伽婢子卷之五 幽靈評諸將
○幽靈評諸將
[やぶちゃん注:標題は「幽靈、諸將を評す」と読む。挿絵は底本のものを用いた。本文に現われる漢詩は、底本では一字下げ、元禄版では一字下げで二段組であるが、ここでは思うところあって、漢詩を引き上げた。また、返り点のみを施して(底本・元禄本ともにルビでかなのベタ読みを附す)掲げた後、書き下し文を添えた。但し、一部、底本の読みのおかしな箇所があるため、元禄本で訂したことを先に言い添えておく。また、一箇所、どうみてもおかしいので、「《を》」として特異的に読みを加えてある。これは「新日本古典文学大系」版の読みもそうなっている。]
甲州の郡内(ぐんない)に鶴瀨安左衞門(つるせあん〔ざゑもん〕)といふ者あり。そのかみは、惠林寺(ゑりんじ)の行者(あんじや)にて、後に安藏主(あんざうす)と名付けしが、武田信玄にとり入て、心ばせ・才覺ありければ、俗人になされ、小知(せうち)給はり、鶴瀨安左衞門とぞいひける。
永祿丙寅(ひのへとら[やぶちゃん注:ママ。])七月十五日、盂蘭盆供(うらほんぐ)の營みしつゝ、甲府に出て、家中拜禮(らい)の事、相つとめ、日すでに暮がたになりて、
「惠林寺の快川和尙(くわいせんおしやう)に對面せん。」
とて、西郡(にしごほり)に赴き侍べりしに、いかゞしたりけむ、召しつれたる中間(ちうげん)・小者(こもの)、跡を見失ふて、一人も來らず。
鶴瀨、只一人、ゆくゆく、惠林寺に至りしかば、門外にて、多田淡路守(ただあはぢのかみ)に行逢ひたり。
鶴瀨、思ふやう、
『是は。信玄公祕藏の足輕大將にて、武勇・力量、すでに、家中にゆるされ、名を近國の諸大將に知られ、信州戶隱山に於て、鬼を切りたる程の者なるが、去(さん)ぬる癸酉(みづのとのとり)極月廿二日に、正しく、病死せられたり。それに只今、行逢たるは、若(もし)、夢にてやあるらん。』
と、あやしみながら、立よりければ、
「いざ。惠林寺の庭に、五、三人集り、聖靈(しやうりやう)祭りの送りを營むに、よきついでなり。立入〔たちいり〕て遊び給へ。」
とて、打つれて、門の内に入たりければ、寺の庭に、莚(むしろ)しきわたし、中間・小者ばら、多く人を待〔まち〕まうくるを覺えて、うづくまり、居(ゐ)侍べり。
暫くありて、越後の長尾謙信の家臣直江山城守、北條氏康の家臣北條左衞門佐〔さゑもんのすけ〕、武田信玄軍法の師範山本勘介入道道鬼(だうき)、出來〔いできた〕れり。
山本は、上座にあがり、直江、其次にあり、北條左衞門、其下〔しも〕に坐して、さまざま、軍法の事共、たがひに物語す。
北條左衞門、いふやうは、
「そもそも武田信玄は、智謀武勇を兼(かね)備へて、思慮深く、軍立(いくさだち)、いつも堅固にして、兵氣、たわまず、勢ひを、失なはず。敵に向ふて戰ふ時は、流水の如く、勝軍(かちいくさ)にいたりては、晴(はれ)天に、星の粲然(さんぜん)たるに似たり。氣象のいさぎよき事、水精輪(すゐしやうりん)にたとふべしと雖も、みづから武勇に誇りて、諸將に和(くわ)を求めず、ひとり、戰國の間〔くわん〕に插(はさめ)られて、一生、さらに、敵の爲に苦めらる。其の軍(いくさ)の備へ、虛實の勢分(せいぶん)を守るといへ共、更に奇生(きせい)の術を兼(かね)ざる故に、小利を得て、大〔だい〕に勝(かつ)ことなく、戰ひ、あやふからずして、又、大なる失(しつ)も、なし。その威は高く輝きながら、草創の功を遂げず、只、わが領國の境を犯されざるばかりにして、終に、其大業を立て給はず。」
といふ。
山本勘介入道いふやうは、
「いづれの諸將も、皆、一德なきは、なし。たゞ、一術を守りて、偏(へん)におぼれ、變化無方(へんくわむはう)の理(り)を忘れて、大功を遂げたまはず。されば、長尾(ながうの)謙信は北越無雙の猛將なり。その性(むまれつき)、强毅(がうき)にして、健(すくやか)なる事、肩を並ぶる人、なし。その身は越後にありながら、威勢を東海・北陸に輝かし、敵と戰うては、破らずといふ事なく、軍立(いくさだち)尖(するど)にして、變化奇生(へんくわきせい)の術(てだて)、更に我物として、大軍(〔たい〕ぐん)をつかふ事、又、我が手足を働すが如し。大敵、前にあれども、『昆蟲(はふむし)か』とも思はず、急に打つて散らす事、砂(いさご)をまくが如くにし給ふ。誰〔たれ〕か其鋒先(ほこさき)に向はんや。されども、只、武勇をたくましくし給ふのみにして、さしもなき小軍(こいくさ)につはものを費やし、後(うしろ)を顧みて内に備ふる固(かため)なきを以つて、其身、勇義(ゆうぎ)をもつはらとし、軍兵、忠信(ちうしん)ありと雖も、つひに、大業なりがたし。」
といふ。
直江山城守、つくづくと聞て、
「されば。いづれの諸大將にも、ほむる所には、其德、あらはれて、靑天にもあがるべく、そしる所には瑕(きづ)出〔いで〕て、深淵にも沈むべし。ほむるも、そしるも、共に一定(〔いち〕ぢやう)しがたし。彼〔かれ〕も一時也。是も一時也。たゞ天命に依らずしては、大業(〔たい〕げう)は、遂ぐべからず。其中に、北條氏康(うぢやす)は、其のむまれ付き、もつとも溫和(をんくわ)にして、能く人をなつけ、篤實にして、又、道を修め、軍立、徐(ゆるや)かにして、本(もと)を固くし、敵に勝(かつ)に、刄(やいば)を借らず、わが勢ひを量(はか)りて、兵を費さず、天のさいはひを待〔まち〕て、あやふき事を、せず。この故に、取事〔とること〕は遲しといへども、得て、之れを失はず。常に權威を内に隱して、謙讓を外に施すといへども、時に望みては、亂將に、しかず。氏康は、たゞ和(くわ)を好みて、兵(つはもの)を惜しみ給ひし故に、武勇は、更に、信玄・謙信におくれたるに似たり。されども、守文(しゆぶん)の德のみ、すぐれて、草創の功業をはげむ事の怠り、あり。こゝを以て、つひに、大業を立給ふ事かなはずして、其威名、いさゝか、低(うなだれ)たるに似たり。」
といふ。
其時、多田淡路守、進み出て、
「諸將の評議、一端、その理ありといへ共、我等、いかでか名將の奧義(あうぎ)をはからひ知らんや。定めて、深き心あるべし。それ、『千丈の堤(つゝみ)も螻蟻(ろうぎ)の穴よりくづる』と、いへり。信玄・謙信・氏康は、今、戰國の中、諸國諸將の間に、もつとも秀(ひいで)て、良將の名ありと雖(いへども)、亦、諸國の間に黨を結び、權(けん)を立つるともがら、甚だ、多し。若(もし)、其中に、謀(はかりごと)、不意に起りて、小身の大將に倒さるゝ事、あるまじき時節にあらず。こゝを以て、信玄・謙信・氏康の三將は、鼎(かなへ)の足の如くそばだち、互に威を振ふといへ共、傍らに小身仕出(しいで)の大將を懼れざるにあらず。近頃(このごろ)、尾州織田信長、すでに草創大業の志ありて、近國をしたがへ、漸々(やうやう)、大軍に及べり。弘治丙辰(ひのへたつ[やぶちゃん注:ママ。])の年、駿河の今川義元、さしも猛將のほまれありて、しかも大軍なりしを、一朝に亡ぼしたり。信長、深く謀り、遠く慮(おもん)ばかり、剛强・武勇・智謀兼備の信玄に對して、親しみ深く緣(えん)をもとめ、伯母を秋山伯耆守が妻となし、其の姪(めい)を武田勝賴の室(しつ)にいれ、使節、ひまなく、甲府に遣はし、さまざま、音信を盡して、ひたすら、君臣の禮の如く、信玄の機をとり、追從(つゐしやう)せらるゝ事は、これ、暫く信玄の武勇をなだめ、うしろを心安くして、前を打ち從へんとす。一〔ひとつ〕には、光源院義輝公の御舍弟義昭公をとりたてゝ、『義兵を擧ぐる』と號して、軍兵を集めて、敵を打ち、二〔ふたつ〕には、軍の法に本末前後あり。まづ、五畿内の弱兵をせめふせて、勢ひを增し、東海・北陸の强敵(がうてき)をば、なだめて、後〔のち〕に討たんとす。三〔みつ〕には、中國・西海の弱敵には、武威を鳴(なら)して大に威(おど)し、東海の剛敵をば、謙(へり)くだりて宥(なだ)め、すでに、家中、漫(はび)こり、軍兵、多く人に先立て京都をしづめ給へり。今の世には、大業、定めて、信長に立〔たつ〕べし。信玄・謙信・氏康は、徒らに我領國に勞(つか)れ死(しに)給はん者を。」
