大和本草卷之八 草之四 水草類 睡蓮 (ヒツジグサ〈スイレンという標準和名の花は存在しない。我々が「スイレン」と呼んでいるのは「ヒツジグサ」である〉)
睡蓮 ヒツシクサハ京都ノ方言ナリ此花ヒツシノ時ヨリツホム
荇菜ノ葉ニ似タリ酉陽雜俎及本草綱目萍蓬草ノ下
ニ唐ノ段公路北戶録ヲ引ケリ夏秋花サク花白クシ
テ數重ナリ蓮ニ似テ小ナリ其葉如荇其花夜ハツボミ
テ水中ニカクル晝ハ又水面ニウカブ故ニ睡蓮ト云北戶録
ニ所云ト相同他花ニコトナル物也蓴菜荇菜ノ類ナリ
畿内江州西土處々ニ多シ他州ニモ多シ
○やぶちゃんの書き下し文
睡蓮(ひつじぐさ) 「ひつじくさ」は京都の方言なり。此の花、「ひつじ」の時より、つぼむ。荇菜〔(かうさい)〕の葉に似たり。「酉陽雜俎」及び「本草綱目」〔の〕「萍蓬草」の下に、唐の段公路が「北戶録」を引けり。夏秋、花、さく。花、白くして數重〔(すうへ)〕なり。蓮に似て、小なり。其の葉、荇のごとし。其の花、夜は、つぼみて、水中にかくる。晝は、又、水面にうかぶ。故に「睡蓮」と云ふ。「北戶録」に云ふ所と相ひ同じ。他花に、ことなる物なり。蓴菜〔(じゆんさい)〕・荇菜の類なり。畿内・江州・西土、處々に多し、他州にも多し。
[やぶちゃん注:我々は十把一絡げで「スイレン」と呼んでいるが、本邦の自生種は、
双子葉植物綱スイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea 亜属 Chamaenymphaea 節ヒツジグサ Nymphaea tetragona
ただ一種のみであることは、あまり理解されているとは思われないので、特に最初に言っておく。というか、私は正しい「ヒツジグサ」という和名であの花を名指す人間に出逢ったことがないのである。当該ウィキによれば、『多年生の水草』で、『水底に根を張った地下茎から長い葉柄を伸ばし、水面に円形の葉を浮かべる。花期は』六月から九月で、『長い花柄の先についた』一『個の花が水面上で咲く。花の大きさは直径』三~七センチメートル、萼片は四枚、『多数の白い花弁と黄色い雄蕊が』螺旋『状についている』。『ヒツジグサの名の由来は、未の刻』(午後二時)『頃に花を咲かせるためとされることが多いが』、『この頃に花が閉じ始めるためともされる』。『中国名は睡蓮または子午蓮であるが、日本語での睡蓮(スイレン)はスイレン属の総称として用いられる』。『ヒツジグサは多年生の浮葉植物で』、『地下茎は太く短い塊状で』、『直立し、無分枝、ここから葉が生じる』。『地下茎で栄養繁殖することはない』。『沈水葉の葉身は矢じり形から楕円形、長さ』十五センチメートル『以下であり、薄い』。『浮水葉の葉柄は長く、葉身が水面に浮かぶ』。『浮水葉の葉身は卵円形から楕円形』を成し、『基部は深く切れ込み(切れ込みの幅はさまざま)、全体は無毛、裏面は赤紫色を帯びる』(リンク先に浮水葉の図・写真と花の写真有り)。花は『外側は緑色、内側は緑白色、宿存性で果時にも残る』。受粉後、花柄は螺旋状に『収縮して水中に没し、果実は水中で熟する』。直径二~二・五センチメートルで、『熟すと』、『果皮が崩壊し、種子を放出する』。『種子は仮種皮で覆われており、しばらく水面を浮遊するが、やがて水底に沈む』。『北米北西部、ヨーロッパ東北部、シベリア、東アジア、インド北部にかけて分布し、海抜』零メートル『の地域から標高』四千メートル『の高地まで報告されている』。『日本では北海道から九州にかけて生育している』。『コイやアメリカザリガニの食害に弱い』とある。
「荇菜〔(かうさい)〕」既出既注。
「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。その巻十九「廣動植類之四」の一節に、
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睡蓮 南海有睡蓮、夜則花低入水。屯田韋郞中從事南海、親見。
