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2021/05/23

芥川龍之介書簡抄68 / 大正五(一九一六)年書簡より(十五) 塚本文宛(一通目は夏目漱石逝去四日後)

 

大正五(一九一六)年十二月十三日・鎌倉発信・塚本文宛

 

お手紙二通とも拜見しました難有う每日さびしく暮してゐる身になるとこれほど嬉しいものはありません今東京からかへつたばかりです東京へ行つては二晚つづけて御通夜をしてそれから御葬式のお手傳ひをして來ました勿論夏目先生のです僕はまだこんなやりきれなく悲しい目にあつた事はありません今でも思ひ出すとたまらなくなります始めて僕の書く物を認めて下すつたのが先生なんですからさうしてそれ以來始絡僕を鞭撻して下すつたのが先生なんですから

かうやつて手紙を書いてゐても先生の事ばかり思ひ出してしまつていけません逝去されたあくる日に先生のお孃さんの筆子さんが學校へ行かれたら國語の先生の武島羽衣が作文の題に「漱石先生の長逝を悼む」と云ふのを出したさうですさうしてそれを黑板へ書きながら武島さん自身がぽろぽろ淚をこぼすので生徒が皆泣いてしまつたさうですそれから又先生の主治醫の眞鍋さんは醫科大學の先生をしてゐるんですが大學生は皆大山さんの容態なぞは一つもきかずに先生の病狀ばかり氣にしてききに來たさうですさうして眞鍋さんが先生を診察する爲に學校を休むからと云ふと大學生は皆口を揃へて「自分たちの授業なぞはどうでもいいから早く行つて夏目先生の病氣をなほして上げて下さい」と云つたさうですさう皆に大事に思はれてもやつぱり壽命は壽命で仕方がなかつたのでせう實際もう一年でも生かしてあげたかつたと思ひますが 何だかすべてが荒凉としてしまつたやうな氣がします體の疲勞が恢復しきらないせゐもあるのでせうあした早く起きなければなりませんからこれでやめます 匆々

    十二月十三日夜    芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:この四日前の十二月九日(土曜日)の午後六時四十五分、胃潰瘍の体内出血を主因として死去した。驚異的な詳細年譜である荒正人著の「漱石文学全集」別巻(昭和四九(一九七四)年集英社刊)によれば、同日、『赤木桁平は、電話で久米正雄に、もう、一、二時間持つかどうか分らぬ、芥川龍之介にも伝えて貰いたいと知らせ』、久米は『芥川龍之介に伝えるため、鎌倉の居宅と小町園(芥川龍之介主賓の宴会が予定されいた)に電報を打つ』とあるが、芥川龍之介が来たのは、二日後の十一日(月曜日)の十二時頃であった。これについては、岩波新全集宮坂年譜に、『朝、久米正雄から「センセイキトク」の電報を受け取ったが』、『着任早々の上、午前中に授業があったため、夏目家に行ったのは』十一日『になった』とある。ところが、九日から十日未明の通夜は実は早々に切り上げられて、午前二時頃に、『遺骸は大学病院に送られ』、その朝になって、漱石の妻鏡子の『発案で、漱石の意志を汲み取り、また、医師たちへの感謝の念からも解剖に付して貰うことになり』、この手紙にも出る医師『真鍋嘉一郎に解剖を申し出』たのであった。これは明治四四(一九一一)年十一月二十九日に一歳八ヶ月で夭折した末娘『ひな子の急死の時』、『解剖に付さなかったので、死因が不明のままになっていたことも遠因であった』とある。解剖は東京帝国大学医学部解剖室に於いて、同日午後一時四十分から長與又郎医師の執刀で行われ(真鍋も立ち会っている)、三時三十分に終わって(なお、摘出された脳と胃が寄贈され、脳は現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されてある)、遺体が帰宅、納棺式は午後八時四十分に始まり、九時半に終わった。しかし、そうは言っても、龍之介はこの十日の夜の再開された通夜に弔問することは出来たはずである。ただ、思うに、翌日に葬儀が営まれることから、久米が新任教師の龍之介の仕事に気を利かして、「その葬儀全般が忙しいので、それに合わせて来て手伝って貰いたい」などと伝えたものかも知れない。私は慶応大学医学部に献体しており、葬儀も行わず、家の墓にも入らないから、知人の葬儀などにも実は内心は頗る冷徹なのだが、この弔問の遅延は常識的(私は常識人ではないのだが)に見て甚だ気になる。それは遺稿「或阿呆の一生」の次があるからである。

