塊茎は皮をむいて水にさらし、アクを抜いてから調理する。シュウ酸を含むので、茹でこぼすのがよい。ユリ根に似たほろ苦さがあり、煮物ではほっくりとした食感が楽しめる』とある。原種であるオモダカとの関係については、「花の縁 030213」というヘッダーを持つ「13)クワイとオモダカ=慈姑と沢瀉」PDF)が詳しいので参照されたいが、そこでは和名の由来の一つとして、『葉がイ』(単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イ Juncus decipiens「大和本草卷之八 草之四 水草類 藺・燈心草 (イ=イグサ)」を見よ)『に似ており』、『食用になるため』という一説が示されてあり、オモダカの学名の『属名』agittaria 『は「矢」に由来し、種小辞』trifolia 『は「三葉の」という意味で葉の形状に因む。イギリスでも『chinese arrowhead』で、葉の形から名付けられており、別称として『swanp potato』ともいわれ、こちらの方は「沼地のジャガイモ」という意味である。中国では『慈姑』であるが、これは根茎の増えかたが、慈母が子に乳を与える様子に似ていることによるためだという』とあって、漢名がやっと腑に落ちた

「舊本」草体叢の最初の根茎のことであろう。

『「本草」、『生薑と同じく〔して〕煮て佳し』と云ふ。』「生姜と一緒に煮ると良い」の意。「本草綱目」の巻三十三の「果之五」の「蓏類」の「慈姑」の項に、「根」の「氣味」に(囲み字を太字に代えた)、

   *

苦、甘。微寒。毒、無し。【大明曰はく、「冷にして、毒、有り。多く食するときは、虛熱及び腸風・痔漏・崩中・帶下・瘡癤を發す。生姜を以つて、同じくして煮て、佳し。懷孕〔(くわいよう)〕の人、食ふべからず。」と。詵曰はく、「吳人(ごひと)、常に之れを食ふ。人をして發脚氣・癱緩風を發し、齒を損じ、顏色を失し、皮肉をして乾燥せしむ。卒(つひ)に之れを食ひて、人をして乾嘔せしむるなり。」と。】。

   *

とあって、実は諸症状を呈するとして、食用を勧めない記載の方が、断然、多い。益軒は本邦での食習慣から、かく誤魔化したものと思われる。

『「水草」に見(あら)はす』。「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)」を見よ、の意。

「すいたくはい」「吹田くはゐ」が正しい表記である。益軒の「攝州吸田邑」は誤字で、古代は「次田邑」(すいたむら)と称した。現在の大阪府吹田市(グーグル・マップ・データ)に相当する。「吹田くわい」については、『「日本植物分類学会」第十一回大阪大会公開シンポジウム講演記録北村栄一氏のレジュメ「市民とともに 〜地域の植物研究での連携と成果〜」の「吹田くわいの歴史と文化」(PDF)に非常に詳しい。それによれば、「吹田くわい」の名が文献上に見出せるのは今から約三百年前の江戸中期からで、岡田渓志著の「攝陽郡談」(元禄一四(一七〇一)年成立)の巻十六「名物十産ノ部」に、『吹田田鳥子(くわい)は嶋下郡吹田村の水田で作り』、『市場に出している』。『形は小さいが』、『味はたいへん良いので』、『これを知る人はよく買っている』とあって、以下に益軒の本篇を記す。

「花、なし」誤り。白い小さな花を咲かせる。

芥川龍之介書簡抄70 / 大正六(一九一七)年書簡より(二) 佐藤春夫宛

 

大正六(一九一七)年四月五日・鎌倉発信(推定)・佐藤春夫宛

 

拜啓 今日汽車の中で、星座の今月號をよみました、さうしてあなたの六號をよんで 大に恐縮しました 褒めて頂くのが難有い以外に 恐縮した理由があるのです

この手紙は その恐縮した理由を說明したいから書くのです――あなたは 僕と共通なものを持つてゐると書いたでせう 僕自身もさう思ひます 或はあなたの小說をよんだと云ふ事が、僕の小說を書き出したと云ふ事に影響してゐるかも知れません、と云ふ意味は、あなたの小說に感化されたと云ふ事ではなく、あなたの小說を見て、僕が小說を書くのに幾分か大膽になれたと云ふ意味です かう云ふものを書く人もあると云ふ事が、僕をして僕の作品を發表するのに 多少氣を强からしめたと云ふ意味です あなたは、これを僕のお世辭だと思ふかも知れませんが、お世辭として役立つ程、僕はこれを確定した事實として、云つてゐるのではないのです 兎に角あなたの小說を讀んで、僕が何等かの意味で親しみを感じた事は事實です さしてその親しみを 圓光の昔からあの犬の話の今日まで持ちつづけてゐる事も、事實です が、僕が共通なものを持つてゐると思ふのは、それだけではありません僕もあなたのやうな完成慾を持つてゐます

僕は以前に この慾の爲にディレツタントで一生を完るより外に仕方がないと思つた事がありました

さうしてその事に一種の得意をさへ感じた事がありました 勿論その中には、完成慾以外に、リディキュールな位置に身を置きたくないと云ふ見得も交つてゐたでせう が大部分は 確に漢語で云ふ眼高手低の心もちに崇られてゐたのです

それが ふとした機緣で勇猛心を起す氣になつたのです 勇猛心と云ふと、大に自贊してゐるやうで恐縮ですが、まあ猪突の勇氣を出したのです これも事によると一時の氣まぐれでうつちやつて置けば二三ケ月で消滅する性質のものだつたかも知れません が友だちとか先輩とかが、それを煽動した爲に、とうとう今日まで その臆面なさを持ちつづけてしまひました

しかし未に完成慾の崇りを超脫した訣では毛頭ありません 寧、何もしなかつた昔よりは一層その爲に苦しめられてゐます ですから僕は僕自身の作品に關して、傲慢でもあり謙遜でもあり得るのです 僕の藝術的理想から云ヘば、僕の今書いてゐるものの如きは實に憐む可き氣がしますが、それでも有象無象に何とか云はれると 腹を立てない訣には行きません――かう云ふ心もちが僕は存外あなたにもありはしないかと云ふ氣がするのです さうしてさう云ふ點でも あなたと僕との間には 共通なものがありはしないかと云ふ氣がするのですどうです さう思はれませんか

もしさう思はれないにしても 假にさう思はれるとして、先をよんで下さい――するとあなたの僕論なるものは 大體に於て僕自身僕の藝術に對して持つてゐる毀譽褒貶(もし幾分の己惚れが許されるなら)と同じ事になる訣です、さう云ふ議論を活字で拜見すると云ふ事は、多少僕にとつて氣味の惡い事にちがひありません と同時に愉快な事にもちがひありません さう云ふ意味で 僕はあの六號をよんだ時に大に恐縮した次第です

僕もあなたのやうに ヒュマントラヂェディを譯さうと思つた事があります それから齋藤君の歌にも 恐らくあなたと同程度の推服を持つてゐます 唯犬に對してだけは 全然あなたと同感が出來ません 僕はストリントベルクと共に犬が大きらひです

僕はこれだけの事が云ひたくて あなたにこの手紙を書きました さうしてここまで書いた時に 始めてあなたにかう云ふ手紙を上げると云ふ事が 失敬ではないかと云ふ氣がし出しました これはあなたと僕とがまだ口をきいた事もないのに氣がついたからです しかしそこの所はあなたが堪忍して下さる事として 御免を蒙る事にします 僕の我儘なのを怒らないで下さい

それから我儘序に、もう一つおねがひします 僕を流行兒扱ひにするのはよして下さい 實際人氣なんぞは少しもありません 大抵の人にはイカモノだと思はれてゐます 僕はこの頃存外世間には 中村孤月君と說を同じくする人の多いのを知りました

あなたが犬さへ縛つて置いて下されば おたづねする氣もあるのですが、この二三週間は又原稿を書くのに追はれさうなので 當分はさうも行きません

この調子で書いてゐると はてしがありさうもありませんから、この邊で切り上げます 以上

    四月五日朝      芥川龍之介

   佐藤春夫樣

二伸 Sqqは Seqq と同じで Sequentibus の略です 辭書に in the following Places の事だと出てゐる筈です 僕は前にしらべた事があるので、差出がましい事ですが 御しらせします

 

[やぶちゃん注:詩人・作家の佐藤春夫(明治二五(一八九二)年四月九日~昭和三九(一九六四)年:芥川龍之介は同年三月一日生まれで、二人ともこの年で満二十五となった)は和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれ。和歌山県立新宮中学校を明治四三(一九一〇)年卒業し、上京して生田長江に師事し、与謝野寛の新詩社に入った。慶應義塾大学文学部予科に入学し、当時、同大教授であった永井荷風に学んだ。明治四二(一九〇九)年から『スバル』『三田文学』に詩を発表して注目を集めた。大正二(一九一三)年九月に同大を中退した後、元芸術座の女優川路歌子(本名・遠藤幸子:当時十八歳)と同棲を始め、二人して犬二匹と猫一匹で神奈川県都筑(つづき)郡中里村字鉄(くろがね)(現在の横浜市青葉区鉄町(くろがねちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ))へ移って田園生活を始めた。そこで「病める薔薇(さうび)」が、この書簡の二ヶ月後の大正六年六月の『黒潮』に発表された。春夫満二十五歳であった(私は大正七(一九一八)年十一月二十八日刊行の作品集「病める薔薇」の天佑社の初版に載る未定稿の『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』をブログ・カテゴリ「佐藤春夫」で電子化注しており、サイト一括版も公開している)。二年後の大正八年にはその後半を書き足した「田園の憂鬱」を完成させて『中外』に発表し、同時に膨大な量の評論も発表し始め、一躍、新進作家としての地位を確立することとなる。なお、前年大正五年十月には三越で開かれた第三回二科展では出品した絵画「猫と女の画」・「夏の風景」の二点が入選しており、この大正六年一月には、江口渙・久保勘三郎らとともに、ここに出る同人誌『星座』を創刊していた(命名は佐藤。五月廃刊)。この時、共通の知人であった江口(彼は東京帝大英文科と漱石の「木曜会」で龍之介の一年先輩であった)を通して芥川龍之介を知ることとなり、この書簡がその本格的な交流の嚆矢となるものであった。なお、この年の六月には曰く因縁を作ることとなる谷崎潤一郎とも知遇している。芥川の処女小説集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊)の出版記念会(翌六月二十七日に日本橋の「レストラン鴻の巣」で開催)では佐藤が開会の辞を述べており、佐藤春夫は芥川龍之介の同年の詩・小説・絵画という芸術一般について甚だ感性や趣向・趣味の合う友人として、終生、交流が続いた。その哀惜の究極は「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.にとどめを刺す。リンク先は私のサイト版電子化(オリジナル注附き)である。なお、私は別に、ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』で、芥川の晩年の確信犯の相似型詩篇類の追跡を行っている。

「星座の今月號」筑摩全集類聚版脚注によれば、『星座』の同号には、佐藤春夫訳(英訳重訳)になる龍之介も偏愛するフランスの詩人・小説家・批評家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の小説「人間悲劇」(L’Humaine Tragédie :一八九五年)が載っていた(『星座』一月号からこの四月号まで分割連載発表した)。後に出る「ヒュマントラヂェディ」(Human tragedy )はその英訳題。

「あなたの六號」「六號」は、思うに、雑誌通巻号数などではなく、筑摩全集類聚版脚注に『六号雑記』とあることから、活字ポイントの小さな六号で書かれたコラム或いは編集雑記を指すように感ぜられる)岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に『沙塔』(さとう:佐藤)『の筆名で『星座』四月号に掲載された「同人語」。佐藤は「僕にはこのどこかこの人と共通な何物かがありさうだ。」などと芥川について書いた』とある。採用しなかったが、先行する一月前の三月九日に江口渙宛書簡があり、江口が『星座』を郵送してくれたことへの御礼に始まり、『佐藤君が小說を書かないのはさびしい今月フランスの人生悲劇の譯が出てゐますがあれはつづかむ事を祈りますおしまひの方が殊にいい作品ですからさうしていろんな暗示を含んいゐる作品ですから』と特に好意的な評を記している。

「圓光」佐藤春夫の小説。大正三(一九一四)年七月号『我等』に発表されたと、石割氏の注にある。

「あの犬の話」私の好きな幻想小品の一篇「西班牙犬の家(スペインけんのいへ)」(リンク先は私の四年前のブログでの電子化)。石割氏の注によれば、『『星座』一月号掲載』。これも採用していないが、正月早々の一月二日江口渙宛書簡で同号批評が記され、『佐藤君のものはモルナアでも書きさうな氣の利いたものですがあの作品の中の「日本」と「西洋」とがどうもぴつたり合はないやうな氣がしますそれでもあの小品を讀んだ時に私は思はず微笑しましたあれを書く作者の心もちは幾分か私にも理解出來さうな氣がしますから』と記している。「モルナア」はオーストリア=ハンガリー帝国下のブダペストでユダヤ系医師の子として生まれた劇作家・小説家モルナール・フェレンツ(Molnár Ferenc 一八七八年~一九五二年:本名はノイマン・フェレンツ Neumann Ferenc)。戯曲「リリオム」(Liliom :一九〇九年ブダペスト初演)が著名。後にナチスのユダヤ人迫害から逃れ、アメリカに移住した。芥川龍之介は最晩年の昭和二(一九二七)年の「文藝的な、餘りに文藝的な」(リンク先は私が作成した「恣意的時系列補正完全版」)で、佐藤春夫の名を頻繁にとり上げて称揚し(論争相手が佐藤にとって愛憎半ばする谷崎潤一郎であってみれば、当然のことだ)、その『三十三 「新感覺派」』で、『僕は所謂「新感覺」の如何に同時代の人々に理解されないかを承知してゐる。たとへば佐藤春夫氏の「西班牙犬(スペインいぬ)の家」は未だに新しさを失つてゐない。況や同人雜誌「星座」(?)に掲げられた頃はどの位新しかつたことであらう。しかしこの作品の新しさは少しも文壇を動かさずにしまつた。僕は或はその爲に佐藤氏自身さへこの作品の新しさを――引いてはこの作品の價値を疑つてゐはしなかつたかと思つてゐる。かう云ふ事實は日本以外にも勿論未だに多いことであらう。しかし殊に甚しいのは僕等の日本ではないであらうか?』と述べている。

「ディレツタント」dilettante。英・仏語同綴り。ディレッタント。芸術・学問を趣味として愛好する好事家(こうずか)のこと。

「リディキュール」ridicule。ラテン語の“ridiculum”(「冗談」)が語源なので、やはり英仏同綴り。馬鹿げた・滑稽な。

「見得」「見榮」の誤字。

「眼高手低」(がんかうしゆてい)観察力や審美眼は肥えているが、実際の技能や能力は低いこと。知識が相応にあり、あれこれと批評はするが、実際には、それを自分で表現する能力を持っていないこと。理想は高いが、実力が伴わないことなども言う。▽「眼高めたかく手低てひくし」と訓読する。

「齋藤君」歌人で精神科医の斎藤茂吉(明治一五(一八八二)年~昭和二八(一九五三)年)。伊藤左千夫門下にして『アララギ』を代表する歌人。歌壇のみならず、文壇全体に衝撃を与えた処女歌集「赤光」は既に大正二(一九一三)年十月に刊行されている。また、青山脳病院院長として、晩年の龍之介の主治医の一人でもあり、しばしば彼に阿片エキスなどの薬物をねだる書簡を残している。石割氏注に、『佐藤は「「赤光」に就いて」(『アララギ』一九一五年四月号)で「赤光」を賞賛した』とある。にしても、十歳上の名歌人のドクターに――「君」――はないだろ? なお、芥川龍之介の遺稿「齒車」にも「五 赤光」の条がある。

「唯犬に對してだけは 全然あなたと同感が出來ません 僕はストリントベルクと共に犬が大きらひです」既注であるが、芥川龍之介は大の犬嫌いで(恐怖症に近い。理由は不明)、大の猫好きであった。「ストリントベルク」ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)は言わずと知れた「令嬢ジュリー」(Fröken Julie 一八八八年)などで知られるスウェーデンの劇作家・小説家。私は恐らく海外の劇作家で最も多く戯曲を読んだ作家の一人である。

「中村孤月」(明治一四(一八八一)年~?)は文芸評論家・小説家。東京浅草生まれで、本名は中村八郎。早稲田大学英文科卒明治時代にゴーリキーの「暮ゆく海」などを翻訳し、大正に入って、『早稲田文学』に「彼、彼自身及び其影」などの小説を発表する一方、『文章世界』に盛んに文芸時評を書いた。大正四(一九一五)年の同誌では、正宗白鳥・谷崎潤一郎・田村俊子・武者小路実篤らを論じた「現代作家論」を連載した。同年『第三帝国』の編集者となり、文芸時評を担当。この大正六年まで、多くの評論・小説を発表した。文芸評論家・ジャーナリストで貧窮のうちに死んだ坂本紅蓮洞(ぐれんどう 慶応二(一八六六)年~大正一四(一九二五)年)らと並ぶ蓬髪垢衣(ほうはつこうい)の大正文壇の奇人として知られる。著書に「現代作家論」「最も新しき鶏の飼方」などがある。石割氏の注に、『一九一七年一月一三日『読売新聞』の「一月の文壇」で、孤月は芥川の新年号の作品を「浅薄で希薄」、「文学的の価値は非常に乏しい」と批判した』とある。対象作品は、一般の雑誌であろうから「尾形了齋覺え書」と「運」であろう。

君と說を同じくする人の多いのを知りました

「Sqqは Seqq と同じで Sequentibus の略です 辭書に in the following Places の事だと出てゐる筈です」普通は「seqq.」で、ラテン語「sequentes」の略。「下記(以下)の」の意。「Sequentibus」は格変化形か。「in the following Places」「次の記載を参照」。]

2021/05/26

大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 山葵(わさび) (ワサビ) / 幻の「ワサビ」の漢語「山萮菜」の古記載を発見した!

 

【和品】

山葵 順和名抄云養生祕要云山葵補益ノ食ナリ

トイヘリ又曰和名和佐美漢語抄用山薑二字○

今按辛温發散ノ性アリ補益スヘカラス其葉賀茂葵

ニ似其根形味生薑ニ似タリ故山葵山薑ノ名アリ中

夏ノ書ニテ未見之故漢名未知高山寒キ所ニ宐シ

里ニウフ圡宜ニヨルヘシ或曰陰地ノ岸ノカタハラニ植ヘシ

日ヲ畏ル味辛ク美ナリ食氣ヲメクラシ中ヲ溫メ

魚毒ヲ殺シ性温ニ乄猛カラス佳品ナリ無山薑則

芥薑相和者亦氣味相似

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

山葵(わさび) 順が「和名抄」に云はく、『「養生祕要」に云はく、山葵、補益の食なり』と、いへり。又、曰はく、『和名、「和佐美」。「漢語抄」に「山薑」の二字を用ゆ』〔と〕。

○今、按ずるに、辛、温〔にして〕、發散の性あり。補益すべからず。其の葉、賀茂葵〔(かもあふひ)〕に似たり。其の根、形・味、生薑〔(しやうが)〕に似たり。故に「山葵」「山薑」の名あり。中夏の書にて、未だ之れを見ず。故に漢名、未だ知らず。高山〔の〕寒き所に宐〔(よろ)〕し。里に、うふ。圡宜〔(とぎ)〕によるべし。或いは曰はく、「陰地の岸のかたはらに植ふべし」〔と〕。日を畏〔(おそ)〕る。味、辛く、美なり。食氣をめぐらし、中〔(ちゆう)〕を溫め、魚毒を殺し、性、温にして、猛〔(たけ)〕からず。佳品なり。山薑、無〔くんば〕、則ち、芥〔(からし)〕・薑〔(しやうが)を〕相ひ和する者も亦、氣味、相ひ似たり。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類」の中に、私の基準では広義の「水族」に入れてよかろうと思われる「山葵」・「慈姑」(クワイ)・「芹」(セリ)・「水萵苣」(カワチシャ)の四項を以下に電子化注する。底本は従来通り、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版の「大和本草附錄卷之五 草之一(PDF)を用いる。本「山葵」は14コマ目である。日本固有種(DNA分析によって日本で独自に進化を遂げて栽培されるようになったことが証明された。時間を巻き戻すなら、恐らくは日本列島が大陸と陸続きであった時期に北方からワサビの祖先に相当する植物が日本列島内に入り、強い辛み成分を獲得するなどして固有の種となったと推定されている。サイト「食の研究所」内の漆原次郎氏の書かれた『「ワサビ属ワサビ」に危機が迫る』の「日本人が守るべきわさび(後篇)」のこちらを参照した)である、

双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科ワサビ属ワサビ Eutrema japonicum

である。当該ウィキによれば、『漢字で「山葵」と書くが由来は諸説あり、一説には深山に生え、ゼニアオイ(銭葵)』(アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana :但し、本種は江戸時代に花の鑑賞目的で渡来した帰化植物である)『の葉に似ているからといわれている』。『ワサビの語源については、平安時代中期の』「本草和名」(ほんぞうわみょう:深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の本草書。醍醐天皇に侍医権医博士として仕えた深根により、延喜一八(九一八)年頃に編纂された)には、『「山葵」の和名を和佐比と記している。同じく平安時代の』源順の「和名類聚抄」にも『和佐比と記されている。悪(わる)・障(さわる)・疼(ひびく)の組み合わせという説があるが、詳細は不明である』。『本種の学名 Wasabia japonica (Miq.) Matsum. とされることが多いが、現在では Wasabia 属は独立した属とはみなされていないので、Eutrema japonicum (Miq.) Koidz. が正しい学名である』。『ワサビの名が付く近縁な植物としてセイヨウワサビ(ホース・ラディッシュ)』(horseradish:アブラナ科セイヨウワサビ属セイヨウワサビ Armoracia rusticana )『があるが、加工品の粉ワサビやチューブ入り練りワサビなどでは、原材料にセイヨウワサビのみを使用したり、両方を使っていたりするため、日本原産のワサビを本わさびと呼び、これを使ったものを高級品として区別していることが多い』。『日本の特産で、北海道・本州・四国・九州に分布し』、『深山の渓谷、渓流に自生する』。『野生のものは珍しく、主に静岡県や長野県の清流や涼しい畑で栽培されている』(私は最初に教員となった学校のワンダーフォーゲル部の春合宿で谷川に登って土樽へ下る途中、友人であったOBが、天然山葵を見つけ、食べたことがある。辛みは穏やかだったが、香りがよかったのを覚えている)。『澄んだ水の冷涼な土地で生育する』。『多年草。根茎は太い円錐形で横筋があり、細根を出す』。『根生葉は束になって生え、長さ』十~二十センチメートル『の長い葉柄があり、葉身は径』五~十三センチメートルの『大型で』、『円形に近い心形』を成し、『光沢があり、葉縁に不揃いな鋸歯と波状の凹凸がある』。『花期は春』(三~五月)『で、根茎の頂から長さ』三十センチメートルほどの『茎が立ち、茎頂や上部の葉腋に、白色の十字型で花径』三ミリメートル『ほどの小さな』四『弁花を総状につける』。『日本の主要な産地は静岡県、長野県、東京都(奥多摩)、島根県、山梨県、岩手県、奈良県等である』。『このほか』、『日本国外では台湾南部、ニュージーランド、中国雲南省、韓国江原道鉄原郡』『などでも栽培されている』。『栽培の歴史は江戸時代の頃から本格的に行われ、静岡県有東木において、江戸時代初期にこの地域に自生していたワサビを移植し、栽培を始めたのがワサビ栽培の始まりとされている。寿司の流行により』、『急激に広まったと言われている』。『冷涼なところを好む性質で、栽培方法を大別すると、水栽培で渓流や湧水で育てられる通称水ワサビ(谷ワサビ、沢ワサビ)と、畑栽培で育てられる通称畑ワサビ(陸ワサビ)がある』。『水栽培は、山間部の北斜面で、水が濁らない湧水地がよいとされる』。『また、畑栽培は落葉樹下の夏は日陰で、冬は日が当たる場所が選ばれる』。『増殖は、種子を莢のまま』、『砂に埋めておいて』、『秋に播く』。『春に芽が揃ったら』、『定植する』とある(以下「歴史」(箇条書き)などが続くが、省略する)。

『順が「和名抄」に云はく、『「養生祕要」に云はく、山葵、補益の食なり』と、いへり。又、曰はく、『和名、「和佐美」。「漢語抄」に「山薑」の二字を用ゆ』〔と〕』「和名類聚抄」の巻十六の「飮食部第二十四」の「鹽梅(あんばい)類第二百十四」に(草類部ではないので注意)、

   *

山葵  「養生秘要」云はく、『山葵【和名「和佐比」。「漢語抄」に「山薑」の二字を用ゆ。今、案ずるに、出づる所、未だ詳かならず。】』と。補益の食なり。

   *

とある。「養生秘要」は既に注した日本現存最古の「本草和名」の作者として知られる深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる延喜二一(九二一)年成立の著書。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。

「發散の性」「宣發」「宣散」などとも言う漢方用語。気・血・津液(しんえき:血の構成成分の一つ或いは血液以外の正常な体液成分の総称)を全身の隅々まで廻らせたり、発汗させたり、呼吸運動を起させることを指す。漢方の「肺」の主機能を指す。

「補益すべからず」補益(不足を補って益を与えること)をするわけではない。

「賀茂葵」、正式には)は、京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の賀茂祭(通称「葵祭」(あおいまつり))にデコレートされる賀茂神社の神紋「二葉葵」を「賀茂葵」と呼ぶ。同図案の元は双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens の葉である。

『故に「山葵」「山薑」の名あり』と言っても、老婆心乍ら、これらは当て訓で「わさび」と読む。

「中夏」「中華」に同じ。

「漢名、未だ知らず」「当然です。日本固有種ですから。」と言いたいところだが、いやいや!あるぞ! 現代中国語では日本の山葵に別名で「山萮菜」(「さんゆな」と読んでおく)を挙げてあるのだが(「維基文庫」の「山葵」を参照)、この名前、古い漢籍で見かけたことがあるぞ?! そうだ! 今朝方、「大和本草卷之八 草之四 水草類 牛尾薀 (マツモ類か)」の注で、益軒先生が引用書名を間違ったために無駄に必死にめくって全文を眺めていた、あれだ!!! 例の明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる優れた本草書「救荒本草」の中で確かに! 見たぞ! 探してみた――あった! 以下、国立国会図書館デジタルコレクションの享保元(一七一六)年板行版の当該部分(リンクは左頁の図。次のコマの右側に解説)をトリミングした画像を示して、後に訓読文を示す。訓読も読みも、私が、かなり、勝手に推定したので要注意ではある。

 


Sanyuna1

Sanyuna2

   *

菜 密縣の山野に中に生ず。苗、初め、地に搨(とう)じて[やぶちゃん注:なすりつくようにの意か。]生ず。其の葉の莖、背、圓(まどか)に、靣(おもて)、窊(くわ)し[やぶちゃん注:音は現代仮名遣「カ」で、「くぼむ」の意。逆ハート形に切れ込んでいることを言っていよう。]、葉は、初めて出づる冬蜀葵(ふゆあふひ)の葉に似たり。稍(わづか)に、五つ、花(はなさ)く。鋸齒(さきよし)の邊(へん)[やぶちゃん注:葉の辺縁にギザギザがあること。]、又、蔚臭の苗の葉に似て、硬厚にして、頗る大なり。後、莖(けいさ)を攛(はねい)だし、莖、㴱き紫色なり。稍(ちひ)さき葉、頗る小味にして、微(かすか)に辣(から)し。

 救飢 苗葉を採り、煠(ゆで)て、熟し、水を換へ、浸し、淘淨して[やぶちゃん注:水に浮いたものを取り去り。]、油・鹽にて調へ、食ふ。

   *

この「冬蜀葵」とは双子葉植物綱アオイ目アオイ科ゼニアオイ属フユアオイ Malva verticillata だ! 本邦の山葵の語源とされるゼニアオイ属だぞ! そもそもが、この解説文はどこ一つをとっても、山葵(わさび)の解説に見紛うじゃないか!?! 恐らくは、この「維基文庫」の「山萮菜属」のリストの中に私は古くから中国にある中国産ワサビ種がいると考えている。

「宐〔(よろ)〕し」「宜」の異体字。

「圡宜〔(とぎ)〕」「圡」は「土」の異体字。「土宜」は「その土に宜(よろ)しいもの」の意で、「その土地に適した農作物・その地味に合う作物」「その土地の作物」「その土地でできるもの」「土産(どさん)」の意。

「陰地の岸のかたはらに植ふべし」日の当たらない渓流の岸の傍(そば)に植えるのがよい。「岸」には「崖・斜面」の意もあり、ワサビの植生に関わるから、それらもハイブリッドに採ってよい。

「めぐらし」「𢌞らし」。増進させ。

「中〔(ちゆう)〕」漢方の「中焦」(ちゅうしょう)。消化器系全般を示す脾胃の仮想核心部。

「魚毒を殺し」ワサビには現在までに、未確証乍ら、抗菌効果・抗アレルギー効果・胃癌癌細胞増殖抑制効果・血管拡張効果・骨密度強化効果・認知症予防効果・老化予防効果・疾病予防効果から、神経細胞の再生を促して記憶力や学習能力を改善させる効果、ひいては、全身の細胞の再生促進効果があるとも言われている(ウィキの「ワサビ」の「有効成分」の項に拠ったが、順列を換え、いかにも怪しいと私が思うものを後に回した)。

「芥〔(からし)〕」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua 及びその近縁種の種子から作られる香辛料の芥子(からし)。

「薑〔(しやうが)〕」言わずもがな、単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale の根。

「亦、氣味、相ひ似たり」珍しいね、益軒先生が偽物造りを推奨するのは。ちょっと、先生、好きになりました♡]

大和本草卷之八 草之四 水草類 くぐ (イヌクグ) / 大和本草卷之八 草之四 水草類~了

 

【和品】

クヾ 海濵斥地ニ生ス水陸共ニ宜シ葉ハ香附子

ニ似テ背ニカト一條アリ織テ短席トス農人コレヲ以馬

具トシ又繩トス武人是ヲ用テ陣中ニ飯ヲ包ム苞トス

槌ニテウツヘシ又牛クヽアリ相似テ大ナリ其用小ナルニヲ

トル順倭名抄ニ莎草ノ和名ヲクヾト訓ス莎草ハ香附子

ナリ是ト一類別物ナリ又菅モ一類ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

くゞ 海濵・斥地に生ず。水陸共に、宜〔(よろ)〕し。葉は香附子〔(かうぶし)〕に似て、背(うら)に「かど」、一條、あり。織りて、短〔き〕席〔(むしろ)〕とす。農人、これを以つて馬具とし、又、繩とす。武人、是れを用いて、陣中に、飯を包む苞(つと)とす。槌にて、うつべし。又、「牛くゞ」あり。相ひ似て、大なり。其の用〔は〕、小なるに、をとる。順が「倭名抄」に莎草の和名を「くゞ」と訓ず。莎草は香附子なり。是れと一類〔なるも〕、別物なり。又、菅も一類なり。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属イヌクグ Cyperus cyperoides 当該ウィキによれば、『乾燥したところに生える』多年草で、『傘のように広がる苞とブラシ状の穂が特徴。シュロガヤツリ』(カヤツリグサ属シュロガヤツリ Cyperus alternifolius )『を小さくしたようにも見える』。但し、『小穂の構造はやや特殊』である。『丈夫な草である。全体に緑から黄緑で強いつやがある』。『茎の地下部は卵形にふくらんで根茎となっており、明るい褐色の鞘に包まれる。根茎は地上部が枯れても数年にわたって残る。したがって、地下では小さな株ならば数個の根茎が数珠繋ぎになって葉のある根茎につながっており、大きい株ではそれがさらに枝分かれをして大きな塊になり、あちこちから葉を出している。根茎の先端からは少数の茎を束にして出す。根出葉は幅』三~六ミリメートル。『線形だが』、『あまり長くなく、外側にそる。縁は少しざらつく。花茎が成長した後も根出葉はしっかり残っている』。『花茎は』八~十『月に出る。ほぼ直立するか、やや斜めに出て、高さは』三十~八十センチメートル。『断面はいちおう三角形ではあるが、それぞれの面は丸みを帯び、角は特に角張ってはいなくて表面はなめらかになっている。その先端に単一の花序がつく。花序の下には葉状の苞葉があり、それらは花序より長く、長さはバラバラだが』、『いずれも斜め上に出て真っ直ぐ伸び、全体として花序を受ける受け皿のようになる。その様子はややまばらながらシュロガヤツリに少し似ている。なお、方の縁も少しざらつく』。『花序は小穂のつく枝が』五~十五『本集まった構造で、それぞれの枝には小穂が周囲に一面について、その様子は瓶洗いのブラシに似る。若いときは小穂は軸に斜めに出るが、成熟すると開出する傾向がある。それらの枝はやや伸びて小穂のつく部分の長さは』一・五~三センチメートルで、『それに数』センチメートル『の柄があることもあり、密集して頭状に近くなることもある』。『小穂は線形で長さ』四~五ミリメートルで、『全体に緑色か、多少黄色みを帯びる。断面はほぼ円形で、鱗片はそれに巻き付くようにつく。小花は』一、二『個のみを含む。果実は長楕円状線形で、長さ』二ミリメートルで、『柱頭は』三『個。小穂の基部には関節があり、熟すとここで折れて小穂全体が脱落する、その結果、花茎の先端には苞葉とその内側に棒だけになった軸が残る。なかなかにわびしい景色である』。『低地の乾燥した草地に生える。畑の周辺や、乾燥した道路脇などにもよく見られる。あまり都会では見られず、農村地帯から山際に多い』。『本州南部から四国、九州、琉球列島に産する。本州では関東地方南部、近畿地方南部と中国地方での見知られる。国外では朝鮮南部、台湾、中国からインドネシア、インド、アフリカに渡って分布する』。『小穂がその基部で折れる性質は一般のカヤツリグサ属にはない特徴である。そのため、これをイヌクグ属 Mariscus とすることもあった。同様の性質を持つものにヒメクグ(ヒメクグ属 Kyllinga とすることも)があるが、柱頭が』二『個であることで異なる。またキンガヤツリ(ムツオレガヤツリ属 Torulinium とも)は関節が小穂の基部だけでなく、小花の間にもあり、小穂はバラバラに折れる』。『近縁なものは日本本土にはほかにない。ただしオニクグ C. javanicus が一部で帰化して発見された記録がある。琉球列島などには近縁のビトウクグ C. compactus やタイワンクグ C. cyperinus が知られている』。本種が『利用される話は聞かない』。『雑草に類するものではあるが、あまり広がらず、繁茂することもない』が、『地下茎があり』、『草全体がしっかりしているので抜くのは大変である。この種が生えているところは乾燥していて往々にして土質も硬くて、なお困難に拍車をかける』とある。この筆者はなかなか文才を感じる。なお、「くぐ」の語源は不明。古くからカヤツリグサ科 Cyperaceae或いはそれに似た草類の名であったようではある。ここまで書いたが、正直、これは「水草」ではなく「水族」ではない。まあ、最後だから、いいか。

「斥地」荒れた土地を開拓した場所。

「香附子」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎の生薬名。薬草としては古くからよく知られ、本邦でも正倉院の薬物の中からも見つかっている。「浜菅」であるが、本種はスゲ属ではないので注意が必要。本種は乾燥に強く、陽射しの強い乾いた地にもよく成育する。砂浜にも出現し、名前もこれによるが、実際には雑草として庭や道端で見かけることの方が遙かに多い。線香花火のようなあれである。

「牛くゞ」カヤツリグサ属ウシクグ Cyperus orthostachyus 。但し、草高は二十~七十センチメートルで、イヌクグと変わらないか、却ってやや小さい。但し、これは葉の幅を言っているのかも知れない。ウシクグはタイプ種であるカヤツリグサ属のタイプ種であるカヤツリグサ属カヤツリグサ Cyperus microiria よりも、やや幅が広いからである。

『順が「倭名抄」に莎草の和名を「くゞ」と訓ず』「和名類聚抄」の巻二十の「草木部第三十二」の「草類第二百四十二」に、

   *

莎草 「唐韻」に云はく、『「莎草」【「蘇」「禾」反。』。楊氏「漢語抄」に云はく、『具々』】。」草名なり。

   *

とある。「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序を持つ、陸法言によって作られた韻書)の修訂本。成立は七五一年或いは七三三年とされる。早くに散佚して、現在に伝わらないが、宋代にこの「唐韻」を更に修訂した「大宋重修広韻」が編まれている。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。

「莎草は香附子なり。是れと一類〔なるも〕、別物なり」残念ですねえ、益軒先生、現在、本邦では「クグ」類には漢名「莎草」を広く当てています。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 瀧苔 (カワノリ類)

 

【外】

瀧苔 山川ノ石ニ生ス短クシテ褐色熱湯ニ浸セバ靑クナル

軟鬆ニシテ食フヘシ淸潔ナリ稀ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

瀧苔 山川の石に生ず。短くして、褐色。熱湯に浸せば、靑くなる。軟鬆〔(なんしやう)〕にして、食ふべし。淸潔なり。稀なり。

[やぶちゃん注:この和名(「タキノリ」と読んでおく)は存在せず、現在の異名にも存在しない。記載が少なく、カワノリ目カワノリ科 Prasiolaceae に属する淡水性の藻類であるカワノリの一種としか言えない。「大和本草卷之八 草之四 水草類 川苔(かはのり) (カワノリ・スイゼンジノリ)」を参照。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 あぎなし (アギナシ)

 

アギナシ ヲモタカノ葉ニヨク似タリ小

草也アギナシ七月白花ヲヒラク花

三出ナリ凡草ニ大小アリ是小ヲモタカ歟

 

Aginasi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして用いた。]

○やぶちゃんの書き下し文

あぎなし 「をもだか」の葉に、よく似たり。小草なり。「あぎなし」〔は〕、七月、白花をひらく。花、三出なり。凡そ、草に大小あり、是れ、小〔さき〕「をもだか」か。

[やぶちゃん注:まずは、先行する「大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)」を参照されたい。そちらの注で当該ウィキも引用してあるからである。それにしても――ああっ! 益軒先生、せっかく立項したのに! 「小」さい『「をもだか」か』なんて言っちゃだめです!

単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属アギナシ Sagittaria aginashi

で、同属の別種でいいんですよ!]

大和本草卷之八 草之四 水草類 澤桔梗 (サワギキョウ)

 

【和品】

澤桔梗 葉似桔梗花碧色ナリ根白シ澤中ニ生ス浮

薔花ヲモ澤桔梗ト俗ニ名ツク與此別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

澤桔梗〔(さはぎきやう)〕 葉は桔梗に似て、花、碧色なり。根、白し。澤中に生ず。「浮薔花(なぎ)」をも「澤桔梗」と俗に名づく。此れと〔は〕別なり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱キク亜綱キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ属サワギキョウ Lobelia sessilifolia当該ウィキによれば、『美しい山野草であるが、全体に毒性の強いアルカロイドを持つ』『有毒植物としても知られる』。『茎の高さは』五十センチメートル~一メートルにも『なり、枝分かれしない。葉は無柄で茎に互生し、形は披針形で、縁は細かい鋸歯状になる』。『花期は』八『月から』九『月頃で、濃紫色の深く』五『裂した唇形の花を茎の上部に総状に咲かせる。花びらは上下』二『唇に分かれ、上唇は鳥の翼のように』二『裂し、下唇は』三『裂する。萼は鐘状で先は』五『裂する。キキョウ』(キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras )『と同じく雄性先熟で、雄しべから花粉を出している雄花期と、その後に雌しべの柱頭が出てくる雌花期がある』。『北海道、本州、四国、九州に分布し、山地の湿った草地や湿原などに自生する。普通、群生する』。『他のキキョウ類とは花形が全く異なる』。『同属は世界に』約二百『種あり、大柄な植物も多いが、日本には』四『種しかない。小笠原諸島には低木状になるオオハマギキョウ(L. boninensis Koidz.)があるが、日本本土には以下の種が普通』。

ミゾカクシ(溝隠)Lobelia chinensis (水田雑草として普通で、背が低い。近縁種が琉球列島にある)

ロベリア Lobelia erinus

『サワギキョウは毒草としても知られ』、『麻酔などの効能を薬草として利用された例もあるが、危険が大きいようである』。『横溝正史の』「悪魔の手毬唄」(『宝石』昭和三二(一九五七)年八月号から二年後の昭和三十四年一月号に連載。作品内時制は昭和三〇(一九五五)年夏)『では「お庄屋殺し」の名で殺人に使用されている』とある。

「浮薔花(なぎ)」単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属コナギ Monochoria vaginalis var. plantaginea か、或いはその近縁種であろう。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 牛尾薀 (マツモ類か)

 

【外】

牛尾薀 救荒本草云生㴱水中葉如髮莖如藻冬

月和魚煮食夏秋又可食

 

Gyuubion

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、画面左下方に入り込んでしまう次の本文のルビの一部を塗り潰しておいた。]

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

牛尾薀〔(ぎうびをん)〕 「救荒本草」に云はく、『㴱水の中に生ず。葉、髮のごとく、莖は藻のごとし。冬月、魚に和〔(あへ)〕て、煮〔て〕食〔ふ〕。夏・秋、又、食ふべし』〔と〕。

[やぶちゃん注:益軒に大いに振り回された。まず、この出典は明の太祖の第五子周定王朱橚の優れた作品である「救荒本草」(既出既注)が引用元ではない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像(徐光啓輯・享保元(一七一六)年板行版)を全巻、視認したが、ない。「中國哲學書電子化計劃」の「救荒本草」(欽定四庫全書版)で検索しても、如何なる類似したソリッドな文字列は、ない。そこで「漢籍リポジトリ」で「牛尾薀」の検索を掛けてみた。一件だけ、掛かった。「欽定四庫全書」の「御定佩文齋廣羣芳譜卷九十一」の「卉譜」の「藻」の冒頭であった。そこで見られる影印本画像と校合したが、電子化は全く問題がない。推定で記号と句読点を打った。太字下線は私が附した。

   *

   藻

増┃「博雅」┃夌菜藻也。┃原┃藻水草也。有二種。水藻、葉長二三寸、兩兩相對生。即「馬藻」也。聚藻葉、細如絲、節節連生。即「水薀」也。俗名「鰓草」又名「牛尾薀」。「爾雅」云、『莙牛藻』。細葉蓬茸如絲。可愛。一節長數寸、長者二三十節。氣味、甘大寒滑無毒。去暴熱熱痢、止渴。凡天下極冷、無過藻菜。荆揚人、遇歲飢、以葉當榖食。

   *

ここでは標題名は「夌菜藻」で別名を「馬藻」「水薀」「鰓草」そして「牛尾薀」を挙げる。さて、ここで同定へのヒントを示す。「夌菜藻」については、「維基文庫」の「古今圖書集成」(影印本画像に電子化翻刻付)のこちらを見るに、これはの「荇」であって、されば、「大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」で同定した如く、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属ガガブタ(鏡蓋) Nymphoides indica 或いは、アサザ属ヒメシロアサザ Nymphoides coreana となる。しかし、この二種と挿絵は全く合致しないから、違う。次に、「馬藻」を調べると、これは現代中国では(台中の莊溪氏の学術サイト「認識植物」のこちらを参照)、単子葉類植物綱オモダカ目ヒルムシロ科ヒルムシロ属エビモ Potamogeton crispus に同定されている。しかし、当該ウィキの草体画像を見て貰えば、一目瞭然、やはり全然、違う。今度は文字から攻めよう。「薀」は漢語としては「金魚藻」を指す(因みに、「海薀」は本邦では「もずく」と読み、不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科モズク属 Nemacystus のモズク類を指す)。「金魚藻」はマツモ目(或いはスイレン目)マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum のことである。これは行けそうだ! しかし、流れを元に戻す。この益軒の有意な漢文文字列はしっかりしたもので、どこかに必ずなければ、おかしいものだ。検索を続けたところ、発見した! 「国立公文書館デジタルアーカイブ」の「庶物類纂」の「草屬 自七十九至八十一」PDF)である。10コマ目の右頁六行目。漢文(訓点附き)なので以下に訓読して電子化する。なお、「庶物類纂」は江戸中期の本草学者で加賀金沢藩儒医稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)と弟子丹羽正伯(にわしょうはく 元禄四(一六九一)年~宝暦六(一七五六)年)が編纂した博物書。二十六属千五十四巻。初版は稲生の死後で、元文三(一七三八)年に加賀藩に提出し、加賀藩は幕府に献納した。後、八代将軍徳川吉宗が丹羽にさらなる増補を命じ、現在知られる最終版は延享四(一七四七)年に完成した。

   *

牛尾薀。水中に生ず。葉、髮のごとく、莖、藻のごとし。冬月、魚に和し、煮食す。夏秋、亦、食すべし【明王鴻漸「野菜譜」。】。

   *

この引用元を調べた。これは明の医師で散曲(口語による韻文形式又は歌謡文芸の一つ。元・明・清代に隆盛した)家としても知られた王磐(一四七〇年~一五三〇年)撰になる「野菜譜」で中文サイト「每日頭條」を見ると、『救荒野譜(饑荒年可食野菜圖譜)』という解説があって、これで不審が氷解した。救荒時の可食植物の図譜である本書を、益軒は「救荒本草」と錯覚したのだ。さてさて! 上記ページには、なんと! 萬曆十四年(一五八六)跋の版本の草体を描いた画像がバッチリ掲げられてあるのだ! そうして――見つけた! 以下に掲げさせて戴く(日本ではパブリック・ドメインの作品を単に平板的に写真に撮ったものには著作権は発生しない)。後に視認して電子化した。

 

R4r04n32qp444338o13onr73p360o156

 

 牛尾瘟

  生深水中葉如髪莖

  如藻冬月和魚煮食

  夏秋亦可食

牛尾瘟不敢吞疫氣重流

遠村黄毛㹀烏毛犜十荘

九疃無一存摩挱犁耙淚

如湧田中無牛

 

なお、引用文の後に四行のそれは、知らない漢字が満載で、ちょっと訓読出来そうもないので翻刻のみとする。思うに或いは筆者オリジナルの散曲なのではなかろうか? 六字で切ってみると、何となく意味を持った塊りには見える。例えば、「牛尾瘟 敢えて吞まざれば  疫氣 重く 遠村に流(はや)り 黄毛・㹀烏・毛犜[やぶちゃん注:不詳。] 十荘九疃[やぶちゃん注:「疃」は「村」に同じ。]一つも無し 存するは 摩挱する犁(すき)耙(くわ)の淚のみ 湧くがごとく 田中 牛 無し」とやらかすと、疫病で荒れ果てた農村風景が浮かんでくるような気がする。少なくとも、これは博物学的な解説ではないだろう。

 さて。この「牛尾薀」とは何か? 草体から推して、私は、

被子植物門マツモ目マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum

に代表されるマツモ類と考える。当該ウィキによれば、「金魚藻」として知られる淡水産植物の一つで、『食用の褐藻海藻であるイソガワラ目イソガワラ科(Ralfsiaceae)マツモ属(Genus Analipus )のマツモ(Analipus japonicus (Harvey) Wynne)とは全くの別種である』(私の「大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)」を参照されたい)。『世界中の湖沼、河川などに分布。日本でも全国の湖沼、ため池、水路などで見られる』。『多年生植物で、根を持たずに水面下に浮遊していることが多い』。『茎を盛んに分枝し、切れ藻でも増殖する。葉は』五~十片、『輪生し、長さは』八ミリメートルから二・五センチメートルほど。花期は五~八月で、『雄花と雌花を同一の茎につけるが、個体群によっては全く花をつけない場合もある。花粉は水中媒』である。『秋ごろから筆状の殖芽を産生し、水中で越冬する』とある。実は、私は「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「藻」に出る「水薀 【一名、牛尾薀。又は鰓草〔さいさう〕と名づく。】」で、

   *

「水薀」の「薀」は、漢和辞典を引くと、この字自体に水草の意があり、マツモ・キンギョモを指すとある。マツモの通称がキンギョモであるとする記載に従うならば、狭義には双子葉植物綱スイレン目マツモ科マツモ Ceratophyllum demersum var.demersum を指すということになるのだが、このマツモ科マツモ属 Ceratophyllum 自体がゴハリマツモ  Ceratophyllum platyacanthum 等、一属六種に分かれており、更に、現在、市場で「金魚藻」とか「金魚草」と呼ばれるものには、極めて多様で遠縁の観賞用水草群が含まれている。マツモ Ceratophyllum demersum var. demersum 以外には、スイレン目ハゴロモモ科のフサジュンサイ(カボンバ) Cabomba caroliniana 、単子葉植物綱チカガミ目トチカガミ科オオカナダモ(アナカリス) Egeria densa (中文サイトでは「水薀草」という中国名を本種に与えている)、フサモ Myriophyllum verticillatum に代表される双子葉植物綱アリノトウグサ目アリノトウグサ科フサモ属 Myriophyllum にオオフサモ Myriophyllum aquaticum (更に都合の悪いことに、この属には「キンギョモ」の和名を持つ Myriophyllum spicatum がいる)等が挙げられる。

