ブログ1,530,000アクセス突破記念 梅崎春生 明日 / 恐らく現在読める最初(昭和九(一九三四)年二月満十九歳)の梅崎春生の小説
[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第一号に発表されたもので、梅崎春生当月で満十九歳の若書きの一篇で、現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)である。当時は、熊本五高二年であった。
底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」(本巻最終巻)の「初期短編補遺」に載るそれを用いた。
本来なら、戦前の作品であり、恐らくは正仮名が用いられ、漢字も正字であったろうが、原雑誌を見ることが出来ないので(掲載雑誌については中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜の昭和九年のパートに『怠け癖から、三年生になる際に平均点不足で落第し』たとあり、この年、『同人誌「ロベリスク」に参加し』たとある)、この雑誌は当時の熊本五高の友人であった霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:後に左派小説家となった春生の盟友。日本共産党員でもあったが後に除籍された)とともに出した同人誌である(同誌に発表した『梅崎春生 詩 「海」(私の勝手復元版)』なども参照されたい)。詩篇とは異なり、歴史的仮名遣の手入れが異様に多くなるので、底本のままに新字新仮名とした。一部、文中に注を附した。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝1,530,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年5月7日 藪野直史】]
明 日
破れた障子に冷たい夜風が、今目も鋭い口笛を吹き始めた。冷え切った火鉢に、寒々と十六燭の電燈が映って居た。凍った指先をこすり合わせながら汚れた机の前に坐って、先刻からおし黙って谷崎潤一郎の「あつもの」に読みふけって居た私にむかって、原は原稿を書き疲れた物憂い瞳を挙げて、
「おい煙草はまだ残って居たか」
とたずねた。私も長時間の読書に疲れた目を挙げると、乱暴に散らされた寝床や、あちこちに取り散らされた書物のうす暗い影に、おしつぶれて居るバットの箱を認めて、原の方をむいて黙ってそれを指さして見せた。原は手を伸ばしてそれを取ると、一本引き出して、あとを私の机の上にほうった。その中には、おしつぶされて平ったくなったバットが二本残って居た。
[やぶちゃん注:『谷崎潤一郎の「あつもの」』「羹(あつもの)」で、初出は明治四五(一九一二)年『東京日日新聞』に七月から連載された谷崎最初の連載長編小説であるが、五ヶ月後の十一月に中絶して連載は終わった。翌大正二(一九一三)年一月に、未完のままの「羹」を単行本として春陽堂から刊行したが、遂にその続きは書かれなかった。私は読んでいない。山崎澄子氏の論文「谷崎潤一郎『羹』論」(PDF)と年譜資料に拠った。前者には『単行本「羮」刊行にあたって、「羮序」という文章が綴られ、そこには「『羮』の全編はどうしても半年か、八九ヵ月くらい連載し得る分量を持って居るやうだ。そこで一先づ三分の一を纏めて、PART Ⅰ. として刊行すると決めた。」と記されている。しかし、残る三分の二は、ついに発表されることはなかった』とあり、こちらの年譜記載では、谷崎は連載中の八月十二日の段階で、早くも『「羹」は、書いていてつまらないと零してい』た、ともあった。梅崎が読んでいるのは、その単行本か。
「原」不詳だが、冒頭注に記した終生となる友人霜多正次の可能性が高い。
「バット」「ゴールデン・バット」。煙草の銘柄。私の大学時分でも吸うことはあまりなかった。二〇一九年販売を終わった。]