といふに、座中、此事を感じける處に、上州蓑輪(みのわ)の城主長野信濃守、入來れり。
これは關東の上杉憲政の家臣、譜代の侍として智謀無雙(ぶさう)の者なるが、武田信玄と、いどみ戰ふ事、七年にして、終に病死せしかば、その子息右京進、いく程なく、蓑輪の城を、信玄に打取られて、沒落したり。然るに、信濃守、今、又、此座に來り、左右を見まはしけるに、山本勘介入道は一の上座に居て、最(いと)無禮なり。長野は會釋(ゑしやく)もなく、勘介入道が座の上(かみ)にあがり、刀の柄(つか)に手を掛けて、いふやう、
「山本が傍若無人(ぼうじやくぶじん)の有樣こそ心得られね。汝は如何なる大功をなして、今、かく高上〔かうしやう〕のふるまひを致すぞや。」
とて、すなはち、山本を責(せめ)ていふやう、
「そもそも、汝に三〔みつ〕の大罪あり。世の人、更に知らず。此故に、千年の苔の下まで、ほしいまゝに軍道鍛煉(ぐんだうたんれん)の名を盜めり。今、我、これを顯(あら)はして、汝が罪過を、隱さすべからず。」
山本勘介、更に色をも失なはずして、
「さらば、疾々(とくとく)の給へ、つぶさに聞侍らん。」
といふ。
長野いふやう、
「往昔(そのかみ)、信玄、若かりし時、色に溺れて、國家をわすれ給ひし時、板垣信形(いたがきのぶかた)、よく諫めて、心ざし、やうやく改まり、敵を打ち、國を倂(あは)する謀(はかりごと)より外に、他念、なかりし所に、信州諏訪(すは)の祝部賴重(はふりよりしげ)、降參して、旗下(はたした)に屬(しよく)し、甲府に來りし處に、
『是を打ちて、城(じやう)を奪はずば、馬の足を立べき地なし。然らば、信州、終に手に入べからず。賴重を、たばかり殺して、信州手づかひの地をもとめ給へ。』
と、汝、これを勸め參らせ、あえなく、降參(かうさん)の人を、殺させたり。『窮鳥、懷に入れば、獵者も殺さず』とこそいふに、したがひ來〔きた〕る賴重を打〔うつ〕事は、無道不仁の心ならずや。若(もし)、これは軍道の習ひ、智略の一つともいふべき歟、情なき所爲(しわざ)、これ、更に、武道の本意にあらず、虎狼の心に齊(ひと)しといふべし。それに、賴重が娘、容顏美麗なるを以て、信玄、すでに色に惑ひ、召入れて妾(おもひもの)にせむ事を思ひて、勘介に密談せられしかば、
『なにか苦しかるべき。』
と、いひたりければ、迎ひ取りて、妾(おもひもの)とせらる。汝が侫奸(ねいかん)、甚だ、惡むべし。人の眞性(しんせい)を破り、正道を失なへり。眼前に首(かうべ)を白刄の下に刎(はね)られたる敵の娘を取りて、わが妾とし、他のうれへを忘れて、おのれが愛に供(そな)ふる事は、これ、仁者のするところにあらず。されば汝、其時、何ぞ、正理(〔しやう〕り)を以て、諫めざる。かの妾の腹に、勝賴、誕生あり。太郞、義信のため、繼母として、しかも辯侫利根(べんねいりこん)の女なれば、繼子(まゝこ)義信を惡(にく)みて、さまざま、讒言す。信玄は知慮淺からぬ人と雖も、色に陷いりて、心を蕩(とらか)され、讒を信じて、義信を殺し、其外、普代忠義の家臣飯富(いひとみ)兵部を初めて八十餘人の侍、多年奮功のともがら、科(とが)なくして殺されし事、ひとへに、其源(みなもと)は、汝が、奸曲(かんきよく)を以て、諫むべきを諫めず、非道にしたがふて、口を閇(と)ぢたる所也。是、一〔ひとつ〕。
信玄の父信虎は强毅不敵の人にして、偏屈無顧(へんこつむこ)の性(しやう)あり。信玄、いまだ晴信といひし時、これを追放して、次郞信繁に家督を讓らんとせられしを、今川義元は信玄の舅(しうと)なれば、是に心を合せ、信虎を楯出(たて〔いだ〕)し、信玄、家督を奪ひ取られたり。信虎は、駿河に浪牢して、氏眞(うぢざね)の養(やしなひ)をうけ、かすかなる有樣にて、月日を送られたり。後に、信玄、我身の不孝を思ひ知りて、
『信虎を甲府に呼返し、孝を盡さん。』
と思はれしを、汝、之れを諫めて、
『信虎、歸り給はゞ、又、惡心を以つて家を亂さるべし。只、其儘に捨置給へ。』
とて、今に駿府に流浪せさせ、後代までも、不孝の名を信玄に殘す事、是、汝が奸曲不義の所也。是、二〔ふたつ〕。
川中嶋の合戰の時、
『今日の軍(いくさ)の支配、勘介、よく謀るべし。』
とて軍媒(〔ぐん〕ばい)を任せられしに、徒らに謙信の陣を西條山に見やりて、川端に備(そなへ)を立てず、夜の間に、川を謙信に渡され、露ばかりも之を知らず、俄かに驚きて、備を立てしに、武田方の右は、謙信のため、左に受けて、打易き所なるを、義信・望月(もちつき)なんどいふ尫弱(わうじやく)の大將を右の方に備〔そなへ〕させ、一時の間に、破られたり。謙信は、
『急にとりひしがん。』
とて、みづから、眞先(まつさき)に進みて、信玄の本陣を切崩されたり。西條山に向られし軍兵、引返してこそ、信玄、すでに危きをのがれ、萬死(ばんし)を出〔いで〕て、一生を全くせられ侍べれ、典厩信繁(てんきうのぶしげ)・諸角豐後(もろすみぶんご)・初鹿(はしの)源五郞を初めて、大勢、打たれたり。軍(いくさ)は勝(かち)に似て、人數〔にんず〕多く失ひ、汝も耻ぢて、打死せしは、是、もと、備へを誤る故也。何をか、軍法鍛煉の師範とすべき。是れ、三〔みつ〕。
然れば、汝は、三州の牛窪(うしくぼ)より出て、武道修行とて、諸國を廻(めぐ)り、四國の尾形(をがた)に逢〔あひ〕て、軍法を傳授し、城どりの繩ばりに大事を得たり、といふ。そもそも、汝が繩張の城(じやう)、今に至りて、何國(いづく)にありや。今川家に嫌はれて、甲府に吟(さま)よひ、信玄に抱(かゝへ)られて、所知(しよち)につき、之れを花光(ひけらか)して、駿河に行〔ゆき〕たるは、若輩の所行、世の笑種(わらひぐさ)となれり。幸(さいはひ)に武田の家に用ひられ、軍法師範の名をぬすみて、星霜は重なれども、信玄、さらに大業の功、なし。しからば、汝に於て、又、何の勳功ありと、いはん。汝は我が敵族也。目前に見ながら、相宥(あひなだむ)、これ、地府(ぢふ)の大帝(〔だい〕てい)、ゆるされざるが故に、いかにともすべき道、なし。」
といふに、山本入道、一言(〔いち〕ごん)の返答にも及ばず、座をしりぞきて、長野にゆずる。
長野、重ねて云やう、
「諸家(〔しよ〕け)の名臣、歷々おはすれども、中にも我は、一城のあづかり也。此故に一の座を卜(しめ)侍べり。尾籠(びらう)のふるまひは、まげて、ゆるし給へ。」
といふ。
多田淡路守、
「今は、ゆめゆめ、遺恨あるべからず。萬事休し、去(され)ば、一夢(〔いち〕む)のごとし。たゞ、酒のみて、あそび給へ。」
とて、酒(さけ)肴(さかな)、とり出〔いだ〕せば、たがひに數盃(すはい)を傾(かたふ)けたり。
長野、うたふて曰く、
