芥川龍之介書簡抄54 / 大正五(一九一六)年書簡より(一) 五通(塚本文との結婚への決意の傾斜・名作「鼻」の公開と自負)
大正五(一九一六)年一月十五日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)
絃數 四
一
夕にほふ藤の垂り花ほのぼのとさき垂りにつゝおはりなりけり
かなしみといづれかながき夕かけてほのかにさける藤の垂り花
うかりける人を思へと夕かけて白藤の花さき垂りにけり
流れ風もゆらもゆらに白藤の花房搖るとかなしきものか
これやこの藤の垂り花ながながと戀ひわびぬべきわれならなくに
二
ほのぼのと見のはるけくもひさかたの空に春來とつぶやけるかも
かぎろひのほのかに潤(うる)ふ眼をふせて思(も)ひわびにつゝありぬらむ今
ひんがしの風しふけらば黑髮の子と吾(あ)と汝(なれ)を思(も)ふとしりそね
三
天なるや光ながれて淸(すが)し女(め)の瞳なしぬと誰かかたりし
かなしかる瞳を思(も)へとはつ秋の風はもさむく吾(あ)をふくらむか
四
わが父はおかしかる FUMIKO はもゴムの人形に似たりと云へり
わが母はわれをいとしみ FUMIKO はもゴムの人形に似ずと云ひけり
炊(みづ)し女は FUMIKO をあざみはしきやし雜種兒(あひのこ)さぶと嗤ひけらずや
飜譯は 日限が迫つてゐるから每日勉强してやつてゐる 廿日迄にしあげる事が出來るつもり
君がゐなくなつてから一度に energetic になつた 同時に胃が少し惡くなつた
「天なるや」の歌が半分で出來そくなつたのは遺憾である 自分では㈡と㈠とが槪していゝかと思ふ(㈠の二番目はだめだが)
來月何か書いて君に見て貰はうと思つてゐるがまだはつきりはわからない
これだけ歌をつくつて 反響がないとつまらない 君も歌をつくつて送らん事を信じ且希望する
帽子は發送した
十五日夜 龍
井 川 君
[やぶちゃん注:短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。これらの歌は塚本文に対する恋歌であるとは、素直には受け取れない。それは言うまでもなく、「四」の戯歌のギャップが大き過ぎるからであり、芥川龍之介の場合、複数の女性を匂わせて作った詩歌・文章、或いは嘗てのある女性への恋歌を、平気で後に別な女性への恋歌に改変するという甚だ問題のある癖があるからであり、「一」から「三」の歌には塚本文よりも遙かに前年の破恋に至った吉田彌生の面影が強く反映しているとしか私には思えないからである。なお、この悪癖は、結局、終生、変わらなかった。その最たるものが、遺稿「或阿呆の一生」に登場する「月光の女」である。なお、この年で芥川龍之介は満二十四になり、塚本文(明治三三(一九〇〇)年七月三日生)は満十六になる。因みに、この書簡の日付の五日後の二月二十日、出世作となる「鼻」を脱稿している。
「わが父」養父芥川道章。
「FUMIKO」塚本文。
「わが母」養母芥川儔(とも)。
「炊(みづ)し女は FUMIKO をあざみはしきやし雜種兒(あひのこ)さぶと嗤ひけらずや」「炊(みづ)し女」は芥川家の女中。「あざみ」は「淺み」で「驚きあきれる」。「あなどる・見下す」の意もあるが、ここは前者で採る。「はしきやし雜種兒(あひのこ)さぶ」「なんてまあ! 混血児みたような!」の意。
「飜譯」不詳。年譜上では、この時期には翻訳作業は認められない。
「energetic」精力的。エネルギッシュ。
「帽子は發送した」不詳。]
大正五(一九一六)年一月二十三日・山本喜譽司宛
Mr・K・
僕のうちでは時々文子さんの噂が出る 僕が貰ふと丁度いゝと云ふのである 僕は全然とり合はない
