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2021/05/30

ブログ1,540,000アクセス突破記念 梅崎春生 喪失 / 恐らく、現在、読める最初(昭和九(一九三四)年五月満十九歳)の梅崎春生の小説(その2)

 

[やぶちゃん注:前回の「明日」に続き、昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第二号に発表されたもので、梅崎春生満十九歳の若書きの一篇で、現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)である。当時は、熊本五高二年であった。

 底本は「明日」と並置される昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」(本巻最終巻)の「初期短編補遺」(但し、「明日」と本篇の二篇のみ)に載るそれを用いた。

 本来なら、戦前の作品であり、恐らくは正仮名が用いられ、漢字も正字であったろうが、原雑誌を見ることが出来ないので(掲載雑誌については中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜の昭和九年のパートに『怠け癖から、三年生になる際に平均点不足で落第し』たとあり、この年、『同人誌「ロベリスク」に参加し』たとある)、この雑誌は当時の熊本五高の友人であった霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:後に左派小説家となった春生の盟友。日本共産党員でもあったが後に除籍された)とともに出した同人誌である(同誌に発表した『梅崎春生 詩 「海」(私の勝手復元版)』なども参照されたい)。詩篇とは異なり、歴史的仮名遣の手入れが異様に多くなるので、底本のままに新字新仮名とした。一部、文中に注を附した。

 本篇は梅崎春生の小説としては、主人公や脇役の設定が極めて特異点である。ネタ晴らしになるのでこれ以上言わないが、梅崎春生の知られた作品の中には、このようなキャラクターを設定をした小説を、私は、思い出せない。

なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが先ほど1,540,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021530日 藪野直史】]

 

   喪  失

 

 目には見えない程繊細な春雨が……しかしまだうすら寒い三月の雨が黄昏の舗道をしっとりと濡らして居た。もう夕闇が色濃く立ちこめて居て、巷に時折明滅する広告燈も夢の様にうるんで居り、舗道を流れて行く、雨に光った黒塗の自動車も、微かに水をはじく音を立てるだけで警笛の響きも聞えず、丁度辷って行く影の様に思えた。道子は細い女持ちの傘を拡げて先刻から濡れて光る舗道にうつる傘の蒼白い感覚を淋しみながら歩いて居るのだが、先刻まで映画館の座席で中岡と一しょに見て居たあの銀幕の上の白い影像などがおりの様に頭の底に沈澱して居り、まだ現実と夢幻の間を漂々と彷徨して居るような茫とした気持で、丁度山の中にある大きな滝などの側に居る時、瀑音にじんと気押されて細々とした感覚は吹き飛ばされ、その後に何かしらぬ静寂を味得する――丁度あの様な感じで、此の巷の静寂をじんと感じて居るのであった。

 そうして道子は此の静寂の中に、何処かで激しく奔騰して居る様な水の音が、先刻から聞えて居るような気がしていた。空耳かしら――と、じっとりと濡れてしまって、氷片の様に神経を失いかけた右手からそっと左手に傘を待ち換えると、その瞬間そこで別れた中岡の半ば子供らしい、しかし端麗な容貌がふっと思い浮べられて来て、自分の中岡に対する気持は一体どんなものだろう、矢張り友達としての淡々とした交際かしら、それとも――それとも、もう自分程の年になると、こうやって情熱を圧迫して居ても、一寸した隙からひょっと顔を出すあの戯れ見たいに冒険を愛する気持かしらん、とぼんやり考えながら歩いて居ると、大きな広告燈の光芒が並んだ家並の唐突なとぎれに戸惑いしてちらちらとためらって居る――川だった。ああ先刻から聞えて居た水の様な音もこれだったんだな、と道子はそう思いながら着物が欄干に着かないようにそっと川面を覗いて見ると、意外なまでに水面が黝々[やぶちゃん注:「くろぐろ」。]と上って居り、橋げたにぶっつかっては幾つもの渦を作って川下へ流れて行く。では川上の方では大雨が降ったのかしら、ここじゃこんな細かな雨が降ってるのに、といぶかりながら、なおも立止まって、川上から流れて来たらしい白い木片が、可成な速力で辻って行き、ぐるぐる廻ったり、見えなくなったりして下の方に流れて行くのを見て居ると、単なる感情の戯れの中に、中心を失いかけたこまの様に廻ろうとして居る自分の裸身を覗いて居るような気がして、くらくらと眩惑見たいな気持を感じ、思わず目を川から外らして、も一度傘を持ち換えると、コツコツと橋の上を歩きながら、きっと感情の危機なんだわ、と誰に言い聞かせるともなくそう呟いて見た。