義重命輕如二鴻毛一
肌骨今銷沒二艾蒿一
山宜ㇾ平重淵宜ㇾ塞
殘魂尙誓節操高
義は重く 命(めい)の輕きこと 鴻毛のごとし
肌骨(きこつ) 今 銷(き)えて 艾蒿(がいかう)に没す
山は平らぐべく 重淵(ちようゑん)は塞ぐべし
殘魂 尙ほ誓つて 節操 高し
北條左衞門佐、うたふて曰く、
泉路茫々隔二死生一
落魂何索貽二武名一
古往今來凡是夢
黃泉峙ㇾ耳聞二風聲一
泉路(せんろ)茫々 死生(ししやう)を隔つ
落魂 何を索(もと)めて 武名を貽(のこ)す
古往(こわう) 今來(こんらい) 凡て是れ 夢
黃泉(くわうせん) 耳を峙(そばだ)てゝ 風聲(ふうせい)を聞く
直江山城守、うたふて曰く、
物換星移幾度秋
鳥啼花落水空流
人間何事堪二惆悵一
貴賤同歸土一丘
物 換(かは)り 星 移り 幾度(いくたび)の秋
鳥 啼き 花 落ちて 水 空しく流る
人間(にんげん) 何事ぞ 惆悵(ちうちやう)するに堪へたり
貴賤 同じく 歸す 土(つち) 一丘(いつきう)
山本勘介入道は、
「一文〔いちもん〕不通の者、只、軍道に煅煉(たんれん)して餘事を知らざりしが、今、此の席に連りぬれば、わづかに思ふ處、いはずして止(やみ)なんや。」
とて、
平生智略滿二胸中一
劔拂二秋霜一氣吐ㇾ虹
身後何謾論二興廢一
可ㇾ憐怨魂嘯二深叢一
平生 智略 胸中に滿てり
劔(けん) 秋霜を拂ひ 氣 虹を吐く
身後(しんごう) 何ぞ謾(みだり)に興廢(けうはい)を論ぜん
憐れむべし 怨魂 深叢に嘯(うそぶ)く《を》
多田淡路守、うたふて曰く、
魂歸二冥漠一魄歸ㇾ泉
却恨人生名聞權
三尺孤墳苔累々
暫會二幽客一惠林邊
魂(こん)は冥漠に歸して 魄は泉に歸る
却つて 恨む 人生 名聞(みやうもん)の權(けん)
三尺の孤墳 苔(こけ) 累々
暫らく 幽客(ゆうかく)に會ふ 惠林の邊(ほとり)
鶴瀨、これを見聞くに、あやしさ、かぎりなし。
『そも、夢か、ゆめにあらざるか。庭は惠林寺の庭にして、其の事は、故人の事也。然らずは、我、死して、こゝは、又、迷塗(めいど)か。子細を尋ねばや。』
と、思ふ處に、貝(かひ)・太皷(たいこ)の音、聞えしかば、座中のともがら、
「心得たり。」
とて、傍(そば)なる太刀・かたな、をつとり、をつとり、はしり出〔いづ〕る、とぞ、みえし、一人も殘らず、跡かたなく消うせて、鶴瀨、たゞひとり、惠林寺の庭に坐して、夜は、ほのぼのと明(あけ)たり。
あまりの不思議さに、いそぎ、甲府に立戾りて、信玄公に對面して、ひそかに此事をかたるに、信玄、あざ笑ひて、
「汝は狐にばかされて、かゝる化事(あだこと)を見たりけるか。」
と、無興(ぶきよう)し給ひしかば、鶴瀨、大きに恐れて、郡内に歸り、みづから、筆にしるして、箱の中に留(とゞ)めしとかや。
[やぶちゃん注:ここは実際に姿を見せる登場人物(一応、皆、幽霊)を前の方で一括列挙(一人例外有り)して簡略に示し、その後は実際のそれらの武将の事蹟を追うことは、原則、せず、気になる部分のみを検討することとする。なお、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、これらの終わりに並ぶ漢詩は主に原拠の一つとしている「剪燈餘話」にある詩句を利用している旨の記載がある。私は研究者ではないし、原拠探求には興味がなく、それはしないと最初に言ってある。
「甲州の郡内(ぐんない)」郡内地方。ウィキの「郡内地方」によれば、現在の山梨県休都留郡一帯を指す地域呼称で、御坂山地と大菩薩嶺を境とした県東部地域に当たる。『中世には武田家とも婚姻を通じ』、『家臣団となった小山田氏が領し、居館を中津森(都留市)に置』いていた。『「郡内」の呼称が用いられた初見は』天文四(一五三五)年の「快元僧都記」の記事であるという。『武田氏本領の「国中」と対比され、戦国期の史料に「郡内」の用語は頻出する。近世には谷村に藩庁が置かれ』、『郡内領とな』った。この中央部付近全体(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「鶴瀨安左衞門(つるせあん〔ざゑもん〕)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「安左衛門 是は坊主落ちにて…郡内の者なるゆへ小山田に是を付給ふ」(甲陽軍鑑八・同先衆)。「安蔵主と云出家かへりなり。信玄公御意に入、俗人に成、一疋に乗、会衆の中に入、御陣の御供申」(同十九・諏訪明神夢想事)。「鶴瀬」は郡内口に当たる栗原筋の村名でもあるが、関係は未詳』とあり、実在のモデルが存在したことが判る。山梨県甲州市大和町鶴瀬はここ。
「惠林寺(ゑりんじ)」山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗乾徳山恵林寺。鎌倉幕府滅亡の三年前の元徳二(一三三〇)年に甲斐牧ノ庄の地頭職であった二階堂出羽守貞藤(道号:道蘊(どううん))がかの名僧夢窓国師を招いて自邸を禅院とし、創建したもので、甲斐国に於ける臨済宗の拠点となった。武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川和尚(本篇にも名が出る)の入山で寺勢を高め、永禄七(一五六四)年、信玄自らが寺領を寄進し、当山を菩提寺と定めている。
「行者(あんじや)」本来は、主に禅宗寺院において僧侶のように出家をせずに俗人のままで米搗きや薪拾いなど、寺の雑務を行う労働者を指したが、後には得度した同様の雑事や監督を行った役僧をも含められるようになった。
「小知(せうち)」ここは僅かな知行や扶持を指す。
「永祿丙寅」永禄九年。一五六六年。この前年の永禄八年五月十九日(一五六五年六月十七日、三好義継や三好三人衆・松永久通らが共謀して二条城を襲撃、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害した(「永禄の変」)。また同八年十月十五日には、この話にも出るように、甲斐で武田信玄の嫡男義信が謀反を起した。義信は同月、甲府の東光寺に幽閉され、二年後の永禄十年十月十九日に東光寺で自害した。享年三十であった。
「七月十五日」ユリウス暦七月三十一日(グレゴリオ暦換算で八月十日)。
「快川和尙」臨済宗妙心寺派の僧快川紹喜(じょうき 文亀二(一五〇二)年~天正一〇(一五八二)年)。諱(いみな)は紹喜(じょうき)。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身とされるものの、別説もある。永正一〇(一五一三)年に十二歳で出家。当時は、事実、恵林寺の住持で、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めていた。信玄に「機山」の号を授けてもいる。義信事件では他の寺の住職とともに信玄・義信間の調停も試みている。
「西郡(にしごほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『ここは、かつての山梨郡笛吹川以西の地を指すか。石和』(いさわ)『郷など交付から恵林寺への途次に当たる』とある。この附近。私は四度ばかりこの辺りを歩いており、懐かしい。妻が何度も、この地域内の病院にリハビリ入院する送り迎えをしたからである。
