譚海 卷之四 加州里數幅幷あいもとの橋の事 附越前國船橋の事
○加賀國は東西殊に短し。越後より越前のさかひまで、わづかに三十五里あり、是加賀の國はゞ也。南北は百里にあまりて、城下より南信州堺までは八十里にあまれり。其外能登のはなは北海上へさし出たる所四十里よと云へば、南北は百里にあまりたり、加賀の國ざかひ、信州と越後の際に妙高山といふ殊にたかき山有、寒水石など出(いづ)る山なり。往古金ありとて掘(ほる)事二日ばかりせしかど、領主より止(とめ)られたりとなん。又其國あいもとのはしといふは、兩山の絕頂にかけたるものにて、大川兩山の際(きは)を流るゝ事瀧の如し。此はし左右よりもち出(いだし)てかけはじめ、中央にてあふやうにかけたるはしなり、人力のおよぶ所にあらず。かけはじむるとき、岸より細引のつなをさげていく筋となくさげ、それに木を橫たへかけて足代(あししろ)となし、細引にすがりてくだり、絕壁に杭をうち組あげたるはしにて、下よりのぞめは恐ろしき事いふばかりなし。又越前國には舟橋おほし、みな舟を鐡のくさりにてつなぎ、錠をさして板を舟にわたしたるうへを往來とす、平地のごとし。洪水にいたれば錠(ぢやう)をあけくさりをとけば、つなぎたる舟くさりにつらなりて左右の岸にわかれなびき、舟の損ずる事なし。
[やぶちゃん注:標題の「附」は「つけたり」と訓ずる。附録の意。
「妙高山」底本の竹内利美氏の注に、『長野県との国境に近い新潟県の山(二四四六メートル)』であるが、『ここの記事は加賀と越中とを混交しているらしく、話のツジツマがあわない。』とある。同感。
「寒水石」一般には純白の大理石を指す。
「あいもとのはし」富山県黒部市宇奈月町下立(うなづきまちおりだて)と同市宇奈月町中ノ口(なかのくち)に跨る、黒部川中流に架かる愛本橋(あいもとばし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。よく理解していない人が多いが(大学時代に中高と富山で過ごしたと言うと、東京人に限らず、富山県の位置を正確に指せる人間が極めて少ないことに啞然としたのを思い出す)、加賀藩は加賀・能登・越中(現在の富山県)の三国の大半を領地としたから、ここも加賀藩内なのである。ウィキの「愛本橋」によれば、現在は鉄骨製トラス橋であるが、『かつては全長』六十一・四二メートル、幅三・六二メートルにも『及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の』一つに数えられた名橋であった。『かつて黒部四十八ヶ瀬ともいわれ、河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた、北陸街道の上街道に架かる橋で、加賀藩』五『代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる』。『綱紀は、弱冠』三『歳にして父』であった四『代藩主・光高が亡くなり』、五『代目藩主となったが、幼少期は』三『代利常が後見人となって、江戸屋敷にとどまっていた』。『やがて利常も亡くなり』、寛文元(一六六一)年七月満十八歳の時、『初めて領国入りした』際、『参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を無事に越えて金沢に到着した後、家臣たちを集めて会議を開き、黒部川下流域の入膳宿がある北陸道の下街道を迂回する山沿いに新道を開いて』、『黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようと相談した』。『家臣たちは、領地防衛の要害地に橋を架けることに反対したが、綱紀』は『ただひとり』、『「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれている』。『橋は、甲斐の猿橋と同じ形式の刎橋で、橋長』三十三間(約六十メートル)、幅十尺(約三メートル)で『架橋されて愛本橋と名付けられた』。『両岸は岩山で上流部をのぞけばもっとも川幅が狭く、洪水時には大量の土石と水が集中する。橋脚は』一『年も持たずに流されてしまうために橋の中間に立てることが非常に難しく、川の両岸から大木を突き出す構造であった』。『旧愛本橋が架けられていた場所に近いところには、幕末の儒学者である頼三樹三郎がこの橋を称えた詩碑があ』るとある。
「舟橋」越中の例だが、「三州奇談卷之五 神通の巨川」の本文と私の注を、是非、参照されたい。そこでリンクさせた「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」の絶景や、「富山市郷土博物館」公式サイト内の「博物館だより」のこちらと、こちらも見られたい。]
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