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2021/05/19

芥川龍之介書簡抄63 / 大正五(一九一六)年書簡より(十) 夏目漱石宛二通(注で第一通目の漱石の返事と、第二通目と行き違いになった漱石の「芋粥」の感想を書いた芥川龍之介個人宛書簡を添えた)

 

大正五(一九一六)年八月二十八日・千葉県一の宮発信・夏目金之助宛(転載)

 

先生

また、手紙を書きます。嘸、この頃の暑さに、我々の長い手紙をお讀になるのは、御迷惑だらうと思ひますが、これも我々のやうな門下生を持つた因果と御あきらめ下さい、その代り、御返事の御心配には及びません。先生へ手紙を書くと云ふ事がそれ自身、我々の滿足なのですから。

今日は、我々のボヘミアンライフを、少し御紹介致します。今居る所は、この家で別莊と將する十疊と六疊と二間つゞきのかけはなれた一棟ですが、女中はじめ我々以外の人間は、飯の時と夜、床をとる時との外はやつて來ません。これが先、我々の生活を自由ならしめる第一の條件です。我々は、この別莊の天地に、ねまきも、おきまきも一つで、ごろごろしてゐます。來る時に二人とも時計を忘れたので、何時に起きて何時に寢るのだか、我々にはさつぱりわかりません。何しろ太陽の高さで、略見常をつけるんですから、非常に「帳裡日月長」と云ふ氣がします。それから、甚、尾籠ですが、我々は滅多に後架へはいりません。大抵は前の庭のやうな所へ、してしまふのです。砂地で、すぐしみこんでしまひますから、宿の者に發見される惧などは、萬萬ありません。第一、非常に手輕で、しかも爽快です。さう云ふ始末ですから、部屋の中は、原稿用紙や本や繪の具や枕やはがきで、我ながらだらしがないと思ふ程、雜然紛然としてゐます。私は本來久米などより餘程きれいずきなのですが、この頃はすつかり惡風に感染してしまひました。夜はそのざふもつを、隅の方へつみかさねて、女中に床をとつてもらひます。ふとんやかいまきは、可成淸潔ですが、蚊帳は穴があるやうです。やうですと云ふのは、何時でも中に蚊がはいつてゐるからで、實際穴があるかどうか、面倒くさいから、しらべて見た事はありません。その代り、獅嚙火鉢[やぶちゃん注:「しかみ・しがみひばち」。後注参照。]を一つ、蚊帳の中へ入れて、その中で盛に、蚊やり線香をいぶしました。久米の說によると、いぶしすぎた晚は、あくる日、頭が痛いさうです。ではよさうかと訊きますと、蚊に食はれるよりは、頭痛のする方がまだいゝと云ひます。そこで、やはり每晚、十本位づゝ燃やす事にきめました。頭痛はしないまでも、いぶしすぎると、翌日、鼻の穴が少しいぶり臭いやうです、線香さへなくなれば、もういゝ加減にやめてもいいのですが、こてこて買つて來たので、中々なくなりさうもありません、この頃は、それが少し苦になり出しました。

海へは、雨さへふつてゐなければ、何事を措いてもはひります。こゝは波の靜な時でも、外よりは餘程大きなのがきますから、少し風がふくと、文字通りに、波濤洶湧[やぶちゃん注:「はたうきようゆう・よう(はとうきょうゆう・よう)」。波が立ち騒ぐこと。]します。一昨日、我々がはいつてゐた時でした。私が少し泳いで、それから脊の立つ所へ來て見ると、どうしたのだかゐる筈の久米の姿が見えません、多分先へ上つたのだらうと思つて、砂濱の方へ來て見ますと、果してそこにねころんでゐました。が、いやな顏色をして、兩手で面をおさへながら、うんうん云つてゐるのです、久米は心臟の惡い男ですから、どうかしたのかと思つて、心配しながら訊いて見ますと、實は、無理に遠くまで泳いで行つた爲にくたびれて歸れなくなつた所へ、何度も頭から波をかぶつたので、大へん苦しんだのださうです、さうして、あまり鹹い水をのんだので、もうこれは駄目かなと思つたのださうです。では又、何故そんなに遠くへ行つたのだと云ひますと、女でさへ泳いでゐるのに、男が泳げなくちや外聞がわるいと思つて、奮發したのだと云ふ事でした。つまらない見えをしたものです。事によると、この女なるものが、尋常一樣の女ではなくつて、久米のほれてゐる女だつたかもしれません。女と云へば、きれいな女は一人もゐませんが、黑の海水着に、赤や綠の頭巾をかぶつた女の子が、水につかつてゐるのはきれいです。彼等は、全身が歡喜のやうに、躍つたり、跳ねたりしてゐます。さうして、蟹が一つ這つてゐても、面白さうにころがつて笑ひます、濱菊のさいてゐる砂丘と海とを背景にして、彼等の一人を、ワツトマンヘ畫かうと云ふ計畫があるんですが、まだ着手しません。畫は、新思潮牡同人中で、久米が一番早くはじめました。何でも大下藤次郞氏か三宅克己氏の弟子か何かになつたのかも知れません、とにかく、セザンヌの孫弟子位には、かけるさうです。同人の中には、まだ松岡も畫をかきます、しかし、彼の畫は、倒[やぶちゃん注:「さかさ」。]にして見ても橫にして見ても、差支へないと云ふ特色がある位ですから、まあ私と五十步百步でせう。それでら二人とも、ピカソ位には行つてゐると云ふ自信があります。

