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2021/05/14

芥川龍之介書簡抄57 / 大正五(一九一六)年書簡より(四) 井川恭宛塚本文との結婚が家族間で公式に確認されたことを報ずる書簡

 

大正五(一九一六)年六月二十九日(年月推定)・田端発信・井川恭宛(転載)

 

不昧公の手植の松は君がさう書いたのをよんだら 成程あすこの庭に一株の古松があつて それが不昧公の手植の松らしくうねくつてゐたやうな氣がした が氣がする丈でどんな松だつたか 確な所はまるで覺えてゐない

松江はさぞ閉寂な事だらうと思ふ 城見まんぢうと云ふのがあつたがあれを食はなかつたのは千古の遺憾である

   饅頭の名も城見とぞ春の風

僕の胃病は快癒した これは完く規則的に飮食し出したおかげである その習慣は松江にゐる時からついた とにかく胃が痛まないから この頃は元氣がいい

その元氣のいい勢で 新小說へ小說をかくのを引うけてしまつた 今では少し後悔してゐる だから當分東京ははなれられない いやでも約束の期日までにかいてしまはなければならないから 不安と勇氣とを代る代る感じてゐるがどつちかと云ふ不安の方が多い[やぶちゃん注:ママ。] 九月の特別號に出る筈だ

谷森君が「平安朝に於ける警察制度」と云ふ論文をかいた 借りてよんでゐるが 天子樣の所へ追剝がはいつたり 人間をくふ人間があつたりして面白い 僕には面白いが史料編纂の連中には評判が惡かつたさうだから時計はもらへまい

石田 島津がもらふのは確だと云ふ評判がある 島津と云ふ人は論文をかいた後その爲に病氣になつて藥瓶をさげながら試驗場へ出てゐた 人に不愉快な感じを與へる程羸弱な變な男である あれから見ると 石田の方が 餘程堂々とした觀がある

僕はまだ口がきまらない いゝ口があるまでぶらぶらしてゐるつもりだから平氣だが 外に氣の毒な人が可成ある いいあんばいにきまりましたつて悅んでゐる人がゐるから 聞いてみたら伊豫西條の中學へゆくんださうだ そんな邊境へ行くのは嘸いやだらうと思ふが 當人が悅んでゐるものを悅ぶなと云ふわけにもゆかないから默つてゐた 何にしてもすぐ自分で食ふ必要のある人は大へんらしい

藤岡君も口をさがしてゐる あれは又兵隊にとられたんだから 餘計大へんだ 檢査なんぞうけるんじやなかつたつてこぼしてゐる 何でもうけた時に檢査官が軍曹か何かを叱りつけてゐた所で かんしやくを起してゐたもんだから藤岡をとる事にしてしまつたんださうだ 一時のかんしやくが他の個人の一生の運命に交涉をもつんだからな あつて藤岡が浩嘆してゐた

坂下だけ落第しさうな惧があるが外は大抵通りさうだと云ふ事だ

宮本が學習論つて論文をかいたが 一體何をかいたんだらうと云ふ事が 問題になつてゐる 宮本はそんなものをかくよりそれを實行した方がいいと云ふ人がある 實行するにしても 時既に遲しだと云ふ人がある どつちでもいいが

成瀨が八月三日に米國へ向けて出立する

菊池寬は博文館へはいるさうだ

久米はまだわからない

   秋風にわれ愧づらくは二千石

文子は愈貰ふ事になつた さらい年卒業してからだが向ふでは急いでゐるが 僕がそれには贊成しない だからまだ正味二年餘裕があるわけだ

君はこの秋に東京へくるかね 結婚は東京でするのだらう

京都の口は確定したかね

   御佛に奉らむ紫藤花六尺

京都と云つたら奈良の大佛の事が急におもひ出された

矢代は夏中奈良にゐて天平の硏究をするさうだ

僕はこの頃秦の緣談の世話してうまくいかなかつた 相手は松本初子と云ふ女だが歌集を出してるから君もしつてゐるだらう 秦もがつかりしたらうが僕もがつかりした

文子は至極幸福に暮してゐる 少くとも暮してゐるらしい さうである限り僕も幸福に暮してゆけるものと思ふ 少くとも今は 創作上の不安を除いて至極幸福にくらしてゐる

來月の新思潮は久米菊池號だから送らない 發送の手數がめんどうだから

    廿九日 朝          龍

   井 川 君

 

[やぶちゃん注:この書簡クレジットの六月二十九日には漱石の「木曜会」に出席している。前に述べたが、卒業試験はこの月の十五日に総て終わっていた。

「不昧公」松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。茶人として知られ、その号の松平不昧で呼ばれることが多い。場所や現存するものかは不詳。松江市菅田町(すがたちょう)の茶室菅田庵(かんでんあん:旧松江藩家老有沢家の山荘内)か。

