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2021/05/22

芥川龍之介書簡抄67 / 大正五(一九一六)年書簡より(十四) 五通(横須賀機関学校教授嘱託(英語学)に就任し鎌倉に移住する前後)

 

大正五(一九一六)年十一月四日・田端発信・原善一郞宛

拜復 わざわざ御手紙を頂いて恐縮です

明日曜には就職口の相談で橫須賀へ行かなくてはなりませんですからそのかへりに時間があつたら伺ひますあてにしずにおまち下さい

畫を拜見する好機會を逸するのは至極殘念ですが原稿の〆切期日が迫つてゐたり就職問題が起つてゐたりするのですからどうも意に任せません吳々も遺憾です

矢代におあひでしたらよろしく云つて下さい小野も長距離電話のかけ方を敎へるのがでたらめだつた點でせめる價値がありますあの先生にもその旨御傳へ下さい 以上

    十一月四日      芥川龍之介

   原善一郞樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこの書簡の翌日の十一月五日(日曜日)に、既出既注の英語学者で第一高等学校教授で恩師であった畔柳都太郎(くにたろう)の紹介で、横須賀海軍機関学校就職のために横須賀に赴いており、その二日後の七日には同校へ履歴書を提出しており、翌八日には、同校より海軍教育本部長に芥川龍之介の「英語学敎授嘱託」としての採用(給料は月額六十円。現在の八万円相当か)が上申されている(新全集宮坂年譜に拠る)。少なくとも、旧全集の書簡中で最初に横須賀海軍機関学校への奉職目的の最初の記載と推定出来るものは、これである。

「原善一郞」複数回既出既注。三中の一年後輩。神奈川県生まれ。「三渓園」で知られる横浜の大生糸商・貿易商であった原富太郎(号・三渓)の長男。三中から早稲田高等学院に進み、そこを卒業した大正二年にアメリカのコロンビア大学に留学しているが、既に帰って来ていたようである。

「原稿の〆切期日が迫つてゐたり」この十一月二十三日に、第四次『新思潮』第二年第一号(大正六(一九一七)年一月一日発行・一月号)に載る小説「MENSURA ZOILI」を脱稿している。

「就職問題が起つてゐたりする」次の菅虎雄書簡で判る通り、それが書かれた十一月十三日以前(前の注の上申の十一月八日以降の五日間中)に海軍機関学校への就職が決定している。実際には大正七(一九一八)年の秋に親しくしていた『三田文学』同人の作家小島政二郎(まさじろう 明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年:東京府東京市下谷区生まれで生家は呉服商「柳河屋」。京華中学から慶應義塾大学文学部卒)と、同誌主幹で西洋美術史家であった澤木四方吉(よもきち 明治(一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したものの、実現しなかったという一件がある。因みに、小島は大正八(一九一九)年にちゃっかり慶大文学部講師となり(それ以前に慶応大予科講師であった)、最終的には同学部教授へ昇格、昭和六(一九三一)年まで勤めている。それが気になったからかどうか、龍之介が機関学校の教官がいやになった、大正七年九月四日頃、再び、小島から慶大文学部の英語科教授職招聘の話が起こり、龍之介も大いに乗り気になり、同年十一月頃には教授会でも概ね好意的な印象であったらしいが、その辺りでその事態が遅速するとともに(推測するに、帝大閥を嫌った教授がいたか、或いはまた、なかなかに、存外、計算高く、頼み上手であり、自己都合の要求(中国特派の際の毎日新聞社への要請などでも感じる)などもさらっと言ってしまえる、生涯、実は押しの強かった龍之介が、慶応側に答えた条件が幾分か嫌われたものかとも私は考えている)、同時に大阪毎日新聞からの社友(一定数の作品連載だけで勤務無用)の話が急浮上し、またしても、立ち消えとなっている。

「矢代」既出既注

「小野」府立三中時代の一つ下の後輩で、可愛がっていた小野八重三郎(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)。既出既注。「あの先生」も彼のこと。小野は東京帝国大学理科を中退後、県立千葉中学校などの教諭となっていた。]

 

 

大正五(一九一六)年十一月十三日 田端から 菅虎雄宛

 

