フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 大和本草卷之八 草之四 水草類 菅 (スゲ) | トップページ | 大和本草卷之八 草之四 水草類 蒲 (ガマ) »

2021/05/24

伽婢子卷之五 原隼人佐鬼胎 / 伽婢子卷之五~了

 

    ○原隼人佐鬼胎

 

Kitai

 

[やぶちゃん注:標題は「原隼人佐(はらはやとのすけ)鬼胎(きたい)」と読む。この場合の「鬼胎」は特異的な用法で、冥界の者が子を孕み、産むことを言う。挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれを用いた。時制的に異なった挿絵ではあるが、トリミングして一枚とし、孰れも、かなり念入りに清拭した。二枚目は別れの場面で、子どもが三歳の隼人佐。母は小袖の上に白帷子を着すという異装で描かれていることに着目されたい。この異形が冥界への帰還を示唆しているのである。本作の絵師はこうした意味合いを絵に描くに非常に巧みで、まさに「一藝」を有する優れた絵師と言える。

 甲州武田信玄の家臣原隼人佐昌勝(まさかつ)は、加賀守昌俊(まさとし)が子なり。父、當國高畠(たかはたけ)といふ所より出〔いで〕て、信玄にめしつかはれ、度度の勳功を顯しける。

 子息隼人佐(はやとの〔すけ〕)に敎へけるは、

「鳥(とり)・獸(けだもの)・傍蟲(はふむし)の類(たぐひ)まで、おのおの、一つの得手あり。一藝なき者は、これ、なし。况や、人とむまれ、殊更、侍(さふらひ)たらむ者は、弓矢の事につけては、一つの得手を、よく鍛煉して、是を以て、主君の所用に立(た)て、御恩を報じ奉るべし。いたづらに俸祿を給はり、飽くまで食(くら)ひ、暖かに着て、邪欲をかまへ、義理を知らず、一藝一能もなき者は、畜生にも劣りて、是れは天地の間の大盜賊なり。日月・雲霧(きり)・草木まで、おのおの、皆、その益あり。無藝無能にして、人のため、益(えき)なく、却て、害になる者、あり。かまへて、よく心得よ。」

と遺言せしとかや。

 されば、父が後に信玄に仕へて、忠節、私(わたくし)なく、軍功のほまれあり。其の中に、隼人は、いつも諸軍(〔しよ〕ぐん)に先立ち、敵國に深くはたらき入〔いり〕、時には、陣どりの場を見たて、合戰の場を考へ、山川・谷・峯、知らぬ所を、案内者(あんなんしや)もなくて、是れを悟り、道筋・小道までも、皆、踏み分けて、先登(せんとう)をいたすに、つひにあやまちなく、諸侍、みな、疑ひを殘さず、となり。

 他國といへども、陣所・戰場、よく見たて、閑道(うらみち)・水の手を考ふるに、更にあやまちなき事、『神(しん)に通ぜしか』と、人みな、怪しみ思ひけり。

 そのかみ、原加賀守が妻は邊見某(なにがし)が娘也。加賀守は諸方に馳せ向ひ、陣中に日をわたり、月をかさね、家にある事、まれ也。その家は上條(かみでう)の地藏堂のほとりにあり。

 或時、妻、產にのぞみしが、甚だくるしみ惱みて、終に、はかなくなりしを、加賀守、大〔おほき〕に歎きながら、すべき樣なく、法成寺(ほふじやうじ)のうしろに埋(うづ)みて、塚の主となしけり。

 妻、その死する時、法成寺の地藏堂に向ひ、手を合せ、

「年月、日比〔ひごろ〕、念願し奉る、かまへて、本願、あやまり給ふな。」

とて、地藏の寳號を唱へて、をはりぬ。

 加賀守も同じく此菩薩に歸依して、

「妻が後世〔ごぜ〕みちびき給へ。」

と祈りしに、死して百ケ日といふ夜半ばかりに、八旬(〔はち〕じゆん)ばかりの老僧、眉に八字の霜をたれ、鳩の杖にすがり、水精(すゐしやう)の數珠、つまぐり、加賀守が家の戶をたゝき給ふ。