   *

とした。不肖の私の古いそれなりに堅実な考察に(当時五十一歳。現在、六十四)、今更乍ら、自ら秘かに敬意を感じたことを告白しておく。]

2021/05/25

大和本草卷之八 草之四 水草類 小蓮花 (ヒツジグサ)

 

【和品】

小蓮花 小草也葉ハ水葵ノ如ク花ノ大ハ小梅花ノ如

ク秋ノ末白花ヲ開ク可愛

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

小蓮花(これんげ) 小〔さき〕草なり。葉は水葵のごとく、花の大〔きさ〕は、小〔さき〕梅花のごとく、秋の末、白〔き〕花を開く。愛すべし。

[やぶちゃん注:これはちょっと困った。まず、この「小蓮花」は現行では所謂、我々が「睡蓮」と呼んでいる、

双子葉植物綱スイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea 亜属 Chamaenymphaea 節ヒツジグサ Nymphaea tetragona

の異名である。しかも本邦にはこのヒツジグサ一種しかスイレン属は自生しないのである。辞書に高山植物などとあったので、別種で「コレンゲ」なるものがいるかと思って調べたが、んなものは、ない。『大和本草卷之八 草之四 水草類 睡蓮 (ヒツジグサ〈スイレンという標準和名の花は存在しない。我々が「スイレン」と呼んでいるのは「ヒツジグサ」である〉)』を見られたいが、どうも気に入らないのは、益軒先生お得意の相似表現なんである。水面に円形の切れ込みの入った葉を浮かべるヒツジグサと、抽水植物で茎は横に這う根茎となって斜上し、そこに葉が水上空中に束生する心臓型の「水葵」単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ミズアオイ属ミズアオイ Monochoria korsakowii 「大和本草卷之八 草之四 水草類 浮薔(なぎ) (ミズアオイ)」参照)の葉は、全然、似てないからなんである! しかし、ヒツジグサ以外には私には考えられない。他種があるとなら、御教授を乞うものである。

大和本草卷之八 草之四 水草類 澤瀉(をもだか) (オモダカ)

 

【和品】

ヲモダカ 葉ハヨク慈姑ニ似テ異リ葉莖慈姑ヨリ小ナリ

葉セハク長ク葉ノキレコミ長シ五六月單白花ヲ開ク三

片アリ根小ナリ慈姑ノ如ナラス不可食舊根ヨリ生ス

子ハ母ニ付テ生ス慈姑ノ根ノ蔓ノ末ヨリ子生スルニ異ナリ

一種干葉ヲモタカ葉小ニ花干葉ニ乄白シホウツキノ大ノ如

シ可賞一處ニモ上下ニモ多ク花開ク澤瀉ノ和名モヲモ

タカト云別ナリ○本草綱目二十八卷水草門ニ睡

菜是ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

をもだか 葉は、よく慈姑〔(くはい)〕に似て、異れり。葉・莖、慈姑より、小なり。葉、せばく、長く、葉のきれこみ、長し。五、六月、單〔(ひとへ)〕の白き花を開く。三片あり。根、小なり。慈姑のごとくならず、食ふべからず。舊き根より生ず。子は母に付きて生ず。慈姑の根の蔓の末より、子、生ずるに、異なり。一種、「干葉〔(ひば)〕をもだか」、葉、小に、花、干葉にして、白し。「ほうづき」の大〔(だい)〕のごとし。賞すべし。一處にも、上下にも、多く、花、開く。「澤瀉」の和名も「をもだか」と云ふ。別なり。

○「本草綱目」二十八卷「水草門」に「睡菜」〔あり〕、是れ、なるべし。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia

である。最初に言っておくと、「よく慈姑〔(くはい)〕に似て」いるのは当たり前。慈姑はオモダカの古くに作られた品種(大陸からの渡来品種で、平安初期に中国から伝来したとする説がある)、

オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia 'Caerulea'

だからである。「オモダカ」の漢字表記は「澤瀉」「沢瀉」「面高」である。現在の中国名は「野慈姑」。異名が多く、「ハナグワイ」「サンカクグサ」「イモグサ」「オトゲナシ」などがある。当該ウィキによれば、『オモダカの語源ははっきりとはしておらず、人の顔に似た葉を高く伸ばしている様子を指して「面高」とされたとも、中国語で湿地を意味する涵澤(オムダク)からとられたとも言われる』。『アジアと東ヨーロッパの温帯域から熱帯域に広く分布し、日本でも各地で見られ』、『水田や湿地、ため池などに自生する』。『春に、種子と塊茎から発芽する。発生初期は線形の葉をつけるが、生長が進むと』、『矢尻形をした葉をつける。葉の長さは最大で』六十センチメートル『ほどになるが、葉の形態は種内変異に富む』。『花は単性花で、雌雄同株、白い花弁を』三『枚つける。楕円形の種子には翼をもつ。また種子のほかに、地中に伸ばした地下茎の先に塊茎をつけ、それによって繁殖する』。『同じオモダカ属のアギナシ』Sagittaria aginashi『とよく似ているが、アギナシは根元に粒状の球芽(むかご)を多数形成する一方で地下には走出枝を出さないが、オモダカは走出枝を出し、球芽をつけることはないため、草体を引き抜けば』、『区別できる。そのほか、アギナシの花は葉より高い位置につくという傾向や、オモダカでは矢尻型の葉の先が尖るのに対してアギナシでは先が丸みを帯びるという点も異なるが、花の位置や葉の形態には変異が大きく決め手とはなりがたい。また、アギナシは「顎無し」の名の通り、矢尻型でないヘラ状の葉をつけることも多いが、同様の葉はオモダカでも見られるため、ヘラ状の葉の有無では区別できない』とある。

「干葉をもだか」実は底本PDF38コマ目・右頁五行目)原画像は「千葉」にしか見えないのだが、それでは意味が通らない。本書では、しばしば「于」・「干」・「千」の字が紛らわしく彫られていることから、かく採った。それでも以下の「葉、小に、花、干葉にして、白し」も意味がよく通らない。ここは或いは、「葉、干葉にして、小に、花、白し」の錯文ではあるまいか? 而して、これがもし、アギナシを指しているとすれば、オモダカのような鏃型の葉に比して、ずっとコンパクトで、箆(へら)のように細く干からびて見えるというのは、表現としては納得出来る。しかし、この希望的比定は、実は、裏切られる。四つ後に「あぎなし」が立項されてしまっているからである。

『「ほうづき」の大〔(だい)〕のごとし。賞すべし』花を比較して、愛でるべきであると言っている。比較するため、グーグル画像検索「アギナシ 花」と、「ホオズキ 花」をリンクさせておく。

『澤瀉の和名も、「をもだか」と云ふ。別なり』これは恐らく中国の本草書の「澤瀉」が、どうも本邦の「をもだか」(澤瀉)と違うことに、敏感に益軒は感じたのだ。そうして、それは正しかった。中国語で「澤瀉」はオモダカ科 Alismataceaeの総称でもあるとともに(この時点で既に本邦のオモダカとは別種である可能性が浮上する)、別に属レベルで異なる、

オモダカ科サジオモダカ属ウォーター・プランテーン変種サジオモダカ Alisma plantago-aquatica var. orientale

という別種を指す可能性があると思われるからである。当該ウィキによれば、『和名は、葉の形が』匙(さじ/スプーン)『に似ていることによる。サジオモダカの塊茎は沢瀉(たくしゃ)と呼ばれ、利尿効果などのある漢方薬として利用される』。『北日本や東アジア、中央アジアの湖沼やため池などに生息する。西日本にも見られるが、栽培個体が逸出したものであるとされる』。『多年草で、湿生植物、または抽水植物として生育する』。『短い茎から楕円形の葉を根生し、葉の長さは』五~二十センチメートル、花期は七~九月で、『花茎は最大』『一メートル二十センチメートル『程度になる』。『花茎は盛んに分枝し、花柄の先に丸い』三『弁の花をつける。花の色は白かうすい桃色、雄しべは』六『本、雌しべは多数形成する』。『地中に形成した塊茎で越冬する』。『塊茎を乾燥させたものには抗腎炎作用があり、沢瀉の名で漢方薬として用いられる』。『また』、『塊茎には、アレルギー反応を抑制する機能を持つ可能性も示唆されている』。『他方で、水田などで繁殖すると、水田雑草として扱われることがある』とある。而して、オモダカは先に見た通り、現在の中文名は「野慈姑」(リンク先は当該「維基文庫」。次も同じ)であるのに対し、この「サジオモダカ」の中文名は「東方澤瀉」なのである。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 莞 (フトイ)

 

莞 斯干詩下莞上簟朱傳曰莞蒲席也大全僕氏

云莞又云燈心草生池澤中周禮有莞筵蒲莚郭

璞曰蒲麤莞細則莞蒲爲兩種順倭名抄ニ莞草ヲ

オホ井ト訓スオホ井ハ大藺ナリ井ハ燈心草ナリオホ

井ハ俗ニフト井𪜈又唐井トモマルスゲ又佛杖トモ云燈心

草ニ似テ甚大ナリ㴱綠色高五六尺一窠ヨリ叢生ス

池沼ニ生ス秋刈テホシ臥席トシ圓座トス

○やぶちゃんの書き下し文

莞〔(ふとゐ)〕 「詩」の「斯干〔(きかん)〕」に、『莞〔(クワン)〕を下にし 簟〔(ヘウ)〕を上にす』〔と。〕「朱傳」に曰はく、『「莞」は「蒲の席〔(むしろ)〕」なり』〔と〕。「大全」に僕氏云はく、『莞は又、燈心草と云ひ、池澤の中に生ず』〔と〕。「周禮〔(しゆらい)〕」に『莞筵・蒲莚、有り』〔と〕。郭璞曰はく、『蒲は麤〔(あら)〕く、莞は細なり。則ち、莞・蒲は兩種と爲す』〔と〕。順が「倭名抄」に莞草を「おほゐ」と訓ず。「おほゐ」は「大藺」なり。「ゐ」は燈心草なり。「おほゐ」は、俗に「ふとゐ」とも、又、「唐〔(たう)〕ゐ」とも。「まるすげ」、又、「佛杖〔(ぶつじやう)〕」とも云ふ。燈心草に似て、甚だ大なり。㴱綠色、高さ、五、六尺。一窠〔(いつさう)〕より叢生す。池沼に生ず。秋、刈りて、ほし、臥席〔(ふしむしろ)〕とし、圓座〔(ゑんざ)〕とす。

[やぶちゃん注:何度も出てきたものがやっと立項されてあった。

単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani

である。当該ウィキによれば、『「フトイ」という名前は「太い」ではなく「太藺」、つまり「太い藺草」の意味である。実際にはイグサ科』Juncaceae(藺草はイネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens である)『ではなく、カヤツリグサ科フトイ属に属する。ただし、その姿は』、『さほど』、『イグサに似ている訳ではない。古名は「ツクモ」(九十九)』。『日本全土に分布する』。『湿地や浅い池などに生育する大柄な多年草で、高さは』二メートル『近くにもなる個体もある。地下茎は太くて横に這い、全体としてはまばらに花茎を立てて大きな群落を作る。地下茎の節から花茎を直立させる。花茎の基部には鞘があって、その先端は少しだけ葉の形になる。しかし花茎の長さに比べるとあまりに小さく、目立たない。花茎の断面はややいびつな円形』である。『花茎の先端には花序がつく。いくつか枝が出て』、『その先端には小穂がつき、小穂の基部から』、『さらに枝が出るように』『多数の小穂が散房状につく。花序の基部には苞が一つあるが、花序より短くて目立たない。そのため』、『イグサのようには見えず、花序が花茎の先端に上を向いてついているように見える』。『日本では、時に庭園の池などで観賞用に栽培される。フトイの変種であるシマフトイ』(Scirpus tabernaemontani 'Zebrinus')『は花茎に白い横縞模様があり、鑑賞価値が高いものとして栽培されている。フトイは昔から夏の水物花材として多く使われてきた』とある。

『「詩」に、『莞〔(クワン)〕を下にし 簟〔(ヘウ)〕を上にす』〔と。〕』「詩経」の「小雅」にある一族の繁栄を祈った「斯干」。全篇は『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』のこちらがよい。そこでは訓読はないが、しかし考えるに、「詩経」レベルに古くなると、和文式訓読というのは、実は無理が多い気がするのである。当該部は以下。

   *

下莞上簟

乃安斯寢

乃寢乃興

乃占我夢

吉夢維何

維熊維羆

維虺維蛇

   *

「下莞上簟」は「太藺で作った茣蓙を敷き、上には簾を掲げて」(「簟」は「細く割った竹や籐で編んだ、やはり筵のこと」、さても、いざ、安眠して夢を見、その夢を占おうとしたところが、とんでもない!……という意である。但し、夢占ではいい夢と判じられるのである。

「朱傳」前にも出たが、南宋の儒学者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)の「詩経」の注釈書「詩集傳」のこと。「中國哲學書電子化計劃」で同書「詩經卷之五朱熹集傳」の中に発見した。影印本をリンクさせた。最終行の右列にある。

『「大全」に僕氏云はく、『莞は又、燈心草と云ひ、池澤の中に生ず』〔と〕』「欽定四庫全書」の明の胡廣らの撰になる、「詩経」の注釈書「詩傳大全」の巻十一の「斯干」を注した中に、

   *

莞蒲席也竹葦曰簟【孔氏曰西方人呼蒲爲莞蒲司几筵有莞筵蒲筵則兩種席也○濮氏曰莞又云燈心草生池澤中卽苻蘺也下莞則鋪席其上則竹葦之簟所以覆席】

   *

とあるのを見つけた。

「周禮〔(しゆらい)〕」(「しゅ」は本邦の漢学者の読み癖)儒教経典として「儀礼」「礼記」と併せて「三礼(さんらい)」と呼ぶ。原書名は「周官」。前漢の武帝期(紀元前二世紀)に発見されたとされ、周公旦が周の官制を天地春夏秋冬の六官に分けて記した書として、劉歆(りゅうきん)を初めとして古文学派に尊奉されたが、実際の成立は戦国時代以降。周王朝の官制を記述したもの。「冬官」は後に失われたため、「考工記」で補われてある。

「郭璞」(かくはく 二七六年~三二四年)は六朝時代の東晋の学者・文学者。山西省聞喜の生まれ。字は景純。博学で詩賦をよくし、特に天文・卜筮(ぼくぜい)の術に長じた。東晋の元帝に仕えて著作郎などを勤め、たびたび、大事を占っている。「爾雅」や「山海経」の注で著名。

『順が「倭名抄」に莞草を「おほゐ」と訓ず』「和名類聚抄」の巻二十の「草木部第三十二」の「草類第二百四十二」に、

   *

莞 「唐韻」云はく、『莞【音「完」。一音「丸」。「漢語抄」云はく、「於保井(おほゐ)」。】は、以つて席(むしろ)と爲すべき者なり。』と。

   *

とある。「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序を持つ、陸法言によって作られた韻書)の修訂本。成立は七五一年或いは七三三年とされる。早くに散佚して、現在に伝わらないが、宋代にこの「唐韻」を更に修訂した「大宋重修広韻」が編まれている。「漢語抄」は「楊氏漢語抄」で奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。

『「ゐ」は燈心草なり』既出既注

「唐〔(たう)〕ゐ」「まるすげ」(丸菅)「佛杖〔(ぶつじやう)〕」前二者は確認出来た。最後のそれは見当たらないが、異名としては腑に落ちる気はする。

「一窠〔(いつさう)〕」一つの穴。水底の下の根茎。

「圓座〔(ゑんざ)〕」藁・菅・藺などで、渦巻形に、まるく編んだ敷物。本来は「わらうだ(わろうだ)」と読みたかった。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 七島 (シチトウ)

 

【和品】

七島 海邊鹹淡相雜ハル淺水ノ地ニ生ス燈心草ニ似

テ三角ナリ織テ席トス琉球ヨリ此席來ル薩州ノ七

島ヨリ多ク出ル故ニ名ツク他州ニモ多シ七島席ト名

ツク民用ニ利アリ本草溼草下決明ノ附錄茳芒ノ下

ニ曰又有茳芏一名江蘺子乃草似莞生海邊可爲

席ト云疑ラクハ是ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

七島〔(しちたう)〕 海邊〔の〕鹹淡〔(かんたん)〕相ひ雜〔(まぢ)〕ある淺〔き〕水の地に生ず。燈心草に似て、三角なり。織りて、席〔(むしろ)〕とす。琉球より、此の席、來たる。薩州の七島より、多く出づる。故に名づく。他州にも多し、「七島席」と名づく。民用に利あり。「本草」、「溼草〔(しつさう)〕」の下、「決明」の附錄〔の〕「茳芒」の下に曰はく、『又、茳芏(〔こう〕と)有り。一名は「江蘺子」。乃(すなは)ち、草〔なり〕。莞〔(ふとゐ)〕に似て、海邊に生ず。席と爲すべし』と云へり。疑らくは、是れなるべし。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属オオシチトウ亜種シチトウ Cyperus malaccensis ssp. Monophyllus

である。当該ウィキによれば、『多年生草本で、非常に背が高くなる。根出葉も苞葉もほとんど発達せず、花茎の茎の部分ばかりから構成された植物である。別名をリュウキュウイ(琉球藺)、シチトウイ、シットウイ』『(七島藺)とも。湿地に群生する。畳表などに使われることがある』。『根茎は太くて地中を横に這い、間を開けて花茎を単独に立てる。花茎は高さ』一~一・五メートル『に達するが、太さはせいぜい』四ミリメートル『程度でフトイ』(イネ目カヤツリグサ科フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani )『のようにしっかりしていない。花茎の断面は鋭い三角形だが、根元近くでは角が鈍くなってやや円形になる。根出葉は』二、三『枚あって、鞘がよく発達して』三十センチメートル『にも達するが』、『葉身はほとんどない。鞘は褐色から赤褐色に色づく』。『茎の先端は花序がつくが、つかない茎も多い。つかない場合、先端は真横に切れたようになり、そこから三枚ばかりの短い葉状の苞がつくが、これは真っすぐ上に向かうので、遠見には茎の先端がそのまま尖っているように見える。花序が出る場合には苞は開く』。『花序は先端から数本の小枝を伸ばし、それぞれの先にややまとまって』三~十『の小穂をつける。小穂は細長くて棒状、長さ』一~三センチメートル、幅は一~一・五ミリメートルで、『藁色。小花はやや間隔を開けてつき、鱗片は長さ』二~二・五ミリメートル、『果実は鱗片より少し短く、線状長楕円形、花柱は短くて三裂する』。『湿地に生え、根元は水に浸かる。特に河口の汽水域によく生育し、ヨシ』(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )『やシオクグ』(カヤツリグサ科スゲ属シオクグ節シオクグ Carex scabrifolia )『などと共に泥地に大きな群落を作る。沖縄などではマングローブ周辺の流れの回りに見られることもある』。『日本では本州南部から琉球列島に見られるが、本土のそれは栽培逸出と考えられ、沖縄のものもその可能性が考えられている。国外では中国南部からインドシナ、台湾などに分布する』(☜:外来種の可能性)。『なお、和名のシチトウは七島の意であるが、これはトカラ列島のことで』(吐噶喇列島。鹿児島県南部の屋久島と奄美大島との間に二列に点在する火山列島。口之島・中之島・臥蛇(がじゃ)島・宝島・悪石島などからなる。名は「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力である。ここ。グーグル・マップ・データ)、『畳としての利用はここが発祥とも言われる』。『畳表に使われる。シチトウを使った畳表は、琉球表、あるいは琉球畳と言われる。琉球畳の名称は、本来、縁の有無や、半畳か』一『畳かにかかわらず、シチトウを使ったものだけに用いられる。歴史上は、シチトウが使われていない場合は』、『琉球畳の名称ではないことが沖縄県の首里語にも残されている。イグサや他の材料を使った縁なしの畳は、縁なし畳や坊主畳と呼ばれる。ただし、現在では琉球畳と言えば、むしろ半畳の正方形で縁なしの畳を指すこともあり、その場合には普通のイグサを使っている例もある』。『非常に丈夫であるために柔道用の畳にも使われていた』。『シチトウの畳表は』、一『農家で』一日二畳『程度の生産効率であるため、値段は普通のものより高くなる。シチトウの茎を』二『つ、または』三『つに裂き』、『乾燥したものとイチビ糸』(双子葉植物綱アオイ目アオイ科イチビ属イチビ Abutilon theophrasti の茎を水に浸け、表皮の下の靭皮を取り出した糸)『で織られ、やや粗い感触を持つ。大分県産は麻糸のイチビが使われていたが、近年ケナフ』アオイ目アオイ科フヨウ属ケナフ Hibiscus cannabinus :アフリカ原産の帰化植物)『などの糸を使っている。また、中国やベトナムからの輸入もある。大分県国東市で生産される畳表は』現在、『「くにさき七島藺表」として地理的表示に登録されている』。『筵としても利用される。他に、乾燥した茎を円形に巻き付けて輪を作り、スイカの台にするなどの利用もある』。『工芸作物としては、現在、日本国内では全量が大分県国東地方で栽培されており、生産量は』三十トン(二〇〇五年現在)である、とある。

『「本草」、「溼草〔(しつさう)〕」の下、「決明」の附錄〔の〕「茳芒」の下に曰はく、『又、茳芏(〔こう〕と)有り。一名は「江蘺子」。乃(すなは)ち、草〔なり〕。莞〔(ふとゐ)〕に似て、海邊に生ず。席と爲すべし』と云へり。疑らくは、是れなるべし』「本草綱目」巻十六の「草之五 隰草類」(「溼」「隰」ともに「濕」の異体字)の「决明」の「附錄」に「茳芒」があり、その一節に、まず、蔵器の説として、『又、「茳芏」有り。字、「土」に從ひ、音「吐」。一名「江蘺子」。乃ち、草なり。莞に似て、海邊に生ず。席と爲すべき者なり。决明とは、葉、相ひ類せず。』とあった後、時珍の解説が載り、『茳芒も亦、决明の一種。故に俗、猶ほ、「獨占缸」と稱す。說は「前集解下」に見えたり』とある。さて、この主項目の「决明」とは、

双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科カワラケツメイ連センナ属エビスグサ Senna obtusifolia(夷草)

のことで、種子が知られた「決明子」(けつめいし)と呼ばれる生薬とされるものである。次に、「茳芒」というのは、

カワラケツメイ連カワラケツメイ属カワラケツメイChamaecrista nomame

で(同じく漢方生薬や健康茶に用いられる)、さても、ここで問題にしている「茳は、それらとは全く異なる、めでたくもシチトウのことを指すのである。「維基文庫」の「茳芏」を見られたい。

大和本草卷之八 草之四 水草類 藺・燈心草 (イ=イグサ)

 

【和品】

藺 順和名ニ藺ヲ井ト訓シ又鷺尻刺ト訓ス似莞細

堅宜爲席トイヘリ今俗鷺尻指ト云物水草ニテ三角

アリヨハシ爲席ヤハラカナリヤフレヤスシ又草履トス本草

綱目燈心草龍鬚ノ異名ニ藺ノ字ナシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

藺 順が「和名」に、藺を「ゐ」と訓じ、又、「鷺尻刺(〔さぎ〕の〔しり〕さし)」と訓ず。『莞〔(ふとゐ)〕に似て、細〔く〕堅〔し〕。宜しく席〔(むしろ)〕と爲すべし』と、いへり。今、俗、「鷺尻指」と云ふ物、水草にて、三角〔(みつかど)〕あり、よはし。席と爲す。やはらかなり。やぶれやすし。又、草履とす。「本草綱目」の「燈心草」・「龍鬚」の異名に「藺」の字、なし。

 

燈心草 倭名井ト云水田ニ多クウヘテ利トス席トシ燈

心トス又淋症ノ藥ニ加フ敗席更良ト本草ニ見エタリ僃

後ニ多ク此草ヲウヘテ席トシ諸州ニウリ諸州ニモ多クウ

ヘテ席ニ織リテ爲利不及于備後之產

○やぶちゃんの書き下し文

燈心草 倭名、「ゐ」と云ふ。水田に多くうへて、利とす。席とし、燈心とす。又、淋症の藥に加ふ。『敗席、更に良し』と「本草」に見えたり。僃後に、多く此の草をうへて、席とし、諸州にうり、諸州にも多くうへて、席に織りて、利と爲す。備後の產に及ばず。

[やぶちゃん注:二項ともに並んでおり、孰れも、

単子葉植物綱イネ目イグサ科イグサ属イ Juncus decipiens

及びその仲間に同定するので、並べて示した。当該ウィキによれば、『標準和名はイ(藺。「イグサ」を使うこともある)。最も短い標準和名としても知られている。別名』『トウシンソウ(燈芯草)。畳表を作るのに使われる。俳句では夏(仲夏)の季語とされる』。『日本、朝鮮半島、台湾、中国の温帯に分布する』。『湿地や浅い水中に生える多年草で』、『泥に根を下ろす。植物としての姿はちょっと変わったもので、先のとがった細い茎ばかりが束になったような姿をしている。針のような体毛を持つヤマアラシが頭から泥に突っ込んだようなものである』(面白い表現! 座布団一枚!)。『実際にはこの針状のものは花茎に当たる。茎は地下茎となっており、泥の中で短く這う。多数の花茎を地上に伸ばす。葉はその基部を包む短い鞘状のものに退化しており』、『外見上はないように見える。花茎は円柱状で真っすぐに伸びる。緑色で表面には艶があり、すべすべしている』。『花は花茎の途中から横に出ているように見える。これは花が出る部分までが花茎で、そこから先は花序の下から出る苞にあたる』。『この植物の場合、苞が花茎の延長であるかのように太さも伸びる方向も連続しているので、花序が横を向いているのである』。『花序は短い柄をもった花が多数つく。花は緑色でごく目立たない。ただし、よく似た姿のカヤツリグサ科』Cyperaceae『やイネ科』Poaceae『のものとは異なり、通常の花である。よく見れば、目立たないなりに』六『枚の花被がある。花被は三角形で先がとがり、開いている時は星形に見える。花被は果実が成熟しても落ちないで、その基部を包む鞘のような姿になる。果実には細かい種子が多数入っている』。『畳表やゴザはイグサの茎で作られる。イグサの茎は帽子や枕の素材としても利用される。そのために使われるのは栽培用の品種でコヒゲ(小髭: cv.Utilis )と呼ばれる』(cv.:栽培品種(cultivar)。但し、最新の学名表記では` Utilis′とする)。『野生種より花序が小さいのが特徴である。水田で栽培される。他に花茎がバネのように巻く品種があり、ラセンイ(螺旋藺: cv. Spiralis)と呼ばれ、観賞用に栽培される』。『ちまきを笹などでくるむ際に、結わえる紐としても用いられる』。『また』、『別名のトウシンソウというのは「燈芯草」の意味で、かつて油を燃やす燈火で明りを採っていた時代にこの花茎の髄を燈芯として使ったことに由来する。今日でも和蝋燭の芯の素材として用いられている』。『かつては利尿や不眠症、切り傷や打撲、水腫の薬としても用いられた』。『イグサはビタミン類やミネラル、葉酸、食物繊維を含み、加工すれば食用にもなる』。『イグサの日本における主な産地は熊本県八代地方であり、国産畳表の』八、九『割のシェアを誇り、また歴史的文化財の再生にも使用される高級品を出荷する』。『他には石川県、岡山県、広島県、高知県、福岡県、佐賀県、大分県でも生産されている』。一九七〇年代までは、『備後(備後表、広島県)産が価格、品質共に抜き出ていた』(☜)が、『近年、中国などの外国産の安価な畳表が多く輸入されるようになり』、二〇〇七『年以降、畳表の供給量に対し』、『国産畳表の割合は』二十%『前後にまで低下して』おり、『さらに住宅居室の洋化によって畳の需要が低下し、イグサ生産農家が減少し続けている』。『種としては北半球の温帯に広く分布する。基本変種』(ドイツ産の基本変種:Juncus effusus)『はヨーロッパから北アメリカに分布し、やや大柄で果実の形が少し異なるなどの違いがある』。『日本では全国に分布し、平地から山地まで生育範囲も広い。種内の変異が大きく、山地に出現する小柄なものをヒメイ(姫藺)と呼ぶが、中間型があって明確な区別はできない。また、花の柄がごく短く花序が頭状になるものをタマイという』。『イグサ属は日本に十数種ある。しかし、イグサに似た姿のものは多くない。コウガイゼキショウ』(笄石菖:J. leschenaultii )やクサイ』(草藺:J. tenuis )『などが普通種であるが、これらは根出葉が発達し』、『花序は茎の先端について苞が発達しないので、普通の草の姿に見える。コウガイゼキショウは湿地などに生えるが』、『よく似た近縁種が多く、分類は難しい』。『イグサに似た姿の種としてはホソイ』(細藺:J. setchuensis var. effusoides )『やタカネイ』(高嶺藺:J. triglumis )『などがある』。また、『○○イという名をもつ植物は他にもあり、特にカヤツリグサ科に多い。フトイ(太藺)』(カヤツリグサ科フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani )、『サンカクイ(三角藺)』(フトイ属サンカクイ Schoenoplectus triqueter )、『シカクイ(四角藺)』(カヤツリグサ科ハリイ属シカクイ Eleocharis wichurae )、『ハリイ(針藺)』(ハリイ Eleocharis pellucida )、『マツバイ(松葉藺)』(マツバイ Eleocharis acicularis var. Longiseta )、『シチトウイ(七島藺)』(カヤツリグサ属オオシチトウ亜種シチトウ Cyperus malaccensis ssp. Monophyllus :次で立項される)『など、いずれもイグサと同様に花茎が多数伸び葉が退化したもので、その構造もよく似ている。多くは花茎の先端に花序をつけるが、サンカクイなどではイグサと同様に苞が花茎の先端の延長となって花序は脇に出る。これらはイグサとは異なり』、『花被は退化し、多数の花が集まって小穂を形成する。つまり、鱗片が折り重なって小さな松かさのような形になっている』とある。

『順が「和名」に、藺を「ゐ」と訓じ、又、「鷺尻刺(〔さぎ〕の〔しり〕さし)」と訓ず』「和名類聚抄」の巻二十の「草木部第三十二」の「草類第二百四十二」に、

   *

藺(ヰ) 「玉篇」に云はく、『藺【音「吝(リン)」。和名、「辨色立成(べんしきりつせい)」に『「鷺尻剌」と云ふ』と爲す。】は莞に似て、細堅、宜しく席〔(むしろ)〕と爲すべし』と。

   *

「藺」の音は呉音・漢音ともに「リン」。「辨色立成」は今は失われた本邦の類書(辞書)。

『莞〔(ふとゐ)〕』前掲のフトイ。

『「本草綱目」の「燈心草」・「龍鬚」の異名に「藺」の字、なし』事実、ない。調べたところ「草部」で出るのは、皆、「馬藺」で、これは単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ネジアヤメ Iris biglumis の漢名であり、朝鮮・中国・チベット・ロシアに分布するので、外来種であるが、江戸時代以前に移入されたか。ともかくも本来の漢語の「藺」にはイグサの意はない。

「淋症の藥に加ふ」「本草綱目」の巻十五の「草之四」の掉尾に「燈心草」が載り、その「主治」に「五淋生煮服之」(五淋に、生・煮にて、之れを服す)とある。「五淋」とは、石淋・気淋・膏淋・労淋・熱淋という膀胱・尿路に関する症状を指す語。

「『敗席、更に良し』と「本草」に見えたり」前の「主治」の引用に続いて、「敗席煮服更良【「開寳」。】」とある。「敗席」とは使い古して使用に耐えなくなった莚のことか。

「僃後」「備」の異体字。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 石龍芻 (ネビキグサ)

 

石龍芻 燈心草ニ似テ短シ一名龍鬚燈心草ヨリ緊

小ニ乄瓤實ス燈心草ハ粗ク乄瓤虛白ナリ同類異物ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

石龍芻〔(セキリユウシユ)〕 燈心草に似て短し。一名「龍鬚〔(りゆうのひげ)〕」。燈心草より緊〔(しま)りて〕小にして、瓤(なかご)、實〔(じつ)〕す。燈心草は粗くして、瓤、虛白なり。同類異物なり。

[やぶちゃん注:一部で「アンペライ」の名で知られ、それを和名と思い込んでいる人の多い、

単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ネビキグサ属ネビキグサ Machaerina rubiginosa

であるが、私は以下から、「アンペライ」と呼ぶべきではないと考える(記載によっては属名さえ「アンペライ属Machaerina」とする)。何故なら、「アンペライ」は「アンペラ藺」で、明らかに「莚」を意味する「アンペラ」由来で、それはポルトガル語の“ampero”或いはマレー語の“ampela”が語源であって、漢名は「筕篖」、近世以降、近現代まで、広く、砂糖などを入れる袋や莚及び多様な「覆い」の呼称として定着したそれと同義で、その「アンペラ」の材料が「アンペラ藺(い)」であるのだが、これは熱帯地方原産で、中国南部などで栽培し、近世以前の旧日本には自生しない(現在でも西表島のみ)、「ネビクグサ」とは全くの別種の一属一種である、

単子葉植物植物綱イネ目カヤツリグサ科レピロニア属 Lepironia articulata

のことを指すからである。私は「アンペライ」はこの Lepironia articulata の和名とすべきであると考えるからである。ウィキの「ネビキグサ」を引く。『ネビキグサは湿地に生え、その葉は円柱形で直立し、先端は鈍く尖っている。つまり泥の中から多数の長大な針が立ち並んだ姿の植物である。このようなものは』イネ目『イグサ科』Juncaceae『のイグサ』(イグサ属イグサ Juncus decipiens )『やホソイ』(イグサ属ホソイ Juncus setchuensis var. effusoides )、『カヤツリグサ科』Cyperaceae『のフトイ』(フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani )、『ホタルイ』(ホソガタホタルイ属ホタルイ Schoenoplectiella hotarui )、『カンガレイ』(「寒枯れ藺」か。ホソガタホタルイ属カンガレイ Schoenoplectiella triangulates )『など非常に多くの例があるが、それらの場合、多くは針状に突き立つのは茎であり、真の葉は鞘状に退化している。あるいは途中に花序が出るものではそれ以下が花茎で、それより上に続く部分は苞が変化したものである。それに対して、本種では針状に突き立つのはすべて真の葉であり、茎ではない。花茎はあるが、この種の場合には葉と見間違うような姿は取っていない。日本では南部地域に生じるが、どこでも普通に見られるものではない。名称等には混乱が見られる。本種は時に泥炭湿地を形成し、浮島を作ることがある』。『常緑性の多年生草本』で、『草丈は』六十センチメートルから一メートル、『花茎が葉よりやや高くなる』。『根茎から多数の根出葉を立てる。地下には横に走る長い匍匐茎があり、その表面は鱗片状の鞘に覆われる。葉はほとんどが根出葉で、束になって出て、円柱形から多少左右に扁平となっており、葉幅は』三~四ミリメートルで、『表面は滑らかで光沢があり、先端は鈍く尖っている』。『葉の基部には鞘があり、その先端は斜めに切られたような形になっている。また花茎の途中にも茎葉が』一『つあり、これは基部の鞘の部分が長く、先端は斜めに切れたようになっている』。『花期は』七~十月で、『花茎は葉の束の中から出る』。『花序は全体としては円錐花序をなし、花茎の上半部に』三~五『個の分花序が着く。それぞれの分花序の基部には苞があり、茎葉のようで葉身は刺状になっている。個々の分花序は』五~六『個の小穂からなっており、その長さは』一~一・五センチメートル『ある』。『分花序の柄は扁平になっている』。『小穂は赤褐色で鱗片が約』十『枚折り重なっており、そこに花が』六~七『個含まれている。鱗片は卵形で長さ』五~六ミリメートルで、『繊維状の毛が多い。特に縁に毛が多く、先端は鋭く尖る』。『花は両性花で雄しべが』三『本あり、雌しべの先端は』三『つに裂けている。花被片やそれに由来する刺毛などはない。痩果は倒卵形で長さ』三ミリメートルで、『断面は鈍い』三『稜形で光沢があり、花柱の基部は僅かに盛り上がるが』、『ほぼ平坦で、そこに毛が密生しており、この部分は花後も残る』。『ただ、これらの記述に関して、出典の間に様々な違いがあり、記載が一定していない。例えば』、『葉の見てくれについて』、『星野他』(二〇〇一年)は『「光沢があり、平滑」とあるのに対して』、『大橋他』(二〇一五年)は『「平滑、粉白緑色で光沢がない」と平滑以外はずいぶん異なったことが書いてある。遡ると『粉白緑で光沢なし』は佐竹他編』(一九八二年)から『引き継いでいるらしい。また』、『葉先の形については星野他』『も大橋他』『も記述がなく、この点も奇妙であるが、北村他』(一九九八年)は『上記の葉質の問題には触れない一方で』、『葉先は「鈍い」とある』。『これに対して角野』(一九九四年)は『「先端が鋭頭」と鋭く尖る風に記してあり』、『これまた』、『咬み合わない。こんな風に書籍ごとに各所で記載が咬み合わない、それも表現の違い以上の点で食い違う例は珍しいと思われる。本記事の記載はそのような咬み合わない部分をある程度避けてまとめたものである』(☜:私は植物に冥いが、確かにこれは生態学的記載として異様である)次に「名称」の項。『従来から用いられた名はアンペライであったらしい。この名は別属のアンペラ Lepironia articulata にちなんだもので、日本では普通に見られるものではない』(注に『日本では西表島にのみ産する』とある)『が、砂糖を入れるアンペラ袋として用いられた』り、『粗い菰を作って使用されたりしたことから名が知られていたようである』。『これに対してネビキグサが後に作られ、その名の意味は『長い根茎を引く草』とのことである』。『この名は牧野富太郎によるもののようで、牧野の昭和』一五(一九三〇)『年の版には『ねびきぐさ』を標準に、別名には『あんぺらゐ、ひらすげ』を示しており、従来の名は『あんぺらうゐ』なのだが』、『形も違う別種であるアンペラと紛らわしいので『ねびきぐさ』を採るとしてあり、名の意味として『株ヲ引ケバ長キ横走匍匐枝出ヅ』ることから、としている』。『さらにヒラスゲの名は偏スゲで、葉鞘部が扁平であることによるという。小山』(一九九七年)では『『アンペラ属と混同しやすいので』と牧野がつけた旨が明記されている』。『なお、このどちらを標準和名とするかに関しても問題があるようで、星野他』『はアンペライを、大橋他』『はネビキグサの方を採用しており、ついでに属名もそれぞれ種名に合わせている。さかのぼると佐竹他』(一九八二年)、『初島』(一九七五年)『はアンペライ、北村他』(一九九八年)、『小山』(一九七七年)、『角野』(一九九四年)は『ネビキグサを、という風でかなり伯仲している。大橋他』(二〇一五年)は『佐竹他』『の後継書であるが、先代がアンペライを採っているのに対して』、『ネビキグサを選んでおり、先代の判断から寝返ったらしい』。『本記事ではYList』(「植物和名―学名インデックス YList」(略称:YList)。「施設に保存されている研究用植物のデータベース」(BG Plants)で用いられる植物名、特に、日本産植物の和名と学名に関する詳細情報の整備を目的として、二〇〇三年に米倉浩司らを中心に作成されたもの。もとの正式名称は「BG Plants 和名−学名インデックス」であるが、基本データ蓄積と入力が主に米倉によって行われたため、通称で「YList」(ワイリスト)と呼ばれている)『に合わせて頭記の名を取った』。但し、『YListでは同属の M. glomerata の和名をヒラアンペライとしており、この種には他に異名はないようなので、統一性という意味では少々変である』(☜:YList」の「ネビキグサ、及びヒラアンペライ」をリンクさせておく。因みに私も激しくそう思う。これは属名和名を「ネビキグサ」として改名すべきであろう)。『日本では本州の東海地方から南西に琉球列島までと小笠原諸島に産し、さらに国外ではインド、スリランカ、インドネシア、オーストラリアまで分布する』。『日当たりのよい海岸の湿地に生える』。『分布域はそれなりに広いが、どこにでもあるというものではなく、角野』(一九九四年)は『「全般に稀な植物」であるが、地域によっては多く、時に大群落を作る、としている』。『なお、海岸性ではあるが、これは干潟や砂浜ではなく、淡水がその主たる生育環境である。角野』『は「湖沼やため池」と』、『その生育環境を記している』。『抽水性から湿性の植物』『で、つまり水中の底に根を下ろして茎や葉を水面から抜き出すか、あるいは湿った地面に生える』。『ニューギニアでは標高』千メートルら三千メートルまでの『地域に泥炭湿地を含む森林や草原が成立しているが、そのような場所の草原には幾つかのタイプがあり、背の高いイネ科草原おいては』ヨシ属セイタカヨシ Phragmites karka(種小名の綴りが違っていた。YList」の記載や海外サイトを勘案して採った)、『その中心となり、本種はそこに付随してみられる重要な要素の一つとなっている。またカヤツリグサ科』Cyperaceaeの『草原にも幾つか型があるが、本種はそのどれにおいても重要な構成要素となる』。『鹿児島県の藺牟田池』(いむたいけ:薩摩川内(さつませんだい)市祁答院町(けどういんちょう)藺牟田にある。ここ。グーグル・マップ・データ。「藺牟田池の泥炭形成植物群落」の名称で国の天然記念物。ラムサール条約指定湿地)『では温暖な地域であるにもかかわらず』、『浮島が形成されているが、この浮島を形成しているのがヨシ』(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )『やフトイと共に本種が多く関与している。本種が浮島や泥炭を形成しうることを示す点でも重要なものとされている』。『本種の属するネビキグサ属には日本にもう』二『種が記録されている。その』一『つ、小笠原産のムニンアンペライ M. nipponensis は本種よりやや小柄であるだけで』、『それ以外はほぼ変わらない』。『この種に関しては大橋他』(二〇一五年)『は取り上げておらず、YListもこの名を本種のシノニムとして扱っている。つまり分ける必要は無いとの判断である』。『もう』一『種は』、『やはり小笠原諸島産のヒラアンペライ M. glomerata で、この種は多数の葉が重なり合って出て、それが左右から扁平となっている点で本種とは全く異なる』。『また』、『この種は湿地ではなく、乾燥した林内に生える』。『イグサ科やカヤツリグサ科には』、『緑』色で『針状の構造を』『湿地』で『林立させる』種が『多く、イグサやホタルイはそれがいずれも円柱状である点で本種と同様である。しかしこれらは、例えばイグサやホタルイは先の尖った円柱の構造の、上の方の途中から横向けに花序をつけるものだが、つまり』、『花序が着くからにはそれは茎である。花序より上は一見では』、『それより下から滑らかに続いているが、実は花序の基部の総苞が茎の延長に見える形になっているものである。その点、本種の場合には』、『緑の針状の構造は根出葉であり、花茎は別に出る。日本ではこのようなものは他になく、その点を確認すれば』、『本種と判断できる』とある。以上の記載は私には非常に面白く読めた。最後にウィキの「ネビキグサ」にある、「ネビキグサ」の画像と、私が拘った別種「アンペライ」の画像をリンクさせておく。

「石龍芻〔(セキリユウシユ)〕」中国語の「維基百科」「石龙刍」(石龍芻の簡体字表記)を見られよ。言わんこっちゃない! Lepironia articulata だ! アンペライの方に同定されている。

「燈心草」イネ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus decipiens のこと。

「龍鬚〔(りゆうのひげ)〕」「龍鬚」は単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ(蛇の鬚)属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の異名でもあるので注意。

「瓤(なかご)、實〔(じつ)〕す」この観察は鋭い。これはまさに上記引用に見られる『緑の針状の構造は根出葉』で、維管束をしっかり持っているため、内が「實」(充実)しているという意であろう。イグサの茎は直立し、円筒形で中空である。イネ科Poaceaeの茎は殆んどが節部分以外は中空(「稈」と呼ぶ)。葉鞘とも重なり少ない質量で花序をしっかりと支えることができる優れた構造である。但し、イネ科でも、サトウキビ・ダンチク・トウモロコシなどは例外で、柔らかい組織が詰まっていて、中実である。「イグサ」は次に出る。]

2021/05/24

芥川龍之介書簡抄69 / 大正六(一九一七)年書簡より(一) 四通(漱石未亡人鏡子宛・井川宛・塚本文宛・松岡譲宛)

 

大正六(一九一七)年二月八日・鎌倉発信・夏目鏡子宛

 

奧さん

久米や松岡が泊りに行つたり何かしてゐるのに僕獨り安閑と鎌倉にゐるのは何だかすまないやうな氣がしますからこの手紙を書きます

先達は明暗や寫眞を難有うございました確に久米から頂きましたこなひだも東京へかへりましたが原稿の〆切を控へてきゆうきゆう云つてゐたので上れませんでした今でもきゆうきゆう云つてゐますさうして時時先生の事を思ひ出します

今までよく皆に惡く云はれた小說で先生にだけほめて頂いたのがありますさう云ふ時には誰がどんな惡口を云つても平氣でした先生にさへ褒められればいいと思ひました小說を書いてゐると何よりもこの事を思ひ出します鎌倉にゐると淋しいので閉口します學校も格別面白くはありません時々まちがつた事を敎へて生徒につつこまれます生徒は皆勇猛な奴ばかりであらゆる惡德は堂々とやりさへすれば何時でも善になるかの如き信念を持つてゐます(事によるとこの信念は軍人の間に共通な信念かもしれません)だから私のあげ足をとるのでも私を凹ます[やぶちゃん注:「へこます」。]のでも堂々とやつつけられますこんどの九日會は金曜になりますから出られないでせう土曜日は朝授業がありますから

奧さんは松岡の書いた御連枝と云ふ小說をよみましたか暇があつたらよんで下さい傑作ですから

それから久米の鐡拳制裁なるものも彼の道樂記念として讀んで下さい

今飯を食つたばかりです腹が苦しい程はつてゐますさうしてこれを書いてゐると自然に健啖な奧さんの事が思ひ出されます 以上

    二月八日       芥川龍之介

   夏目鏡子樣

 

[やぶちゃん注:「夏目鏡子」(明治一〇(一八七七)年~昭和三八(一九六三)年)は本名キヨ。夏目漱石の妻で、貴族院書記官長中根重一の長女。漱石とは見合い結婚(明治二九(一八九六)年)。未亡人(漱石は大正五(一九一六)年十二月九日没)となって二ヶ月目。月命日を意識した書信である。

「明暗」既に注で述べた通り、連載途中(脱稿ストック分があったため、十二月十四日まで連載は続いた)で亡くなったために未完となった小説「明暗」は、逸早く、岩波書店がこの大正六年一月二十六日に『明暗 漱石遺著』と名打って刊行された。それが鏡子夫人より贈られたのである。

「こなひだも東京へかへりましたが原稿の〆切を控へてきゆうきゆう云つてゐたので上れませんでした」とあるが、この「原稿」というのは、どうも噓の口実としか思われない。龍之介は当然のことと思うが、この年の元旦は田端で新年を迎えているし、海軍機関学校の始業式は一月十日(水)であるが、龍之介は週末の土曜の午後に田端に帰り、月曜の出勤は田端からで、月曜に鎌倉に戻るという生活をしていたものと推定されているから、この一月には、機械的に見ると、元日から数えても九日の午前(午後に鎌倉に戻っている)までの九日間、田端にいたし、その後も、一月十三日・二十日・二十七日及び二月三日(全て土曜)の四回、田端へ帰っている可能性があることになるのである。そうして、この一月と二月の頭こそが理屈の上では「こなひだ」に相当する期間となるのである。しかも、著作年表を見ても、この一月に脱稿しなければならなかった原稿はなかったし、実際にそれらしい発表作もないのである。近いものでは、この書簡の後の「忠義」が二月十四日脱稿(三月一日発行の雑誌『黒潮』掲載)、「貉」が同月二十四日であり(三月十一日発行『読売新聞』掲載)、当然の如く、ここに書かれた「原稿」とはならないと私は思う。石割氏はここに注して「忠義」がそれとされているのだが、六日も先に脱稿するものが、「こなひだ」という有意にこの二月七日よりも前の「こなひだ」と表現するような有意な以前に締切があったなどというのは、私には、到底、信じられないのである。だから、私は無沙汰を言い訳するための狡猾な嘘だと私は言うのである。後の夏目筆子の結婚に纏わる事件で判る通り、未亡人鏡子は芥川龍之介に好感を抱いていたと推察する。しかし、精神的に問題がある漱石と対等に渡り合う気概を有していた、ちょいと女傑みたような鏡子は、龍之介からは、ちょっと苦手なタイプの女性であったに違いないと強く感じるのである。されば、作家の妻ならば、無条件で納得するに違いない「〆切」を持ち出してうまくかわしたのだと私は思うのである。

「松岡の書いた御連枝と云ふ小說」石割氏の注に『松岡譲が『大学評論』二月号に発表した小説』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの松岡譲の作品集「地獄の門」(大正一一(一九二二)年玄文社出版部刊)のここから視認出来る。

「久米の鐡拳制裁」同前で『久米正雄が『黒潮』二月号に発表した小説』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの久米正雄の作品集「学生時代」(大正七(一九一八)年新潮社刊)のここから視認出来る。]