 ――道子が女学校を卒業した時、彼女はその当時まだ可愛い少女であった妹の由紀子と二人、全くの孤児になって居た。然し相当の遺産があった為に、二人は此の都の片隅にある、あるアパートに部屋を借りて、由紀子は其処から程遠くない女学校に通い、道子はまだ世間知らずの無鉄砲さで社会に飛び込もうと企てたのだけれども、結局気弱い感情が彼女の中に住んで居り、それは彼女を束縛して手も足も出ないようにしたのであった。此等の不安だった、しかし華かだった日々の事を道子は今でも、匂いの様に弱々しい感傷と共にはっきり思い出しても見る事は出来るのだが、結局そうした変遷の後現在のある同人雑誌の一員として加わるまでに、由紀子も、あの腺病質にさえ見えた蒼白い少女時代から成長して、道子に似てうるんだ瞳を持った美しい女になって居た。そうして中岡が出現したのもその頃であって、中岡も同人の一人として、時折発表する創作が未だ乳臭い感傷から脱け得ないものではあったにしろ、道子はその稚気に可成の好意を持って居り、その中岡の人柄と考え合わせて見て好もしい微笑すら感ずる事があった。そうしてその頃からごく自然に姉妹の生活に中岡は浸透し始めて来たのだったが、素直な青年でまだ二十二にしかならず、道子より二つも年下になるわけだった。しかし此の中岡に対する感情が、ともすれば友情以上に溢れ出ようとするのを意識し始めた道子が例の気弱さと、まだ世慣れない女が持つ臆病とでその感情の危機を鋭敏に感受し、警戒し始めたのも当然であったと言えよう。そんな内面の闘争を心に秘めて道子は今、橋の上をコツコツと歩みながら次第に拡がって来るらしい稀薄な憂鬱と不安とをどうする事も出来なかった。

 濡れた裾をひるがえす風も無く、霧雨だけがいたずらに降る此の道は長かった。しかし道子は、此の道の果てる所に遠くまたたくアパートの燈をみて居て、その窓の一つに点(とも)るあかりの下には、由紀子もやはり此の湿った空気を呼吸して居るだろうと思って見た。しかしそれは、無定見な白分を意識の中から放逐する事は出来ず、かえって由紀子に対する自責の念をぐっと盛り上げて来て、ああ男の人と映画なんか見て居て――と言う感情が、自然道子の足を早めるのだった。丁度幼かった日、夜までつい遊びすぎて、おずおずと家の門口近くへ歩いて行く、あの走り出したいような焦燥と、どうにもならない不安とがそこにあって、道子は身動きも出来ないように自分の心理の陥穽に陥ったと言う感じがしながらも、それを抜け出そうと努力する事は由紀子に対して何か済まないと言う決定的な肉親への感情をひた守りに守ろうとしながら、近頃急速度で深くなった中岡への交際と、詩集だに拡げて見ない自分の不勉強を由紀ちゃんは一体どんなに考えてるかしらと思って見るのであった。時折此の四五年の過去をふりかえって、由紀子を今のようにまで育て上げた自分の努力に道子はヒロイックな快感を感ずる事があったけれども、その自己陶酔の背後に巣くう淋しさ――喪失させんとする青春への哀借が急速調に感ぜられて来て、そんな時道子の心は何時も何かに合わせて没落の歌をうたって居り、また嵐の様に唐突に襲って来る情熱の衝動に虚無的な触手を異性の前に伸ばそうとする道子の心を――あたしの心を、由紀ちゃんは一体どう思ってるのかしら、由紀ちゃんと中岡との間のあたしの生活には、どこかしら足りない所があるんだ、或いはあたしが重大な根本的な錯誤をでもして居やしないか、と道子は再び自分の生活への疑問符を荒々しく自分自身へ投げつけたのだった。

 丁度アパートの前に来た時道子は一寸雨に煙る街の黄昏をふりかえって、長かった思考を断ち切るように傘をたたんだ。そうして階段を登って、部屋の扉を押し開いた時、あんなにもつれた思索を持った場合に持ついらいらした気持には、突然全然空虚な世界に投げ出されたように、そこに由紀子一人がむこうむきになって机の前に坐っている平和な雰囲気が生暖かいものの様に感じられ、あんなもつれた思索と此の平和な情景とが由紀子と言う導体を中において結び付けられて居ると言う事は、道子には全く不思議に思える程だった。しかし由紀子が、其の音にふりむくと、意外な程明るい微笑をたたえた顔で、

「面白かった?」

 と訊ねて来た時、道子は瞬間、自分の意識が、その平和な雰囲気を、先刻の思索の世界に急激に荒々しく引きずり込もうとするのが感ぜられ、その目まぐるしい流れに何も考える余裕も無く、直ぐに、