「信玄公祕藏の足輕大將」「多田淡路守(ただあはぢのかみ)」甲斐武田氏家臣で足軽大将にして武田信虎と信玄の二代に仕えた多田三八郎淡路守満頼(?~永禄六(一五六三)年)。作品内時制で三年前に病没している。「信州戶隱山に於て、鬼を切りたる程の者」については、「新日本古典文学大系」版脚注に、『「虚空蔵の城けいごに、多田淡路を指置なさるゝ時、鬼を切たる大剛の武篇者也」(甲陽軍鑑九上・甲州こあらま合戦之事)。多田満仲による戸隠山での鬼切の件が太平記三十二・直冬上洛事付鬼丸鬼切事に見える』とある。
「越後の長尾謙信の家臣直江山城守」知られた上杉景勝家老直江兼続(永禄三(一五六〇)年~元和五(一六二〇)年)とすれば、あり得ない。景勝は謙信の養子で謙信は天正六(一五七八)年に病死しており、直続は永禄七(一五六四)年に上杉顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け、幼い頃から近侍していたとも言われている。孰れにせよ、作品内時制では満六歳で、話にならない。「新日本古典文学大系」版脚注では、『謙信の家臣で直江を名乗った者に大和守景綱、その跡を継いだ信綱がいるが、ここは謙信の重臣景勝か』とする。しかし、この直江景綱(永正六(一五〇九)年?~天正五(一五七七)年)としても、作品内時制では存命しており、おかしい。
「北條氏康の家臣北條左衞門佐〔さゑもんのすけ〕」この名乗りで知られるのは、北条氏忠(?~文禄二(一五九三)年)で、北条氏康の六男ともされるが、父は北条氏尭で氏康の養子となったともされる。しかし、作品内時制では存命しており、おかしい。「新日本古典文学大系」版脚注では、私の今いる書斎の向かいの山の絶対難攻不落の玉繩城主であった北条綱成(永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年)か、とするが、やはり、作品内時制では存命しており、おかしい。
「武田信玄軍法の師範山本勘介入道道鬼(だうき)」山本勘助(明応二(一四九三)年或いは明応九(一五〇〇)年~永禄四(一五六一)年)。実在については、長年、疑問視されていたが、近年は山本勘助と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。彼の戒名は「鉄嚴道一禪定門」とも「天德院武山道鬼居士」ともされる。一般に知られる没年が正確だとすれば、作品内時制では五年前の、最も知られた最大規模の第四次「川中島の戦い」=「八幡原の戦い」(最悪の死傷者数を出した)の際に戦死している。
「去(さん)ぬる癸酉(みづのとのとり)極月廿二日に、正しく、病死せられたり」多田満頼の亡くなった永禄六年は「癸亥」であり、誤りである。歴史物で干支を誤るのは致命的である。仮に架空の怪談物であっても、である。
「たわまず」「撓まず」。疲弊して心が挫けることなく。
「晴(はれ)天に、星の粲然(さんぜん)たるに似たり」夜である必要はない。優れた視力の持ち主は、実際に昼間でも星の光が見える。零戦の名パイロットの手記にあった。
「氣象」気性。
「水精輪(すゐしやうりん)」水晶で出来た輪宝。
「和(くわ)」和平交渉。
「虛實の勢分(せいぶん)」敵味方の勢力と行動を冷徹に分析し、その実際と虚像を厳密に見極めることを指す。
「奇生(きせい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『奇襲作戦と正面』きっての正々堂々とした『攻撃の両作戦』とある。
「偏(へん)」戦術に偏頗な部分があること。
「變化無方(へんくわむはう)の理(り)」戦術法に於いて、その場その場での臨機応変にして自在な変更が無数にあり、それを自由自在にこなせることを指している。
「長尾(ながうの)謙信」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「ながう」の振仮名は、本朝将軍記九などにも見える。「ながうを」(同)とも。また鎌倉九代記下ノ八に「長尾(ながう)喜平次」など』とある。私は本書の作者浅井了意の作と目される「北條九代記」を電子化注を終わっているが、そのようなルビを見出すことは出来ない。但し、同書は「下ノ八」というような表示をしないので、別本か。
「昆蟲(はふむし)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『這ふ虫』の当て字。『地を這う虫』とする。
「能く人をなつけ」手なずけて、うまく服従させ。私は個人的には北条氏康の領内施政は、群を抜いて優れていると、非常に高く評価している。
「亂將」道理に外れたことをする武将。或いは、無能で指揮の仕方の悪い大将。
「守文(しゆぶん)の德」自身の領有地に於ける成文法を厳格に守らせる能力。私は小国寡民に限れば、氏康の執政は当時としては、非常に緻密で合理的であったと高く評価している。
「草創の功業をはげむ事の怠り、あり」確かに領外からの侵略への警戒は問題だが、領内の極めて優れた検地帳作製など、その氏康の具体的治政方策は、戦国の戦争好きで、領地拡大の飽くなき肥大欲に眼が眩んだ糞武将どもより、遙かに優れていたと信ずるものである。
「つひに、大業を立給ふ事かなはずして、其威名、いさゝか、低(うなだれ)たるに似たり」私に言わせれば、それは氏康を継いだ次男(兄氏親は夭折)馬鹿殿の氏政のせいである。
「千丈の堤(つゝみ)も螻蟻(ろうぎ)の穴よりくづる』僅かな油断・不注意から大事が起こるという喩え。千丈の巨大にして堅牢な堤防であっても、螻(けら:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、本邦産のそれはグリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を参照されたい。最近はとんと見かけなくなった)や蟻(あり)のあける穴から崩れることもあるという意から。
「傍らに」これはどうも「側近の」「ごく近くの」の意ではあるまい。特異的だが、「そうした姿勢の一方で」の意であろう。
「小身仕出(しいで)の大將」出自が賤しいものの、急激に新たに力をつけていた武将。
「織田信長、すでに草創大業の志ありて、近國をしたがへ、漸々(やうやう)、大軍に及べり」この作品内時制では「永禄の変」の後に、足利将軍家の足利義昭から、幕府再興の呼びかけを受け、信長はこの永禄九(一五六六)年には上洛を図ろうとした。しかし、美濃の斉藤氏(一色氏)との対立の片がつかず、これは実現しなかったものの、翌永禄十年には斎藤氏の駆逐に成功し(「稲葉山城の戦い」)、尾張・美濃の二ヶ国を領する戦国大名となり、改めて幕府再興を志す意を込め、「天下布武」の印を使用している。
「弘治丙辰」弘治二年。一五五六年。しかし、この「駿河の今川義元、さしも猛將のほまれありて、しかも大軍なりしを、一朝に亡ぼしたり」というのは、それより四年前の永禄三(一五六〇)年)の信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」であるから、おかしい。