私はぐっとこみ上げて来る胴ぶるいをおしこらえると、その一本を引き抜いて点火した。そうして、その煙が、うす汚ない電燈にまつわって、美しい、妖(あや)しい夢の様な曲線を画いて流れ始めると、長い読書に吸い込まれて居た自身の形象が、今始めてコトコトと跫音(あしおと)を立てて帰って来たような気持を感じ始めた。今まで結滞を続けて居たんじゃないかと思われる心臓の微かな調子が、私の耳の側の血管でコツコツと鳴り始めて居るのであった。
「今日も矢張り暮れて行くんだ。俺の気持も考えずに暮れて行くのだ」
と私は呟いた。先刻からかゆい頭の地から、長い毛髪がだらりと下って来て、その度毎に煙草のやにで黄色くなった指でかき上げねばならなかった。一種の倦んだ空気がこの様に寒々しい部屋の中に、豪壮な饗宴の後の様にただよって居たが、それは此の部屋の陰惨な風景にも拘らず白々しさを極めた存在であったが為に、呼吸すら出来ない程食い違った感情を私達はやっとの事でこらえて居るのであった。
「火を焚(た)こうよ。寒いから――」
と原が火鉢の方ににじり寄って、そこらにころがって居る物を薪の材料に物色し始めた。だんだん燃やすものが無くなって行く此の部屋。木枯の中の冬の樹が、その一枚一枚をふり落して行く様に、此の部屋からも、一つ一つ金目になるものが失われて行った。二三日前までは貧しい存在ではあったにしろ、唯一つの生命あるものとして、原の机の上であわただしい鼓動を続けて居た置時計すら、一昨日以来その存在を消して居た。それを手離す時二人とも言い様のない憤どおろしさを私達の生活態度に感じたものだったが、水族館の魚群の様に、日々感情を喪失して行く私達だったので、その憤怒も一時的なものであり、もう今日は蠟の様な瞳で、今、此の部屋から姿を消すべき一つの物象を、死物狂いの捜索を続けて居るのであった。
やがて乏しい紙片と木片が集められて、マッチをする音がわびしく障子にこだました時、私も「あつもの」を捨てて火鉢の方ににじり寄った。さっきから折々聞えて来る障子の口笛は、一筋の冷たい風となって、私達の身体を冷えびえと襲うのであった。貧しい熱量が二人の指先を少しではあったがあたため始めた時、私は此の沈滞した沈黙に堪えかねて、折れる様に話しかけた。
「原稿の方は進んだか」
「いやまだ。まだ十枚ほどしか書いて居ない」
再び沈黙が来、紙片が燃え尽きて灰の様な感情が残った。そうして、その灰をかきわけた時、ボッと再び顔を持ち上げた焰の様に、原は腹の底から出る様な声で話し出した。
「今敏感と言う言葉の形容詞を考えて居るのだ、どんなのが良いだろうか。何か動物を持って来たいのだけれども――猫なんかどう思う」
「うん。猫も良いね。猫もペルシャ猫あたりが良い」
「ベルシャ猫か。インド猫なんかどうだろう。インド猫の様に敏感に気付いて居た。何か情熱をひそめて居てとても敏感な感じがするけれども」
二人は、ひきつった様にほそぼそと笑い声を立てた。此の印度猫なんか見た事もないうす汚ない男がよくも考え出したものだ、と言うような空々しい笑いではなかった。此の汚れた部屋に、ペルシャ猫とか、印度猫とかを考える事は何たる矛盾であったか。豪奢な夫人の居間の番人にでもふさわしいペルシャ猫や印度猫が、此の惨めな男の手によって、安物の原稿紙の上に踊らされるなんて。泣き出したくなる様な惨めな笑いだった。とまれ此の原稿が売れなければ、二人は下宿を追い立てられて飢死凍死するより外にはないのだ。
「もう何時だろうなあ。時計の奴も居なくなってしまったし」
「もう九時近くじゃないか知らん。寒さの具合がきっとそうだと思うよ。時にお前は晩飯食ったか」
「いや、まだ食べないよ」
再び私達は枯葉の様にかわき切ったかすれた笑い声を立てた。
バットの吸いさしを火鉢の中につっ込むと、私は始めて猛烈な空服を自覚した。手足がじんじんと冷え切って、どうにもならない気持だった。原の故郷から送ってよこした餅(もち)の余りが二つ三つ古畳の上にわびしい影を投げながらころがって居たけれども、火の気もない此の部屋では、どうにも食うすべはなかった。近頃の下宿の私達に対する不信用は、此の寒空に火の気をすら奪い取ってしまったのだ。
「まだ金が残って居るか。一昨日のたま突きのつり銭があるだろう、きっと」
原はごそごそと音を立てながら引出しの中をかきまぜて居たが、やっと拾いあてたものと見えて、
「うん三十銭程ある、出ようか」
「うん、しかし君の方の原稿はどうなるか」
「今神経がつかれて居るから、これ以上一字も書けないよ、第一手が凍えて書けないよ」
