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2021/05/16

「日本山海名産図会」電子化注始動 / 第三巻 目録・伊勢鰒

 

[やぶちゃん注:ここのところ、何か強いメランコリックへと傾斜しており、何をしても面白くない。一つは、この数年、厭人傾向が異様に高まったことに加えて、判り易いのは、好きな海産生物趣味から、暫く無沙汰していることがその理由であると判っている。そこでルーティンのテクスト(現在は十数テクスト)に、以前からやりたいと思っていた、これを追加することとした。

 「日本山海名產圖會」(内題には「山海名產圖會」とあるが、目録題を採るのが一般的)は寛政一一(一七九九)年に大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行された諸国物産図会で全五巻。蒹葭堂(けんかどう)の号で知られた大坂の町人博物学者木村孔恭(こうきょう)の著とされる(序を記していることからだが、本文の著者であるかどうかには異論があるようではある)。挿絵は、大坂の書店主から画家に転じ、人物や山水画に巧みだった蔀関月(しとみかんげつ)が担当し、解説を補助して、諸製品の対象原材料となる生物及び物質の採取・捕獲・製造工程などが描かれており、当時の具体な産業状況をヴィジュアルにも見ることが出来る。

 本書は先行する宝暦四(一七五四)年に板行された物産図会「日本山海名物圖會」(平瀬徹斎編著・長谷川光信画・全五巻。鉱山業・農林水産・民芸・軽工業・市などの庶民生活に関する産業技術を図解して、産業史・技術史研究の重要資料とされる)の寛政九(一七九七)年の再板の後を受けて作られたものであるが、採用内容に偏りがあり、農林産物は少なく、水産と自然物採取の猟法・漁法並びに食品や製品の製造法(さらには販売輸送)に重きが置かれてある。ざっと俯瞰すると、

第一巻は、「攝刕(せつしう)伊丹酒造」が一巻まるごとが製造過程を詳細に追って叙述し、

第二巻は、人用岩石・茸(きのこ)類・「熊野蜂蜜」・「山椒魚」・「吉野葛」・「山蛤(やまかへる)」(アカガエルと推定する(本電子化の際に再検討する)。乾燥品を食用・薬用とした。)・「鷹峯(たかのみね)蘡薁蟲(えびづるのむし)」(スカシバ科の蛾ブドウスカシバの幼虫。薬用)・鳥類・熊(標題が「捕熊」とある通り、熊の捕獲法の図がなかなか凄い)

第三巻は、「伊勢鰒(いせあはび)」・「伊勢海鰕」・「丹後鰤」・「平戶鮪(ひらとしひ)」・「讃刕鰆(さんしうさわら)」・「若狹鯛」・讃岐の特殊な海の網打ち法・「能登鯖」・「廣島牡蠣」と一巻全部が海産、

第四巻も、「土佐堅魚」・「讃刕海鼠」・「越前海膽(えちぜんうに)」・「西宮白魚(にしのみやしらうを)」・「桒名燒蛤(くわなやきはまぐり)」・「加茂川鮴(かもがはごり)」・「豫刕大洲石伏(よしうおほずいしぶし)」・「神通川鱒(しんたうかはのます)」(漢字表記ママ)・「諏訪湖八目鰻」・「明石章魚」・「滑川大鮹魚」・「高砂望湖魚(たかさごいひたこ)」・「河鹿」とやはり一巻全部が海産・淡水産魚類、

第五巻は、「備前水母」・「近江石灰(あふみいしばひ)」・「伊萬里陶器(いまりやき)」・「越後織布(えちごぬの)」・「松前膃肭」(まつまへおつとう)・「唐舩入津(たうせんにふつ)」・「阿蘭陀舩(おらんだふね)」と追記・附録的で、

全体に水産生物絡みであることが一目瞭然である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの初版原本の画像を視認する。挿絵もそこにあるものを使用させて貰った。不審な箇所は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある、後の浪花梶木町の播磨屋幸兵衛板行の文政一三(一八三〇)年版と校合した。なお、最初に述べた通りで、私の憂鬱から、電子化は第三巻から行い、四・五巻を終わったところで、第二巻へ移り、最後に序を含めた第一巻の順で行う。なお、「ARC書籍閲覧システム」の翻刻(新字)(例えば以下ではここ)を一部(作業準備中で、全電子化はされておらず、序や各巻の目録・跋などは電子化されておらず、ルビも殆んど略されている)で加工データに使用させて戴いた。

