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2021/05/10

芥川龍之介書簡抄55 / 大正五(一九一六)年書簡より(二) 井川恭宛二通(芥川龍之介に小泉八雲を素材とした幻しの小説構想が彼の頭の中にあった事実・「鼻」反響(注にて夏目漱石の芥川龍之介宛書簡を翻刻))

 

大正五(一九一六)年三月十一日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣・十一日龍・絵葉書

 

(第一)論文と原稿とが忙しかつたので大へん御ぶさたした これと一しよに寮歌集も送る

それから御願が一つある 荒川重之助(?)の事蹟を知る事は出來なからうか 酒のみで天才だと云ふ事だけは君からきいた あれとヘルン氏とを材料にして出雲小說を一つかきたい 松江の印象のうすれない内に

是非たのむ。

   閃かす鳥一羽砂丘海は秋なれど

今は俳句氣分になつてゐない

(第二)「鼻」は二つのベグリッフスインハルトを持つてゐる 一つは肉體的缺陷に對するヴァニテの苦痛(ハウプト)一つは傍觀者の利己主義(ネエベン)――それ以上に何もずるい企[やぶちゃん注:「くはだて」。]をした覺はない 君がずるい企の意味を明にしなかつたのを遺憾に思ふ 傍觀者の利己主義は二つのベディングングを加へて全體の自然さを破らないようにした 一つは内供の神經質(性格上)一つは鼻の短くなつてから又長くなる迄の期間の短い事(事件上)だ それが徹底していなかったと云へばそれ迄だが

次の號は四月一日發行にした 僕は小品をかいた 出來たら送る

 

[やぶちゃん注:以上は、実は、手を加えて合成したものである。「(第一)」パートは岩波旧全集に拠ったが、この「(第一)」がずっと昔に気になっていた。これは、「(第二)」があるに違いにないと思わせた。そのまま打ち忘れて、今日に至り、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を見たら、愕然とした。新全集では、「(第二)」パートを発見していたのであった(私は新全集の書簡巻を所持しない)。そこで、ともかくも、そこで示された新発見の「(第二)」パート(新字・現代仮名遣・句読点その他の編輯処理されたもの)を歴史的仮名遣・正字表記に恣意的に直し、さらに、「(第一)」パートに倣って、句読点を除去して字空けとし、「(第二)」の後は、岩波旧全集の通り、字空けを施さずに詰めた。さらに、「(第二)」パートの内、明らかに話題が転換する最後の部分で、改行を施した。これは「(第一)」パートの雰囲気を援用したものである。

「論文」東京帝大卒業論文。「ウイリアム・モリス硏究」。一種のやっつけ仕事的な向かい方で、本人自身が「せつぱつまつてかき出した論文の進步が遲くえよはりきつてゐる」(同年四月推定の井川宛書簡)とあることからも判り、内容範囲を著しく限定せざるを得なかったことが知られている。なお、この論文は残念なことに関東大震災で消失、現存しない。

「原稿」この直前の同年二月十五日の『新思潮』に「鼻」が載り、漱石から同月十九日知られた激賞の書簡を受け取って以来、自身がついていた芥川は「紺珠一篇 一 孤獨地獄」(後の単行作「孤獨地獄」(私のサイト版。他に異なったファイル・データが二種用意してある)を四月一日の『新思潮』に、五月一日には「父 ――矢間雄二氏に獻ず」(後の「父」。私のサイト版)を発表している。