私は押し啞(おし)の様に立ち上って、洋服を着始めた。
「梁園ノ日暮乱飛ブ鴉極目粛条タリ三両家」
と節も何もない棒読みの唐詩を誦しながら矢張り洋服に着かえて居た原が突然、
「ああ、いやな生活だなあ、何故こんな生活を始めたんだろう。もうこうなりゃ堕落の一筋じゃないか」
と独語(ひとりごと)の様に呟きながら激しい舌打をするのであった。もう感情なんて贅沢なものは捨ててしまって、土竜(もぐら)のようにこそこそとその日その日を闇黒の中に過す私達にとって、こんな人並みの友情なら破壊するであろうような言葉は日常茶飯事のように語られた。悲しい心を持ちながらことさらに他人の心を傷つけようとする傷ましい心だ。それは気紛れではなくて、苦痛に押しゆがめられた心の隙間からフッと出て来る風のようなものであった、そうして、お互はそれを悲しい気持で許容するのであった。そんな時、私達は各々孤立した感情の城砦の中に立てこもって、じっと自分自身の本当の形態を見つめて居る癖に、なおも何物かにすがろうと細々しい触角を臆病そうに四方に伸ばして居るのであった。
[やぶちゃん注:詠じた「唐詩」は優れた辺塞詩で知られる盛唐の詩人岑參(しんじん 七一五年~七七〇年)の以下。最後の方で本文にも出るが、新字なので、ここで先に正字で示す。
*
山房春事
梁園日暮亂飛鴉
極目蕭條三兩家
庭樹不知人死盡
春來還發舊時花
*
山房春事
梁園の日暮れ 亂れ飛ぶ鴉
極目(きよくもく) 蕭條(せうでう)たり 三兩家(さんりやうか)
庭樹は知らず 人 死に盡くすを
春 來りて 還(ま)た發(ひら)く 舊時の花
*]
此の類廃の中にひそんで、息をこらして、しかもじっと堪えて居た私ではあったけれども、時折物すごい憂鬱の圧迫に堪え切れず、ひそかにぬけ出ては独り裏街を彷徨して居たのが、いつしか習慣にまでなったと見えて、私には、悲しい放浪癖がつき始めて居た。すっぽりとマントに身をつつんで、黄昏になると蝙蝠の様に忍び出て通町筋を裏街へ裏街へと迷い込んで行き、目的もない意味もない一ときの散歩に、さなきだに疲れ果てた神経をなおが上にも疲れ果てさせるのであった。しかし、裏街の風物――ごみためや、汚物の打ち捨てられて居る細い路地を通る時、私は何かなしにほっとしたものを感じるのであった。そうした慰安らしいものを求めてする散歩ではあったけれども、その散歩途中などにおこるいろいろな事が私に恐ろしい事実を教え始めて居た。それはあんな生活の為に極度にまでとぎすまされた神経が俄かに弱って来たと見えて、時々物を判別するのにとんでもない誤りを犯し始めた事であった。スイフトが発狂する以前の彼の神経状態を思う毎に私は悚然(しょうぜん)とした。やがて此のゆるんだ絃の様な神経が狂気の水準にまで垂れ下って来る日を思うと、私は思わずどうしたら良いだろうどうしたら良いだろうと、おろおろ声になって叫び出したくなるのであった。
[やぶちゃん注:この段落以下の「私」の精神状態の叙述や彷徨行動及び神経症的な認識様式は、明らかに梶井基次郎の「檸檬」(大正一三(一九二四)年十月稿。雑誌『靑空』大正一四(一九二五)年一月創刊号に掲載、後に昭和六(一九三一)年五月武蔵野書院刊の作品集『檸檬』に所収された。リンク先は私の古い電子化。私の教師時代の「檸檬」の「授業ノート」も公開している)を意識している。
「通町」熊本県熊本市にある繁華街通町筋(とおりちょうすじ)。熊本県道二十八号に沿ったメイン・ストリート。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「スイフトが発狂する以前の彼の神経状態」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照。
「悚然」ひどく恐れるさま。慄(ぞ)っとして竦(すく)むさま。]
私が神経の誤算を最初気付き始めたのは次のような事からである。