何時でもいゝ加減な冗談にしてしまふ 始めはほんとうにとり合はないでゐられた 今はさうではない 僕は文子さんに可成の興味と愛とを持つ事が出來る しかし僕は今でも冗談のやうにしてゐる 今でもごま化して取合はない風をしてゐる 何故かと云ふと僕は或豫感がある そして僕の vanity は此豫感を利用して僕にお前の感情を露すなと云ふ 其豫感と云ふのは文子さんを貰ふ事は不可能だと云ふ豫感である 第一文子さんが不承知それから君の姉さんが不承知それから君が不承知それから色んな人が皆不承知と云ふ豫感である 豫感の外にまだある それはよしこの豫感が中らなくつても僕の良心がゆるさないかもしれないと云ふ事である まして少しでも豫感が中れば猶良心が許さないと云ふ事である 僕は自分の幸福の爲に他人の――殊に自分の愛する他人の幸福を害したくないと思つてゐる
だから僕の想像に從ふと何年かの後に文子さんの結婚を君と一しよに祝する時が來るだらうと思ふ そして事によつたらその人が僕の友だちで僕は其爲に嫉妬を感じる事があるだらうと思ふ しかし僕の感情は君を除いて誰も知らないだらうと思ふ 僕は又それに滿足してゐる ロマンチックな性情は自分の不幸さへ翫賞する傾がある 僕はさびしい中にも或滿足を以て微笑を洩し得る餘裕のある事を確信する
僕は文子さんの話が出ると冗談にしてしまふ 此後もさうするだらう そして僕のうちの者が君の所へ何とか云つてゆくのを出來得る限り阻止するだらう 或は其後に思ひもよらない所から思ひもよらない豚のやうな女を貰つて一生をカリカチュアにして哂つてしまふかもしれない しかし僕の感情は君の外に誰も知つてはならないのである 君も亦恐らくは誰にも知らせはしないだらうと思ふ 誰もそれを知らない限り僕は安んじて君のおばあさんにも君の姉さんにも話しが出來る 知られたらもう二度とは行かないだらう
僕は時々人生を貫流し藝術を貫流する力の前に立つ事がある(立つたと思ふとすぐ又その力を見失つてしまふが)そして其力を見失つた瞬間に僕は僕の周圍にある大きな暗黑と寂寥とに畏怖の念を禁ずる事が出來ない 僕が僕以外の人間の愛を欲するのはかう云ふ時である 其時僕は個性の障壁にすべてと絕緣された僕自身を見る 悠久なる時の流の上に恒河砂の一粒よりも小なる僕自身を見る 僕はかう云ふ時心から愛を求める そして又かう云ふ時が僕には度度ある 僕はさびしい しかし僕は立つてゐる者の步まなくてはならないのを知つてゐる たとへそれが薔薇の路でも淚の谷でも一樣に步まなければならないのを知つてゐる だから僕は步む 步んでそして死ぬ 僕はさびしい
[やぶちゃん注:「vanity」虚栄。自惚れ。
「薔薇の路」茨の道に同じ。
「淚の谷」既出既注。]
大正五(一九一六)年二月十三日・牛込荻赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣 直披・二月十三日 田端四三五 芥川龍之介
(十三日)
“Merci”
われ なんぢとFUMIKOと(かく呼ぶを許せ)
かるたを 室のかなたに
たゝかはすを見し時
なんぢに 惑謝するを
わすれざりき
わが驕慢なる 「われ」は
この感謝を あざけり
感謝する「われ」を
あはれみたれど
わが「われ」は――「自然」なる「われ」は
いまも 惑謝を
なんぢの前に さゝげんとす
自ら耻ぢつゝ
されど まごゝろより (十三日)
[やぶちゃん注:「FUMIKO」は縦書。]
IMPRESSION OF “VISAGE”
その顏に POTENTIALITY あり
怒らば怒るべく
悅ばば悅ぶべく
誰かよくこの POTENTIALITY を知るや
惜まば惜むべく
愛さば愛すべく
その顏に POTENTIALITY あり
かくして
人は生く
われとの POTENTIALITY を悅ぶ
[やぶちゃん注:「POTENTIALITY」(将来的可能性・発展性・潜在的能力)は縦書。「IMPRESSION OF “VISAGE”」は「『容貌』の印象」。]
REVOLTER
わが「力」に對する自信を
うらぎれる叛逆者よ
なんぢのために
われは
心と舌とに
惡魔の呼吸を呼吸したり
なんぢのために
われは
われをのぞく
一切の人人を憎みたり
されどその人々を
憎むより
より深く
なんぢ、叛逆者を憎む