「荒川重之助」彫刻家荒川亀斎(文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)の本名。松江の小泉八雲記念館」公式サイト内の企画展「八雲が愛した日本の美 彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲」二〇一八年六月二〇一九年六月開催)のページの中にある、同展のパンフレット(PDFによれば、松江の雑賀横浜(さいかよこばま:NAVITIME地図)に『大工の子として生まれた荒川亀斎(戸籍名=荒川重之助)は、幼い頃から手先が器用で絵画や彫刻で早くから天分を現しました。持って生まれた才能に合わせ、彫刻をはじめ、日本画、国学、書道、金工など幅広い知識と技術を身に着け、多彩な活動を精力的に行いました。亀斎は、国内外の名だたる博覧会に作品を出品して受賞を重ね』、明治二六(一八九三)年には『アメリカのシカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞を』、明治三三(一九〇〇)年の『パリ万博では扁額「征韓図」が銅牌を受賞しました。緻密な技巧を駆使した象嵌細工をはじめ工芸的な技法による木彫作品を数多く残し、地元の社寺でも亀斎彫刻はあちこちで見られます』。明治二三(一八九〇)年には、来日直後(同年四月横浜着)のラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲。九月二日より松江中学校・師範学校英語教師として初出校)と出逢い、二『人は美術論で意気投合し』、『その交友は長い間』、『続きました。八雲』が没した(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)二年後、八十『歳で芸術一筋の生涯を終え、洞光寺』(島根県松江市新町にあ曹洞宗金華山洞光寺。生地の東直近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の墓地に静かに眠っています』とある。「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」の詳細年譜を見ると、着任したその九月二十八日の日曜日、『寺町を散策中、龍昌寺』(松江市寺町北寺町にある曹洞宗寺院。サイド・パネルの八雲ゆかりの解説板その他も必見。なお、ハーンは着任から二ヶ月ほどは旧大橋北詰に近い大橋川河畔の富田旅館(現在のここの川岸側)を住まいとし、十月下旬か十一月上旬までには直近の北詰により近い末次本町の離れ座敷に移っている)『の境内にある石地蔵に魅了され、寺僧に面会し、作者が市内横浜(よこばま)町在住の彫刻家荒川重之輔(亀斎)であることを知る』(「輔」はママ。近代まで「すけ」は自身でも多様の字を複数書いたから問題はない。但し、先のパンフのそれには『戸籍名』と明記されてあるので「助」が正しいのであろう)とあって、素早く、十月二日には着任初めより急速に親しくなった(彼はハーンにとって通訳として不可欠の人物でもあったが、人間的にも優れた人物であった、小泉節子との媒酌人も務めたが、明治30(一八九七)年、結核のため、三十六歳の若さで生涯を終えた)島根尋常中学校教頭『西田千太郎を誘い、灘の四斗樽を土産に、竪町(たてまち)』(ここ)『にある荒川重之輔の工房を訪ね、作品を見せてもらう』とあって、そのまた翌日十月三日には、ハーンが『重之輔と西田千太郎を招き、饗応し、美術に関する談話に花を咲かせる』とあり、一週間後の十月十日にもやはり二人を『招いて小宴をもち、快談する』とある。こうした交流に荒川もハーンの無垢の誠実さを感じたものであろう、十一月二十一日には、『荒川重之輔が「気楽翁」を模造した土偶をハーン宅に持参する。同時に、教え子の父である板倉仁平次も、同家脾臓の銅製の聖像を持参し、西田千太郎をまじえて、快談して時を過ごす』とある。この「気楽翁」とは後水尾天皇が常に側において愛玩されたと伝えられる指人形「気楽坊」を模したものである。先のリンクやパンフにその人形が写っている。この人形の話は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十六)』(原題:Glimpses of Unfamiliar Japan : 明治二七(一八九四)年刊。当時は未だラフカディオ・ハーン。彼が帰化するのは神戸時代の明治二九(一八九六)年二月十日のことであった)にも出てくる(リンク先は私の電子化注で原文附き)。

「酒のみで天才だと云ふ事だけは君からきいた あれとヘルン氏とを材料にして出雲小說を一つかきたい 松江の印象のうすれない内に」「是非たのむ」惜しいかな、これは実現しなかった。是非読みたかった。

「ベグリッフスインハルト」ドイツ語。Begriffsinhalt。意図。

「ヴァニテ」英語。vanity。ヴァニティ。虚栄心。自惚(うぬぼ)れ。

「苦痛(ハウプト)」「ヴァニテ」という内供の持つ「虚栄心」がテーマの「Haupt-」(ドイツ語の合成用語で「主要な・総体的な・最大の」の意)なものであるという説明である。

「傍觀者の利己主義(ネエベン)」「傍觀者の利己主義」がテーマの「neben」(ドイツ語で「付随的」「二次的」)であるという説明である。

「ベディングング」ドイツ語。Bedingungen。ベディングン。制約・条件。

「次の號は四月一日發行にした 僕は小品をかいた」同月同日発行の『新思潮』第二号に「紺珠十篇 一 孤獨地獄」を発表している。同号の表紙目次では「孤獨地獄(小品)」となっている。私が先に公開したブログ版「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」或いは、同じサイト版横書版、或いは、PDF縦書版を参照されたい。]

