芥川龍之介書簡抄72 / 大正六(一九一七)年書簡より(四) 五通
大正六(一九一七)年四月二十六日・消印二十五日・東京市芝區白金三光町成瀨正恭樣方 松岡讓君・廿六日 龍(葉書)
⑴倫盜の續篇はね もつと波瀾重疊だよ それだけ重疊恐縮してゐる次第だ 始は一日に三四枚づつかいたがしまひには一日に十七枚書いて我ながら長田幹彥位にはなれると思つたよ 何しろ支離滅裂だからこの頃支離滅裂なりに安心しちまつたがね 今月號をよんぢまつた以上は續篇もよんでくれ 僕が羽目をはづすとかう云ふものを書くと云ふ參考位にはなるだらう とにかくふるはない事夥しいよ
大正六(一九一七)年四月二十六日・消印二十五日・東京市芝區白金三光町成瀨正恭樣方 松岡讓樣・廿六日 龍(葉書)
⑵この間菊池にあつたらあいつは erste nacht に Dreimal も Braut を苦しめたさうだ さうしてその後も morgenbegattung をやつてるんださうだ あきれたね 何が Homo-sexua1 だかわかりやしない こんどあつたら牛耳つてやれよ 京都の舞妓はピグミイみたいで何だか氣に食はなかつた sex の感じがないだけならいいが sex 以上に自然な人間らしい所がないやうな氣がする やつぱり寺が一番いいよ 寺の中でみると繪や佛像も博物館にあるより餘程いいね 庭のいいのも少し見たよ 奈良で鏡を一つ買つて灰皿にしたが古道具屋をもつとゆつくりあさるひまが欲しかつたつけ 貧乏でとてもおみやげなんか買ふ餘裕はないからだめだ 何しろ奈良の天平貞觀の彫刻は大したもんだつた これからひまと金さへあればあつちへ行つて見たい氣がする
[やぶちゃん注:連続投函なので纏めて注する。この日は木曜日であり、月日から判断して鎌倉発信と推定する。筑摩全集類聚版ではそうなっている。
「續偸盗」当時、『中央公論』四月一日発表分に続く「偸盗」の続編を執筆中。既出既注。七月一日に同誌に発表したが、未完であった。おちゃらけながら、書き悩んでいる様子がつたわってくる。
「長田幹彥」(ながたみきひこ 明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)は東京生まれの小説家・作詞家。劇作家・詩人の長田秀雄の弟。 明治四五(一九一二)年の早稲田大学英文科卒業前から、北海道を放浪して、そこで知った旅役者の生活に取材した「澪 (みお)」や、「零落」をまさに『中央公論』に発表し、人気作家となった。続く「霧」・「扇昇の話」(孰れも大正二(一九一三年)や「自殺者の手記」(大正四年)で、一時は谷崎潤一郎と並び称された。「祇園夜話」(大正四年)以後は、所謂、情話作家としてその手の小説を大量生産した。「祇園小唄」・「島の娘」・「天竜下れば」などの流行歌の作詞も手掛けた。
「erste nacht」「エールスタ・ナハト」。ドイツ語で「初夜」。菊池寛はこの大正六(一九一七)年に高松藩旧藩士奥村家の奥村包子(かねこ)と結婚した。彼はこの結婚を機に、作家活動に専念した。
「Dreimal」「ドレィマル」。同前で「三回」。
「Braut」「ブラオト」。同前で「花嫁」。
「morgenbegattung」「モルゲン・ベガットゥング」。同前で「朝の性交」。
「何が Homo-sexua1 だかわかりやしない」これは既に注した、菊池が一高を退学処分となった「マント事件」の真犯人佐野文夫との関係を揶揄しているものと思われる。
「ピグミイ」ピグミー。Pygmy。特に身長の低い(平均一・五メートル未満)特徴を持つところの、アフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民の総称。中央アフリカ全体の熱帯雨林を生活拠点としており、人種学的には「ネグリロ」(Negrilo)と呼ばれる。なお、この語は古代ギリシャの肘尺(ひじしゃく)である「ピュグメ」で、肘から拳までの長さを一単位とし、約三十五センチメートル相当である。肘から中指の先までの間の長さに由来する古い身体尺「キュビット」(英語 : cubit:四十四~六十四センチメートル。ラテン語の“cubitus”(クビトゥス)はラテン語で「肘」を意味する“cubitum” (クビトゥム)に由来する)に似るが、遙かに短い。]
大正六(一九一七)年四月・鎌倉発信・井川恭宛(葉書)
白浪も寄せこぬ里ののどさはさゝぬ門べにひるがほの花
[やぶちゃん注:短歌のみ。底本では三字下げであるが、引き上げた。]
大正六(一九一七)年五月一日・鎌倉発信・秦豐吉宛