いよいよ九月の一日が近づくので、あんまりいゝ氣はしません。先生にあやまつて頂くよりは、御禮を云ふやうになる事を祈つてゐます。

今日、チエホフの新しく英譯された短篇をよんだのですが、あれは容易に輕蔑出來ません。あの位になるのも、一生の仕事なんでせう。ソログウブを私が大に輕蔑したやうに、久米は書きましたが、そんなに輕蔑はしてゐません。ずゐぶん頭の下るやうなパツセエヂも、たくさんあります、唯、ウエルスの短篇だけは、輕蔑しました。あんな俗小說家が聲名があるのなら、英國の文壇よりも、日本の文壇の方が進步してゐさうな氣がします。

我々は海岸で、運動をして、盛に飯を食つてゐるんですから、健康の心配は入りませんが、先生は、東京で暑いのに、小說をかいてお出でになるんですから、さうはゆきません、どうかお體を御大事になすつて下さい。修善寺の御病氣以來、實際、我々は、先生がねてお出でになると云ふと、ひやひやします。先生は少くとも我々ライズィングジェネレエションの爲めに、何時も御丈夫でなければいけません、これでやめます。

    八月二十八日     芥川龍之介

   夏目金之肋樣 梧下

 

[やぶちゃん注:個人的に思うのだが、これは芥川龍之介の旧全集中の唯一の漱石宛書簡なのであるが、芥川龍之介が書簡で句読点を規則的に打つというのは、全く以って特異点で、これらは転載元の編者の添えたものである可能性が頗る高いことを申し添えておく。

「ボヘミアンライフ」Bohemian life。「自由奔放な生活」。

「帳裡日月長」「帳裡(ちやうり) 日月 長し」。

「獅嚙火鉢」「獅噛み」(獅子の頭部を造形化したもの。古くは兜を装飾した)を足や把手に取り付けた金属製の丸火鉢。小学館「日本国語大辞典」のこちらの画像を参照。

「濱菊」海岸に生える白い花のキク目キク科キク亜科キク属ノジギク Dendranthema occidentali-japonense 、或いは、亜種コハマギク Dendranthema arcticum subsp. maekawanum などか。

「ワツトマン」ワットマン紙(Whatman paper)。イギリスのジェームス・ワットマン(James Whatman)が作った厚い手漉きの高級図画用紙。麻や木綿の襤褸(ぼろ)を原料とした吸水性の良い紙で、特に水彩画用に適する。そのため、ワットマン紙は水彩画用紙の代名詞にもなっている。ワットマンが一七四五年に設立した「ワットマン社」は、イギリスのケント地方を代表する製紙メーカーとなっており、各種の紙を製造しているが、日本では濾紙やペーパー・クロマトグラフィー用紙の製造元として知られる。一時中断していた画用紙製造も一九六〇年代には再開されている(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

「大下藤次郞」(明治三(一八七〇)年~明治四四(一九一九)年)は東京生まれの洋画家(水彩画家)。中丸精十郞や原田直次郞に師事し、原田を介して森鷗外の知遇を得た。水彩画を能くして、以下の三宅克己と親交を結んだ。「太平洋画会」の創立会員。明治三八(一九〇五)年に「春鳥会」を興し、知られた美術雑誌『みづゑ』を創刊、翌年には「日本水彩画会」を創設し、水彩画の大衆化に大きな影響を与えた。鷗外の執筆になる年譜がある。

