芥川龍之介書簡抄62 / 大正五(一九一六)年書簡より(九) 塚本文宛(恐らく芥川龍之介の書簡の中で最も人口に膾炙している彼女へのラヴ・レター)
大正五(一九一六)年八月二十五日・千葉県一の宮発信・塚本文宛
八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて
文ちやん。
僕は まだこの海岸で 本をよんだり原稿を書いたりして 暮してゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだはつきりわかりません。が、うちへ歸つてからは 文ちやんに かう云ふ手紙を書く機會がなくなると思ひますから 奮發して 一つ長いのを書きます ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを步きたいと思ひます。しかし 東京がこひしくなると云ふのは 東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云ふ時に 僕は時々 文ちやんの事を思ひ出します。文ちやんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでせう。(こんな事を 文ちやんにあげる手紙に書いていいものかどうか 知りません。)貰ひたい理由は たつた一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちやんが好きだと云ふ事です。勿論昔から 好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。僕は 世間の人のやうに 結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出來ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちやんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くとも頂かないとも 文ちやんの考ヘ一つで きまらなければならないと云ひました。
僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。
世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身もとしらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出來ません。その出來ない點で 世間より 僕の方が 餘程高等だとうぬぼれてゐます。
兎に角 僕が文ちやんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちやん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちやんの考へを 無理に 動かすやうな事があつては 文ちやん自身にも 文ちやんのお母さまや兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちやんは 完く自由に 自分でどつちともきめなければいけません。萬一 後悔するやうな事があつては 大へんです。
僕のやつてゐる商賣は 今の日本で 一番金にならない商賣です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから 生活の程度から云へば 何時までたつても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出來上つてゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、伯母と、としよりが三人ゐます。それでよければ來て下さい。
僕には 文ちやん自身の口から かざり氣のない返事を聞きたいと思つてゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちやんが好きです。それだけでよければ 來て下さい。
この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちやんの自由です。
一の宮は もう秋らしくなりました。木槿(もくげ)の葉がしぼみかかつたり 弘法麥の穗がこげ茶色になつたりしてゐるのを見ると 心細い氣がします。僕がここにゐる間に 書く暇と 書く氣とがあつたら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と氣とがあつたら」です。書かなくつてもかまひません。が 書いて頂ければ 尙 うれしいだらうと思ひます。
これでやめます 皆さまによろしく
芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜では、この書簡はこの日の朝に書かれたもので、正式な初めての求婚(プロポーズ)とする。当時塚本文は満十六歳の跡見女学校の学生であった。芥川龍之介満二十四の夏の終わりであった。――この手紙を自死の前に仮に芥川龍之介が再読したら……どう思ったろう…………それを、私は――考える…………]
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