 

 

大正六(一九一七)年二月九日・消印十六日・鎌倉発信・京都市外下鴨村八田方裏 井川恭樣・二月九日 かまくら海岸通野間方 芥川龍之介

 

君はどうしてゐる

ボクは相不變本職と副職との間にはさまつてきゆうきゆう云つてゐる 雅子さんも御變りなからうね 正月に牛込の方へ賀狀を上げたいと思つたが宿所がわからないので見合せた

その中に少し長いものを書きたいと思つてゐるがまだまとまらない

菅さんと時々書談をやる 菅さんの子供とは親友になつた 皆お母さんのないせいか人懷しい

鎌倉はいいね ここで永住してもいいとだんだん思ひ出した 宗演のゐる寺なんか至極閑寂だ 疎梅 修竹 淸流 淺沙 苔石 蕭寺 佛塔と云ふやうな漢詩の小道具が鎌倉にはみんな揃つてゐる

この頃原の所で繪をみて以來大に日本人を尊敬し出した 昔の日本人は大分えらい 天平期の奴はその中でも殊にえらい あの時分の數名の兩家にくらべると雪舟さへ小さくなる 古画と一しよに雅邦觀山を見たらまるで見られなかつた

ボクはこの頃十七字をヒネクル癖がついた

   日曆の紙赤き支那水仙よ

   中華有名樓の梅花の蘂黃なり

   柚の實明るき古寫本を買ひし

     學校所見

   霜どけにあり哨兵と龍舌蘭と

   炊事場の飯の香に笹鳴ける聞きしか

    二月九日夜          龍

   井 川 恭 樣

  二伸 君はウラと云ふ字をしらないから敎へてあげる 裏 笑つちやいけない

 

[やぶちゃん注:「書談」書道談義。

「菅さんの子供」後の小説家で、『文藝春秋』編集長ともなった菅忠雄(明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)。当該ウィキによれば、『学問の道を勧める父に従い、上智大学文科予科でドイツ語を学んだが、中学時代の家庭教師であった芥川龍之介の影響などで文学に関心を寄せており、小説家を志して中退した』。大正一〇(一九二一)年、『大佛次郎らと同人誌『潜在』を発行』、『後に父の紹介で菊池寛や久米正雄』らと知り合い、二『人の斡旋により』、大正十三年に『文藝春秋社の客員として編集に携わった』。同年には『川端康成らと文芸雑誌『文藝時代』を創刊』、『後に雑誌『文藝春秋』の編集長も務めた』。『小説家としても、いくつかの短編小説を発表し』、昭和五(一九三〇)年には「新進傑作小説全集」第十三巻として「関口次郎集・菅忠雄集」が『出版されるなど、名の通る存在となっていた』が、肺結核のため、満四十三歳で亡くなった。

「宗演」釈宗演(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は臨済僧。若狭国大飯郡高浜村生まれ。出家前の姓名は一瀬常次郎。日本人の僧として初めて「禪」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られている。円覚寺派管長職・建長寺派管長を務めた後、東慶寺住職となった。夏目漱石は彼の弟子で葬儀の導師も彼が行い、戒名「文獻院古道漱石居士」も宗演の授与である。夏目漱石は明治二七(一八九四)年末から翌年にかけて円覚寺塔頭帰源院(入って直ぐ右手の高台にある)に止宿して宗演に参禪した。その体験が小説「門」に描かれ、「門」のコーダの門は円覚寺の山門である。現在、境内には漱石の句碑「佛性は白き桔梗にこそあらめ」が建つ。なお、私の祖父藪野種雄(昭和丘九(一九三四)年肺結核のために享年四十一で没した)は彼の高弟で禪の国際普及を彼から命ぜられた釈宗活に入門したことがある。藪野種雄遺稿「落葉籠」を参照されたい。因みに、藪野家の墓は円覚寺塔頭白雲庵にある。但し、私はそこには入らない。献体後、母のいる多磨霊園の慶応大学医学部合葬墓に入るからである。妻も私と母の同じ骨壺に入れて貰える。

「修竹」(しうちく(しゅうちく))長く伸びた竹。

「淺沙」「あさざ」と読んでいよう。浮葉性植物で地下茎を延ばして生長し、スイレンに似た切れ込みのある浮葉をつける、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata のことである。たまたま最近電子化注した「大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(あさざ) (アサザ)」を参照されたい。

「原」原善一郎。複数回既出既注

「雅邦」日本画家橋本雅邦(がほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)。当該ウィキを参照されたい。

「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)。当該ウィキを参照されたい。

「笹鳴ける」は冬鶯の鳴き声のことを指す。

「君はウラと云ふ字をしらないから敎へてあげる 裏 笑つちやいけない」何か含みがあるようだが、よく判らない。しかし私は実は国語教師になってからも、長く「裹」という漢字は「裏」という漢字の異体字だと思っていた。序でに自白すると、同様に二十七になるまで、私は「崇」と「祟」をさえ区別していなかったのである。]

 

 

大正六(一九一七)年三月一日・鎌倉発信(推定)・塚本文宛

    戀歌十首

人戀ふと山路をゆけばはつはつに木の芽春風かよひ來(く)あはれ

はつはつにさける菜たねの花つめばわが思ふ子ははるかなるかも

はるかなる人を思へと白桃の砂にほのけく咲けるならじか

人とほし木の芽春日(はるび)にうつつなくわが戀ひ居るはかなしきものか

かぎろひの夕さりくれば春もどきめぐしかる子の面輪(おもわ)しぬばゆ

山のべの白玉椿葉がくりに我(し)が人戀ふる白玉椿

めぐし子のほとりゆ吹けばひんがしの風はも春をつたふとすらむ

  圓覺禪寺

篁(たかむら)にまじれる梅の漢(から)めきてにほふにも猶人をこそ思ヘ

息(き)の緖(を)に人戀ひ居れば風をあらみ沖津潮騷(しほざゐ)とほ白らむ見ゆ

日のまひる入江の水のまかがよふ心にも似て人をこそ戀ふれ

二伸 こないだのあれは僕の原稿料で拵へたのです 金にすれば僅なものですが その金は僕が文字通り「額に汗して」とつたのです 勿體をつけるやうでおかしいかも知れませんがさう思つて 貧弱なのを我慢して下さい

あの鹿な子[やぶちゃん注:「な」はママ。]の狀袋はきれいですね さうしてういういしくつてよろしい僕のゐる所は本と原稿用紙ばかりですから餘計あれがきれいに見えました

又あれへ入れた手紙を下さい 以上

  三月一日         龍 之 介

 塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:前の短歌パートは全体が三字下げで、「二伸」以下の全体が二字下げだが、全部引き上げた。追伸本文まで下げてあるのは特異点である。

「はつはつに」形容動詞で「ある事柄・事態がかすかに現われるさま・ちょっと行なわれるさま」。副詞的にも用い、ここもそれで「ほんのちらっと」の意。「はつかなり」と同語源。

「木の芽春風」「木の芽春日に」「春」は孰れも「張る」を掛けてある。

「かぎろひの」筑摩全集類聚版脚注に、『春にかかる枕詞だが、ここは「かげろふ」の意か。或いは夕にかかる枕』詞『と誤認したものか』とあるが、私はもっと素直に動詞「かげろふ」の連用形の名詞化したもので、夕暮れがやって来て、「暗くなること・陰になった部分が多くなること」の意であろうと思う。

「春もどき」筑摩全集類聚版脚注に、『「春らしく」「春に似て」の意か。不正確な語法』とある。前の「かぎろひの」とともに、何となく変な感じがする。これは或いは、私は、

かぎろひの夕さりくれば春めどきめぐしかる子の面輪しぬばゆ

の誤りで、「かぎろひの」はやはり「春」の枕詞であって、掟破りに「夕さりくれば」を挟んで「春芽時」の「春」に掛かり、「春」の「芽」が吹き萌え出すこのかぎろった宵を描出しておいて、同時に「芽時(めどき)」から「愛(めぐ)しかる」という語を引き出すというアクロバティクな一首なのではなかろうか? 正直、「もどき」というのは、まことに厭な響きで、私には、いっかな、耐えられぬからなのである。

「篁(たかむら)」竹叢(たけむら)のこと。

「息(き)の緖(を)に」命懸けで。

「鹿な子」鹿子(かのこ)模様に漉いた封筒なのであろう。]

 

 

大正六(一九一七)年三月十五日・鎌倉発信・松岡讓宛(葉書)

 

  深夜の愚癡

小說をわが書きをへずまゐりゐる夜半をはるかに鷄もこそ啼け

中央公論はじまりしよりの駄作にもなりなむとする小說あはれ

手も腰も痛くなりたる苦しさにつところぶせば夜半をなくか鷄

ぼんやりとしたる頭をもちあぐみ聞き入りにけり夜半のくだかけ

今にして思へば久米の「嫌疑」はも傑作なるかなとかこちぞわがする

 

[やぶちゃん注:一首目と二首目の「小說」は『中央公論』四月一日と七月一日に分割された「偸盗」を指す。前にも注したが、満を持した意欲作であったが、書き悩んで、筆が進まず、しかもこの書簡の直後の三月末には、インフルエンザに罹患して発熱、機関学校も一週間ほど休むなどして(田端に帰った)、甚だ行き詰まってしまう。分割もそうした結果であったが、七月分でも完結しなかった。既に述べた通り、「偸盗」の続編への意欲は十分にあったのだが、遂に未完のまま捨てられてしまった。本当に惜しい作品である。

『久米の「嫌疑」』石割氏注に、『久米正雄が『中央公論』』のこの年の『二月号に発表した小説』とある。先と同じく国立国会図書館デジタルコレクションの作品集「学生時代」のこちらから視認出来る。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 蒲 (ガマ)

 

蒲 葉ハ莞ニ似テヒラシ有背而柔ナリ苗ヲ食スル法本

草ニアリ夏莖ヲ生シ穗ヲ生ス穗ハ蠟燭ノ形ニ似タリソレニ

付タル金粉ハ花ナリ是卽蒲黃ナリ八九月ニ葉ヲカリテ

席トスル凡蒲黃ハ血症ノ諸病ヲ治ス本草可考

○やぶちゃんの書き下し文

蒲〔(がま)〕 葉は莞〔(ふとゐ)〕に似て、ひらし。背、有りて、柔かなり。苗を食する法、「本草」にあり。夏、莖を生じ、穗を生ず。穗は蠟燭の形に似たり。それに付きたる金粉は花なり。是れ、卽ち、「蒲黃〔(ほわう)〕」なり。八、九月に、葉を、かりて、席〔(むしろ)〕とする。凡そ、「蒲黃」は血症の諸病を治す。「本草」を考ふべし。

[やぶちゃん注:その穂でよく知られた多年草の抽水植物で、本邦で主に見られるのは、

単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia

ガマ属ヒメガマ Typha domingensis

ガマ属コガマ Typha orientalis

の三種である。当該ウィキによれば、『別名、ミズクサともいい、古くはカマとも呼ばれていた』。『円柱状の穂は蒲の穂と呼ばれる。花粉は蒲黄(ほおう)とよばれ、薬用にされる』。『和名のガマは、葉を編んで』莚(むしろ)『や敷物を作ったことから、朝鮮語の』「カム」(材料)に『由来するとする説がある』。『ガマは漢字で「蒲」と書き、水辺に生える草という意味がある』。「甫」は「田圃に草が生えている様子」を表わし、それに「氵」をつけた「浦」は「水辺」を『表していて、これに』「草かんむり」を附したものである。別名の『ミズクサ』は「水草」とも思われるが、清音の『ミスクサ・ミスグサ』もあり、これは明らかにそれを材料とした「御簾草」で、他に『キツネノロウソク(狐の蝋燭)と』いう別名もある。『北半球の温帯から熱帯の温暖な地域や』、『オーストラリアの広範囲に分布』し、『日本では北海道・本州・四国・九州に分布する』。『池や沼、川の岸辺などの浅い水辺に自生』し、『浅い水底の泥の中の根茎から茎が直立する』。『横に走る地下茎によって群生する』。『草丈は』一~二メートルで、『水中の泥の中に地下茎をのばす』。『葉は線形で厚く、下部は鞘状に茎を抱く』。『葉の断面は三日月形で、内部はスポンジ状』を呈する。『花期は夏の』六~八月で、『葉よりも高く茎を伸ばし、頂に円柱形の花穂をつけ、上部は黄色い花粉をまき散らす雄花穂、下部の緑色部は雌花穂であり、雌雄花穂はつながってつく』。『穂の上半分の雄花群は細く、長さ』七~十二センチメートルになり、『開花時には黄色い葯が一面に出る風媒花である。花穂の下部の雌花群は、長さ』十~十二センチメートル、直径は約六ミリメートルで、『雄花も雌花も花びらなどはなく、ごく単純な構造になっている』。『花が終わると、雄花は散って』、『軸だけが穂の上に立ち、雌花穂は茶褐色になって太さも』一・五~二センチメートルと『太くなり』、『ソーセージに形が似た』、所謂、『「ガマの穂」になる』。『雌花は結実後は』、綿屑の『ような冠毛を持つ微小な果実になる』。『この果実は、長い果柄の基部に穂綿となる白い毛がつき、先端の花柱が色づく』。『晩秋になると、ガマの穂がほぐれて風によって飛散し』、『水面に落ちると』、『速やかに種子が実から放出されて水底に沈み、そこで発芽する。また、強い衝撃によって、種が飛び散ることもある』。『メイガ科』Pyraloidea(或いはツトガ科 Crambidae)のツトガ亜科ニカメイガ属ニカメイガ Chilo suppressalis や、ヤガ上科ヤガ科ヨトウガ亜科 Nonagria 属オオチャバネヨトウ Nonagria puengeleri 『などの幼虫の食草である』ほか、水面下の草体は『魚類などの産卵場所や避難場所として利用され、栄養塩類の除去などの水質浄化に役立っている』。『昔から、若葉を食用、花粉を傷薬、葉や茎はむしろや簾の材料として使われてきた』。『雌花の熟したものは綿状(毛の密生した棒様のブラシ状)になり、これを穂綿と呼ぶ。火打ち石で火を付けていた時代には、穂綿に硝石をまぜて』、「火口(ほくち)」として『用いることがあった』。『蒲の穂を乾燥させて、蚊取り線香の代用として使われる』こともあるという。茎・『葉は、樽作りで、樽材の隙間に噛ませ、気密性の向上に利用される』こともあり、『かつてアイヌは茎を編んでゴザにした』。『ガマの雄化穂から出る花粉は、同属のコガマ、ヒメガマとともに、集めて陰干ししたものが生薬となり、蒲黄(ほおう)と呼ばれ薬用にする』。『漢方では、蒲灰散(ほかいさん)、蒲黄散などに蒲黄が処方され、内服すると』、『利尿作用、通経作用があるとされる』。『外傷には傷面を清潔にして花粉そのままつけてもよいとも言われており』、『中国南朝の陶弘景注』の「神農本草経」や、唐代の孫思邈(しばく)著の「備急千金要方」には、『蒲黄が止血や傷損(すり傷)に効くとある』。『黄色い花粉には、フラボノイド』(flavonoid:天然に存在する有機化合物群で植物の二次代謝物の総称。いわゆる「ポリフェノール」(polyphenol)と呼ばれる大きな化合物グループの代表例)『配糖体の』『成分が含まれ』ており、これらには、『細胞組織を引き締める収斂(しゅうれん)作用があり、血管を収縮させて出血を止める作用があると考えられている』。『また、脂肪油が外傷の皮膚面を覆うことにより、外部からの空気に触れないように保護し、自然治癒力を助けていると考えられている』。『ガマ属』『の日本で主に見られる種は、ガマのほか、草丈』一メートル『内外と全体に小型のコガマ、草丈』一・七メートル『ほどと』、『やや小さいヒメガマの』三『種で』、『これらは日本全土の池や沼に分布する多年草で、花期は』『ガマが最も早く、ヒメガマ、コガマと続くとされる。雌花序と雄花序が約』一センチメートル『ほど離れて花茎の軸が見えるのがヒメガマ』で、『雌花序と雄花序が連続しており、雌花序の長さが』十~二十センチメートル『のものがガマ』、六~十センチメートルの『ものがコガマと識別できる』。三『種のなかで果期のガマの穂が一番太いのが』『ガマである』『ガマの花粉を顕微鏡で見ると、花粉』四『個が正方形か』一『列に並んで合着しているのに対し、コガマとヒメガマでは、花粉が』一『個ずつ単独』にある。『種によって酸素漏出速度が異なり、生育している土壌に与える影響が異なる』とある。「古事記」の『中の「因幡の白兎」の挿話で登場することでも有名で』、その『「因幡の白兎」の説話では、毛をむしり取られた兎に、大穴牟遅神(大国主命)が蒲黄を取って敷き散らし、その上に転がるよう教える』。『また、「因幡の白兎」が包まれたのは、ガマの穂綿だという説もある』(私は穂綿と考える)。『「蒲の穂」は』「蒲鉾(かまぼこ)」の『語源で』も『ある。昔のかまぼこは』、『板に盛られた現在の形とは異なり、細い竹にすり身を付けて焼いた食べ物を指していた。これは現在の』「竹輪」に相当する。竹輪と『蒲の穂は』、『色と形が似ていて、矛のように見えるガマの穂先は「がまほこ」と言われて』おり、鰻の「蒲焼(かばや)き」も、『昔はウナギを開かずに、筒切りにして棒に差して焼いていたので、その形がガマの穂に似ていたことから「蒲」の字が当てられて』あるのである。『布団も元来は「蒲団」と書き、江戸時代以前に、スポンジ状の繊維質が入った丈夫で柔らかなガマの葉を使って、円く編んで平らな敷物をつくった』ことに由来する。

「莞〔(ふとゐ)〕」複数回既注のカヤツリグサ科フトイ(太藺)属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani

『苗を食する法、「本草」にあり』「本草綱目」の巻十九の「草之八」の「香蒲」がガマの項(頭に『香蒲【「本經上品」。】・蒲黃【「本經上品」】』とある)「釋名」に、『春、初生し、白きを取りて、葅(そ)[やぶちゃん注:塩や酢に漬けること。]爲し、亦、蒸し食ふに堪へたり。山南の人、之れを「香蒲」と謂ふ』とあり、また、「集解」にも『時珍曰はく、蒲は叢水際に生ず。莞に似て、褊たり。脊、有りて柔かなり。二、三月に苗(う)ゑ、其の嫩(わか)き根を采り、瀹過(やくくわ)して[やぶちゃん注:全体をしっかりと漬けて。]鮓(すし)に作る。一宿にして[やぶちゃん注:一晩で。]食ふべし。亦、※食・蒸食とすべし。及び、晒し乾して、磨り、粉にして、飮食と作(な)す』(「※」=「火」+「棄」。読みも意味も不明。「よく焼く」ことか)とある。また、「蒲蒻」の条にも『一名「蒲筍」【「食物」。】・「蒲兒根」【「野菜譜」。】』とある(但し、これは漢方薬剤である)。

「席〔(むしろ)〕」「蓆」「莚」「筵」に同じ。

『凡そ、「蒲黃」は血症の諸病を治す。「本草」を考ふべし』この「血症」とは、広義の外傷や諸疾患による体内外の出血から、月経などの異常出血、及び、もっと広義な婦人の「血の道」や血液循環に関わると漢方で考えられた失調や症状の全般を謂うものと判断される。中国版ウィキの「維基文庫」の「本草綱目」の「蒲黃」の「主治」のを見れば判る通り、「血」の字がダーッと並んでいる。]

伽婢子卷之五 原隼人佐鬼胎 / 伽婢子卷之五~了

 

    ○原隼人佐鬼胎

 

Kitai

 

[やぶちゃん注:標題は「原隼人佐(はらはやとのすけ)鬼胎(きたい)」と読む。この場合の「鬼胎」は特異的な用法で、冥界の者が子を孕み、産むことを言う。挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれを用いた。時制的に異なった挿絵ではあるが、トリミングして一枚とし、孰れも、かなり念入りに清拭した。二枚目は別れの場面で、子どもが三歳の隼人佐。母は小袖の上に白帷子を着すという異装で描かれていることに着目されたい。この異形が冥界への帰還を示唆しているのである。本作の絵師はこうした意味合いを絵に描くに非常に巧みで、まさに「一藝」を有する優れた絵師と言える。

 甲州武田信玄の家臣原隼人佐昌勝(まさかつ)は、加賀守昌俊(まさとし)が子なり。父、當國高畠(たかはたけ)といふ所より出〔いで〕て、信玄にめしつかはれ、度度の勳功を顯しける。

 子息隼人佐(はやとの〔すけ〕)に敎へけるは、

「鳥(とり)・獸(けだもの)・傍蟲(はふむし)の類(たぐひ)まで、おのおの、一つの得手あり。一藝なき者は、これ、なし。况や、人とむまれ、殊更、侍(さふらひ)たらむ者は、弓矢の事につけては、一つの得手を、よく鍛煉して、是を以て、主君の所用に立(た)て、御恩を報じ奉るべし。いたづらに俸祿を給はり、飽くまで食(くら)ひ、暖かに着て、邪欲をかまへ、義理を知らず、一藝一能もなき者は、畜生にも劣りて、是れは天地の間の大盜賊なり。日月・雲霧(きり)・草木まで、おのおの、皆、その益あり。無藝無能にして、人のため、益(えき)なく、却て、害になる者、あり。かまへて、よく心得よ。」

と遺言せしとかや。

 されば、父が後に信玄に仕へて、忠節、私(わたくし)なく、軍功のほまれあり。其の中に、隼人は、いつも諸軍(〔しよ〕ぐん)に先立ち、敵國に深くはたらき入〔いり〕、時には、陣どりの場を見たて、合戰の場を考へ、山川・谷・峯、知らぬ所を、案内者(あんなんしや)もなくて、是れを悟り、道筋・小道までも、皆、踏み分けて、先登(せんとう)をいたすに、つひにあやまちなく、諸侍、みな、疑ひを殘さず、となり。

 他國といへども、陣所・戰場、よく見たて、閑道(うらみち)・水の手を考ふるに、更にあやまちなき事、『神(しん)に通ぜしか』と、人みな、怪しみ思ひけり。

 そのかみ、原加賀守が妻は邊見某(なにがし)が娘也。加賀守は諸方に馳せ向ひ、陣中に日をわたり、月をかさね、家にある事、まれ也。その家は上條(かみでう)の地藏堂のほとりにあり。

 或時、妻、產にのぞみしが、甚だくるしみ惱みて、終に、はかなくなりしを、加賀守、大〔おほき〕に歎きながら、すべき樣なく、法成寺(ほふじやうじ)のうしろに埋(うづ)みて、塚の主となしけり。

 妻、その死する時、法成寺の地藏堂に向ひ、手を合せ、

「年月、日比〔ひごろ〕、念願し奉る、かまへて、本願、あやまり給ふな。」

とて、地藏の寳號を唱へて、をはりぬ。

 加賀守も同じく此菩薩に歸依して、

「妻が後世〔ごぜ〕みちびき給へ。」

と祈りしに、死して百ケ日といふ夜半ばかりに、八旬(〔はち〕じゆん)ばかりの老僧、眉に八字の霜をたれ、鳩の杖にすがり、水精(すゐしやう)の數珠、つまぐり、加賀守が家の戶をたゝき給ふ。

 開きて見れば、死したる妻、よみがへり、老僧に連れられて、來たれり。

 大にあやしみながら、内に入〔いれ〕て、

「さて。老僧は如何なる人にてましませば、かく、有難き御事ぞ。」

と問ければ、

「我は法成寺の内にすむ者也。こよひ、あからさまに堂より出〔いで〕しかば、塚、にはかに崩れて、内より、女房の出たり。

『何者ぞ。』

と問へば、

『加賀守が妻。』

といふ。此故につれて來る。よく保養せよ。」

とて、かきけす如くに、うせ給ふ。

 不思議の事に思ひ、人を遣はして見れば、塚は崩れてあり。

「さては。」

とて、粥なんど食はせけるに、初めは、うとうととして、物の覺え、なきがごとし。

 漸く、七日のうちに、日ごろの如くなりしかども、たゞ明らかなる所を、きらへり。

 次の年、男子(なんし)をうめり。

 此子三歲の時、妻、或日の暮がた、淚を流していふやう、

「我は、まことは、人間にあらず。君と未だ緣深かりし故に、上條の地藏菩薩、冥官(みやうくわん)に仰せて、たましひをゆるし放ちて、三とせ、このかたの契りを結ばせ給へり。今は、緣、すでに、つき侍べり。いとま、たびて、歸るべし。あなかしこ、わが塚をすて給ふな。跡、よくとふらひてたべ。」

とて、子をば、おきながら、行〔ゆき〕かたなく、失せにけり。

 塚を見れば、『崩れたり』とおぼえしは、まぼろしにて、草茫々として、生茂(おひしげ)れり。

 地藏菩薩の御方便、申すも、おろかなり。

 信玄、このよし、聞及び給ひて、法成寺の地藏堂を作り改め、供養をとげたまふ。

 それより、加賀守、ふたゝび、妻を迎へず。

 かの男子は原隼人佐なり。

 十八歲にて初陣(うひじん)せしより、よろづ、神(しん)に通ぜし如く、奇特(きとく)の事多かりしも、子細ある事なり。

 

伽婢子卷之六終

 

[やぶちゃん注:「原隼人佐昌勝」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原隼人佐昌胤が正しいか(甲斐国志九十六・人物部)。信玄の侍大将(甲陽軍鑑末書結要本では陣場奉行)。百二十騎持。天正三年〔一五七五〕五月二十一日、長篠の合戦で戦死』とある。ウィキの「原昌胤」によれば、原昌胤(まさたね 享禄四(一五三一)年?~天正三(一五七五)年)は『武田二十四将の一人』で、『原昌俊の嫡男として生まれる。昌俊・昌胤の原氏は美濃土岐氏の庶流といわれ、武田家中には足軽大将の原虎胤がいるが、虎胤は千葉氏一族の原氏の出自で別系統であるという』。「甲陽軍鑑」によれば、天文一九(一五五〇)年に『家督を継ぎ、陣馬奉行を務め』、百二十『騎を指揮したという』。『初見文書は』弘治二(一五五六)年十一月で、『信濃侵攻における甲斐衆小池氏の下伊那出陣に際した証文に名が見られ、信玄側近として朱印状奏者として名前が確認される』。永禄四(一五六一)年の『西上野侵攻においては跡部勝資や曽根虎長、土屋昌続らとともに上野国衆への取次を務めており、昌俊は一之宮貫前神社や高山氏、小幡氏、高田氏らの取次を担当しており』、永禄一〇(一五六七)年の『下之郷起請文においては上野国衆からの起請文を担当している』。『駿河侵攻において』、永禄十二(一五六九)年七月、『今川方の富士氏が籠城する大宮城は開城した。昌胤は市川昌房とともに富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社などの寺社支配を行っており、また大宮城周辺の支配に関わっていたため』、『大宮城の城代を務めていた可能性を指摘するものもある』『ほか、朝比奈信置や松井宗恒との取次も務めている』。『ほか、甲斐国内の郷村に対する諸役免許や軍役動員などの朱印状では山県昌景とともに名前が見られ、争論の裁許状など訴訟関係文書において名前がみられる』。『時期・経緯は不明であるが一時期』、『失脚し』、元亀元(一五七〇)年)以降で元亀3(一五七二)年『以前に北条家臣で臼井原氏麾下の完倉兵庫介が仲介し』、『赦免されたという』とあった。

「加賀守昌俊」昌勝の父原昌俊(?~天文一八(一五四九)年)は甲斐武田氏家臣にして譜代家老衆。当該ウィキによれば、原隼人佑(はらはやとのすけ)家祖。別名に国房・胤元。加賀守。子は昌胤一人のようである。『昌俊の事績は一切が』「甲陽軍鑑」によ』るもので、『確実な文書において確認がされず、諱も「昌俊」とされるが』、『確証はない。武田家においては美濃土岐氏の庶流といわれる譜代家老原氏のほか』、『下総国千葉氏の一族原氏の出自とされる足軽大将の原虎胤・横田康景の一族がいるが、両者の関係は不明』。「甲陽軍鑑」に『よれば、昌俊は甲斐国高畠郷(山梨県甲府市)を領し、武田信虎・晴信(信玄)の』二『代に仕えたという。合戦では』、『陣形やその陣を敷くための場所を決定したり、戦況報告を行なう陣馬奉行を務めていた。信虎、信玄からの評価も高く』、「甲陽軍鑑」に『よれば、信虎は追放された後』、『今川義元に「武田家中の弓矢巧者」として、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰、諸角虎定とともに原昌俊の名前を挙げている』。没したのは戦場ではないようである。『家督は原昌胤(隼人佐)が継ぎ、陣馬奉行の職も継いだという』とある。「新日本古典文学大系」版脚注にも、『「原加賀守は他国を始て見る山中にても道をあて、人数をとをし、さきにてつかまへまじきと、此方にてつもる[やぶちゃん注:見積もるの意か。]に、少しもちがはぬ者にて候(甲陽軍鑑九下・晴信公山本勘介問答)』とある。

「高畠(たかはたけ)」現在の甲府市高畑(たかばたけ:グーグル・マップ・データ)。

「子息隼人佐(はやとの〔すけ〕)に敎へけるは」実際に「甲陽軍鑑」に載ることが、「新日本古典文学大系」版脚注に次のように示されてある。『「原加賀守…子息隼人佐に常々申訓は、侍たらん者は何にても弓矢の儀に一やう得物有様にと訓(ヲシヘ)をかるゝなり」(甲陽軍鑑十五。信玄公家老軍法云々)』。

「鳥(とり)・獸(けだもの)・傍蟲(はふむし)の類(たぐひ)まで、おのおの、一つの得手あり……」「傍蟲(はふむし)」は「側にいるちっぽけな虫」の意か。「新日本古典文学大系」版脚注には、引用元として、筆者浅井了意自身の『「鳥けだもの虫蟪』(ちゆうけい:採るに足らぬような小さな虫の意であろう。「蟪」は本来は蟬でも相対的に小型なニイニイゼミを指す中国語「蟪蛄」に用いられ、現在も同種の正式な漢名である)『までも分々』(ぶんぶん)『にしたがひて一能一徳はあるものなり…増て人は万物の長といはれてすぐれたる生をうけながら一芸一能もなからんは何をとりえとすべきや」(可笑記評判九ノ二十九)』を載せる。「可笑記評判」は瓢水子のペン・ネームで本書刊行の六年前の万治三(一六六〇)年に板行した仮名草子である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、こちらの原本画像を視認して、以下に示す。句読点・記号を添えた。読みは一部に留めた。

   *

    第廿九 乱舞(らんふ)を好み過(すぐ)したる事

むかし、さる人の云るは、「古しへの侍は、十能七藝なと習ふといへども、今の侍は、それまでしらずとも、さのみ、くるしかるましければ、まづ、習ひしるべき事は、弓馬・兵法・手跡・鉄炮・しつけがた、成へし。乱舞(らんぶ)など知てわるきには、あらねども、此たぐひ、かならず、すき過して、それしや[やぶちゃん注:「其れ者」。その道に通じた玄人(くろおと)。]のやうに、なる物なり。一とせ、さるお大名、ことの外、能をすき好み給へば、其家の諸侍、みな、よろひ・甲・太刀・かたな・弓・鑓・鉄炮・馬くらなとを、うりすてゝ、太鼓・つゞみ・うたひの本・色黑き尉(ぜう)のおもてなんどを、買あつめ、ひとへに観世・今春・日吉大夫か成ぞこなひかと、かたはらいたくこそ有つれ。

 評曰[やぶちゃん注:「ひやうしていはく」。]、「鳥・けだもの・虫蟪(むしくそ)[やぶちゃん注:「そ」の判読は自信がない。意味からはこれしか私には選べなかった。]までも、分々に。したがひて一能一德は、あるものなり。麒麟と鳳皇[やぶちゃん注:鳳凰。]と龍と龜とは、四㚑(れい)の物とて、これらは、天下太平・聖德(せいとく)不窮の瑞兆をしめす故に、申すに及ばず。庭鳥にも五德あり。つたなき蚯蚓(みゝず)までも、一つの口に五能をそなへたり。增て、人は「万物の長」といはれて、すぐれたる生をうけながら、一藝一能もなからんは、何をとりえとすべきや。されば、「十能」とは、

弓と、鞠(まり)・庖丁(ほうちやう)、馬に、仕付方(しつけがた)・算・鷹・連歌、吹物(ふきもの)に盤(ばん)[やぶちゃん注:「吹物」は笛、「盤」は囲碁・将棋か。]。

又。「七藝」とは、

物かきて[やぶちゃん注:「物書き手」。]・音曲・太鼓・舞・相撲・口上・才智、これぞ、七藝。

されども、古しへの人、十能七藝、みな、そろへて、得たる人は、すくなくや。今の世に、猶、まれなるへし。おなしく、藝能とはいひながら、さのみに、このまずとも、くるしかるまじきと。又、しらで、かなふまじき事、あるへし。よく、心得へし。能をこのみ給ひし大名の事、つくり物がたり成へし。家中の諸侍、武道具をうりて、能道具を買もとめたる事、大なる寓言也と、おぼゆ。しかれども、上(かみ)の好むところ、下(しも)、これに、したがふ理(こと)はり、いましめ、つゝしまざらんや。

   *

「閑道(うらみち)」間道に同じ。

「水の手」軍陣配置及び供給の意味の広義の「水の利」。

「邊見某(なにがし)」底本も元禄版も「邊見」であるが、「新日本古典文学大系」版では、『逸見』となっており、ウィキの「逸見氏」(「逸見」は「へんみ/へみ」と読む)によれば、『甲斐源氏は』大治五(一一三〇)年に『源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が常陸国より甲斐国市河荘に配流され』、『甲斐各地に土着した一族。清光は官牧の発達していた現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見郷へ進出し、清光の長子光長が逸見姓を称する』。『平安時代末期、光長は一時的に甲斐源氏の惣領であったと考えられているが、甲斐源氏は現在の韮崎市域に拠った弟信義が始祖となった武田氏が主流となり、武田氏は甲斐源氏一族を率いて源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱において活躍する』。但し、「尊卑分脈」には『直系子孫の系図が見られる』ものの、「吾妻鏡」『などの記録には光長はじめ』、『一族の動向は見られない』とし、『鎌倉時代には』、「吾妻鏡」建暦三(一二一三)年五月六日の条に『よれば、同年』五月の「和田合戦」に於いて、『逸見五郎・次郎・太郎らが和田義盛方に属して討死したと』ある。さらに「承久兵乱記」によれば、承久三(一二二一)年の「承久の乱」では『「へん見のにうだう(入道)」が東山道軍に属して上洛して』おり、「尊卑分脈」に『よれば、光長の孫にあたる惟義と』、『その子息・義重も』「承久の乱」に『従軍し、惟義は摂津国三条院を与えられ、義重は美濃国大桑郷を与えられたという』。『惟義は和泉国守護となっており、義重の子孫は大桑氏を称した。逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など西国のほか』、『若狭国、上総国など武田氏が守護職を得た諸国へ移り』、『被官化したと考えられており、一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと考えられている』。また、『光長の系統とは別に』、「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年六月五日の『条によれば、平宗盛の家人である源季貞の子・宗季(宗長)が光長の猶子となり、逸見氏を称したと』あり、「吾妻鏡」に『よれば、宗季は「宗長」と改名し』。建仁三(一二〇三)年の「比企能員の変」に『際して』、『大江広元の従者として名が見られるが、その後の動向は不明』である。また、「一本武田系図」に『よれば』、『武田信義の』四男『有義も一時期』、『逸見氏を称し』、「浅羽根本武田系図」に『よれば、光長の弟安田義定の子・定長(四郎)も逸見姓を称したという』。『有義の子孫は吉田氏や小松氏、万為氏を称したと』される。また、『戦国時代には武田一族の今井氏が逸見姓を称して』おり、また、『逸見氏の一族として甲斐武田家重臣の飯富虎昌の飯富氏』『がいる』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、『逸見氏は、武田家の祖で名家の一。西部を領地とする。甲陽軍鑑九・信州平沢大門到下等合戦の事には、「逸見殿」として信玄配下城預り五将のうちの一人に名を連ねるが、加賀守との関係は未詳』とある。

「上條(かみでう)の地藏堂」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『甲府の古上条(現甲府市国母八丁目)にあった地蔵堂』で、以下に注した『法成寺の別名』とある(そこで注した通り、現在は存在しない)。国母(こくぼ)八丁目はここ。この、地蔵は「国母地蔵」として、現在の甲府市東光寺にある武田信玄が定めた五ヶ寺院「甲府五山」の一つであるは臨済宗(もと密教寺院であったものを弘長二(一二六二)年に蒙古襲来の際に鎌倉幕府から元の密偵の疑いをかけられて一時期、ここに配流されていた名僧蘭渓道隆が禅宗寺院として再興した)法蓋山(ほうがいさん)東光寺境内の西側に笠屋根の下に露座で現存する。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらでその地蔵像が見られる。そこに(一部の字空け・行空けを詰め、記号を短くした)、

   《引用開始》

大昔、甲府盆地が一面の湖水であった頃、この水を除きたいと二人の神様に相談をかけた。二神もすぐに賛成して、一人の神様が山の端を蹴破り、他の神が山を切り穴をあけ、湖水の水を今の富士川へ落とした。これを見た不動様も引っ込んでは居れぬと、河瀬を造って手伝ったので、この二神二仏のお陰で甲府の土地が現れた。山を切り穴をあけた神は、今甲府の西に穴切神社として祀られ、山を蹴破った神は蹴裂明神として知られている。瀬立不動が河瀬を造った不動様、また甲府の東光寺にある稲積地蔵というのが、始めにこの疎水計画をされた地蔵様である。もとは法城寺にあったのを、後に東光寺に移したもので、法城の二字は水を去り土を成すと読まれるという。(日本伝記集)

東光寺の地蔵様は、甲斐の国を産み作ったので、国母地蔵ともいう。(西山梨郡誌)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会

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国母地蔵  板垣村

東光寺境内にある。

法成寺の額がある。この法成寺とは、以前は古上條にあった。信玄の時、荒川を隔てて参詣が自由にならないと、塔岩村(今の甲府市北部 昇仙峡のあたりにあった)へ移し、その後 東光寺へ。東光寺にて地蔵堂を法成寺と号している。甲陽軍鑑によると、「甲斐の湖」の話で、「水去りて土と成す」を示した字から法成寺と言う。

ここに大きな石の地蔵があり、自身の痛みのある所と同じ地蔵の個所を、撫でて祈ると痛みが薄れるという。または 味噌舐め地蔵 とも言われ、痛みのある人は願を掛け、治った時に地蔵に味噌を塗る。

「裏見寒話」 巻之二 仏閣 の項より

   《引用終了》

しかし、東光寺のサイド・パネルにある東光寺の案内表示版には「国母地蔵」の名すら、見えないし、画像もない。誰か、この由緒ある地蔵を写真で撮って、そこに加えるべきと、強く思う。

「法成寺(ほふじやうじ)」法城寺が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『上条地蔵を本尊とする臨済宗妙心寺派法城寺。甲府開設に伴い、天正年中』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年)『には東光寺』(前注参照)『に移され、その一院となった』とある。

「八旬(〔はち〕じゆん)ばかり」八十歳ほど。

「眉に八字の霜をたれ」眉が霜のような白髪となり、それが左右に八の字のように垂れ下がって。

「鳩の杖」ウィキの「鳩杖」によれば、鳩杖(はとづえ/きゅうじょう/はとのつえ)は、『頭部の握りにハトの飾りがつけられた杖で』、『高齢者に、その長寿を賀するために、下賜され、あるいは贈呈された』。「下学集」(かがくしゅう:室町時代(十五世紀)に編纂された国語辞典。全二巻。三千ほどの単語を、その意味によって十八の門に分けて羅列してある)に『「鳩不噎之鳥也」とあるように、ハトは物をついばむときにむせないとされることにあやかって』、『頭部にハトの飾りが付けられた。奈良時代には、霊壽杖と呼ばれた。のちに』は、八十『歳以上の功臣に宮中から下賜された』。「後漢書」の「礼儀志」に『「年始七十者授之以玉杖」とあり』、『日本でもそれを模倣し、または影響され、行われたという』。「藤原俊成卿九十賀記」の建仁三(一二〇三)年十一月二十三日の『条に、「置鳩杖、以銀作之、件杖竹形也、其上居鳩也、有一枝二葉、件葉書和歌」とある。和歌は壽算を祝う意である』とある。

「保養せよ」「労わって養ってやりなされ。」。さればぞ、この老僧は地蔵菩薩の垂迹であったのである。

「うとうととして」幽冥界からの仮初の帰還のために意識がはっきりするのに時間がかかったのである。

「男子(なんし)をうめり」隼人佐昌勝。

「あなかしこ」(感動詞「あな」+形容詞「畏(かしこ)し」の語幹)で、ここは、後に禁止の語を伴って副詞的に用いて「決して・ゆめゆめ」の意。

「わが塚を、すて給ふな」単に、「私の墓をお忘れ下さるな」=「よくとふらひてたべ」という限定の意であるが(昌俊が亡き妻の供養を全くしなかったことは、以下の「塚を見れば、『崩れたり』とおぼえしは、まぼろしにて、草茫々として、生茂(おひしげ)れり」で明白である)、この一願を以って、妻の後生を祈ることもしなかった自分に愧じ、加賀守昌俊は、鮮やかに「ふたゝび、妻を迎へず」であったのであり、ひたすら、冥婚して鬼胎した彼女の忘れ形見たる昌勝の人間としての教育に尽くしたのである。なんでもないように見えるが、この荒れ果てた塚のシークエンスこそが、この作品のキモであり、主題の核心であることを忘れてはならない。

跡、

「十八歲にて初陣(うひじん)せし」「新日本古典文学大系」版脚注に、『武田家侍衆原則として十六歳が初陣の年齢と定められているが(甲陽軍鑑九下・山本勘介問答)、「侍うい陣十四にて仕るもあり、をそくは十八の時もいたす」(同十一下・信長家康氏政輝虎批判事)こともあった』とある。私はしかし、寧ろ、昌俊が確かなる必要条件としての「一藝一能」のみならず、ひいては十分条件としての「七藝十能」をも身につけさせ得たと確信するに、十七年が必要だったのだと思う。]

2021/05/23

大和本草卷之八 草之四 水草類 菅 (スゲ)

 

【外】

菅 本邦昔ヨリ菅ノ字ヲスケトヨメリスケハ水草葉ニカト

アリテ香附子ノ葉ノ如ニ乄長シ笠ニヌフ近江伊勢多ク水

田ニウヘテ利トス他州ニモ多クウフ詩ノ陳風ニ曰東門

之池可以漚菅朱子傳曰菅葉似茅而能滑澤莖有

白粉柔韌宜爲索也今按スケノ類多シ水澤ニ生ス

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

菅 本邦、昔より、「菅」の字を「すげ」とよめり。「すげ」は水草。葉に、「かど」ありて、「香附子〔(かうぶし)〕」の葉のごとくにして、長し。笠に、ぬふ。近江・伊勢、多く、水田にうへて、利とす。他州にも、多く、うふ。「詩」の「陳風」に曰はく、『東門の池 以つて菅を漚〔(ひた)〕すべし』〔と〕。「朱子傳」に曰はく、『菅は、葉、茅〔(ちがや)〕に似て、能く滑澤〔たり〕。莖に白〔き〕粉、有り。柔〔かく〕韌〔(しなや)かにして〕、宜しく索〔(なは)〕と爲すべし。』〔と〕。今、按ずるに、「すげ」の類、多し。水澤に生ず。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex の多様なスゲ類。ウィキの「スゲ属」によれば(下線太字は私が附した)、『身近なものも多いが、非常に種類が多く、同定が困難なことでも有名である』。『スゲ属の植物は、どれもほぼ共通の形態的特徴を備えている』。『大部分が多年生の草本で、多くは花時を』除いて、『茎は短くて立ち上がらず、たいていは細長い根出葉を多数つける。地下茎を横に這わせるものは、広がったまばらな集団になり、そうでないものは、まとまった株立ちになるものが多い。葉の基部は鞘になって茎を抱く。鞘が古くなると細かく裂けて糸状の網目になる場合があり、これを糸網(しもう)という』。『多くのものでは花茎は葉の間から長く伸び、その先に小穂をつける。小穂には柄がある場合とない場合があり、いずれにしてもその基部に包があり、包の基部は鞘になるものが多い。小穂は穂状に配列するものが多い。茎の先端に小穂を』一『つだけ持つものもある。アブラシバ』(アブラシバ(油芝)節アブラシバ Carex satsumensis )『などは、多数の分枝を持つ円錐花序を形成する。この仲間は、スゲ属の中では原始的なものと見なされている。また、少数ながら、花茎が伸びず、葉の根元で開花する種も知られている』。『スゲ属の花は雄花と雌花が別になっている。雄花は鱗片一枚に雄しべが包まれているだけのもの。雌花は、雌しべが果包(かほう)という袋に包まれているのが特徴で、その外側に一枚の鱗片がある』。『小穂は、軸の回りに花と鱗片が螺旋状に配列したものである。短ければ球形に、長ければ棒状、あるいはひも状になる。花茎には普通は複数の小穂がつくので、その先端のものを頂小穂(ちょうしょうすい)、それより下から横に出るものを側小穂(そくしょうすい)という』。『雄花と雌花はそれぞれまとまって着く。それぞれが独立した小穂となるものが多い。一番多いのは雄花からなる雄小穂と雌花からなる雌小穂が別々にあるもので、花茎の先端に一個の雄小穂が、その下方に数個の雌小穂がつく型が普通である。雄小穂を複数持つものもあるが、種類は少ない』。『一つの小穂に両方の花が着くものもある。先端に雄花が並び、基部側に雌花が並ぶ場合を雄雌性(ゆうしせい)、逆に基部に雄花が着くものを雌雄性(しゆうせい)という』。『その他、例は少ないが雌雄別株のものもある』。『このような小穂の配置は重要な分類上の特徴となる。ほかに、小穂の形や、雌花の鱗片、果包や果実の特徴が重視されるので、同定は果実が熟したものでなければできない場合がある』。『果胞は壺状の構造で、先端に口が開いている。雌しべはその底に着いていて、果胞の口から柱頭だけを伸ばす。受粉すれば果実は果胞の中で生長し、成熟したときには果胞はその基部で切り離され、果実を中に含んで散布される。果胞の口の部分が突き出した形になっている場合、それを嘴(くちばし)という。果胞は、その位置からは花被に由来するもののようにも見えるが、一部に果胞の内側から枝が伸びて花序を形成するものがあるので、花序の基部に生じる苞に由来するものと考えられている』。『果胞は普通、膜状で果実にほぼ接する形になるが、湿地性のゴウソ(和名由来不詳:アゼスゲ節ゴウソ Carex maximowiczii var. maximowiczii やミヤマシラスゲ(ミヤマシラスゲ節ミヤマシラスゲ Carex conifetiflora 『では大きく膨らみ、海岸性のシオクグ(シオクグ節シオクグ Carex scabrifolia 『やコウボウシバ(シオクグ節コウボウシバ Carex pumila 『ではコルク質の分厚いものとなっている。これらは流水や海水による分散への適応かも知れない』。『草原、森林、海岸その他、さまざまな環境に生息する種がある。湿ったところに生育するものが多く、湿地や渓流沿いに集中する傾向がある』。『湿原では、スゲ類が優占する草原になることがある。北海道など寒冷地の湿原では、スゲ類の大株が湿地のあちこちにかたまりを作り、盛り上がって見えるのを谷地坊主(やちぼうず)と呼ぶ。水中に根を張って葉を水面に突き出す抽水性の種もあるが、真に水草的なものはほとんどない(☜)。『海岸では、砂浜にはコウボウムギ(コウボウムギ節コウボウムギ Carex kobomugi )が、塩性湿地にはシオクグなどが密生した群落を形成する』。『海外では、中央アジアなど、乾燥した草原でスゲ類の優占する草原がある』。『カサスゲ(笠菅:ミヤマシラスゲ節カサスゲ Carex dispalata )やカンスゲ(寒菅:ヌカスゲ節カンスゲ Carex morrowii などの大型種の葉は、古くは笠(菅笠)や蓑などに用いられた。特にカサスゲはそのために栽培された。現在でも、注連縄など特殊用途のために栽培されている地域もある(☜)。『また、庭園の緑化や山野草として栽培される例もある。カンスゲやタガネソウ』(タガネソウ(鏨草)節タガネソウ Carex siderosticta )『の斑入りなどは鑑賞価値も高い。果胞が黄色く色づく小型の外国産種が販売されている例もある』。『草原を形成する種もあるが、緑化や牧草として積極的に利用される例はない。そのため、同様な姿の草であるイネ科』Poaceae 『植物に比べると、帰化植物の種が格段に少ない。ただし、近年、そのような目的で持ち込まれた種子に混じる形での帰化種が若干報告されている』。『なお、スゲという名の語源については、牧野がカンスゲの項でやや詳しく記している』。『それによると』、『清浄を意味する語である『すが』からの轉音という説と、住居の敷物を「すがたたみ」と言い、その材料に用いたことから由来したという説が従来はあるとのことで、しかし彼はいずれも根拠薄弱と思えるとして、葉が束になって生じ、まるで巣のように見え、またその葉が細いことからこれを毛に見立てたもの、つまり巣毛』(すげ)『ではないか、としている』とある。引用先を見られたい。その種の多さに度肝を抜かれる。