「三宅克己」(みやけこっき 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は徳島市生まれの洋画家。六歳の頃に東京に転居。曾山幸彦・原田直次郎に洋画を学ぶ。明治二四(一八九一)年に来日したイギリス人水彩画家ジョン・ヴァーレー・ジュニア(John Varley Jr.  一八五〇年~一九三三年:父も著名な水彩画家で占い師。父はウィリアム・ブレイクの親友としてもよく知られる)の作品に接し、水彩画を志した。明治三〇(一八九七)年に渡米し、イェール大学付属美術学校で学ぶ。一八九八年にイギリスに渡り、明治三一(一八九九)年に帰国し、同年の第四回白馬会展に出品して同会会員となった。明治四五・大正元(一九一二)年に中沢弘光・山本森之助・杉浦非水・小林鐘吉・跡見泰・岡野栄とともに「光風会」を設立した。昭和初期には写真に関する著述を多数残している。島崎藤村とは明治学院の二年後輩で、藤村が英語・国語教師をしていた小諸義塾で藤村の赴任と相前後して美術講師と赴任している(以上は当該ウィキに拠った)。

「いよいよ九月の一日が近づくので、あんまりいゝ氣はしません。先生にあやまつて頂くよりは、御禮を云ふやうになる事を祈つてゐます」九月一日は「芋粥」を掲載した第四次『新思潮』第八号の発行日。

「ソログウブ」フョードル・ソログープ(Фёдор Сологуб/ラテン文字転写:Theodor Sologub 一八六三年~一九二七年)はロシア象徴主義の作家。私は彼の幻想小説が好きである。

「パツセエヂ」passage。一句。一節。

「ウエルス」「SFの父」と称されるイギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)。

「修善寺の御病氣」所謂、「修善寺の大患」。明治四三(一九一〇)年六月に前期三部作の「三四郎」・「それから」に続く「門」の執筆中に胃潰瘍で入院し、同年八月六日、療養のため、門下の俳人松根東洋城の勧めで、伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館に転地療養した。しかしそこで症状が悪化し、八月二十四日、大吐血を起こし、三十分間、生死の境を彷徨う人事不省の危篤状態に陥った。同年十月十一日、容態が落ち着いたので、帰京し、再入院している。但し、芥川龍之介が漱石に逢ったのは、この書簡の僅か九ヶ月ほど前の大正四(一九一五)年十一月十八日であり、「修善寺の御病氣以來、實際、我々は、先生がねてお出でになると云ふと、ひやひやします」という謂い方には若干の粉飾がある。

「ライズィングジェネレエション」rising generation。青年世代。次代を担う若い世代。

 以下、この書簡対する漱石の返事を岩波の旧「漱石全集」より電子化する。

   *

大正五(一九一六)年九月一日(金曜日)・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介・久米正雄(連名)宛

 

 今日は木曜です。いつもなら君等が晚に來る所だけれども近頃は遠くにゐるから會ふ事も出來ない。今朝の原稿は珍らしく九時頃濟んだので、今閑である。そこで昨日新思潮を讀んだ感想でも二人の所へ書いて上げようかと思つて筆を取り出しました。是は口で云ヘ

ないから紙の上で御目にかけるのです。

 今度の號のは松岡君のも菊池君のも面白い。さうして書き方だか樣子だか何方にも似通つた所がある。或は其價値が同程度にあるので、しか思はせるのかも知れない。兎に角纏つた小品ですそれから可い思付を見付けてそれを物にしたものであります。

 思ひ付といふと、芥川君のにも久米君のにも前二氏と同樣のポイントがあります。さうして前の二君のが「眞」であるのに對して君方のが兩方共一程の倫理觀であるのも面白い。さうして其倫理觀は何方もいゝ心持のするものです。

 是から其不滿の方を述べます。芥川君の方では、石炭庫へ入る所(ところ)を後から抱きとめる時の光景が物足りない。それを解剖的な筆致で補つてあるが、その解剖的な說明が、僕にはひしひしと逼らない。無理とも下手とも思はないが、現實感が書いてある通りの所まで伴つて行かれない。然しあすこが第一大切な所である事は作者に解つてゐるから、あゝ骨を折つてあるに違ないとすると、(讀者が君の思ふ所迄引張られて行けないといふ點に於て)、君は多少無理な努力を必要上遣つた、若くは前後の關係上遣らせられた事になりはしませんか。僕は君の意見を聽くのです、何うですか。それから最後の「落ち」又は落所はあゝで面白い又新らしい、さうして一篇に響くには違ないが、如何せん、照應する雙方の側が、文句として又は意味として貧弱過ぎる。と云ふのは expressive であり乍ら力が足りないといふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)强調されてゐない、ピンと頭へ來(こ)ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。