なんぢの名は
嫉妬
なんぢの上に
咀ひあれ (十三日)
[やぶちゃん注:「REVOLTER」反逆者。
「咀ひ」「のろひ」。「詛ひ」「呪ひ」。「咀」は「噛む・味わう」の意であって、「呪う」の意はない。辞書には平然と「呪詛・呪咀・咒詛」と並置されてあるが、明らかに「詛」の字の誤用或いは「呪」に引かれた噓字が慣用化してしまったものとしか私には思えないし、私は決して使わない。如何にも呪いの効き目がなさそうだもの。]
大正五(一九一六)年二月十五日・京都市京都帝國大學寄宿舍内井川恭樣・二月十五日 田端四三五 芥川龍之介
かるたは最近に塚本でとつた その時僕はそこにゐるうまい人たちの中の一人であつた 何にしてもかるたと云ふものはあまり一生けんめいにとる氣にはなれないものだ もう來年のお正月までとらないだらう
この頃はある easiness を以てある量の仕事のかたがつくので割に愉快にくらしてゐる ほんやくもすませた
文ちやんは多分もらふだらう こないだうちの伯母と芝の伯母と二人でみに行つた 二人とも good opinion を持つてかへつて來たらしい 尤も僕の前では遠慮して惡口を云はないのかもしれないが
僕自身も前より good opinion を持つやうになつた
雜誌が出たから送る 僕は同人諸君のどの原稿にも感心しない 僕のにだけ好意を持つてゐる
寒さがめつきりつよくなつた
昨日市村座へ行つたら國太郞の玉織姬がふじちやんによく似てゐた 吉右エ門の熊谷が菊五郞の敦盛と玉織姬との屍骸をうす紅に小櫻をちらした母布(ほろ)と古代紫の母布とにつゝんで 楯へのせて海へ流す時に殊にさう思つた
田端にてうたへる
なげきつゝわがゆく夜半の韮畑廿日の月のしづまんとす見ゆ
韮畑韮のにほひの夜をこめてかよふなげきをわれもするかな
シグナルの灯は遠けれど韮畑驛夫めきつもわがひとりゆく
ぬばたまの夜空の下に韮畑廿日の月を仰ぎぞわがする
ぬばたまのどろばう猫は韮の香にむせびむせびて啼けり夜すがら
韮畑韮をふみゆく黑猫のあのととばかりきゆるなげきか
東京にてうたへる
刀屋の店にならべし刀よりしろくつめたく空晴れにけり
冬の日のかげろふ中に三越の旗紅に身を細らする
日本橋橋の騏麟の埃よりかすかに人を戀ひにけらしな
二伸 今日これから文房堂へゆく 神田は
よくゆくから今後も買ふものがあつたら
遠慮なく云つてよこしてくれ給ヘ
雜誌を牛込へ送らうかと思つたが遠慮した
龍
井 川 恭 樣
[やぶちゃん注:短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。「二伸」の最初の追伸文は一行ベタであるが、改行を施した。
「easiness」容易いこと。気軽な感じで対処できること。
「ほんやくもすませた」前の書簡に続いて、またしても出るが、対象欧文は不詳である。
「うちの伯母」龍之介にとって最も重要な身内である芥川フキ。
「芝の伯母」伯母とするが、叔母で龍之介の母フクの死後に敏三の後妻となったフクの妹フユのことであろう。義母に当たることから「伯母」と呼んでいるか。
「good opinion」ここは「好感」の意。
「雜誌が出たから送る 僕は同人諸君のどの原稿にも感心しない 僕のにだけ好意を持つてゐる」このまさに二月十五日、第四次『新思潮』創刊号が発行された。無論、芥川龍之介の発表したそれは彼を大作家へと導くこととなる名作「鼻」である。この強烈にして不遜な自惚れが、ある意味、遂に彼を『悲しい運命に連れて行く導火線』(夏目漱石「こゝろ」より)となることも知らずに……。
