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2021/05/30

日本山海名産図会 第三巻 若狹鰈(わかさかれ)

 

Wakasakarei

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「若狹鰈(わかさかれあみ)」。本文にも出る通り、鰈と同大の巨大な蟹(私にはワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus のように見える)も網に掛かっている。]

 

   ○若狹鰈

 

海岸より三十里ばかり沖にて捕るなり。其の所を「鰈塲(かれば)」といひて、若狹・越前・敦賀三國の漁人(きよじん)ども、手操網(てくりあみ)を用ゆ。海の深さ、大抵、五十尋(ひろ)。鰈は、其の底に住みて、水上に浮(うか)む事、稀なり。漁人、三十石斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]の船に、十二、三人、舟の左右にわかれ、帆を橫にかけ、其の力を借りて、䋄を引けり。「アバ」は水上に浮き、「イハ」は底に落ちて、䋄を廣めるなり。外に子細なし。䋄中(もうちう)に混り獲(と)る物、蟹、多くして、尤も大(おほ)ひ也。

 

Wakasamusigareiseihou

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。作業の細部が判るように、前に示したものよりも大版でダウン・ロードして用いた。キャプションは「若狹蒸鰈制(わかさむしかれをせいす)」。この絵、何か、懐かしい。]

 

○塩藏風乾(しほぼし) 是れを「むし鰈」と云ふは「鹽蒸(しほむし)」なり。火氣(くわき)に觸れし物には、あらず。先づ、取り得し鮮物(まゝ)を、一夜(いちや)、塩水(しほみつ)に浸し、半熟し、又、砂上に置き、藁薦(わらこも)を覆ひ、溫濕(うんしつ)の氣にて、蒸して後(のち)、二枚づゝ、尾を糸に繋ぎ、少し乾かし、一日の止宿(しゆく)も忌みて、即日、京師に出だす。其の時節(じせつ)に於ては、日每(ひごと)隔日(かくじつ)の往還とは、なれり。淡乾(しほほし)の品(しな)、多しとはいへども、是れ、天下の出類(しゆつるい)、雲上(うんしやう)の珍美(ちんみ)と云ふべし。