「伯母を秋山伯耆守が妻となし」甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆であった秋山虎繁(大永七(一五二七)年~天正三(一五七五)年)。武田信玄・勝頼期に活躍し、「武田二十四将」の一人。諱は信友ほかで記載されることが多かったが、近年の資料研究で確実な署判の写しから「虎繁」が正当とされている。信長の「伯母」とするが、これは「おつやの方」(?~天正三(一五七五)年)で、信長の祖父織田信定の娘であるが、信長の叔母。最初は東美濃遠山荘の地頭遠山景任に嫁いだが、景任が病死し、後の元亀四(一五七三)年三月、秋山虎繁の妻となっているようである。その間の経緯は参照したウィキの「おつやの方」を見られたいが、最後は悲惨で、『信長に捕らえられ』、『逆さ磔で処刑された。あるいは信長が』武田勝頼・秋山虎繁に『裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれる』とある。
「其の姪(めい)を武田勝賴の室(しつ)にいれ」武田勝頼(天文一五(一五四六)年~天正一〇(一五八二)年:武田信玄の庶子であったが、正嫡武田義信が廃嫡されて継嗣となり、元亀四(一五七三)年の信玄の死により家督を相続した)の正室龍勝院(?~元亀二(一五七一)年)。武田信勝の母。父は美濃国衆苗木遠山氏の遠山直廉(なおかど)で、母は尾張の戦国大名織田信長の妹であった。つまり、信長の姪であったが、信長の養女として武田家に嫁いだ。病没と思われる。後、勝頼は、その甚だしい変心から諸将兵から見放され、「天目山の戦い」で自害した。享年三十七。彼の死を以って甲斐武田氏は滅亡した。
「機をとり」機嫌をとり。
「光源院義輝公」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五/在職:天文一五(一五四七)年~永禄八年)。第十二代将軍足利義晴の長男。天文二三(一五五四)年二月に従三位に昇叙するとともに名を義藤(よしふじ)から義輝に改めている。永禄八年五月十九日に松永久秀長男久通と三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好氏の一族或いは重臣であった三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち))が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約一万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せ、「将軍に訴訟(要求)あり」と偽って、取次ぎを求め、御所に侵入し、義輝は殺された(「永禄の変」)。享年三十。
「御舍弟義昭公」室町幕府最後の第十五代征夷大将軍足利義昭(天文六(一五三七)年~慶長二(一五九七)年/在職:永禄一一(一五六八)年~天正一六(一五八八)年)。足利義晴の次男。前記の兄義輝が暗殺されると、当時、門跡権少僧都を務めていた興福寺一乗院内にそのまま軟禁されたが、朝倉義景らの援助で七月に脱出し、初めは近江甲賀の和田惟政を頼り、次いで若狭武田氏や越前朝倉氏のもとに流寓したが、上洛の援を得られず、永禄一一年七月に美濃に入り、織田信長の食客となった。同年九月、信長に擁立されて入京して将軍に就任した。しかし、信長は義昭の脚下に立つことを嫌い、義昭が呈示した副将軍や管領就任を拒絶、独自に畿内支配を進めた。そのため、親裁権を主張する義昭は、信長としばしば対立した。一方の義昭の傀儡化を図る信長は、永禄十二年一月に「殿中掟」、元亀三(一五七二)年九月には「意見」という形で、権力掣肘を加えて義昭を囲い込んだ。信長との手切れを決意した義昭は武田信玄上杉謙信らと結び、浅井・朝倉・本願寺を巻き込む反織田戦線を結んだ。同年秋、信玄が西上したことで義昭の立場は強まり、翌年四月、正親町天皇の調停で一旦は講和が成ったが。信玄横死の報が伝えられるや、翌々月には立場が逆転し、打倒信長の妄執と信玄生存に賭け、七月、宇治槙嶋城に蜂起した義昭はわずか十七日で信長軍に屈し、実子義尋(ぎじん)を人質に差し出して河内若江に退去、ここに室町幕府は倒壊した。以後も紀伊由良・備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせず、天正八(一五八〇)年の本願寺降伏で義昭の壮図も絶望的となった。同十三年の豊臣秀吉の関白任官で将軍復位を断念した義昭は、三年後、上洛して槙嶋に寓居し、出家して昌山と号し、朝廷からは准后の待遇を受けた。「文禄の役」に従軍したが、慶長二(一五九七)年に大坂で病死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「關東の上杉憲政の家臣、譜代の侍」「上州蓑輪(みのわ)の城主長野信濃守」本篇の強烈に面白い場面転換のキー・マンであるので、ウィキの「長野業正」から引く。上野国箕輪城主で関東管領山内上杉家の家臣長野業正(なりまさ 延徳三(一四九一)年~永禄四(一五六一)年)。『長野氏は上野西部の豪族であり、関東管領・山内上杉家に属する勢力であった。また』、『周囲の小豪族・国人を取りまとめており、その集団は「関東幕注文」』(かんとうまくちゅうもん:戦国時代の史料。永禄年間(一五五八年~一五七〇年)に上杉謙信が関東地方へ進出した際に上杉氏に臣従した諸将を記録したもの。特に上野国の戦国時代の勢力図を推定するための重要な史料とされている)『では「箕輪衆」と呼ばれている。また娘を上野の諸豪族に嫁がせることで団結力を強めていた。一方で、上野守護代であり、業正にとっては縁戚である白井長尾家において長尾景誠が暗殺されると、介入し白井長尾家の実権を握り、山内上杉家内での立場を向上させていった。上杉憲政』(既出既注)『が北条氏康に大敗した河越夜戦にも参戦し、このときに子の吉業を失った』。天文一六(一五四七)年、『軍記物によれば笠原清繁への救援に出ようとする憲政を諌めたが聞き入れられず、業正が参加しなかった小田井原の戦いで憲政は信玄に敗北したと伝える。古文書類からも業正はこの戦いに不参加だったとみられるほか、武田信玄から業正へ内応の誘いもあり、この時期に業正と主君上杉憲政との間は微妙であったとみられる』。天文二一(一五五二)年、『御嶽城が落ちて武蔵国を憲政が完全に失うと、箕輪長野氏は西上州の諸将とともに憲政から離反している。これにより憲政の馬廻衆も離反し、憲政は居城平井城を退去して沼田氏など上杉方の勢力が強い上野国北部へ逃れることになる』。『江戸以降の軍記物では』、天文二〇(一五五一)年に『憲政が越後に逃れたが、業正は上杉家に義理を立て北条氏には従わず、翌年に長尾景虎(上杉謙信)が上野に援軍として来るまで持ちこたえたという。その後も』弘治三(一五五七)年から『甲斐国の武田信玄が西上野侵攻を開始すると、業正はただちに上野国人衆を糾合して』二『万余の大軍を編成』し、瓶尻(みかじり)に『おいて迎え撃ったが、緒戦で武田軍を圧倒しながらも』、『諸将の足並みが揃わず、打ち負かされてしまう。しかし、ここで業正は殿軍』(しんがり)『を務めて』、『度々』、『武田軍の追撃を打ち払い』、『退却戦を演じ』、『さらに居城・箕輪に籠城した業正は守りを固めて越後国の長尾景虎の後詰を請い、遂に武田方の侵攻を挫いた。