 句読点・記号等を用いて読み易くした。漢字は正字か略字か迷った場合は正字とした。清音・濁音はそのまま写した。本文はほぼ総ルビ(数字や一部漢字にはない)であるが、難読(漢字の判りにくい異体字も含む)と判断したもの・判読が振れそうなものについてのみに附すこととした。なお、読みの一部を送りがなとして出して読みやすくした。ポイント落ち二行割注風の箇所は短文では上付きにし、長いものは【 】で同ポイントで示した。図もキャプションを電子化し、必要な場合は図を解説する。字の大きさは再現はしていない(一部で多少配慮したところはある)。踊り字「〱」「〲」は「々」或いは正字に直した。一部の読みの「ゝ」を正字化して送り仮名に出した。ママ注記は、原則、附さない(脱字と誤解される虞れのある箇所には附した)。なお、「ひ」と「い」の崩し字は、正直、判別がつかない箇所が殆んどで、或いは総て「い」なのかも知れないと思われる箇所もあったが、そこで毎回躓いて判断していると、無駄に時間を食うので、迷った場合は歴史的仮名遣として正しい方で即決した。くれぐれも私の電子化本文を読まれる時は、原画像を並べて見られたい。注は緻密に附けると、また悩ましくなってしまうので、気儘に附ける(と言っても結局、拘ることにはなろう。一度として、こう言っておいて「気儘な注」になったことは私のテクストでは限りなくゼロに等しいからである)。【二〇二一年五月十六日始動 藪野直史】]

 

山海名產圖會   三

 

日本山海名產圖會巻之三

    目録【漁捕品】

○伊勢鰒【長鮑(のし)  真珠】

○伊勢海鰕

○丹後鰤【追網 立網(たてあみ)  他國鰤】

○平戶鮪【冬網】

○讃刕鰆【流網(なかしあみ)】

○若狹鯛(わかさたひ)【同鰈(かれ)  鹽蔵風乾  他國鯛[やぶちゃん注:「かれ」の読みはママ。]】

○讃岐刕榎股𢸍網(ゑまたふりあみ)【同 五智網(ごちあみ)】

○能登鯖【同刕(たこく)釣舟(つりふね)】

○廣島牡蠣(かき)【同 畜養法(やしなひはう) 種類】

 

 

漁捕品(りようとりのひん)

 

    ○鰒(あはび)【長鮑制(のし)  眞珠 或云、「あはひは『石决明』を本字とす。『鰒』は『トコフシ』なり。」。】

 

Iseawabi

 

[やぶちゃん注:二枚とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(原本の質感を大事にするために補正は行わなかった。今後もそれでゆく)。キャプション「伊勢鰒(いせあわび)」。三人の海女が描かれているが、彼女たちは「蒲簀」を帯びておらず(舟の中には竹籠状のそれはあるが)、一番左手の海女は、そのまま大型のアワビを素手で差し出している。上の舟には夫婦の子どもらしい少年が手伝いをしている。]

 

伊勢國、和具浦(わくうら)・御座浦(おましうら)・大野浦の三所に鰒を取り、二見の浦・北塔世(きたとうせ)と云ふ所にて、鮑(のし)を制すなり。鰒を取には、必、女海人(おんなあま)を以てす【是れ、女は能く久しく呼吸を止(や)めて、たもてるが故なり。】。舩にて、沖ふかく出づるに、かならず、親屬を具して、舩を盪(や)らせ、縄を引かせなどす。海に入るには、腰に小(ちい)さき蒲簀(かます)を附けて、鰒、三、四ツを納(い)れ、又、大いなるを得ては、二ツ許りにしても、泛(うか)めり。淺き所にては、竿を入るゝに附けて泛む。是れを「友竿(ともさほ)」といふ。深き所にては、腰に縄を附へて、泛まんとする時、是れを動かし示せば、舩より、引きあぐるなり。若き者は五尋(いつひろ)、卅以上は十尋・十五尋を際限(かぎり)とす。皆、逆(さかさま)に入つて、立ち游ぎし、海底(かいてい)の岩に着きたるを、おこし、箟(へら)をもつて、不意に乘じて、はなち取り、蒲簀に納む。その間、息をとゞむること、暫時。尤も、朝な夕なに、馴れたるわざなうとはいへども、出でて息を吹くに、其聲、遠くも響き聞えて、實(まこと)に悲し。

[やぶちゃん注:以下の「○五畿内の……」の手前までは、底本では全体が一字下げ。]

   附記

○海底に入つて鰒をとること、「日本記」允恭(いんきやう)天皇十四年、天皇、淡路の島に獵し給ふに、獸類(しうるい)甚多しといへとも、終日、一ツの獸(けもの)を得ることなし。是れに因つて、是れを卜(うらな)はしめ給ふに、忽ち、神霊の告げあり。曰はく、「此の赤石(あかし)の海底に真珠あり。其の珠(たま)をもつて、我れを祠らば、悉く獸を獲(ゑ)さすべし」ときゝて、更に所々の白水郞(あま)を集めて、海底を探らしむ。其そこに至るゝこと、あたはず。時に阿波の國長邑(なかむら)の海人(あま)男挾礒(おさし)といふ者、腰に縄を附けて踊り入り、差項(しばらく)ありて、出でて曰はく、「海底に、大鰒ありて、其の所に、光を放つ。殆ど、神の請(こ)う所、其の鰒の腹中(ふくちう)にあるべし。」と。人の議定(ぎじやう)によりて、再び、探(かづ)き入りて、かの大鰒を抱(いだ)き、浪上(らうじやく)に泛(うか)み、頓(にはか)にして、息、絕へたり。案のごとく、眞珠、桃の子(み)の如き物を、腹中に得たり。人々、男挾礒が死を悲(あは)れみ、葬むりて、墓を築き、尙、今も存せりとぞ。此の時、海の深さは、六十尋にして、殊に男海人(をとこあま)の業(わざ)なれば、其の勞、おもひやられ侍る。後世(こうせい)、是れを模擬して、「箱嵜(はこざき)の玉とり」とて、謠曲に著作せしは、此の故事なるべし。