(睡蓮 南海に睡蓮有り。夜、則ち、花、低くなりて、水に入る。屯田の韋郞中、南海に從事せしとき、親しく見たり。)
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後に出る「北戶録」を書いたのは「酉陽雑爼」の作者段成式の甥段公路で、当該原文は「中國哲學書電子化計劃」の「北戸録」の影印本のこちらを視認した。
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睡蓮葉如荇而大。沉於水面。上有異浮根菱耳。其花布葉數重不房而蘂。凡五種色。當夏晝開夜縮入水底、晝復出也。與夢草晝縮入地、遇夜卽復出一何背哉。
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『「本草綱目」〔の〕「萍蓬草」』巻十九の「草之八」の「水草類」に(囲み字は太字に代えた)、
萍蓬草【「拾遺」。】
釋名 水粟【「綱目」。】水栗子【時珍曰、「陳藏器が「拾遺」に、『萍蓬草、卽ち、今の水粟なり。其の子(み)、粟のごとく、蓬子のごとし。俗人、「水粟包」と呼ぶ。又、云はく、「水栗子」。其の根の味を言ふなり。或いは、「水笠」と作(な)す。』と。
集解 藏器曰はく、「萍蓬草、南方の池澤に生ず。葉、大にして、荇のごとし。花、亦、黃なり。未だ開かざる時、狀(かたち)、算袋[やぶちゃん注:魚袋(ぎょたい)か。束帯装束に用いる装飾品で、魚を二匹象った歪んだ円筒形のもので古代中国で用いられた割符が装飾品化したものとされる。]のごとし。其の根、藕(グウ[やぶちゃん注:蓮根。])のごとし。飢年、以つて穀に當(あ)つべし。時珍曰はく、「水粟は、三月、水に出づ。莖の大いさ、指のごとく、葉は荇葉に似て、大なり。徑(わた)り、四、五寸。初めて生ずること、荷葉のごとし。六、七月、黃花を開く。實を結ぶ狀、角黍(カクシヨ[やぶちゃん注:粽(ちまき)。]のごとし。長さ二寸許り。内に細き子有り。一包、罌粟のごとし。澤農[やぶちゃん注:水辺の農民。]、之れを采る。洗ひ擦(す)り、皮を去り、蒸し、曝す。舂(つ)きて、米を取り、粥飯に作り、之れを食ふ。其の根、大いさ、栗のごとし。亦、雞頭の子のごとし。根、儉年[やぶちゃん注:不作の年。]、人、亦、之れを食ふ。藕の香を作(な)し、味、栗の子(み)のごとし。昔、「楚王、江を渡りて、萍(うきくさ)の實を得。大いさ斗(しやく)のごとく、赤きこと、日(ひ)のごとし。之れを食ひて、蜜のごとき者を甜(あぢは)ふ。」と。葢し、此の類なり。水萍のごとく、安(なん)ぞ實の有るを得んや。三、四月、莖・葉を采り、汁に取つて、硫黃を煮て、能く火を拒(ふせ)ぐ。又、段公路が「北戸錄」に、『睡蓮、有り。亦、此の類なり。其の葉、荇のごとくにして、大なり。其の花、葉を布(し)きて數重、夏の晝に當りて、花を開く。夜、縮みて、水に入り、晝、復た出づなり。』と。】。
子 氣味 甘、澀、平。毒、無し。主治 脾を助け、腸を厚くす。人をして飢えざらしむ【時珍。】
根 氣味 甘、寒。毒、無し。主治 煮て、食にして、虛を補し、氣力を益し、久しく食すれば、饑へず。腸胃を厚くす【藏器。】。
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でも、益軒先生、これって、スイレンやヒツジグサではなくて、ヒシ(双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ヒシ属ヒシ Trapa japonica)でげしょう!?
「蓴菜〔(じゆんさい)〕」スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi 。後で立項される。]
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