その後も防衛戦を指揮し、野戦には勝てなかったものの、夜襲・朝駆けの奇襲戦法を用い武田方の』六『次にわたる侵攻を全て撃退したという』。『このように、主君であった憲政が北条氏康に敗れて上野を追われた後も、上杉家に義理を立て』、『北条氏には従わず』、『上野国の支配を崩さなかった忠臣と伝わる』。『しかしこれについては後世のイメージであり、同時代史料で裏づけがあるものではない。謙信の関東侵攻は』永禄三(一五六〇)年、『信玄の西上野侵攻は永禄年間』『の開始と、学術研究の進展により』、『これらの事蹟は不確かなものになっている』。永禄三年の『上杉謙信(長尾景虎)が関東に侵攻した際は、「関東幕注文」の三番目にあることから、白井・惣社両長尾氏とともにいち早く上杉軍に応じて北条氏康と戦ったとみられる』。病死であったが、『死去する前、嫡男の業盛』(次注参照)『を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら』、『潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)』。なお、『在原業平の後裔と称』したという。
「その子息右京進」長野業盛/氏業(なりもり/うじなり 天文一三(一五四四)年~永禄九(一五六六)年)。兄吉業は天文一五(一五四六)年の「河越城の戦い」の際に討死したため、父業正が永禄四(一五六一)年に没すると、十七歳で家督を継いだ。父に劣らず、武勇に優れていたと言われる。しかし、甲斐武田氏を何度も撃退した業正の死は、箕輪衆にとっては大きな痛手で、父の死後、一度は撃退するも、永禄九(一五六六)年に武田信玄が二万の大軍を率いて攻め込み、業盛は居城箕輪城に拠って箕輪衆を率いて懸命に抗戦したが、衆寡敵せず、敗れ、本丸の北側にある御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み、一族郎党とともに自害した。享年二十三(長年寺所蔵「長野氏系図」)。遺骸は哀れに思った僧法如らが、高崎市井出町の大円寺の墓地に葬ったとされる。辞世は「春風に梅も櫻も散り果てて名のみぞ殘る箕輪の山里」(以上は当該ウィキに拠った)。蓑輪城はここ。
「高上〔かうしやう〕」高慢。
「板垣信形(いたがきのぶかた)」(延徳元(一四八九)年?~天文一七(一五四八)年)は甲斐武田氏の親族衆で重臣。武田晴信(信玄)の傅役(もりやく)となり、信玄の父信虎の追放に貢献した。甘利虎泰とともに両職として信玄を補佐し、信濃諏訪の郡代を務めた。村上義清との「信濃上田原(うえだがはら)の戦い」で討ち死した。名は「信方」とも書く。
「祝部賴重(はふりよりしげ)」諏訪頼重(永正一三(一五一六)年~天文一一(一五四二)年)は信濃国の戦国大名。諏訪氏第十九代当主。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり:神主・禰宜の次位の上職)。武田勝頼の外祖父に当たる。「信濃四大将」の一人。当該ウィキによれば、父の頼隆は享禄三(一五三〇)年に死去し、頼重は祖父の頼満から嫡孫として後継者に指名され、天文八(一五三九)年の頼満死去に伴い、諏訪家の家督を継いだ。諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び、甲斐国内へ侵攻していたが、天文四(一五三五)年に信虎と頼満は和睦し、天文九(一五四〇)年十一月には武田信虎の三女禰々』(ねね)『を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた。天文十年五月には信虎・村上義清らと連携して、小県(ちいさがた)郡に侵攻し、海野氏一族と戦い、同月下旬には「海野平の戦い」で海野棟綱を破り、上野国へ追放した。しかし、天文一〇(一五四一)年六月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され、嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ、諏訪郡への侵攻を開始する。翌年、晴信は諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び、諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は同年七月に桑原城で降伏した後、弟の頼高とともに武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後、自刃し、頼高も自刃して諏訪惣領家は滅亡した。辞世の句は「おのづから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそ又も結ばめ」である(以上は概ね当該ウィキに拠った)。なお、禰々と頼重との間に寅王が同じ天文十一年が生まれているが、彼の処遇は不明で、寅王とともに甲府へ戻っているが、天文十二年一月に十六歳で亡くなっている。
「あえなく」あっけなく。
「若(もし)、これは軍道の習ひ、智略の一つともいふべき歟、情なき所爲(しわざ)、これ、更に、武道の本意にあらず、虎狼の心に齊(ひと)しといふべし」この「若(もし)」は「万一、或いは……か? いや!~というべき非道である!」という仮定と反語がないまぜになった全否定のやや特異な用法である。
「信玄、すでに色に惑ひ、召入れて妾(おもひもの)にせむ事を思ひて、勘介に密談せられしかば、『なにか苦しかるべき。』と、いひたりければ、迎ひ取りて、妾(おもひもの)とせらる」これについて、「新日本古典文学大系」版脚注には、『勘介が諏訪家懐柔策として進言したと記す(甲陽軍鑑九上・山本勘介工夫)』とあるが、これでは時制と動機が逆転して、シチュエーションも全く異なってくる。次の次の注も参照。
「侫奸(ねいかん)」「佞姦」などとも書く。口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く拗(ねじ)けていること。
「人の眞性(しんせい)を破り」この場合、忠義の人長野業正は性善説をとっていることになる。
「かの妾の腹に、勝賴、誕生あり」武田勝頼は、武田晴信(信玄)の側室で諏訪頼重と側室の小見氏の娘との間に生まれた諏訪御料人(享禄二(一五三〇)年?~弘治元(一五五五)年:実名不詳)を母として生まれた。
「太郞」先に注した信玄の長男で信玄暗殺の謀反の罪で自害した武田義信。母は信玄の継室で、左大臣三条公頼(きんより)の次女三条の方(大永元(一五二一)年?~元亀元(一五七〇)年)。ウィキの「三条の方」によれば、信玄との間には義信・黄梅院・信親・信之・見性院の三男二女をもうけたが、彼女は度重なる不運に見舞われた。まず、信親が先天的な盲目であったか、或いは幼年期に失明した。天文二〇(一五五一)年には父の公頼が「大寧寺の変」(周防山口の大内義隆が家臣の陶隆房(晴賢)の謀反により、自害させられた事件。公頼は京の騒擾を避けてそこにいて巻き込まれた)で殺され、天文二二(一五五三)年頃に信之が夭折した(十一歳前後)。さらに既に見た通り、永禄八年には義信が謀反に関わったとされて東光寺に幽閉、翌々年に自害、永禄一一(一五六八)年には信玄が駿河に侵攻しため、北条氏政室であった黄梅院が離縁されて、その翌年に病死した。その二年後、夫信玄から感染したとされる労咳によって亡くなった。享年五十前後か。