【○鰒は、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]、介中の長なり。古へより、是を美賞す。大なる物、徑(わた)り尺餘になるもの、二、三寸。水中にあれは、貝の外に半出て[やぶちゃん注:「なかばいでて」。]、轉運して、以て、跋步(まは)る。】

○五畿内の俗 是を「アマ貝」といふは、海人の取るものなればなるべし。「アハビ」といふは偏(かたかた)に着きて合はざる貝なれば、「合はぬ實(み)」といふ儀なるべし。「萬葉」十一に、「伊勢の海士(あま)のあさなゆふなにかづくてふあはびのかひのかたおもひにして」。同七に、「伊勢の海のあまの島津(しまつ)に鰒玉(あはひたま)とりて後(のち)もか戀のしけゝん」。又、十七に、「着石玉(あはび)」とも、かけり。○雄貝(おかい)は狹く、長し。雌貝(めかい)は圓く短く、肉、多し。但し、九孔(きうこう)・七孔(しちこう)のもの、甚だ稀れ也。

 

Nosiwoseisu

 

[やぶちゃん注:キャプションは「長鮑制(のしをせいす)」。なお、この挿絵は底本では、「鰒」の附録の「眞珠」の途中のここに挿し入れてある。]

 

 ○制長鮑(のしをせいす)【俗に「熨斗」の字をかくは、誤りなり。「熨斗」は女工(によこう)の具、衣裳を熨(の)し伸(の)すの器にて、「火のし」のことなり。】

先(まつ)、貝の大小に隨ひ、剥(む)くべき數葉(かす)を量り、横より、數々(かずかず)に剥き、うけ置きて、薄き刄(はもの)にて、薄々(うすうす)と、剥き口より𢌞(まは)し切る事、圖のごとし。豐後豐島(としま)、薦(ござ)に敷き並らへて、乾すが故に、各(おのおの)、筵目(むしろめ)を帯びたり。本(もと)・末(すへ)あるは、束ぬるか爲めなり。さて、是れを「ノシ」といふは、昔、「打鰒(うちあはひ)」とて、打栗(うちぐり)のごとく、打ち延ばし、裁(た)ち截(き)りなどせし故に「ノシ」といひ、又、「干しあはひ」とも云へり。

○又、「干鮑」、「打あはび」、ともに、往昔(むかし)の食類なり。又、「薄鮑(うすあはび)」とも云へり。「江次第(こうしたい)」、『忌火御飯(いむひのごはん)の御菜(おんさい)四種(ししゆ)、薄鮑・干鯛(ひだい)・鰯・鯵』とも見へたり。今、壽賀の席に、「手掛」、或ひは、「かざりのし」などゝして用ゆることは、足利將軍義滿の下知として、今川左京(いまかはさきやう)太夫氏賴・小笠原兵庫助長秀・伊勢武藏守滿忠等(とう)に、一天下(いつてんか)の武家を、十一位に分ち、御一族・大名・守護・外樣、評定等の諸礼に附けて、行はせらるより起る事、「三義一統」に見えたり。往昔は、天智帝の大掌會(たいしやうゑ)に干鮑の御饌(みけ)あり。「延喜式」諸祭の神供(しんくう)にも、悉く加へらる。㐧一、伊勢国は本朝の神都として鎭座尤も多し故に、伊勢に制する所謂(ゆえん)、又は、飾り物にはあらずして、食類たることも、しるべし。尙、鐮倉の代(よ)前後までも、常に用いて、專ら、食類とせし。其の證は、「平治物語」賴朝遠流の條に、

[やぶちゃん注:以下の引用部は同前。]