 開きて見れば、死したる妻、よみがへり、老僧に連れられて、來たれり。

 大にあやしみながら、内に入〔いれ〕て、

「さて。老僧は如何なる人にてましませば、かく、有難き御事ぞ。」

と問ければ、

「我は法成寺の内にすむ者也。こよひ、あからさまに堂より出〔いで〕しかば、塚、にはかに崩れて、内より、女房の出たり。

『何者ぞ。』

と問へば、

『加賀守が妻。』

といふ。此故につれて來る。よく保養せよ。」

とて、かきけす如くに、うせ給ふ。

 不思議の事に思ひ、人を遣はして見れば、塚は崩れてあり。

「さては。」

とて、粥なんど食はせけるに、初めは、うとうととして、物の覺え、なきがごとし。

 漸く、七日のうちに、日ごろの如くなりしかども、たゞ明らかなる所を、きらへり。

 次の年、男子(なんし)をうめり。

 此子三歲の時、妻、或日の暮がた、淚を流していふやう、

「我は、まことは、人間にあらず。君と未だ緣深かりし故に、上條の地藏菩薩、冥官(みやうくわん)に仰せて、たましひをゆるし放ちて、三とせ、このかたの契りを結ばせ給へり。今は、緣、すでに、つき侍べり。いとま、たびて、歸るべし。あなかしこ、わが塚をすて給ふな。跡、よくとふらひてたべ。」

とて、子をば、おきながら、行〔ゆき〕かたなく、失せにけり。

 塚を見れば、『崩れたり』とおぼえしは、まぼろしにて、草茫々として、生茂(おひしげ)れり。

 地藏菩薩の御方便、申すも、おろかなり。

 信玄、このよし、聞及び給ひて、法成寺の地藏堂を作り改め、供養をとげたまふ。

 それより、加賀守、ふたゝび、妻を迎へず。

 かの男子は原隼人佐なり。

 十八歲にて初陣(うひじん)せしより、よろづ、神(しん)に通ぜし如く、奇特(きとく)の事多かりしも、子細ある事なり。

 

伽婢子卷之六終

 

[やぶちゃん注:「原隼人佐昌勝」「新日本古典文学大系」版脚注に、『原隼人佐昌胤が正しいか(甲斐国志九十六・人物部)。信玄の侍大将(甲陽軍鑑末書結要本では陣場奉行)。百二十騎持。天正三年〔一五七五〕五月二十一日、長篠の合戦で戦死』とある。ウィキの「原昌胤」によれば、原昌胤(まさたね 享禄四(一五三一)年?~天正三(一五七五)年)は『武田二十四将の一人』で、『原昌俊の嫡男として生まれる。昌俊・昌胤の原氏は美濃土岐氏の庶流といわれ、武田家中には足軽大将の原虎胤がいるが、虎胤は千葉氏一族の原氏の出自で別系統であるという』。「甲陽軍鑑」によれば、天文一九(一五五〇)年に『家督を継ぎ、陣馬奉行を務め』、百二十『騎を指揮したという』。『初見文書は』弘治二(一五五六)年十一月で、『信濃侵攻における甲斐衆小池氏の下伊那出陣に際した証文に名が見られ、信玄側近として朱印状奏者として名前が確認される』。永禄四(一五六一)年の『西上野侵攻においては跡部勝資や曽根虎長、土屋昌続らとともに上野国衆への取次を務めており、昌俊は一之宮貫前神社や高山氏、小幡氏、高田氏らの取次を担当しており』、永禄一〇(一五六七)年の『下之郷起請文においては上野国衆からの起請文を担当している』。『駿河侵攻において』、永禄十二(一五六九)年七月、『今川方の富士氏が籠城する大宮城は開城した。昌胤は市川昌房とともに富士山本宮浅間大社や静岡浅間神社などの寺社支配を行っており、また大宮城周辺の支配に関わっていたため』、『大宮城の城代を務めていた可能性を指摘するものもある』『ほか、朝比奈信置や松井宗恒との取次も務めている』。『ほか、甲斐国内の郷村に対する諸役免許や軍役動員などの朱印状では山県昌景とともに名前が見られ、争論の裁許状など訴訟関係文書において名前がみられる』。『時期・経緯は不明であるが一時期』、『失脚し』、元亀元(一五七〇)年)以降で元亀3(一五七二)年『以前に北条家臣で臼井原氏麾下の完倉兵庫介が仲介し』、『赦免されたという』とあった。