「ええ、面白かったわ。とても」

 と答えてしまったが、その後で、ふと思い出すように浮んで来たあの自責の念に、何て残酷な返事をしたものだろうと気付いて、由紀子が向うをふりむいて何か小説にでも読みふけって居るらしい姿勢に戻り、道子が傘を片隅に立てかけに行くまで、道子は心にとげでも剌さった様に感ぜられ、壁に映った由紀子の大きな影法師に、思考に疲れた空ろな瞳を投げて居るのだった。

 部屋の真中にぼんやり立って居ると、先刻から素足にまつわる濡れた裾の不快さが此の平和な情景に自分自身をそのまま融合させるのに邪魔になって居て、それが此の継ぎはぎのある気持を産み出して居るのだと言う気持が道子にはあって、それ故道子は部屋の片隅に行き、わびしいスタンドの光芒を離れて帯を解き乍ら、ふとうつむいて見ると暗さの中に傲岸と揺れている白い乳房がぼおとその輪郭を道子の瞳に投げている。それを見ると再び苦しい感情、甘い感情が乱れた線のようにもつれて来て、中岡のおもかげがつい思い出されてしまう。しかし此処では先刻のあの概念的な中岡として道子の頭に浮んで来たのでは無く、それは一人の男性として、非常に実体的な感覚的なものとして道子の頭脳に拡がって来るのであった。そうして冷えた手足をじんじんと廻り始める血球の一つ一つがナカオカ、ナカオカと叫びながら馳けめぐって居る様に見える。――ああ、ほの白き欲情のふくらみ――とその切迫した感情を道子は自嘲にも似た気持と一しょに此んな詩の言葉を口吟んで見るのだが、やはり道子は客観的な世界にまで飛躍する事は出来ず、じめじめと情欲の中にはいまわってる――駄目。飛躍も出来ない。霧雨のように沈む心、茫然と白さを凝視して居る。あたし、こんな湿っぽい日に映画なんて見て、やっぱり頭が疲れたんだわと思うのだった。

「お姉さま」

 と突然呼びかけた由紀子の声に、ふと非常に恥かしい事でもして居たようにあわててふりむくと、明るさを背景にして、暗さの中に矢張り和やかな陰影をただよわせながら。

「今日はとても面白い事聞いて来てよ」

 と先刻から言おうと思って居たんだなと言う心組みを道子に感じさせる様な語調で由紀子が話しかけて来ると、道子は意識的な飛躍の足場がやっと見つかったようなほっとした気持と、その話の内容に対する子供らしいような好奇心との入り組んだ気持で、

「どんな事?」

 と訊ねると由紀子は笑いながら、

「今日ね。信ちゃんがお姉さまたちの同人雑誌の批評してた」

「まあ。どんな風に」

「お世辞だったかも知れないけど、ほめてたわ」

 と悪戯な瞳をひょいと道子の顔からはなして壁を這わせ乍ら、

「特にお姉さまのをとてもほめてたわ」

 と再びちらと瞳を道子の瞳に戻すと、道子はそれに答える前に、由紀子の瞳の中にとぼけたような無邪気な意志を感じるとつい笑い出して居た。由紀子の無邪気に歪められた情熱と対象としての信子を道子は女らしい敏感さでさとって居て、由紀子が此の可愛い信子と一しょに持った休み時間の会話の材料として持ち出されたあたしたち。あたし。楽しい時間の流れ。あたしが此んな心持に今まで苦しんでるのに、亦何て朗らかに話せる由紀ちゃんだろう。由紀子と信子。あたしと中岡。と中岡の事が又思い出され、つい不用意に、

