甲子夜話卷之六 32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事
6ー32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事
享保十巳年までは、中の御門は御先手組、二丸銅御門は御持組、西丸御書院御番所は大番組にて護りたるよし。其頃までは臺部屋口より理御門通りは、老中方も供なしにて、卸先手當番の同心一人付きそひ、供は中御門より寺澤御門通り、理御門外へ越して、主人に從ふ例のよし。其時御先手柘植五大夫當番の日、同僚天野彌五右衞門通りしに、同心居眠してありしかば、彌五右衞門、五大夫に向ひ、其怠りを戒むべきよしを云ふ。五大夫心付の忝を謝し、扨其邊は老中さへ供なしに往來ある所を、貴殿當番にもなく、なにゆゑ通られ候や。組のものも、頭の同僚ゆゑ見とがめもいたしがたく、眠りたるふりを致したるも難ㇾ計候。重ては妄りに通られまじくと、にがにがしく申て、後に組のものをばひそかに戒おきけるとかや。
■やぶちゃんの呟き
「御先手組」先手鉄砲組・先手弓組の併称。寛永九(一六三二)年に鉄砲十五組、弓十組の計二十五組と定めたが、後に二十八組(鉄砲二十組、弓八組)となった。江戸城内外の警衛・将軍出向の際の警固・市中の火付盗賊改などに当たった。
「柘植五太夫」織田(柘植)正信(つげまさのぶ ?~宝永四(一七〇九)年)。五大夫・隠岐守。
「天野彌五右衞門」天野弥五右衛門長重(元和七(一六二一)年~宝永二(一七〇五)年)。「思忠志集」の筆者。氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)で私はよく知っている。それによれば、貞享四(一六八七)年で御歳六十七、先手鉄炮頭(てっぽうがしら)を務めた旗本(知行二千五百石)であったとある。
「享保十巳年」享保十年乙巳(きのとみ)。一七二五年。
「中の御門」大手中ノ御門。個人サイトと思われる「城郭」内にある、「江戸城本丸図」の「中之門」であろう。
「二丸銅」(あかがね)「御門」同前の「銅門」(あかがねもん)。
「御持組」(おもちぐみ)は将軍直衛の弓・鉄砲隊。持筒組と持弓組があり、前者は鉄砲隊。時代によって増減するが、寛永九年で持筒組四組・持弓組三組。
「西丸御書院御番所」同前の「冠木御門」か。
「大番組」老中配下。江戸城・大坂城・京都二条城及び江戸市中を交代で警備した。
「臺部屋口」よく判らない。本丸東側にある台所に通じる通路のことか。先の地図では東側に「石之間」というのがある。
「理御門」「うづみごもん」。これは通常は固有名詞ではなく、城郭の石垣又は土塀の下を潜る門を指すが、先の「江戸城本丸図」を見ると、本丸の南端の「富士見丸」の東側に「下埋門」と「上埋門」がある。これか。
「中御門」本丸南東にある「中之門」であろう。
「寺澤御門」中之門外を南南西に六十メートルほど行った位置に「寺沢門」がある。
「其時……」以上、静山はぐちゃぐちゃ言っているが、以下のシチュエーションの舞台は「中之門」ということにある。
「心付」「こころづけ」。注意。
「忝」「かたじけなき」。
「頭」「かしら」。
「重ては」「かさねては」。