「辯侫利根(べんねいりこん)」「辯侫」は「便佞」が一般的で、「口先は巧みだが、心に誠実さのないこと」。「利根」は「生まれつき賢いこと・利発」また、「口のきき方がうまいこと」の意も嗅がせてある
「飯富(いひとみ)兵部」飯富虎昌(おぶとらまさ 永正元(一五〇四)年~永禄八(一五六五)年)が正しい読み。武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃国佐久郡内山城を領した。信虎追放後は信玄に仕えた。信玄の信任厚く、嫡男武田義信の傅役や精鋭部隊「赤備え」を率いる大任を務めたが、義信事件に連座して切腹させられた。この事件では他にも重臣長坂勝繁・曽根周防守と義信の家臣団八十騎余りも処刑され、その他の関係者も追放されたりした。
「奸曲(かんきよく)」「姦曲」とも書く。心に悪巧みを持っていること。
「閇」「閉」の異体字。
「偏屈無顧」性根が拗けていて、善悪や是非を一顧だにしないこと。
「次郞信繁」武田信虎の子で信玄の同母弟武田信繁(大永五(一五二五)年~永禄四(一五六一)年)。父の寵愛うけたが、兄信玄に仕え、父の追放後(度重なる外征などの信虎の専制化を恐れた家臣たちが天文一〇(一五四一)年に長男晴信(信玄)を担ぎ出し、同年六月、信虎は駿河今川氏のもとへと追放された。義元没後は駿河で生まれた武田信友に家督を譲って永禄六(一五六三)年以後に上京、将軍足利義輝の相伴衆となっている。最後は伊那の娘婿根津常安の庇護を受け、八十一歳で信濃高遠にて没した)も信玄を補佐した。永禄元年には「武田信繁家訓」を嫡子信豊に与えている。永禄四年九月十日、「川中島の戦い」(第四次合戦。「八幡原の戦い」)で戦死。享年三十七。官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子信豊も「典厩」を名乗ったため、後世、それを区別するために「古典厩」とも記される。
「今川義元は信玄の舅(しうと)」実際の舅ではない。信玄の同母姉である定恵院(じょうけいいん 永正一六(一五一九)年?~天文一九(一五五〇)年)が今川義元の正室であったことから義理の舅の意で言ったもの。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。
「楯出(たて〔いだ〕)し」締め出し。
「信玄、家督を奪ひ取られたり」最後の助動詞は「使役」ではなく、「尊敬」。
「氏眞」今川氏第十二代当主今川氏真(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一五)年)。当該ウィキによれば、父『今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが』、『武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり』、『妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には』「桶狭間の戦い」で『今川家を離反した徳川家康と和議を結んで臣従し』、『庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した』とある。
「西條山」妻女山(さいじょさん)のこと。長野県長野市松代町と千曲市土口が境を接する山で、第四次の「川中島の戦い」に於いて、上杉謙信の軍が陣を張った地として知られる。ウィキの「川中島の戦い」に合戦動向の地図があるのでそちらを参照されるのが、言葉で説明するよりも、一発で判る。なお、この「徒らに謙信の陣を西條山に見やりて、川端に備(そなへ)を立てず」というのは、敵陣を見やりながら、なんと、迂闊にも、謙信は西條山にあって動かないと決め込んで、千曲川沿いの警戒を全くしなかった」大失態を指す。知られた頼山陽の漢詩「川中島」の一節、「鞭聲肅々 夜 河を渡る」のあれである。
「謙信のため、左に受けて」この「ため」は「そちらから見て」の意で、謙信方から言って左翼部分の意。
「義信」嫡男武田義信。
「望月(もちつき)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『望月義勝』とし、信玄の弟『信繁の二男、御親類衆(六十騎持)』とあるのだが、これは恐らく、信繁の長男であった望月信頼(天文一三(一五四四)年~永禄四(一五六一)年)のことであろう。武田氏に臣従した信濃の名族望月氏の養子となった。ウィキの「望月信頼」によれば、弟武田信豊『(信繁の次男)の母が正室であるのに対し、信頼と信繁の三男である望月信永の母は望月氏当主であった望月盛昌の娘であったため、望月城の当主となっていた望月信雅の養子になったと考えられている』。彼はこの第四次の「川中島の戦い」『(父の武田信繁が戦死)に参陣するが、直後の九月二十一日に死去している。享年十八で、『死因は病死とも、川中島における戦傷ともいわれる』とある。因みに、三男望月信永の可能性はない。当時、未だ数え十一で元服前であり、参加した可能性は極めて低いからである(ウィキの「望月信永」を参照)。
「尫弱(わうじやく)」甚だ弱いこと。
「一時の間に、破られたり」この前後をウィキの「川中島の戦い」から引いておく。『上杉政虎』(謙信)は、八月十五日、『善光寺に着陣し、荷駄隊と兵』五千『を善光寺に残した。自らは兵』一万三千『を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り』、『長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け』、十六『日に甲府を進発』し、二十四日に兵二万を『率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお』、「甲陽軍鑑」には『信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため』、二十九『日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き』、『海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば』、『戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば』、『城方との挟撃に合う可能性もあるため』、『それを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある』。『膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助』『と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた』。九月九日(ユリウス暦一五六一年十月十七日、グレゴリオ暦換算では十月二十七日)『深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊』一万二千が『妻女山に向い、信玄率いる本隊』八千は『八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じ』、『密かに妻女山を下り、雨宮の渡し』(ここ。右上に妻女山を配した)『から千曲川を対岸に渡った』。『政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵』一千『を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく』、『最終的には甘粕隊のみとなったとされる』。