「中岡さんの、どんなだった?」

 と訊ねて見ると由紀子は道子の先刻からの表情の変化をくわしく観察して居て、その予期して居た質問に思わずクックッと笑い出しながら、

「言っても良い? 姉さん怒りゃしない?」

 と道子の心理にぐさりと針を剌し込むような質問に、はっと虚をつかれた思いで、

「何言ってんのよ。信ちゃんがいくら中岡さんの悪口を言ったって、あたしと何の関係があるって言うの。悪い子ね」

 と、思わず赤らめそうになった顔をかくす為ににらむ真似をして見せると、由紀子は一寸首をかしげて、

「信ちゃんったらひどいのよ。あんな創作なんか可笑(おか)しくって見て居れないだって」

 と無雑作に結論を投げ捨てると、本当に可笑しくってたまらない様に机の上に笑い崩れるのであった。道子もついそれにつられて笑い乍ら、その言葉を聞いた瞬間、信子の子供らしい思い上りにかっとした軽蔑が心の底に動くのをどうする事も出来なかった。全然異なった世界に住む人々に対する何とはない反感、いきどおろしさが、道子にあんな乳臭い少女に何が判るものかと思わせて居り、又、道子は一方で、先刻由紀子が、言っても怒りゃしないと言って居た言葉が非常に皮肉なものに感じられ、だんだんとこわばる顔貌を意識すると――ああ、あたし仮面をかぶって居るのだわ、もう由紀ちゃんの前でとても仮面なしじゃ生活出来ないのだわ、と淋しい気持になって居た。そうして此の感情の変化をかくす為に道子はそのまま窓の方に行くと、一寸柱にかけてある鏡をのぞき何でも無かったような姿体をして窓から外を茫然と見て居た。巷は霧にうらぶれて、いくつもの燈が遠くから来る物音にふるえて居る。埋葬された街。じっと見て居ると、自分の詩を賞められた時、良い気持になって居た自分の姿が苦しくも反省される道子の耳朶に、同じアパートの住人らしいレコードの響きが、auld lang syne を乗せて湿った空気を動かすと、それは此の苦しい心の根本をぐらぐらと動かすもののように聞えて来て道子は思わず耳に蓋をしてしまう。そうして音の無い世界の中で、もう中岡さんは帰ったかしらと思ったりして居ると、じんと鳴る耳朶にまだその旋律がつきまとって来て青春への Farewell を告げる様に道子の舌も何時の間にかその auld lang syne のリズムを口吟んで居るような淋しい境地であった。[やぶちゃん注:・「auld lang syne」「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne )は、スコットランドの民謡にして非公式な準国歌。本邦では「蛍の光」の原曲としてよく知られる。・「Farewell」別れ。]

 

 その雨が晴れて翌日は朗らかに晴れた日曜であった。そうしてその午後、道子は由紀子を連れて中岡と郊外に散策を持つ事になって居り、こうして三人で出かけて来たのだが、チカチカと貝がらの様に光る海が眺められる小高い丘に来た時その丘が、此の前来た時とすっかり変って、全く青くなって居るのにびっくりする程だった。生命は此処にも萌え出るのだ。あのチカチカ光る海にも、ゆるやかな波の起伏が光線の戯れにさんざめいて躍って居よう。魚も銀鱗を輝かし始め、深海の海藻もその乏しい光の中でユラユラと身悶えして居よう。その様な光の戯れも、色彩の動きも、久しぶりに長い間忘れて居た感覚が身内によみがえって来て、今まで氷の中に閉じ込められた目高がピチピチと動き出す日のように、青い丘も、青い風も、目に、耳に、肉休に媚びるあらゆる感覚も、道子には此の上無く快いものに思えた。そうして昨日まで澱んで動かなかった血液が急に動き出し、心臓がドクドクと荒々しい調子で刻み始め、朗らかな気持がどこからともなく道子に帰って来て居た。そうしてゆるゆると青い丘の間を縫う一条の小径を爪先上りに上りながら、由紀子がずっと向うの海岸から突出て居る突堤の先にそそり立つ真白い燈台の姿を見つけて。

「まあ、いいわねえ」

 と感嘆の叫びを上げ、中岡が、それに応じて、

「本当に詩の様な景色ですね」

 と答えるのを聞くまでは、道子はその感覚に身も心もゆだねて、夢幻の中を歩いて居たと言っても良かった。そうしてそんな常套的な、春らしい言葉を聞いた時、再び、そんな月並な文句が言えるあの若い日を慕う心が油然[やぶちゃん注:「ゆうぜん」(歴史的仮名遣「いうぜん」。「ユウ」は漢音で「ユ」は呉音)。盛んに湧き起こるさま。そのように心に浮かびくるさま。]と湧き起ったのだけれども、道子はそれを意識する前に理智の扉を固くとざして、春風が裾を嬲(なぶ)る快よさにうっとりと陶酔して居るのであった。例えば心が陽炎(かげろう)となり、橙(だいだい)色の蝶々となり、片々たる塵埃となって遠く海面へ流れて行き、白い燈台を廻って見果てぬ夢に酔うように、その快よさは幾度と無く身内によみがえっては、道子は此の若さを前にして目を細める心地なのだ。

 青い丘を登り切って三人とも黙って海が目の下に見える風景に、茫然として、各々大気を吸い込んで居た。さんさんと降りそそぐ太陽の光だった。そうしてその光の中で、中岡が若々しい顔をふりむけると。