「市村座」名興行師田村成義によって明治四一(一九〇八)年十一月に始まった、歌舞伎劇場。吉之助氏のサイト「歌舞伎素人講釈」の『伝説の「二長町市村座」』によれば、市村座は『大正初期をそのピークとします。六代目菊五郎・初代吉右衛門を中心とした興行は、のちに「市村座時代」と呼ばれる一時代を築きました。市村座での興行自体は昭和』三(一九二八)年一月まで続きますが、「市村座時代」という時には』、大正九(一九二〇)十一月に田村が亡くなり、『その三ヵ月後の』大正十年二月に『吉右衛門が退座した時点を以って事実上の終りを告げます』とあり、『場所は今の台東区台東』一『丁目、昔はここを下谷区二長町』(にちょうまち)『と称しましたので、江戸三座の市村座と区別する意味で「二長町市村座」とも呼びました』とある。ここにあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「國太郞」四代目河原崎國太郎(明治二一(一八八八)年~大正八(一九一九)年)。
「玉織姬……」以下、浄瑠璃・歌舞伎の並木宗輔作の「一枝を切らば、一指を切るべし」で知られる名作「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の二段目の、熊谷直実が平敦盛を救うために息子小次郎を身代わりに殺すシークエンス。玉織姫は敦盛の妻(ここで死ぬ)。私は文楽で何度も見た。梗概は当該ウィキをどうぞ。
「ふじちやん」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)に『井川恭の婚約者恒藤雅』(まさ)『の妹ふじ』とある。雅は、日本最初の農学博士の一人でリン鉱石の資源探査に生涯をかけた恒藤規隆の長女で、彼らはこの大正五年十一月に結婚、婿養子となって恒藤姓を名乗ることになる。
「吉右エ門」初代中村吉右衛門(明治一九(一八八六)年~昭和二九(一九五四)年)。
「菊五郞」六代目尾上菊五郎(明治一八(一八八五)年~昭和二四(一九四九)年)。
「母布」日本の武具の一つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背部に巾広の絹布を附けて風で大きく膨らませたもので、後には旗指物の一種となった。
「あのと」漢字で「足音」或いは「跫(音)」。
「日本橋」「橋の騏麟」日本橋の高欄中央部にある青銅製の照明灯を飾っている一対の麒麟像。これ(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの写真)
「文房堂」東京都千代田区神田神保町一丁目に現存する画材・文房具店。明治二〇(一八八七)年創業。
「牛込へ送らうかと思つたが遠慮した」同前の石割氏の注に、ここには『井川の婚約者の父、農学者恒藤規隆が住んでいた』とある。]
大正五(一九一六)年二月十六日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)
薄荷酒(ざけ)うすき綠のにほひにも心躍りぬ BAR の夕は
わざをぎの女のしなも面白し卓に異國の酒の香れば
茴萫酒(しゆ)唇にふるれば微なる笛の音きこゆ玻璃の中より
冬の夜 VODKA にふけぬ大理石の卓に骨牌の落つる音して
VERANDAH の欄によりつゝ白楊の雨をきく子よ何を思へる
舞姬の扇の金にうつる灯の丁字をきれば川千鳥なく
濁りたる寮の湯壺に海豹の如く日々入る汝なりしかな
皮肉なるやゝ四國の訛ある一元論者忘れかねつも
汝と共に靑銅像の下に座して昴(プレアデス)を仰ぎしことあり
今も汝は湖のさかなをなつかしみ豕(ゐのこ)の肉をまづしとするや
とれにやは靑く香れり薄荷酒の盃置きて汝を思ふ夕
十六日朝 龍
井 川 君
[やぶちゃん注:「薄荷酒」「はつかざけ(はっかざけ)」と読んでおく。クレーム・デ・メント(Creme de menthe)。甘いミント風味の酒。カクテルの素材ともなる。風味付けにコルシカ・ミント、又は、乾燥したペパーミントを用いる。「ホワイト」と呼ばれる無色のものと、ミントの葉、又は、着色料で色付けした緑色のものがある。
「わざをぎ」役者。