「香附子〔(かうぶし)〕」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ属ハマスゲ Cyperus rotundus の根茎の生薬名。薬草としては古くからよく知られ、本邦でも正倉院の薬物の中からも見つかっている。「浜菅」であるが、本種はスゲ属ではないので注意が必要。本種は乾燥に強く、陽射しの強い乾いた地にもよく成育する。砂浜にも出現し、名前もこれによるが、実際には雑草として庭や道端で見かけることの方が遙かに多い。線香花火のようなあれである。

「笠に、ぬふ。近江・伊勢、多く、水田にうへて、利とす。他州にも、多く、うふ」前に挙げたカサスゲ(当該ウィキによれば、『菅笠などの材料として利用されてきた』。『北海道から九州までの平地に分布し、湿地や池の浅いところに生育し』、『高さは』一メートル『程にもなる。根は水中の泥に伸び、太い地下茎を横にはわせて大群落を作る。葉は細長く、やや立ち気味に伸びる。根元の鞘は分解して糸網になる』。『晩春から初夏にかけて、花茎を伸して花をつける。花茎は真っすぐに立ち、その先端には雄小穂がつく。雄小穂は灰褐色で細長い棒状。時々その基部に第二の雄小穂をつけることがある。雄小穂の下の方には数個の雌小穂がある。雌小穂は細長く、柄はほとんどなく、立ち上がるか、やや先が垂れる。果胞は緑色で先がとがった嘴となり、その先端は外側に反りかえる。鱗片は果胞よりずっと小さく、濃い褐色なので、果胞の根元に小さく斑点があるようにも見える。果胞は枯れると』、『褐色になる』。『かつては水田やその間に走る水路、あるいはため池の周辺などにごく普通に生え、様々な民具などに利用された』。『菅笠や蓑、特に笠はこの種で作られた場合が多い。カサスゲ(笠菅)の名もそこに由来する。また、地域によってはこの植物で注連縄を作る』。『これらの用途のために』、『とくにカサスゲを専用に育てるための水田が確保された場合もある。近年はこのような民具が使われる機会が少なく、需要が少なくなり、また、水路や水田の改修によって生息環境も減少し、少なくなっている』)や、カンスゲ(当該ウィキによれば、『蓑を作るのに用いられたこともあ』り、『山間部では身近に生育する大型のスゲの代表的なものとして、さまざまに利用されてきた』。『幅広くやや厚みのある固い葉をしており、常緑性で冬も葉をつけている。寒菅の名もこれに由来するものである。多数の根出葉をそれぞれやや斜め上に伸ばす。葉の縁はざらつく。株は大きくなり』、『高さ』三十センチメートル『以上にもなる。葉の根元は黒紫色になる。根元から匍匐茎を出す』。『花穂は四月頃から出る』。一『つの株から』、『多数が出る。穂は葉より高くは伸びず、葉の間から姿を見せる。先端には褐色で細長い紡錘形の雄小穂がつく。それより下の花茎からは数個の雌小穂が出る。雌小穂は細長い棒状で、下の方のものにははっきりした柄があり、いずれも上を向いてやや立つ。雌小穂の基部には苞があるが、鞘の先の葉状部は針状になっている』。『雌小穂は、鱗片、果胞共に淡い色なので、黄色っぽく、あるいは白っぽく見える。果胞はとがった嘴があって、そりかえる。穂全体としては、嘴が外に向いてとがるので、刺々した感じになる』。『山間の谷間に多く、特に水辺で多くみられ、多い場所では一面に群生する。本州の中部太平洋側から中国地方、四国、九州に分布する。変種のホソバカンスゲ』(Carex morrowii var. temnolepis )は『日本海側に分布し、葉が細い』。『かつては刈り取って蓑や傘を作るのに用いた。また、斑入り品を栽培することもある』)を用いた。

『「詩」の「陳風」に曰はく、『東門の池 以つて菅を漚〔(ひた)〕すべし』〔と〕』「詩経」の「陳風」の「東門之池」。

   *

 東門之池

東門之池

可以漚麻

彼美淑姬

可與晤歌

東門之池

可以漚紵

彼美淑姬

可與晤語

東門之池

可以漚菅

彼美淑姬

可與晤言

   *

 東門の池

東門の池は

以つて麻を漚(ひた)すべし

彼(か)の美なる淑姬(しゆくき)は

與(とも)に晤歌(ごか)すべし

東門の池は

以つて紵(ちよ)を漚すべし

彼の美なる淑姬は

與に晤語(ごご)すべし

東門の池は

以つて菅を漚すべし

彼の美なる淑姫は

與に晤言すべし

   *

「陳」は現在の河南省南部にあったとされる国。但し、べっちゃん氏のブログ「静かなる細き声」の「詩経陳風」では、ブログ主は分析されて、『陳風は殷(商)の遺民が建てたとされる国、宋の祭事詩で』あって、「陳風」の冒頭に出てくる詩篇「宛丘(ゑんきう)」の『宛丘は新鄭の宛陵と考えられ』、『鄭は殷の都の上に町を作』ったとある。「漚(ひた)す」のは、皮を剝いで水に浸して繊維を得ることを指す。「淑姬」「姫姓の妹娘」は「姬」は元来は周の最も高貴な貴族の姓であった。「晤」は「迎える」或いは「ともに」の意。「紵」苧麻(ちょま)。双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea 。茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく非常に丈夫で、績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほか、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また、荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば、衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに六千年以前から人の手で栽培されてきた歴史がある。

「朱子傳」南宋の儒学者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)の「詩経」の注釈書「詩集傳」の「滑澤」滑らかで光沢(つや)があること。

『「すげ」の類、多し。水澤に生ず』誤り。既に引用で見た通りで、必ずしも水辺・湿地のみでなく、広く激しく乾燥した内陸などにも繁茂する種の方が多い。

大和本草卷之八 草之四 水草類 水藻 (淡水産水藻・水草類)

 

【和品】

水藻 類亦多シカルモアリ杉藻アリ松藻アリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

水藻 類、亦、多し。「かるも」あり、「杉藻」あり、「松藻」あり。

[やぶちゃん注:淡水産藻類。

「かるも」は「苅藻」であろうが、この名は現行では確認出来ない。或いは、以下と並置されるとなら、緑色植物亜界シャジクモ(車軸藻)植物門シャジクモ綱シャジクモ目シャジクモ科シャジクモ連シャジクモ属シャジクモ Chara braunii 或いはシャジクモ科 Characeaeの淡水藻類か。日本全土の湖・池・水田などに生育し、体はスギナ(トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ Equisetum arvense :土筆の本草体に似て、多数の節を持つ主軸と、節部から車輪状に出る小枝を有する。生殖は精子と卵による有性生殖のほか、無性生殖として、根部の伸長による繁殖などがある。造卵器の冠細胞は五個。シャジクモはシャジクモ属の中では、最も普通に見られ、室内培養が容易であり、皮層がないため、「生物」の授業で「原形質流動」の観察によく用いられる(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「杉藻」双子葉植物綱シソ目オオバコ科アワゴケ連スギナモ属スギナモ Hippuris vulgaris であろう。「杉菜藻」である。当該ウィキによれば、お馴染みの『シダ植物門のスギナに類似した形態をもつが、スギナモは被子植物であり、分類学的には全く異なる』。『ヨーロッパ、ユーラシア大陸、北アメリカなどに分布』。『葉の形状を変化させて、水中と陸上で異なった形態をとって生育することが可能である』。『水中では薄くて面積が広く、気孔を持たない沈水葉となり、陸上では分厚くて面積が小さく、多くの気孔を持つ陸生葉となる』。『茎は最大』六十センチメートル『程度まで伸長する』。『水深の深いところでも生育可能であり、透明度の高い湖沼では』実に『水深』六メートル『の地点に生育している個体も確認されている』。『葉は茎に』六から十二で『輪生する。葉は長さ』は一~三・五センチメートルで、幅は三ミリメートル『ほど。花は葉腋につき、雄蘂』一『本・雌蘂』一『本から構成される。花被片は退化して目立たない。果実は先がややとがった卵形で、大きさは』二~三ミリメートル』である。『スギナモには止血効果があるとされ、煮汁などが消化性潰瘍の治癒に利用できるとされている』『一方で、大量に繁殖して水路を詰まらせてしまう雑草として扱われることもある』とある。

「松藻」「金魚藻」の名で知られるマツモ目(或いはスイレン目)マツモ科マツモ属マツモ Ceratophyllum demersum 当該ウィキによれば、『世界中の湖沼、河川などに分布。日本でも全国の湖沼、ため池、水路などで見られる』。『多年生植物で、根を持たずに水面下に浮遊していることが多い』。『茎を盛んに分枝し、切れ藻でも増殖する。葉は』五~十で『輪生し、長さは』八ミリメートルから二・五センチメートルほどである。『花期は』五~八月で、『雄花と雌花を同一の茎につけるが、個体群によっては全く花をつけない場合もある』。水中媒花である。秋頃から『筆状の殖芽を産生し、水中で越冬する』とある。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(あさざ) (アサザ)

 

【和品】

アサヽ 池澤ノ中ニ生ス葉モ花モ萍蓬草ニ似テ別ナリ萍

蓬草ハ莖ツヨクシテ水上ニ立ノホリ根地上ニアラハルアサヽ

ハ莖カウホネヨリ長ク水中ニ橫タハリテヨハク葉ハ水面ニ

ウカヒ水上ニ不上花ノ形色ハカウホネニ似タリ五六月

水面ニ黃花ヲヒラク新六帖光俊ノ哥ニ云見レハ又アサ

サオフテフ澤水ノソコノ心ノ根ヲゾアラハス是アサヽノ根ノ

アラハルヽヲイヘリ荇菜ヲアサヽト訓スルハ誤ナリ荇菜ハ

根アラハレス又古哥ニ水マサル沼ノアサヽノウキテノミアルハ

有トモナキ我身哉コレアサヽノ水ニウカヘル事ヲイヘリカウホ

ネノ葉ハ水上ニ立ノホリテ水面ニウカハス荇菜ヲアサヽト訓

シ萍蓬ヲアサヽト云ハ皆非ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

あさゞ 池澤の中に生ず。葉も花も、萍蓬草(かはほね)に似て、別なり。萍蓬草は、莖、つよくして、水上に立ちのぼり、根、地の上に、あらはる。あさくゞは、莖、「かうほね」より長く、水中に橫たはりて、よはく、葉は水面にうかび。水上に上らず。花の形、色は「かうほね」に似たり。五、六月、水面に黃花をひらく。「新六帖」光俊の哥に云はく、

見れは又あささおふてふ澤水のそこの心の根をぞあらはす

是れ、「あさゞ」の根のあらはるゝを、いへり。荇菜〔(かうさい)〕を「あさゞ」と訓ずるは、誤なり。荇菜は、根、あらはれず。又、古哥に、

水まさる沼のあさゝのうきてのみあるは有ともなき我身哉

これ、「あさゞ」の水にうかべる事を、いへり。「かうほね」の葉は、水上に立ちのぼりて、水面にうかばず。荇菜を「あさゞ」と訓じ、萍蓬を「あさゞ」と云ふは、皆、非なり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata 。既に「大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」で詳しく注したので、そちらを見られたい。

「萍蓬草(かはほね)」既出

「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯。特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版「和漢三才図会」の書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能だが、日文研の「和歌データベース」の同歌集を調べたところ、「第六 草」に載るものの、これは「光俊」の歌ではなく、鎌倉時代の公家で画家・歌人であった藤原信実(安元二(一一七六)年頃~文永三(一二六六)年以降)の歌で、

みれはまたあささおふてふさはみつはそこのこころのねをやあらはす

とあって「根をぞあらはす」は違う。画家らしい観察眼である。

「水まさる沼のあさゝのうきてのみあるは有ともなき我身哉」これも同じく「新撰六帖題和歌集」の「第六 草」に載る藤原家良(建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年:鎌倉時代の公卿・歌人。正二位内大臣。藤原定家に師事し、「万代(まんだい)和歌集」を藤原光俊と共撰し、「続古今和歌集」の撰者にも加えられた。「新勅撰和歌集」以下の勅撰集に実に百十八首が入集する)の一首で前の信実を出しておいて、作者を示さずに、「古哥」は鼻白む。同前データベースでは、

みつまさるぬまのあささのうきてのみありはありともなきわかみかな

とあるので、表記の問題はない。]

芥川龍之介書簡抄69 / 大正五(一九一六)年書簡より(十六) 二通

 

大正五(一九一六)年・春(年次季節推定)・井川恭宛(封筒欠)

 

     I

白ふぢの花のにほひときくまでにかそけかれどもかなしみはあり

夕やみにさきつゝにほふ白藤の消なば消ぬべき戀もするかな

わが戀はいよよかすかにしかはあれいよよきよけくありさびにけり

     Ⅱ

朝ぼらけひとこひがてにほのぼのとあからひく頰をみむと思へや

     Ⅲ

たまゆらにきえし光とみるまでにそのたをやめはとほく行きけり

     Ⅳ

天ぎらふ雲南省ゆ來りたる埴輪童女(おとめ)に FUMIKO は似るも(白木屋の展覽會あり)

朝づけば觀音堂の尾白鳩ふくだめるこそ FUMIKO には似ね

ふと見たる金の蒔繪の琴爪(つめ)箱をかひてやらむと思ひけりあはれ

 

君と同じ理由で Extra‐Re‐Echo を要求する資格があるかと思ふ

自贊すればⅡが一番得意 Ⅲはどうしても一番まづい 實感がうすいのかしらとも思つてみる Ⅳをかく時は氣樂に出來る Iはともすればありあはせの SENTIMENT で間に合はせてしまひさうで良心がとがめる それでつくつた歌はもつと澤山あつたが三首だけしか書かなかつた 君のはがきの繪のやうにはじめに書いた奴だけ書いたわけだ

短篇を二つ書いた 發表したらよんでもらふ

朝は早くおきるやうになつたから感心だ 尤も必要にせまられてだが

今朝君が結婚したら何を祝はうかと思つていろいろ考へた BEETHOVEN の MASK ではいけないかな 僕はこの頃この天才と BERLIOZ との傳記をよんで感心してしまつた。

  新聞を難有う 今日これから君の姊さんの方へおくる

                   龍

 

[やぶちゃん注:アルファベットは総て縦書。短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。最後の「龍」の署名は実際には最終行の下方三字上げインデント。

「Extra‐Re‐Echo」対象芸術作品に対する相手の「特別な反響」提示。それは必ずしも批評とは限らない。応じた芸術作品であってもよい。

「BERLIOZ」「の傳記」私の芥川龍之介手帳 1-3」(大正五年発行の銀行の手帳)を見よ。

「短篇を二つ書いた」底本は『春』とするが、「白ふぢの花」が実景だとすると、推定区間が広くなる。この年の頭から並べると、「鼻」(『新思潮』二月十五日発表。以下クレジットは同じ)・「孤獨地獄」(『新思潮』四月一日)・「父」(同前)・「虱」(『希望』推定五月)・「酒蟲」(『新思潮』四月一日)である。]

 

 

大正五(一九一六)年・年次推定・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

留守に來てくれたさうで大へん失敬した 淺草の活動寫眞で雨にふりこめられてゐたのだ 此頃は時々活動寫眞をみにゆく 今日はボオマルシエのフイガロをみに行つたのだ 古いフランスの喜劇は應揚[やぶちゃん注:ママ。]でいい フイガロが小姓と二人でギタアをひきながら月夜にセレナアドをうたふ所なぞはしみじみしてゐた 尤も淺草の見物はみんな退屈してゐたが

文ちやんの歌をありがたう 今あけてみた 僕は女のかいたかなをよむのがへただからよむのに五分ばかりかかつた 字も歌もよく出來てゐる よく出來てゐなくつてもうれしいのに變りはなからうが

君へこの手紙をかくより先にお禮の手紙をかいた 明日の日づけで

特待生になつたさうでおめでとう 來年から特待生も百十圓出すのだから君のそれも僕の優等生も同じく可成有名無實だね お互にもう一年早く入學してゐればよかつた

    一

天(あま)なるや光ながれてはつ夏の品川の海(み)はうつつともなし

    二

品川のうらべによするいささ波光ゆらぐを人も見るらむ

    三

人の上(へ)をしのぶとすればみづがねをちぢにゆりゆるさざれ波見ゆ

    四

人すめばうれしと思ふ品川のさざ波なしてつきそわが戀

 

 喜 譽 司 樣           龍

二伸 664女史へよろしく□で□とよめるだらう

 

[やぶちゃん注:二箇所の□はママ。「664」は三マス分縦書。短歌は全体が一字下げであるが、引き上げた。

「ボオマルシエのフイガロ」フランスの実業家・劇作家ボーマルシェ(Beaumarchais/本名ピエール=オーギュスタン・カロン Pierre-Augustin Caron 一七三二年~一七九九年)が一七七八年に書いた風刺劇「フィガロの結婚」(イタリア語:Le nozze di Figaro /フランス語:Les noces de Figaro )。後の一七八六年にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したオペラ(Le Nozze di Figaro , K.492)の方がより知れている。

「664女史へよろしく□で□とよめるだらう」「664女史」不詳で、全体も全く意味不明。

   *

 なお、採用しなかったが、この年の年末の十二月二十五日発信の山本喜誉司宛書簡があり、その冒頭で、『おないだ送つた契約書二通hあれでよかつたらうか あんまり君の方から何とも云つて來ないから少し心配になつた この手紙つき次第何とか返事をしてくれ給へ』(以下の書信内容はこれとは無関係)とある。この「契約書」とは、間違いなく、新全集宮坂年譜のこの年の十二月パートにある『この月、塚本文との婚約が成立し、文の跡見女学校卒業を待って結婚する旨の縁談契約書が両家の間で交わされる』とあるものであろう。

芥川龍之介書簡抄68 / 大正五(一九一六)年書簡より(十五) 塚本文宛(一通目は夏目漱石逝去四日後)

 

大正五(一九一六)年十二月十三日・鎌倉発信・塚本文宛

 

お手紙二通とも拜見しました難有う每日さびしく暮してゐる身になるとこれほど嬉しいものはありません今東京からかへつたばかりです東京へ行つては二晚つづけて御通夜をしてそれから御葬式のお手傳ひをして來ました勿論夏目先生のです僕はまだこんなやりきれなく悲しい目にあつた事はありません今でも思ひ出すとたまらなくなります始めて僕の書く物を認めて下すつたのが先生なんですからさうしてそれ以來始絡僕を鞭撻して下すつたのが先生なんですから

かうやつて手紙を書いてゐても先生の事ばかり思ひ出してしまつていけません逝去されたあくる日に先生のお孃さんの筆子さんが學校へ行かれたら國語の先生の武島羽衣が作文の題に「漱石先生の長逝を悼む」と云ふのを出したさうですさうしてそれを黑板へ書きながら武島さん自身がぽろぽろ淚をこぼすので生徒が皆泣いてしまつたさうですそれから又先生の主治醫の眞鍋さんは醫科大學の先生をしてゐるんですが大學生は皆大山さんの容態なぞは一つもきかずに先生の病狀ばかり氣にしてききに來たさうですさうして眞鍋さんが先生を診察する爲に學校を休むからと云ふと大學生は皆口を揃へて「自分たちの授業なぞはどうでもいいから早く行つて夏目先生の病氣をなほして上げて下さい」と云つたさうですさう皆に大事に思はれてもやつぱり壽命は壽命で仕方がなかつたのでせう實際もう一年でも生かしてあげたかつたと思ひますが 何だかすべてが荒凉としてしまつたやうな氣がします體の疲勞が恢復しきらないせゐもあるのでせうあした早く起きなければなりませんからこれでやめます 匆々

    十二月十三日夜    芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:この四日前の十二月九日(土曜日)の午後六時四十五分、胃潰瘍の体内出血を主因として死去した。驚異的な詳細年譜である荒正人著の「漱石文学全集」別巻(昭和四九(一九七四)年集英社刊)によれば、同日、『赤木桁平は、電話で久米正雄に、もう、一、二時間持つかどうか分らぬ、芥川龍之介にも伝えて貰いたいと知らせ』、久米は『芥川龍之介に伝えるため、鎌倉の居宅と小町園(芥川龍之介主賓の宴会が予定されいた)に電報を打つ』とあるが、芥川龍之介が来たのは、二日後の十一日(月曜日)の十二時頃であった。これについては、岩波新全集宮坂年譜に、『朝、久米正雄から「センセイキトク」の電報を受け取ったが』、『着任早々の上、午前中に授業があったため、夏目家に行ったのは』十一日『になった』とある。ところが、九日から十日未明の通夜は実は早々に切り上げられて、午前二時頃に、『遺骸は大学病院に送られ』、その朝になって、漱石の妻鏡子の『発案で、漱石の意志を汲み取り、また、医師たちへの感謝の念からも解剖に付して貰うことになり』、この手紙にも出る医師『真鍋嘉一郎に解剖を申し出』たのであった。これは明治四四(一九一一)年十一月二十九日に一歳八ヶ月で夭折した末娘『ひな子の急死の時』、『解剖に付さなかったので、死因が不明のままになっていたことも遠因であった』とある。解剖は東京帝国大学医学部解剖室に於いて、同日午後一時四十分から長與又郎医師の執刀で行われ(真鍋も立ち会っている)、三時三十分に終わって(なお、摘出された脳と胃が寄贈され、脳は現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されてある)、遺体が帰宅、納棺式は午後八時四十分に始まり、九時半に終わった。しかし、そうは言っても、龍之介はこの十日の夜の再開された通夜に弔問することは出来たはずである。ただ、思うに、翌日に葬儀が営まれることから、久米が新任教師の龍之介の仕事に気を利かして、「その葬儀全般が忙しいので、それに合わせて来て手伝って貰いたい」などと伝えたものかも知れない。私は慶応大学医学部に献体しており、葬儀も行わず、家の墓にも入らないから、知人の葬儀などにも実は内心は頗る冷徹なのだが、この弔問の遅延は常識的(私は常識人ではないのだが)に見て甚だ気になる。それは遺稿「或阿呆の一生」の次があるからである。

   *

 

       十三 先生の死

 

 彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラットフォオムを步いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラットフォオムの向うには鐵道工夫が三四人、一齊に鶴嘴(つるはし)を上下させながら、何か高い聲にうたつてゐた。

 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は卷煙草に火もつけずに歡びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

   *

荒氏の前書によれば、亡くなった翌日は『霰まじりの雨』で、芥川龍之介が解剖後の通夜に赴いた十一日は雨である。そして、何よりも、ここで「上り電車」とあるのに着目されたい。読者はこうした年譜的事実を知らないから、当然、これは久米の打った漱石危篤の電報を持って、東京行の横須賀線に薄暗い早朝に鎌倉駅から主なき漱石山房に向かう龍之介を映像するわけだが、このシークエンスは以上の事実との細かな無数の部分までもが、皆、齟齬しており、巧妙な創作であるということが、今は判ってしまうからである。というより、「或阿呆の一生」は芥川龍之介研究の秘鑰(ひやく)であると同時に、そこら中にトリップが掛けられたかなり危険なメタモルフォーゼした「ゾーン」である。

「筆子さん」夏目漱石の長女夏目筆(明治三二(一八九九)年~昭和六四(一九八九)年)。筑摩全集類聚版脚注に、『松岡譲と』大正五(一九一六)年に婚約し、翌年に(ここは岩波文庫の「芥川竜之介書簡集」の石割氏の注を参照した。なお、それによれば、この時(漱石逝去時)、筆は『日本女子大学付属高等女学校在学』とある)『結婚した。結婚に際しては芥川自身がその対象に目されたり、久米正雄の失恋問題が絡んだ。その間の事情は久米の「破船」に詳しい』とある。

「武島羽衣」(たけしまはごろも 明治五(一八七二)年~昭和四二(一九六七)年)は日本橋生まれの国文学者・歌人・作詞家で日本女子大学名誉教授。本名は武島又次郎。瀧廉太郎の有名な歌曲「花」の作詞者として知られる。

「主治醫の眞鍋さん」真鍋嘉一郎(明治一一(一八七八)年~昭和一六(一九四一)年)は愛媛県生まれの医学者で、日本における物理療法(理学療法)・レントゲン学・温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。「日本内科学会」会頭・「日本医学放射線学会」初代会長を歴任、X線に「レントゲン」の名を初めて使用し、日本に定着させたことでも知られ、「医聖」と呼ばれた。漱石の他、大正天皇や浜口雄幸などの著名人の主治医を務めた。

「大山さん」元帥陸軍大将。内大臣大山巖(天保一三(一八四二)年~大正五(一九一六)年)。鹿児島生れ。西郷隆盛の従弟。彼も真鍋が主治医であったということになる。

「粧次」(しやうじ(しょうじ)は女性宛ての手紙の脇付 に用いる語。]

 

 

大正五(一九一六)年(年次推定)・田発信・塚本文宛

 

文ちやん

少し見ないうちに又脊が高くなりましたねさうして少し肥りましたねどんどん大きくおなりなさいやせたがりなんぞしてはいけません體はさう大きくなつても心もちはいつでも子供のやうでいらつしやい自然のままのやさしい心もちでいらつしやい世間の人のやうに小さく利巧になつてはいけません×××××のやうになつてはいけませんあれではいくら利巧でも駄目ですほんとうの生れたままの正直な所がないからいけませんあれの持つてゐるのはひねくれたこましやくれた利巧ですあんなになつてはいけませんすなほなまつすぐな心を失はずに今のままでどんどんおそだちなさい

それはむづかしい事でも何でもありません何時までも今のままでいらつしやいと云ふ事です何時までも今のやうな心もちでゐる事が人間として一番名譽な事だと云ふ事です私は今のままの文ちやんがすきなのです今のままの文ちやんなら誰にくらべてもまけないと思ふのです

 

えらい女――小說をかく女や畫をかく女や芝居をかく女や婦人會の幹事になつてゐる女や――は大抵にせものですえらがつてゐる馬鹿ですあんなものにかぶれてはいけませんつくろはずかざらず天然自然のままで正直に生きてゆく人間が人問としては一番上等な人間ですどんな時でもつけやきばはいけません今のままの文ちやんは×××××を十人一しよにしたよりも立派なものです何時までもその通りでいらつしやいそれだけで澤山ですそれだけで誰よりもえらござんす少くとも私には誰も外にくらべものがありません

これはおせじではありません私は文ちやんに噓なぞは決してつかないつもりです世間中の人に噓をつく必要がある時でも文ちやんにだけは噓をつかないつもりです私の云ふ事をお信じなさい私も文ちやんを信じてゐます人間は誰でもすべき事をちやんとして行けばいいのです文ちやんもさうしていらつしやい學校の事でもうちの事でもする丈をちやんとしていらつしやいしかしそれから何か報酬をのぞむのは卑しいもののする事です學校の事にしてもいい成績をとるために勉强してはいけませんそれはくだらない虛榮心です唯すべき事をする爲に勉强するのがいいのですそれだけで澤山なのです成績などはどんなでもかまひません成績は人のきめるものです人に自分のほんとうの價値は中々わかりませんですから成績なんぞをあてにするのはつまらない人間のする事です

世間には金と世間の評判のよい事とばかり大事にする人が澤山あります又實際金持や華族がえばつてゐますしかし金持のえばれるのは金がえばるのですその人間に價値があるからではありません華族がえばるのもその肩書がえばるのですその人間がえらいからではありませんえばつてゐる華族や金持が卑しいやうに華族や金持をありがたがる人間も卑しい人間ですそんな人間の眞似をしてはいけません學校の成績も同じ事ですさう云ふ虛名をあてにしてはいけません自分のほんとうの價値をあてにするのです自分の人格をたのみにするのですすなほな正直な心を持つた人間は淺野總一郞や大倉喜八郞より神樣の眼から見てどの位尊いかわかりません

お互に苦しい目や樂しい目にあひながら出來るだけさう云ふ尊い人間になる事をつとめませうさうして力になりあひませう

そのうちに兄さんとでも遊びにいらつしやい私は每日忙しいさびしい日をくらしてゐます出來るだけたびたび文ちやんにもあひたいのですがさう云ふわけにも行きませんきつといらつしやい待つてゐますみんなで文展ヘ一度行きませうかこれでやめます

 

[やぶちゃん注:「×××××」不詳。この当時の有名な女性で五文字の名となると、女優の松井須磨子とか、歌人の與謝野晶子が浮かびはする。後者は後に交流を持つが、私はそれは先輩作家・歌人としてであって、女性として龍之介がどう考えていたかとは、また、別問題である。「いくら利巧でも」というところからは私は、晶子を指しているようにさえ思えるのである。因みに、私は与謝野晶子は大が附くほど、嫌いである。

「淺野總一郞」(嘉永元(一八四八)年~昭和五(一九三〇)年)は「浅野セメント」で知られる実業家。一代で浅野財閥を築いた。筑摩全集類聚版脚注は、『芥川は俗物の例によくあげる』とある。

「大倉喜八郞」(天保八(一八三七)年~昭和三(一九二八)年)も実業家。大倉財閥の設立者で、渋沢栄一らともに、鹿鳴館・帝国ホテル・帝国劇場などを設立。藝材の東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。]

2021/05/22

芥川龍之介書簡抄67 / 大正五(一九一六)年書簡より(十四) 五通(横須賀機関学校教授嘱託(英語学)に就任し鎌倉に移住する前後)

 

大正五(一九一六)年十一月四日・田端発信・原善一郞宛

拜復 わざわざ御手紙を頂いて恐縮です

明日曜には就職口の相談で橫須賀へ行かなくてはなりませんですからそのかへりに時間があつたら伺ひますあてにしずにおまち下さい

畫を拜見する好機會を逸するのは至極殘念ですが原稿の〆切期日が迫つてゐたり就職問題が起つてゐたりするのですからどうも意に任せません吳々も遺憾です

矢代におあひでしたらよろしく云つて下さい小野も長距離電話のかけ方を敎へるのがでたらめだつた點でせめる價値がありますあの先生にもその旨御傳へ下さい 以上

    十一月四日      芥川龍之介

   原善一郞樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこの書簡の翌日の十一月五日(日曜日)に、既出既注の英語学者で第一高等学校教授で恩師であった畔柳都太郎(くにたろう)の紹介で、横須賀海軍機関学校就職のために横須賀に赴いており、その二日後の七日には同校へ履歴書を提出しており、翌八日には、同校より海軍教育本部長に芥川龍之介の「英語学敎授嘱託」としての採用(給料は月額六十円。現在の八万円相当か)が上申されている(新全集宮坂年譜に拠る)。少なくとも、旧全集の書簡中で最初に横須賀海軍機関学校への奉職目的の最初の記載と推定出来るものは、これである。

「原善一郞」複数回既出既注。三中の一年後輩。神奈川県生まれ。「三渓園」で知られる横浜の大生糸商・貿易商であった原富太郎(号・三渓)の長男。三中から早稲田高等学院に進み、そこを卒業した大正二年にアメリカのコロンビア大学に留学しているが、既に帰って来ていたようである。

「原稿の〆切期日が迫つてゐたり」この十一月二十三日に、第四次『新思潮』第二年第一号(大正六(一九一七)年一月一日発行・一月号)に載る小説「MENSURA ZOILI」を脱稿している。

「就職問題が起つてゐたりする」次の菅虎雄書簡で判る通り、それが書かれた十一月十三日以前(前の注の上申の十一月八日以降の五日間中)に海軍機関学校への就職が決定している。実際には大正七(一九一八)年の秋に親しくしていた『三田文学』同人の作家小島政二郎(まさじろう 明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年東京府東京市下谷区生まれで生家は呉服商「柳河屋」。京華中学から慶應義塾大学文学部卒)と、同誌主幹で西洋美術史家であった澤木四方吉(よもきち 明治(一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したものの、実現しなかったという一件がある。因みに、小島は大正八(一九一九)年にちゃっかり慶大文学部講師となり(それ以前に慶応大予科講師であった)、最終的には同学部教授へ昇格、昭和六(一九三一)年まで勤めている。それが気になったからかどうか、龍之介が機関学校の教官がいやになった、大正七年九月四日頃、再び、小島から慶大文学部の英語科教授職招聘の話が起こり、龍之介も大いに乗り気になり、同年十一月頃には教授会でも概ね好意的な印象であったらしいが、その辺りでその事態が遅速するとともに(推測するに、帝大閥を嫌った教授がいたか、或いはまた、なかなかに、存外、計算高く、頼み上手であり、自己都合の要求(中国特派の際の毎日新聞社への要請などでも感じる)などもさらっと言ってしまえる、生涯、実は押しの強かった龍之介が、慶応側に答えた条件が幾分か嫌われたものかとも私は考えている)、同時に大阪毎日新聞からの社友(一定数の作品連載だけで勤務無用)の話が急浮上し、またしても、立ち消えとなっている。

「矢代」既出既注

「小野」府立三中時代の一つ下の後輩で、可愛がっていた小野八重三郎(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)。既出既注。「あの先生」も彼のこと。小野は東京帝国大学理科を中退後、県立千葉中学校などの教諭となっていた。]

 

 

大正五(一九一六)年十一月十三日 田端から 菅虎雄宛

 

邦啓 其後は御無音にすぎましたが先生は相不變御壯健の事と存じます今度私は(畔柳先生から御聞き及びでせうが)海軍機關學校の先生になりましたついては鎌倉に住んで橫須賀へ通ふやうにしたいと思ひます誠に御面倒を願つて恐縮ですが御近所に賄つきのよい間貸しは御座いますまいか位置は山に近い方よりも海に近い方が望みですさうして坂の下まで行かない所にしたいと思ひますそれから妙な事ですが前の下宿人が肺病や何かだと神經に障りますからさうでない所でないといけません廣さは六疊乃至八疊で結構です辨當は學校で出ますから下宿で食べるのは朝夕二食だけです日曜や土曜は大抵東京へ歸りますからその間も下宿では食事をしませんどうか大體かう云ふ條件でいい所がありましたら御敎へ下さいまし赴任するのは十二月一日からですがもしその間に見つかりませんでしたら差當り橫須賀で宿屋住ひをしてもいいと思つて居りますが出來るならそれ迄に鎌倉へ移りたいと思ひます勝手ながら右御願ひまでに此手紙を書きました

    十一月十三日     芥川龍之介

   菅 虎 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「菅虎雄」既出既注。当時の菅の住まいは鎌倉町材木座(現在の鎌倉市由比ヶ浜。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、彼の提示した領域は、菅の家にごくごく近い。というより、完全なその周縁内である。二十八歳も年上の恩師にこれだけのことをしゃらっと書き送ってしまえるあたり、私が先に「頼み上手」と皮肉ったのが、お判り戴けるものと思う。龍之介はそういう意味でも人に好かれる術とそれを活用する方途を、これ、よく心得ていた「なかなかの人物」でもあるである。

「無音」「ぶいん」と読む。久しく便りをしないこと。

「坂の下」ここ。因みに、ここにある奇祭「面掛行列」で知られる御霊神社の境内地は、龍之介が私淑する(次の書簡にも出る)國木田獨步所縁の神社である。次の書簡は、それを、知ってか、知らずか。

なお、この十一月、井川恭は恒藤雅(まさ)と結婚、婿養子として恒藤恭と改姓している。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月二日・東京市本鄕區五丁目二十一番地荒井樣方 松岡讓君・十二月二日消印・鎌倉海岸通野間柴三郞方 芥川生(絵葉書)

 

ここへ來た

八疊の間でちやんとしてゐる

授業は火曜から

あの何とか漆を送つてくれないか あいつはよく利く

ゆうべ獨步の「たき火」と云ふ小品をよんで淚をこぼした

夕がたの雨のふつてゐる海のけしきはべらぼうにさびしい

鎌倉には一種の SCHAN 多し

  二伸「しゆつたい」(デキル、オコル等の意)とは本字でどうかくかおしへてくれ たのむ

 

[やぶちゃん注:この日の前日に海軍機関学校教授嘱託(英語学)に就任した。当初の持ち時間は周十二時間であった。

「鎌倉海岸通野間柴三郞方」当時の鎌倉町和田塚の野間西洋洗濯店の離れで、和田塚海浜ホテル隣りの現在の由比ヶ浜四丁目八のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。「今昔マップ」も添えておく。十一月末に、単身、転居している。部屋代は五円、賄の食費は別に一食五十銭であった。移って直ぐに下宿を斡旋して貰ったと推定される菅虎雄の息子忠雄の可家庭教師を引き受けている。でしょう、だから、言わんこっちゃないって、龍さん!

「何とか漆」不詳。識者の御教授を乞う。

『獨步の「たき火」』明治二九(一八九六)年十一月二十一日発行の『國民之友』に「鐡夫生」の署名で初出した小説。約四年五ヶ月後の國木田獨步の第一作品集「武藏野」(明治三四(一九〇一)年三月十一日民友社刊)に再録された。私の偏愛する國木田獨步二十五歳の時の一篇で、二年あまり前に、「たき火 國木田獨步 《小説・「武藏野」所収の正規表現版》」としてブログで公開してある。ロケーションは逗子の田越川(そこでは冒頭に「御最後川」の河口附近での異名で出る)の河口附近である。「たき火」は知られた「源叔父」よりも、約半年も前に書かれた、彼の真に正しき最初の小説作品である。「運命論者」同様、海浜がロケーションとして美しく機能している。

「SCHAN」縦書。「シャン」。ドイツ語の「美しい」の意の“schön”。正しく音写するなら、「シェーン」。明治中後期以降、「美しい」「美人」の意で旧制高校の学生語として頻りに使われた。

『「しゆつたい」(デキル、オコル等の意)とは本字でどうかくかおしへてくれ』「出來」でいいのだが、私は芥川龍之介の疑義に大いに同感出来る。他に正字が存在するのではないか? という疑義に、である。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月三日・鎌倉発信・久米正雄宛(転載)

 

全速力で小說を書いて居る中々苦しい第一朝の早いにはやりきれないぜ六時におきるんだからな久しぶりで辭書をひいて譯を考へてゐると一高時代を思ひ出す

鍾倉の物價の高いのにはあきれかへる何でもぼるのにはかなはない人間もあゝ虛心平氣でぼれるやうになるには餘程修行が入るだらう駄辯慾絕對に不充足

  二伸赤木君の宿所をしらせてくれ

   鎌倉四首

    齋藤茂吉調(モヅク採り)

 宵月は空に小さし海中にうかび聲なき漁夫(れふし)の頭(あたま)

    北原白秋調

 漁夫の子 ONANISM してひるふかし潟はつぶつぶ水はきらきら

    吉井勇調

 夕月夜片眼しひたる長谷寺の燈籠守もなみだするらむ

    與謝野晶子調

星月夜鎌倉びとの戀がたり聞かむととべる蚊喰鳥かな

    十二月三日 鎌倉にて 芥川龍之介

   久米正雄樣

 

[やぶちゃん注:「全速力で小說を書いて居る」既に述べた通り、芥川龍之介は翌年の第四次『新思潮』第二年第一号(大正六(一九一七)年一月一日発行・一月号)には小説「MENSURA ZOILI」(但し、この脱稿はこれより前の十一月二十三日)を、『新潮』(クレジットは同前)に切支丹物の上申書形式を採った小説「尾形了齋覺え書」(脱稿は十二月七日)を、『文藝世界』(同前)には王朝物の「運」(脱稿は十二月二十日)を発表している。

「星月夜」「鎌倉」の「くら」(暗)との付合(つけあい)から鎌倉時代中期以降に和歌で「鎌倉」に関わる枕詞風な飾り詞となり、後の連歌や謡曲などで盛んに用いられた。江戸時代に命数名所として形成された「鎌倉十井(じゅっせい)」の一つに「星(月夜)の井」が鎌倉市坂ノ下のここにある。最も古いこの命数呼称の記録は私の電子化物では、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 御霊宮/星月夜井/虚空蔵堂/極楽寺/月影谷/霊山崎/針磨る橋/音無瀧/日蓮袈裟掛松/稲村崎」辺りになろうか。私の明治三〇(一八九七)年発行の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 星月夜井/虛空藏堂――(脱漏分+山本松谷挿絵)」も参照されたい。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月五日・鎌倉発信・東京市本鄕區本鄕五丁目廿一新思潮社内 松岡讓樣・消日十二月五日・鎌倉海岸通り野間方 龍(葉書)

 

菊坂の醫者の所へ行つてプロタと丸藥とを一週間分づつもらつて持つて來てくれ 代はこつちへ來てから弁償する それから丸藥の方は水曜一ぱいしかないんだから君がくるより先へ小包で送つてくれ たのむ どうも經過が惡いので悲觀してゐる こないだの藥は送つたらうね。

僕の所は和田塚の電車停車塲からすぐだ 和田塚までは電車の線路を步いてくれば來られるからその先を圖にする(線路は通行禁止の札が立つてるが步いて差女支へない)

 

Kamakuratizu

 

[やぶちゃん注:地図は底本の旧全集からトリミングした。南北は逆。キャプションは右上端から時計回りで、「海濱ホテル」・「至長谷」・「和田塚 停車場」(指示線有り)・「至鎌倉ステーシヨン」・「和田義盛戰死の碑」(指示線有り。 古くは「無常塚」と呼ばれた古墳時代の円墳である)・「至海岸」・「野間西洋洗濯店」(指示線有り)。]

 

「プロタ」プロタゴール(Protargol:プロテイン銀:Silver protein)であろう。鼻粘膜及び咽頭を殺菌する薬物で、鼻粘膜や咽頭、時に尿道や膀胱に直接作用させて殺菌・清浄効果があり、同時に粘膜を保護する。前者なら、わざわざ親密な松岡に頼んで貰ってくるというのは考え難い。所謂、性病の淋病対症薬である可能性が高いと思われる。ずっと後年だが、彼はこっそりと性感染症検査と淋病治療と思われるものを秘密裏に行っているからである。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(かはほね) (コウホネ)

 

萍蓬草 葉ハ芋ニ似テ厚ク光アリ莖ツヨク水上ニタチ

ノホル葉モ花モ水面ニウカハス根大ナリ夏月黃花ヲ開キ

秋ノ末マテアリ一莖開一花堪賞本草陳藏器李時

珍ガ說可考倭流ノ外醫及女醫コノンデ用之性ヨク血

ヲ收ム又ヲカカハホ子アリ陸生スカハホ子ノ花ニ似タリ

○やぶちゃんの書き下し文

萍蓬草(かはほね) 葉は芋に似て、厚く、光あり。莖、つよく、水上にたちのぼる。葉も花も、水面にうかばず。根、大なり。夏月、黃花を開き、秋の末まで、あり。一莖、一花を開く。賞〔する〕に堪へたり。「本草」、陳藏器・李時珍が說、考ふべし。倭流の外醫及び女醫、このんで、之れを用ゆ。性、よく血を收む。又、「をかかはほね」あり。陸生す。「かはほね」の花に似たり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica 当該ウィキによれば、『水生の多年生草本。浅い池や沼に自生し、夏に黄色い花を咲かせる。別名センコツ(川骨)ともよばれる』。『和名の由来には複数の説がある。一説には、川辺に生え、ワサビ状の白い地下茎が白骨のように見えることから、「河の骨」の意でこの名がついたとされている』が、「園芸植物大事典」に『よると』、日本最古の本草書「本草和名」(ほんぞうわみょう:深根輔仁(ふかねのすけひと)の撰になる日本現存最古の本草書。醍醐天皇に侍医権医博士として仕えた深根により、延喜一八(九一八)年頃に編纂された)には『崔禹錫の』「食経」からの『引用として』、『「骨蓬」という名を引き、その和訓として』「加波保禰」の字を『当てており、これは「カハホネ」と読める。このことから』「骨蓬」の『音便によってこの名が生まれたとみるべきという』。『日本では本属の根茎を薬草として「川骨(せんこつ)」と言うが、これもこの語に漢字を当てたものと見られる』。『別名は』他に「カワホネ」「ヤマバス」の『地方名でもよばれる』。『日本の北海道南西部・本州・四国・九州』及び『朝鮮半島に分布する。水深は浅く、泥深い池沼や小川に自生する』。『高さは水深によって異なる』。『根茎は白くて太く肥大しており、水底の泥中を横に這い、まばらに葉の跡がある』。『根茎の古い部分は黒褐色をしている』。『葉は根茎の先端部から長い葉柄を出し、水上葉と水中葉がある』。『葉の形はスイレンの葉の形に近いが、やや細長い葉身をつける。水上葉は水面上に抜け出す長柄がついた大きな長卵形で、基部は矢じり形』、『大きさは長さ』二十~三十センチメートルで、幅は七~十二センチメートルあり、質が厚く、深緑を呈し、『表面につやがある』。『水中葉は短柄で質』は『薄く』、『やや透明で、ひだが多く』、『ひらひらしている』、『冬季には水中葉のみを残す。暖かくなるにつれ、次第に水面に浮く葉をつけ、あるいは一気に水面から抽出して葉をつける』。『花期は夏』(六月~九月頃)『で』、『水上に長い花柄を出し、その先端に上向きにカップ状の黄色い』五『弁の花を』一『個だけ咲かせる』。『花の径は』四~五センチメートル。『花は葉陰につくが、黄色い花弁のように見えるものは萼片である』。『中にある花弁は雄しべが変形したもので、色は黄色く、萼片の半分以下の長さで雄しべを囲むように多数ある』。『花糸と葯はほぼ同じ長さである』。『花が終わると黄色だった萼片は緑色が強くなり』、『果実期も残る』。『果実は液果で』、『花柄は倒れて水中で成熟し、くずれて』、『多数の種子をばらまく』。『種子は倒卵形で褐色をしており、色・形の見た目はチョコレート菓子のようで、長径は』五~六ミリメートル『ほどの大きさがあり、種皮はなめらかある』。『池沼の泥中にある肥大した根茎を掘り上げて、細根を切り捨て、根茎を縦割りにして天日乾燥もしくは火力乾燥したものは川骨(センコツ)と言い』、『日本薬局方に収録された生薬である』。『漢方では鎮咳、去痰、利尿、消炎、強壮の作用があるとされ』、『解熱、鎮痛を目的とした漢方方剤に配合される』。『生薬は利尿に、また浄血、止血、強壮、解熱などに薬剤として利用される』。『アイヌ民族はカパト』『とよび』、『地下茎をアク抜き・乾燥したものを保存食とし、水で戻して汁の実として利用した』。『なお、北海道空知総合振興局の樺戸郡の名称はこれに由来する』。『コウホネ属は北半球の温帯を中心に』二十『種ほどが知られ、日本では』四『種』及び幾つかの『変種が知られる。しかし変異の幅も広く、その区別はなかなか難しい。分類上の扱いにも問題があるようである。ひとつの区別に』、『コウホネは水上葉を水面から抽出するが、他の種は水上葉を水面に浮かべる、というのがあるが、コウホネも水面に葉を浮かべることがあり、条件によっては水上に出ない例もある』として以下の三種を挙げる。

オゼコウホネ Nuphar japonicum var. ozeense (尾瀬や月山の池沼に植生する。葉が水上に抜け出さず、水面上に浮かぶ)

ネムロコウホネ Nuphar pumilum (日本の北方に植生する。エゾコウホネとも呼ぶ)

ヒメコウホネ Nuphar subintegerrima (本州中南部から九州。他のコウホネ類と異なり、浅瀬では葉を立ち上げず、水面に葉を浮かべやすい)

『「本草」、陳藏器・李時珍が說、考ふべし』「本草綱目」巻十九の「草之八」の「水草類」にある「萍蓬草」であるが、既に「大和本草卷之八 草之四 水草類 睡蓮 (ヒツジグサ〈スイレンという標準和名の花は存在しない。我々が「スイレン」と呼んでいるのは「ヒツジグサ」である〉)」で全文を訓読して示してある。益軒先生、私はそこで、それをコウホネ類には比定せず、ヒシ(双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ヒシ属ヒシ Trapa japonica )同定しました。それを変更する気はありません。コウホネ類でないことは、一読瞭然です。先生は、私の考えと同じく、「コウホネとは違う」ということを、ここで示唆されておられることと存じます。

「外醫」外科医。

「女醫」女医ではありませんよ、婦人科医です。

「をかかはほね」不詳。識者の御教授を乞う。]

日本山海名産図会 第三巻 鮪(しび)

 

   ○鮪(しび)【大なるを、「王鮪」、中なるを「叔鮪」【俗に「メクロ」と云。】、小なるを「鮥子(めしろ)」といへり。東國に「まくろ」と云。[やぶちゃん注:『大なるを、「王鮪」、中なるは』の部分は底本の(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)では実際には『大なるを王鮪   中なるを』と三字空けが施されてある。]】