「加賀守昌俊」昌勝の父原昌俊(?~天文一八(一五四九)年)は甲斐武田氏家臣にして譜代家老衆。当該ウィキによれば、原隼人佑(はらはやとのすけ)家祖。別名に国房・胤元。加賀守。子は昌胤一人のようである。『昌俊の事績は一切が』「甲陽軍鑑」によ』るもので、『確実な文書において確認がされず、諱も「昌俊」とされるが』、『確証はない。武田家においては美濃土岐氏の庶流といわれる譜代家老原氏のほか』、『下総国千葉氏の一族原氏の出自とされる足軽大将の原虎胤・横田康景の一族がいるが、両者の関係は不明』。「甲陽軍鑑」に『よれば、昌俊は甲斐国高畠郷(山梨県甲府市)を領し、武田信虎・晴信(信玄)の』二『代に仕えたという。合戦では』、『陣形やその陣を敷くための場所を決定したり、戦況報告を行なう陣馬奉行を務めていた。信虎、信玄からの評価も高く』、「甲陽軍鑑」に『よれば、信虎は追放された後』、『今川義元に「武田家中の弓矢巧者」として、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰、諸角虎定とともに原昌俊の名前を挙げている』。没したのは戦場ではないようである。『家督は原昌胤(隼人佐)が継ぎ、陣馬奉行の職も継いだという』とある。「新日本古典文学大系」版脚注にも、『「原加賀守は他国を始て見る山中にても道をあて、人数をとをし、さきにてつかまへまじきと、此方にてつもる[やぶちゃん注:見積もるの意か。]に、少しもちがはぬ者にて候(甲陽軍鑑九下・晴信公山本勘介問答)』とある。

「高畠(たかはたけ)」現在の甲府市高畑(たかばたけ:グーグル・マップ・データ)。

「子息隼人佐(はやとの〔すけ〕)に敎へけるは」実際に「甲陽軍鑑」に載ることが、「新日本古典文学大系」版脚注に次のように示されてある。『「原加賀守…子息隼人佐に常々申訓は、侍たらん者は何にても弓矢の儀に一やう得物有様にと訓(ヲシヘ)をかるゝなり」(甲陽軍鑑十五。信玄公家老軍法云々)』。

「鳥(とり)・獸(けだもの)・傍蟲(はふむし)の類(たぐひ)まで、おのおの、一つの得手あり……」「傍蟲(はふむし)」は「側にいるちっぽけな虫」の意か。「新日本古典文学大系」版脚注には、引用元として、筆者浅井了意自身の『「鳥けだもの虫蟪』(ちゆうけい:採るに足らぬような小さな虫の意であろう。「蟪」は本来は蟬でも相対的に小型なニイニイゼミを指す中国語「蟪蛄」に用いられ、現在も同種の正式な漢名である)『までも分々』(ぶんぶん)『にしたがひて一能一徳はあるものなり…増て人は万物の長といはれてすぐれたる生をうけながら一芸一能もなからんは何をとりえとすべきや」(可笑記評判九ノ二十九)』を載せる。「可笑記評判」は瓢水子のペン・ネームで本書刊行の六年前の万治三(一六六〇)年に板行した仮名草子である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、こちらの原本画像を視認して、以下に示す。句読点・記号を添えた。読みは一部に留めた。