○佐殿(すけどの)は、あふみの國建部(たけべ)明神の御前(おんまへ)に通夜(つや)して、行路の祈りをも申さんと留(とゞま)り給ひける。夜(よ)、人しづまりて、御供(おんとも)の盛安、申けるは、「都にて、御出家の事、然るべからさるよし申候ひしは、不思儀の靈夢を蒙りたりし故なり。君、御淨衣(ごじやうゑ)にて、八幡へ御(おん)參り候て、大床(おほゆか)に座す。盛安、御供(おんとも)にて、あまたの石疊の上に伺公(しこう)したりしに、十二、三ばかりの童子の、弓箭(きうせん)を抱(いだ)きて、大床に立たせ給ひ、『義朝が弓・箙(やなぐひ)召して參り候』と申されしかば、御寶殿の内より、けたかき御聲にて、『ふかく納めおけ。終(つい)には、賴朝に給はんずるぞ。是れ、賴朝に喰はせよ』と仰せらるれば、天童、物を持ちて、御前におかせ給ふに、『何やらん』と見奉れば、「打鮑(うちあはび)」といふ物なり【中畧。】。『それ、たべよ』と仰せらる。かぞへて御覽ぜしかば、六十六本あり。かの「のし鮑」を兩方の手に、おしにぎりて、ふとき處を、三口、まいり、ちいさき處を、盛安になけ[やぶちゃん注:「投げ」。]させ給ひしを、懷中する、と存じ候ひしは」と云々【下畧】。

此の文義、味ふべし。又、今、西國の方(かた)より、「烏賊(いか)のし」・「海老のし」、或ひは、「生海鼠(なまこ)のし」など、出だせり。至つて薄く剥きて、其の樣(さま)、淨潔(きよら)にして、且ち、興あり。

○毎年六月朔日、志刕國嵜村(くにさきむら)より、兩大神宮へ、「長鰒(なかのし)」を獻ず。故に、其地を「ノシサキ」共(とも)云へり。又。「サゝヱサキ」共云へり。今、榮螺(さゝゐ)にて作る事、なし。是れ、「延喜式」に「御厨鰒(みくりのし)」と見へたり。又、每年正月、東武へ獻上の料は、長三尺余・巾一寸余。其余、數品あり。

  ○眞珠 漢名 李藏珎

是は「アコヤ貝」の珠なり 卽ち、伊勢にて取りて「伊勢眞珠」と云ひて上品とし、尾刕を下品とす。肥前大村より出すは上品とはすれども、藥肆(くすりや)の交易には、あづからず。「アコヤ貝」は一名「袖貝」といひて、形袖に似たり。和歌浦(わかのうら)にて「胡蝶貝(こてうかい)」と云ふ。大きさ、一寸五分、二寸ばかり。灰色にて微黒(びこく)を帯たるもあるなり。内(うち)、白色にして、靑み有、光ありて、厚し。然れども、貝每(こと)にあるにあらず。珠は、伊勢の物、形、円(まろ)く、微(すこ)し靑みを帯ぶ。又、圓(まろ)からず、長うして、綠色を帯ぶるもの、石決明(あはび)の珠(たま)なり。藥肆に是れを「貝の珠」と云ふ。尾張は、形、正圓(まろ)からず、色、鈍(ど)みて、光、耀(ひかり)なく、尤も小なり。是れは蛤(はまぐり)・蜆(しゞみ)・淡菜(いかひ)等(とう)の珠なり。

     形、かくのごとし。

Sinjyu

[やぶちゃん注:本文中の「かくのごとし」の一字分下方にあるが、これは真珠の図ではなく、「アコヤ貝」の形を描いたものとしか私には見えない。読者はしかし、誰もが、「これが真珠の形だ」と思い込んだに違いない。かなり罪のある挿絵である。

 以下の「附記」は底本では全体が一字下げである。]

   附記

或云、「あこや」といへるは所の名にして 尾張の國知多郡(ちたこほり)にあり。又、奧刕にも同名あり。又、「新猿樂記」には『阿久夜玉(あくやたま)』と見ゆ。「萬葉集」の『鰒玉』を「六帖」に『あこや玉(たま)』と㸃せり。又、近頃、「波間(なみま)かしは」と云ふ貝より、多く取得る、ともいへり。貽貝(いかい)の珠(たま)は、前に云ふ「尾張眞珠」なり。又、西行「山家集」の歌に、

 あこやとるいかひのからを積置(つみおき)て宝の跡を見する也けり

右の条々(てうてう)を見るに、「あこや」を尾張の所名(しよめう)とせば、眞(しん)の眞珠は尾張なるべきを、今、伊勢にて此の貝をとりて、名は「あこや」と称するものは、昔、尾張に多き貝の、今、伊勢にのみ有るとは見へたり。しかのみならず、「六帖」、「鰒玉(あはびだま)、西行(さいぎょう)哥(うた)の「貽貝」も、ともに、「あこや」といひしは、むかし、「あこや」に、いろいろの貝より、多くの珠をとりし故に、混じて、惣称を「あこや」とは、いひしなるべし。

[やぶちゃん注:和名「アワビ」自体が腹足綱原始腹足目ミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産九種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina までを挙げておけば、ここでの包括的同定は問題あるまい。私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒(あはひ)」、及び貝原益軒の大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を参照されたい。

「伊勢國、和具浦(わくうら)」現在の三重県志摩市志摩町(しまちょう)和具(わぐ)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。前島(さきしま)半島の中心的な集落で、同県鳥羽市の菅島(すがしま)や相差(おうさつ)と並んで、海女の多い地域として知られる。