筑前宗像・讃州平戶・五島に䋄する事、夥し。中にも平戶岩淸水(いわしみつ)の物を上品とす。凡、八月彼岸より取りはじめて、十月までのものを、「ひれなが」といふ。十月より冬の土用までに取るを、「黑」といひて、是れ、大(おほい)也。冬の土用より春の土用までに取るを、「はたら」といひて、纔か一尺二、三寸許りなる小魚にて、是れ、「黑鮪(くろしび)」の去年子(こ)なり。皆、肉は鰹に似て、色は甚だ赤し。味は鰹に不逮(およばず)。凡、一䋄に獲る物、多き時は、五、七萬にも及べり。○是れを、「ハツノミ」と云は、市中(しちう)に、家として一尾(び)を買ふ者なけれは、肉を割きて、秤(はかり)にかけて、大小、其の需(もとめ)に應ず。故に他國にも「大魚(おほうを)の身切」と呼ばはる。又、是れを、「ハツ」と名付くる事は、昔、此肉を賞して纔かに取りそめしを、まづ、馳せて募るに、人、其の先鋒を爭ひて求むる事、今、東武に「初鰹」の遲速を論ずるかごとし。此こを以て、初䋄の先驅(はしり)を、「ハツ」といひけり。後世、此味の美癖(びへき/ムマスキ[やぶちゃん注:右と左のルビ。])を惡(にく)んて、終(つひ)にふるされ、賤物(せんぶつ)に陷りて饗膳(きやうぜん)の庖厨に加ふること、なし。されども、今も賤夫の爲に「八珍」の一ツに擬(なすら)へて、さらに珎賞す【○此魚の小なるを、干して、「干鰹(ほしをふし)」の「にせもの」ともするなり。】。

 萬葉集鮪つくとあまのともせるいさり火のほには出なん我下思ひを

○「礼記月令(らいきぐわつれい)」に、『季春、天子、鮪(しひ)を寢廟(しんびやう)に薦(すく)む。』とあれども、「鮪」の字に、論ありて、今の「ハツ」とは定めがたく、尚、下に辨す。

○䋄は、目、八寸許りにして、大抵、二十町許り。細き縄にて制す。底ありて、其の形、箕(み)のごとし。尻に袋あり。縄は大指(おほゆび)より、ふとくして、常に海底(かいてい)に沉め置き、䋄の兩端(りやうはし)に船二艘宛(づゝ)付けて、魚の群輻(あつまる)を待つなり。若(も)し、集る事の遲き時は、二タ月乃至三月とても、䋄を守りて、徒らに過(すご)せり。是れ亦、山頂に魚見の櫓ありて、其の内より伺候(うかゝ)ひ、魚の群集、何萬何千の數をも、見さだめ、麾(ざい)を打ち振りて、「かまいろ、かまいろ。」と呼ばはる【「カマイロ」とは「構へよ」との轉(てん)也。】。其の時、「ダンベイ」といふ小舩三艘、出だす。一艘に三人宛(つゝ)、腰簑(こしみの)・𥜃(たすき)[やぶちゃん注:ママ。「襷」の誤字。]・鉢巻にて飛ぶがごとくに漕ぎよせ、䋄の底に手を掛けて、引く事、過半に及べば、又、山頂より、麾を振るにつひて、數多(あまた)のダンベイ、打ちよせて、惣(さう)かゝりに、ひきあげ、䋄舟(あみふね)、近くせまれば、魚、※騰(ふとう)して、涌くがごとし[やぶちゃん注:「※」=「氵」+「字」。読みから「浮」の誤字と思われる。]。漁子(きよし)、熊手・鳶口(とびくち)のごとき物にて、魚の頭(かしら)に打ち付くれば、弥(いよいよ)驂(さは)ぎて、おのづから、舩中(せんちう)に踊り入れり。入り盡きぬれば、䋄は又、元のごとくに沈め置きて、船のみ、漕ぎ退(しりぞ)く也。尻に付きたる袋には、鰯、二艘ばかりも滿ちぬれども、他魚には目をかくることなし。是れは久しく沉沒せる䋄なれば、苔むしたるを、我が窠(す)のごとくになして居(を)れりとぞ。尚、圖に照らして見るべし。

 

Sibihuyuami

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「鮪冬網(しびふゆあみ)」。]

 

○又、一法に、釣りても、捕るなり。是れ、若刕(わかさ)の術(じゆつ)にて、其の針、三寸ばかり、苧縄(をなわ)長百間。針口より一間程は、又、苧にて卷く也。是れを「鼠尾(めづみお)」といふ。飼は鰹の腸(はらわた)を用ゆ。糸は桶へたぐりて、竿に付くること、なし。

○此の魚、頭(かしら)、大にして、嘴(くちばし)、尖り、鼻、長く、口、頤(おとがひ)の下にあり。頰腮(ほおぎと)、鐵兜(てつとう)のことく 頰の下に靑斑(あをまたら)あり。死後、眼(まなこ)に血を出だす。背に刺(すると)の鬣(たてがみ)あり。鱗、なし。蒼黑(あをくろ)にして、肚(はら)、白く、雲母(きらゝ)の如し。尾に、岐、有り、硬くして、上、大に、下、小なり。大(おほ)ひなるもの、一、二丈、小なる者、七、八尺。肉、肥へて厚く、此の魚、頭(かしら)に力あり。頭、陸(くが)に向ひ、尾、海に向ふ時は、懸けて、これを採り易し。是れ、尾に力らなき故なり。煖(あたゝ)かに乘じて、浮び、日を見て、眩(めくるめ)き、來たりける時は、群(ぐん)をなせり。漁人、これを捕りて、脂油(あぶら)を采り、或ひは脯(ほしし)に作る。

○「鮪」の字は「シビ」に充つること、其の義、本草、又、字書の釋義に適はず。されども、「和名抄」は、「閩書(みんしよ)」によりて、魚の大小の名をも、異(こと)にすること、其の故、なきにしもあらざるべし。又、「日本記」武烈記、眞鳥大臣(まとりだいしん)の男(こ)の名、「鮪(しび)」と云ふに、自注(じちう)、「慈※」とも訓せり[やぶちゃん注:「※」=「寐」を(あなかんむり)に代えたもの。]。元より、中華に海物(かいぶつ)を釋(と)く事、甚だ粗(そ)成ること、既に云ふがごとし。故に姑(しばら)く「鮪(しび)」に隨ひて可なりともいはん。シビの訓義、未詳(つまびらかならす)。

[やぶちゃん注:冒頭で大・中・小の区別呼称を示している。無論、これは単なる成長過程の同一種の呼称であると読むのがまず一般的ではあろうが、「王鮪」を「しび」と呼ぶ時、我々はやはり、

スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis

想起するし、さすれば、それほど大きくない中型のそれは、

マグロ属キハダ Thunnus albacares

が別種同定候補と挙がってくるし、さらにその小さいものは、『小なるを「鮥子(めしろ)」といへり』と言っているところから、現在の別種である、

マグロ属メバチ Thunnus obesus

の可能性を想定しつつ読む必要がある。私の、「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮪(しび/はつ)」の項、及び「大和本草卷之十三 魚之下 シビ (マグロ類)」も参照されたいが、特にこの割注部は、前者の寺島良安の、以下に示した標題下の異名列記をそのまま写した感が強い。

   *

王鮪(わういう)【其の大き者なり。和名「之比(しび)」或いは「波豆(はづ)」と云ふ。】

叔鮪(しゆくいう)【其の小さき者は、俗に「目黑」と云ふ。】

鮥子〔(くわいし)〕【更に小さき者は、俗に「目鹿」と云ふ。】

   *

「讃州平戶」不審。「讃州・平戶」としても、マグロの特産として、九州の中に唐突もなく「讃州」が入り込むのはおかしく、そもそもが「讃州」がそれらと比肩するマグロの産地であったとするのも奇怪である。思うに、これは次の項の「讃州鰆」にうっかり引かれて、「肥州」とすべきところを誤記したものか、単に彫り師が誤ったものであろう。

「平戶岩淸水(いわしみつ)」これは思うに、平戸港の南側沿岸に当たる長崎県平戸市岩の上町(旧町名「岩上」)の附近ではないか? 「淸水」は不詳だが、「岩」に「淸水」は如何にもな縁語で岩上の旧字地名だったとしても、何らおかしくはないとは思う。

「ひれなが」マグロ属ビンナガマグロ Thunnus alalunga であろう。「鰭長」で「鬢長(鮪)」(びんちょう(まぐろ))の異名でも知られる。和名は胸鰭が第二背鰭を超えるほどに有意長いそれを鬢(もみあげ)に見立てたもので、地方名の「トンボ」も、それを蜻蛉の翅に見立てたものである。

『「はたら」といひて、纔か一尺二、三寸許りなる小魚にて、是れ、「黑鮪(くろしび)」の去年子(こ)なり』この名は調べる限りでは見当たらないものの、ウィキの「クロマグロ」に、『特に幼魚を指す地方名としてヨコ、ヨコワ(近畿・四国)、メジ、メジマグロ(中部・関東)、シンコ、ヨコカワ、ヒッサゲなどもある』とあり、『幼魚期は体側に白い斑点と横しま模様が』十~二十条も『並んでおり、幼魚の地方名「ヨコワ」はここに由来する』とあったので、画像検索で見たところ、確かに幼魚のそれは白い「横輪」で、雪の降ったような白い斑点も有意にあり、されば、これはまさに「はだら」で「斑」であると私は納得出来た。「肉は鰹に似て、色は甚だ赤し。味は鰹に不逮(およばず)」その通り! 鰹(マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis に代表されるカツオ類)の方が遙かに美味い! 私は行きつけの寿司屋では本マグロは滅多に食わず、新鮮なカツオがあれば、必ず、さっと炙ってもらってそのまま直ぐに食すのを常としている(氷で冷やすのは香りも脂も損じ、邪道の極みである)。金が惜しいからではない。マグロなんぞよりも遙かに美味いからである。

「ハツノミ」「ハツ」は江戸時代にマグロの関西方言の一つとして出現し、作者はこれまた、驚くべき迂遠な蘊蓄で語源を解説しているが、恐らくはそこで言っている「初鰹」と同じく、季節の縁起物として「鮪(しび)の物」の縮約の可能性の方が高いし、素直に納得出来る。ここはその「ハツの身」(切り)である。

「ふるされ」「古(舊)され」で「使い古されて、飽きて見捨てられてしまい」の意。

「賤物(せんぶつ)に陷りて饗膳(きやうぜん)の庖厨に加ふること、なし。されども、今も賤夫の爲に「八珍」の一ツに擬(なすら)へて、さらに珎賞す」「徒然草」の第百十九段で、

   *

 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、双(さう)なきものにて、このごろ、もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申しはべりしは、

「この魚、おのれら、若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること、はべらざりき。頭(かしら)は、下部(しもべ)も食はず、切りて捨てはべりしものなり。」

と申しき。

 か樣(やう)の物も、世の末になれば、上樣(かみざま)までも入りたつわざにこそはべるなり。

   *

とある。高校時代、ここを読んで、卜部兼好が一発で大嫌いになった。私は既に述べた通り、鰹が大好物だからである。「八珍」(はっちん)は「八種の珍味」で、中国では牛・羊・麋(となかい)・鹿・麕(くじか:ウシ目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis :分布は朝鮮半島や中国東北部などで本邦には棲息しない)・豕(いのこ:猪・豚)・狗(いぬ)・狼などとするが、中華や本邦各地ではそれぞれに異なった命数が多い。なお、転じて「盛大な料理・食膳」の意ともする。

『此魚の小なるを干して、「干鰹(ほしをふし)」の「にせもの」ともするなり』これが既にして脂ぎとぎとのマグロが長く本邦では好まれなかった証左であり(御存じのことと思うが、「トロ箱」と呼ぶように、マグロの脂ののったそれは、箱に別に切り出して、捨てられたのである)。なお、現在も鰹節とは別に鮪節があり、鰹節よりも淡い出汁が採れる。これは確かにそれなりに美味い。

「萬葉集」「鮪つくとあまのともせるいさり火のほには出なん我下思ひを」「万葉集」巻第十九の大伴家持の一首(四二一八番)、

    漁夫(あま)の火光(ともしび)を

    見る歌一首

 鮪(しび)突くと

    海人(あま)の燭(とも)せる

   漁火(いざりび)の

      秀(ほ)にか出ださむ

      我が下思(したも)ひを

で、左注から、天平勝宝二(七五〇)年五月の作である。下句は、「そのようにはっきりと判るように示してしまおうかしら、私のかの人への思いを」の意。

『「礼記月令(らいきぐわつれい)」に、『季春、天子、鮪(しひ)を寢廟(しんびやう)に薦(すく)む』とあれども』「禮記」の「月令」の「季春」の一節に、

   *

是月也、天子乃薦鞠衣于先帝。命舟牧覆舟、五覆五反。乃告舟備具於天子焉、天子始乘舟。薦鮪于寢廟、乃爲麥祈實。

   *

とある。但し、筆者がここと後で言う通り、これは海産の魚類ではなく、淡水の魚であることは明白で、寺島良安が「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮪(しび/はつ)」の項の前に「鱘 かぢとをし」を置いたのは、迂遠ながら、意味のあることであって、これは英名を“Chinese swordfish”と呼ぶ、海産の鋭く長い上顎吻を持つカジキ(スズキ目メカジキ科 Xiphiidae 及びマカジキ科 Istiophoridae の二科に属する魚の総称。カジキマグロはそれらの通称)にミミクリーする、長江や黄河に棲息していた(恐らくはもう絶滅した)硬骨魚綱条鰭亜綱軟質区チョウザメ目ヘラチョウザメ科ハシナガチョウザメ属の異形種であるハシナガチョウザメ Psephurus gladius のことである(古くはシナヘラチョウザメと呼称した)。そもそもが先に出た見たことがない「」の字も漢語で小型のチョウザメ類を指す語なのである。以上、是非、リンク先の私注を見られたい。それを御教授戴いたその折の私のブログ「チョウザメのこと」も是非、参照されたい。因みに、その方の勤めておられた、そこにある「釜石キャビア株式会社」は、かの大震災によって、今はもう、ない。悲しい思い出である。なお、未だ信じ難い連中のために、東海大学海洋学部水産学科生物生産学専攻の武藤文人氏の発表用解説プレート・レジュメ「チョウザメ類とマグロ類:古典籍データベースから探る漢字の「鮪」の意味の変遷」PDF・二〇一三年九月十八日発表)及びその主な出典元である同氏の論文「本における鮪のマグロ類への比定の歴史」PDF・東海大学紀要海洋学部『海―自然と文化』十巻第三号・二〇一三年発行)をリンクさせておこう。

「二十町許り」約二・一八二キロメートル。

「麾(ざい)」「鰤」で既出既注。

「ダンベイ」「團平船」のこと。和船の一種で、幅が広く、底を平たく頑丈に造った船。石・材木・石炭・土砂などの重量物の近距離輸送に主に用いられた。

「※騰(ふとう)」(「※」=「氵」+「字」)沸騰するように、泡立てて鮪が飛び跳ねるさまを指す。

「驂(さは)ぎて」この漢字は不審。これは予備の馬や、馬車で主となる馬のそばに補助としてつけられる副馬(そえうま)或いは、貴人の供として載り物に同乗すること、副え乗りすること、或いは、その役を指すからである。「騷」の誤字ととっておく。

「二艘ばかりも滿ちぬれども」二艘分ほども大量に充満しているが。

「他魚」この鰯を指す。鮪以外の魚。

「苔むしたる」海藻類その他が繁茂していること。

「我が窠(す)のごとくになして居(を)れり」面白い漁礁みたようなもんだ。

「圖に照らして見るべし」鮪漁の様子は、である。

「若刕(わかさ)の術」若狭国(湾)での漁法。

「苧縄(をなわ)」「鰤」で既出既注。

「百間」百八十一・八メートル。延縄(はえなわ)漁である。

「鼠尾(めづみお)」「お」は「を」の誤記。延縄漁の枝縄のこと。

「脯(ほしし)」干物。

「此の魚、頭(かしら)、大にして、嘴(くちばし)、尖り、鼻、長く、口、頤(おとがひ)の下にあり。頰腮(ほおぎと)、鐵兜(てつとう)のことく 頰の下に靑斑(あをまたら)あり。死後、眼(まなこ)に血を出だす。背に刺(すると)の鬣(たてがみ)あり。鱗、なし。蒼黑(あをくろ)にして、肚(はら)、白く、雲母(きらゝ)の如し。尾に、岐、有り、硬くして、上、大に、下、小なり。大(おほ)ひなるもの、一、二丈、小なる者、七、八尺。肉、肥へて厚く、此の魚、頭(かしら)に力あり。頭、陸(くが)に向ひ、尾、海に向ふ時は、懸けて、これを採り易し。是れ、尾に力らなき故なり。煖(あたゝ)かに乘じて、浮び、日を見て、眩(めくるめ)き、來たりける時は、群(ぐん)をなせり。漁人、これを捕りて、脂油(あぶら)を采り、或ひは脯(ほしし)に作る」この部分、「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮪(しび/はつ)」の項のを小手先で書き変えたもので、少し失望した。引いてみる(表記を一部変えた)。

   *

△按ずるに、鮪(しび)も亦、鱣の屬にして、鱘(かぢとをし)の類なり。「本綱」に、鱘・鮪、以て、一物と爲すは、未だ精(くは)しからず。鱘は靑碧色、鼻、長くして、身と等し。鮪は、頭、畧(ち)と大きく、鼻、長しと雖も、甚だしからず。口、頷(あぎと)の下に有り。兩の頰・腮〔(あぎと)〕、銕兜鍪(かなかぶと)のごとし。頰の下、靑斑、有り。死して後、眼に血を出だす。背・腹に鬐(ひれ)有りて、鱗、無し【些(いささ)か細かなる鱗、有るがごとし[やぶちゃん注:無論、鱗はある。]。】。蒼黑色。肚、白にして、雲母(きらゝ)を傅(つ)くるがごとし。尾に、岐、有り。硬く、上、大、中、圓く、下、小さし。其の大なる者、一丈餘、小さき者、六~七尺。肉、肥えて、淡赤色。背の上の肉、黑き血肉、兩條有り【俗に「血合(ちあひ)」と曰ふ。】。之れを去(す)つべし。其の頭(かしら)、力、有り、暖(だん)に乘じて、浮くに、日を見、目、眩(くら)めく。其の來るや、群を成す。漁人、𤎅 (い)りて、油を取り、其の肉、膾(さしみ)と爲す。炙(やきもの)に爲して、味、やや佳なり。

「和名抄」源順(したごう)の「和名類聚抄」巻第十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

鮪 「食療經」に云はく、『鮪【音「委」。】一名「黃頰魚【和名「之比」。】。」と。「爾雅注」に云はく、『大を「王鮪」と爲し、小を「叔鮪」と爲す。』と。

   *

とある。「爾雅注」は「爾雅注疏」で晋の郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)の作である。言わずもがな、『「閩書(みんしよ)」によりて』というのはトンデモ叙述で、「閩書」は普通は「びんしょ」が正しく、明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省(閩は福建省の旧名)の地誌「閩書南產志」のことである。

『「日本記」武烈記、眞鳥大臣(まとりだいしん)の男(こ)の名、「鮪(しび)」と云ふに、自注(じちう)、「慈※」とも訓せり』(「※」=「寐」を(あなかんむり)に代えたもの)「日本書紀」の巻第十六「小泊瀨稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと) 武烈天皇」の冒頭部の「仁賢天皇十一年」(四九八年)「八月」の一節で「平群眞鳥」「大臣」(へぐりのまとりのおほおみ)のことを語る中で、『眞鳥大臣男鮪【鮪。此云茲寐。】とあるのを指す。

「シビの訓義、未詳(つまびらかならす)」瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種である「鴟尾(しび)」の音と由来が転じたものであろう。当該ウィキによれば、「鴟尾」は、『訓読みでは』「とびのを」『と読む。沓(くつ)に似ていることから』、「沓形(くつがた)」『とも呼ばれる』。『寺院・仏殿、大極殿などによく用いられる。後漢以降、中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が見られ、これが中国などの大陸で変化して』三『世紀から』五『世紀頃に鴟尾となったと考えられている。唐時代末には鴟尾は魚の形、鯱(海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化していった。瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと考えられている』。『火除けのまじないにしたといわれている。材質は瓦、石、青銅など』が用いられた。『「鴟尾」が屋根の最上部に設置されるのは』、『火除けのまじないとして用いられた。魚が水面から飛び上がり』、『尾を水面上に出した姿を具象化したもの』(☜:ここで鮪(しび)語源は十分だろう)『で、屋根の上面が水面を表し、水面下にあるもの(建物)は燃えないとの言い伝えから』、『火除けとして用いられたと考えられている』とある。]

2021/05/21

大和本草卷之八 草之四 水草類 鷺草(さぎくさ) (サギソウ)

 

【和品】

鷺草 葉ハ澤瀉ニ似テ小ナリ背ニ角アリ又モヂズリノ葉

ニ似タリ七月白花ヲ開ク其形鷺ノ飛ニヨク似テ一足

垂タリ可愛慈姑ノ如ク小キ圓根アリ或曰濕草也

非水草山ニモ生ス

 

Kokuritudejikoresagikusa

 

Nakamuragakuensagigkusa

 

[やぶちゃん注:本文末下方配されてある図。最初に掲げたものは、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからトリミングしたものだが(補正をかけたり、清拭をすると、もっと汚くなるので諦めた)、筆致が薄く、しかも綴じ目によって右側が切れているため、別に、今回、初めて、底本の中村学園大学図書館蔵本画像「大和本草卷之八 草之四 水草類」PDF)の35コマ目の画像をスクリーン・ショットで撮り、トリミングしてその下に添えた。]

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鷺草(〔さぎ〕くさ) 葉は澤瀉〔(おもだか)〕に似て、小なり。背に角〔(かど)〕あり。又、「もぢずり」の葉に似たり。七月、白花を開く。其の形、鷺の飛〔ぶ〕によく似て、一足、垂〔れ〕たり。愛すべし。慈姑〔(くはい)〕のごとく、小さき圓〔(まろ)き〕根、あり。或いは曰はく、「濕草なり。水草に非ず。山にも生ず。」〔と〕。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱ラン目ラン科サギソウ属サギソウ Pecteilis radiata当該ウィキによれば、『の湿地性の多年草』で、ミズトンボ属 Habenaria に『分類されることもある』。シノニムは Habenaria radiata 。別名で「サギラン」とも呼ぶ。『茎は単立して高く伸び』、十五~五十センチメートルにも『達し』、『先端近くに』一~三『輪の白い花をつける』。『花期は』七~八月で、『花の径は』三センチメートル『ほどで』、『唇弁は大きく、深く』三『列し、中裂片は披針形、両側の側裂片は斜扇形で側方に開出てその縁は細かく裂ける』。『この唇弁の開いた様子がシラサギ』(白鷺とは鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae の中で、ほぼ全身が白いサギ類の総称通称であり、「シラサギ」という和名の種がいるわけではないので注意。私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)」の私の注を参照)『が翼を広げた様に似ていることが和名の由来である』。『側花弁は白色でゆがんだ卵形』。距(きょ:花冠の基部が後ろに飛び出たもの。スミレなどに特徴的にある)は三~四センチメートルの『長さに垂れ下がり、先端は次第に太くなり』、『この末端に蜜が溜まる。花の香りはほとんど無いが、稀に芳香を確認できる個体も混在する。有香個体には品種名がつけられているもの(「香貴」、「武蔵野」など)もある。しかし夜のほうが香りが強く、日中は微香になってしまう場合があることや、外見上は特徴のない普通のサギソウのため、有香品種を積極的に生産している業者はない』。二『個の葯室は平行し』、『各室に黄色い卵形の花粉塊が入る』。『苞は長さが』五ミリメートル『ほどで、卵状披針形』、三『枚の萼片は緑色で、背萼片が広卵形、両側の側萼片は長さ』八ミリメートル『ほどのゆがんだ卵形』を成す。『地下には太い根が少数つく。また』、『根によく似た太い地下茎が何本か伸び、この先端が芋状に肥大し』、『この部分だけが年を越す。翌年』、『その球根から地下茎を出す』。『茎の下部に』三、四『枚の根出葉がつき、その上部に少数の鱗片葉がつく』。『葉は互生し、下部のものほど大きく、長さ』は五~十センチメートル、幅は三~六ミリメートル『の細長い線形』である』。『この花は』蛾『による花粉媒介の送粉シンドローム』(pollination syndrome:受粉(送粉)様式に合わせて特化した花の特徴(形質群)を指す。一般的には動物媒花の送粉者の種類ごとに分類する。それらの形質には花の形・大きさ・色・受粉媒介行動への報酬(花蜜または花粉・それらの量や成分)及び受粉時期などが含まれる。これらの変異は類似した選択圧に対応した収斂進化の結果であり、送粉者と植物の共進化の産物である)『の特徴を示しており、距の長さに見合った長さの口吻を持つセスジスズメ』(鱗翅目スズメガ上科スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae oldenlandiae 『などのスズメガ科』Sphingidae『昆虫が飛来して吸蜜する。この時に花粉塊が複眼に粘着し、他の花に運ばれる。スズメガ科のガは飛翔力に富み、かなりの長距離を移動するので、山間に点在する湿地の個体群間でも遺伝子の交流が頻繁に起きていることが示唆されている』。『台湾、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では本州、四国、九州まで広く分布しているが』、『生育環境は低地の湿地に限定される。長野県では南部の伊那谷と木曽谷のみに自生地する』。『日当たりのよい湿地に生えるが、しばしば山野草として観賞用に栽培される』。『先述の地下茎の先端に形成される球茎によって栄養繁殖で年』二~三『倍程度に増殖できるため、生産業者が営利的に増殖して大量に市場供給している。園芸店には主に消費的栽培を前提とした花付きの鉢植えが流通するが、栽培経験者向けの未開花の苗や、一部は球根の状態でも販売される』。『そのように生産品の入手が容易であるにもかかわらず、保護されている自生地ですら』、『盗掘が絶えない。遠目にも目立つ開花期は、移植に最も不向きな時期であり、注意深く掘りあげなければ』、『枯れてしまう。金銭価値も乏しいことから』、『転売目的などで採集しているとは考えにくく、無計画な「お土産採集」「観光記念採集」が相当数あるものと推察される。 開発による自生地の減少に加えて、採集圧が加わるため、今では自生状態でみられる場所はきわめて限られる』。『本種は市販球根を』一『回開花させるだけなら』、『難しくはないが、植物ウイルスの感染による枯死がしばしば見られ』、『同一個体を長年にわたって健全な状態で維持栽培するのはベテラン栽培家でも容易ではない。種子によるウイルス未感染個体の生産や、交配選別育種などは一般家庭レベルだとかなり難しいが、無菌播種などの技術を使えば比較的容易である。しかし販売単価が安い花卉なので、営利的に成り立つのは栄養繁殖による生産のみである。そのため』、『実生生産品は研究施設などで実験的に生産される程度で、一般的にはほとんど流通していない』とある。

「澤瀉〔(おもだか)〕」単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ Sagittaria trifolia 。後で立項される。

「もぢずり」俗称の「ねじばな」(捩じ花)で知られる単子葉植物綱ラン目ラン科ネジバナ属ネジバナ Spiranthes sinensis var. amoena 。葉は柔らかく、厚みがあり、根出状に数枚つける。冬期は楕円形だが、生育期間中は細長く伸びる。

「慈姑〔(くはい)〕」単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia 'Caerulea' 。これは、本巻の「大倭本草巻之五 草之一」の「蔬菜類」に収録されてあり、そこには「山葵(わさび)」もあるので、本「大和本草卷之八 草之四」を終えた後に改めて抽出することとする。]

芥川龍之介書簡抄66 / 大正五(一九一六)年書簡より(十三) 久米正雄宛

 

大正五(一九一六)年九月九日・田端発信・久米正雄宛

 

  芙蓉  新體香奩の一

 朝ながらゆめはいまだし紅芙蓉ただほのぼのとあかるきあはれ

 この朝けきりをお應しと紅芙蓉ほのかにさくはあはれなるかな

 むなしかる霧のこころに紅芙蓉ほのぼのとしていきづきにけり

 

右樣の次第につき 小生の近狀よろしく御推察下され度く候

久保万より「駒形より」をもらひ、今さらに 彼等の「出版易(い)」(新熟語)を羨み候 内容は三田文にのせし劇評 新聞へのせし小品のみ 小生 新思潮來月號に批評致す可く候

この頃 インスピレーション 無沙汰にて車力の如く 小說をかき居り候 千萬つまらなく御座候 但、少々さとりたる事有之 來春後は しばらく筆をたたむかと思ひ居り候

この頃ゲーテ言行錄と申すものをよみ 感歎多時 手卷を釋くに忍びざるヽもの有之候 殊に彼が「人は多方面でありたい。多方面の作物をのこしたい。それぞれの作物には その創作されたそれぞれの時の意味がある。自分は 賭博者の如く 現在に全部をかけやうと思ふ」と申候如き 殊に知己古人にありとも申し候ふべき乎

秦氏より錦畫の借金 催促され 窮し居り候 同氏が「愛する久米よ」を 御讀みになり候や否や 小生の讃辭の後に借金の催足[やぶちゃん注:ママ。]あり 「愛する久米よ」の後に 何があるかを知らず 天下は物騷千萬と覺え候

とりあへず 右御ひまつぶしまでに

                   龍

  久米賢臺

 

[やぶちゃん注:本書簡は旧全集に載らない。葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)に拠った。短歌があるので採った。

「新體香奩」「しんたいかうれん(しんたいこうれんたい)」と読む。「香奩体」とは中国の詩風の一体で、主に後宮の婦人や深窓の閨媛などを詠んだ艶麗・艶情・媚態・閨怨を主題とした官能的なものをいう。晩唐の詩人韓渥(かんあく)は、官能的な艶美の詩が得意で、そうした艶体の詩ばかりを集めた彼の詩集「香奩集」三巻が評判を呼び、後に「香奩体」という詩体の呼称になったものである。同大正九年十一月に発表した「漢文漢詩の面白味」(リンク先は私のサイト版)を読むと、龍之介自身がこの香奩体自体に興味を持っていたことが窺われる。私の「芥川龍之介漢詩全集 十八」も参照されたい。

「久保万」作家・劇作家で俳人としても知られた久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)。浅草生まれ。耽美派(『三田』派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され、築地座を経て「文学座」創立に参加し、広く新派・新劇・歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開した。「日本演劇協会」会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説・戯曲ともに多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で流行作家となった。文人俳句の代表作家としても知られ、俳誌『春燈』を創刊・主宰した。生家は「久保勘」という袋物(足袋)製造販売を業とした。府立三中に進学、一級下に芥川龍之介がおり、特に俳句の面では龍之介の師匠格であった。

「駒形より」大正五(一九一六)年平和出版社刊の随筆。多くの劇評も含む。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全文が読める

『「出版易(い)」(新熟語)』思うがままにすぐ出版出来る御身分のニュアンス。

「小生 新思潮來月號に批評致す可く候」第四次『新思潮』第一巻第九号(大正五年十一月一日発行・十一月号)に、「新刊紹介」に「駒形より 久保田万太郎著」として芥川龍之介が書評を発表している。

「秦氏」秦豊吉。既出既注

「愛する久米よ」不詳。識者の御教授を乞う。

「賢臺」対称代名詞。多く書簡の宛名などで、同輩或いはそれ以上の人を敬っていうのに用いる敬称。「貴下」「賢兄」に同じ。]

芥川龍之介書簡抄65 / 大正五(一九一六)年書簡より(十二) 井川恭宛(前部欠損)

 

大正五(一九一六)年九月六日島根縣松江市南殿町井川恭君(前部欠損)

 

恐縮した あの先生は夏目さんの書を額四つ屛風三つ幅三十本卷物一本色紙四十枚短計六十枚手紙無數持つてゐるさうだ その表裝料が月々百圓づつかかると云ふんだから驚いた それからさらい月新小說へ又かく 新年號は御免を蒙りたいと思つてゐる

當分何もしずにぶらぶらしてゐたいと思ふ 大學院へははいつた

これからジヨンズによばれてゆく 又一晚下手な英語で會話をしなければならない この頃も many languages 云つて笑はれた 僕はいつまでたつてもああ技術には習熟しないらしい

ヘルンの居を訪ふ條は非常に面白かつた。それから竹(殊に起首)もよい 僕も出雲小品をかきたいと思つてゐる

さかり來て人思(も)ふわれぞ砂山の黃花濱菊さはなさきそね

すべしらになげく心か夕白む波の穗がくり千鳥とぶ見ゆ

ほのかなるひとはな茄子(なすび)かぎよりて人は遠しと思ひけるかも

珠ひらふ海女のくびすによる水の水明りすとかなしきものか

いさな取海はけむれどきららかに夕澄みにけれ一むら千鳥

  イミテエション オブ タゴオル

海此岸(かいしがん)に砂の塔つく童子ありその塔の上に二日月すも

    六日夜            龍

   恭   君 梧下

 

[やぶちゃん注:私は欠損書簡は採りたくないのだが、短歌が載っているので、採った(本カテゴリ冒頭で述べた通り、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を補塡するためである)。「あの先生」ここの注で示した夏目漱石の千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介・久米正雄(連名)宛書簡を読むに、滝田樗陰のことであろう。

「さらい月新小說へ又かく」江戸物の「煙管」。同年十一月一日発行の『新小説』に発表している。同作の脱稿はこの翌十月十六日。

「新年號は御免を蒙りたいと思つてゐる」これは新進作家として求められるそれらを指していると考えてよい(特定の雑誌のという意味ではないということ)が、実際には同人である第四次『新思潮』第二年第一号(大正六(一九一七)年一月一日発行・一月号)に小説「MENSURA ZOILI」(メンスラ・ゾイリ)を、『新潮』(クレジットは同前)に切支丹物の上申書形式を採った小説「尾形了齋覺え書」を、『文芸世界』(同前)に王朝物の「運」を発表している。

「大學院へははいつた」既に述べたが、東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業(大正五年七月十日)後、引き続き、大学院に在籍したが、殆んど通学しなかった模様で、この年末十二月頃に除籍処分となっている。

「ジヨンズ」芥川龍之介の参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人ジャーナリストであったトーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる「人名解説索引」によれば、大正四(一九一五)年に来日し、大蔵商業(現在の東京経済大学)で英語を敎えた。『後に中国に渡り』、『上海でロイター通信社の社員となった』。『ロマンチストの一途な青年であったことは』、『芥川の「彼 第二」というジョーンズをモデルとした小説からもうかがえる』。『天然痘を病んで若くして上海で』亡くなったとある。この芥川龍之介の「彼 第二」は私の特に偏愛する一篇で、サイト版で、龍之介との交流を中心に追跡し、注も附してある。私は当時、上海在住の教え子に彼の墓を探してもらったが、大々的な整理が行われており、遂に発見に至らなかった。未読の方は、是非、読まれたい。

「many languages」複数の多国語。

「ヘルンの居を訪ふ條は非常に面白かつた。それから竹(殊に起首)もよい」不詳。

「僕も出雲小品をかきたいと思つてゐる」くどいが、遂に書かれなかった芥川龍之介の出雲小品は返す返すも残念でならない。

「タゴオル」インドの詩人・小説家・思想家ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore 一八六一年〜一九四一年)。インドの近代化を促し、東西文化の融合に努めた。ベンガル語で作品を書き、一部を自ら英訳した。この三年前の一九一三年にノーベル文学賞を受賞している。詩集「ギーターンジャリ」・小説「ゴーラ」など。私は著作集全二巻を持つ程度には好きな詩人である。]

2021/05/20

芥川龍之介書簡抄64 / 大正五(一九一六)年書簡より(十一) 山本喜誉司宛

 

大正五(一九一六)年九月五日(年次推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

二度も手紙をもらひながら返事を出さなかつたのは怒られても仕方がない 此一週間ばかりは何をするのも氣がむかなかつた 氣がむかなかつたのは馬鹿げた話があつたからなのだ その話をかく

ある男がある女に戀をした事がある 男は女が自分の心をしつてゐたかどうかしらなかつた 唯自分を嫌つてはゐなかつたと云ふ事だけが確であつた 女の顏はろせつちのかいたべあとりすに似てゐる

何月かたつた後急に女が男の友人に嫁ぐ事になつた 其友人と云ふのは男より年上ながら智識も感情も男より遙に劣つたぶるじよあであつた 男は婚禮の夜上から二つ目の席にすはつて高砂の聲をきいた

女は紫の着物をきてゐた 寒い夜で時々硝子戶をすかしながら雪もよひの空を氣づかはしげに見たのを覺えてゐる

婚礼が完つて幾台かの人力車が續いて冬の町へ出た時に男は偶然女ののつてゐる人力車の次のにのつてゐた 廣い通りを白けたともしびの光に人力車が走る間男は自分の前にゆく人力車の幌の中に翡翠の指輪をした白い手を暖な MUFF にさして黑いにほひのいゝ BOA に襟をうづめてゐる人の事を考へた

其後男は女にあはなかつた 女の夫とは二三度あつたが二十分たたないうちに香油を塗つた髮と卑しいBUSINESS-MANLIKE な語とが反感を惹いて碌に話もしなかつた

一年餘たつた夏の末に男はある用向で女の夫を訪問した

夫は留守で女が代つて挨拶をした 今月が臨月だと云つて女は息使ひさへ苦しさうに大きな腹をしてゐた 三十分ばかりの對話のうちに男は女が自分の心を知つてゐたと云ふ事を知つた 男はかう云ふ事がわかつた時一層女のみにくさを感じた 見覺えのある絽の夏帶さへ見てゐるのが嫌になつた

男は女にわかれて玄關を出るときに眞面目な顏をして丁寧な挨拶をのべた

話はこれだけだ DISILLUSION と云へば澤山だらう 他人からみたらいゝ COMEDY にちがひない

そのあとで(日課のやうにしてゐるドストエフスキイの小說をよむ外は)何もしなかつたのなんぞは馬鹿げてゐるかもしれない 自分でもそんなにろまんちつくに生れついたつもりではないのだが

あんまりかくと安つぽくなるからやめる

屋上庭園の籐倚子の上でよんでくれたら其割に馬鹿らしくないかもしれない

東京景物詩ですきなのは片戀だけ

方々あそんであるいた 寄席で蘭蝶をきいた 其時の卽興をおくる

 

   なれあらば共に淚やながすらむ今蘭蝶ぞうたひ出ぬる

                     さやうなら

    九月五日夜       ANTONIO

   LEONARDOへ

 

[やぶちゃん注:これは年推定が正しいとして、何か不思議に不明な陰鬱な内容である。この女は諸条件から吉田彌生では絶対にない。そもそもこの主人公の「男」は果して芥川龍之介自身なのかどうかも、実は判らないのである。「馬鹿げた話があつた」と彼は言っている。則ち、それが自身の体験ではない可能性を示唆するものでもあろう。芥川龍之介自身或いは龍之介の友人の体験とした両方の仮定で幾つかの可能性を探ったが、どれも全体の細かな事実を総てクリアーするものは遂に探り得なかった。全体が作り話というのは、相手が最も永い親友であり、同性愛感情さえも持っていた山本である以上、そんな悪ふざけは、やはり絶対にあり得ない。しかも、彼は既に婚約の確定した塚本文の叔父である。但し、幾つかの複数の体験や話を無理矢理、融合させて、事実のように龍之介自身が錯覚している(一時的な見当識失調)というやや神経症的に病的なものである可能性はないとは言えない。但し、「自分でもそんなにろまんちつくに生れついたつもりではないのだが」「あんまりかくと安つぽくなるからやめる」という部分からは自身の体験であると言わざるを得ない。私も、芥川龍之介の生涯の「地獄よりも地獄的」な多数の恋愛関係を追い続けているという点では、人後に落ちないつもりであるが、正直、判らない。ただ、この手紙が、もし、この翌年の大正六年であったとするなら、ある疑惑が、それも複数、ぼんやりと浮かんでくるという気は、している(諸条件から推すと、前年の可能性は頗る低い)。ともかくも、いろいろな意味で、読後、甚だ後味の悪い、龍之介の特異点の手紙の一つであると言える。

「ろせつちのかいたべあとりす」ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妻をモデルとした作品の中でも群を抜いて優れた私も偏愛する「ベアータ・ベアトリクス」Beata Beatrix :「祝福されしベアトリーチェ」。一八六四年~一八七〇年製作)。ダンテ・アリギエーリの詩「新生」の中のベアトリーチェ・ポルティナーリの死の瞬間を描いたもの。彼のウィキの当該画をリンクさせておいた。

「MUFF」防寒具の「マフ」。女性が手を入れるためのもので、毛皮製で円筒形をしている。

「BOA」ボア襟巻。軟らかい羽毛及び毛皮製。

「BUSINESS-MANLIKE」商売人風な。

「DISILLUSION」幻滅を感じさせる。

「日課のやうにしてゐるドストエフスキイの小說をよむ」後の書簡を見るに、この翌月の十月七日の深夜、眠られずに「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。

「屋上庭園の籐倚子の上」不詳。

「東京景物詩」北原白秋二十八歳の頃の第三詩集。大正二(一九一三)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで、原本が見られる。私は五篇を電子化しているが、「片戀」はしっかりそれに入っている。

「蘭蝶」新内節の曲名。本名題(ほんなだい)は「若木仇名草(わかきのあだなぐさ)」。長編の端物(はもの)浄瑠璃で、「明烏(あけがらす)」・「尾上伊太八(おのえいだはち)」とともに新内の代表曲の一つである。初世鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう 享保二(一七一七)年~明治一九(一七八六)年)晩年の作。芸人市川屋蘭蝶と深い仲の新吉原の榊屋此糸(さかきやこのいと)とが痴話喧嘩のところへ、蘭蝶の女房お宮が此糸のもとを訪れ、別の一間で会って、「蘭蝶と縁を切ってほしい」と頼み込む。その真情にほだされた此糸は願いを聞き入れ、縁切りを約してお宮を帰すが、この会話を、始終立ち聞く蘭蝶は、お宮の真心を納得しながらも、此糸と情死する。初期の端物で「~でありんす」の「廓(さと)ことば」を使っているのは、実はこの作だけである。新内と言えば「蘭蝶」、「蘭蝶」と言えば「縁でこそあれ~」というほど、馴染まれている「縁切り場」のお宮のクドキは、事実、新内の生命である「クドキ地」の典型的なものであって、手ほどきにもかならず用いられる一節であり、太夫たちが聞かせどころとして、力量を発揮する下りである以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)

 

菰 本草ニ菰米一名茭米雕胡時珍曰菰本作

苽茭草也鄭樵通志云彫蓬卽米茭可作飯食黍

蓬卽茭之不結實者惟堪作薦故謂之薦○東垣

食物本草雕胡一名茭白又名菰根糟食之甚佳

○今按マコモノ根料理シテ食ス味ヨシ○茭蔁カチヤンハ

唐音ナリ交趾東京ニ有之故西南洋ノ商舶是ヲ編

テ船ノ面ヲフセキ又船ノ帆トス葉長キ事二三間廣サ二

三寸或四五寸葉ノ形蜀黍ノ如シ又似竹葉如蘆葉

彼國ノ舟ノ帆ニ用ルハ此物也其實ヲ安達子ト云柿ノ

サ子ノ形ニ似テ大拇指ノ大ホドアリ蜜ニス又根ヲ

鹽淹ニス○篤信按本草菰二種アリ一種ハ秋結實

如黍菰米也可作飯餅食是沙菰米ナルヘシ沙菰米

ハ典籍便覽ニ見ヱタリ穀類ナリ日本ニ異邦ヨリ來ル

日本ニハ如米實ノナル菰アル事ヲキカス一種ハ鄭樵所

謂黍蓬ハ實ナサラルコモナリ日本ニ多シ水草ナリ本

草蘓頌所謂菰生水中葉如蒲葦ト云是ナリ是ハ

米ノ如クナル實ナラス國俗マコモト稱ス古哥ニモ詠セリ

又顯註密勘ニ花カツミトハコモノ事也トイヘリマコモハ端

午ノ粽ヲ包ムモノ是ナリ中華ニモ菰葉ニチマキヲ包ム初

學記角黍條下曰風土記以菰葉裹黏米以象陰

陽相包裹未分散海草ニモコモアリコレト別ナリコモト

名ツクルハ編テコモトスル故ナリ中華ニモ薦トスト鄭樵

通志及本草衍義ニ見エタリ

○やぶちゃんの書き下し文

菰(こも) 「本草」に、『菰米〔(コベイ)〕、一名「茭米〔(カウベイ)〕」・「雕胡〔(テウコ)〕」。時珍曰はく、「菰、本は『苽〔(コ)〕』に作る。茭草なり。」』と。鄭樵が「通志」に云はく、『彫蓬は、卽ち、「米茭」〔なり〕。飯に作り、食ふべし。黍蓬〔(シヨハウ)〕、卽ち、茭草の實を結ざる者〔なり〕。惟だ、薦〔(こも)〕と作〔(な)〕すに堪〔(た)〕ふ〔のみ〕。故に之れを「薦」と謂ふ』と。

○東垣〔(とうゑん)〕が「食物本草」に、『雕胡、一名、茭白。又、菰根と名づく。糟〔(かすづ)けにして〕、之れを食ふ。甚だ佳し』と。

○今、按ずるに「まこも」の根、料理して食す。味、よし。

○茭蔁(カチヤン)。「カチヤン」は唐音なり。交趾〔(コーチ)の〕東京〔(トンキン)〕に、之れ、有り。故に、西南洋の商舶、是れを編んで、船の面〔(おもて)〕をふせぎ、又、船の帆とす。葉、長き事、二、三間、廣さ、二、三寸、或いは、四、五寸。葉の形、蜀黍〔(シヨクシヨ/もろこし)〕ごとし。又、竹の葉に似て、蘆の葉のごとし。彼の國の舟の帆に用いるは、此の物なり。其の實を「安達子〔アンタツシ〕」と云ふ。柿のさねの形に似て、大拇指〔(おやゆび)〕の大いさほど、あり。蜜にす。又、根を鹽淹(〔しほ〕づけ)にす。

○篤信、按ずるに、「本草」〔の〕「菰」〔には〕二種あり。一種は、秋、實を結び、黍のごとく、「菰米〔(こべい)」と〔いふ〕なる。飯〔(めし)〕の餅〔(もち)〕と作〔(な)〕して食ふべし。是れ、「沙菰米(さごべい)」なるべし。「沙菰米」は「典籍便覽」に見ゑたり。穀類なり。日本に〔は〕異邦より來たる。日本には米のごとき實のなる菰、ある事をきかず。一種は鄭樵〔(ていしやう)〕が、謂ふ所、「黍蓬」は、實ならざる「こも」なり。日本に多し。水草なり。「本草」の蘓頌〔(そしよう)〕の所謂る「菰」は、『水中に生じ、葉、蒲・葦のごとし』と云ふ〔が〕、是れなり。是れは、米のごとくなる實、ならず。國俗、「まこも」と稱す。古哥にも詠ぜり。又、「顯註密勘」に、『「花かつみ」とは「こも」の事なり』と、いへり。「まこも」は端午の粽〔(ちまき)〕を包むもの、是れなり。中華にも菰の葉に「ちまき」を包む。「初學記」の「角黍〔(カクシヨ)〕」の條下に曰はく、『「風土記」、『菰の葉を以つて黏米〔(もちごめ)〕を裹〔(つつ)〕んで、以つて、陰陽、相ひ包裹〔(はうか)〕して未だ分散せざるを象〔(かた)〕どる。』〔と〕。海草にも「こも」あり。これと別なり。「こも」と名づくるは、編んで「こも」とする故なり。中華にも『薦とす』と、「鄭樵通志」及び「本草衍義」に見えたり。

[やぶちゃん注:ここでまずメインで益軒が言っている本邦産のそれは、

単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia

以外にはあり得ない。別名ハナガツミ(花勝見)。当該ウィキによれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』。本来は病原性糸状菌である真正担子菌綱クロボキン目 Ustilaginalesに属する菌類で『黒穂菌』(くろぼきん)の一種である『Ustilago esculenta』『に寄生されて肥大した新芽はマコモダケ』(真菰筍・茭白。マコモタケとも呼ぶ)『と呼ばれる食材で、古くは』「万葉集」にも『登場する。中国、台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各国でも食用や薬用とされる。台湾では「茭白」が標準的な呼び方であるが、中部の南投県埔里鎮周辺が特産地として名高く、色白の女性の足に見立てた』「美人腿」(メイレントゥイ)『の愛称で出荷されている。香港を含む広東語使用地域では』「茭筍(カーウソン)」『と呼び、炒め物やスープの具などに用いることが多い。『たけのこを優しくしたような適度の食感と、ほのかな甘味、ヤングコーンのような香りがある。くせがなく、さっと茹でたり、グリル焼き、炒めものにも向いているほか、新鮮なものは生食してもおいしい。沖縄県では「まくむ」、鹿児島県奄美大島では「台湾だーな(竹)」と呼んで、炒め物のイリチー、奄美料理の「いっき」、油ぞうめんなどに使用する。中国では他にスープの具にもされ、台湾では麺類の具のひとつにも加えられることがある。細かく刻んで餃子、ハンバーグ、チャーハンなどに用いることもできる』。『収穫は秋で、新芽の根元がじゅうぶんに肥大したら』、『すぐに収穫する。収穫が遅れると、組織内に真っ黒な胞子が斑点状に混じるようになり、食感・食味も落ちて、商品価値は失われる』が、本邦で古くより使われてきた『黒い顔料』の『マコモズミ』というのは、『この黒い胞子体を利用したもの』で、『お歯黒、眉墨、漆器の顔料などに用いられた』。また、『出雲大社では毎年』『六月に「マコモの神事」が行われる。「出雲の森」から、御手洗井までの道中に清い砂を敷き、その上にマコモが置かれ、宮司はその上を歩いて参進する。宮司が踏んだマコモは御神威が宿るとされ、参拝者は持ち帰って神棚に飾ったり、浴槽に入れたりする』。『また、出雲大社の神幸祭でもマコモを用いる。マコモを藁苞(わらづと)のように加工した苞(しぼ)という物を神職が手にして神幸を斎行する』。『三重県三重郡菰野町・石川県河北郡津幡町などでは』、『町の特産品としてマコモの栽培に力を入れている』とある。