「茴萫酒」二字目に対して底本(岩波旧全集)編者はママ注記を附している。「茴萫酒」は「ういきやうしゆ(ういきょうしゅ)」と読んでおく。「茴香」(ういきやう)はセリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。花期は七~八月で、枝分かれした草体全体が鮮やかな黄緑色のその茎頂に、黄色の小花を多数つけて傘状に広がる。若葉や種子がハーブとして古くから使われ、酒の香りづけなどにもなり、リキュール「アプサント酒」は「茴香酒(アブサン)」(フランス語:absinthe)とも書く。大方、お判りとは思うが、私はこれらの歌群の前半部分は、北原白秋の「邪宗門」をインスパイアしただけのもののように思われてならない。同じような仕儀を、彼は嘗ての書簡でも行っているからである。「邪宗門」には「茴香酒(アブサン)」が何度も出てくる。因みに、私は昨年、「北原白秋 邪宗門 正規表現版」の全電子化注を終わっており、一括縦書PDF版も公開している。而して、そこを表立って出さないためにも、「あぶさんしゆ」とは読まなかったに違いないと私は思う。なお、中文サイトを見たところ、ウイキョウを古く(「唐本草」)「蘹萫」と書いたことを見つけたので、この漢字は噓字ではない。
「VODKA」ヴォトカ。ウォッカ。
「骨牌」音数律から「カルタ」。
「VERANDAH」ベランダ。ヒンディー語由来。
「白楊」音数律から「はくやう(はくよう)」で、ポプラ(ヨーロッパ原産キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属ヨーロッパクロポプラ Populus nigra。別名をヨーロッパクロヤマナラシとも呼ぶ。日本には明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられた)であるが、実際の同種かどうかは問題ではない。ポプラの外来語としてのハイカラなイメージの意味だけが必要なのだと私には思われる。
「丁字」和蠟燭の燃え残った芯の部分。香辛料の「丁子」(バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾及びその乾燥品)に似ていることによる呼称。
「海豹」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」をどうぞ。この一首、なにやらん、悪意モロ出しで特定の女体を想起して、甚だいやな感じである。その対象人物は或いは可哀そうだが、吉田彌生であろうか。
「皮肉なるやゝ四國の訛ある一元論者忘れかねつも」この一首、読んでいる井川が彼のことだと判るのでなくてはならないとすれば、既出既注の愛媛県生まれで、一高以来の両者の友人にして後に哲学者となった藤岡蔵六のことのように思われる。彼は一途な理想主義者の一面があり、それは悪く言えば、お人好しで、この後、ヨーロッパ留学から帰った後、内定していたはずの東北帝国大学教授職が得られないまま、今一つ、報われない後半生を送ったようである。そうだとすれば、この一首、なにか、ある種の哀感とともに読める一首なのである。
「靑銅像」不詳。
「昴(プレアデス)」おうし座のプレアデス星団(Pleiades )。
「湖」井川恭の生家のある島根松江の宍道湖。
「豕(ゐのこ)」猪であろう。
「とれにや」シソ目アゼナ科ツルウリクサ属ハナウリクサ Torenia fournieri 。インドシナ半島原産の一年生植物で、よく栽培されている。花期は六~九月頃で、種子は非常に細かい。単に「トレニア」というと本種のことを指す場合が多い。スミレに似て、夏に咲くため「ナツスミレ(夏菫)」とも呼ぶ(ウィキの「ツルウリクサ属」に拠る)。]
« 大和本草卷之八 草之四 水草類 睡蓮 (ヒツジグサ〈スイレンという標準和名の花は存在しない。我々が「スイレン」と呼んでいるのは「ヒツジグサ」である〉) | トップページ | 芥川龍之介書簡抄55 / 大正五(一九一六)年書簡より(二) 井川恭宛二通(芥川龍之介に小泉八雲を素材とした幻しの小説構想が彼の頭の中にあった事実・「鼻」反響(注にて夏目漱石の芥川龍之介宛書簡を翻刻)) »