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2021/05/18

芥川龍之介書簡抄61 / 大正五(一九一六)年書簡より(八) 夏目漱石宛(夏目漱石自筆の前後の書簡を注で電子化した)

 

大正五(一九一六)年八月二十二日・千葉県一ノ宮海岸一宮館発信・東京牛込早稻田南町七 夏目金之助宛

 

先生 原稿用紙でごめんを蒙る事にします

ここへ來てからもう彼是一週間ばかりになりました 午前は勉强して午後は海へはいると云ふ事にきめては居りますが、午前の日課はひるねをしたり駄辯をふるったりして兎角閑却されがちです 殊に新思潮の原稿を書いてしまつてからはまるで解放されたやうなのんきな心もちになつてしまつたので義理にも金儲けの飜譯には手をつける氣になれません 勉强と云つても實はこの飜譯が大部分をしめてゐるのです 昨日新小說の校正が來ました 校正でだけ見た所では、どうも失敗の作らしいので大にまゐつてしまつて居ります 私はいつでも一月ばかりたつた後でないと自分の書いたものがどの位まで行つてゐるのだかわかりません さうすると今まゐつてゐると云ふのが矛盾のやうですけれどまだ失敗したのだかどうだかわからない わからないと思ひながらそれでもどうも失敗したらしいのでまゐつてしまふのです 實際校正しながらも後から後から氣になる所が出て來るので何度赤インキの筆を抛り出してねころんでしまつたかわかりません 久米がそばから大に鼓舞してくれるのですが 氣になるのは人の評價でなくて自分の評價ですから困ります 尤も自分の評價も全然人の評價に左右されない事はなささうですが くだらない事を長く書きました 何だかこのまいっている心もちを先生へ訴えたいような氣がしたからです そうでもさして頂かなければ妙に氣がめいつてやりきれません

しけだものですから、宿屋は大抵每日芋ばかり食はせます 小說も芋粥ですから私は芋に崇られてゐるのでせう 女中にやる祝儀が少かつたものと見えてあまり優待されてはゐません 或は虐待されてゐると云つた方が適當なのでせう 朝戶をあけたり床をあげたりするのまで自分でやらせられるのですから 今朝なぞは顏を洗ふ水を何時までもつて來てくれないので大に弱りました ここまで書いた時に先生の御手紙がつきました 私たちも如何に閑寂な日を送つてゐるか御しらせする爲に久米のスケツチ三枚と私の妙な畫とを御送りします 私の詩はとても先生の壘は摩せさうもありませんが 將來に於て私の繪は(先生位私が年をとつたら)先生の達磨に肩隨する事が出來るかも知れないと思ひます

先生の所の芭蕉はもう葉がさけかかつたでせう ここの砂濱にある弘法麥も焦茶色の穗をみだすやうになりました 「砂に知る日の衰へや海の秋」これは私の句ですが久米三汀宗匠の說によると月並ださうです もう一つ「砂遠し穗蓼の上に海の雲」と云ふ句もふらふらと出來ました 詩はここに圓機活法がないので作れません 作つても御披露する氣にはなれないでせう 詩を頂いた御禮に句と畫とを御覽に入れる事にしてこの手紙をおしまひにします

    八月廿二日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:これは岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を参考に、恣意的に仮名遣を歴史的仮名遣に代え、新字を正字に直し、句読点・二重鍵括弧を段落冒頭の字下げを除去(句点は文中では一字空けとした)したものである。龍之介は「畫」を「画」と、「禮」を「礼」と書くことも多く、一部の文末で句点も打つが、概ね、この処理で「芥川竜之介書簡集」よりは遙かに原書簡に近づいたものとは思う。なお、「芥川竜之介書簡集」では上記の手紙後に『久米正雄の漱石宛書簡を同封』と注がある。

「新思潮の原稿を書いてしまつて」既に示した通り、「猿」と「創作」はこの四日前の八月十八日に脱稿している。

「先生の達磨」石割氏の注に、『夏目漱石画の紙本淡彩「達磨渡江図」(一九一三年)』(大正二年)とある。

 以下、この書簡中に書かれた来着した漱石の書簡と、この書簡の返事として書かれた漱石の書簡を以下に電子化しておく。底本は岩波旧「漱石全集」である。

   *

大正五(一九一六)年八月二十一日(月曜)・午後四~五時消印・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館久米正雄・芥川龍之介(連名)宛

 

 あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何より仕合せです。夫でも每日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出來ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印[やぶちゃん注:石に彫った印のことだが、書簡がないので意味がよく判らない。漢詩を作って印に彫るとでも言い出したものか。]云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絕句に纏めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。

  尋仙未向碧山行。 住在人間足道情。

  明暗雙雙三萬字。 撫摩石印自由成。

 (句讀をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗雙々といふのは禪家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八萬字になります。然し明暗雙々十八萬字では字が多くつて平仄が差支へるので致し方がありません故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)

 一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隱遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舍へ引込む甲斐はありません。

 勉强をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。是は兩君とも御同感だらうと思ひます。

 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて來たのでせう。

 私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ證據に書くのです。さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する爲に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蟬の聲で埋つてゐます。 以上

    八月二十一日     夏目金之助

   久米 正雄樣

   芥川龍之介樣

   *

うっきゃあ! 当然なんだが、「こゝろ」の先生の遺書みたようだのー!