「御座浦(おましうら)」前島半島の先端部。志摩町御座(ござ)

「大野浦」地名としては、志摩町片田の大野浜であるが、岩礁帯と現在の漁港を考えると、その南の麦崎及び回り込んだ片田漁港をポイントするのが正しいか。

「二見の浦」二見浦(ふたみがうら)。三重県伊勢市二見町の今一色から立石崎に至る海岸。この中央附近

「北塔世(きたとうせ)」「塔世」は三重県津市北丸之内附近の旧地名。同地に「旧町名碑 西裏塔世」がある。サイド・パネルも参照されたいが、ここら辺りの北部地区であろう。

「盪(や)らせ」この漢字には「動かす」の意がある。海女の潜っている最中、船を揺り動かして、同一の箇所に停まっていることを指すものと思われる。

「蒲簀(かます)」「叺(かます)」(国字)。袋の一種。藁蓆(わらむしろ)を二つ折りにし、相対する二縁を縄で縫い閉じて、輪を底部とし、袋状としたもの。普通は目が細かく、肥料・石炭・塩・穀物などを入れるが、ここはそのコンパクトなもっと粗い袋である。

「五尋(いつひろ)」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。「五尋」は前者換算で九メートル、後者で七メートル半となる。

「十五尋」前者で二十七メートル強、後者で二十三メートル弱。

「馴れたるわざなうとはいへども」「馴れたる」を「わざなうとはいへども」の意。

「出でて息を吹くに、其聲、遠くも響き聞えて、實(まこと)に悲し」海女が水中から浮上した時の激しい呼吸のこと。口笛のように鳴る。「磯笛」と呼ぶ。中学の修学旅行で訪れた「ミキモト真珠島」で聴いたが、確かに、何とも言えぬ物哀しい音(ね)である。今も耳に残る。

『「日本記」允恭天皇十四年……』「日本書紀」の允恭(いんぎょう)天皇の当該部の原文は以下。允恭天皇十四年乙丑(四二五年)九月甲子(十二日)の条。訓読したものを示す。

   *

十四年秋九月癸丑(みづのとうし)朔(ついたち)甲子(きのえね)、天皇(すめらみこと)、淡路島に獵したまふ。時に麋(おほしか)・猿・猪(ゐ)、莫莫紛紛(ありのまがひ)、山谷に盈(み)てり。炎のごとく起ち、蠅のこごとく散(さわ)ぐ。然れども、終日、以つて一(いつ)の獸(しし)をも獲ず。是に於いて、獵を止め、以つて更に卜(うらな)ふ。島神の祟りて曰はく、「獸を得ざるは、是れ、我が心なり。赤石(あかいし)の海の底に眞珠有り。其の珠をもて我を祠(まつ)らば、則ち、悉く當(まさ)に獸を得しめむ。」と。爰(ここ)に、更に處處の白水郞(あま)を集(つど)へて、以つて、赤石の海の底を探(かつ)がしむ。海、深くて、底に至ること、能はず。唯だ一の海人(あま)有り、「男狹磯(をさし)」と曰ふ。是れ、阿波の國の長邑(ながむら)の海人なり。諸(もろもろ)の海人に勝れて、好く深く探(かづ)く。是れ、腰に繩を繫(つ)けて海の底に入る。須臾(しばらく)して出でて曰はく、「海底に於いて、大蝮(おほあはび)有り、其の處、光れり。」と。諸人、皆、曰はく、「島神、請はせるの珠は殆(ほとほ)とに是の蝮の腹に有るか。」と。亦、入りて之れを探(かづ)く。爰に、男狹磯、大蝮を抱きて泛(う)き出でたり。乃(すなは)ち、息、絕えて以つて浪の上に死せり。既にして、繩を下して海の深きを測るに、六十尋なり。則ち、蝮の實を割くに、眞珠(しらたま)、腹の中に有り。其の大いさ、桃の子(み)のごとし。乃ち、島神を祠りて獵す。多く獸を獲たり。唯だ、男狹磯、海に入りて死せるを悲しみて、則ち、墓を作りて、厚く葬りぬ。其の墓、猶ほ、今に存(はべ)り。

   *

「大和本草附錄巻之二 介類 眞珠 (尾張産諸貝の真珠・伊勢産アワビの真珠)」で、寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「真珠」を、最近、改めて訓読したものも示してあり、そこにも出るので、そちらも見られたい。

「赤石(あかし)」現在の兵庫県南部の明石海峡に面する明石市と淡路島の間にある明石海峡

「阿波の國長邑(なかむら)」徳島県の旧那賀郡(なか/ながのこほり)にあった。現在の阿南市の南部と思われる(古代にあってはかなり海進していた)。awa-otoko氏のブログ「awa-otoko’s blog」の「男狭磯の祠はどこにある?(阿南市富岡 泣石・海士石)」によって、一つの伝承地を確認出来た。徳島県阿南市富岡町西池田の近くにある「泣石」別名(或いは別な石で既に撤去されてないのかも知れない)「海士石」である。また、鳴門にもこの伝承に由来したことを、同氏が「ダレノ墓 あま塚(里浦町 あま塚)」に書いておられ、徳島県鳴門市里浦字坂田に「天塚」としてポイントされてある。同氏によれば、『現地には「蜑男狭磯の墓」と「あま塚」の二つの「あま塚」が存在している』とある。私はこの「おさし」のシークエンスにデジャ・ヴュがある。「おさし」に逢いたい! 行ってみたいなぁ!