『「本草」に、『菰米、一名「茭米」・「雕胡」。時珍曰はく、「菰、本は『苽』に作る。茭草なり。」』と』「本草綱目」巻十九の「草之八」の「水草類」には(囲み字は太字に代えた)、

   *

菰【「别錄」下品。】

釋名茭草【「說文」。】蔣草【時珍曰はく、「按ずるに、許氏が「說文」に『「菰」、本(もと)「苽」に作る。「𤓰」に從ふ。諧聲なり。』と。米、有り。之れを「彫菰」と謂ふ。已に「穀部」の「菰米」の下に見たり。江南人、菰を呼びて、「茭」と爲す。其の根の交結せるを以つてなり。「蔣」の義は未だ詳かならず。」と。】

集解保昇曰はく、「菰の根、水中に生ず。葉、蔗荻のごとし。久しきときは、則ち、根、盤して厚し。夏月、菌(きのこ)を生じ、啖(く)ふに堪へたり。「菰菜」と名づく。三年の者の中心、白き薹(うてな)を生じ、藕のごとく、狀、小兒の臂(ひぢ)に似て、白く軟なり。中、黑き脉、有り、啖ふに堪へたる者は、「菰首」と名づくなり。」と。藏器曰はく、「菰首の小なる者は、之れを擘(さ)くに、内に黒灰なるもの有り、墨のごとくなる者を「烏鬱」と名づく。人、亦、之れを食ふ。晉の張翰、吳中の蓴を思ふ。菰は卽ち、此れなり。」と。頌曰はく、「菰根、江湖陂澤の中に、皆、之れ有り。水中に生ず。葉、蒲・葦の輩のごとし。刈りて以つて馬の秣(かひば)とす。甚だ肥えて、春の末、白き茅を筍のごとく生ず。卽ち、菰菜なり。又、之れを茭白と謂ふ。生・熟、皆、啖ふべし。甜美なり。其の中心、小兒の臂のごとくなる者、菰手と名づく。菰首と作(な)す者は非なり。「爾雅」に云はく、『出墜は蘧蔬(きよそ)なり』と。註に云はく、『菰草の中に生ず。狀、土菌に似たり。江東の人、之れを啖ふ。甜滑なり。』とは、卽ち、此れなり。故に南方の人、今に至るまで、「菌」を謂ひて「菰」と爲す。亦、此の義に緣す。其の根も亦、蘆の根のごとし。冷利にして、更に甚だし。二浙の下、澤の處、菰草、最も多し。其の根、相ひ結びて生ず。久しきときは、則ち、幷(あは)せ生じて、水上に浮かぶ。彼の人、之を「菰葑」と謂ふ。其の葉を刈り去つて、便(すなは)ち、耕して蒔くべし。又、「葑田」と名づく。其の苗、莖に硬きところ有る者は之れを「菰蔣草」と謂ふ。秋に至りて實を結ぶ。乃(すなは)ち、「彫胡米」なり。ある歲の飢うるときは、人、以つて粮に當つ。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「菰、乃ち、蒲の類なり。河朔(かさく[やぶちゃん注:現在の河北省を中心とする地域。])邊の人、止めて以つて飼馬とし、薦に作る。八月、花を開く。葦のごとし。青き子(たね)を結ぶ。粟に合はせて、粥と爲して食ふ。甚だ飢えを濟す。杜甫が所謂る、「波 菰米を漂はして 沉雲 黑し」といふは、是れなり。】

菰筍 一名「茭筍」【「日用」。】・「茭」【「白圖」。】・經菰菜【同。】。

氣味甘、冷、滑。毒、無し。【詵曰はく、「滑、中。多くは食ふべからず。」。と。頌曰はく、「菰の種類、皆、極冷にして、過食すべからず。甚だ、人に益せず。惟だ、金石を服する人は、相ひ宜しきのみ。」と。】主治五臟に利あり。邪氣・酒皶・面赤・白癩・癧瘍・目赤・熱毒風・氣卒・心痛、鹽・醋にて煮て、之れを食ふべし【孟詵。】。煩熱を去り、渴えを止め、目の黄なるを除き、大小便を利し、熱痢を止む。鯽魚を襍(まぜ)て羮と爲し、食ふ。胃口を開き、酒毒を解し、丹石毒發を壓す【藏器。】。

菰手 一名「菰菜」【「日用」。】・「茭白」【「通志」】・「茭粑」【俗名。】・「蘧蔬」【音「毬」「㲣」。】

氣味 甘、冷、滑。毒、無し。【大明曰はく、「微毒。」と。詵曰はく、「性、滑。冷氣を發し、人をして下焦を寒からしめ、陽道を傷ましむ。蜜食を禁ず。痼疾を發す。巴豆を服する人、食ふべからず。」と。】。主治心胸の中浮熱・風氣。人の齒を滋す。【孟詵。】煮て食ひて、渴を止む。及び小兒の水痢【藏器。】

菰根 氣味 甘、大寒。毒、無し。【頌曰はく、「菰の根、亦、蘆の根のごとし。冷利、更に甚し。」と。】。主治 腸胃の痼熱・消渴、小便利を止む。汁に擣きて、之れを飮む。【「别錄」。】灰に燒きて雞子白に和し、火燒瘡に塗る【藏器。】。

附方【「舊二」。】 小兒の風瘡【久しく愈えざる者に菰蔣の節を用いて、燒きて、研りて、之れを傅く。「子母祕錄」。】毒蛇の囓める傷【菰蔣草の根を灰に燒きて、之れを傅く。「外臺祕要」。】

葉 主治 五臟を利す。【「大明」。】

菰米【「穀部」に見たり。】

   *

ここからが悩ましい問題となってくるところだ。以上をざっくりと読んでみると、「本草綱目」のこの「菰」の記載を見るに、そこには我々の知っている上記の「マコモ」の中に、時に、ここで「菰米」「茭米」「雕胡」と呼ぶ食用になる実、「菰(こも)の米(こめ)」が生じ、救荒食とされていた事実が書かれてあるのであるが、どう調べて見ても、中国にそのような実を生ずるマコモの近縁種があるようには見うけられないのである。確かに手っ取り早いのは、知られた「ワイルド・ライス」(Wild rice)の名で知られる、北米大陸の近縁種アメリカマコモ Zizania aquatica の種子が古くからあちらでは穀物として食用とされているのだが、近代以前に中国に同種が存在した形跡は、ないのである。そうなると、ここで益軒が盛んに漢籍から引いて、「飯に作り、食ふべし」とか、餅にして粽にして食うとか、いうのは何んなんだ? と激しく不審になる。

 まず、取り敢えず、最後にある「本草綱目」の巻二十三の「穀部」の「穀之二」の「菰米」の項を見てみよう。

   *

菰米【「綱目」。】

釋名 「茭米」【「文選」。】・「彫蓬」【「爾雅」。】彫苽【「説文」。○「唐韻」は「彫胡」作る。】【時珍曰はく、「『菰』は、本(もと)、『苽』に作る。茭草なり。其の中に菌(きのこ)を生ず。瓜の形のごとし。食ふべし。故に之れを『苽』と謂ふ。其の米、霜の彫(きざ)む時を須(ま)ちて、之れを采る。故に之れを『彫苽』と謂ふ。或いは訛りて「雕胡」と爲す。枚乘(ばいじやう)が「七發」に謂ふ、『之れ「安胡」』と。「爾雅」に、『齧は彫蓬なり。薦は黍蓬なり。』と。孫炎が註に云はく、『彫蓬は、卽ち、「茭米」なり。古人、以つて「五飯の一つ」と爲す者なり。』と。鄭樵が「通志」に云はく、『彫蓬は、卽ち。米茭なり。飯と作(な)して食ふべし。故に之れを「齧(げつ)」と謂ふ。其の黍蓬、卽ち、茭の實を結ばざる者なり。惟だ、薦と作すに堪ふるのみ。故に之れを「薦」と謂ふ。』と。楊慎は「巵言」に云はく、『蓬に水陸の二種有り。「彫蓬」は乃(すなは)ち、「水蓬」・「彫苽」、是れなり。「黍蓬」は、乃ち、「旱蓬」・「靑科」、是れなり。「靑科」は實を結びて、黍のごとし。羌人(きようひと[やぶちゃん注:古代より中国西北部に住んでいる民族。「西羌」とも呼ばれ、現在も中国の少数民族チャン族として存在する。])、之れを食ふ。今、松州[やぶちゃん注:四川省アバ・チベット族チャン族自治州内にあった旧州。]に、焉(こ)れ、有り。』と。珍、按ずるに、鄭・楊の二説は同じからず、然(しか)も皆、理、有り。葢し、蓬の類は一種に非ざる故なり。」と。】

集解 【景曰はく、「菰米、一名『彫胡』。餅と作(な)して食ふべし」と。藏器曰はく、「彫胡、是れ、菰蔣草の米。古人の貴ぶ所。故に「内則」に云はく、『魚、苽に宜(よろ)し』と。皆、水物なち。曹子建が「七啓」に云はく、『芳菰・精稗は二草の實を謂ふ。以つて飯と爲すべし。』と。頌曰はく、「菰、水中に生ず。葉、蒲・葦のごとし。其の苗、莖の梗(こう)なる有る者は之を「菰蔣草」と謂ふ。秋に至りて、實を結ぶ。乃ち、「彫胡米」なり。古人、以つて美饌となす。今、饑歲に、人、猶ほ、采りて、以つて糧に當つ。葛洪が「西京雜記」に云はく、『漢の太液池の邊り、皆、是れ、彫胡。紫籜・綠節、蒲、叢れり。』の類なり。葢し、菰之の、米、有る者なり。長安の人、之れを『彫胡』と謂ふ。菰の、首、有る者、之れを『綠節』と謂ふ。葭・蘆の未だ葉を解かざる者を『紫籜』と謂ふなり。宗奭曰はく、「菰蔣花、葦のごとく、靑き子(み)を結ぶ。細きこと、靑麻黃のごとく、長さ幾寸。野人、之れを收め、粟に合はせて粥と爲し、之れを食ふ。甚だ、饑えを濟すものなり。」と。時珍曰はく、「彫胡、九月に莖を抽きいだし、花を開く。葦䒒(かちよう)のごとし。實を結ぶこと、長さ寸許り。霜の後、之れを采る。大いさ、茅の針のごとし。皮、黑褐色、其の米、甚だ白くして、滑-膩(なめら)かなり。飯に作して、香り、脆(もろ)し。杜甫が詩に、『波 菰米を漂はして 沈雲 黑し』といふ者は、卽ち、此れなり。「周禮」の供御に、乃ち、六穀・九穀の數、「管子」の書に之れを「鴈膳」と謂ふ。故に、米を收めて、此れを入る。其の「茭」・「笋」・「菰根」の别、「菜部」に見えたり。」と。】

氣味 甘、冷、毒、無し。主治 渴を止む【藏器。】煩熱を解き、腸胃を調ふ【時珍。】。

   *

さても。当初、私は何んとか、この中国で――米として食べるマコモの近縁種なるもの――を探し出そうと、躍起になって調べた。それは偏えに――益軒が、根を食べる本邦の菰(まこも)と、漢籍に登場する米を実らせるが出来、それを米として食べる菰は別種であると断じているから――であった。……しかし、どうにもその――ワイルドライス的中国産のマコモの仲間――というのは、見当たらないのである。そうして、以上の訓読を通して読むに、これはマコモダケの出来るマコモの中に、米のようなものが同時に出来るという意味で多くの本草学者は書いているとしか、私には読めなかったのである。

而して!

検索の中で遂に発見した! 本邦でも「真菰の米」を食っていた事実を、である!

Kiyomi Kosaka氏のサイト「カンポンボーイの果物歳時記」の「マコモ」を見られたい。そこに(一部の字空けや行空けを詰め、学名を斜体にした)、

   《引用開始》

日本:江戸時代マコモの実を食べた

 マコモの葉を神事に使い敷物を作ることは古くからやっていますが、子実を食べる習慣は今では残っていません。

実を食べることについては稲作以前の縄文時代の遺物から食料とされていた事がわかっています。

江戸時代中頃の「和漢三才図会」には雕(彫)胡米、菰米、茭米、と書き飢饉の歳には食料に当てるとありますから、緊急食糧の扱いです。

江戸時代の終わり頃の赤松宗旦と言う下総出身の医者は利根川の中流から下流までを歩いて「利根川図志」と言う本を書きましたが、そこに真菰を食べるとの記述があります。宗旦先生は実際に食べてどうだったか、宗旦先生の感想が無いのは残念ですが、部分引用します。

種本は「崙書房 口訳利根川図志 巻5 P7 根山神社」と「岩波文庫 利根川図志 P268」「国会図書館デジタルコレクション 西遊詩草2巻」です。

「根山神社 北須賀村の門河 牛頭天王を祭る。

鳥の猟の第一の場所、このあたり沼に真菰が多い。水鳥は真菰の実をこのんであさるものである。マコモの実は、麦のようなもので、人もこれを食べる。詩仏西遊詩草に云う」

と書いて、詩仏の詩を引用しています。

『美濃国今尾村足立氏の宅にて菰米(こべい)を食べる。

菰米が書物に著されるのは屈原より以下、唐宋の詩人に及びその美味をいう者が多い。 わが邦においてはまだこれを賞する者のあるのを聞かない。 わたしがこれをたべるのは今日が初めてであるので、因って一首の絶句を作りそのことを記す。

淡於蕎麦香於稷蕎麦よりは淡く稷よりは香し味は蕎麦よりは淡白で、香りは稷よりも香ばしい。

真味初知在水郷真味初めて水郷に在るを知る本当に味わって初めて水郷にあることを実感する。

非向君家留竹枝君が家に向いて竹枝を留るに非ればもし君の家に竹枝を留めなかったならば、

一生不信有菰粱一生菰粱有るを信じず わたしは一生菰粱のことを信じなかったであろう。

(菰米一名菰粱)』

(北須賀村は印旛沼の近く、現在の成田市北須賀。 詩仏は大窪詩仏という江戸末期の医者で、諸国を回った漢詩人)

江戸時代には利根川下流の水郷地域でも真菰の実を食べることはあっても珍しい事だったのでしょうね。

明治5年刊の「殖産略説」は美濃国有尾村の菰米飯炊方、菰米団子製法を記しています。

江戸時代の税の一つに”池役”と言って、水草や真菰などを採取して生活に利用できる池に対して課した役米があったそうです。

菰米を食べる習慣は江戸時代の末にはあったが、すでに常食ではなくなり、葉の利用だけに関心が残り今に伝わっていると言う事でしょうか。

 

中国:古代の食用穀物の一つ

 中国でも古くは重要な食料であってマコモの種実を指す字はいろいろあります。例えば菰米、菰粱、雕胡米、蒋、雁膳です。六穀の一つとして常用穀物の扱いでした。 紀元前の漢の時代から魏晋の頃には食料として書物に記録があります。唐の時代の詩にも出ていますが、その後は食料としての重要性は減り、13世紀の宋の時代以降は飢饉の時に食べる程度になり、常用穀物としての価値はなくなりました。代わりに野菜としてマコモタケを採るために栽培するようになったというわけです。薬としてのマコモは古くから今に至るまで使われています。

[やぶちゃん注:中略。]

 

マコモタケは黒穂病菌が作る

 クロボビョウキンと言う菌に感染したマコモは穂を作らないので、種子を作りません。花芽は水面から出たところで膨らんで柔らかい肉質の茎になって筍のような奇形になります。これがマコモタケです。クロボ病菌はキノコやカビのような菌類の一つです。この菌に取り付かれた植物は穂が変形して黒くなるので黒穂病というわけです。 マコモに取り付いてマコモタケを作るクロボ病菌は(Ustilago esculenta P. Henn)です。

トウモロコシにクロボ病菌(Ustilago maydis )がつくと子実がこぶ状に膨れて黒くなり雌穂から飛び出していわゆる「おばけ」になります。

麦や他の植物にもそれぞれ固有のクロボ病菌があります。

 

マコモタケは野菜

 クロボ菌が寄生したマコモの芽が育って柔らかく太く膨らんだところを竹の子と見立てると真菰筍、きのこと見れば真菰茸です。どちらの見立てでもマコモタケと言い野菜として食べます。

適期に収穫した物は肉質の膨らんだところは白くてみずみずしいですが、収穫期が過ぎると黒い胞子が作られて斑点となり水分は少なくなり食用には向かなくなります。新鮮なマコモタケは軟らかでくせが無く、生のトウモロコシのような甘い微かな香りとほのかな甘味があり新鮮なタケノコのような感じです。KBはヤシの芽の柔らかいのを連想しました。乾燥するとスカスカになります。

 日本に自生するマコモはクロボ菌に感染しても、茎が肥大しないのでマコモタケは小さく、黒色の胞子を早く作るので、食用には向きません。そんなわけでしょうか、10世紀の日本の薬草や植物の事を書いた本には、菰の実と菰角(こもづの)の記載がありますが、菰の新芽を食べるとかマコモタケを食べる事にはふれていないです。 江戸時代の本「利根川図志」には菰米を食べることは書いてありますが、 マコモタケは載っていません。

 昭和9年の秋田県の農業書では台湾、中国のものだが、日本でも湿田で栽培できるとしています。昔はマコモの芽やマコモタケは食べなかったか、食べたとしても小規模でローカルなものだったと、KBは考えています。

マコモタケは1980年代になって注目されていますが、現在日本で栽培されている食用のマコモタケを作るマコモは台湾か中国からもたらされたものです。 それらをもとに農業試験場で研究されて千葉早生、一点紅、白皮、石川など色々な系統が選定されています。  

 中国ではマコモタケは菰菜、高笋、菰筍、茭筍、茭白、菰手、茭蔬と書きます。紀元前2-3世紀の辞典には書かれています。3-4世紀にはマコモタケを菰の茎に生ずるキノコとして説明されています。 唐、宋の時代には野菜として栽培していますが、多く生産されたわけではありません。 中国の古い本草学の本ではマコモの新芽を菰菜と茭白として春の野菜とし、大きくなった芽(マコモタケ)を菰首として秋のマコモの産物に区別しているものがありますが、今は両者ともマコモタケの意味で使われています。

 栽培が盛んになったのは華南地方で1950年代になってからです。中国の最大産地は上海の青浦区で、1987年には10万トンほど生産されています。代表的な栽培品種としては夏、秋に収穫する青練茭、5から6月に収穫する小発梢があります。 台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各地で栽培されていますが、インドシナ半島やマレイシアへは中国人が伝えたと見られています。

 

トウモロコシのおばけ

 メキシコにはトウモロコシがクロボ菌に感染して肥大した所いわゆる"おばけ "の料理があります。トウモロコシ黒穂病菌に感染したトウモロコシの実をウイトラコチェ(HuitlacocheCuitlacoche)と呼んで食用としています。英語ではトウモロコシのキノコ(corn mushrooms)というわけです。味は「メキシコのトリュフ」と称賛されているそうです。

 

真菰墨

 マコモタケが食用適期を過ぎて成熟して黒い胞子を作ったものから真菰墨(マコモズミ)作ります。この真菰墨はマコモタケの黒くなったところを集めて乾燥させてから粉砕してふるい分けして胞子だけを集めたもので黒色から茶褐色の細かい粉です。昔は真菰墨を顔料として眉墨などに用いられていました。

「和漢三才図会」には眉墨に好適だとあり、真菰の茎根を焼いて作った灰を油と練ってデキモノの痕や禿に塗ると毛が生えてくるとの怪しそうな記述もあります。

 黒色顔料として真菰墨を漆塗りに使うことは江戸中期と末期に始まったもので、高岡漆器の皆朱塗(かいしゅぬり)、鎌倉彫では古色付け、香川漆器の象谷塗りの乾口塗り(ひくちぬり)という技法で使われています。

現在も、僅かですが漆工芸用の真菰墨を作るめにマコモが栽培されています。

 真菰墨を使う鎌倉彫作品作りに集中した彫刻家が、真菰墨の埃(真菰のクロボ病菌の胞子)に何年間も続けて毎日長時間接したことで、咳が続き、体調を崩し真菰墨によるアレルギー肺炎と診断され、治療後真菰墨を棄て、 自宅兼作業場を徹底的に掃除をして真菰墨に接しないをようにしたら発症しなくなったと言う医学報告があります,日呼吸会誌 454,2007

 真菰墨はお歯黒にも使われたとインターネットには出てきますが、真菰墨を歯にどうやって定着していたのかわかりません。鎌倉時代には鉄の化合物(酢酸第一鉄)と五倍子粉(タンニン酸)の反応で歯を染めていますから、真菰墨の出番はいつだったのか本当にあったのかどうかKBは疑問視しています。

 

古代より生活に密着している葉の利用

 マコモは、かつみ、はながつみ、ふししば、こもがや、こもぐさ、かつぼ、ちまきぐさ、とかいろいろの名前で呼ばれて漢字は真菰、菰、薦が対応します。 葉を編んだ敷物は莚(むしろ)、薦(こも、敷物とマコモの両方の意味があります)、雨具として蓑、帽子として笠、菰枕(こもまくら)、菰靴(こもぐつ)、食べ物を包むのにも使われています。

今でも神社の飾りやお祭りでマコモが使われます。KBの住んでいる地方では昔は、お盆のとき仏壇の前に敷く盆茣蓙は真菰で作り、真菰の縄に赤いホオズキをぶら下げました。今はホームセンターから買って来ます。ナスやキュウリで牛と馬を作るように、マコモを編んで作った精霊馬を供える所があります。

最近はコンバインで稲刈りをするため長い稲わらが手に入らず、稲わら代わりに真菰の葉を使うこともある様です。

 

詩歌に詠まれたマコモ

詩歌に読まれたマコモはたくさんあります。

古いところでは、「古事記」の允恭天皇の所で妹の衣通姫を恋して寝てしまった軽太子の歌に刈薦が出ています。

笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

笹の葉にあられが音を立てる。そのようにしっかりと共に寝た上は よしや君は別れても。いとしの妻と寝たならば、刈り取った薦草のように、乱れるなら乱れれてもよい。 寝てからはどうともなれ。 --武田祐吉 訳註 角川文庫

万葉集にもいくつか詠われています。

苅薦(かりこも)の 一重を敷きて さぬ(寝ぬ)れども 君としぬ(寝)れば 冷(さむ)けくもなし

読人知らず 万葉集・巻112520

平安時代には 

真菰刈る淀の澤水雨ふればつねよりことにまさるわが恋   紀貫之、古今和歌集 12巻、587

江戸時代

水深く利(とき)鎌鳴らす真菰刈 (蕪村,1716-1783

明治からは夏の季語で多くの句がありますので、行事に関係した句も選んでみました。

真菰負ふて真菰を出でぬ真菰刈  正岡⼦規

真菰笠潮来と書けば匂ひけり   後藤⽐奈夫、花匂ひ、1982

この真菰神の蓆を編むとかや   室賀杜桂

刈りに来し沼の真菰も盆のもの  ⽯井とし夫

ふんばれる真菰の⾺の肢よわし  ⼭⼝⻘邨

   《引用終了》

ただ、引用しただけでは失礼なので、まず、先ほど、急遽、「和漢三才圖會」巻第九十七「水草類」より「菰(まこも/はなかつみ)」の原文と訓読文をブログ・カテゴリ「和漢三才図会抄」で電子化しておいた。次に、私も若い頃から好きな(と言いつつ、このような記載があることを失念していた)赤松宗旦の「利根川圖志」を所持する一九三八年刊岩波文庫を底本に電子化する。「卷五」の「根山神社」の条である。

   *

根山神社 北須賀村門河(かどかは)といふ所にあり。牛頭天王を祭る。此所鳥獵第一の場と云ふ。ヤツギリ網にて捕る。(ヤツギリは谷を張切と云義なり)。此邊沼に眞菰多し。水鳥はマコモの實を好みて𩛰(あさ)る者也。マコモの實は麥の如き物にして、人も是を食す。詩佛西遊詩草云、美濃國今尾村 足立氏宅食菰米。菰米之著於書、自屈原以下、及唐宋之詩人、言其美者多矣。我邦未ㇾ聞ㇾ有賞ㇾ之者食ㇾ之、以今日爲ㇾ初。因賦一絕而記其事。淡於蕎麥於稷、眞味初知在水鄕、非君家竹枝、一生不ㇾ信ㇾ有菰粱(菰米一名菰粱)

   *

この神社は現存し、現在の千葉県成田市北須賀のここにある(グーグル・マップ・データ航空写真)。印旛沼の縊れた東岸で、いかにもマコモが生えていておかしくない場所である。見ると、すぐ近くに「北須賀直売所 まこも」というのがある。ここでは、実際にマコモを売っているらしい。残念ながら現物商品の写真はないものの、サイド・パネルのこちらで店内にあるマコモの解説板が読める。行ってみたい! 「詩佛」は大窪詩仏(明和四(一七六七)年~天保八(一八三七)年)で漢詩人にして書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現現在の茨城県久慈郡大子町)生まれで、大田南畝・谷文晁・頼山陽など超弩級の文人連中と交友があった。「西遊詩草」は文政二(一八一九)年の詩集である。さても。漢文部を書き下して、整序して改めて全文を示してみる。

   *

根山神社 北須賀村門河(かどかは)といふ所にあり。牛頭天王(ごづてんのう)を祭る。此の所、「鳥獵(とりれう)、第一の場。」と云ふ。「ヤツギリ網」にて捕る。(「ヤツギリ」は「谷を張り切る」と云ふ義なり。)。此邊、沼に、眞菰、多し。水鳥はマコモの實を好みて𩛰(あさ)る者なり。マコモの實は麥(むぎ)のごとき物にして、人も、是れを食す。詩佛(しぶつ)が「西遊詩草」に云はく、【美濃國今尾村。】

 足立氏宅に、菰米(こべい)を食す。菰米、之れ、書に著(しる)せるは、屈原より以下、唐・宋の詩人に及び、其の美(うま)きを言ふ者、多し。我が邦にては、未だ之れを賞する者有るを聞かず。予、之れを食すこと、今日を以つて、初めと爲す。因りて、一絕を賦して其の事を記す。

 蕎麥(そば)よりも淡く 稷(きび)よりも香んばし

 眞(まこと)の味 初めて知んぬ 水鄕に在るを

 君が家に向ひて竹枝(ちくし)を留むるに非ざれば

 一生 菰梁(こりやう)有るを信ぜざるなり

【「菰米」、一名「菰粱」。】

   *

「竹枝」は竹の杖。但し、竹枝詞も嗅がせるか。「竹枝詞」は中国で男女の交感を詠んだ民謡のことを指し、この七絶を謙遜して「俗謡」としたものかも知れない。「西遊詩草」の原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右頁四行目から)で視認出来る。なお、ここまで苦労して書いたが、最後の最後になって、澁澤尚氏の論文『「菰」の本草学―陸游詩所詠菰草考序説―』(PDF・『福島大学研究年報』創刊号・二〇〇五年十二月発行)という恐るべき労作があることが判った。そこでは最終的には(「三 植物学上の菰」を参照)やはり、本邦のマコモと中国の本草学上の「菰米」を実らす「菰」を別種とはしない立場を採っておられる(但し、澁澤氏は『実際に結実しない菰が存在したことは確かなようで、『採薬便記』申奥州(『古事類苑』植物部巻十四引)に「紀州熊野本宮ニモ菰米アリ、地所ノ菰ニ米穂ヲ生ルコトナシ」などとある。現代においてもこれらの事実を重視し、またしばしば結実しない菰が観察される報告があることから、菰に二種ありとして別個に学名つける研究者もある』と述べておられる。もっと早く、この論文に気づいていればよかった。「本草綱目」の訓読と考証には、結構、時間がかかったからである)。まあ、一件落着だ。――やはり、別な種があったのではなかったのです、益軒先生!――

『鄭樵が「通志」』南宋の歴史家鄭樵(ていしょう 一一〇四年~一一六二年)が撰し、没する前年の一一六一年に本となった歴史書「通志」。先行する分断された王朝ごとの書法を批判し、通史である「史記」を規範として、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録したもの。

『東垣が「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)の「食物本草」。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。

「糟〔(かすづ)けにして〕」読みようがないので、かくした。

「茭蔁(カチヤン)」これは中文サイトで調べるに、少なくとも現代中国語では、マコモではなく、単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科テンツキ属 Fimbristylis のテンツキ類である。その中でも比較的、海岸に植生し易い種を指すと思われる(。水で田圃でも別にいいのだが、「西南洋の商舶、是れを編んで」云々とあるので、その限定を入れた。同属の当該ウィキによれば、『海岸に生えるものもあ』り、『ビロードテンツキ』Fimbristylis sericea 『は、砂浜に生える種で、全体に毛が密生する。イソヤマテンツキ』Fimbristylis sieboldii『は、海岸の岩場や草地に生え、岩場では背が低く、密な固まりになるが、草地では真っすぐに立ち』、五十センチメートル『ほどになる。この種は、沖縄では干潟に生えて、葉身がなくなり、フトイ』(カヤツリグサ科フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani )『かなにかのような群落を形成する。これをシマテンツキ』Fimbristylis sieboldii subsp. Anpinensis 『という。シオカゼテンツキ』Fimbristylis cymosa 『は多数の細い葉をロゼット状につける』とある。しかし、孰れにせよ。「葉、長き事、二、三間」というのはとんでもない長さで、さればこそ「船の面〔(おもて)〕をふせぎ、又、船の帆とす」ることも可能ではあろうが、そんな長いテンツキ属が以下の地に分布するかどうか、そこまで私は調べきれない。悪しからず。

「交趾〔(コーチ)の〕東京〔(トンキン)〕」現在のヴェトナムのトンキン。ベトナム北部を指す呼称で、狭義にはこの地域の中心都市であるハノイの旧称。

「蜀黍〔(シヨクシヨ/もろこし)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor 。コーリャン(中国語:高粱)の方が通りがよい。

「安達子〔アンタツシ〕」不詳。

「柿のさねの形に似て、大拇指〔(おやゆび)〕の大いさほど、あり」ワイルド・ライスでもこんなにデカくないぜ? 「根を鹽淹(〔しほ〕づけ)にす」るというのはまだしも、これは何か、全然、別の植物だと思うがねぇ。

「典籍便覽」明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

「蘓頌〔(そしよう)〕」(一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。一〇四二年に進士に登第した。北宋で最高の機械学者であったとされ、第七代皇帝哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年にそれが竣工すると、彼は丞相に任ぜられている。一〇九七年、退官。

「顯註密勘」鎌倉前期に書かれた「古今和歌集」の歌四百余首の注釈書。全三巻。別名「古今秘註抄」など。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存する顕昭の「古今集註」とは別なもの)に、承久三(一二二一)年に、藤原定家が自説を「密勘」(内密の考え)として書き加えたもの。定家は顕昭の注説には概ね、肯定的だが、両者の学風が対照的に異なる例もみえる。後世、広く流布し、江戸時代に刊行もされた。

「初學記」唐代、玄宗の勅命によって徐堅らが編した辞書の一種。典拠となる古今の詩文を事項別に分類配列した、本来は作詩文の参考として編まれたもの(「初学」という名もそれに由る)。その「角黍」の条は、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本で見られる(大罫の五行目の割注部が引用元)。

『海草にも「こも」あり』私の「大和本草卷之八 草之四 コモ (考証の末に「アカモク」に同定)」を参照されたい。

「本草衍義」宋代の本草学者冦宗奭(こうそうせき)の書いた本草書の名著の一つ。一一一九年頃成立。時珍は「本草綱目」でしばしば引く。]

「和漢三才圖會」巻第九十七「水草類」より「菰(まこも/はなかつみ)」

 

Makomo

 

まこも     茭草 蔣草

【音「孤」】 【和名「古毛」】

 はなかつみ  又云波奈加豆美

フウ

本綱菰生江湖陂澤水中葉如蒲葦輩刈以飼馬作薦春

末生白茅如筍謂之菰菜【又名茭白】生熟皆可啖甜美其中心

如小兒臂者謂菰手【又名蓮蔬】作菰首者非也其小者擘之

内有黒灰如墨者謂之鳥鬱人又食之其根又如蘆根而

[やぶちゃん注:「鳥」はママ。「烏」の誤字。訓読では訂した。]

相結而生久則并生浮於水上謂之菰葑刈去其葉便可

耕蒔又名葑田八月抽莖開花如葦結青子長寸許霜後

采之皮黑褐色其中子甚白滑膩是乃彫胡米也歲飢人

以當粮爲餅【甘冷】香脆【又出于殼類下】菰之種類皆極冷不可過

食之

 古今まこも苅淀の沢水雨ふれは常より殊に增さる我か戀貫之

 千載五月雨に淺かの沼の花かつみかつみるまに隱れ行哉顯仲

△按菰葉織薦卽稱古毛今多用稻藁織單薦又名古毛

 本出於菰薦也又用葉裹綜

烏鬱 用爲婦人黛甚良無之時用莖根燒灰亦佳又和

 油塗軟癤痕禿者能生毛髮

○やぶちゃんの書き下し文

まこも     茭草〔(かうさう)〕 蔣草〔(しやうさう)〕

【音「孤」。】 【和名「古毛〔(こmお)〕」。】

 はなかつみ  又、云ふ、「波奈加豆美」。

フウ

「本綱」に、『菰、江湖・陂澤〔(はたく)〕[やぶちゃん注:池沼の岸。]の水中に生ず。葉、蒲(がま)・葦(あし)の輩〔(うから)〕のごとし。刈りて、以つて、馬の飼〔(かひば)〕とし、〔また、〕薦(こもむしろ)に作〔(な)〕す。春の末に白〔き〕茅〔(ちがや)〕を生ず。筍〔(たけのこ)〕のごとし。之れを「菰菜〔(こさい)〕」と謂ふ。【又、「茭白〔(かうはく)〕」と名づく。】生〔(なま)にても〕熟〔しても〕、皆、啖〔(く)〕ふべし。甜〔(あま)〕く美なり。其の中心、小兒の臂〔(ひぢ)〕のごとくなる者、「菰手(こものて)」と謂ふ【又、「蘧蔬〔(きよそ)〕」と名づく。】「菰首」に作るは、非なり。其の小さき者、之れを擘(さ)けば、内に黒き灰〔の〕墨のごとき者、有り。之れを「烏鬱〔(ううつ)〕」と謂ふ。人、又、之れを食ふ。其の根、又、蘆(よし)の根のごとくにして、相ひ結びて生ず。久しきときは、則ち、并〔(あは)せ〕生じて、水上に浮かぶ。之れを「菰葑〔(こほう)〕」と謂ふ。其の葉を刈り去りて、便〔(すなは)ち〕、耕〔(たがや)し〕蒔くべし。又、「葑田〔(ほうでん)〕」と名づく。八月、莖を抽〔(ぬきんで)〕て、花を開くこと、葦のごとく、青〔き〕子〔(み)〕を結ぶ。長さ寸許り。霜の後、之れを采る。皮、黑褐色、其の中の子、甚だ白く、滑〔らかにして〕膩〔(つやや)か〕なり。是れ、乃(すなは)ち、「彫胡米〔(てうこべい)〕」なり。歲〔(とし)の〕飢うるときは、人、以つて粮に當つ。餅と爲〔せば〕【甘、冷。】香〔(かんば)し〕く、脆(もろ)し【又、「殼類」の下に出づ。】。菰の種類、皆、極冷なり。之れを食ふ〔こと〕過ぐるべからず。』〔と〕。

 「古今」まこも苅る淀の沢水雨ふれば

      常より殊に增さる我が戀貫之

 「千載」五月雨に淺かの沼の花かつみ

      かつみるまゝに隱れ行哉顯仲

△按ずるに、菰〔の〕葉、薦(むしろ)に織り、卽ち、「古毛〔(こも)〕」と稱す。今、多く、稻藁を用いて、單薦〔(ひとへのむしろ)〕を織るも、又、「古毛」と名づく。本(もと)、「菰薦」より出づればなり。又、葉を用いて、綜〔(ちまき)〕を裹〔(つつ)〕む。

烏鬱(こものすみ) 用いて、婦人の黛(まゆずみ)と爲す。甚だ良し。之れ、無き時は、莖・根を用いて灰に燒きても、亦、佳し。又、油を和し、軟--痕(はすねのあと)・禿(は)げたるに塗れば、能く、毛髮を生(はや)す。

[やぶちゃん注:挿絵は今まで通り、平凡社「東洋文庫」版のそれをトリミングして用いた。本篇は現在、「大和本草」で電子化注している「菰」の参考に附すために、急遽、電子化した。そちらで細かく注を施してあるので、こちらは和歌だけをあさあさと注することとする。そちらの注は期待を裏切らないだけの自信がある。

「まこも苅る淀の沢水雨ふれば常より殊に增さる我が戀」「古今和歌集」巻第十二「戀歌二」の紀貫之の一首(五八七番)、

 まこも苅る淀の澤水(さはみづ)雨ふれば

    常より殊(こと)に增(ま)さる我が戀

「まこも」の「ま」は美称の接頭語。「澤水」はここでは氾濫原の湿地のことで、その荒蕪地を、顧みられぬ自身に比喩したものであろう。

「五月雨に淺かの沼の花かつみかつみるまゝに隱れ行哉」「千載和歌集」巻第三「夏歌」の藤原顕仲の一首(一八〇番)だが、沼の名がおかしい。

   中院入道左大臣、中將に侍りける時、

   歌合(うたあはせ)し侍りけるに、

   五月雨(さみだれ)の歌とてよめる

 五月雨に淺澤沼(あさざはぬま)の花かつみ

    かつみるまゝに隱れ行くかな

である。「中院入道左大臣」は藤原(源)雅定。太政大臣源雅実の次男。彼が中将に補任されたのは、永久三(一一一五)年(右中将)で、保安三(一一二二)年に権中納言に昇格している。「淺澤沼」摂津の歌枕である住吉の浅沢沼。住吉大社の近くにあった沼。現在の同大社の摂社浅澤社附近(グーグル・マップ・データ)。なお、この「花かつみ」はマコモ説以外に花菖蒲とする説もあり、女の面影をそこに比喩するなら、花菖蒲の方が分がいい。]

2021/05/19

芥川龍之介書簡抄63 / 大正五(一九一六)年書簡より(十) 夏目漱石宛二通(注で第一通目の漱石の返事と、第二通目と行き違いになった漱石の「芋粥」の感想を書いた芥川龍之介個人宛書簡を添えた)

 

大正五(一九一六)年八月二十八日・千葉県一の宮発信・夏目金之助宛(転載)

 

先生

また、手紙を書きます。嘸、この頃の暑さに、我々の長い手紙をお讀になるのは、御迷惑だらうと思ひますが、これも我々のやうな門下生を持つた因果と御あきらめ下さい、その代り、御返事の御心配には及びません。先生へ手紙を書くと云ふ事がそれ自身、我々の滿足なのですから。

今日は、我々のボヘミアンライフを、少し御紹介致します。今居る所は、この家で別莊と將する十疊と六疊と二間つゞきのかけはなれた一棟ですが、女中はじめ我々以外の人間は、飯の時と夜、床をとる時との外はやつて來ません。これが先、我々の生活を自由ならしめる第一の條件です。我々は、この別莊の天地に、ねまきも、おきまきも一つで、ごろごろしてゐます。來る時に二人とも時計を忘れたので、何時に起きて何時に寢るのだか、我々にはさつぱりわかりません。何しろ太陽の高さで、略見常をつけるんですから、非常に「帳裡日月長」と云ふ氣がします。それから、甚、尾籠ですが、我々は滅多に後架へはいりません。大抵は前の庭のやうな所へ、してしまふのです。砂地で、すぐしみこんでしまひますから、宿の者に發見される惧などは、萬萬ありません。第一、非常に手輕で、しかも爽快です。さう云ふ始末ですから、部屋の中は、原稿用紙や本や繪の具や枕やはがきで、我ながらだらしがないと思ふ程、雜然紛然としてゐます。私は本來久米などより餘程きれいずきなのですが、この頃はすつかり惡風に感染してしまひました。夜はそのざふもつを、隅の方へつみかさねて、女中に床をとつてもらひます。ふとんやかいまきは、可成淸潔ですが、蚊帳は穴があるやうです。やうですと云ふのは、何時でも中に蚊がはいつてゐるからで、實際穴があるかどうか、面倒くさいから、しらべて見た事はありません。その代り、獅嚙火鉢[やぶちゃん注:「しかみ・しがみひばち」。後注参照。]を一つ、蚊帳の中へ入れて、その中で盛に、蚊やり線香をいぶしました。久米の說によると、いぶしすぎた晚は、あくる日、頭が痛いさうです。ではよさうかと訊きますと、蚊に食はれるよりは、頭痛のする方がまだいゝと云ひます。そこで、やはり每晚、十本位づゝ燃やす事にきめました。頭痛はしないまでも、いぶしすぎると、翌日、鼻の穴が少しいぶり臭いやうです、線香さへなくなれば、もういゝ加減にやめてもいいのですが、こてこて買つて來たので、中々なくなりさうもありません、この頃は、それが少し苦になり出しました。

海へは、雨さへふつてゐなければ、何事を措いてもはひります。こゝは波の靜な時でも、外よりは餘程大きなのがきますから、少し風がふくと、文字通りに、波濤洶湧[やぶちゃん注:「はたうきようゆう・よう(はとうきょうゆう・よう)」。波が立ち騒ぐこと。]します。一昨日、我々がはいつてゐた時でした。私が少し泳いで、それから脊の立つ所へ來て見ると、どうしたのだかゐる筈の久米の姿が見えません、多分先へ上つたのだらうと思つて、砂濱の方へ來て見ますと、果してそこにねころんでゐました。が、いやな顏色をして、兩手で面をおさへながら、うんうん云つてゐるのです、久米は心臟の惡い男ですから、どうかしたのかと思つて、心配しながら訊いて見ますと、實は、無理に遠くまで泳いで行つた爲にくたびれて歸れなくなつた所へ、何度も頭から波をかぶつたので、大へん苦しんだのださうです、さうして、あまり鹹い水をのんだので、もうこれは駄目かなと思つたのださうです。では又、何故そんなに遠くへ行つたのだと云ひますと、女でさへ泳いでゐるのに、男が泳げなくちや外聞がわるいと思つて、奮發したのだと云ふ事でした。つまらない見えをしたものです。事によると、この女なるものが、尋常一樣の女ではなくつて、久米のほれてゐる女だつたかもしれません。女と云へば、きれいな女は一人もゐませんが、黑の海水着に、赤や綠の頭巾をかぶつた女の子が、水につかつてゐるのはきれいです。彼等は、全身が歡喜のやうに、躍つたり、跳ねたりしてゐます。さうして、蟹が一つ這つてゐても、面白さうにころがつて笑ひます、濱菊のさいてゐる砂丘と海とを背景にして、彼等の一人を、ワツトマンヘ畫かうと云ふ計畫があるんですが、まだ着手しません。畫は、新思潮牡同人中で、久米が一番早くはじめました。何でも大下藤次郞氏か三宅克己氏の弟子か何かになつたのかも知れません、とにかく、セザンヌの孫弟子位には、かけるさうです。同人の中には、まだ松岡も畫をかきます、しかし、彼の畫は、倒[やぶちゃん注:「さかさ」。]にして見ても橫にして見ても、差支へないと云ふ特色がある位ですから、まあ私と五十步百步でせう。それでら二人とも、ピカソ位には行つてゐると云ふ自信があります。

いよいよ九月の一日が近づくので、あんまりいゝ氣はしません。先生にあやまつて頂くよりは、御禮を云ふやうになる事を祈つてゐます。

今日、チエホフの新しく英譯された短篇をよんだのですが、あれは容易に輕蔑出來ません。あの位になるのも、一生の仕事なんでせう。ソログウブを私が大に輕蔑したやうに、久米は書きましたが、そんなに輕蔑はしてゐません。ずゐぶん頭の下るやうなパツセエヂも、たくさんあります、唯、ウエルスの短篇だけは、輕蔑しました。あんな俗小說家が聲名があるのなら、英國の文壇よりも、日本の文壇の方が進步してゐさうな氣がします。

我々は海岸で、運動をして、盛に飯を食つてゐるんですから、健康の心配は入りませんが、先生は、東京で暑いのに、小說をかいてお出でになるんですから、さうはゆきません、どうかお體を御大事になすつて下さい。修善寺の御病氣以來、實際、我々は、先生がねてお出でになると云ふと、ひやひやします。先生は少くとも我々ライズィングジェネレエションの爲めに、何時も御丈夫でなければいけません、これでやめます。

    八月二十八日     芥川龍之介

   夏目金之肋樣 梧下

 

[やぶちゃん注:個人的に思うのだが、これは芥川龍之介の旧全集中の唯一の漱石宛書簡なのであるが、芥川龍之介が書簡で句読点を規則的に打つというのは、全く以って特異点で、これらは転載元の編者の添えたものである可能性が頗る高いことを申し添えておく。

「ボヘミアンライフ」Bohemian life。「自由奔放な生活」。

「帳裡日月長」「帳裡(ちやうり) 日月 長し」。

「獅嚙火鉢」「獅噛み」(獅子の頭部を造形化したもの。古くは兜を装飾した)を足や把手に取り付けた金属製の丸火鉢。小学館「日本国語大辞典」のこちらの画像を参照。

「濱菊」海岸に生える白い花のキク目キク科キク亜科キク属ノジギク Dendranthema occidentali-japonense 、或いは、亜種コハマギク Dendranthema arcticum subsp. maekawanum などか。

「ワツトマン」ワットマン紙(Whatman paper)。イギリスのジェームス・ワットマン(James Whatman)が作った厚い手漉きの高級図画用紙。麻や木綿の襤褸(ぼろ)を原料とした吸水性の良い紙で、特に水彩画用に適する。そのため、ワットマン紙は水彩画用紙の代名詞にもなっている。ワットマンが一七四五年に設立した「ワットマン社」は、イギリスのケント地方を代表する製紙メーカーとなっており、各種の紙を製造しているが、日本では濾紙やペーパー・クロマトグラフィー用紙の製造元として知られる。一時中断していた画用紙製造も一九六〇年代には再開されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「大下藤次郞」(明治三(一八七〇)年~明治四四(一九一九)年)は東京生まれの洋画家(水彩画家)。中丸精十郞や原田直次郞に師事し、原田を介して森鷗外の知遇を得た。水彩画を能くして、以下の三宅克己と親交を結んだ。「太平洋画会」の創立会員。明治三八(一九〇五)年に「春鳥会」を興し、知られた美術雑誌『みづゑ』を創刊、翌年には「日本水彩画会」を創設し、水彩画の大衆化に大きな影響を与えた。鷗外の執筆になる年譜がある。

「三宅克己」(みやけこっき 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は徳島市生まれの洋画家。六歳の頃に東京に転居。曾山幸彦・原田直次郎に洋画を学ぶ。明治二四(一八九一)年に来日したイギリス人水彩画家ジョン・ヴァーレー・ジュニア(John Varley Jr.  一八五〇年~一九三三年:父も著名な水彩画家で占い師。父はウィリアム・ブレイクの親友としてもよく知られる)の作品に接し、水彩画を志した。明治三〇(一八九七)年に渡米し、イェール大学付属美術学校で学ぶ。一八九八年にイギリスに渡り、明治三一(一八九九)年に帰国し、同年の第四回白馬会展に出品して同会会員となった。明治四五・大正元(一九一二)年に中沢弘光・山本森之助・杉浦非水・小林鐘吉・跡見泰・岡野栄とともに「光風会」を設立した。昭和初期には写真に関する著述を多数残している。島崎藤村とは明治学院の二年後輩で、藤村が英語・国語教師をしていた小諸義塾で藤村の赴任と相前後して美術講師と赴任している(以上は当該ウィキに拠った)。

「いよいよ九月の一日が近づくので、あんまりいゝ氣はしません。先生にあやまつて頂くよりは、御禮を云ふやうになる事を祈つてゐます」九月一日は「芋粥」を掲載した第四次『新思潮』第八号の発行日。

「ソログウブ」フョードル・ソログープ(Фёдор Сологуб/ラテン文字転写:Theodor Sologub 一八六三年~一九二七年)はロシア象徴主義の作家。私は彼の幻想小説が好きである。