邦啓 其後は御無音にすぎましたが先生は相不變御壯健の事と存じます今度私は(畔柳先生から御聞き及びでせうが)海軍機關學校の先生になりましたついては鎌倉に住んで橫須賀へ通ふやうにしたいと思ひます誠に御面倒を願つて恐縮ですが御近所に賄つきのよい間貸しは御座いますまいか位置は山に近い方よりも海に近い方が望みですさうして坂の下まで行かない所にしたいと思ひますそれから妙な事ですが前の下宿人が肺病や何かだと神經に障りますからさうでない所でないといけません廣さは六疊乃至八疊で結構です辨當は學校で出ますから下宿で食べるのは朝夕二食だけです日曜や土曜は大抵東京へ歸りますからその間も下宿では食事をしませんどうか大體かう云ふ條件でいい所がありましたら御敎へ下さいまし赴任するのは十二月一日からですがもしその間に見つかりませんでしたら差當り橫須賀で宿屋住ひをしてもいいと思つて居りますが出來るならそれ迄に鎌倉へ移りたいと思ひます勝手ながら右御願ひまでに此手紙を書きました

    十一月十三日     芥川龍之介

   菅 虎 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「菅虎雄」既出既注。当時の菅の住まいは鎌倉町材木座(現在の鎌倉市由比ヶ浜。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、彼の提示した領域は、菅の家にごくごく近い。というより、完全なその周縁内である。二十八歳も年上の恩師にこれだけのことをしゃらっと書き送ってしまえるあたり、私が先に「頼み上手」と皮肉ったのが、お判り戴けるものと思う。龍之介はそういう意味でも人に好かれる術とそれを活用する方途を、これ、よく心得ていた「なかなかの人物」でもあるである。

「無音」「ぶいん」と読む。久しく便りをしないこと。

「坂の下」ここ。因みに、ここにある奇祭「面掛行列」で知られる御霊神社の境内地は、龍之介が私淑する(次の書簡にも出る)國木田獨步所縁の神社である。次の書簡は、それを、知ってか、知らずか。

なお、この十一月、井川恭は恒藤雅(まさ)と結婚、婿養子として恒藤恭と改姓している。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月二日・東京市本鄕區五丁目二十一番地荒井樣方 松岡讓君・十二月二日消印・鎌倉海岸通野間柴三郞方 芥川生(絵葉書)

 

ここへ來た

八疊の間でちやんとしてゐる

授業は火曜から

あの何とか漆を送つてくれないか あいつはよく利く

ゆうべ獨步の「たき火」と云ふ小品をよんで淚をこぼした

夕がたの雨のふつてゐる海のけしきはべらぼうにさびしい

鎌倉には一種の SCHAN 多し

  二伸「しゆつたい」(デキル、オコル等の意)とは本字でどうかくかおしへてくれ たのむ

 

[やぶちゃん注:この日の前日に海軍機関学校教授嘱託(英語学)に就任した。当初の持ち時間は周十二時間であった。

「鎌倉海岸通野間柴三郞方」当時の鎌倉町和田塚の野間西洋洗濯店の離れで、和田塚海浜ホテル隣りの現在の由比ヶ浜四丁目八のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。「今昔マップ」も添えておく。十一月末に、単身、転居している。部屋代は五円、賄の食費は別に一食五十銭であった。移って直ぐに下宿を斡旋して貰ったと推定される菅虎雄の息子忠雄の可家庭教師を引き受けている。でしょう、だから、言わんこっちゃないって、龍さん!

「何とか漆」不詳。識者の御教授を乞う。

『獨步の「たき火」』明治二九(一八九六)年十一月二十一日発行の『國民之友』に「鐡夫生」の署名で初出した小説。約四年五ヶ月後の國木田獨步の第一作品集「武藏野」(明治三四(一九〇一)年三月十一日民友社刊)に再録された。私の偏愛する國木田獨步二十五歳の時の一篇で、二年あまり前に、「たき火 國木田獨步 《小説・「武藏野」所収の正規表現版》」としてブログで公開してある。ロケーションは逗子の田越川(そこでは冒頭に「御最後川」の河口附近での異名で出る)の河口附近である。「たき火」は知られた「源叔父」よりも、約半年も前に書かれた、彼の真に正しき最初の小説作品である。「運命論者」同様、海浜がロケーションとして美しく機能している。

「SCHAN」縦書。「シャン」。ドイツ語の「美しい」の意の“schön”。正しく音写するなら、「シェーン」。明治中後期以降、「美しい」「美人」の意で旧制高校の学生語として頻りに使われた。

『「しゆつたい」(デキル、オコル等の意)とは本字でどうかくかおしへてくれ』「出來」でいいのだが、私は芥川龍之介の疑義に大いに同感出来る。他に正字が存在するのではないか? という疑義に、である。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月三日・鎌倉発信・久米正雄宛(転載)

