譚海 卷之四 東海道掛川驛東西の分たる事
東海道掛川驛東西の分たる事
○東海道は、遠州掛川の驛をもつて、東西の分とするに似たり。掛川までは京都の風俗あり、夫よりこなたはみな江戸の風俗にかよへり。
[やぶちゃん注:「掛川の驛」掛川宿は東海道五十三次の二十六番目の宿場で確かに丁度、ほぼ中間地点に当たり、地図上でも直線距離で、実際にそうである。現在の静岡県掛川市の中心部(グーグル・マップ・データ)に相当し、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町でもある。当該ウィキによれば、『また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市)から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している宿場でもあった。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣のルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」』(同ウィキの画像)『には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と参詣者の姿が描かれた。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名がある』とある。]