 

 

大正五(一九一六)年三月二十四日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 直披・消印二十五日 三月廿四日 東京府下田端四三五 芥川龍之介

 

荒川の事はちよいとした小品にかかうと思つてゐた わざわざしらべて貰ふほど大したものではない 何かあの人の事をかいた本はないかな

ヘルンが石地藏を見た話は知つてゐる かかうと云ふ氣にはその話からなつたのだ

 

「鼻」の曲折がnaturalでないと云ふ非難は當つてゐる それは綿拔瓢一郞も指摘してくれた 重々尤に思つてゐる

 

それから夏目先生が大へん鼻をほめて わざわざ長い手紙をくれた 大へん恐縮した 成瀨は「夏目さんがあれをそんなにほめるかなあ」と云つて不思儀[やぶちゃん注:ママ。]がつてゐる あれをほめて以來成瀨の眼には夏目先生が前よりもえらくなく見えるらしい 成瀨は自分の骨ざらしが第一の作で松岡の「鴦崛摩」[やぶちゃん注:「あうくつま」。]がそれに次ぐ名作だと確信してゐる

 

僕はモオパツサンをよんで感心した この人の恐るべき天才は自然派の作家の中で匹儔[やぶちゃん注:「ひつちう」(ひっちゅう)。匹敵すること。同類・仲間と見做すこと。また、その相手。]のない銳さを持つてゐると思ふ すべての天才は自分に都合のいいやうに物を見ない いつでも不可抗的に欺く可らざる眞を見る モオパツサンに於ては殊にその感じが深い。

しかしモオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀じ得た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その點で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ。une vie の中の女なぞにはあふるるばかりの愛が注いである。僕は存外モオパツサンがモラリステイクなのに驚いた位だ。

 

この頃コンスタンタン ギユイの画をみて感心した あれの素描は日本人にも非常によくわかる性質を持つてゐるらしい 墨の濃談なぞも莫迦に日本画的な所がある。大きなデイルネの素描は殊に感心した

それからドラクロア――ダンテの舟一枚でも立派なものだ テイントオレツトオとドラクロアはいい復製[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]のないので有名だが その惡い復製でも隨分感心させあられる[やぶちゃん注:ママ。] あの男の画は恐しくダイナミツクだ オフエリアの画なんぞを見ると殊にさう思ふ

 

論文で大多忙

 

ロオレンスが死んだ 可愛さうだつた おともらひに行つた さうしてこの老敎師の魂の爲に祈つた ロオレンス自身には何の恩怨もない 下等なのはその周圍の日本人だ

ロオレンスの死顏は蠟のやうに白かつた そしてその底にクリムソンの澱(おり)がたまつてゐた 百合の花環 黑天鷲絨の柩 すべてがクエエカアらしく質素で 且淸淨だつた 僕はロオレンスが死んだ爲に 反て[やぶちゃん注:「かへつて」。]いろんな制度が厄介になりはしないかと思つてゐる ロオレンスガ[やぶちゃん注:ママ。]死が喜ばしたのは成瀨位だらう 成瀨はあの朝方々ヘル・デイアブル・エ・モオルと云ふ句にボン・クラアジユと云ふ!を加へたはがきを出した

 

春は東京にも來た

   しくしくに雨しふれれば立つとなく木の芽も春はいまか立つらむ

   夕づけは木の芽も春のいぶきすと空はほのかによどむならじか

   夕よどむ空もほのかにうす月は木の芽も春のといきすらしも

   水光りつめたけれどもしかれども根白川楊(かはやぎ)花をこそふるヘ

雜誌の金なんか心配しなくつてもいい よこしてもうけとらないぜ

書く事は每號書く

ことしの夏休みが樂しみだ

 

僕はいまセルマ ラアゲレフをよんでゐる ゲスタ・ベエリングと云ふ小說だ 電車の中でだけだから一向捗どらない

 