ある日、やはり部屋に居たたまれないで黄昏時分に部屋を出て行き、なけなしの財布をはたいて、通町迄の切符を求めて空ろな瞳で車内広告などを眺めて居た時に始まる。私にとっては悲壮な物語となる事件であったが、疲れ果てた表情をして病み呆(ほう)けて居た巷に電車が止って、私が降りようとした時、電車の後方約三十間[やぶちゃん注:約五十四メートル半。]位の所を可成りなスピードで流れて来る二箇のへッドライトを私は認めたのであった。そうして私はとっさの間に自動車が此の地点まで到着する時間を、そのスピードと距離とから割出して、私が下りて歩道の上に立つまでの時間を考え合わせて、いそいで歩道に駆けこもうとした時、まだ歩道に達する半ばの距離も行かないうちに、自動車はほとんど身近に迫って居て、危く私の体を突きたおそうとしてギギギと不気味な音を立てて止ったのであった。生れて以来の都会生活に此の様な訓練は充分に経て居るべき私の神経が、この様な簡単な計算に誤るなんて、私は口汚ない運転手の罵声を背中にうけながら愴惶として町のくらがりに姿を消したのであったが、その道をよろめき歩きながらも幾度私は神経の弱りを嘆じた事であろう。
[やぶちゃん注:「愴惶」「そうこう」。倉皇・蒼惶。慌てふためくさま。慌ただしいさま。]
この様な恐ろしい錯誤は次から次へと起って来た。ある小春日和の日、縁側へ寝そべって所在なさに古雑誌を拾い読みして居た時、私はギクリとして全身が硬直する様な不安に襲われた。それは今めくってある頁の挿絵はたしか八九頁前見た挿絵と同じものと思われたからである。弱った神経が、始めて見た絵だのに、すばらしい病的な活動をつづけて、ずっと前見たものであると誤認したのだろうか。その挿絵はいかにも毒々しく画かれてあって、町人風体[やぶちゃん注:「ふうてい」。]の男が河沿いの柳の木の下で、髪をふり乱してしどけない裾の女の為に匕首[やぶちゃん注:「あいくち」。]で突かれて、後方に転倒しようとして居る図であったが、私はどうしてもそれを前一度見た事がある様な気がするのである。いや八九頁前にきっと此の挿絵はあった。私はふるえる手をおさえながら慌だしく七八枚前までめくりかえして見たが、そこには他の挿絵、全体似つかぬ図があるだけで、私の探し求めるものは無い。私は狂気の様になって、その雑誌のあっちをめくりこっちをめくって探したのだけれども遂に探し出せず、茫然として立ちすくんだのであった。冬にしてはあまり暖かすぎる日光の為に、一時頭脳がしびれたのであろうか。私はバットの吸いさし、蜜柑の皮の散らされてある便所の匂いのする此の庭の風物を愕然とした気持で凝視しながら、じっと、ぼっと黒く溶けて行く将来をみつめて居たのであった。
亦こんな事もあった。原と所在なさの一夜、ふるえながら英語の単語の問答をして居た時、(こんな余裕ありげな生活を装いたくなる程当時の私達は疲れて居たのだ)判決 verdict と言う単語が出て来た時、それを無意識にフェルディクト、フェルディクトと発音して居たら原がすぐ気付いて
「そりゃヴァーディクトじゃないか、ヴァーディクトだよ」
と注意して呉れたのであったが、私にはどうしてもそれがフェルディクトとしか読めなかったのだ。
「ヴァーディクトだって! フェルディクトじゃないか」
「フェルディクトは独逸読みじゃないか、英語はヴァーディクトだよ」
「英語だってフェルディクトとしか読めんじゃないか」
と私は原の言葉を不思議なものに思ってさえぎったのだったが、ああ私は亦何と言う錯誤を犯して居た事だろう。それから小一時間もすぎてうつらうつらと眠りかけて居た私はハツとしてその誤りに気付いたのだったが、それに対する滑稽と言う感じよりは、心一杯にひろがる真黒な恐怖をひしひしと感じたのであった。
[やぶちゃん注:「verdict」英語「ヴェーディクト」。「評決・判定」の意。梅崎春生には特定の単語に対する、その発音への、やや神経症的な拘りが後の作品でもしばしば見られる。病跡学的には、かなり興味深い特異点である。]
そんな風な一日、九時頃からマントをすっぽりかぶって無意味な彷徨を続けて居た時、きっと此の角を曲ったらあの明るい町に出るのだと思いながらも漫然と足を進めて居ると、やがて目前に、ひろびろとひらけて来たものは、明るいネオンの巷ではなくて黝々(くろぐろ)とひろがった荒れ果てた空地であった。そうしてその空地に傲岸とそびえ立つ黒い影のような建物を見て私ははっと気が付いた。ああ私は曲り角を一つ間違えて居たのだ。此のくろぐろと立って居る建物こそ、私が中学を出て一年間の浪人生活を送った予備校の夜の姿であった。それは苦しい思出と共に傷心の涙すら持って居るものであったが、その時ばかりはそのかぶさって来る様な圧迫感に茫然と立って居た私の心の中ではやがて恐怖の燈が点滅し始め、やがて心の底をしぼり出すような恐怖感におそわれると、私は身体中鳥肌を立てて、いきなりワッと叫ぶと一目散に今来た道を走り戻ったのであった。
