芥川龍之介書簡抄71 / 大正六(一九一七)年書簡より(三) 塚本文宛・井川(恒藤)恭宛
大正六(一九一七)年四月十八日・鎌倉発信・塚本文宛
こないだは、よく來てくれましたね 人が來たり何かして、ゆつくりしてゐられなかつたのが、殘念です 二人だけで、何時までも話したい氣がしますが さうも行きません
五六日前に 電車の中で、不良靑年が どこかのお孃さんのあとをつけてゐるのを見ました そのお孃さんは 何でも學校のかへりらしいのです 不良靑年の方は 三人ゐました みんな下等な いやな奴ばかりです 原町かどこかで、そのお孃さんが電車を下りたら、みんな一しよに下りました ひるまですが、氣の毒にもなり 心配にもなりました さうして、もしそんな事が文ちやんにあつたら 大へんだと思ひました その時は夏目さんへゆく途中だつたのですが 向うへ行つて奧さんにその話をしたら 夏目さんのお孃さんたちの所へも 支那の留學生があとをつけて來た事があると云ふんで、驚きました あとをつける所ぢやない 何時までも門の外に立つて、お孃さんの出るのを待つてゐたり 電話をかけたりするんださうですから 不屆きです その時も 少し文ちやんの事が心配になりました それから橫須賀の學校へ行つて、東京の不良靑年の話をしたら、橫須賀にもそんな連中が五六人ゐて、ナイフで羽織を切つたり 途中で喧嘩をふきかけたりするんだと云ふので、愈物騷な氣がし出しました 世の中には 我々善良な人間が考へてゐるよりも 遙にさう云ふ連中が多いのです よく氣をつけて下さい 僕たち二人の爲にですから
來年の今頃にはもう、うちが持てるでせう 尤も月給が六十圓しかないんだから ずゐぶん貧乏ですよ それでやつて行くのは 苦しいが がまんして下さい 苦しい時は 二人で一しよに苦しみませう その代り樂しい時は二人で一しよに樂しみませう さうすれば又 どうにかなる時が來ます 下等な成金になるより 上等な貧乏人になつた方がいいでせう さう思つてゐて下さい
僕には 僕の仕事があります それも樂な仕事ではありません その仕事の爲には ずゐぶん つらい目や苦しい目にあふ事だらうと思つてゐます しかしどんな目にあつても、文ちやんさへ僕と一しよにゐてくれれば僕は決して負けないと思つてゐます これは大げさに云つてゐるのでも 何でもありません ほんとうにさう思つてゐるのです 前からもさう思つてゐました 文ちやんの外に僕の一しよにゐたいと思ふ人はありません 文ちやんさへ、今の儘でゐてくれれば 今のやうに自然で、正直でゐてくれれば さうして僕を愛してさへゐてくれれば
何だか氣になるから ききます ほんとうに僕を愛してくれますか
この手紙は 文ちやん一人だけで見て下さい 人に見られると 氣まりが惡いから
四月十六日 龍
文 子 樣
[やぶちゃん注:この前の四月十二日に芥川龍之介は養父道章を伴って、京都・奈良見物に出かけ、この日の午後には、井川改め恒藤恭の新家庭を訪問しており、翌十三日には恒藤恭の案内で、東本願寺・嵐山・清涼寺・金閣寺を訪れ、夕方には都踊りを見物、十四日(土曜日)、道章と二人で奈良を見物した後、午後八時二十分発の列車で京都を立って、翌十五日に田端の実家に戻っている。この時、養母儔(トモ)が丹毒(化膿菌の一つである連鎖球菌が皮膚に感染し、真皮内に化膿性炎症を起こす疾患。小外傷・熱傷・湿疹などが細菌の侵入契機となる。顔と手足に好発し、悪寒・発熱を伴って、皮膚に境界のはっきりした発赤と腫れが生じ、触れると硬く、灼熱感と圧痛があり、リンパ節も腫れて痛む。病変は高熱とともに周囲に拡大し、粘膜の侵された病状や、小児・高齢者に生じた場合は重症となる。治療は安静にして抗生物質の全身投与を行い、病変部には湿布を行う。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)で高熱を発して床に就いていた(五月初旬に軽快した。以上は併載した次の恒藤恭宛書簡も参照されたい)。また、この数日後の四月二十日には書き悩んだ「偸盗」の続編を脱稿している(七月一日『中央公論』に掲載された。以上は総て新全集宮坂年譜に拠る)。
「原町」現在の東京都新宿区原町にあった市電(当時は東京市)の停車場名。後に「小石川原町」と改称し、都電廃止とともに消滅した。]
大正六(一九一七)年四月二十二日・消印二十四日・京都市外下鴨村松原中ノ町八田方裏 井川恭樣[やぶちゃん注:ママ。]・四月廿二日 東京田端四三五 芥川龍之介
先達はいろいろ御厄介になつて難有う
その上、お土產まで頂いて、甚恐縮した 早速御禮を申上げる筈の所、かへつたら、母が丹毒でねてゐた爲、何かと用にかまけて 大へん遲くなつた。
かへつた時は まだ四十度近い熱で、右の腕が腿ほどの太さに 赤く腫れ上つて 見るのも氣味の惡い位だつた。何しろ 命に關る[やぶちゃん注:「かかはる」。]病氣だから、家中ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にびつくりした が、幸とその後の經過がよく、醫者が心配した急性腎臟炎も起らずにしまつた 今朝患部を切つて、炎傷から出る膿水をとつたが それが大きな丼に一ぱいあつた 今熱を計つたら卅七度に下つてゐる このあんばいでは、近近快癒するだらうと思ふ 醫者も もう心配はないと云つてゐる、
何しろ かへつたら、芝の伯母や何かが、泊りがけで 看護に來てゐたには、實際びつくりした 尤も腕でよかつたが、
醫者曰く「傳染の媒介は 一番理髮店で、耳や鼻を剃る時にかみそりがする事が多い さう云ふのは 顏へ來る。顏がまつ赤に腫れ上つて 髮の毛が皆ぬけるのだから女の患者などは 恢復期に向つてゐても、鏡を見て氣絕したのさへあつた」と 用心しないと、あぶないよ 實際
とりあへず御禮かたがた 御わびまで
まだごたごたしてゐる
廿一日夜 龍
[やぶちゃん注:「芝の伯母」既出既注であるが、「伯母」とするが、叔母で龍之介の母フクの死後に敏三の後妻となったフクの妹フユのこと。義母に当たることから「伯母」と呼んでいるのであろう。]