君は福間さんの事をかいた森さんの小說をよんだかね あの中にはあの今戶の寺で演說をした妙な坊さんの話も出てゐる 福間さんは森さんのうちの前の下宿にゐてそこにゐた女學生と關係したのださうた それがあの奧さんだつたと思ふと一寸面白い

 

牛込は皆健在かね 牛込の Vater は僕のおやぢのやうに腦溢血か何かになる惧がありさうな氣がする 緣起でもないが

 

ふみ子を貰ふ事については猶多少の曲折があるかもしれない さうして事によると君に相談しなければならないやうな事が起るかもしれない

僕はつよくなつてゐる それだけ余計に曲折をつくる周圍の人間を憫んでゐる 僕が折れる事はないのだから

まだはつきりした事はわからない。

 

本をよむ事とかく事とが(論文も)一日の大部分をしめてゐる ねてもそんな夢ばかり見る 何だかあぶないやうなさうして愉快なやうな氣がする いやな事は一つもしない 散步にふらふらと出て遠くまで行く事がよくある 今日まで三日ばかり逗子の養神亭へ行つて來た 湘南は麥が五寸ものびてゐる 菜はまだあまりさかない 梅は遲いが桃が少しさいてゐる ある日の夕がた秋谷の方へ行つたかへりに長者ケ崎の少し先の海の岸に白いものが靄の中でうすく光つてゐるから何かと思つたら桃だつた 山はまだ枯木ばかり唯まんさくの黃いろい花が雪解の水にのぞんでさいてゐる事がよくある 鳥はひよ 山しぎ 時によると雉 論文をかきあげたらどこかへ行きたい それまでは駄目

逗子葉山の海には海雀が多い 銀のやうに日に光る胸を持つたかはいい鳥だ かいつぶりに似た聲で啼く。鴨 鷗 あいさも多い

東京へかへつたら又切迫した心もちになつた。

 

來るものをして來らしめよと云ふ氣がする

                   龍

 

[やぶちゃん注:「綿拔瓢一郞」漱石の門下生で、後の英文学者にして俳人の林原耕三(明治二〇(一八八七)年~昭和五〇(一九七五)年:旧姓・岡田)林原 耕三(はやしばら こうぞう、)。俳号は耒井(らいせい)。福井県出身。大正七(一九一八)年、東京帝国大学英文科卒。当該ウィキによれば、『在学中から夏目漱石に師事し』、大正四(一九一五)年十一月十八日に『芥川龍之介』と久米正雄『を漱石』山房に連れて行って、漱石に『に紹介した』人物である。『年下の芥川らが東大を卒業して数年たって』、『なお』、『大学にいたというので「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事した。大正一四(一九二五)年、松山高等学校教授、次いで台北高等学校教授、台湾総督府在外研究員として欧米に滞在。その後』、『法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授を務めた』とある。芥川龍之介の「漱石石房の冬」(大正一二(一九二三)年一月発行の『サンデー毎日』初出。リンク先は「青空文庫」の新字旧仮名版)に登場する「O君は綿拔瓢一郞と云ふ筆名のある大學生」が彼である。

「夏目先生が大へん鼻をほめて わざわざ長い手紙をくれた」を岩波旧全集「漱石全集」から全文を引用する。

大正五(一九一六)年二月十九日附・土曜・消印午前十時―十一時・牛込區早稻田南町七・府下田端四三五 芥川龍之介宛

   *

 拜啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀨君ののものを讀んで見ましたあなたのものは大變面白いと思ひます落着があつて巫山戲てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あゝいふものを是から二三十並べて御覽なさい文壇で類のない作家になれます然し「鼻」丈では恐らく多數の人の眼に觸れないでせう觸れてもみんなが默過するでせうそんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身體の藥です

 久米君のも面白かつたことに事實といふ話を聽いてゐたから猶の事興味がありました然し書き方や其他の點になるとあなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀨君のものは失禮ながら三人の中で一番劣ります是は當人も卷末で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます 以上

    二月十九日      夏目金之助

   芥川龍之介樣

   *

ともかくも、この激賞の書簡が芥川龍之介の運命を決定づけたのであった。

「骨ざらし」成瀬正一が第四次『新思潮』創刊号に発表した小説「骨晒し」。作品の梗概は関口安義氏の論文「第四次『新思潮』と成瀬正一」(PDFでダウン・ロード可能)の「一」の最後に以下のように載り、関口氏の考察が続く。当時とそれ以降の成瀬や芥川を理解する上で格好のものであるので、特に引用させて戴く。