「パツセエヂ」passage。一句。一節。

「ウエルス」「SFの父」と称されるイギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)。

「修善寺の御病氣」所謂、「修善寺の大患」。明治四三(一九一〇)年六月に前期三部作の「三四郎」・「それから」に続く「門」の執筆中に胃潰瘍で入院し、同年八月六日、療養のため、門下の俳人松根東洋城の勧めで、伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館に転地療養した。しかしそこで症状が悪化し、八月二十四日、大吐血を起こし、三十分間、生死の境を彷徨う人事不省の危篤状態に陥った。同年十月十一日、容態が落ち着いたので、帰京し、再入院している。但し、芥川龍之介が漱石に逢ったのは、この書簡の僅か九ヶ月ほど前の大正四(一九一五)年十一月十八日であり、「修善寺の御病氣以來、實際、我々は、先生がねてお出でになると云ふと、ひやひやします」という謂い方には若干の粉飾がある。

「ライズィングジェネレエション」rising generation。青年世代。次代を担う若い世代。

 以下、この書簡対する漱石の返事を岩波の旧「漱石全集」より電子化する。

   *

大正五(一九一六)年九月一日(金曜日)・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介・久米正雄(連名)宛

 

 今日は木曜です。いつもなら君等が晚に來る所だけれども近頃は遠くにゐるから會ふ事も出來ない。今朝の原稿は珍らしく九時頃濟んだので、今閑である。そこで昨日新思潮を讀んだ感想でも二人の所へ書いて上げようかと思つて筆を取り出しました。是は口で云ヘ

ないから紙の上で御目にかけるのです。

 今度の號のは松岡君のも菊池君のも面白い。さうして書き方だか樣子だか何方にも似通つた所がある。或は其價値が同程度にあるので、しか思はせるのかも知れない。兎に角纏つた小品ですそれから可い思付を見付けてそれを物にしたものであります。

 思ひ付といふと、芥川君のにも久米君のにも前二氏と同樣のポイントがあります。さうして前の二君のが「眞」であるのに對して君方のが兩方共一程の倫理觀であるのも面白い。さうして其倫理觀は何方もいゝ心持のするものです。

 是から其不滿の方を述べます。芥川君の方では、石炭庫へ入る所(ところ)を後から抱きとめる時の光景が物足りない。それを解剖的な筆致で補つてあるが、その解剖的な說明が、僕にはひしひしと逼らない。無理とも下手とも思はないが、現實感が書いてある通りの所まで伴つて行かれない。然しあすこが第一大切な所である事は作者に解つてゐるから、あゝ骨を折つてあるに違ないとすると、(讀者が君の思ふ所迄引張られて行けないといふ點に於て)、君は多少無理な努力を必要上遣つた、若くは前後の關係上遣らせられた事になりはしませんか。僕は君の意見を聽くのです、何うですか。それから最後の「落ち」又は落所はあゝで面白い又新らしい、さうして一篇に響くには違ないが、如何せん、照應する雙方の側が、文句として又は意味として貧弱過ぎる。と云ふのは expressive であり乍ら力が足りないといふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)强調されてゐない、ピンと頭へ來(こ)ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。

 此所(こゝ)迄書いた所へ丁度かの○○○○先生が來(き)ました。(先生はしきりに僕の作物の惡口を大つぴらに云ふので恐縮します。然し僕はあの人を一向信用しません。だから啓發する譯にも行かず、又啓發を受ける譯にも行かないのです。先生は何だか原稿の周旋を賴むために僕の宅へ出入りをする人のやうに思はれてならないのです)。その後へ例の豪傑瀧田樗陰君がやつて來て、大きな皿をくれました。あの人は能く物を吳れるので時々又吳れるのかと疳違して、彼の小脇に抱へ込んでゐる包に眼を着ける事があります。其代り能く僕に字を書かせます。僕はあの人を「ボロツカイ」又は「あくもの食(ぐ)ひ」と稱してゐます。此あくもの食ひは大きな玉版箋をひろげて屛風にするから大字を書けと注文するのです。僕は手習をする積だから何枚でも書きます。其代り近頃は利巧になつたから、書いた奴をあとからどんどん消しにします。あくもの食ひは此力で放つて置くと何でも持つてちまひます。晚には豐隆、臼川、岡田、エリセフ、諸君のお相手を致しました。エリセフ君はペテルブルグ大學で僕の「門」を敎へてゐるのだから、是には本式の恐縮を表します。其上僕の略傳を知らせろといふのです。何でも「門」を敎へる前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etc といふ樣な講義をしたといふのだから驚天します。みんなの歸つたのは十一時過ですから、君等に上る手紙は其儘にして今九月一日の十一時少し前から再び筆を取り出したのです。

 偖[やぶちゃん注:「さて」。]久米君は高等學校生活のスケツチを書く目的でゐるとか何處かに出てゐましたが、材料さへあれば甚だ好い思ひ付です。どうぞお遣り下さい。今度の艷書も見ました。Point は面白い、敍述もうまい、行と行の間に氣の利いた文句の使ひ分などがひよいひよいありますが、是は御當人自覺の事だから別に御注意する必要もありますまい、但じ[やぶちゃん注:ママ。]あの淡いうちにもう少し何かあつて欲しい氣がします。艷書を見られた人の特色(見る方の心理及び其轉換はあの通りで好いから)がもつと出ると充分だと思ひます。あれはあゝ云ふ人だと云ふ事丈分ります。然しあれ丈分つたのでは聊か喰ひ足りません。同じ平面でも好いからもつと深く切り下げられるか、或は他の斷面に移つて彼の性格上に變化を與へるとか何とかもう少し工夫が出來るやうに考へられます。(「競漕」はあれ以上行けないのです。又あれ以上行く必要がないのです)

 最後に芥川君の書いた「創作」に就いて云ひます。實は僕はあれをごく無責任に讀みました。芥川君の妙な所に氣の付く(アナトールフランスの樣な、インテレクチュアルな)點があれにも出てゐます。然しあれはごく冷酷に批評すると割愛しても差支ないものでせう。或は割愛した方が好いと云ひ直した方が適切かも知れません。

 次に此間君方から貰つた手紙は面白かつた。又愉快であつた。に說いて、其所に僕の眼に映つたつた[やぶちゃん注:ママ。]可くないと思ふ所を參考に云ひませう。一、久米君のの中に「私は馬鹿です」といふ句があります。あれは手紙を受取つた方には通じない言葉です。從つて意味があつさり取れないのです。其所に厭味が出やしないかと思ひます。それから芥川君のの中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまました。あれも不可せん。正當な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。False modesty に陷りやすい言葉使ひと考へます。僕なら斯う書きます。「なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます」――以上は氣が付いたから云ひます。僕がそれを苦にしてゐるといふ意味とは違ひます。それから極めて微細な點だから默つてゐて然るべき事なのですが、つい書いてしまつたのです。

 あなた方は句も作り繪もかき、歌も作る。甚だ賑やかでよろしい。此間の端書にある句は中々うまい、歌も上手だ。僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位づゝ作ります。自分では中々面白い、さうして隨分得意です。出來た時は嬉しいです。高靑邱が詩作をする時の自分の心理狀態を描寫した長い詩があります。知つてゐますか。少し誇張はありますがよく藝術家の心持をあらはしてゐます。つまりうれしいのですね。最後に久米君に忠告します。何うぞあの眞四角な怒つたやうな字はよして下さい。

 是でお仕舞にします。 以上

    九月一日       夏目金之助

   芥川龍之介樣

   久米 正雄樣

   *

以下、簡単に注するが、人名などは私の子の電子化の本筋から外れるのでカットした部分が多い。悪しからず。「松岡君の」松岡譲の小説「搖れ地藏」。「菊池君の」菊池寛の小説「身投救助業」。「芥川君の」この時の号では龍之介は小説「猿」と小品小説「創作」二作を発表しているが、ここではまず前者。「久米君の」小説「艶書」。「expressive」「表現に富んでいる」の意。いふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)强調されてゐない、ピンと頭へ來(こ)ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。「○○○○先生」不詳。「ボロツカイ」底本の古川久氏の注に『襤褸買い』とある。「あくもの食(ぐ)ひ」と稱してゐます。「玉版箋」「ぎよくばんせん」と読む。画仙紙よりも厚手で、肌理が細かく光沢がある中国産の紙。二枚重ねて乾燥したものは二層に漉いたものよりも腰が強く、書画用に適する。「競漕」はこの年の六月一日発行の『新思潮』第四号に発表した小説。「インテレクチュアル」intellectual。「知的な・聰明な」。「False modesty」上辺だけの謙虚さ。謙虚な振り。「高靑邱が詩作をする時の自分の心理狀態を描寫した長い詩」古川氏注に、『高啓』(一三三六年~一三七四年)『(明初の詩人。青邱と号す)の「青邱子歌」を言う。青邱子(高啓自身をさす)という謫仙人がいて農村に隠棲し、人からは迂儒狂生と言われながら毎日詩作に耽り、家事も心にかからなくなって詩が出来ると壺を叩いて自ら歌うが、群仙も天地もこれに感応して和するという詩』とある。中山逍雀氏のサイト「漢民族詩詞の歴史」のこちらで原文・訓読・訳が読める。]

 

 

大正五(一九一六)年九月二日・千葉県一宮発信・東京市牛込區早稻田南町七 夏目金之助宛

 

先生 昨日 先生の所へ干物をさしあげました あんまりうまさうもありませんが召上つて下さい それでも大きな奴は少しうまいだらうと思ひます あの中へ入れた句は久米が作りました おしまいを「秋の風」とやつた方がよからうと僕が提議したのですが「殘暑かな」とやらないと干物らしくないと云ふのでああ書いたのです あれを中ヘ入れて包んでから久米がこれでは句を見せたいので干物を送るとしか見えないなつて悲觀してゐました あんまり干物の講釋をするやうで滑稽ですが、あれは宿へたのんでこしらへて貰つたのです 出來上った所で一體どの位する物だねときいたら十枚三錢五厘とか云ひました すると久米が急に氣が大きくなって先生の所へ百枚か二百枚送ろうじたないかつて云ふのです(先生の所へ干物をあげると云ふ事は二人の中のどつちが云ひ出したか知りませんが 始から殆脅迫觀念の如く僕たちに纏綿してゐました 今になつて考へると何故干物ときめたか滑稽な氣がします) それをやつと五十枚に節約させたのは完く僕の苦心です いくらうまくつても干物を百枚も二百枚も貰つてはどこのうちにしろ大へんだと思つたからです 所があれを菰へいれて小さく包んだ所を見ると僕は何だか久米の說に從つた方がよかつたやうな氣がしました そうして突然ブレエクの Exuberance is beauty と云ふ句を思ひ出していらざる苦心をしたのが少し不快になりました あとでは妙な行きがかりでブレエクを思出したのがばかばかしくなりましたが これだけ干物の因緣を書いて次へうつります

「創作」は六號にも書いた通り發表を見合せる氣の方が多かつた作品です それでも誤植が氣になる程度の愛惜はありますが 妙に高くとまつた所が今では氣になつていけません

「猿」はもう少し自信があります 石炭庫の所は書いている時の心もちから云ふと後から抱きとめる所までは或充實した感じて書けましたが 信號兵の名をよぶ所からあとはそれが稀薄になるのを感じました そうしてその稀薄さが出るのを惧れたので二三度そこだけ書き直して見ました つまり先生はその稀薄さを看破しておしまひになつた事になるのでせう 僕はさう云ふ意味であすこに無理な努力があるのを認めます やはり實感の空疎なのがだめなのだとしみじみ思ひました 技巧では僕として出來るだけの事をした氣でゐるのですが

「落ち」も少し口惜しいが先生の非難なすつた事を認めざるを得ません 「口惜しいが」と云ふより「口惜しい程明瞭に一々指摘してあると思つた」と云ふ方が適切です あれもやはり敍述の簡單が累をなしてゐるよりは主として照應する二者の後にある主觀がふわついてゐるからでせう 書く時はふわつかないつもりで書いてゐるのですが 出來上つたものを見るとふわついてゐるのだから困ります 創作のプロセスに始終リフアーしてゆく批評は先生より外に僕たちは求められません(僕たちがえらいから先生以外の人の批評を求めないと云ふ意味ではありません 外の人たちの批評にさう云ふ痛切な「僕たちに」所がないのです) ですからこれからも御遠慮なくして頂きたいと思ひます 少し位手痛く參らせて下すつても恐れません 反て勇氣が出ます

久米がたくさん書いたそうですから 僕はこれで切上げます

   九月二日朝       芥川龍之介

  夏目金之助樣梧下

 

[やぶちゃん注:これも先のものと同じく、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を参考に、恣意的に仮名遣を歴史的仮名遣に代え、新字を正字に直し、句読点と段落冒頭の字下げを除去(句点は文中では一字空けとした)したものである。作品名の鍵括弧も或いはない可能性があるが、「創作」という作品名は誤読してしまう可能性があるので、全部残した。概ね、この処理で「芥川竜之介書簡集」よりは遙かに原書簡に近づいたものとは思う。なお、「芥川竜之介書簡集」では上記の手紙後に『久米正雄の漱石宛書簡を同封』と注がある。この日付に注目されたい。この九月二日の、少なくとも、夜には、彼らは東京に戻っているからである。

「ブレエクの Exuberance is beauty と云ふ句」底本の石割氏の注に、『ウィリアム・ブレイク』(芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったWilliam Blake(一七五七年~一八二七年))『の作品「天国と地獄の婚姻』』(The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年~一七九三年))『の「地獄の箴言」』(Proverbs of Hell )『の一節で、「夥多は美である」(柳宗悦訳)』とある。英文サイトのこちらで、素敵な原本の挿絵入り画像と電子化本文が読める。“Proverbs of Hell ”は同作の巻頭で、この一文はリンク先の原本で七行目、電子化されたそれの四行目に出る。

 以下、この書簡が書かれた同じ日に、奇しくも漱石から芥川龍之介個人宛で送られた夏目漱石の手紙(「芋粥」批評)を岩波の旧「漱石全集」より電子化する。この手紙は既に立った後の「一ノ宮館」に着き、転送されたのであろう。されば、芥川龍之介が読んだのは、早くても九月四日以降と考えられる。

   *

大正五(一九一六)年九月二日(土曜日)・消印午後十時~十二時・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介宛

 啓只今「芋粥」を讀みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細敍絮說に過ぎました。然し共所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細敍が惡いのではない。細敍するに適當な所を捕へてゐない點丈がくだくしくなるのです。too laboured といふ弊に陷るのですな。うんと氣張り過ぎるからあゝなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな點に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔繪を施しました。是は惡い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出來がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の努力に價しないといふ事に歸着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全體の出來榮[やぶちゃん注:「できばえ」。]ももつと見事になつたらうと思ひます。

 然し是は惡くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に對したつて耻しい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる氣分が薄らいで飴所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の眞面目は躍然として思ふ存分紙上に出て來ます。何でも生涯の修業でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。

 此批評は君の參考の爲めです。僕自身を標準にする譯ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未來の)一言するのです。たゞ芋粥丈を(前後を截斷して)批評するならもつと賞めます。

 今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。 頓首

    九月二日夜      夏目金之助

   芥川龍之介樣

[やぶちゃん注:以下の追伸は底本では全体が一字下げ。]

 此卷紙と狀袋は例のアクモノグヒが哭れたものであります。彼は斯ういふ賄賂を時々刻々に使ひます。僕は彼の親切を喜ぶと共に氣味をあるく[やぶちゃん注:ママ。]します。同時に平氣で貰ひます。久米君へよろしく

  秋立つや一卷の書の讀み殘し

 是はもつとうまい句だと思つて卽興を書いてしまつたのであとから消す譯に行かなくなつたから其儘にして置きます。

   *

「too laboured」「より増して、またしても苦しい」。]

日本山海名産図会 第三巻 鰤

 

    ○鰤(ぶり)

 

Buri1

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(以下も同じ)。キャプションは「鰤追網(ぶりおいあみ)」。網を巻き上げるための轆轤が遠景と近景にしっかり描かれてある。遠景のそれをよく見ると、砂上の轆轤が海方向へ引きずられないようにするために、後背部陸側に石と碇が打たれてあるのが判る。また、山の上の魚見が描かれていないのは惜しいが、その者が振ったであろう「麾(ざい)」と同じようなものが、巨大な網の外側で網を引っ張る二艘の舟の舳先に立つ水主(かこ)の手に掲げられてある。また、網内の舟では、囲い込んだ鰤を網に追い込むため、或いは外側へ逃れて網を飛び出ないようにするために、何人かが、木片を持って舟棚(舷側板)を叩いている様子も現認出来る。]

 

丹後與謝(よさ)の海に捕るもの、上品とす。是れは、此の海門(かいもん)に「イネ」と云ふ所ありて、椎の木、甚だ多く、其の實、海に入りて、魚の飼(ゑ)とす。故に美味なりといへり。○北に「天の橋立」、南に宮津(みやつ)、西は喜瀬戸(きせと)、是れ、與謝の入海なり。魚、常に此に遊び、長ずるに及んで、出んでとする時を窺ひ、追網(おひあみ)を以ちて、これを捕る。

○追網は、目、大抵、一尺五、六寸なるを、縄にて作り、入海の口に張るなり。尙、數十艘の舩を並らべ、※1(ふなばた)を扣(たゝ)き、魚を追ひ入れ、又、目八寸許りの縄網を二重(ぢう)におろして、魚の洩るゝを防ぎ、又、目、三、四寸許りの苧(お)の䋄を三重におろし、さて、初めの網を、左右より、轆轤(ろくろ)にて引きあげ、三重の苧䋄は手操(てぐり)ひきて、袋、礒近くよれば、魚、踊り群(む)るゝを、大ひなる打鎰(うちのき)にかけて、礒の砂上へ、投げあぐるなり。泛子(うけ)は皆、桶を用ひ、重石(いし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]は縄の方(かた)、燒物(やきもの)・苧の方は、鉄にて作り、土樋(ひ)[やぶちゃん注:二字へのルビと採った。「とひ」のつもりかも知れない。]のことく、連綿す。

[やぶちゃん注:「※1」=「舟」+「世」。]

 

Buri2

[やぶちゃん注:キャプションは「其二」。まことに動的な優れた一枚で、左上から網を捩じって纏めて引き上げる右モーメントが強く働き、浜へ打ち上がる鰤の群れにそれが動きを与え、水際にいる漁師らがそれをとっては投げ、とっては投げするさらなる右モーメントが加わるのである。ここで初めて海鰕の本文に出(図には出ない)、本文に語られる桶(樽)を用いた「浮き」が多数、確認出来る。]

 

 

○先づ、腸(はらはた)を拔きて、鹽を施こし、六石(こく)ばかりの大桶に漬けて、其の上に鹽俵(しほたはら)をおほひ、石を置きて、おすなり。○又、一法。鹽を腹中に滿たしめ、土中(とちう)に埋み、莚(むしろ)を伏せて、水氣(すいき)を去り、取り出だして、再び、鹽を施し、薦(こも)に裹(つゝ)みても出だせり。市場(いちば)は宮津にありて、是れより、䋄場の海上に迎へて、積み歸るなり。

 

Buri3

[やぶちゃん注:キャプションは「鰤竪網(ふりたてあみ)」。]

 

○他國の鰤網 凡そ、手段、かはることなし。いずれも沖䋄にて、竪䋄(たてあみ)は細物(ほそもの)にて、深さ七尋より十四、五尋ばかり。尙、海の淺深にも任す。網の目は、冬より正月下旬までを七寸許りとし、二、三月よりは、五、六寸を用ゆ。漁船一艘に乘人(のりて)五人也。四人は網を操(く)りあげ、一人は艪を取る。泛子(うけ)は桶にて、重石(いし)は砥石のごとし。網を置くには、湖中の魚※2のことくに引き𢌞し、魚の後(しり)へと退(しりぞ)くを防ぐ也。かくて海近き山に、遠眼鏡を構へ、魚の集まるを伺ひ、集まるときは、海浪(かいらう)、光耀(ひかり)ありて 水、一段(たん)高く見へ、「魚一尾(び)踊る時は、かならず、千尾なり」と察し、麾(ざい)を振りて舩に示す。是れを「辻見」、又、「村ぎんみ」、又、「魚見」とも云ふ。海上(かいしやう)に待ちかけし二艘の舩ありて、其の麾(さい)の進退・左右に隨ひ、二方に別れて、網をおろしつゝ、漕き𢌞はる事、二里許りにも及べり。ひきあぐるには、轆轤・手操(てぐり)なと、國々の方術(てだて)、大同小異にして、畧(ほゞ)相ひ似たり。

[やぶちゃん注:「※2」=(上){「巣」-「果」}+(下){「滬」-「氵」}。琵琶湖の定置網で知られる「魞(えり)」のこと。]

○或云、「鰤は連れ行きて東北の大浪を經て、西南の海を繞(めく)り、丹後の海上に至る頃に、魚、肥へ、脂(あぶら)多く、味、甚だ甘美なり。故に名產とす」と云。

○「鰤」は日本の俗字なり。「本草綱目」に「魚師(ぎよし)」といへるは、「老魚」、又、「大魚」の惣稱なれば、其形を不釋(とかず)。或ひは云、海魚の事に於て、中華に釈(と)く所、皆、甚だ粗(そ/あらし[やぶちゃん注:右左のルビ。])なり。是れは、大國にして、海に遠きが故に、其の物、得て見る事、難ければ、唯、傳聞(でんもん)の端(はし)をのみ記せしこと多し。されども、日本にて「鰤」の字を制(つく)りしは、卽ち、「魚師」を二合(かう)して、「大に老いたる」の義に充(あ)てたるに似たり。又。「ブリ」といふ訓も、「老魚」の意を以て「年經(としふ)り」たるの「フリ」によりて、「フリの魚(うを)」といふを濁音に云ひ習はせたるなるべし。○小なるを、「ワカナコ」「ツバス」「イナダ」「メジロ」「フクラキ」「ハマチ」、九州にては「大魚(おほうを)」とも稱するがゆへに、年始の祝詞(しうし)に脋(そな)へる物ならし。

[やぶちゃん注:鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata 。私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰤(ぶり)」及び大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」を参照されたい。

「丹後與謝(よさ)の海」多くは、京都府北部の宮津湾奥の、「天橋立」の西にある阿蘇海(あそかい)の古名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にして歌枕などとするが、この大規模なブリ漁の場合に限って言えば、天橋立の東の外海である現在の宮津湾をかく呼んでいる。後注参照。阿蘇海も古くは魚類の産卵地として知られていたが、江戸時代から既に水質汚染が問題となり、現在に至るまでとまらない状態にある。

『此海門(かいもん)に「イネ」と云ふ所』現在の丹後半島北部東岸の京都府与謝郡伊根町。御覧の通り、ここは広義に宮津湾の北の門と言える(南門は栗田(くんだ)半島)。

「椎の木、甚だ多く」事実、現在も伊根湾の青島など、この伊根町にはシイの木が群生する。それらの群落が優れた栄養分を海に供給していることは確かだが、「其の實、海に入りて、魚の飼(ゑ)とす。故に美味なりといへり」というのは、ロマンティクではありますが(私は大の椎の実好きですから)、ちょっとないでしょう。

『北に「天の橋立」、南に宮津(みやつ)、西は喜瀬戸(きせと)、是れ、與謝の入海なり』これで先の限定は決まり。宮津はここ、「喜瀬戸」というもは、天橋立南端の阿蘇海と繋がる瀬戸、「切れ口」のことで、「切戸(きれと)」「九世戸(くせと)」などと呼ぶここのことである。

「追網(おひあみ)」網漁法の一種。入海の口に、大きな網を張り廻らし、数十艘の船を並べて船棚を叩き、魚群を追い込んで捕える方法。特にこの鰤漁で使用される。小学館「日本国語大辞典」では、まさに本篇の第一図が添えられてある

「一尺五、六寸」四十五・四五~九十四センチメートル弱。

「※1(ふなばた)」(「※1」=「舟」+「世」)先に注した舟棚のこと。

「目八寸許り」網の目の方寸が二十四センチメートル強ほどあること。

「苧(お)の䋄」「お」は歴史的仮名遣の誤り。苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。

「打鎰(うちのき)」「鎰」は「鍵」の意であるが、ここは砂浜に打ち込んだ杭ののことか。

「泛子(うけ)」網の「浮き」。

「六石(こく)」約六百升。

「鹽俵(しほたはら)」塩を入れた俵。この最初の方法では直接に塩を振るのではない点に注意。

「沖䋄」舟で水中を引き回し、引き寄せて魚を捕る網。引き網。

「深さ七尋より十四、五尋ばかり」長尺の方(約一・八一八メートル)で、約十三~二十七メートル。

「冬より正月下旬までを七寸許りとし、二、三月よりは、五、六寸を用ゆ」ブリの産卵期は東シナ海南部で二~三月、九州近海で四~五月頃であるが、全長数センチメートルになった稚魚は流れ藻に寄って生活し(この稚魚は日本各地で「モジャコ」(藻雑魚)と呼ばれる)、夏に流れ藻から離れて、沿岸でイワシ類等の小魚を捕食しながら生活をし、その後、秋になって外洋へ泳ぎ出て本格的な回遊を始める。成長は一年魚で三十二、二年魚で五十、三年魚で六十五、四年魚で七十五センチメートル前後に成長する。図の中のブリのサイズは一年魚以上であり、「冬より正月下旬までを七寸許りと」するのは、それ以上の個体を、「二、三月よりは、五、六寸を用」いるのは、回遊を始めた一年魚以下のものを対象とするものと思われる。

「湖中の魚※2のことく」(「※2」=(上){「巣」-「果」}+(下){「滬」-「氵」})文中で注した通り、「湖」は琵琶湖のこと。そこの定置網で知られる「魞(えり)」は網地の代わりに、竹や木材などで造られた垣網(かきあみ)や簀(す)を水中に張り立てて水産生物の通路を遮断し、囲網(かこいあみ)へ誘導する定置漁具である。本邦では琵琶湖の「魞漁(えりりょう)」が有名である。この漁具は風波に対して弱いことから、湖沼や河川に設置される場合が多いが、海面でも、風波の穏やかな内湾の浅所ならば、設置することが出来る。垣網の長さ二~三メートルの小規模のものから、一キロメートルに及ぶ大規模なものもある。淡水域に仕掛けた場合は、簀の目が三ミリメートル以下のものは、小型・中型の鰕や小鮎などを漁獲し、十五ミリメートル以上のものは鯉・鮒・鰻などを漁獲する。本邦に内湾では鯵・鰯・鯖・中・大型の蝦などを捕獲するが、フィリピンやタイなど、東南アジアの海浜沿岸では盛んで、鮪・鰹・鯛類などの大型魚類も対象としている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、「魞」は国字である。

「麾(ざい)」音は「キ」。元は「軍を指図する旗」を指す。ここは沖の舟に指図する旗指物を指す。「ざい」は「さい」で当て字。「采配・采幣」の意で、紙の幣(しで)の一種。昔、戦場で大将が手に持ち、士卒を指揮するために振った道具で、厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹の柄につけたもの。紙の色は白・朱・金・銀などで目立つようにした。挿絵の水主のそれを参照。

「辻見」海中での魚群の航路を「辻」と言ったものであろう。

「村ぎんみ」「村吟味」。魚村集団の漁獲担当の「魚見」役の謂いであろう。

「鰤は連れ行きて……」一年魚が秋に初め、成魚になってからも続ける回遊行動を示す。本草書では、こうした生態の記載が甚だ乏しいので、非常に画期的な記載と言える。

『「鰤」は日本の俗字なり』国字。

『「本草綱目」に「魚師(ぎよし)」といへるは、「老魚」、又、「大魚」の惣稱なれば、其形を不釋(とかず)』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」には(囲み字は太字に代えた)、

   *

魚師【「綱目」。】

集解時珍曰はく、「陳藏器が「諸魚注」に云はく、『魚師、大きなる者なり。毒、有り、人を殺す。』と。今、識る者、無し。但(ただ)、「唐韻」に云はく、『鰤は老魚なり。「山海經」に云はく、「歷㶁(れきかく)の水に、師魚、有り。之れを食へば、人を殺す。」と。』と。其れ、卽ち、此れか。】

   *

と、確かにショボい。

『「或ひは云」(いふ)、「海魚の事に於て、中華に釈(と)く」(説明する)「所、皆、甚だ粗(そ/あらし[やぶちゃん注:右左のルビ。])なり。是れは、大國にして、海に遠きが故に、其の物、得て見る事、難ければ、唯、傳聞(でんもん)の端(はし)をのみ記せしこと多し」その通りで、漢籍の海産魚類については、海辺部の地誌類を除いて、本草書の記載は致命的に粗略であり、殆んど幻想博物誌のような有様を呈するものも有意に多い。

『日本にて「鰤」の字を制(つく)りしは、卽ち、「魚師」を二合(かう)して、「大に老いたる」の義に充(あ)てたるに似たり。又。「ブリ」といふ訓も、「老魚」の意を以て「年經(としふ)り」たるの「フリ」によりて、「フリの魚(うを)」といふを濁音に云ひ習はせたるなるべし』語源説は、大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」の私の注の冒頭を参照されたい。

『小なるを、「ワカナコ」「ツバス」「イナダ」「メジロ」「フクラキ」「ハマチ」』ご存知の通り、ブリは出世魚である。同じく大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」の私の注の冒頭を参照されたい。地方ごとの変名出世も示してある。

『九州にては「大魚(おほうを)」とも稱する』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のブリのページに、サイズが一メートルに及ぶ最大のものを、九州北部で、「オオウオ」と呼ぶと書かれてある。

「年始の祝詞(しうし)に脋(そな)へる物ならし」「脋」は不審(「脅」の異体字)。同前のページで、ブリは『年末年始の贈答用などとしても重要。糸魚川静岡構造線の東西で別れ、東はサケ。また前田家(石川県、富山県)では初代前田利家の頃から年取り魚としてブリをお歳暮に送る習慣があった』。ここでは『現在でも娘が結婚すると、その年は嫁ぎ先と、仲人に大きなブリをそれぞれ』一『尾送るならわしがある。嫁ぎ先ではこの半身を嫁の実家に返した』とあり、また『主に西日本で年取りの魚となる。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)・徳島市などでもブリを年末、正月に塩焼きにして食べた』とある。私自身、富山に住んでいたから、かの高価な巨大な太い繩で美しく巻いた塩漬けの「巻鰤」の美味さは忘れられない。]

2021/05/18

芥川龍之介書簡抄62 / 大正五(一九一六)年書簡より(九) 塚本文宛(恐らく芥川龍之介の書簡の中で最も人口に膾炙している彼女へのラヴ・レター)

 

大正五(一九一六)年八月二十五日・千葉県一の宮発信・塚本文宛

 

 八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて  

文ちやん。

僕は まだこの海岸で 本をよんだり原稿を書いたりして 暮してゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだはつきりわかりません。が、うちへ歸つてからは 文ちやんに かう云ふ手紙を書く機會がなくなると思ひますから 奮發して 一つ長いのを書きます ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを步きたいと思ひます。しかし 東京がこひしくなると云ふのは 東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云ふ時に 僕は時々 文ちやんの事を思ひ出します。文ちやんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。(こんな事を 文ちやんにあげる手紙に書いていいものかどうか 知りません。)貰ひたい理由は たつた一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちやんが好きだと云ふ事です。勿論昔から 好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。僕は 世間の人のやうに 結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出來ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちやんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くとも頂かないとも 文ちやんの考ヘ一つで きまらなければならないと云ひました。

僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。

世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身もとしらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出來ません。その出來ない點で 世間より 僕の方が 餘程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角 僕が文ちやんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちやん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちやんの考へを 無理に 動かすやうな事があつては 文ちやん自身にも 文ちやんのお母さまや兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちやんは 完く自由に 自分でどつちともきめなければいけません。萬一 後悔するやうな事があつては 大へんです。

僕のやつてゐる商賣は 今の日本で 一番金にならない商賣です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから 生活の程度から云へば 何時までたつても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出來上つてゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、伯母と、としよりが三人ゐます。それでよければ來て下さい。

僕には 文ちやん自身の口から かざり氣のない返事を聞きたいと思つてゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちやんが好きです。それだけでよければ 來て下さい。

この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちやんの自由です。

一の宮は もう秋らしくなりました。木槿(もくげ)の葉がしぼみかかつたり 弘法麥の穗がこげ茶色になつたりしてゐるのを見ると 心細い氣がします。僕がここにゐる間に 書く暇と 書く氣とがあつたら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と氣とがあつたら」です。書かなくつてもかまひません。が 書いて頂ければ 尙 うれしいだらうと思ひます。

これでやめます 皆さまによろしく

               芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜では、この書簡はこの日の朝に書かれたもので、正式な初めての求婚(プロポーズ)とする。当時塚本文は満十六歳の跡見女学校の学生であった。芥川龍之介満二十四の夏の終わりであった。――この手紙を自死の前に仮に芥川龍之介が再読したら……どう思ったろう…………それを、私は――考える…………]

芥川龍之介書簡抄61 / 大正五(一九一六)年書簡より(八) 夏目漱石宛(夏目漱石自筆の前後の書簡を注で電子化した)

 

大正五(一九一六)年八月二十二日・千葉県一ノ宮海岸一宮館発信・東京牛込早稻田南町七 夏目金之助宛

 

先生 原稿用紙でごめんを蒙る事にします

ここへ來てからもう彼是一週間ばかりになりました 午前は勉强して午後は海へはいると云ふ事にきめては居りますが、午前の日課はひるねをしたり駄辯をふるったりして兎角閑却されがちです 殊に新思潮の原稿を書いてしまつてからはまるで解放されたやうなのんきな心もちになつてしまつたので義理にも金儲けの飜譯には手をつける氣になれません 勉强と云つても實はこの飜譯が大部分をしめてゐるのです 昨日新小說の校正が來ました 校正でだけ見た所では、どうも失敗の作らしいので大にまゐつてしまつて居ります 私はいつでも一月ばかりたつた後でないと自分の書いたものがどの位まで行つてゐるのだかわかりません さうすると今まゐつてゐると云ふのが矛盾のやうですけれどまだ失敗したのだかどうだかわからない わからないと思ひながらそれでもどうも失敗したらしいのでまゐつてしまふのです 實際校正しながらも後から後から氣になる所が出て來るので何度赤インキの筆を抛り出してねころんでしまつたかわかりません 久米がそばから大に鼓舞してくれるのですが 氣になるのは人の評價でなくて自分の評價ですから困ります 尤も自分の評價も全然人の評價に左右されない事はなささうですが くだらない事を長く書きました 何だかこのまいっている心もちを先生へ訴えたいような氣がしたからです そうでもさして頂かなければ妙に氣がめいつてやりきれません

しけだものですから、宿屋は大抵每日芋ばかり食はせます 小說も芋粥ですから私は芋に崇られてゐるのでせう 女中にやる祝儀が少かつたものと見えてあまり優待されてはゐません 或は虐待されてゐると云つた方が適當なのでせう 朝戶をあけたり床をあげたりするのまで自分でやらせられるのですから 今朝なぞは顏を洗ふ水を何時までもつて來てくれないので大に弱りました ここまで書いた時に先生の御手紙がつきました 私たちも如何に閑寂な日を送つてゐるか御しらせする爲に久米のスケツチ三枚と私の妙な畫とを御送りします 私の詩はとても先生の壘は摩せさうもありませんが 將來に於て私の繪は(先生位私が年をとつたら)先生の達磨に肩隨する事が出來るかも知れないと思ひます

先生の所の芭蕉はもう葉がさけかかつたでせう ここの砂濱にある弘法麥も焦茶色の穗をみだすやうになりました 「砂に知る日の衰へや海の秋」これは私の句ですが久米三汀宗匠の說によると月並ださうです もう一つ「砂遠し穗蓼の上に海の雲」と云ふ句もふらふらと出來ました 詩はここに圓機活法がないので作れません 作つても御披露する氣にはなれないでせう 詩を頂いた御禮に句と畫とを御覽に入れる事にしてこの手紙をおしまひにします

    八月廿二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:これは岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を参考に、恣意的に仮名遣を歴史的仮名遣に代え、新字を正字に直し、句読点・二重鍵括弧を段落冒頭の字下げを除去(句点は文中では一字空けとした)したものである。龍之介は「畫」を「画」と、「禮」を「礼」と書くことも多く、一部の文末で句点も打つが、概ね、この処理で「芥川竜之介書簡集」よりは遙かに原書簡に近づいたものとは思う。なお、「芥川竜之介書簡集」では上記の手紙後に『久米正雄の漱石宛書簡を同封』と注がある。

「新思潮の原稿を書いてしまつて」既に示した通り、「猿」と「創作」はこの四日前の八月十八日に脱稿している。

「先生の達磨」石割氏の注に、『夏目漱石画の紙本淡彩「達磨渡江図」(一九一三年)』(大正二年)とある。

 以下、この書簡中に書かれた来着した漱石の書簡と、この書簡の返事として書かれた漱石の書簡を以下に電子化しておく。底本は岩波旧「漱石全集」である。

   *

大正五(一九一六)年八月二十一日(月曜)・午後四~五時消印・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館久米正雄・芥川龍之介(連名)宛

 

 あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何より仕合せです。夫でも每日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出來ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印[やぶちゃん注:石に彫った印のことだが、書簡がないので意味がよく判らない。漢詩を作って印に彫るとでも言い出したものか。]云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絕句に纏めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。

  尋仙未向碧山行。 住在人間足道情。

  明暗雙雙三萬字。 撫摩石印自由成。

 (句讀をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗雙々といふのは禪家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八萬字になります。然し明暗雙々十八萬字では字が多くつて平仄が差支へるので致し方がありません故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)

 一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隱遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舍へ引込む甲斐はありません。

 勉强をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。是は兩君とも御同感だらうと思ひます。

 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて來たのでせう。

 私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ證據に書くのです。さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する爲に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蟬の聲で埋つてゐます。 以上

    八月二十一日     夏目金之助

   久米 正雄樣

   芥川龍之介樣

   *

うっきゃあ! 当然なんだが、「こゝろ」の先生の遺書みたようだのー!

 遺作となった「明暗」は『朝日新聞』に大正五(一九一六)年五月二十六日から同年十二月十四日まで連載されたが、作者病没のため、百八十八回までで未完となった。底本の古川久氏の注によれば、『漱石は』まさに『この年』の『八月十四日夜から、日課のように漢詩を作り、十二月二十一日』、死へ向かう病『床につく前日までに七十五篇を残している』とある。漱石が亡くなるのは、この大正五(一九一六)年の十二月九日であった。死因は胃潰瘍による体内出血であった。「志田」というのは、法学者で第五代明治大学総長を務めた志田鉀太郎(しだこうたろう 慶応四(一八六八)年~昭和二六(一九五一)年)のこと。漢詩は訓読してみる。

 仙を尋ぬるも 未だ 碧山に向かひて行かず

 人間(じんかん)に住在するも 道情 足る

 明暗雙雙 三萬字

 石印を撫摩(ぶま)しつつ 自由 成る

意味は判らん、というより、禪の公案みたようなもんだから、訳せば、空しいものだ。因みに私は漱石の詩歌を上手いとは全く思わない。特に俳句は駄句の山である。

   *

大正五(一九一六)年八月二十四日(木曜日)・午後六~七時消印・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館 芥川龍之介・久米正雄(連名)宛

 

 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙がまありに[やぶちゃん注:ママ。「あまりに」の錯字。]撥溂としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい靑春の風が、老人の僕を若返らせたのです。

 今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も來ません。例の瀧田樗陰君は木曜日を安息日と自稱して必ず金太郞に似た顏を僕の書齋にあらはすのですが、その先生も今日は缺席するといつてわざわざ斷つて來ました。そこで相變らず蟬の聲の中で他から賴まれた原稿を讀んだり手紙を書いたりしてゐます。咋日作つた詩に手も入れて見ました。「癩狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を讀ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。

 芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恆方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて吳れませんか。(本當にいふのです)。同時に君がたは東洋の繪(ことに支那の畫)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面ヘも少し色眼を使つて御覽になつたら如何ですか、其所には又そこで滿更でないのもちよいちよいありますよ、僕が保證して上げます。

 僕は此間福田半香(華山の弟子)といふ人の三幅對を如何はしい古道具屋で見て大變旨いと思つて、爺さんに價を訊いたら五百圓だと答へたので、大いに立腹しました。是は繪に五百圓の價がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな價を云つて、忠實に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覺悟があると云ひました。其覺悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな書を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き繪[やぶちゃん注:「好きな繪」の脱字。]と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが実現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる譯のものではないのですから、御用心なさい。

 君方[やぶちゃん注:「きみがた」。]は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戰爭で軍人が露西亞に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうんうん蒼い顏をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此氣燄をもう餘程前から持ち廻つてゐるが、君等を惱ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍丈は默つて聞いてお置きなさい。

 本を讀んで面白いのがあつたら敎へて下さい。さうして後で僕に借して吳れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレームオフライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすっかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で汗が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。

 きのふ雜誌を見たらシヨウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行出來ない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇揚で跳ね付(つ)けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で數奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊が V.C.[やぶちゃん注:縦書二字分。]を貰つて色々なうそを並べ立てゝ景氣よく應募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。シヨウといふ男は一寸いたづらものですな。

 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。

 あゝさうだ。さうだ。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。

 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老滑なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事(こと)ある相の子位な程度のものです。

 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて吳れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞(き)くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

 是から湯に入ります。

    八月二十四日     夏目金之助

   芥川龍之介樣

   久米 正雄樣

  君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は氣にしないでも構ひません。

   *

「瀧田樗陰」(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名滝田哲太郎。秋田生れ。後に芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として非常によく知られ、多くの新人作家を世に送り出した。「癩狂院の中より」作者・内容不詳。「三宅恆方」(みやけつねかた 明治一三(一八八〇)年~大正一〇(一九二一)年)は昆虫学者・理学博士。金沢市生まれ。国粋主義者で『日本人』を創刊した評論家三宅雪嶺の甥。一中から東京帝国大学理科大学動物学科を卒業して、続いて大学院に学び、明治四〇(一九〇七)年に農科大学助手、大正五(一九一六)年には農商務省農事試験場昆虫部主任となり、農科大学実科講師や農学部講師を歴任した。昆虫学を専攻し、漱石の最古参の弟子(というか友人)寺田寅彦の友人でもあり、妻は夏目漱石に師事した作家三宅やす子。絵を中川八郎に学んだほか、随筆家としても知られた。「福田半香(華山の弟子)」「華」は「崋」の誤字。福田半香(はんこう 文化元(一八〇四)年~元治元(一八六四)年)は江戸後期の南画家で、渡辺崋山の高弟。「ラルブル」は不詳。フランス語の“L'arbre”ならば、「木」の意で、ここでは芥川龍之介が描いた「樹木の絵」ということになろうか? 二人が漱石に送った絵の中に龍之介のそれがあったものか。「ダヌンチオ」(既出既注)「のフレームオフライフ」は“Il fuoco ”(「炎」:英訳名“The Flame of Life ”:一九〇〇年)。英文当該ウィキはここ。「シヨウ」(既出既注)「の書いた新らしいドラマ」は“O'Flaherty, V.C.”(「ヴィクトリア十字勲章受勲者オフラハティ」:一九一五年)。英文当該ウィキはここ。「グレゴリー夫人」既出既注。]

日本山海名産図会 第三巻 海鰕

 

○海鰕(ゑび)【漢名「蝦魁(かくわい)」。釈名「紅鰕」。「エビ」は惣名なり。種類、凡そ三十余種。其の中に漢名「龍鰕」といふは「海鰕(うみへひ)」なり。】

 

俗称「伊勢海鰕」と云。是れ、伊勢より京師へ送る故に云ふなり。又、鎌倉より江戶に送る故に、江戶にては「鎌倉鰕」と云う。又、志摩より尾張へ送る故に、尾張にては「志摩鰕」と云ふ。又、「伊勢鰕」の中に、五色なる物、有り。甚だ奇品なり。髭、白く、背は碧(あを)く、重(かさね)のところの幅(ふく)輪、綠色。其の他、黃・赤・黑、相ひ雜(ま)づ。

 

Ebiami

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「海鰕網(えひあみ)」。ここでの「浮き」は桶ではなく、木の棒状のものである。]

 

○漁䋄は、大抵、七十尋、深さ二間斗り。但し、礒(いそ)の廣さ、岩間の廣狹(ひろせま)にも隨ひて、大小、あり。向(むか)うと、左右と、三方の目は、あらし。向ふの深さ、十五尋許りの目は、細くして、是を「袋(ふくろ)」といふ。「アバ」【泛子(うくけ)也。桶を用。】・「重石(いは)」【陶(や)甁を用ゆ。】。大抵、鯛網に似たり。日暮に、これを張りて、翌朝、曳くに、鰕、悉く、網の目をさして、かゝる。是れは、後(しりへ)に迯(にく)る物なれは、尾の方(かた)より、させり。又、䋄の外よりも、かゝる也。

○鰕の腸(わた)、腦に属して、其子、腹の外に在り。眼(まなこ)、紫黑(しこく)にして、前に黄なる所あり。突出(とひいて)て疣子(いぼ)のごとし。口に、鬚、四つあり。二つの鬚は、長さ、一、二尺。手足は、節(ふし)ありて、蘆(あし)の筍(たけのこ)のごとし。殻は、悉く、硬き甲(よろい)のごとし。好く飛んで踊る。是れ、海中の蚤なり。蚤、また、惣身(そうしん)、鰕におなじ。

○「エビ」の訓義は「柄鬚(えび)」なり。「柄」は「枝」なり。「胞(ゑ)」といひ、「江(え)」と云ふも、「人(ひと)の枝(えた)」、「海の枝」なり。蝦夷を「エヒシ」といふは、是れ、「毛人島(けひとしま)」なるに、なそらへ、正月、辛盤(ほうらい)に用ゆるは、「海老」の文字を祝(しゆく)したるなるべし。

[やぶちゃん注:「䋄」は底本ではこの字体で出現する際には(通常の「網」も混用されている)、総てが(つくり)の「冂」の下部も塞がって「囗」になっている。軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicus の外、本邦産種をのみ挙げるならば、カノコイセエビ Panulirus longipes 、シマイセエビ Panulirus penicillatus 、ケブカイセエビ Panulirus Homarus 、ゴシキエビ Panulirus versicolor 、ニシキエビ Panulirus ornatus である。

私の、「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「紅鰕(いせゑび/かまくらゑび)」及び「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦」を参照されたい。

「蝦魁(かくわい)」「本草綱目」にはこの名を載せないが、明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書で一五九六年成立した「閩中海錯疏」の「蝦」の項に「蝦魁」が異名の最初に載り、その本文を見ると、『按蝦其種不一而肉味同。諸蝦以蝦魁爲第一。此外又有涼蝦等不能盡錄』とあるから、イセエビと考えてよい。

『釈名「紅鰕」』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の「海鰕」の「釋名」に『紅鰕【藏器。】』とある。

「種類、凡そ三十余種」食用エビだけでも日本産は二百五十種を越える。

『「龍鰕」といふは「海鰕(うみへひ)」なり』不審。中国の本草書を見ても、「龍鰕」は概ねイセエビの異名である。本邦では、「龍鰕」は蝦蛄を指すとするネット記載があったが、これは軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ属シャコ Oratosquilla oratoria の「青龍鰕」の見間違いである。ともかくも、「龍鰕」を爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ウミヘビ科 Hydrophiidae のウミヘビ類とする記載は見当たらない。まあ、ウミヘビを「龍鰕」と書いても印象的には違和感はないとは言えるのだが、これ、もしかすると、「うみえび」とルビするところを、かく誤ったものではなかろうか?

