大和本草卷之八 草之四 水草類 眼子菜(ひるむしろ) (ヒルムシロ属)
【外】
眼子菜 倭名ヒルムシロト云水中ニ生ス莖長ク水中ニ蔓
延ス水上ニノホラス葉ノウラ紫色也水面ニ葉ウカブ葉ニ
筋アリ光アリ俗說ニ陰干ニ乄爲末服ス治傷食霍亂
甚有効煎服亦可ナリト云三才圖繪草木十卷ニ
眼子菜生水澤中靑葉背紫色莖柔滑而細長可
數尺トアリ○救荒本草曰眼子菜采之熟食六七
月採★其葉如此
[やぶちゃん注:★部分に上図が挿入されてある。図は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像からトリミング補正した。]
○やぶちゃんの書き下し文
眼子菜(ひるむしろ) 倭名「ひるむしろ」と云ふ。水中に生ず。莖、長く、水中に蔓延す。水上に、のぼらず。葉のうら、紫色なり。水面に、葉、うかぶ。葉に筋あり、光りあり。俗說に「陰干にして、末と爲し、服す。傷食・霍亂を治し、甚だ、効、有り。煎服〔(せんぶく)〕するも亦、可なり」と云ふ。「三才圖繪」草木十卷に『眼子菜、水澤の中に生ず。靑葉の背、紫色。莖、柔滑にして、細長し。數尺〔ある〕べし』とあり。
○「救荒本草」に曰はく、『眼子菜、之れを采り、熟〔して〕食す。六、七月、採る。★其の葉、此くのごとし』と。
[やぶちゃん注:単子葉植物綱オモダカ目ヒルムシロ科ヒルムシロ属 Potamogeton の中で、浮葉を展開するものの総称、或いは、
ヒルムシロ属ヒルムシロ Potamogeton distinctus
を指す。本邦には上記の他に近縁種として、ヒルムシロによく似た、
フトヒルムシロ Potamogeton fryeri
オヒルムシロ Potamogeton natans
及び、形は似ているものの、草体が遙かに小さいもの(浮き葉の長さが二~二・五センチメートルのもの)で、
コバノヒルムシロ Potamogeton cristatus
ホソバミズヒキモ Potamogeton octandrus
などが植生する。参照したウィキの「ヒルムシロ」によれば、『楕円形の葉を水面に浮かせる。穏やかな流水条件化で生育することもあり、細長い浮き葉の形はそれへの適応かとも見えるが、池などの止水にもよく出現する』。『地下茎は泥の中にあって横に這い、水中に茎を伸ばす。茎には節があり、節ごとに葉をつける。葉は互生するが、花序のつく部分では対生することもある』。『水中では水中葉を出す。水中葉は細長く、薄くて波打っている。次第に茎が水面に近づくと浮き葉を出し始める。浮き葉は細長い柄を持ち、葉身は楕円形で長さ』五~十センチメートル、幅二~四センチメートルほどで、『先はやや』尖る。『表側はつやがあって』、『水をはじくが、ハスほどではない。葉は』、『やや赤みを帯び、表側は黒っぽく、裏側は赤っぽく見える』。『花は夏以降に出る。葉腋からやや長い柄が出て、先端に棒状の花穂がつく。開花時には穂は水面から出て直立するが、花が終わると』、『横向きになって』、『水中に入る』。『秋になると』、『茎の先』が『膨らんで』、『芋状になり、越冬芽を形成する』。『池や用水路で普通にみられるが、水田周辺からは』現在は殆んどが消失してしまった。『日本では北海道から琉球列島まで、国外では朝鮮半島から中国、ミャンマーにまで分布する』。『名前の由来は』「蛭筵」で、『浮葉を蛭が休息するための筵に例えて名付けられたとされる』。ここでは俗説と断って、薬用に、また、救荒食物として挙げられてあるが、現行では、『特に利用される例や害となる例はない』とある。『ヒルムシロ属の植物はすべて水草で、全世界に約』百『種、日本には』十八『種ほどが』植生するが、『浮葉を出すものと、全く出さない沈水性のもの(エビモ』(ヒルムシロ属エビモ Potamogeton crispus :南米以外の世界各地に分布し、北米では五大湖などに侵入し、侵略的外来種として扱われている。水質汚濁に強く、増殖すると、在来の植物を駆逐してしまうことがあり、また、湖沼に大量に繁茂すると、ボートなどでの移動を妨害することもあり、厄介者扱いされる場合もある。ただ、先の通称総称の属性から言うと、これは「ひるむしろ」にとは呼ばないということになる)『など)があり、はっきりした浮葉を出すものがヒルムシロとよばれる。なかには浮葉を少ししか出さないものもある』とする。
「傷食」漢方用語。我々が普通に使う「食傷」も本来は同じ。飲食が原因となって脾胃が傷害された病証を指す語。飲食の不摂生或いは脾虚のために、飲食物が消化されずに停滞し、胸や上腹部が痞(つか)えて苦痛を感じたり、腐臭のある噯気を吐いたり、食欲不振・悪心・嘔吐・下痢・舌苔の変調などが所見される。
「霍亂」日射病、及び、夏場に発症し易い激しい吐き気や下痢などを伴う急性消化器性疾患。
『「三才圖繪」草木十卷に……』「三才圖會」(普通はこちらの表記)は絵を主体とした明代の類書。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂されたもので、全百六巻。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のこちらの左頁にある(絵有り)。益軒の引用の後に続いて、『湯淖晒乾再泡 醯醬拌食』(「湯に淖(あ)へて、晒し乾し、再び泡だて、醯醬(すひしほ)に拌(ま)ぜて食す」か)とある。
『「救荒本草」に曰はく、『眼子菜、之れを采り、熟〔して〕食す。六、七月、採る。★其の葉、此くのごとし』と』「救荒本草」は明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、この「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を探したが、残念ながら見出せなかった。どなたか、発見したら、お教え願いたい。]
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