   *

 

       十三 先生の死

 

 彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラットフォオムを步いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラットフォオムの向うには鐵道工夫が三四人、一齊に鶴嘴(つるはし)を上下させながら、何か高い聲にうたつてゐた。

 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は卷煙草に火もつけずに歡びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

   *

荒氏の前書によれば、亡くなった翌日は『霰まじりの雨』で、芥川龍之介が解剖後の通夜に赴いた十一日は雨である。そして、何よりも、ここで「上り電車」とあるのに着目されたい。読者はこうした年譜的事実を知らないから、当然、これは久米の打った漱石危篤の電報を持って、東京行の横須賀線に薄暗い早朝に鎌倉駅から主なき漱石山房に向かう龍之介を映像するわけだが、このシークエンスは以上の事実との細かな無数の部分までもが、皆、齟齬しており、巧妙な創作であるということが、今は判ってしまうからである。というより、「或阿呆の一生」は芥川龍之介研究の秘鑰(ひやく)であると同時に、そこら中にトリップが掛けられたかなり危険なメタモルフォーゼした「ゾーン」である。

「筆子さん」夏目漱石の長女夏目筆(明治三二(一八九九)年~昭和六四(一九八九)年)。筑摩全集類聚版脚注に、『松岡譲と』大正五(一九一六)年に婚約し、翌年に(ここは岩波文庫の「芥川竜之介書簡集」の石割氏の注を参照した。なお、それによれば、この時(漱石逝去時)、筆は『日本女子大学付属高等女学校在学』とある)『結婚した。結婚に際しては芥川自身がその対象に目されたり、久米正雄の失恋問題が絡んだ。その間の事情は久米の「破船」に詳しい』とある。

「武島羽衣」(たけしまはごろも 明治五(一八七二)年~昭和四二(一九六七)年)は日本橋生まれの国文学者・歌人・作詞家で日本女子大学名誉教授。本名は武島又次郎。瀧廉太郎の有名な歌曲「花」の作詞者として知られる。

「主治醫の眞鍋さん」真鍋嘉一郎(明治一一(一八七八)年~昭和一六(一九四一)年)は愛媛県生まれの医学者で、日本における物理療法(理学療法)・レントゲン学・温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。「日本内科学会」会頭・「日本医学放射線学会」初代会長を歴任、X線に「レントゲン」の名を初めて使用し、日本に定着させたことでも知られ、「医聖」と呼ばれた。漱石の他、大正天皇や浜口雄幸などの著名人の主治医を務めた。

「大山さん」元帥陸軍大将。内大臣大山巖(天保一三(一八四二)年~大正五(一九一六)年)。鹿児島生れ。西郷隆盛の従弟。彼も真鍋が主治医であったということになる。

「粧次」(しやうじ(しょうじ)は女性宛ての手紙の脇付 に用いる語。]

 

 

大正五(一九一六)年(年次推定)・田発信・塚本文宛

 

文ちやん

少し見ないうちに又脊が高くなりましたねさうして少し肥りましたねどんどん大きくおなりなさいやせたがりなんぞしてはいけません體はさう大きくなつても心もちはいつでも子供のやうでいらつしやい自然のままのやさしい心もちでいらつしやい世間の人のやうに小さく利巧になつてはいけません×××××のやうになつてはいけませんあれではいくら利巧でも駄目ですほんとうの生れたままの正直な所がないからいけませんあれの持つてゐるのはひねくれたこましやくれた利巧ですあんなになつてはいけませんすなほなまつすぐな心を失はずに今のままでどんどんおそだちなさい