「城見まんぢう」大正二(一九一三)年創業の松江市中原町にある福田屋には「お城饅頭」というのがあるが、これを指しているかどうかは不明。

「あれを食はなかつたのは千古の遺憾である」芥川龍之介は下戸で、大の甘党であった。因みに、犬が嫌いで、猫が好きであった。

「新小說へ小說をかくのを引うけてしまつた」新全集の宮坂年譜の翌七月二十五日の条には、雑誌『「新小説」からの寄稿依頼に対して「偸盗」の執筆を始めていたが、断念し、代わりに「芋粥」の執筆を考える』とあり、「九月の特別號に出る筈だ」とある通り、九月一日発行の『新小説』に「芋粥」が発表された。なお、「偸盗」はかなり芥川龍之介とっては捨て難い思い入れのあった作品であり(私はある意味で「羅生門」よりも遙かに優れていると感ずる)、この翌大正六(一九一七)年の四月と七月の『中央公論』に分割して発表している。但し、脱稿したそれについては大いに不満が残り、強い改作の意向を持ち続けた。しかし、遂に改作はなされず、作品としても未完の印象を後世に与えたが、私はあの終わりで構わないとさえ感じている。

「谷森君」既出既注

「時計はもらへまい」俗に東京帝国大学の首席卒業生に対し、「天皇陛下より金時計が下賜される」と言われたが、正しくは「銀時計」である。なお、前に言ったが、卒業成績は芥川龍之介は二十人中、二番で、実際の一番となった人物は後に英文学者となった豊田實(みのる 明治一八(一八八五)年~昭和四七(一九七二)年)。福岡県生まれ。青山学院高等科を経て、明治四五(一九一二)年に青山学院神学科を卒業し、その後、東京帝国大学英文科卒業した。青山学院教授・東京女子高等師範学校教授を経て大正一二(一九二三)年にはイギリス・フランスに留学、帰国後、大正一四(一九二五)年に九州帝国大学教授となり、昭和四(一九二九)年には東京帝大文学博士となった。青山学院院長・青山学院大学初代学長・日本英学史学会初代会長を歴任した。当該ウィキによれば、『英学史を専門としたが、英文学の翻訳』・『研究も行なうキリスト教徒だった』とある。

「石田」既出既注

「島津」かの後の国文学者として知られる島津久基(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年。鹿児島県生まれ。島津氏分家である花岡島津家の出身で、鹿児島県立第一鹿児島中学校・第七高等学校造士館を経て、この年、東京帝国大学文科大学を卒業した。第一高等学校教授から東京帝大助教授となったが、大正元(一九二六)年に、病気のために辞職した。その後、東洋大学教授から昭和一八(一九四三)年には、再度、帝大教授となった。「源氏物語」岩波文庫版で、本文の傍らに主語を記する方式を初めて用いたのは彼で、現在もそれが踏襲されている。古代・中世の伝説・説話・物語文学を広く研究した。私の書棚にも、無数に彼の名が見渡せる(私の妻は王朝文学が専門だったため)。

「羸弱」「るいじやく(るいじゃく)」と読み、「衰え弱ること・体が弱いこと」の意。

な變な男である あれから見ると 石田の方が 餘程堂々とした觀がある

「伊豫西條の中學」愛媛縣立西条中學校(現在の愛媛県立西条高等学校)。

「藤岡君」既出既注

「檢査」徴兵検査。推定だが、芥川龍之介も「横須賀機関学校」教授嘱託(英語学)になっていた大正六(一九一七)年六月二十四日頃、満二十五歳の時に徴兵検査を受けている模様である。この場合は、勤務先からして徴兵の可能性は限りなくゼロとなる。

「浩嘆」ひどく歎くこと。

「坂下」既出既注

「宮本」一高以来の龍之介の同級生(さればこそ井川も知っている)の宮本覚純(?~昭和三二(一九五七)年)。新全集の「人名解説索引」には、東京帝大『哲学科卒』で、『のち長野県教育主事』となり、また『大沢寺住職』とある。長野県大町市に同名の寺がある。