「こんな風景でも詩になりますか?」

 と微笑しながら問うのだった。道子は今まで見て居た遠い白帆の影から目を離すと、

「駄目よ、あたしなんか」

 と叫んで見たがそれは思いがけない程若々しい声音だったので、道子は急に可笑しくなって来て、つい笑い出してしまったのだが、中岡は一体此の女は今まで何を考えて居てこう突然笑い出したりしたのだろうと不審そうな瞳を道子の白い額の所に向けて居た。しかし道子は笑いながら中岡の問いが此んな風景が詩になり得るかと言う客観的な質問だったにも拘らずすぐ自分の事に取って、少し己惚(うぬぼ)れて居たような気がし、気恥かしい面持でなお笑いながらうつむき加減に中岡の視線を避けようとすると、今まで白いスカートを海から来る風にひらめかして居た由紀子が急にふりむくと、

「お姉さまは詩の評判が良いので嬉しいのよ」

 と、道子の方をちらりと見ながら、由紀子は悪い子でしょうと言ったような微笑を一寸見せると、すぐ風の様に晴れ晴れと笑って見せた。しかし道子は、それが皮肉に聞えない程明るい気持になって居て、やさしく由紀子ににらむ真似をして見せると、中岡がそれを逃さないようにすぐ、

「素晴らしい感覚を持った閨秀詩人なんて見出しで、きっと賞められるでしょうね」

 とおおいかぶせるように迫って来て、道子はそれを反撥する前にくすぐったい気持になり、つい弱気になって、応酬すべき良い言葉も失って、

「駄目、駄目。そんなに賞めても、私なんか詩人としても全く疲れてるんだから、詩人の廃業よ」

 と自分でもびっくりする程蓮(はす)っ葉(ぱ)な笑い声を立てた。しかし、その笑い声のうしろに、意識して虚偽の仮面をかぶり、空虚な姿体をよそおった自分の姿が居るような気がして、――ああ亦いつもの厭な癖が始まった――とそれを打消すように、昨日聞いた中岡の創作の批評を聞かしてやろうかとも思ったけれど、それも悪戯すぎる様な気がして、由紀子と中岡の顔を等分に見比べながら、言おうか言うまいかといたずらめいた心を持てあましながら、自分の蓮っ葉な哄笑に和して居る二人の笑い声が、煙草の煙の様に風に流れて行くのを聞いて居るのであった。

 しばらくして丘を下りて行く時、道子は再び黙って居て、先刻の夢の様な甘さをじっと味わって居るつもりだったが、しかし、そこにはもう感覚的な快よさがほとんど失せた気持がし、沈んだ心象を知って居て、これはあの根低のない浮々した気持の反撥だと思って居た。そうして中岡とはなれた時はあんなに色々中岡の事が思い出される癖に、こう接して見るといつの間にかあたしは違った性格を振りかざして居て、内部のものを見せまいと努めて居る。何故こう弱いんだろうといぶかって見たり、亦、先刻は何て詰らない事を言ったものだろう、詩人の廃業なんて、と責めて見たり――そんな時間の流れに由紀子の歌ううたが乗って、少女らしい感傷を心から味わって居る、そんな由紀子に向って中岡が、

「由紀ちゃんは何時までも若いんだね」

 とからかいかけると由紀子はすぐ歌を打ち切って、

「いやよ、中岡さんたら」

 と腰から上を後ろにくねらせて中岡の方を振りむく、濡れたような瞳が語る少女らしい媚体に見えて、その態度に道子はハッとして、そうかも知れないと言う不吉な予感に、自分の邪推にも似た敏感さを呪う心地だった。しかしその時道子の休内には姉らしい感情がふつふつとして流れ始め、そんな大胆な想像を笑いたい気持で、そんないやなもつれた考えから遠ざかりたいと思う。しかしそう思えば思う程、いやな癖で、意識の一部がその思考を追って行こうとし、道子はそれを止めようとするのに一生懸命なのだ。しかし、此の沈黙の時間に、その思考を追う事は道子に意地悪い快感を与える事は事実であろうけれども、道子の神経はそれに堪え得ないだろうと思う。由紀ちゃんはもしかしたら中岡さんに特別な感情を持ってるんじゃなかろうか。もし由紀ちゃんがそうだったら――本当そうだったら、あたしとてもそんな悲劇に直面出来ない。一体中岡さんもどんな気持かしら。一体男ってものは、年上の女に恋なんか感ずる事があるものだろうか。あたしに、あたしに――と絶句するような思いで、先刻からうっすらと汗ばんで居る白い脚が、なおも汗ばみしたたるかとも思われて、わざと中岡から離れて道の端を歩きながら、外の景色に心をうばわれて、愉しい沈黙を味わって居るふりをして居る道子だった。