   *

    第廿九 乱舞(らんふ)を好み過(すぐ)したる事

むかし、さる人の云るは、「古しへの侍は、十能七藝なと習ふといへども、今の侍は、それまでしらずとも、さのみ、くるしかるましければ、まづ、習ひしるべき事は、弓馬・兵法・手跡・鉄炮・しつけがた、成へし。乱舞(らんぶ)など知てわるきには、あらねども、此たぐひ、かならず、すき過して、それしや[やぶちゃん注:「其れ者」。その道に通じた玄人(くろおと)。]のやうに、なる物なり。一とせ、さるお大名、ことの外、能をすき好み給へば、其家の諸侍、みな、よろひ・甲・太刀・かたな・弓・鑓・鉄炮・馬くらなとを、うりすてゝ、太鼓・つゞみ・うたひの本・色黑き尉(ぜう)のおもてなんどを、買あつめ、ひとへに観世・今春・日吉大夫か成ぞこなひかと、かたはらいたくこそ有つれ。

 評曰[やぶちゃん注:「ひやうしていはく」。]、「鳥・けだもの・虫蟪(むしくそ)[やぶちゃん注:「そ」の判読は自信がない。意味からはこれしか私には選べなかった。]までも、分々に。したがひて一能一德は、あるものなり。麒麟と鳳皇[やぶちゃん注:鳳凰。]と龍と龜とは、四㚑(れい)の物とて、これらは、天下太平・聖德(せいとく)不窮の瑞兆をしめす故に、申すに及ばず。庭鳥にも五德あり。つたなき蚯蚓(みゝず)までも、一つの口に五能をそなへたり。增て、人は「万物の長」といはれて、すぐれたる生をうけながら、一藝一能もなからんは、何をとりえとすべきや。されば、「十能」とは、

弓と、鞠(まり)・庖丁(ほうちやう)、馬に、仕付方(しつけがた)・算・鷹・連歌、吹物(ふきもの)に盤(ばん)[やぶちゃん注:「吹物」は笛、「盤」は囲碁・将棋か。]。

又。「七藝」とは、

物かきて[やぶちゃん注:「物書き手」。]・音曲・太鼓・舞・相撲・口上・才智、これぞ、七藝。

されども、古しへの人、十能七藝、みな、そろへて、得たる人は、すくなくや。今の世に、猶、まれなるへし。おなしく、藝能とはいひながら、さのみに、このまずとも、くるしかるまじきと。又、しらで、かなふまじき事、あるへし。よく、心得へし。能をこのみ給ひし大名の事、つくり物がたり成へし。家中の諸侍、武道具をうりて、能道具を買もとめたる事、大なる寓言也と、おぼゆ。しかれども、上(かみ)の好むところ、下(しも)、これに、したがふ理(こと)はり、いましめ、つゝしまざらんや。