 遺作となった「明暗」は『朝日新聞』に大正五(一九一六)年五月二十六日から同年十二月十四日まで連載されたが、作者病没のため、百八十八回までで未完となった。底本の古川久氏の注によれば、『漱石は』まさに『この年』の『八月十四日夜から、日課のように漢詩を作り、十二月二十一日』、死へ向かう病『床につく前日までに七十五篇を残している』とある。漱石が亡くなるのは、この大正五(一九一六)年の十二月九日であった。死因は胃潰瘍による体内出血であった。「志田」というのは、法学者で第五代明治大学総長を務めた志田鉀太郎(しだこうたろう 慶応四(一八六八)年~昭和二六(一九五一)年)のこと。漢詩は訓読してみる。

 仙を尋ぬるも 未だ 碧山に向かひて行かず

 人間(じんかん)に住在するも 道情 足る

 明暗雙雙 三萬字

 石印を撫摩(ぶま)しつつ 自由 成る

意味は判らん、というより、禪の公案みたようなもんだから、訳せば、空しいものだ。因みに私は漱石の詩歌を上手いとは全く思わない。特に俳句は駄句の山である。

   *

大正五(一九一六)年八月二十四日(木曜日)・午後六~七時消印・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館 芥川龍之介・久米正雄(連名)宛

 

 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙がまありに[やぶちゃん注:ママ。「あまりに」の錯字。]撥溂としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい靑春の風が、老人の僕を若返らせたのです。

 今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も來ません。例の瀧田樗陰君は木曜日を安息日と自稱して必ず金太郞に似た顏を僕の書齋にあらはすのですが、その先生も今日は缺席するといつてわざわざ斷つて來ました。そこで相變らず蟬の聲の中で他から賴まれた原稿を讀んだり手紙を書いたりしてゐます。咋日作つた詩に手も入れて見ました。「癩狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を讀ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。

 芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恆方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて吳れませんか。(本當にいふのです)。同時に君がたは東洋の繪(ことに支那の畫)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面ヘも少し色眼を使つて御覽になつたら如何ですか、其所には又そこで滿更でないのもちよいちよいありますよ、僕が保證して上げます。

 僕は此間福田半香(華山の弟子)といふ人の三幅對を如何はしい古道具屋で見て大變旨いと思つて、爺さんに價を訊いたら五百圓だと答へたので、大いに立腹しました。是は繪に五百圓の價がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな價を云つて、忠實に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覺悟があると云ひました。其覺悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな書を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き繪[やぶちゃん注:「好きな繪」の脱字。]と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが実現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる譯のものではないのですから、御用心なさい。

 君方[やぶちゃん注:「きみがた」。]は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戰爭で軍人が露西亞に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうんうん蒼い顏をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此氣燄をもう餘程前から持ち廻つてゐるが、君等を惱ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍丈は默つて聞いてお置きなさい。

 本を讀んで面白いのがあつたら敎へて下さい。さうして後で僕に借して吳れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレームオフライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすっかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で汗が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。

 きのふ雜誌を見たらシヨウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行出來ない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇揚で跳ね付(つ)けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で數奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊が V.C.[やぶちゃん注:縦書二字分。]を貰つて色々なうそを並べ立てゝ景氣よく應募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。シヨウといふ男は一寸いたづらものですな。

 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。

 あゝさうだ。さうだ。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。

 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老滑なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事(こと)ある相の子位な程度のものです。

 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて吳れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞(き)くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

 是から湯に入ります。

    八月二十四日     夏目金之助

   芥川龍之介樣

   久米 正雄樣

  君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は氣にしないでも構ひません。

   *

「瀧田樗陰」(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名滝田哲太郎。秋田生れ。後に芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として非常によく知られ、多くの新人作家を世に送り出した。「癩狂院の中より」作者・内容不詳。「三宅恆方」(みやけつねかた 明治一三(一八八〇)年~大正一〇(一九二一)年)は昆虫学者・理学博士。金沢市生まれ。国粋主義者で『日本人』を創刊した評論家三宅雪嶺の甥。一中から東京帝国大学理科大学動物学科を卒業して、続いて大学院に学び、明治四〇(一九〇七)年に農科大学助手、大正五(一九一六)年には農商務省農事試験場昆虫部主任となり、農科大学実科講師や農学部講師を歴任した。昆虫学を専攻し、漱石の最古参の弟子(というか友人)寺田寅彦の友人でもあり、妻は夏目漱石に師事した作家三宅やす子。絵を中川八郎に学んだほか、随筆家としても知られた。「福田半香(華山の弟子)」「華」は「崋」の誤字。福田半香(はんこう 文化元(一八〇四)年~元治元(一八六四)年)は江戸後期の南画家で、渡辺崋山の高弟。「ラルブル」は不詳。フランス語の“L'arbre”ならば、「木」の意で、ここでは芥川龍之介が描いた「樹木の絵」ということになろうか? 二人が漱石に送った絵の中に龍之介のそれがあったものか。「ダヌンチオ」(既出既注)「のフレームオフライフ」は“Il fuoco ”(「炎」:英訳名“The Flame of Life ”:一九〇〇年)。英文当該ウィキはここ。「シヨウ」(既出既注)「の書いた新らしいドラマ」は“O'Flaherty, V.C.”(「ヴィクトリア十字勲章受勲者オフラハティ」:一九一五年)。英文当該ウィキはここ。「グレゴリー夫人」既出既注。]

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