[やぶちゃん注:以下に若狭の「小鯛」と「他刕鯛網」が続くが、魚種が違うので別立てとした。

「若狹鰈」この名で当地の名産品として古くから知られた種は、

棘鰭上目カレイ目カレイ亜科カレイ科ヤナギムシガレイ属ヤナギムシガレイ Tanakius kitaharae

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『北海道南部以南の日本各地のほか、黄海、渤海』、『朝鮮半島沿岸に分布する。体は長楕円』『形で、著しく扁平』を成し、『上眼は頭の背縁に接し、下眼より』、『わずかに後ろにある。口は小さく、両顎』『に門歯が連続して一列に並ぶ。側線は』胸鰭の『上方で』、『湾曲』は『しない。体色は有眼側は褐色で』胸鰭と尾鰭の『後部は暗色。無眼側の体は白い』。水深二百から四百『メートル前後の砂泥底にすみ、おもに小形の甲殻類、多毛類、二枚貝、ヒトデ類など海底の小動物を食べる。産卵期は』十二~七月で、北方地ほど、『遅い。卵は油球のない分離浮性卵。孵化仔魚(ふかしぎょ)は全長約』三・四『センチメートル』で、一年で八『センチメートル』、三年で十五『センチメートル』五年で二十『センチメートルほどになる。最大体長は』三十『センチメートルほど』まで成長する。『底引網で多量に漁獲される。ほかのカレイ類』(カレイ科 Pleuronectidae)『に比べて、形や色合いに品があるうえ、脂肪が少なくて淡泊であり、干物として最高級品である。乾製品はワカサガレイやササガレイの名前で売られている』。『ヤナギムシガレイの名前は、体つきと色合いはムシガレイ』(カレイ科ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi )『に似ているが、体が薄くて細く』、『ヤナギの葉のようであることに由来する。ヒレグロ』(カレイ科ヒレグロ属ヒレグロ Glyptocephalus stelleri )『に似るが、ヤナギムシガレイは上眼が頭部背縁に接すること、無眼側の体は白いことなどで容易に区別できる』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のヤナギムシガレイのページをリンクさせておく。そこに『抱卵期の大型は』一キログラム『あたり』四千『円を遙かに超える超高級魚である』とある。前の引用の棲息深度は深過ぎる気がする(これでは深海のレベルである)。こちらでは、百~二百メートルとあり、「WEB魚図鑑」でも『水深』百『メートルほどの場所で多い』とあって、その方が私は腑に落ちる(次注参照)。なお、本書では一貫して、「鰈」(漢語「鰈」は「枼」=「葉」のように平たい「魚」の意であり、漢語では別に「比目魚」(ひもくぎょ)で元来、中国では「カレイ」(棘鰭上目カレイ目 Pleuronectiformes)と「ヒラメ」(カレイ目カレイ亜目ヒラメ科Paralichthyidaeヒラメ属 Paralichthys )を区別せず、この漢字で総称する)。「比目魚」は本来は両面が黒かった魚が左右に裂けたもので、目のある方が片身を捜しているとする「片割魚」伝承がある。但し、「本草綱目」の「比目魚」は別名を「鞋底魚」としており、盛んに履(くつ)絡みの異名が並び、これは高い確率でカレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae・ウシノシタ科 Cynoglossidae のウシノシタ類(流通名(主に関東)「シタビラメ」(舌平目))を指しているものと思われる)に「かれ」とルビするが、本邦の「かれひ」(かれい)の語源は、この中国の「片割魚」の和訓(歴史的仮名遣。以下同じ)「たわれいを」に由来するという説の他、「韓(から:朝鮮半島南部)でよく獲れる平たい鱏(えい)のような魚、或いは、鱏よりも美味い魚」(但し、「韓」には「舶来品・高級物品」の意もあるので地域には限定出来ない。なお、朝鮮では強力なアンモニア臭で世界の「臭い食物」ではアジアのトップに君臨すると言ってよい「ホンオフェ」(軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目 Rajiformes を用いる)「エイ」は冠婚葬祭に欠かせない高級な料理である)という意味の「からえひ」が転訛した「かれひ」が「かれい」になったとする説もある。なお、現在ではカレイ類を「鰈」、ヒラメ類を「鮃」と別々の漢字を用いて区別しているが、江戸初期の辞書「倭爾雅(わじか)」(元禄七(一六九四)年)では「比目魚」を「かれひ」と読ませており、その際、カレイとヒラメとを区別していない。但し、この頃以降の本草書や字書の「物類称呼」(方言辞典。安永四(一七七五)年)の中では、大小、或いは、正しく別種とするものが、登場し始めているようではある。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」を参照されたい。また、そこでも述べておいたが、誰もが伝家の宝刀の如く「左ヒラメに右カレイ」という絶対識別法が叫ばれているが、この分類法は厳密には正しくなく、頭部の左側に目を持っているヌマガレイ属ヌマガレイPlatichthys stellatus がいる(島根県中海以北・千葉県九十九里以北。朝鮮半島からオホーツク海及びベーリング海を経て、南カリフォルニアまで分布する。当該ウィキによれば、『一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼であるが、本種は目の向きの奇形が多く、カリフォルニア沿岸で約』五十『%、アラスカ沿岸で約』七十『%、日本近海はほぼ』百『%が左に目があり、正常型のほうが少ないという状況になっている(視神経の走り方からするとヌマガレイも通常のカレイ同様に右に目があるのが正規である)』とある。また、そこには、『食用は可能であるが』、『脂がなく』、『パサつくため』、『商品価値が低く、市場に出回ることはない』とあるが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、『最近、関東には活魚・活け締めでの入荷が増えている。値段は活魚でもあまり高くはない。野締めはほとんど値がつかない』。九十センチメートル)『にもなる大型ガレイだが、入荷してくるのは全長』四十センチメートル『前後』のみとあるので、ウィキの記載は書き変えられるべきである)。なお、本項で「かれ」なのは、歴史的仮名遣の「かれひ」の「ひ」が発音し難く、流通の便から脱字されたものと私は考える。また、「塩藏風乾(しほぼし)」の製品は見るからに、淡く綺麗に「枯れ」た感じにもなり、その親和性もあるように思われる。なお、ウィキの「打瀬網漁(うたせあみりょう)には、かなり細かな本書の記載の言及があるが、それはこの注を書き上げた後に確認したもので、遺憾乍ら、私は全く参照にしていないので、参照されたい。

「五十尋(ひろ)」既に述べたが、「尋」の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。前者換算で約九十一メートル、後者で七十五・七五メートルとなる。

「三十石斗の船」こちらの狛林秀雄氏の「淀川三十石船今昔」の「三十石船の由来」によれば、江戸初期、『世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船』として、『三十石船』『が登場し』、『米を三十石積めることから』「三十石船」『と呼ばれ、別名を過書船とも云われ』たとある(「過書船」は「かしょぶね」と読み、「過所船」とも書く。江戸時代に淀川を運航して京都―大坂間の貨物・乗客を運んだ川船で、元来、広く過書(関所手形)を所持する船の称であった。慶長三(一五九八)年、徳川家康により、「過書座の制」が設けられ、それまで水運に従事していた淀船と、新設の三十石船とを包括し、過書船奉行が配置された)。『全長五十六尺』(約十七メートル)、『幅八尺三寸』(約二・五メートル)、『乗客定員』は二十八人から三十人で、『船頭は当初』、四『人と決められてい』『たが、幕末には』「早舟三十石船」が現れ』、『船頭も』四、五人から五、六人と『なり、上り下り』ともに『時間が短縮され』たとある。この解説は客船であるが、挿絵の漁船のサイズはやや小振り乍ら一致し、乗っている漁師十五人を数え、未だ余裕があるから、これをほぼ同じようなものと考えてよかろう。

「アバ」網に装着した「浮き」。挿絵では網上辺の紡錘型のもの。これは木製であろう。

「イハ」錘(おもり)。

「鮮物(まゝ)」二字へのルビ。

「一日の止宿(しゆく)も忌みて」僅か一日でも搬出せずに置きおくことを嫌って。

「其の時節(じせつ)」同種ヤナギムシガレイ、及び、それをかく加工した「蒸し鰈」の旬(しゅん)のこと。

「淡乾(しほほし)」一夜干し或いは軽く塩を振った干物。]

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