 此所(こゝ)迄書いた所へ丁度かの○○○○先生が來(き)ました。(先生はしきりに僕の作物の惡口を大つぴらに云ふので恐縮します。然し僕はあの人を一向信用しません。だから啓發する譯にも行かず、又啓發を受ける譯にも行かないのです。先生は何だか原稿の周旋を賴むために僕の宅へ出入りをする人のやうに思はれてならないのです)。その後へ例の豪傑瀧田樗陰君がやつて來て、大きな皿をくれました。あの人は能く物を吳れるので時々又吳れるのかと疳違して、彼の小脇に抱へ込んでゐる包に眼を着ける事があります。其代り能く僕に字を書かせます。僕はあの人を「ボロツカイ」又は「あくもの食(ぐ)ひ」と稱してゐます。此あくもの食ひは大きな玉版箋をひろげて屛風にするから大字を書けと注文するのです。僕は手習をする積だから何枚でも書きます。其代り近頃は利巧になつたから、書いた奴をあとからどんどん消しにします。あくもの食ひは此力で放つて置くと何でも持つてちまひます。晚には豐隆、臼川、岡田、エリセフ、諸君のお相手を致しました。エリセフ君はペテルブルグ大學で僕の「門」を敎へてゐるのだから、是には本式の恐縮を表します。其上僕の略傳を知らせろといふのです。何でも「門」を敎へる前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etc といふ樣な講義をしたといふのだから驚天します。みんなの歸つたのは十一時過ですから、君等に上る手紙は其儘にして今九月一日の十一時少し前から再び筆を取り出したのです。

 偖[やぶちゃん注:「さて」。]久米君は高等學校生活のスケツチを書く目的でゐるとか何處かに出てゐましたが、材料さへあれば甚だ好い思ひ付です。どうぞお遣り下さい。今度の艷書も見ました。Point は面白い、敍述もうまい、行と行の間に氣の利いた文句の使ひ分などがひよいひよいありますが、是は御當人自覺の事だから別に御注意する必要もありますまい、但じ[やぶちゃん注:ママ。]あの淡いうちにもう少し何かあつて欲しい氣がします。艷書を見られた人の特色(見る方の心理及び其轉換はあの通りで好いから)がもつと出ると充分だと思ひます。あれはあゝ云ふ人だと云ふ事丈分ります。然しあれ丈分つたのでは聊か喰ひ足りません。同じ平面でも好いからもつと深く切り下げられるか、或は他の斷面に移つて彼の性格上に變化を與へるとか何とかもう少し工夫が出來るやうに考へられます。(「競漕」はあれ以上行けないのです。又あれ以上行く必要がないのです)

 最後に芥川君の書いた「創作」に就いて云ひます。實は僕はあれをごく無責任に讀みました。芥川君の妙な所に氣の付く(アナトールフランスの樣な、インテレクチュアルな)點があれにも出てゐます。然しあれはごく冷酷に批評すると割愛しても差支ないものでせう。或は割愛した方が好いと云ひ直した方が適切かも知れません。

 次に此間君方から貰つた手紙は面白かつた。又愉快であつた。に說いて、其所に僕の眼に映つたつた[やぶちゃん注:ママ。]可くないと思ふ所を參考に云ひませう。一、久米君のの中に「私は馬鹿です」といふ句があります。あれは手紙を受取つた方には通じない言葉です。從つて意味があつさり取れないのです。其所に厭味が出やしないかと思ひます。それから芥川君のの中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまました。あれも不可せん。正當な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。False modesty に陷りやすい言葉使ひと考へます。僕なら斯う書きます。「なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます」――以上は氣が付いたから云ひます。僕がそれを苦にしてゐるといふ意味とは違ひます。それから極めて微細な點だから默つてゐて然るべき事なのですが、つい書いてしまつたのです。

 あなた方は句も作り繪もかき、歌も作る。甚だ賑やかでよろしい。此間の端書にある句は中々うまい、歌も上手だ。僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位づゝ作ります。自分では中々面白い、さうして隨分得意です。出來た時は嬉しいです。高靑邱が詩作をする時の自分の心理狀態を描寫した長い詩があります。知つてゐますか。少し誇張はありますがよく藝術家の心持をあらはしてゐます。つまりうれしいのですね。最後に久米君に忠告します。何うぞあの眞四角な怒つたやうな字はよして下さい。