 

全速力で小說を書いて居る中々苦しい第一朝の早いにはやりきれないぜ六時におきるんだからな久しぶりで辭書をひいて譯を考へてゐると一高時代を思ひ出す

鍾倉の物價の高いのにはあきれかへる何でもぼるのにはかなはない人間もあゝ虛心平氣でぼれるやうになるには餘程修行が入るだらう駄辯慾絕對に不充足

  二伸赤木君の宿所をしらせてくれ

   鎌倉四首

    齋藤茂吉調(モヅク採り)

 宵月は空に小さし海中にうかび聲なき漁夫(れふし)の頭(あたま)

    北原白秋調

 漁夫の子 ONANISM してひるふかし潟はつぶつぶ水はきらきら

    吉井勇調

 夕月夜片眼しひたる長谷寺の燈籠守もなみだするらむ

    與謝野晶子調

星月夜鎌倉びとの戀がたり聞かむととべる蚊喰鳥かな

    十二月三日 鎌倉にて 芥川龍之介

   久米正雄樣

 

[やぶちゃん注:「全速力で小說を書いて居る」既に述べた通り、芥川龍之介は翌年の第四次『新思潮』第二年第一号(大正六(一九一七)年一月一日発行・一月号)には小説「MENSURA ZOILI」(但し、この脱稿はこれより前の十一月二十三日)を、『新潮』(クレジットは同前)に切支丹物の上申書形式を採った小説「尾形了齋覺え書」(脱稿は十二月七日)を、『文藝世界』(同前)には王朝物の「運」(脱稿は十二月二十日)を発表している。

「星月夜」「鎌倉」の「くら」(暗)との付合(つけあい)から鎌倉時代中期以降に和歌で「鎌倉」に関わる枕詞風な飾り詞となり、後の連歌や謡曲などで盛んに用いられた。江戸時代に命数名所として形成された「鎌倉十井(じゅっせい)」の一つに「星(月夜)の井」が鎌倉市坂ノ下のここにある。最も古いこの命数呼称の記録は私の電子化物では、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 御霊宮/星月夜井/虚空蔵堂/極楽寺/月影谷/霊山崎/針磨る橋/音無瀧/日蓮袈裟掛松/稲村崎」辺りになろうか。私の明治三〇(一八九七)年発行の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 星月夜井/虛空藏堂――(脱漏分+山本松谷挿絵)」も参照されたい。]

 

 

大正五(一九一六)年十二月五日・鎌倉発信・東京市本鄕區本鄕五丁目廿一新思潮社内 松岡讓樣・消日十二月五日・鎌倉海岸通り野間方 龍(葉書)

 

菊坂の醫者の所へ行つてプロタと丸藥とを一週間分づつもらつて持つて來てくれ 代はこつちへ來てから弁償する それから丸藥の方は水曜一ぱいしかないんだから君がくるより先へ小包で送つてくれ たのむ どうも經過が惡いので悲觀してゐる こないだの藥は送つたらうね。

僕の所は和田塚の電車停車塲からすぐだ 和田塚までは電車の線路を步いてくれば來られるからその先を圖にする(線路は通行禁止の札が立つてるが步いて差女支へない)

 

Kamakuratizu

 

[やぶちゃん注:地図は底本の旧全集からトリミングした。南北は逆。キャプションは右上端から時計回りで、「海濱ホテル」・「至長谷」・「和田塚 停車場」(指示線有り)・「至鎌倉ステーシヨン」・「和田義盛戰死の碑」(指示線有り。 古くは「無常塚」と呼ばれた古墳時代の円墳である)・「至海岸」・「野間西洋洗濯店」(指示線有り)。]

 

「プロタ」プロタゴール(Protargol:プロテイン銀:Silver protein)であろう。鼻粘膜及び咽頭を殺菌する薬物で、鼻粘膜や咽頭、時に尿道や膀胱に直接作用させて殺菌・清浄効果があり、同時に粘膜を保護する。前者なら、わざわざ親密な松岡に頼んで貰ってくるというのは考え難い。所謂、性病の淋病対症薬である可能性が高いと思われる。ずっと後年だが、彼はこっそりと性感染症検査と淋病治療と思われるものを秘密裏に行っているからである(大正八年八月下旬。金澤八景の田中病院に入院したのを、私はそれと睨んでいる)。]

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