一中節
新曲戀路の八景 宇治紫川
[やぶちゃん注:頭の「新曲」は底本では横書ポイント落ち。]
シテ〽心なき身にもあはれはしみじみとツレ〽たつな秋風面影の何時か夢にも三井寺や入りあひつぐる鐘の聲シテ〽まづあれをばごらんぜよ神代(かみよ)以來の戀の路ツレ〽瀨田の夕照(せきせう)いまここにぽつと上氣のしをらしさかざす屛風の袖さヘも女ごころの三下り〽花薄(すすき)根ざしはかたき石山や合ノ手〽鳰のうきねの身ながらもナヲス〽あだに粟津のせいらんとほんにせはしいころびねの合ノ手シテツレ〽あらしははれてひとしぐれぬれて逢ふ夜はねて唐崎コトウタ〽松もとにふく風ならで琴柱におつる鴈がねはツレ〽君が堅田の文だよりああなんとせう歸帆(きはん)もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髮のふじ額(びたひ)比良の暮雪をさながらにかはせどつきぬ初枕うるはしかりける次第たり
論文をかき了つて新曲をつくる愉味御高察下され度候この曲澁くして餘情ありまことに江戶趣味の極まれるものと存候御高覽の上は久米へも御序の節御見せ下さる可く小生ここ代の作と云ふばかりにてもその位の價値は可有之と愚考仕候まづはとりあへず新曲御披露まて[やぶちゃん注:清音はママ。]
五月一日 芥川龍之介
秦 豊 吉 様
二伸例の件小生の知人の宅に子供が生れし爲その人に催促するわけにもゆかず目下一向發
展致さず候
三伸「歸帆も知らで」は惡の如くに候へどこは文政頃より江戶にポピユラアなる地口の一つに候へば用ひ候註釋まで 匆々
[やぶちゃん注:「一中節」(いつちゆうぶし(いっちゅうぶし))は浄瑠璃の一種。初代都太夫一中(慶安三(一六五〇)年~享保九(一七二四)年)が、元禄から宝永頃(一六八八年~一七一一年)かにかけて、京都で創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時、勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指した。三味線は中棹を用い、全体的に上品、かつ、温雅・重厚を以て、その特徴とする。当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人に広く愛好されたが、後に江戸に下って、歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、再び主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。養父芥川道章は一中節を趣味としており、龍之介には親しいものだったのである。「八景」は以下で判る通り、近江八景を道行文としてあるのである。以下の「シテ」は能の主役相当、「ワキ」はシテに対する主要な相手役としての脇役相当。
「心なき身にもあはれは」「三夕(さんせき)の歌」で知られる西行の、「新古今和歌集」の巻第五の「秋歌上」の一首(三六二番)、
こゝろなき身にも哀(あはれ)は知られけり
鴫(しぎ)立つ澤の秋の夕暮
をインスパイアした。
「三下り」(さんさがり)は本来は三味線の調弦法の一つで。本調子の第三弦を一全音(長二度)下げたものを言う。ここは粋や艶を表わす、長唄・小唄に多く用られたそれの、脇役相当。
「三井」の「み」に「夢にも」「見」(見た)を掛ける。
「かざす屛風の袖」含羞して袖を屛風のように立てて顔を隠したのである。
「合ノ手」歌の調子に合わせて入れる手拍子や囃子詞。
「鳰のうきねの身」「鳰」は水鳥の鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei のこと。その「浮き寢」を「憂き身」に掛ける。また、言わずもがな、琵琶湖の別称は「鳰の海」である。
「ナヲス」元は浄瑠璃で、他の音曲から取り入れた節(謡・歌など)を浄瑠璃本来の節に戻すことで、「二上り」や「三下り」を本調子に戻すことで、それに相当する音調の戻しを指す。
「粟津」「逢はず」に掛ける。
「コトウタ」「琴唄」で本来は琴などの三味線とは違う弦楽器に合せて歌うものを指す。
「ふじ額(びたひ)」「富士額」。女性の額の髪の生え際が、富士山の頂の形に似ているもの。美しい必須条件とされ、美人の代名詞となった。]
« 大和本草諸品圖上 ヒヱ藻(モ) (ホンダワラ属) | トップページ | 芥川龍之介書簡抄73 / 大正六(一九一七)年書簡より(五) 塚本鈴子・塚本文子宛(前部欠損) »