「六十尋」長い方で九十・九メートル、短い方で換算しても、七十五・七五メートルである。明石海峡の現在の最深は百十メートルである。「おさし」はその深さを短時間で二度も上下している。潜函病で亡くならないはずがない。因みに、現在の素潜りの世界記録は二百二メートルだそうである。

『「箱嵜(はこざき)の玉とり」とて、謠曲に著作せし』不詳。「唐船(とうせん)」や「海士(海人)」にはこの台詞は出ないようだ。一つ、世阿弥作で、長く上演されなかった「箱崎」がそれらしくも思われなくもない。

「徑(わた)り尺餘になるもの、二、三寸」「徑(わた)り」大なるは「尺餘になるもの」から、「二、三寸」まで、の意であろう。

『「萬葉」十一に、「伊勢の海士(あま)のあさなゆふなにかづくてふあはびのかひのかたおもひにして」』二七九八番であるが、正確には、

 伊勢の白水郞(あま)の

  朝な夕なに潛(かづ)くとふ

     鰒の貝の

    片思(かたもひ)にして

である。

『同七に、「伊勢の海のあまの島津(しまつ)に鰒玉(あはひたま)とりて後(のち)もか戀のしけゝん」』二三二二番であるが、正確には、

 伊勢の海の

  白水郞の島津(しまつ)

   鰒玉(あはびたま)

      とりて後(のち)もか

     戀の繁(しげ)けむ

である。「島津」は当時は伊勢国の一部であった志摩の湊の意。

『十七に、「着石玉(あはび)」とも、かけり』不審。こんな表記の「あはび」は同巻どころか、「万葉集」には出現しない。何か別の本と錯誤しているのか? 識者の御教授を乞うものである。

「雄貝(おかい)は狹く、長し。雌貝(めかい)は圓く短く、肉、多し」アワビ類は外見からは雌雄は判別出来ない。身を剝いで、生殖腺(角型の所謂の肝(きも))が白色のものは♂であり、緑色のものは♀である(但し、これもアワビの肝が肥大化する夏・秋に限う識別法で、冬や春の天然アワビは専門業者が見ても雌雄の区別は出来ない。これは、実は別種ををメスと誤認した結果である。所謂、最上級品とされるクロアワビ Haliotis discus discus は別名を「おんがい(雄貝)」(をがひ:これはもとは「おがひ」(御貝:朝廷・伊勢神宮への奉納品という意味に基づく)からの転訛であるが、「雌貝(めがひ)」との対の意でもある)と呼び、対して、産地が限られており、生産流通量も少ないため、実際に近年までクロアワビの♀と思われてさえいたメガイアワビ Haliotis gigantea の、長い年月の同種混同の結果の誤認である。

「九孔(きうこう)・七孔(しちこう)のもの、甚だ稀れ也」アワビの殻の背面には概ね同軌道上に数個の穴が並んでいるが、この孔は鰓呼吸のために外套腔に吸い込んだ水や排泄物及び卵や精子を放出するためにあり、殻の成長に従って順次形成された穴は古いものから塞がって行くもので、常に一定範囲数の孔が開いている特徴を持つ。そうして、アワビではこの開口孔が四、五個であるのに対し、トコブシでは常に六~八個の穴が開いている。また、アワビでは孔の周囲がめくれ上がっており、孔の直径も大きいのに対し、トコブシでは穴の周囲はめくれ上がらず、それほど大きくは開かないという特徴がある。小型のアワビと同大のトコブシはこの弁別法で容易に識別が出来るのである。

「制長鮑(のしをせいす)」「大和本草附錄巻之二 介類 鰒(あはび) (「のしあわび」について・アワビの塩辛の製法)」も併せて読まれたい。

「豐後豐島(としま)」不詳。海辺には現在、この地名は見当たらない。海上の島嶼の旧名か?