「成瀨」一高・帝大時代の親友で第四次『新思潮』の同人でもあった後のフランス文学者成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は東京帝国大学文科大学英文科卒業後、間もなく(大正五年中)渡米し、コロンビア大学大学院に籍を置くが、多くの時間を執筆活動・美術館通い・劇場通いに費やした。美術館ではシャヴァンヌ・ゴヤ・ミレーなど。当時の日本では見られない巨匠たちの実作品に接し、その感激を『新思潮』の仲間に書き送っている。この頃に養われた鑑賞眼が、五年後、パリに於ける「松方コレクション」収集時に役立つことになった。一九一八年三月、ナチス・ドイツのUボート攻撃の危険を冒して欧州に渡り。戦火のパリやリヨンを経て、スイスに入り、七月にはヴェルヌーヴに亡命中だったロマン・ロランに会い、三週間をともに過ごした。二人は洋の東西の文学・文化・社会状況について語り合い、約二十年後の「太平洋戦争」勃発を予言していた。成瀬の一言一句は、ロランの「戦時の日記」にも詳しく書かれており、成瀬も、この時の経験を「ロオランとの三週間」などに書き、第一次世界大戦の勝利を祝うパリを経由し、帰国の途についた。帰国後間もなく、小説家の道を断念し、仏文学研究をライフ・ワークとした(以上は当該ウィキに拠った)。

「博文館」明治二〇(一八八七)年、大橋佐平により東京市本郷区弓町(現在の東京都文京区本郷)に創業された出版社。富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊するとともに、印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業して日本最大の出版社として隆盛を誇った。但し、実際には菊池はここに入社していない。龍之介らと同じく、この大正五年七月に京都帝大英文科を卒業(卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」)後、上京し、芥川・久米と夏目漱石の「木曜会」に出席し、結局、友人成瀬の家の縁故で『時事新報』社会部の記者となっている。翌大正年六年一月発行の『新思潮』に「「父帰る」を発表し、これは三年後の大正九(一九二〇)年 に二代目市川猿之助によって舞台化されると、これが大当たりとなり、以後、本作は菊池寛を代表する作品となり、作家としてのデビューとなった。大正八年には「恩讐の彼方に」を発表、『時事新報』を退社し、執筆活動に専念すrこととなり、翌年、『大阪毎日新聞』と『東京毎日新聞』に連載した「真珠夫人」が大評判となり、人気作家となった。大正一二(一九二三)年一月には若い作家たちのために『文藝春秋』を創刊、芥川龍之介も常連となったのである。

「二千石」旧幕時代の芥川家の石高。芥川家は江戸城の御数寄屋坊主を務めた家柄であった。

「さらい年卒業してから」(この「卒業」というのは殆んど行きもしなかった大学院のこと。従って文との結婚は、この時点で大正七(一九一八)年六月以降に予定されていたことが判る。実際には大学院をこの大正五年末に除籍され、院卒業という縛りはなくなって、この時から一年半後の、大正七年二月二日、田端の自宅で結婚式を挙げている。

「君はこの秋に東京へくるかね 結婚は東京でするのだらう」井川恭が恒藤雅(まさ)と結婚したのは大正五年十一月であった(結婚式の場所は不明。龍之介が出ないはずはないので、東京ではなかったのではないかと思われる。その当時の恒藤恭(京都帝国大学大学院在学中。専攻は「国際公法」であった)の新家庭は京都であった)。

「京都の口は確定したかね」大学院卒業後、恒藤は、後、同志社大学教授から京都帝国大学助教授を経て同大教授となっている。

「御佛に奉らむ紫藤花六尺」中七は「奉(たてまつ)らむ紫藤花(ふぢ)」であろう。「御佛に」の句は直前に『京都の口は確定したかね』とし、句後には『京都と云つたら奈良の大仏の事がおもひ出された』とあるから、これは嘱目吟というより、東大寺を背景にした想像の句であろう。

「矢代」既出既注

「秦」秦豊吉(明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は、翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学(独法)卒業後(芥川龍之介と同期であり、『新思潮』への投稿もしていたので、井川も実際に会ったかことがあるかは怪しいものの、同じ法科でもあり、龍之介の書簡の中で話としては名を知っていたのであろう)、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベスト・セラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上は当該ウィキに拠る)。しかし、どうも私は、芥川龍之介が、縁談の仲介者となるほどに彼と親しかったというのが、正直、解せないでいる。

「松本初子」(明治二九(一八九六)年~?)奈良県生まれ。本名は「河杉はつ」、旧姓が「松本はつ」で、嘉悦女子商業中退。明治四四(一九一一)年に『竹柏会』に入り、佐佐木信綱に師事した。大正五(一九一六)年に河杉家に嫁す(誰かさんと同じで、結婚話がそちらのお方の方が先に進んでいただけのこっちゃないの? 龍ちゃん?)。歌集に「藤むすめ」(大三(一九一四)年)・「柳の葉」(大正五年)がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「來月の新思潮は久米菊池號だから送らない」大正五年七月一日発行の『新思潮』第五号は、久米正雄「梨の花」(戯曲)と、菊池寛「海の勇者」(戯曲)二篇のみ所収。]

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