 是でお仕舞にします。 以上

    九月一日       夏目金之助

   芥川龍之介樣

   久米 正雄樣

   *

以下、簡単に注するが、人名などは私の子の電子化の本筋から外れるのでカットした部分が多い。悪しからず。「松岡君の」松岡譲の小説「搖れ地藏」。「菊池君の」菊池寛の小説「身投救助業」。「芥川君の」この時の号では龍之介は小説「猿」と小品小説「創作」二作を発表しているが、ここではまず前者。「久米君の」小説「艶書」。「expressive」「表現に富んでいる」の意。いふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)强調されてゐない、ピンと頭へ來(こ)ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。「○○○○先生」不詳。「ボロツカイ」底本の古川久氏の注に『襤褸買い』とある。「あくもの食(ぐ)ひ」と稱してゐます。「玉版箋」「ぎよくばんせん」と読む。画仙紙よりも厚手で、肌理が細かく光沢がある中国産の紙。二枚重ねて乾燥したものは二層に漉いたものよりも腰が強く、書画用に適する。「競漕」はこの年の六月一日発行の『新思潮』第四号に発表した小説。「インテレクチュアル」intellectual。「知的な・聰明な」。「False modesty」上辺だけの謙虚さ。謙虚な振り。「高靑邱が詩作をする時の自分の心理狀態を描寫した長い詩」古川氏注に、『高啓』(一三三六年~一三七四年)『(明初の詩人。青邱と号す)の「青邱子歌」を言う。青邱子(高啓自身をさす)という謫仙人がいて農村に隠棲し、人からは迂儒狂生と言われながら毎日詩作に耽り、家事も心にかからなくなって詩が出来ると壺を叩いて自ら歌うが、群仙も天地もこれに感応して和するという詩』とある。中山逍雀氏のサイト「漢民族詩詞の歴史」のこちらで原文・訓読・訳が読める。]

 

 

大正五(一九一六)年九月二日・千葉県一宮発信・東京市牛込區早稻田南町七 夏目金之助宛

 

先生 昨日 先生の所へ干物をさしあげました あんまりうまさうもありませんが召上つて下さい それでも大きな奴は少しうまいだらうと思ひます あの中へ入れた句は久米が作りました おしまいを「秋の風」とやつた方がよからうと僕が提議したのですが「殘暑かな」とやらないと干物らしくないと云ふのでああ書いたのです あれを中ヘ入れて包んでから久米がこれでは句を見せたいので干物を送るとしか見えないなつて悲觀してゐました あんまり干物の講釋をするやうで滑稽ですが、あれは宿へたのんでこしらへて貰つたのです 出來上った所で一體どの位する物だねときいたら十枚三錢五厘とか云ひました すると久米が急に氣が大きくなって先生の所へ百枚か二百枚送ろうじたないかつて云ふのです(先生の所へ干物をあげると云ふ事は二人の中のどつちが云ひ出したか知りませんが 始から殆脅迫觀念の如く僕たちに纏綿してゐました 今になつて考へると何故干物ときめたか滑稽な氣がします) それをやつと五十枚に節約させたのは完く僕の苦心です いくらうまくつても干物を百枚も二百枚も貰つてはどこのうちにしろ大へんだと思つたからです 所があれを菰へいれて小さく包んだ所を見ると僕は何だか久米の說に從つた方がよかつたやうな氣がしました そうして突然ブレエクの Exuberance is beauty と云ふ句を思ひ出していらざる苦心をしたのが少し不快になりました あとでは妙な行きがかりでブレエクを思出したのがばかばかしくなりましたが これだけ干物の因緣を書いて次へうつります

「創作」は六號にも書いた通り發表を見合せる氣の方が多かつた作品です それでも誤植が氣になる程度の愛惜はありますが 妙に高くとまつた所が今では氣になつていけません

「猿」はもう少し自信があります 石炭庫の所は書いている時の心もちから云ふと後から抱きとめる所までは或充實した感じて書けましたが 信號兵の名をよぶ所からあとはそれが稀薄になるのを感じました そうしてその稀薄さが出るのを惧れたので二三度そこだけ書き直して見ました つまり先生はその稀薄さを看破しておしまひになつた事になるのでせう 僕はさう云ふ意味であすこに無理な努力があるのを認めます やはり實感の空疎なのがだめなのだとしみじみ思ひました 技巧では僕として出來るだけの事をした氣でゐるのですが