   *

「閑道(うらみち)」間道に同じ。

「水の手」軍陣配置及び供給の意味の広義の「水の利」。

「邊見某(なにがし)」底本も元禄版も「邊見」であるが、「新日本古典文学大系」版では、『逸見』となっており、ウィキの「逸見氏」(「逸見」は「へんみ/へみ」と読む)によれば、『甲斐源氏は』大治五(一一三〇)年に『源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が常陸国より甲斐国市河荘に配流され』、『甲斐各地に土着した一族。清光は官牧の発達していた現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見郷へ進出し、清光の長子光長が逸見姓を称する』。『平安時代末期、光長は一時的に甲斐源氏の惣領であったと考えられているが、甲斐源氏は現在の韮崎市域に拠った弟信義が始祖となった武田氏が主流となり、武田氏は甲斐源氏一族を率いて源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱において活躍する』。但し、「尊卑分脈」には『直系子孫の系図が見られる』ものの、「吾妻鏡」『などの記録には光長はじめ』、『一族の動向は見られない』とし、『鎌倉時代には』、「吾妻鏡」建暦三(一二一三)年五月六日の条に『よれば、同年』五月の「和田合戦」に於いて、『逸見五郎・次郎・太郎らが和田義盛方に属して討死したと』ある。さらに「承久兵乱記」によれば、承久三(一二二一)年の「承久の乱」では『「へん見のにうだう(入道)」が東山道軍に属して上洛して』おり、「尊卑分脈」に『よれば、光長の孫にあたる惟義と』、『その子息・義重も』「承久の乱」に『従軍し、惟義は摂津国三条院を与えられ、義重は美濃国大桑郷を与えられたという』。『惟義は和泉国守護となっており、義重の子孫は大桑氏を称した。逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など西国のほか』、『若狭国、上総国など武田氏が守護職を得た諸国へ移り』、『被官化したと考えられており、一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと考えられている』。また、『光長の系統とは別に』、「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年六月五日の『条によれば、平宗盛の家人である源季貞の子・宗季(宗長)が光長の猶子となり、逸見氏を称したと』あり、「吾妻鏡」に『よれば、宗季は「宗長」と改名し』。建仁三(一二〇三)年の「比企能員の変」に『際して』、『大江広元の従者として名が見られるが、その後の動向は不明』である。また、「一本武田系図」に『よれば』、『武田信義の』四男『有義も一時期』、『逸見氏を称し』、「浅羽根本武田系図」に『よれば、光長の弟安田義定の子・定長(四郎)も逸見姓を称したという』。『有義の子孫は吉田氏や小松氏、万為氏を称したと』される。また、『戦国時代には武田一族の今井氏が逸見姓を称して』おり、また、『逸見氏の一族として甲斐武田家重臣の飯富虎昌の飯富氏』『がいる』とある。「新日本古典文学大系」版脚注では、『逸見氏は、武田家の祖で名家の一。西部を領地とする。甲陽軍鑑九・信州平沢大門到下等合戦の事には、「逸見殿」として信玄配下城預り五将のうちの一人に名を連ねるが、加賀守との関係は未詳』とある。

「上條(かみでう)の地藏堂」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『甲府の古上条(現甲府市国母八丁目)にあった地蔵堂』で、以下に注した『法成寺の別名』とある(そこで注した通り、現在は存在しない)。国母(こくぼ)八丁目はここ。この、地蔵は「国母地蔵」として、現在の甲府市東光寺にある武田信玄が定めた五ヶ寺院「甲府五山」の一つであるは臨済宗(もと密教寺院であったものを弘長二(一二六二)年に蒙古襲来の際に鎌倉幕府から元の密偵の疑いをかけられて一時期、ここに配流されていた名僧蘭渓道隆が禅宗寺院として再興した)法蓋山(ほうがいさん)東光寺境内の西側に笠屋根の下に露座で現存する。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらでその地蔵像が見られる。そこに(一部の字空け・行空けを詰め、記号を短くした)、

   《引用開始》

大昔、甲府盆地が一面の湖水であった頃、この水を除きたいと二人の神様に相談をかけた。二神もすぐに賛成して、一人の神様が山の端を蹴破り、他の神が山を切り穴をあけ、湖水の水を今の富士川へ落とした。これを見た不動様も引っ込んでは居れぬと、河瀬を造って手伝ったので、この二神二仏のお陰で甲府の土地が現れた。山を切り穴をあけた神は、今甲府の西に穴切神社として祀られ、山を蹴破った神は蹴裂明神として知られている。瀬立不動が河瀬を造った不動様、また甲府の東光寺にある稲積地蔵というのが、始めにこの疎水計画をされた地蔵様である。もとは法城寺にあったのを、後に東光寺に移したもので、法城の二字は水を去り土を成すと読まれるという。(日本伝記集)

東光寺の地蔵様は、甲斐の国を産み作ったので、国母地蔵ともいう。(西山梨郡誌)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会

********************

国母地蔵  板垣村

東光寺境内にある。

法成寺の額がある。この法成寺とは、以前は古上條にあった。信玄の時、荒川を隔てて参詣が自由にならないと、塔岩村(今の甲府市北部 昇仙峡のあたりにあった)へ移し、その後 東光寺へ。東光寺にて地蔵堂を法成寺と号している。甲陽軍鑑によると、「甲斐の湖」の話で、「水去りて土と成す」を示した字から法成寺と言う。

ここに大きな石の地蔵があり、自身の痛みのある所と同じ地蔵の個所を、撫でて祈ると痛みが薄れるという。または 味噌舐め地蔵 とも言われ、痛みのある人は願を掛け、治った時に地蔵に味噌を塗る。