   《引用開始》

 第一作「骨晒し」は、暴風雨の日本アルプスの山小屋が舞台である。「芸術も宗教も悉く詩的化して、美しいもの、遠くにあるもの」として考える青年を主人公とし、その理想主義的生き方を抜いている。嵐の夜、山小屋の主のような老人が、奇妙な話をする。昨年の冬遭難した村の猟師の死体がまだ引きあげられず、骨さらしとなって、その谷の近くに行くと骨がおぶってくれ、水飲ましてくれと叫ぶというのだ。たまたまそこにいてその話を聞いた青年は、その夜興奮のため眠れず、骨を取ってその妻に見せ、大地に埋めてやろうと決心する。そして初めて真の善をなし得ると思って喜悦する。翌朝、青年は自分のしようとしていることが「真の人間のすること、即ち真の芸術家のすることだ」と思いながら、悦びにもえて骨さらしの谷に向うのである。若き情熱にもえた、ナイーブな理想主義者成瀬正一の一面がよく出ている作品である。「骨晒し」というやや突飛な題名にもかかわらず、内容は素直で、白棒派の武者小路や長与善郎の初期の作風にも通じるものがある。が、何としても作品のプロットと作者の観念とがひとつに溶けあっていないのが欠点であった。それは同じ号に載った久米の「父の死」の抜群の自然抜写や流れるような文章、芥川の「鼻」の気のきいた表現や完成された構成、見事なテーマ設定……」ういった小説道の本筋からは遠いである。この号の「編輯後に」に成瀬は次のように書いている。

[やぶちゃん注:以下、原論文では全体が二字下げポイント落ち。]

 私は「骨晒し」を書いた後で、つくづく自分の微力を感じて、出すのが恥かしかつた。他人がその点で私を攻撃するなら、私は甘受する。併しあんなものは、宗教だとか感想だとか、或は、芸術でないとか云ふなら、私は気持が悪い。私は自分で芸術家と云ふ概念を作つて、それにならうと努めることなんぞ一番厭だからである。私はあんなものしか書けない。これからもあんなものばかり書くつもりで居る。若し誰かが私を芸術家でないと云ふならそれでもいい。私は「芸術家」にならうと思つて努力して居るのでないから。

 観念的で、ややあいまいな感想ながら、作品の未熟さは自ら認めているのである。この創刊号を読んだ漱石が、芥川に激賞の手紙(大5・2・19付)を寄せたことは、よく知られたことであるが、その中に成瀬の「骨晒し」にふれたところがある。

[やぶちゃん注:引用は同前。]

――成瀬君のものは失礼ながら三人の中で一番劣ります。是は当人も巻末で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます。

三人とはいうまでもなく芥川・久米・成瀬である。そしてこの時の芥川への讃辞と成瀬への貶評とが、奇しくも後の文壇的成功と不成功とを物語ることとなった。

 『新思潮』四月号には「最初の石」という小説を載せている。これは良心的な医師の苦悩を抜いたものだが、同じ号の松岡の「河豚和尚」、久米の「手品師」に及ばない。この期の成瀬の作では、五月号に載せた「罪」が比較的よく書けている。それは体験を素材としたためか、無理がなく、筋の運びは自然である。

 こうして創作に夢中になっていたため、六月の卒業試験では藤岡勝二担当の言語学に失敗し、芥川に運動してもらうということなどもあったが(大5・6・21付藤岡蔵六宛芥川書簡)、「批評家としてのマッシュウ・アーノルド」を卒論に、大正五年七月、成瀬は東大を卒業し、ただちに欧米留学の途につくのである。