[やぶちゃん注:「傲岸と」傲(おご)り高ぶって威張っているかのように。
「私が中学を出て一年間の浪人生活を送った予備校」梅崎春生は昭和六(一九三一)年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となった。中井正義氏の前掲書によれば、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしいが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』した、とある。「予備校」は不詳。なお、冒頭で述べた通り、五高では二年次に原級留置となるが、この時は『叔父からの学資供給が停止するかもしれぬという危惧に悩んだが、病気だったことにして母』貞子『が体面をつくろってくれた』とある。]
此の黝い建物に対する訳の分らない恐怖は、実は自分の神経の没落に対する無意識な恐怖ではなかったかと考え考えしながら、私は明るい町をその日に限って撰んで帰って来たが、やはり火の気もない、原が尺取虫のように机の前に血走った目でうずくまって原稿にしがみついて居る部屋で、私は寒さと疲れにブルブルふるえながらベッタリと坐り込んで、これだけは、俺の本当の心の住家だと悲しくも慰めて居た古ぼけた日記帳を取り出して、神経の絃の節長きすすり泣きを書きうつすためにそっと開くのであった。
私がそう言う神経の苦痛に悩まされて居た時、原も同じ様に虫歯に悩まされて居た。原稿を書きながらも、原は自分の歯に食い入って来る目に見えない力を如何に憎んで居た事だろう。湯なんか永い間飲んだ事の無い私達は、咽喉がかわけば必ず歯も氷りつく様な水をすすらねばならなかった。特に原にとっては、それが直ぐ苦痛を意味するものである事はあまりにも明白な事実であった。私達は冷たい水を飲みながらも、幾度あの明るい喫茶店の空気を恋い慕ったろう。
時折歯の痛みが極度に上って来ると、原は狂気の様になって、
「ああ俺は原稿なんか書けないよ、書けないよ」
とわめきたてるのであった。
遂に或る日、私は見かねて、かねてから之だけはと空っぽの行李の中に投げ込んで居たオックスフォードをかかえ出して、質屋に走って行って金にかえて来ると、
「今日こそ歯医者に行って来いよ」
と言って、丁度その時歯の根の鈍痛に苦しんで居た原の手に握らせると、そうそうに歯医者へと追い出したのであった。
[やぶちゃん注:「オックスフォード」「オックスフォード英語辞典」(Oxford English Dictionary)であろう。一九二八年出版。]
それから一時間程の後、神経の狂って居ないかを心配しながら自分の指を数えて見たりして詰らぬ時間を過して居た此の部屋に、口笛と共に少しは陽気になった原が帰って来たのであったが、此の長い生活難の日々に始めて救われた様な、ほっとした気持を見出す事が出来たのであった。日の射す縁側で原と久しぶりの歓談を楽しみながらも、此の春はきっと故郷へかえって、神経衰弱もなおして来ようと思ったりした。
そうして話が彼の書いて居る原稿の事に移った時、私は久しぶりに忘れて居た好奇心と言うものを持って、それを見せて呉れと頼んだのであった。そうして彼の貸して呉れた原稿をかかえて、うすぐらい部屋の片隅に立ててある机の前に坐りこむと、思わずしばらくの間にそれを読了したのであった。それを読んでしまった時の私の感激を何と言って表現したら良いだろう。彼の頭に此の頽廃的な雰囲気から醗酵して来る、妖しい夢を題材とした、蛞蝓(なめくじ)の様な蠱惑(こわく)感に満ちた作品であった。甘美なとろけるような雰囲気と、頽廃した腐敗した雰囲気のたくみなる調和を彼は一字一字ねばりある文字で表現して居た。
「おお何と言う素晴しさだ、俺はお前の感覚に心からの讃辞をささげるよ」
「いや有難う」