それはむづかしい事でも何でもありません何時までも今のままでいらつしやいと云ふ事です何時までも今のやうな心もちでゐる事が人間として一番名譽な事だと云ふ事です私は今のままの文ちやんがすきなのです今のままの文ちやんなら誰にくらべてもまけないと思ふのです

 

えらい女――小說をかく女や畫をかく女や芝居をかく女や婦人會の幹事になつてゐる女や――は大抵にせものですえらがつてゐる馬鹿ですあんなものにかぶれてはいけませんつくろはずかざらず天然自然のままで正直に生きてゆく人間が人問としては一番上等な人間ですどんな時でもつけやきばはいけません今のままの文ちやんは×××××を十人一しよにしたよりも立派なものです何時までもその通りでいらつしやいそれだけで澤山ですそれだけで誰よりもえらござんす少くとも私には誰も外にくらべものがありません

これはおせじではありません私は文ちやんに噓なぞは決してつかないつもりです世間中の人に噓をつく必要がある時でも文ちやんにだけは噓をつかないつもりです私の云ふ事をお信じなさい私も文ちやんを信じてゐます人間は誰でもすべき事をちやんとして行けばいいのです文ちやんもさうしていらつしやい學校の事でもうちの事でもする丈をちやんとしていらつしやいしかしそれから何か報酬をのぞむのは卑しいもののする事です學校の事にしてもいい成績をとるために勉强してはいけませんそれはくだらない虛榮心です唯すべき事をする爲に勉强するのがいいのですそれだけで澤山なのです成績などはどんなでもかまひません成績は人のきめるものです人に自分のほんとうの價値は中々わかりませんですから成績なんぞをあてにするのはつまらない人間のする事です

世間には金と世間の評判のよい事とばかり大事にする人が澤山あります又實際金持や華族がえばつてゐますしかし金持のえばれるのは金がえばるのですその人間に價値があるからではありません華族がえばるのもその肩書がえばるのですその人間がえらいからではありませんえばつてゐる華族や金持が卑しいやうに華族や金持をありがたがる人間も卑しい人間ですそんな人間の眞似をしてはいけません學校の成績も同じ事ですさう云ふ虛名をあてにしてはいけません自分のほんとうの價値をあてにするのです自分の人格をたのみにするのですすなほな正直な心を持つた人間は淺野總一郞や大倉喜八郞より神樣の眼から見てどの位尊いかわかりません

お互に苦しい目や樂しい目にあひながら出來るだけさう云ふ尊い人間になる事をつとめませうさうして力になりあひませう

そのうちに兄さんとでも遊びにいらつしやい私は每日忙しいさびしい日をくらしてゐます出來るだけたびたび文ちやんにもあひたいのですがさう云ふわけにも行きませんきつといらつしやい待つてゐますみんなで文展ヘ一度行きませうかこれでやめます

 

[やぶちゃん注:「×××××」不詳。この当時の有名な女性で五文字の名となると、女優の松井須磨子とか、歌人の與謝野晶子が浮かびはする。後者は後に交流を持つが、私はそれは先輩作家・歌人としてであって、女性として龍之介がどう考えていたかとは、また、別問題である。「いくら利巧でも」というところからは私は、晶子を指しているようにさえ思えるのである。因みに、私は与謝野晶子は大が附くほど、嫌いである。

「淺野總一郞」(嘉永元(一八四八)年~昭和五(一九三〇)年)は「浅野セメント」で知られる実業家。一代で浅野財閥を築いた。筑摩全集類聚版脚注は、『芥川は俗物の例によくあげる』とある。

「大倉喜八郞」(天保八(一八三七)年~昭和三(一九二八)年)も実業家。大倉財閥の設立者で、渋沢栄一らともに、鹿鳴館・帝国ホテル・帝国劇場などを設立。藝材の東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。]

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