「打栗(うちぐり)」搗栗(かちぐり:栗の実を乾燥し、焙炉(ほいろ)で加熱して臼で搗き、殻と渋皮を除いたもの。小粒種の野生種シバグリを用いるのが本式。縁起物として出陣の際に食し、江戸初期には「勝ち栗」として音通して目出度い食品とされていた。現今でも正月などのおせち料理に用いる)を蒸して砂糖を加え、薄くたたいた菓子。近世、甲州の名産であった。

「江次第(こうしたい)」「がう/ごうしだい」。「江家次第(ごうけしだい)」の初期書名。歴史的仮名遣では「がうしだい」(漢音)或いは「ごうしだい」(呉音)となる。平安後期の有職故実書で、大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)著。大嘗会や四方拝に関する記述を含め、この時代の朝儀の集大成として評価が高い。

「忌火御飯(いむひのごはん)」「いむびのごはん」。六月十一日及び十二月十一日に供御(くご・ぐご・くぎょ:天皇(時には上皇・皇后・皇子の飲食物をも指す)のために特別に斎(い)み清めた火で炊いた御飯を天皇が召し上がる神事。

「手掛」(てかけ)。正月に、三方などに米を盛り、干柿・勝ち栗・蜜柑・昆布その他を飾ったもの。年始の回礼者に出し、回礼者は、そのうちの一つを摘まんで食べる。或いは食べた心持で三方にちょっと手を掛ける。「食い摘み」「お手掛け」「手掛かり」「蓬萊飾り」に同じ。

「足利將軍義滿」(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年)は室町幕府第三代将軍(正平二四/応安二(一三六九)年~応永二(一三九五)年)。

「今川左京(いまかはさきやう)太夫氏賴」故実家。詳細事績不詳。

「小笠原兵庫助長秀」(貞治五/正平二一(一三六六)年~応永三一(一四二四)年)は守護大名。信濃守護。応永七(一四〇〇)年、京から下向して国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化が、大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との「大塔合戦」へと発展し、大敗して京に逐電、翌応永八年に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。

「伊勢武藏守滿忠」武家典礼の流派の一つである伊勢流の祖。証左事績不詳。

「三義一統」「三議一統大双紙」。小笠原貞宗(正応五(一二九二)年~正平二/貞和三(一三四七)年)が室町初期に弓道の小笠原家の礼式「三義一統」に源を発するものと思われるが、ここで引用元とされているものは後世の偽書である可能性が高い。

「大掌會(たいしやうゑ)」天皇が即位後に初めて行う新嘗(にいなめ)祭である「大嘗會(だいじやうゑ)」の誤り。

「平治物語」(作者不詳。「平治の乱」を扱った歴史物であるが、「保元物語」と同様、源氏に対して同情的な内容である。最も信頼出来る学習院大学図書館蔵本が源頼朝の死(正治元(一一九九)年)に関する記事を含んでいることから、成立がそれ以降であることは確実である)「賴朝遠流の條」は同書「下」の「賴朝遠流の事付けたり盛康夢合せの事」。

「あふみ」(近江)「の國建部(たけべ)明神」現在の滋賀県大津市神領(じんりょう)にある近江国一之宮建部大社。本殿主祭神は日本武尊。

「大床(おほゆか)」社殿の正面階段上の板敷きの間を指す。

「あまたの石疊の上に伺公(しこう)したりし」私の所持する岩波「新日本古典文学大系」版では、「瑞籬(みづがき)の下(もと)に祗候(しこう)し候」である。

「義朝が弓・箙(やなぐひ)召して參り候」言わずもがなであるが、頼朝が父義朝の形見のそれらを着して、の意。

「六十六本あり」筆者はここまで書いておいて、この意味を略してしまった(当時の読者には判り切ったことだからではあろう)。「六十六本の鮑は、六十六ケ國を掌(たなごころ)に握らせ給ふべき相(さう)也」である。五畿七道六十六国(正確にはそれに壱岐・対馬を加えて六十八ヶ国である)。

「志刕國嵜村(くにさきむら)」三重県鳥羽市国崎町(くざきちょう)。国崎は「くにざき」と読むこともある。紀伊半島及び志摩半島の最東端に位置し、それが町名の由来である。伊勢神宮の神饌として代表的なアワビは、現在もこの国崎町で調製されている。なお、参照したウィキの「国崎町」には、「石鏡(いじか)女に国崎男」と『言われ、国崎町には美男が多いとされている』とある。石鏡は国崎町の北にある。ここは昭和二九(一九五四)年の本田猪四郎監督作品である記念すべき初代第一作「ゴジラ」でゴジラが初上陸する大戸島のロケが行われた場所なのである。あなたにはどうでもよくても、「メタファーとしてのゴジラ」を手掛けている私としては、どうしても注しておきたくなる場所なのだ!