 すこし後れ目になって歩いて居ると、そう言う考えの為に道子の心は耳をしっかりと抑えて居て、先刻まで聞えて居た雲雀(ひばり)の声が、雲の中へとけ入りでもしたかのように聞えなくなって居る。しかし耳をすますと遠くから来る物音が蜂の羽音の様にぶんぶんと聞えて来る。それは耳鳴りの様に道子から離れない。じんと鼓膜が圧迫されて居て、道子は此処の空気がとても密度が高いような感じを持って居る。道子は乾いた唇をそっと手でおさえる。顔がかげった。手が蒼く染った。道に青い光斑を投げている林の間を縫う小径だった。

 此の沈黙の中に道子は考えて居る。道子の沈黙は、中岡と由紀子の沈黙とは全然異った種類のものだったので、道子はあとの二人と同じ様に、此の春の風景を楽しんで居る様に装わねばならなかった。それ故、道子は、目を上げて、木の葉に反射する光線の蒼さを見たり、振りむいて歩いて来た道を眺めたり、小さい声で歌を口吟んだりしながら、中岡と由紀子が無神経にそれらを愉しんで居る様子を見ると神経の千切れる様な鋭い悲しみを感じ、来なきゃよかった、来なきゃよかったと思っている。昨日、映画館の中で二人きりになった時持ったあの安らかな気持が、由紀ちゃん一人を加えると亦なんていらだたしい心だろうと道子は考えて見るのだった。

 林が尽きて、も一度広い野原が闊(ひら)け、遠くに畠が見える所まで歩いて来ると、今まで小さな声で歌を口ずさんで居た由紀子が急に道子の方に振り返ると、

「一寸、あんな所に」

 と呼びかけて、右手にあたる方向を指さして居る。しかし道子はその方向を見るけれども、一面に黄色にまぶされた菜種の畠が見えるだけで、由紀子が何を見たのか分らない。小鳥でも飛んで居るのかしら、それとも――と道子はそれが何であるかを見極めてしまわねば、何か、とても不吉な事がありそうな気がして、手をかざし、目を細めて、陽炎の立つ彼方を眺めて見る。でも結局分らなかった。一分位経って、由紀子が感に堪えたように、

「良いわねえ」

 と嘆声を発した時、道子は、やはりその方向を茫然と見ながら、自分でも判らない気持で、

「ええ、本当良いわねえ」

 と答えて見たけれども、すぐその後で、一体あたし何を考えてるんだろうと烈しい自己嫌悪の気持で、積木のように整然と重ねられた感情が、一つ一つ崩壊して行くような感じを味わいながら、一寸中岡の方を見る。そうして中岡が促された様に、

「本当に良いですね」

 と口真似の様に答えるのを聞きながら、此の問題から早く切り離れようと、二人に先んじて歩き出して居た。それに促されたように歩き出した二人の跫音を後ろに聞いても、道子は何故かほっとした気持を持つ事は出来なかった。

 

 二三日経った日の夕方、道子は自分の部屋で、書きかけた詩の原稿を前にして、中岡と二人話して居た。窓から流れ入って来る日没の反映が中岡の顔にまわって、中岡はまぶしそうに目を細めながら道子と話して居て、日を後ろにして居るんだから、あたしの表情は、中岡さんには判りにくいに違いないと言う確信が道子の心を可成大胆にさせて居た。しかし、いつも中岡と一緒に持つ時間には安らかな気持で会話し得る道子だったけれども、今日は、いつもと違って、たった二人で部屋の中に居るせいか、かなり切迫した感じがするのを道子は不思議に思った、そうして会話を、ある方向へ、ある方向へと引きずろうとする自分の心を、悲しい事と思って見たり、或いは、これで良いんだと思って見たりして居る。しかし矢張りそれから逃れようと努力しながら、由紀子は学校から帰って信子と映画見に行った――由紀ちゃんはお友達と映画に行ったのよ、と言おうと思うのだか、あの日の事がどうしても心にこびりついて居て、之を言い出した時の中岡の表情を彼女は見るに堪えないだろうと思うのだ。そうして、先刻から由紀子の居ないのに気付かなければならない中岡が、それについて一言も発しない事が、中岡が平然と仮面をつけて居るような気もするし、亦自分とこうやって話す事に愉しさを感じて居るのかも知れない。そうするとあの午後自分の心象にうつって来たあらゆる事は、みんなうつろの事実だったかも知れない。無論そうなんだわと叫ぶものが道子の心の中にある。しかし道子は、わざと大きな瞳をして、何でもなさそうに中岡の顔を眺めて見る。何てにがいコーヒーだろうと、前に置かれてあるなめらかな陶器の茶わんに唇をつけて一寸すすりながら、道子はそう思って居た。