十日(同前で十月十八日、グレゴリオ暦換算で十月二十八日)の午前八時頃、『川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃』『)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で』、『信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど』、『危機的状況であったという』。『乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた』。「甲陽軍鑑」では、『白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光』(あずきながみつ)『を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀に』亙って『斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると』、『軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後に』、『この武者が上杉政虎であると知ったという』とある、あの劇的シークエンスである。
「諸角豐後(もろすみぶんご)」信玄の曽祖父信昌の六男で武田家譜代の重臣として信虎・信玄の二代に亙って仕えた諸角豊後守昌清(虎定)(室住虎光(もろずみとらみつ)と同一人物とされる)。旗本五十騎持ちの剛腕の侍大将で、信玄の弟信繁を幼少時から支えてきた守役でもあった。
「初鹿(はしの)源五郞」「新日本古典文学大系」版脚注に、『諱は忠次、足軽大将。三十騎持』とある。
「三州の牛窪(うしくぼ)」現在の愛知県豊川市牛久保町。ウィキの「山本勘助」によれば、江戸後期に成立した「甲斐国志」によれば、『勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)』(ここ)『の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている』とある。
「四國の尾形(をがた)」築城術の兵法家らしいが、不詳。「新日本古典文学大系」版も注せず。
「城どりの繩ばり」築城の際の最初の図面引き。
「そもそも、汝が繩張の城(じやう)、今に至りて、何國(いづく)にありや」この批判は的を射ていない。築城術=「城取り」を知悉しているということは、城攻めのプロであるということであり、一つも城を建てていない「城取り」がいても、何ら問題ないからである。
「所知(しよち)」知行・扶持を得ること。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『当初は百貫の約束であったが、少ないとして即座に二百貫の知行にあずかったという(甲陽軍鑑評判二。山本勘助之事)』とある。換算サイトで戦国時代の一貫文を現在の十五万円相当とするとあったので、百貫は一千五百万円相当。]
「花光(ひけらか)して」二字へのルビ。
「汝は我が敵族也。目前に見ながら、相宥(あひなだむ)」お前は我れらの仇敵じゃての! 目の前に見ていながら、何も語らず、漫然と許しおくなんどということは。
「地府(ぢふ)の大帝(〔だい〕てい)」冥府地獄の大帝王閻魔。
ゆるされざるが故に、いかにともすべき道、なし。」
といふに、山本入道、一言(〔いち〕ごん)の返答にも及ばず、座をしりぞきて、長野にゆずる。
長野、重ねて云やう、
「諸家(〔しよ〕け)の名臣、歷々おはすれども、中にも我は、一城のあづかり也。此故に一の座を卜(しめ)侍べり。尾籠(びらう)のふるまひは、まげて、ゆるし給へ。」「この場庭には、これ、諸家の名臣であられたお歴々が、居られるのではあるが、中でも我らは、一つ城を預かって御座った者である。さればこそ、城主として、一(いち)の座を占めさせ貰おうぞ。さてもさても、これまでにまくし立てたる無礼非礼は、これ、枉(ま)げて、お許しあられよ。」。ちょっと急に追い詰めて潰さんかという鬼の気迫が急速に凋んでしまうところが、ちょっと作品としては「どうよ?」という気はする。まあ、しかし、ここまででも、「もう、かなり長いよなぁ」と、正直、感ずるから、仕方ないか。
「萬事休し」「新日本古典文学大系」版脚注では、『すべての事件に決着がつき』と訳しているが、私は戴けない。やはり「万事休す」は「最早、施す手段がなく、万策、尽きるた。最早、総ては終わりを迎え、今更、何をしても何を言っても意味はない」と言う意味にしか使わない(「宋史」の「荊南高氏世家」が典拠)。されば、ここは、この庭に居並ぶ諸将は、皆、総て冥界の存在となった死者であり、武士であった以上は、皆、等しく地獄に堕ちているとすべきであり、時空間は巻き戻して変えることは不可能で、それぞれがそれぞれの宿業として持ち、輪廻するしかない、という「万事休す」でなくてはおかしい。だからこそ、「去(され)ば、一夢(〔いち〕む)のごとし」「総てが、時空遙かに消え去ってしまえばこそ、我らそれぞれの怨讐は、これ、一夜の夢のようなもの」と呟くのである。
「肌骨(きこつ)」儚い肉体。袋でしかない皮膚と中の芯棒でしかない骨。
「艾蒿(がいかう)」ヨモギ。ここは蓬(よもぎ)の生えた荒れ野や荒廃して人気のない場所を指す。
「泉路(せんろ)」黄泉路(よみじ)。
「貽(のこ)す」残す。伝える。
「一丘(いつきう)」一つの塚。或いは最早、塚であることを誰も知らぬ土の丘。読み取りは孰れも「土に帰る」ことに帰一する。
「一文〔いちもん〕」ここは詩歌文芸の才のことでよかろう。
「身後(しんごう)」死の後。
「興廢(けうはい)」最早、縁のない、この儚い現世の、その中の、ちっぽけな国家領土などの興亡について、どうして、論じ合う必要があろう、いや、ない。
「冥漠」暗くて遠いこと。
「泉」黄泉。あの世。
「貝(かひ)・太皷(たいこ)の音」法螺貝と太鼓。戦闘の合図。
「をつとり、をつとり」「押つ取り刀」(現代仮名遣:おっとりがたな)のそれ。危急な戦時にあって、刀を腰に佩く暇もなく、手に持ったままに走り出ること。
「信玄公に對面して」本篇時制の永禄九(一五六六)年当時、信玄は満四十五歳。「川中島の戦い」に終止符が打たれ(永禄七年)てから二年後で、義信事件及び信長の養女を四男諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎えた翌年であった。]
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