「兩大神宮」伊勢神宮の正宮である豊受大神宮(外宮)と、別宮である皇大神宮(内宮)を指す。

「○眞珠 漢名 李藏珎」これはミョウチキリンだ! 真珠の漢名は「眞珠」でよく、別名で「珍珠」(現代中国語ではこちらが主称)である。「李藏珎」なんて漢名は、存在しない。これ、もうお気づきと思うが、「眞珠」も立派な「漢名」であり、その根拠は明のが書いた「本草綱目」にあることを言おうとして、誤って、トンデモ「珎」ケなことになってしまったものであろう。「本草綱目」の巻四十六「介之二」「蛤蚌類」に「眞珠」が独立項としてある。異名として「珍珠」「蚌珠」「蠙珠」を記す。当初、李時珍に、同所でよく引かれる藏器の名を混同したものかと思ったが、「眞珠」の項には「藏器曰」はないから、このヘンチクリン誤読は訳が判らない。ともかくも、ちょっとヒド過ぎ! なお、本条はまず、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」』の私の注を読まれ、次に「大和本草附錄巻之二 介類 眞珠 (尾張産諸貝の真珠・伊勢産アワビの真珠)」の私の注を参照されたい。そこで注したものは、原則、出すつもりはないからである(と言いつつ、次で出してるが)。

「アコヤ貝」斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ(阿古屋貝)属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii  。

「肥前大村」長崎県の中央部に位置する内海である大村湾、或いは、その東岸の大村市

「和歌浦(わかのうら)」ここ。詳しくは『柴田宵曲 俳諧博物誌(30) 鶴 四』の私の注を参照。

「蜆(しゞみ)」不審。私はシジミで真珠様の物質を見たことはない。無論、出来ても不思議ではないが、そもそもがシジミはまず、真珠層形成が全くないこと(但し、真珠層を持たなくても石灰質沈着で白い玉は形成される。マガキ類で現認済み)、体内への混入物質への耐性が頗る高いし(だから「砂出し」が必要)、当時の本邦産の斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類では、真珠形成を起こすほどの大きな個体種は少なくとも本土にはいなかったと思われるからである。

「淡菜(いかひ)」斧足綱翼形亜綱イガイ(貽貝)目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus 。最近やったばかりの「大和本草附錄巻之二 介類 淡菜 (イガイ)」を参照されたい。イガイは大型個体で真珠形成する。実際に形成した標本を見たことがある。

『「あこや」といへるは所の名にして 尾張の國知多郡(ちたこほり)にあり』現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう)周辺の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠を阿古屋と呼ぶようになったとも言うが、現行の町域自体は海に面してはいない。

「奧刕にも同名あり」山形市郊外の千歳 (ちとせ) 山の古称を「阿古屋山」と呼び、また、サイト「奥州平泉新聞」の『⑤第2番金峰山万蔵寺「あこや」の謎』の記事によれば、このどこかに「阿古耶(あこや)山」と呼ぶ山が存在する。但し、孰れも山中で、前者は姫の名、後者は大悪党の名である。

「新猿樂記」平安中期の儒学者で文人貴族であった藤原明衡(あきひら 永祚元(九八九)年?~治暦二(一〇六六)年)による芸能物の物語。ある晩、京の猿楽見物に訪れた家族の記事に仮託して当時の世相・職業・芸能・文物などを列挙してゆく「物尽くし」・「職人尽くし」風の作品である。その内容から「往来物」(平安後期に起原を持ち、以降、実に明治初頭に至るまで、初等教育用の教科書として用いられた作品の総称。主に往復書簡などの手紙類の形式をとった構成を持つ)の祖ともいわれる。

「六帖」(ろくぢよう)は平安時代に編纂された私撰和歌集「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」。成立時期や撰者はともに不明であるが、大よその目安として、天禄から円融天皇の代の間(九七〇年から九八四年の間)に成立したとされており、撰者については、紀貫之・兼明親王・具平親王・源順の撰とする説がある。後の「㸃せり」というのは「注が打たれている」の意で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の山本明清(あききよ)校注の「古今和歌六帖標注」(天保一四(一八四三)年刊)の「第三 水」の「あま」の部立ての四首目に、

 いせの海のあまのしわざのあこや玉とりての後(のち)も戀のしげゝむ

とあって、「おこや玉」の左右に(右)「まつくあくや玉夫」(「夫」は「和歌夫木抄」)、(左)「まつくあはび玉万」(「万」は「万葉集」)とある。

「波間(なみま)かしは」斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目ナミマガシワ上科ナミマガシワ科ナミマガシワ属ナミマガシワ Anomia chinensis「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、小型(四~五センチメートル前後)の附着性の二枚貝であるが、小さくしたアコヤガイのようだとも言えなくもなく、真珠層も形成されているように見えるから、真珠が採れてもおかしくない。

「あこやとるいかひのからを積置(つみおき)て宝の跡を見する也けり」西行の「山家集」の「下」に(「続国家大観」八三八三番。諸原本は歴史的仮名遣を誤っている箇所が多いが、補正した)、

   伊良胡(いらこ)へ渡りけるに、

   「いがひ」と申(まうす)

   蛤(はまぐり)に、

   「阿古屋(あこや)」のむねと

   侍るなり。それを取りたる殼を

 

   高く積みおきたりけるを見て

 阿古屋とる

   ゐがひの殼を

      積みおきて

    寶の跡を見するなりけり

とある。「阿古屋」は真珠、「むねと」は「主(あるじ)として」の意か。

「多くの珠をとりし故に、混じて、惣称を「あこや」とは、いひしなるべし」その通り!]

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