「伊勢海鰕」ウィキの「イセエビ」の「文化」の項によれば、伊勢海老の名称が初めて記された文献は永禄九(一五六六)年の「言継卿記」(ときつぎきょうき:戦国期の公家山科言継の大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の間の約五十年に渡る日記。)であると考えられている、とある。

「鎌倉鰕」カマクラエビは関東に於いては確かにイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ属ゾウリエビ Pariibacus japonicus を指すという。当地方で「カマクラエビ」とあるのをイセエビと思ってたのんで、あのゾウリエビが出てきたら、びっくらこくので、ご用心。

「志摩鰕」現在、三重県産のイセエビ類を呼ぶ呼称の一つとして残る。

『「伊勢鰕」の中に、五色なる物、有り』小学館「日本大百科全書」で武田正倫先生は、ゴシキエビ(五色海老)Panulirus versicolor と同定して、『イセエビ科』Palinuridae『に属する美しいエビ。房総半島沿岸から南太平洋、インド洋まで広く分布する。体色は紫青色で、白色の不規則な縞(しま)模様があり、胸脚(きょうきゃく)には』四『本の白色縦線がある。頭胸甲には多数の棘(とげ)と』一『対の大きな前額棘(ぜんがっきょく)がある。前額板(触角節)には』二『対の大きな棘があり、第』二『触角の基部には発音器がある。腹部の背面には横溝はない。暖海性の外洋種で、沖縄諸島でもあまり多くない。北限の房総半島では体長』五『センチメートルほどの幼個体は得られるが、成体にはならない。体長』三十五『センチメートルに達するが、個体数が少ないうえに味も劣るため、乾燥して飾り物にすることが多い』とある。他のネット記載でも分布を神奈川県以南などとする。しかし、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のゴシキエビのページでは、分布を『鹿児島県種子島以南、琉球列島。インド・太平洋に広く分布』としており、どうも武田氏の謂いには疑問が生ずる。そもそもちんまい幼体だったら、敢えて奇品として取り上げて記すことがおかしい気がするからである。而して、ぼうずコンニャク氏は、そこで、本篇を挙げて、『伊勢蝦の中に五色なる物有甚希品なり鬚白く背ハ碧重……』とあるのは、『ゴシキエビではなくニシキエビではないかと思う』とあって、目から鰕! これは、

十脚目イセエビ科イセエビ属ニシキエビ Panulirus ornatus

(錦海老)のことと思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のニシキエビのページの写真を見られたいが、ゴシキエビよりも遙かに派手である。そこでは分布を、『南紀』m『徳島県海陽町鞆浦』、『九州などでまれにとれる』とされる。ウィキの「ニシキエビ」によれば、『イセエビ属の最大種で、食用や観賞用として重要な種』とし、『成体の体長は』五十センチメートル『ほどだが、体長』六十センチメートル・体重五キログラムに『達する個体も稀に漁獲される。体つきは同属のイセエビに似るが、頭胸甲に棘が少なく、腹節に横溝がない』。『頭胸甲の地色は暗緑色で、橙色の小突起が並ぶ。腹部背面は黄褐色で、各節に太い黒の横しまがあり、両脇に黄色の斑点が』二『つずつ横に並ぶ。第』一『触角は黒いが』、七『本の白いしま模様があり』(☜)、五『対の歩脚も白黒の不規則なまだら模様となる。第』二『触角や腹肢、尾扇などは赤橙色を帯びる。この様々に彩られた体色を「錦」になぞらえてこの和名がある。種小名 ornatus も「武装した」、「飾りたてた」という意味で、やはり体色に因んだ命名である』。『アフリカ東岸からポリネシアまで、インド太平洋の熱帯域に広く分布する。日本でも神奈川県、長崎県以南の各地で記録されているが、九州以北の採集記録は稀で、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島でも個体数が少ない』。『サンゴ礁の外礁斜面から、礁外側のやや深い砂泥底に生息し、他のイセエビ属より沖合いに生息する。生態はイセエビと同様で、昼は岩陰や洞窟に潜み、夜に海底を徘徊する。食性は肉食性が強く、貝類、ウニ、他の甲殻類など様々な小動物を捕食する』。『分布域沿岸、特に島嶼部では重要な食用種として漁獲されるが、食味はイセエビより大味とされている。大型で鮮やかな体色から、食用以外にも観賞用の剥製にされて珍重され、水族館等でも飼育される』とあり、「甚だ奇品」で一致し、「髭、白く」とあり、これも一致する(「白き縞あり」と言ってほしかった気はする)。「背は碧(あを)く、重(かさね)のところの幅(ふく)輪、綠色。其の他、黃・赤・黑、相ひ雜(ま)づ」で、もう、間違いなし!

「七十尋」先に示した長い方一尋=約一・八一八メートルで計算すると、約百二十六メートル。

「二間斗り」三・六四メートルほど。

「目は、あらし」三方の部分の網目が太くて粗いことを言う。触角や脚及び甲殻部の凹凸から、細かな細い網目では破れ易く、捕獲後に外すのも非常に面倒な上、網も破損することになるからである。

「向ふの深さ」正面の網の達する深さ。

「十五尋許り」約二十七メートル。

『目は、細くして、是を「袋(ふくろ)」といふ』真向いの水中の中央部に細かな網が特別に袋状になっているのである。網引きや「袋」に気づいたイセエビは海岸方向や左右に逃げるので、問題ない。また、網の管理から考えても、その「袋」部分だけを取り換えればよいので、実用的にも腑に落ちる。

『「アバ」【泛子(うくけ)也。桶を用。】』「あば」は「網端・浮子」と書き、これは元は「漁網の縁」のことを指すが、漁網が沈水しないように、その上縁に附ける「浮き」のことを指す。現在は中空のガラス玉などが一般的であるが、ここでは、桶をしっかり蓋をして浮替わりにしているのである。

『「重石(いは)」【陶(や)甁を用ゆ。】』水中の網の下方に附ける錘(おもり)。

「鯛網」後掲される。

「後(しりへ)に迯(にく)る物なれは」敵に遭うと、尾を使って、後方へ俊敏に飛び退くイセエビの習性をよく捉えている。

「䋄の外よりも、かゝる也」納得!

「鰕の腸(わた)、腦に属して」内臓や生殖腺は頭胸甲部の下方にあるので、腑に落ちる謂いである。

「眼(まなこ)、紫黑(しこく)にして、前に黄なる所あり。突出(とひいて)て疣子(いぼ)のごとし」この観察は素晴らしい! 江戸時代の本草書の図譜では、イセエビは専ら全体像を描くことに費やされて、柄眼と眼球の拡大図などはなかなかお目にかからないからである。因みに、私は高校時代の生物の参考書に、エビの眼柄が捕食者によって欠損した場合、より有効な器官として、そこに、眼ではなく、すぐ側にある触角(ここで言う「鬚」)を再生させるという解説図を、とても面白く眺めたことを思い出す。

「是れ、海中の蚤なり。蚤、また、惣身(そうしん)、鰕におなじ」こういう印象は、まず、お堅い本草学者は絶対に書かない。いいね! 蒹葭堂! 大好きさ♡

『「エビ」の訓義は「柄鬚(えび)」なり。「柄」は「枝」なり。「胞(ゑ)」といひ、「江(え)」と云ふも、「人(ひと)の枝(えた)」、「海の枝」なり』イセエビなどが甲羅に包まれているところから「胞衣」(えな)に通ずるように見え、海の入「江」で親和性があるとも言うだろうが、「え」は「枝」であり、「枝」は「肢」と同じであると言うのである。う~ん、納得してしまいそうなのだが、確かに、この語源説もあることはある(小学館「日本国語大辞典」で確認)。しかし、主説では、植物の古名「えび」由来である。葡萄(えび)=「えびかづら」=ヤマブドウ(バラ亜綱ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae )やエビヅル(ブドウ属エビヅル亜種エビヅル Vitis ficifolia var. lobata )等がもとで、それらの熟した実の色を「葡萄色(えびいろ)」と称し、その色にエビ類の生体個体の甲殻部の色が似ていることに由るとする。

『蝦夷を「エヒシ」といふは、是れ、「毛人島(けひとしま)」なるに、なそらへ』ウィキの「蝦夷」によれば、『蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる』。『「えぞ」が使われ始めたのは』十一世紀か十二世紀からであるとし、『えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結』(かみをわ)け、『身を文』(もどろ)『けて、人となり』、『勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地』(くに)『沃壌』(こ)『えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており』、五『世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく』、『関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている』。『古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)』『と歌われたこと、蘇我蝦夷、小野毛人、佐伯今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのため』、『蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている』、『そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある』、『他方』、『アイヌ語に語源があると考えた金田一京助は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ(enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた』。『文献的に最古の例は毛人で』、五『世紀の倭王武の上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、斉明天皇』五(六五九)年『の遣唐使派遣の頃ではないかと言われる』。『後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。蘇我蝦夷は』「日本書紀」では蝦夷だが』、「上宮聖徳法王帝説」では、「蘇我豊浦毛人」と『書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後のアイヌとの関連性をみる説である。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある』。『人名に使った場合であっても、佐伯今毛人』(さえきのいまえみし:奈良時代の公卿)『が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく蛦)と書かれた例がある』。『蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある』(☜)『喜田貞吉は、意味ではなく』、『音「かい」が蝦夷の自称民族名だったのではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「クリル」と呼ばれた。斉明天皇』五『年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという』。『金田一京助は喜田の説を批判して、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた』。『夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある』。『諸説ある中で唯一』、『定まっているのは、「夷」が東の異民族(東夷)を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら』、「古事記」『などにも普通にあるが、その場合』、『古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、蘇我毛人を蘇我蝦夷としたのも』、「日本書紀」の『編者が彼を卑しめたものとする』。『だが、佐伯今毛人の例を引いてこれに反対する意見もある』。『用字については』、「日本書紀」では、『蝦夷の夷の字に虫偏をつけた箇所も散見される』。『蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「蝦狄」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある』。『一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである』とある。なお、「蝦夷」については、福崎孝雄氏の論文『「エミシ」とは何か』(PDF・『現代密教』第十一・十二合併号・一九九九年三月発行所収)が非常に優れている。是非、読まれたい。

「辛盤(ほうらい)」「蓬萊」。蓬莱飾り。「蓬萊」の原義は、中国で東方の海上にあって仙人が住む不老不死の地とされる霊山であるが、本邦ではこの蓬萊山を模った飾りを正月の祝儀物として用いる。その飾台を蓬萊台、飾りを蓬萊飾りという。蓬萊飾は三方の上に一面に白米を敷き、中央に松竹梅を立ててそれを中心に橙・蜜柑・橘・勝ち栗・神馬藻(ほんだわら)・干し柿・昆布・海老を盛って譲葉(ゆずりは)・裏白を飾る。これに鶴亀や尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の造り物を添えることもある。京阪では正月の床の間飾りとして据え置いたが、江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」ともいい、年始の客に先ずこれを出し、客も少しだけこれを受けて一礼してまた元の場所に据える風があった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)

『「海老」の文字を祝(しゆく)したるなるべし』「老」で長寿の意ということか。ちょっと不親切な語りである。]

2021/05/17

芥川龍之介書簡抄60 / 大正五(一九一六)年書簡より(七) 井川恭宛二通(一通目は短歌二十四首/後者は旧全集・新全集ともに大正三年の誤認)

 

大正五(一九一六)年八月十七日・島根縣隱岐島菱浦竹中旅館内 井川恭樣 直被・十七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

  Fragment de la vie

    I

夜をあさみかなしかる子はおち方の空をながむと花火見にけり

風かよふ明石ちゞみのすゞしさに灯しもけさばやと云ふは誰が子ぞ

つとひらくふところ鏡空のむた花火をうつすふところ鏡

ぬばたまの夜空もとほくかつきゆる花火を見るとかなしきものか

とく帶の絽はうすけれどこの情うすしとばかり思ひたまひそ

夏ながら翡翠もさむしさりなげに眉ひそめつつ鬢をかくとき

つりしのぶ二上りなしてふる雨の中にいささか靑めるあはれ

きこゆるは人の歔欷(さぐり)か夜をこめて秋づくままになけるみみずか

かざす袖の絽こそうすけれ空のむたちりちり落つる花火透き見ゆ

わが戀もかかれと見守(みも)る遠花火しかすがかなし暗にちるとき

きりぎりすなくや夜ふかくものうげにこのたをやめのかごとするとき

口づさむ竹枝の歌のあはれさにみづから泣くと云ひにけらずや

ふためかす蝙蝠の羽のくろぐろと絽の羽織するわれを思ひれ

見まじきは蝙蝠安の頰つぺたと夕まつ宅にとべる物の怪

うたひやむ新橋(しんきやう)竹枝みづからを吉井勇に擬すと哂ひそ

    Ⅱ

みつみつし久米はしなしな夏蟬の紗の羽織着てゆきにけるかも

醉ひぬれば節(せつ)を拍(う)ちつつ淚して李白をうたふわれをこそ見め

夏まひる菊池は今かひたすらに虱ひねりて綺語を書くらむ

越の海岸の松ふく濱風の光りを戀ふと行けり松岡

浪枕旅にしあれば成瀨はも思出(もひづ)とすらむ日本の女

    Ⅲ

蚊をはらひ又蚊をはらひわがペンの音ききすます夜ふかみかも

黃色(わうじき)の灯もこそゆらげ蚊をはらふわが手ゆ出でしいささかの風

夜ふかくひとり起き出ててのむ水の音のあはれを知る人もがな

朝づくとあくる雨戶にながれ入る光つめたしわが眼のいたさ

 

○今日から一の宮へゆく 九月上旬までゐるつもり

 以後は千葉縣長生郡一の宮町海岸一宮舘ヘ

○スケツチブツクはすぐ出した 文房堂からとどいたらう

○君はいつごろ上京する

○藤岡君が出雲の方へ行つた

○たつ前で忙しい 昨日までは新小說の原稿をかいてゐた

    十七日            龍

 

[やぶちゃん注:短歌は標題番号も含めて全体が三字下げであるが、引き上げた。この内の幾つかは、前の山本喜誉司宛に載るものと相同・相似なので、同じ注は附さない。さて。宛先を見て貰いたい。「隱岐島菱浦」とある。これは隠岐の中ノ島の菱浦(グーグル・マップ・データ)である。前の書簡を見て貰いたい。本当なら、井川はここに芥川龍之介ともにいたはずなのだ。私には井川の寂しさが判る。そして、何んとも言えず、龍之介が憎くなる。昨年の夏、松江に招待して龍之介の傷心を癒して呉れたのは誰だった? 龍! と――

「空のむた」「むた」は「共・與」で名詞で「~と一緒であること・~とともにいることであるが、名詞又は代名詞に格助詞「の」「が」の付いた語に接続し、全体を副詞的に用いる。「空と一緒に」の意。

「歔欷(さぐり)」「噦(さく)り」。「さくる」は「しゃくりあげて泣く」の意。「歔欷」は

「キョキ」で、「すすり泣くこと・むせび泣き」の意。

「なけるみみず」「鳴ける蚯蚓」。無論、ミミズに発声器官はなく、鳴かないが、中国でも本邦でも、鳴くと考えられてきた。つい、最近まで、老人の中にはそう信じていた人も多かった。寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず)」に出るように、明の「本草綱目」にも「鳴く」と書かれてあり、寺島もそう信じていた。実際には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類(本邦産のそれはグリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis )の鳴き声の誤認である。ケラは土の中で生活しているため、姿が見えず、そのため、地中のミミズの鳴き声だと誤認されたのである。「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」も参照されたい。

「しかすが」流石に。

「かごと」「託言」。ここは「恨みごと」の意であろう。

「竹枝の歌」(ちくしのうた)で、男女の交情を詠むことの多い中国の民謡「竹枝詞(ちくしし)」のこと。既出既注

「蝙蝠安」既出既注

「新橋(しんきやう)竹枝みづからを吉井勇に擬すと哂ひそ」「新橋竹枝」は長谷川正直(城山)作の日本漢文の竹枝詞であろう。明治二九(一八九六)年刊。この一首、仮想歌ではあるが、その「新橋竹枝」を歌った「みづから」とは、芥川龍之介自身であり、龍之介は今までの書簡でも複数回言及している通り、吉井勇の歌を非常に好んでいたのである。

「みつみつし」氏族の名「久米」の枕詞。語義や掛かる理由ともに不詳(「みつ」は「満つ」であるとも、「御稜威(みいつ)」(=激しい威力)で久米氏の武勇を褒め称える語とする説もあるが、怪しい)であるが、「古事記」の神武天皇の条に出る、非常に古い枕詞である。

「節(せつ)」筑摩全集類聚版脚注に、『楽器の名。ふしをととのえるためにうつもの。ここは手で拍子をとりながらぐらいの意か』とある。

「綺語」美しく飾った言葉。多くは小説・詩文の美辞麗句を謂う。

「越の海岸の松ふく濱風の光りを戀ふと行けり松岡」松岡譲は新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現在の長岡市鷺巣町)出身であった。

「浪枕旅にしあれば成瀨はも思出(もひづ)とすらむ日本の女」成瀬正一が洋行していることは既出既注

「今日から一の宮へゆく 九月上旬までゐるつもり」「以後は千葉縣長生郡一の宮町海岸一宮舘ヘ」この日、千葉県一の宮(ここ。二度目。「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」を参照)へ久米正雄と避暑に出かけ、九月二日に帰宅している。新全集の宮坂年譜によれば、『滞在中の計画としては、読書や水泳は例年通りのほか、①小説を五つ、六つ書くこと、②髪を毛を伸ばすこと、の二つを挙げている』。『さらに七〇〇枚ほどの翻訳も抱えていたようである。この間、夏目漱石から久米と連名宛を含め』、『四通の書簡』『をもらう』。『のち、この一の宮滞在は鮮やかな思い出として定着した』とある。特にその時の思い出は「海のほとり」(大正一四(一九二五)年九月発行の雑誌『中央公論』に掲載された。リンク先は私の古い電子化)で非常によく描かれてある。

「文房堂」既出既注

「藤岡君」既出既注

「昨日までは新小說の原稿をかいてゐた」「芋粥」のこと。]

 

 

大正五(一九一六)年八月二十一日(年月推定)・千葉縣一の宮発信・井川恭宛(葉書・転載)

 

一の宮へ來てせつせと金儲の飜譯にとりかかつた七百枚と云ふのだから中々捗取りさうもない

しけで食ふ物が何にもないにはよはる 浪は高いが海へはいるには苦にならない もう大分黑くなつた

東京へは九月の初旬にかへる その頃君も出てくるだらう

一の宮の自然は rough な所がいい Dune なんぞアイルランドのものにかいてあるやうなのがある 夕方は殊にいい

   砂にしる目のおとろへや海の秋

   水松つみし馬の尿や砂の秋

   砂遠し穗蓼の上の海の雲

    廿一日            龍

 

[やぶちゃん注:「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」で示した通り、これは二〇一〇年刊の岩波文庫「芥川龍之介句集」(加藤郁乎編)で、原本書簡に拠って、年次が大正三年に変更された上、三句の表記の訂正もなされた(新全集も誤っていたのである)。三句目は正しくは、

   砂遠し穗蓼の上に海の雲

である。大正三年の一の宮行は、当地が郷里であった府立三中の龍之介の一年先輩の友人堀内利器(ほりうちりき 明治二四(一八九一)年~昭和一七(一九四二)年:一高を経て、京都帝国大学理科を卒業後、「高砂香料」・「台湾有機合成会社」等を創立した)の誘いによって初めての訪問であった。七月二十日頃から滞在し、凡そ一ヶ月後の八月二十三日に内藤新宿の家に帰宅している。例の吉田彌生へのラヴ・レターを書いた、あの時である。実は私自身、以前から、どうも変な感じを持っていた。何故なら、こうして二書簡を並べて見ると、前の書簡で「九月上旬までゐるつもり」と書いたものを、「東京へは九月の初旬にかへる」とダブって書いているのが、何となく引っ掛かっていたのである。

「砂にしる目のおとろへや海の秋」老婆心乍ら、「砂に」知るのは、「目のおとろへ」ではなく、「海の秋」の気配である。砂への夏から秋へと移らんとする微妙な光の変化をはっと気づいたことを「目の」衰えと挿し挟んだ。

「水松」は「みる」と読み、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile のこと。鮮緑色でフェルトのような手触りの丸紐状を成し、叉状に分岐する。私の「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」を参照されたい。

「尿」「いばり」と読む。

「穗蓼」(ほたで)はタデの花穂が出たもののこと。タデはナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属(サナエタデ(ペルシカリス)節)Persicaria に属するタデ類の総称であるが、狭義にはイヌタデ属ヤナギタデ Persicaria hydropiper を指すことが多い。同種は海岸近くの河原などに群生するから、問題ない。

「金儲」(かねまうけ)「の飜譯にとりかかつた七百枚と云ふのだから中々捗取」(はかど)「りさうもない」この翻訳が何であるかは、不思議と指示している研究者がいない。しかし、「金儲の」とあるのは、明らかに発刊した第四次『新思潮』の刊行維持のためのそれとしか読めないわけで、「七百枚」という膨大な量からみても、既に述べたロマン・ロランの「トルストイ伝」しか考えられない。

「rough」粗野な。素朴な。

「Dune」海浜などにある低い砂丘。]

芋粥」のこと。]

芥川龍之介書簡抄59 / 大正五(一九一六)年書簡より(六) 山本喜誉司宛二通(但し、前の一通は岩波旧全集編集の大正四年の錯誤)

 

大正五(一九一六)年岩波旧全集の配置。新全集では前年に配置変えされてある)八月一日牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司宛 直披・八月一日 芥川龍之介

 

今夜靜な心でこの手紙をかく事が出來るのはうれしい

「あきらめ」はまだよまない「夏姿」はあのかへりに電車の中で皆よんでしまつた ある點までは感心したが ある點――それは今の僕にとつてすべての藝術のケルンだと信じてゐる點で――で不滿だつた

いつ僕のゆめみてゐるやうな藝術を僕自身うみ出す事が出來るか 考へると心細くなる

すべての偉大な藝術には名狀する事の出來ない力がある その力の前には何人もつよい威壓をうける そしてその力は如何なる時如何なる處にうまれた如何なる藝術作品にも共通して備はつてゐる 美の評價は時代によつて異つても此力は異らない 僕は此力をすべての藝術のエセンスだと思ふ そしてこの力こそ人生を貫流する大なる精神生活の發現だと思ふ 此力に交涉を持たない限り藝術品は區々なる骨董と選ぶ所はない

日本の作品にこの力を感じるやうなものがあるだらうか 日本の藝術家にこの力をのぞむで精進してやまない者がゐるだらうか(僅少な例外は措いて)もしないとするならば彼等は悉ブルヂヨオであつて藝術家の資格はない

此意味で夏目先生の作品は大きい 武者小路氏の作品は愛すべきものがある そして志賀氏の作品は光つてゐる

僕はさびしい 始終さびしい 誰かに愛され誰かを愛さなければ生きる事の出來ない人間のやうな氣がする

正直な所時々文子女史の事を考へる 此頃Yからはなれる必要がある時は特に意識して考へる さうして一のIMAGE[やぶちゃん注:縦書。最後の「Liebes‐geschichte」以外は総て縦書である。]のかげに一のIMAGEを無理にかくさうとする それは文子女史の事を考へるときに小供の時から知つてゐるせいか淸淨な無邪氣な愛を惑じる事が出來るからだ やゝともするとSINNLICHになりやすいYの事を考へる上にいゝANTIDOTEになるからだ まだほんとうに愛する事が出來るかどうかはわからない その上愛すると云ふ事を(少くとも)發表する丈の資格が僕にあるかどうかもわからない 唯僕は前から八洲さんたちの上に祝福したいやうな氣を始終に持つてゐる さうしてそれが同時に自分の祝福になるやうな氣がして仕方がない 何しろ僕には何もわからないと云ふのが一番正しいらしい

僕はいろんな機會でこの頃妻と云ふ事を考へさせられた さうして世間の妻君を見る眼が少しづゝあいて來た

僕は醜いものの至る所にあるのに驚く 愛をはなれた性慾の至る所に力をふるつてゐるのに驚く 僕は夫婦關係を高い尊いものにしたい 其間の愛からあらゆる大なる物を生みうる關係にしたい さうして其關係の價値を其間の愛の價値にしたい

僕はすべてを解釋するのは愛だと信じてゐる この結論は昔から云ひふるされてゐる しかしこの結論にたどりついた僕の經驗は新しい 兎に角大へんにさびしい 今かきつゝある小說を君によんでもらふ時分には少しさびしくなくなれるかもしれない

僕はYの事からすつかりうちの信用を失つてしまつた 中學の時の友だちを除いては皆友だちがうちのものから猜疑の眼を以て見られてゐるやうな氣もする 僕は之を尤な事だと思ふ さうして自分の信條とそれに基く自分の藝術との爲にはこんな苦しい目にもつと幾度もあはなければならないのだと思ふ しかも僕の生活の方針はまだ確にきまつてゐない 時々僕はかぎりない落莫を惑じる

この頃ロマン・ロランのトルストイをよんで非常に感激した 一寸のすきもなく自分の弱點を攻めて行つたトルストイの事を考へると便々とくらしてゐるのが勿体ないやうな氣さへする トルストイはたへず自分を襲ふ惡德として賭博癖 色慾 虛榮心の三つをあげてゐるが その三つを救つた時に彼は現にその各に耽溺してゐたのである すべての惡が彼の手では善に生かされる そしてすべての苦痛が彼の心では幸福に生かされる 僕は此頃しみじみトルストイの大いさを思ふ

「たゞ苦まなければならない すべてをすてゝ苦まなければならない 通り一ぺんの苦痛は苦痛と感じない程に苦まなければならない それが神の意志だ 此意志に從つてはじめて人間は出來上る」

かうして苦んでゆく上に僕を慰めるものは何だらう 僕の信仰をより力づよくより大にするものは何だらう 僕はさう云ふ事をし得るものが三つあると思ふ 一は父母(もしくは其記憶)一は友人(同上)三は妻もしくは愛人(同上)さうして僕は其何れをも持つ事が出來なさうな氣がする

僕は今年中にすつきりした Liebes‐geschichte をかいて君にさゝげたいが大分覺束ない氣もする お伽噺(創作でも飜譯でも)を八洲さんへさゝげたいやうな氣もするが之も少し危い

何しろしたい事は澤山あるが時と力とがたりない 自分でも齒痒くなる 其くせずゐぶん人の事は輕蔑してゐるが

いつか本鄕のうちでうち中みんなの寫眞(君がうつしたの)を見た事がある あれを一枚僕にくれないか 僕はいま家庭的のあたゝかみに餓えてゐる 大へんにさびしい なる可く都合してくれるといゝと思ふ おばあさんやねえさんには内しよで

ほんとうにひとりぼつちだ

出たらめの歌を思ひつくまゝにかく

閻浮提に一人の人を戀ひてしばいきの命のおしけくもなし

夕よどむ空もほのかに瓦斯の灯のともるを見れば戀まさりける

ゆきくれてもの思ひをればはつはつに月しろしけり淚ぐましも

 

二伸 そのうちに稻荷祭を見せて貰ひにゆくかもしれない

 

[やぶちゃん注:この書簡は底本の岩波旧全集に従ってここに配したが、書簡中に示される龍之介の周囲の状況及び「Y」=吉田彌生に対する感情の強い名残、反して、塚本文に対する感情が淡い状態にあること、及び読書体験記載から、以前より、ここに置かれていることを変に感じていた。既に述べた通り、新全集の書簡部を私は所持しないが、それを元にした岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では、本書簡が大正四年のパートの最後に『月日不明 山本喜誉司 田端から(年推定)』として置かれてあり、これはすこぶる納得出来るものである。新全集の宮坂年譜でも、この書簡の一部を引いて、大正四年八月のパートの頭に、『この頃、塚本文への想いが芽生え始める。山本喜誉司に「正直な所時々文子女史の事を考へる」などと書き送っている』とある。岩波旧全集編者の配置ミスと断じてよい。ただ、一つだけ不審なのは、旧全集が封筒を確認して『八月一日牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司宛 直披・八月一日 芥川龍之介』としていることである(新全集は封筒は確認出来ていない(欠)ものと思われる)。或いはこれは、編集作業中に、別な封筒を誤って本書簡の封筒と誤った結果のように考えるのが至当かと思われる。なお、短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。

「あきらめ」小説家で女優でもあった田村俊子(明治一七(一八八四)年~昭和二〇(一九四五)年:本名・佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生まれ)が明治四四(一九一一)年に『大阪朝日新聞』でに懸賞小説一等になって連載され(元日から三月二十一日まで)、同年七月に出版した、事実上の彼女の本格的な文壇デビュー作である(彼女はそれ以前に幸田露伴の門下に入って、明治三五(一九〇二)年に師から与えられた「佐藤露英」のペン・ネームで小説「露分衣(つゆわけごろも)」を発表している。その後、露伴から離反した)。石割氏の注によれば、『新しい女性としての自覚と挫折を描く』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本が読める。

「夏姿」永井荷風(明治一二(一八七九)年~昭和三四(一九五九)年:本名・永井壮吉。東京市小石川区金富町四十五番地(現在の文京区春日二丁目)生まれ)の小説「夏すがた」大正四年一月刊。刊行後に発禁処分を受けたが、石割氏の注に、『第一版は売り切れた』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で初刊原本が読める。

「ケルン」Kern。ドイツ語。「中心の部分・核・中核」の意。

「SINNLICH」ドイツ語。ズィンリヒ。「感覚の,・感覚的な・感性的な・官能的な」。

「ANTIDOTE」アンティドゥト。英語(但し、ギリシャ語(ラテン文字転写「antídoton」)「anti-」(反対して)+「dotón」(与えられるもの)=「対抗して与えられるもの」が古フランス語になったものが、原語)「解毒剤・悪影響などに対する防御・対抗・矯正の手段・方途」。

「八洲」塚本文の弟。

「Liebes‐geschichte」リーベス・ゲシッヒテ。ドイツ語。恋愛物語。

「閻浮提」(えんぶだい)は仏教で言う人間世界。私の「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」(他にサイト横書版と、サイト縦書版PDFもある)の私の注を参照されたい。

「稻荷祭」山本の現住所からは、赤城出世稲荷神社(グーグル・マップ・データ)か。]

 

 

大正五(一九一六)年八月一日・山本喜譽司宛・(写)

 

みれんものこよひもひとりおち方の、花火を見るとなみだしにけり

    ×

花火みにゆけりや君と問(と)ふ時もかなしさつゝむわれとしらなく

    ×

夏ながら翡翠もさむき夜となれば、われと泣(な)かるゝわれなりしかな

    ×

つげの櫛おさへさす手もほのぼのと白きがまゝに夏さりにけり

    ×

遠花火君と見る夜のかなしさに袂つゆけくなりにけるかな

    ×

風かよふ明石縮のすずしさに燈も消さばやといふは誰が子ぞ

    ×

水あかり君にふさふといふわれの君すかしみる水あかりはも

    ×

とく帶の絽はうすけれどこの情うすしとばかり思ひ給ひそ

    ×

ふさはねどわれら二人の戀のせてゆく自動車に夕立す今

    ×

夕立つやかはたれ時の金春を君といでゆく自動車の戀

    ×

金春の小路々々に灯はともり二上りなして夕立す今

    ×

えやわする君とゆく夜の自動車にわれらがつめる薔薇の花たば

    ×

その宵の牡丹燈籠のうすあかりなほわが胸にさすと知らずや

    ×

魂祭る新三郞のさびしさに似しさびしさも君あるがため

    ×

いやさらにさびしかれ君帶止の翡翠も今はけなばけぬべく

    ×

白玉の憂抱くと君が頰いよゝかなしくなりにけるかな

    ×

ものうげにわれをながめてうちもだすその明眸にかへむものなし

    ×

うたひ女のかなしさ知れと君が眼の燭を見るこそわりなかりけれ

    ×

君の手紙が來たのは卅一日だつたからやつぱり間にあはなかつた。今度は二三日前から知らせてくれ給へ、三日の外はいつでもいゝ。夜銀座ででもあひたい、このごろのあつさにはよわる、有樂座かどこかの活動寫眞をみに行つてもいゝ。アトランテイスはみた。つまらない、小說を勉强して三つもかき出した。

    一日             龍

 

[やぶちゃん注:短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。この歌群の女には吉田彌生の面影がやや被ってはいるかも知れぬものの、実際には私は想像の中の架空の女との仮想創作であると断ずるものである。これらには私は傷心のニュアンスの色が心底には深刻でなく、しかも薄っぺらくて、ロマンティクなシーンも、あたかもキッチュな大道具仕立てのようにしか見えないからで、何より、全く同工異曲の俳句群が直前の大正五(一九一六)年七月二十五日井川恭宛書簡に出現しているからである。この手の龍之介の、ある意味、安易な自己剽窃的変造製造の癖は、彼の自死まで続き、遺稿詩篇集成である「澄江堂遺珠」詩篇群にも、それが、よく現われている。私の『「澄江堂遺珠」という夢魔」』を参照されたい。

「みれんもの」「未練者」。

「おち方」歴史的仮名遣の誤りで「遠方(をちかた)」であろう。

「翡翠」翡翠の繡(ぬいとり)をした男女のための閨(ねや)の帷(とばり)。ここは単に閨。如何にもな唐趣味で臭い。臭過ぎる。

「明石縮」現在の新潟県十日町市の「十日町明石ちぢみ」。サイト「明石ちぢみ」のこちらによれば、『「明石ちぢみ」は今から』四百『年ほど前』(元和(げんな)年間。一六一五年から一六二四年。徳川秀忠・家光の治世)、『播州明石の船大工の娘・お菊によって「かんなくず」をヒントに考案されたといわれています。また、『本朝俗諺誌』に「明石縮は 豊後国ママ 小倉の名産なり」という記述が見られるように、明石藩主の小笠原氏が豊前小倉に国替えとなり、小倉でも生産されていました』。『享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に刊行された『万金産業袋』に「たて絹糸、横もめんいとにて、 尤(もっとも)もよくうつくしく縮たる物也。」とあり、もともとは、 経緯(たてよこ)とも木綿でありましたが、 苧(お)と絹の交織が生まれ(苧縮)、やがて経緯とも絹糸になり、「明石本縮」と呼ばれた歴史もあります』。『そして、明治』二〇(一八八七)『年頃、新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が、西陣の織物業者が「明石ちぢみ」を研究しているのを見て、西陣より湿度が高く、越後縮以来の強撚糸の優れた技術を持つ十日町が織るのに適していると考え、十日町の機業家「米忠」の佐藤善次郎に裂見本を見せて研究を進めたのが、「十日町明石ちぢみ」の始まりです』とある。なお、別に、「きもの淳彩庵」のこちらのページには、全く異なる起原が記されてある。『江戸前期に越後国(新潟県)小千谷に縮布の製織技術を伝えたとされる明石次郎が明石ちぢみの由来らしいです』。『本名は堀次郎将俊。明石藩松平家の武士であったが、流浪の末に、寛文の初めごろ』(一六六一年頃)『小千谷地方に住みついたそうです』。『小千谷では古くから麻布の生産が行われてい』ました『が、明石次郎は緯糸に強い撚りをかける縮布を考案し、種々の縞や飛白模様の夏向き高級縮布を開発したといわれます』とある。

「ふさふ」「相應(ふさ)ふ」。「釣り合う・相応する(相応(ふさ)わしい)・調和する」の意。

「絽」(ろ)は「綟り織(もじりおり)」で織られた薄く透き通った絹織物の一種。江戸時代に、夏の衣料に用いる生地として発展した織物で、紗(しゃ)の変形に相当する。

「ふさはねど」「相應はねど」。

「金春」西銀座の「金春(こんぱるどお)り」(グーグル・マップ・データ)。花街であった。サイト「銀座 金春通り」の「金春通りの歴史によれば、『江戸情緒を今も残す「銀座の最後の砦」と言われている由緒ある通りで』、『「金春通り」の名』『は江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来』するとあり、『金春屋敷』は『安永九(一八七〇)年頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転』した『後、「金春芸者」の名が知られ、現在の銀座七、八丁目西側の辺りが歓楽街となったのは幕末の頃で』あったとあり、『能役者は幕府御用達の町人として一般の町人とは別格の扱いを受けてい』たものの、『能役者は武士ではないので、拝領地に町人を住まわせてはならないということもなかったようで、能役者の貸長屋には町人が住むようになり』、『しかも、能役者は若年寄の直接支配を受けなかったので、次第に芸者が住むようになったと』される。『彼女たちは唄や舞などの芸に秀で、おもてなしの才能にも長けていたことから、江戸芸者の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ、金春通りは』実に昭和』四十『年代まで』、『多くの芸者の集る花街として賑わ』ったとある。また、『この花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」で』、『青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されてい』るとある。

「二上り」「にあがり」と読む。三味線の調弦法の一つで、本調子を基準にして第二弦を一全音(長二度)高くしたもの。派手で陽気な気分や田舎風を表現する。ここは花街であるから、実際の三味線のそれが聴こえてもくるところだが、ここは夕立の音をそれに喩えたととるべきである。

「えやわする」「えや忘る」。副詞「え」+係助詞「や」で、ここは反語。

「魂祭る新三郞のさびしさに似しさびしさも君あるがため」前歌の「牡丹燈籠」から、知られた三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」の主人公の浪人萩原新三郎が、お露(実は亡魂)と出逢う直前のシーンを自分に擬えて示したものだが、いやいや、いかにも、あざとい、ね。因みに、その本邦での淵源である「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」はたまたま、一月前に、満を持して電子化注してあるので、是非、読まれたい。

「けなばけぬべく」老婆心乍ら、「消なば消ぬべく」である。

「うたひ女のかなしさ知れと君が眼の燭を見るこそわりなかりけれ」この映像は悪くない。

「やつぱり間にあはなかつた」何が間に合わなかったのかは不明。

「三日の外はいつでもいゝ」三日に何があるのかは不詳。

「アトランテイス」一九一三年公開のデンマークの無声映画“Atlantis ”。監督はオーガスト・ブロム(August Blom 一八六九年~一九四七年)、原作は「沈鐘」で知られるドイツの作家ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二年~一九四六年)の一九一二年の同名小説。本邦では筑摩全集類聚版脚注によれば、大正五(一九一六)年七月二十三日から三十一日まで帝劇で上映されている。シノプシスは英語版ウィキを読まれたい。

「小說を勉强して三つもかき出した」この一日に「芋粥」を起筆している。後の二つは限定出来ないが、恐らくは小説「猿――或海軍仕官の話――」と小品小説「創作」であろう(両作は千葉一の宮滞在中の八月十九日に脱稿している)。後の二作は九月一日発行の第四次『新思潮』第七号に掲載されている。]

2021/05/16

「日本山海名産図会」電子化注始動 / 第三巻 目録・伊勢鰒

 

[やぶちゃん注:ここのところ、何か強いメランコリックへと傾斜しており、何をしても面白くない。一つは、この数年、厭人傾向が異様に高まったことに加えて、判り易いのは、好きな海産生物趣味から、暫く無沙汰していることがその理由であると判っている。そこでルーティンのテクスト(現在は十数テクスト)に、以前からやりたいと思っていた、これを追加することとした。

 「日本山海名產圖會」(内題には「山海名產圖會」とあるが、目録題を採るのが一般的)は寛政一一(一七九九)年に大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行された諸国物産図会で全五巻。蒹葭堂(けんかどう)の号で知られた大坂の町人博物学者木村孔恭(こうきょう)の著とされる(序を記していることからだが、本文の著者であるかどうかには異論があるようではある)。挿絵は、大坂の書店主から画家に転じ、人物や山水画に巧みだった蔀関月(しとみかんげつ)が担当し、解説を補助して、諸製品の対象原材料となる生物及び物質の採取・捕獲・製造工程などが描かれており、当時の具体な産業状況をヴィジュアルにも見ることが出来る。

 本書は先行する宝暦四(一七五四)年に板行された物産図会「日本山海名物圖會」(平瀬徹斎編著・長谷川光信画・全五巻。鉱山業・農林水産・民芸・軽工業・市などの庶民生活に関する産業技術を図解して、産業史・技術史研究の重要資料とされる)の寛政九(一七九七)年の再板の後を受けて作られたものであるが、採用内容に偏りがあり、農林産物は少なく、水産と自然物採取の猟法・漁法並びに食品や製品の製造法(さらには販売輸送)に重きが置かれてある。ざっと俯瞰すると、

第一巻は、「攝刕(せつしう)伊丹酒造」が一巻まるごとが製造過程を詳細に追って叙述し、

第二巻は、人用岩石・茸(きのこ)類・「熊野蜂蜜」・「山椒魚」・「吉野葛」・「山蛤(やまかへる)」(アカガエルと推定する(本電子化の際に再検討する)。乾燥品を食用・薬用とした。)・「鷹峯(たかのみね)蘡薁蟲(えびづるのむし)」(スカシバ科の蛾ブドウスカシバの幼虫。薬用)・鳥類・熊(標題が「捕熊」とある通り、熊の捕獲法の図がなかなか凄い)

第三巻は、「伊勢鰒(いせあはび)」・「伊勢海鰕」・「丹後鰤」・「平戶鮪(ひらとしひ)」・「讃刕鰆(さんしうさわら)」・「若狹鯛」・讃岐の特殊な海の網打ち法・「能登鯖」・「廣島牡蠣」と一巻全部が海産、

第四巻も、「土佐堅魚」・「讃刕海鼠」・「越前海膽(えちぜんうに)」・「西宮白魚(にしのみやしらうを)」・「桒名燒蛤(くわなやきはまぐり)」・「加茂川鮴(かもがはごり)」・「豫刕大洲石伏(よしうおほずいしぶし)」・「神通川鱒(しんたうかはのます)」(漢字表記ママ)・「諏訪湖八目鰻」・「明石章魚」・「滑川大鮹魚」・「高砂望湖魚(たかさごいひたこ)」・「河鹿」とやはり一巻全部が海産・淡水産魚類、

第五巻は、「備前水母」・「近江石灰(あふみいしばひ)」・「伊萬里陶器(いまりやき)」・「越後織布(えちごぬの)」・「松前膃肭」(まつまへおつとう)・「唐舩入津(たうせんにふつ)」・「阿蘭陀舩(おらんだふね)」と追記・附録的で、

全体に水産生物絡みであることが一目瞭然である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの初版原本の画像を視認する。挿絵もそこにあるものを使用させて貰った。不審な箇所は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある、後の浪花梶木町の播磨屋幸兵衛板行の文政一三(一八三〇)年版と校合した。なお、最初に述べた通りで、私の憂鬱から、電子化は第三巻から行い、四・五巻を終わったところで、第二巻へ移り、最後に序を含めた第一巻の順で行う。なお、「ARC書籍閲覧システム」の翻刻(新字)(例えば以下ではここ)を一部で加工データに使用させて戴いた。

 句読点・記号等を用いて読み易くした。漢字は正字か略字か迷った場合は正字とした。清音・濁音はそのまま写した。本文はほぼ総ルビ(数字や一部漢字にはない)であるが、難読(漢字の判りにくい異体字も含む)と判断したもの・判読が振れそうなものについてのみに附すこととした。なお、読みの一部を送りがなとして出して読みやすくした。ポイント落ち二行割注風の箇所は短文では上付にし、長いものは【 】で同ポイントで示した。図もキャプションを電子化し、必要な場合は図を解説する。字の大きさは再現はしていない(一部で多少配慮したところはある)。踊り字「〱」「〲」は「々」或いは正字に直した。一部の読みの「ゝ」を正字化して送り仮名に出した。ママ注記は、原則、附さない(脱字と誤解される虞れのある箇所には附した)。注は緻密に附けると、また悩ましくなってしまうので、気儘に附ける(と言っても結局、拘ることにはなろう。一度として、こう言っておいて「気儘な注」になったことは私のテクストでは限りなくゼロに等しいからである)。【二〇二一年五月十六日始動 藪野直史】]

 

山海名產圖會   三

 

日本山海名產圖會巻之三

    目録【漁捕品】

○伊勢鰒【長鮑(のし)  真珠】

○伊勢海鰕

○丹後鰤【追網 立網(たてあみ)  他國鰤】

○平戶鮪【冬網】

○讃刕鰆【流網(なかしあみ)】

○若狹鯛(わかさたひ)【同鰈(かれ)  鹽蔵風乾  他國鯛[やぶちゃん注:「かれ」の読みはママ。]】

○讃岐刕榎股𢸍網(ゑまたふりあみ)【同 五智網(ごちあみ)】

○能登鯖【同刕(たこく)釣舟(つりふね)】

○廣島牡蠣(かき)【同 畜養法(やしなひはう) 種類】

 

 

漁捕品(りようとりのひん)

 

    ○鰒(あはび)【長鮑制(のし)  眞珠 或云、「あはひは『石决明』を本字とす。『鰒』は『トコフシ』なり。」。】

 

Iseawabi

 

[やぶちゃん注:二枚とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(原本の質感を大事にするために補正は行わなかった。今後もそれでゆく)。キャプション「伊勢鰒(いせあわび)」。三人の海女が描かれているが、彼女たちは「蒲簀」を帯びておらず(舟の中には竹籠状のそれはあるが)、一番左手の海女は、そのまま大型のアワビを素手で差し出している。上の舟には夫婦の子どもらしい少年が手伝いをしている。]

 

伊勢國、和具浦(わくうら)・御座浦(おましうら)・大野浦の三所に鰒を取り、二見の浦・北塔世(きたとうせ)と云ふ所にて、鮑(のし)を制すなり。鰒を取には、必、女海人(おんなあま)を以てす【是れ、女は能く久しく呼吸を止(や)めて、たもてるが故なり。】。舩にて、沖ふかく出づるに、かならず、親屬を具して、舩を盪(や)らせ、縄を引かせなどす。海に入るには、腰に小(ちい)さき蒲簀(かます)を附けて、鰒、三、四ツを納(い)れ、又、大いなるを得ては、二ツ許りにしても、泛(うか)めり。淺き所にては、竿を入るゝに附けて泛む。是れを「友竿(ともさほ)」といふ。深き所にては、腰に縄を附へて、泛まんとする時、是れを動かし示せば、舩より、引きあぐるなり。若き者は五尋(いつひろ)、卅以上は十尋・十五尋を際限(かぎり)とす。皆、逆(さかさま)に入つて、立ち游ぎし、海底(かいてい)の岩に着きたるを、おこし、箟(へら)をもつて、不意に乘じて、はなち取り、蒲簀に納む。その間、息をとゞむること、暫時。尤も、朝な夕なに、馴れたるわざなうとはいへども、出でて息を吹くに、其聲、遠くも響き聞えて、實(まこと)に悲し。

[やぶちゃん注:以下の「○五畿内の……」の手前までは、底本では全体が一字下げ。]

   附記

○海底に入つて鰒をとること、「日本記」允恭(いんきやう)天皇十四年、天皇、淡路の島に獵し給ふに、獸類(しうるい)甚多しといへとも、終日、一ツの獸(けもの)を得ることなし。是れに因つて、是れを卜(うらな)はしめ給ふに、忽ち、神霊の告げあり。曰はく、「此の赤石(あかし)の海底に真珠あり。其の珠(たま)をもつて、我れを祠らば、悉く獸を獲(ゑ)さすべし」ときゝて、更に所々の白水郞(あま)を集めて、海底を探らしむ。其そこに至るゝこと、あたはず。時に阿波の國長邑(なかむら)の海人(あま)男挾礒(おさし)といふ者、腰に縄を附けて踊り入り、差項(しばらく)ありて、出でて曰はく、「海底に、大鰒ありて、其の所に、光を放つ。殆ど、神の請(こ)う所、其の鰒の腹中(ふくちう)にあるべし。」と。人の議定(ぎじやう)によりて、再び、探(かづ)き入りて、かの大鰒を抱(いだ)き、浪上(らうじやく)に泛(うか)み、頓(にはか)にして、息、絕へたり。案のごとく、眞珠、桃の子(み)の如き物を、腹中に得たり。人々、男挾礒が死を悲(あは)れみ、葬むりて、墓を築き、尙、今も存せりとぞ。此の時、海の深さは、六十尋にして、殊に男海人(をとこあま)の業(わざ)なれば、其の勞、おもひやられ侍る。後世(こうせい)、是れを模擬して、「箱嵜(はこざき)の玉とり」とて、謠曲に著作せしは、此の故事なるべし。

【○鰒は、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]、介中の長なり。古へより、是を美賞す。大なる物、徑(わた)り尺餘になるもの、二、三寸。水中にあれは、貝の外に半出て[やぶちゃん注:「なかばいでて」。]、轉運して、以て、跋步(まは)る。】

○五畿内の俗 是を「アマ貝」といふは、海人の取るものなればなるべし。「アハビ」といふは偏(かたかた)に着きて合はざる貝なれば、「合はぬ實(み)」といふ儀なるべし。「萬葉」十一に、「伊勢の海士(あま)のあさなゆふなにかづくてふあはびのかひのかたおもひにして」。同七に、「伊勢の海のあまの島津(しまつ)に鰒玉(あはひたま)とりて後(のち)もか戀のしけゝん」。又、十七に、「着石玉(あはび)」とも、かけり。○雄貝(おかい)は狹く、長し。雌貝(めかい)は圓く短く、肉、多し。但し、九孔(きうこう)・七孔(しちこう)のもの、甚だ稀れ也。

 

Nosiwoseisu

 

[やぶちゃん注:キャプションは「長鮑制(のしをせいす)」。なお、この挿絵は底本では、「鰒」の附録の「眞珠」の途中のここに挿し入れてある。]

 

 ○制長鮑(のしをせいす)【俗に「熨斗」の字をかくは、誤りなり。「熨斗」は女工(によこう)の具、衣裳を熨(の)し伸(の)すの器にて、「火のし」のことなり。】

先(まつ)、貝の大小に隨ひ、剥(む)くべき數葉(かす)を量り、横より、數々(かずかず)に剥き、うけ置きて、薄き刄(はもの)にて、薄々(うすうす)と、剥き口より𢌞(まは)し切る事、圖のごとし。豐後豐島(としま)、薦(ござ)に敷き並らへて、乾すが故に、各(おのおの)、筵目(むしろめ)を帯びたり。本(もと)・末(すへ)あるは、束ぬるか爲めなり。さて、是れを「ノシ」といふは、昔、「打鰒(うちあはひ)」とて、打栗(うちぐり)のごとく、打ち延ばし、裁(た)ち截(き)りなどせし故に「ノシ」といひ、又、「干しあはひ」