「裏見寒話」 巻之二 仏閣 の項より

   《引用終了》

しかし、東光寺のサイド・パネルにある東光寺の案内表示版には「国母地蔵」の名すら、見えないし、画像もない。誰か、この由緒ある地蔵を写真で撮って、そこに加えるべきと、強く思う。

「法成寺(ほふじやうじ)」法城寺が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『上条地蔵を本尊とする臨済宗妙心寺派法城寺。甲府開設に伴い、天正年中』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年)『には東光寺』(前注参照)『に移され、その一院となった』とある。

「八旬(〔はち〕じゆん)ばかり」八十歳ほど。

「眉に八字の霜をたれ」眉が霜のような白髪となり、それが左右に八の字のように垂れ下がって。

「鳩の杖」ウィキの「鳩杖」によれば、鳩杖(はとづえ/きゅうじょう/はとのつえ)は、『頭部の握りにハトの飾りがつけられた杖で』、『高齢者に、その長寿を賀するために、下賜され、あるいは贈呈された』。「下学集」(かがくしゅう:室町時代(十五世紀)に編纂された国語辞典。全二巻。三千ほどの単語を、その意味によって十八の門に分けて羅列してある)に『「鳩不噎之鳥也」とあるように、ハトは物をついばむときにむせないとされることにあやかって』、『頭部にハトの飾りが付けられた。奈良時代には、霊壽杖と呼ばれた。のちに』は、八十『歳以上の功臣に宮中から下賜された』。「後漢書」の「礼儀志」に『「年始七十者授之以玉杖」とあり』、『日本でもそれを模倣し、または影響され、行われたという』。「藤原俊成卿九十賀記」の建仁三(一二〇三)年十一月二十三日の『条に、「置鳩杖、以銀作之、件杖竹形也、其上居鳩也、有一枝二葉、件葉書和歌」とある。和歌は壽算を祝う意である』とある。

「保養せよ」「労わって養ってやりなされ。」。さればぞ、この老僧は地蔵菩薩の垂迹であったのである。

「うとうととして」幽冥界からの仮初の帰還のために意識がはっきりするのに時間がかかったのである。

「男子(なんし)をうめり」隼人佐昌勝。

「あなかしこ」(感動詞「あな」+形容詞「畏(かしこ)し」の語幹)で、ここは、後に禁止の語を伴って副詞的に用いて「決して・ゆめゆめ」の意。

「わが塚を、すて給ふな」単に、「私の墓をお忘れ下さるな」=「よくとふらひてたべ」という限定の意であるが(昌俊が亡き妻の供養を全くしなかったことは、以下の「塚を見れば、『崩れたり』とおぼえしは、まぼろしにて、草茫々として、生茂(おひしげ)れり」で明白である)、この一願を以って、妻の後生を祈ることもしなかった自分に愧じ、加賀守昌俊は、鮮やかに「ふたゝび、妻を迎へず」であったのであり、ひたすら、冥婚して鬼胎した彼女の忘れ形見たる昌勝の人間としての教育に尽くしたのである。なんでもないように見えるが、この荒れ果てた塚のシークエンスこそが、この作品のキモであり、主題の核心であることを忘れてはならない。

跡、

「十八歲にて初陣(うひじん)せし」「新日本古典文学大系」版脚注に、『武田家侍衆原則として十六歳が初陣の年齢と定められているが(甲陽軍鑑九下・山本勘介問答)、「侍うい陣十四にて仕るもあり、をそくは十八の時もいたす」(同十一下・信長家康氏政輝虎批判事)こともあった』とある。私はしかし、寧ろ、昌俊が確かなる必要条件としての「一藝一能」のみならず、ひいては十分条件としての「七藝十能」をも身につけさせ得たと確信するに、十七年が必要だったのだと思う。]

« 大和本草卷之八 草之四 水草類 菅 (スゲ) | トップページ | 大和本草卷之八 草之四 水草類 蒲 (ガマ) »