流石(さすが)にうれしそうに笑って見せた原の顔を、私は心から嘆美の念で見かえしたのであったが、ああこんな情感は亦何箇月ぶりの事であったろう。未完成の作とは言え、このような柔軟な魅力ある筆力を持った男を今まで見出さなかった私の不明を、私は今、ほのかなよろこびの感情を以てすら思い起すのだ。
しかしその夜、あまりにも昼間たかぶった神経の反動として、私の神経系は混乱を来(きた)し始めて居た。巷は風で一ぱいであった。私は憂鬱そのものの心をじっと抱きしめて町から町へ歩きまわった。薄汚ない路地を通る時もうこれ以上しいたげたってしいたげられない、私の神経や私の運命に、私はある意地悪い嘲笑を感じるのだった。
暗い町であった。月が出て居なくて、曇空の下に町はうめいて居た。明るい巷に押しつぶされた路地を歩きながら、ふと私は奇妙な感覚――右の下駄と左の下駄と何かしら入れかわって居ると言う奇妙な感覚を持ち始めた。家を出る時から変って居たのだろうか。だったら何故今まで気が付かなかったろう。私は混乱した神経系統をまとめようとあせりながらも考えて見た。そうして、大きなごみ捨て場の横に立って居る電柱につかまりながら、右と左との下駄を取り代えた。そうしてのろのろと二三間[やぶちゃん注:約三~四メートル。]歩き出した。しかし、亦奇妙な感覚が再び私の足の裏をこそぐった。私はも一度脱ぎかえて見た。そうしても一度、そうしても一度、泣き出したいようないらだたしさで私は下駄を変えて見るのだ。何度変えても結局同じ事であった。足袋が次第に湿った土に濡れ始め、冷え冷えとした大地が急速に私の足裏から熱をうばって行った。ああもう駄目だ。
「ああ俺の下駄は一体どれだ」
私は天を仰いで十二時頃の空気をビンビン動かす程叫んだ。そうして暫く耳をすまして何等の答も無いのを知ると再び大声を上げて。
「ああ俺の下駄は一体どれだ」
と叫んで見た。そうして狂人のようになって、下駄を各各の手に握って、力まかせにかたわらにある溝の中に投げこんだ。
私はその夜遅く、足袋はだしのまま、アスファルトを踏んで、黝い路地を踏んで、白い霜を踏んで下宿まで帰って来た。あの明るい街燈の下の八間道路のアスファルトを、人っ子一人通らない静寂の中を、私の踏む足袋はだしの音がヒタヒタと聞えて来て、それは非常に淋しいうら悲しい諧調音を作った。そうしてヒタヒタと上って来る冷気が足先は勿論、ひざ頭の辺までの感覚を奪ってしまって居て、私の耳はまだそうそうと鳴る風の音を聞く事が出来るのであった。ああ今から亦あの厭な部屋に帰るのか、此の寒い風がピュンピュン障子を鳴らすあの部屋に。こんな手足が千切れるような状態にありながら、私の頭は妙にジンとして甘い幻想を追って居たのであって、あの故郷の茶の間の陽気を吹く鉄びんなどが妙に印象的に反芻(はんすう)されるのであったが、いつしかボオッと沈んで行った寒風の街の風景に、私は初めてあつい涙を、いとしい感情の悲歌を知ったのである。
[やぶちゃん注:「八間道路」先の通町筋のことか。八間は十四・五四メートル。]
しかし原の原稿が、ある雑誌に採用せられて、いくばくも無かったにしろ、とにかくまとまった金が私達の手もとに入った時の私達の喜びはどんなであったろう。それはある寒い日であったが、昼頃から原が飄然と出て行ったあとの空虚な部屋に私はちぢこまって、庭の泉水の水を飲みに来る犬の舌の音に耳をすましたり、ダンテの神曲を原の書棚から抜き出して拾い読みしたり(之は原の本棚に残る唯一の金になる本であったが)して居る中に、元気よく帰って来た原が真新しい緑色のバッ卜を二箱ポンと私の机の上にほうったのであった。そうして私は彼の顔色ですべてを読みとると、どっちからともなく心の底から湧いて来るような哄笑の唱和が部屋の障子を鳴らし始めたのであった。しかし、それは、数箇月笑いと言うものから遠ざかって居た私達にとって何たる快い笑いであったか。そうして二人とも新しいバットに点火して、私は久しぶりのバットの香を快く味わい、原は原でボードレールの「酔いたまえ」と言う散文詩を口吟みながら、煙の作り出す妖しい線の戯れを追って居るのであった。二人は、
「今晩は飲むんだぞ、今晩は酔うんだぞ」