「昨晩はダンスに行きました」

 と今までの会話の流れと全然別の事をポツンと話し出す、それが中岡の癖ででもあったのだが、道子は、中岡がそのおしせまった空気から逃げ出そうとする為に話題を変えたように思えて、中岡にすがるように、

「そう。面白かったの」

「ええ。でも踊ってますと、あんな華かな音楽の中に居るんだけど、妙に淋しくなって来ましてね、何だこんなもの何だこんなものと、呟きたがら踊ってるんですよ。相手の女が、もうとっくの昔に感情なんか喪失した女の様な、丁度動物のような感じがしましてね」

「その人美しかった?」

「ええ、でも白痴のような美しさでした」

「そう」

 とその女と中岡が二人で踊って居る様子をちらりと頭の中に画きながら、

「あたしもダンサーになって見たいわ」

 と、ぼんやりと此んな一聯の言葉をはき出すと、遠くを見るような目付をして中岡から視線を外して居た。道子はその時、五六年前、退屈な生活に倦んで、強烈な刺激にひたりたく、ダンサーにでもなりたいと思ったあの日々の事を思い出しながらそう言って見たのだったが、言ってしまって、それが中岡には別な意味に響くだろうと言う事に気付くとあわてて目を中岡に戻すと、うつむき加滅になって居る中岡の瞳には、道子が予期した様ないぶかりもおどろきもなくて、……よかった。何も反応がなくてと道子は思った。しかし、此の身動きも出来ないひしひしとした気持。密閉した部屋に二人きりになれた機会。考えまいとすればする程道子の頭には、そんな事が考えられる。道子は部屋の中にある光線の量で、日没を知った。目を上げると鳩時計がコツコツと呟いて居り、その文字板は白い仮面をかぶって居る。道子は心の中で、中岡に知れないように仮面を外す。あたしは今空ろな眼をしてるに違いない。いけない、いけない。こんな、状態では。

「本当にあなたは疲れて居られるようですね」

 と顔を上げて、中岡は、道子の顔をまじまじと見つめながら、今までその事を考えて居たように言うのだった。道子はその目に真面目なものがあるのを感じると、先刻の言棄を素直に取って呉れた中岡に、済まないような気持と、こみ上げるような淋しさを感じると、感情危機を敏感に感受した警戒心で素早く仮面をかぶってじっと見返しながら、

「まあ。突然ね。しかしあたしが疲れてるのは事実だわ」

 そして暫くして、

「それもあたし一人じゃどうにもならないらしいのよ」

 それはほとんど聞えない程低い声で言ったつもりだったのだが、それは意外な程高い言葉となり、道子は瞬間混乱し始めた感情を感じてうつむくと、二三日前からはぐくまれて居たいろいろな悲しさ、苦しさ、淋しさが大波のようにどっと襲って来て、道子はそれにおし流されるように、押える事の出来ない涙をにじませて居た。そうして、あたりの物象が道子の意識の中にぼうと薄れて行き、ただ淋しさだけが取り巻いて居るように思える、ほとんど狂的に近い気持で涙の底に、にじみながらぼやけて行く自分の膝を見て居ると、ますます悲しくなって来て、あとからあとから涙が頬を伝い始めた。そうして中岡が、道子の此の唐突な変化に驚きながら、

「どうなすったんです」

 と顔を覗き込むように、顔をかたむけて、あわててたずねて来ると、道子は、人の前でこんなに取り乱してと言う理性の芽を摑んで離すまいともがきながらも、なお激しくなろうとする涙の中に、