「落ち」も少し口惜しいが先生の非難なすつた事を認めざるを得ません 「口惜しいが」と云ふより「口惜しい程明瞭に一々指摘してあると思つた」と云ふ方が適切です あれもやはり敍述の簡單が累をなしてゐるよりは主として照應する二者の後にある主觀がふわついてゐるからでせう 書く時はふわつかないつもりで書いてゐるのですが 出來上つたものを見るとふわついてゐるのだから困ります 創作のプロセスに始終リフアーしてゆく批評は先生より外に僕たちは求められません(僕たちがえらいから先生以外の人の批評を求めないと云ふ意味ではありません 外の人たちの批評にさう云ふ痛切な「僕たちに」所がないのです) ですからこれからも御遠慮なくして頂きたいと思ひます 少し位手痛く參らせて下すつても恐れません 反て勇氣が出ます

久米がたくさん書いたそうですから 僕はこれで切上げます

   九月二日朝       芥川龍之介

  夏目金之助樣梧下

 

[やぶちゃん注:これも先のものと同じく、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を参考に、恣意的に仮名遣を歴史的仮名遣に代え、新字を正字に直し、句読点と段落冒頭の字下げを除去(句点は文中では一字空けとした)したものである。作品名の鍵括弧も或いはない可能性があるが、「創作」という作品名は誤読してしまう可能性があるので、全部残した。概ね、この処理で「芥川竜之介書簡集」よりは遙かに原書簡に近づいたものとは思う。なお、「芥川竜之介書簡集」では上記の手紙後に『久米正雄の漱石宛書簡を同封』と注がある。この日付に注目されたい。この九月二日の、少なくとも、夜には、彼らは東京に戻っているからである。

「ブレエクの Exuberance is beauty と云ふ句」底本の石割氏の注に、『ウィリアム・ブレイク』(芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったWilliam Blake(一七五七年~一八二七年))『の作品「天国と地獄の婚姻』』(The Marriage of Heaven and Hell :一七九〇年~一七九三年))『の「地獄の箴言」』(Proverbs of Hell )『の一節で、「夥多は美である」(柳宗悦訳)』とある。英文サイトのこちらで、素敵な原本の挿絵入り画像と電子化本文が読める。“Proverbs of Hell ”は同作の巻頭で、この一文はリンク先の原本で七行目、電子化されたそれの四行目に出る。

 以下、この書簡が書かれた同じ日に、奇しくも漱石から芥川龍之介個人宛で送られた夏目漱石の手紙(「芋粥」批評)を岩波の旧「漱石全集」より電子化する。この手紙は既に立った後の「一ノ宮館」に着き、転送されたのであろう。されば、芥川龍之介が読んだのは、早くても九月四日以降と考えられる。

   *

大正五(一九一六)年九月二日(土曜日)・消印午後十時~十二時・牛込區早稻田南町七発信・千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介宛

 啓只今「芋粥」を讀みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細敍絮說に過ぎました。然し共所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細敍が惡いのではない。細敍するに適當な所を捕へてゐない點丈がくだくしくなるのです。too laboured といふ弊に陷るのですな。うんと氣張り過ぎるからあゝなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな點に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔繪を施しました。是は惡い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出來がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の努力に價しないといふ事に歸着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全體の出來榮[やぶちゃん注:「できばえ」。]ももつと見事になつたらうと思ひます。

 然し是は惡くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に對したつて耻しい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる氣分が薄らいで飴所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の眞面目は躍然として思ふ存分紙上に出て來ます。何でも生涯の修業でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。

 此批評は君の參考の爲めです。僕自身を標準にする譯ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未來の)一言するのです。たゞ芋粥丈を(前後を截斷して)批評するならもつと賞めます。

 今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。 頓首

    九月二日夜      夏目金之助

   芥川龍之介樣

[やぶちゃん注:以下の追伸は底本では全体が一字下げ。]

 此卷紙と狀袋は例のアクモノグヒが哭れたものであります。彼は斯ういふ賄賂を時々刻々に使ひます。僕は彼の親切を喜ぶと共に氣味をあるく[やぶちゃん注:ママ。]します。同時に平氣で貰ひます。久米君へよろしく

  秋立つや一卷の書の讀み殘し

 是はもつとうまい句だと思つて卽興を書いてしまつたのであとから消す譯に行かなくなつたから其儘にして置きます。

   *

「too laboured」「より増して、またしても苦しい」。]

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