と繰返しながら、炭を買って来て幾晩か夢想したあの湯気の出る鉄瓶をそれに掛けて置いた。そうして失われた夢とばかり信じて居た風景を目の前にして、私達は子供のように喜悦の叫び声を挙げたのであった。
[やぶちゃん注:『ボードレールの「酔いたまえ」と言う散文詩』シャルル・ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal )の一篇、‘Enivrez-vous ’。私の偏愛する「富永太郎詩集」(初版昭和二(一九二七)年刊家蔵版復刻版)から引く(古い電子化で正字化が不全なので、一部を訂した)。
*
醉へ!(ボオドレエル)
常に醉つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩を疲らせ、君の體(からだ)を地に壓し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら、君は絕え間なく醉つてゐなければならない。
しかし何で醉ふのだ? 酒でも、詩でも、道德でも、何でも君のすきなもので。が、とにかく醉ひたまへ。もしどうかいふことで王宮の階段の上や、堀端の靑草の上や、君の室の陰慘な孤獨の中で、既に君の醉ひが覺めかゝるか、覺めきるかして目が覺めるやうなことがあつたら、そのときは風にでも、波にでも、星にでも、鳥にでも、時計にでも、すべての飛び行くものにでも、すべての唸くものにでも、すべての𢌞轉するものにでも、すべての歌ふものにでも、すべての話すものにでも、今は何時だときいてみたまへ。風も、波も、星も、鳥も、時計も君に答へるだらう、「今は醉ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隸になりたくないなら、絕え間なくお醉なさい! 酒でも、詩でも、道德でも、何でもおすきなもので。」
*
確かに、ここで詠ずるに相応しい一篇である。]
その夜私達は風の吹く巷を外にして、暖かい酒亭の一室で心ゆくまで酔った。そうして呂律の廻らぬ舌でもつれた会話を、どこまでもどこまでもたどって行くのであった。
「ほら巷では風が吹くよ。あの風も俺達の部屋の障子の穴を今頃は遠慮なく通り抜けてるだろうなあ」
「そうだよ、ああ、みじめな過去だったよ。しかし亦明日からはコトコトと跫音をたててあの生活に帰って行くのだよ」
「悲しい事は言いっこ無し。飲むのだ、酔うのだ、酔い給え」
とボードレール張りの気焰を上げて二人は飲むのであった。昨日と明日の現実を忘れて心ゆくまで芳烈な酒の香にひたった。そうして原は床柱を背にして陶然とうたい出すのであった。
梁園ノ日暮乱飛ブ鴉
極目粛条タリ三両家
庭樹ハ知ラズ人ノ去り尽スヲ
春来リテ還発ク旧時ノ花
火照(ほて)った頰をおさえながら、私はじっと硝子戸ごしに巷を行く人の姿を見つめた。彼等のはく白い息に又も寒い今夜であった。
「ああ俺には新しい世界がある、新しい世界がある」
と原は慷慨(こうがい)の調子で叫んだ。
「そうだ、君は新しい世界をあの中から見つけ出した。俺は別に英雄主義者じゃないんだから君を尊敬しようとは思わないが、君のあの緻密な神経を俺の弱り果てた神経にくらべて羨しく思うだけなんだ」
「それでいいのだよ、きっと君の神経からも新しい神秘な世界が創造されるだろうよ、その日のために」
かくて私達は再び華かな乾杯をするのであった。
その夜は到頭二人とも下駄をなくして、午前二時頃足袋はだしでアスファルトを帰って来た。丁度下宿に曲る路地に来た時、原は双手をあげて叫んだ。
「ああ明日からの生活は一体どうなるのだ」
「いつもの生活にかえるんだ、俺は神経の圧迫に狂気に至るまでの生活をたどるだけだし、君はあの中から芸術を見出すのだ」
「芸術芸術って言うな、俺はもうあの苦しい現実、汚ない部屋には直面し得ない程疲れ切ったんだ」
ヒタヒタと言う足袋はだしの音を、もう幾分酔のさめかかった二人の神経は、苦痛の予感と恐怖の襲来とに思わず身をすくませながら、じっとじっと耳をすまして居るのであった。終に恐ろしい真実にふれてしまった恐怖、私はズキズキと痛み出す神経を感じながら、長い長い此の路地の一番奥はどこだろうと空ろな眼を一ぱいに開いて居るのであった。
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