「あたしもう詩も書けない。何にも出来ないのよ」

 とむせび上げるような甲高いかすれた声で言って、もう堪え切れずにそのまま中岡の膝の上に突伏すのだった。

 中岡の膝のふるえが中岡のあわて方を道子におしえた。そして涙の中にただよう男の休臭を道子は好もしいものに思った。三十秒。一分。二分。頰でしろじろと冷えて行き始めた涙を感じ始めた時、道子はやっと冷静に似た気持を取り戻した。しかし時折せぐり来る新しい涙が道子の肩をふるわせた。そうして道子は、中岡の手の重さを、肩に全神経を集めて感覚して居るのだが、それは何等積極的な働きかけを持って居ない重さである事を複雑な感じで――本屋で買いたい詩集を見て買おうか買うまいかと迷った揚句、買わないで帰る時の、あの買わないでよかったと言う気持と、何かしら淋しい気持の入り組んだあの感じ――そんな感じで自覚した。所詮お芝居だったわと、道子は思いながら、今中岡さんはどんな気持かしら、そして今、目をどこに向けているだろう。やはりあり来りのラヴ・シーンみたいにあたしの背中に向けてるかしら。それとも、空虚な目を天井に走らせてるかしら、といたずらのような疑問を空想する程冷静になって居て、今自分のやった行為をも一度頭の中で反芻する心地だった。そうして膝の上で、丁度一本道を歩いて居る時向うから人が一人来る、こっちが右へ寄ろうとすると向うも右に寄り、こっちが左へ寄ろうとすると向うも左へ寄る、どちらも相手に衝突しないで此の道を通り抜けようとして居るのだが、此の偶然の一致に二人とも全くあわてて、結局ぶっつかってしまう――その様に、先刻から会話と会話が、ついに避くべからざるもののように衝突したと言う感じだった。中岡さんは、こんな時にでも働きかけ得ない程初心なのかしら。それともあたしに対して何の興昧もないのかしらと考えながら、道子は舌の先で、流れ込んだ涙のしおからさを味わっで居る。そうして、こんな姿勢じゃいけない。所詮敗けたにしろ、起き上らなくちゃいけないと思って、まばゆいように顔を上げると、中岡の視線を避けながら手巾で涙をおさえて、「失礼しました」と話しかけようと口を開きかけると、丁度それが、中岡が何とか言おうとした言葉とぶっつかって、あわてて言葉をつぐむ、そうして中岡もはっとして小さい殼に立てこもったのを道子は感じる、お互に心の底を探り合うような瞬間、つぎはぎだらけの雰囲気、でも道子は中岡が何とか言い出す前に顔を上げると。

「すみません、つい昔の事を思い出してしまって」

 とうそをついたのだが、道子はうそを言ったような気は全然しなかった。そしてそれが中岡でも、うそと知るだろうと言う事ははっきりと道子にも分っては居るのだけれども、もはや正視出来ない様なまばゆさは感じない、それも道子には淋しく思われた。そうして中岡が、

「何か御事情でもあるのですか、聞かしていただけませんでしょうか」

 と言うのを聞いて、道子はも一度心の中を手でさぐりまわして見る、何も無い空虚の心だった。もはや冷たい仮面をかぶった心なのだ。道子は中岡の顔を見ながら、

「今日は何も言いたくないのよ。失礼するわ。一人になりたい気持がするのよ」

 中岡が一寸した別れのあいさつして立って扉の所まで行くと、道子も立って扉の所まで行って、後ろ姿に口をよせて、

「本当にすみませんでしたね」

 とささやいたが、その時再びせぐり上げて来た淋しさの為に、新しく涙する心地だった。そうして扉から一間[やぶちゃん注:約二メートル弱。]程の所で中岡がふりかえり、

「元気を出しましょうね」

 となぐさめるように微笑して廊下を向うに歩いて行く跫音の一歩一歩遠くなって行くのを聞きながら、道子は扉にすがって折り崩れたいような疲れを感じて居た。

 扉をしめると、道子は鏡台の前に行き、顔をうつして見た。化粧した頰は涙に汚れて感情の推移を示して居る。指でおさえると、亦ぷくんともどって来る。そっと微笑して見ると、黄昏のように淋しい。何年ぶりの涙だろうと道子はしみじみと思って見た。遠いもののように思えたあの中岡の姿が先刻はどれほど近いものに見えた事だろう。しかし再び遠くへ逃げて行った中岡の影像を、自分の顔になぞらえて鏡面をじっと見て居る。白い鏡だった。

 鏡から離れて窓にに立つと、もう日が沈んで居る。燈もつく頃だろう。道子は茫然としながら、家並の黝い瓦を見て居てはげしい緊張の後に来る空虚なものを感じて居た。そうして目を舗道にうつした時、人混みにまじって急ぎ足で戻って来る由紀子の姿が目にうつった。その時道子は始めて、ああ、あたしの生活には由紀ちゃんも居たんだなと感じ、一寸の間それが不思議なように思われた。あたしが、中岡と一緒に映画を見ての帰り、あの由紀ちゃんに対する自責の念を盛り上げた霧雨の夕べのように、由紀ちゃんもやはり今あたしに対して何か済まないって言う感じを持って居ないかしら、だからあんなに急ぎ足でかえって来るのかも知れない。そう考えると道子は急に由紀子に、おさえ切れないようないとおしさを感じて、帰って来たら思い切って抱きしめてやりたい程肉親の愛情に胸がたかぶって来るのだった。

 そうして、もう間近くなった由紀子のまだこちらに気付かないで歩いて居る、その黄昏の風にはためくスカートの動きを見ると、ああこれが人生だと呟きながら、それ故も一度にじみ出る淋しさを心から意識しながら、両手をそっと頰に当てると、じっと目を閉じて見るのであった。

 

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