   《引用終了》

とある。

「鴦崛摩」現代仮名遣「おうくつま」。筑摩全集類聚版脚注に松岡譲が同じ創刊号に発表したものとするが、不思議なことに、検索で全く掛かってこない。調べてみると、彼が発表したのは戯曲「罪の彼方へ」という作品である。内容が判らぬが、龍之介の言うこれは、その戯曲の主人公の名ではないか? パーリ仏典経蔵中部に収録されている「アングリマーラ経」(アングリマーラ・スッタ。「鴦掘摩経」(おうくつまらきょう)とも呼ぶ)があり、当該ウィキによれば、これは『凶悪な殺人鬼だったアングリマーラが改心して仏道に入り、阿羅漢へと至る様を描く』とあった。

「フロオベエル」「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary :一八五六年)や「感情教育」(L'Éducation sentimentale :一八六九年)で知られるフランスの写実主義小説の巨匠ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)。当該ウィキによれば、「ボヴァリー夫人」で『卑近な題材を精緻な客観描写で作り上げたフローベールの手法は』、『その後』、『ゾラ、モーパッサンに引き継がれ、写実主義から自然主義という文学的な潮流を用意することとなった。その一方で』、彼は『徹底した文体の彫琢を通じて作者の痕跡を消し去り、作品をそれ自体で成り立たせようとした』とある。

「une vie」フランスの自然主義の巨匠アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant 一八五〇年~一八九三年)の「女の一生」(Une vie :邦訳はそれで知られるが、原題は「或る人生」である)。

「コンスタンタン ギユイ」オランダ生まれのフランスの水彩画家コンスタンティン・ギーゼ(Constantine Guys 一八〇五年~一八九二年:音写はフランス語から)。グーグル画像検索「Constantine Guysをリンクさせておく。タッチがいかにも龍之介好みだ。

「デイルネ」ドイツ語の「Dirne」だろう。「売春婦」或いは古語で「少女」。恐らくは前者。

「ドラクロア――ダンテの舟」フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)の一八二二年に描かれた「ダンテの小舟」(La Barque de Dante )。彼の邦文ウィキにある当該作の画

「テイントオレツトオ」イタリア・ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティントレット(Tintoretto 一五一八年~一五九四年)。当該ウィキによれば、『ティツィアーノの色彩とミケランジェロのマニエリスムの形体を結びつけ、情熱的な宗教画を描いた』とある。

「オフエリアの画」ドラクロアが一八五三年に描いた“La mort d'Ophélie ”(「オフィーリアの死」)。Wikimedia Commons」の当該作の画像。私はオフィーリアを描いた作品が好きで、昔、ネット上でテツテ的に蒐集したことがある(先般のディスク破壊で総て消滅した)が、ドラクロアのこれは、それほど好きではない。ぼかしが気に入らない。これをダイナミックという龍之介には共感出来ない。

「ロオレンス」既出既注

「クリムソン」crimson。クリムズン。深紅色・茜色。

「クエエカア」自称は「友会」(ゆうかい:Society of Friends)で、「基督友会」「フレンド派」とも称されるピューリタン系プロテスタントの一派。“Quaker”の名は、この派の人々が、神秘体験に逢って、身を震わせることから起こった、とされる。十七世紀半ば、英国のジョージ・フォックス(George Fox 一六二四年~一六九一年)が創始し、イングランド植民地の政治家デ宗教家でもあったウィリアム・ペン(William Penn 一六四四年~一七一八年)などの協力で、英米を中心に発展した。万人に神の「内なる光」が宿っていると信じ、その導きに従って行動すべきことを説く。暴力否定・戦争反対の平和主義に徹し、良心的兵役拒否で知られる。日本には明治一八(一八八五)年に初めて紹介されており、かの新渡戸稲造はクエーカー教徒であった。

「ル・デイアブル・エ・モオル」“Le diable est mort.”。フランス語で「悪魔は死んだ。」の意。筑摩全集類聚版脚注に、『「僧院と竃と」の中でデエス人が人々に呼びかかけてまわることが、条文では、“Courage, le diable est mort!”』とある。この「僧院と竃と」はイギリスの作家チャールス・リード(Charles Reade 一八一四~一八八四年)の歴史小説“The Cloister and the Hearth ” (「回廊(修道院)と炉辺」)である。その英文の台詞は“Take courage, my friend, the devil is dead!”で、フランス語では“Courage, mon ami, le diable est mort!” である。「デエス人」は不詳。なお、この台詞、皮肉なことに、一部を除いて遺稿として発表された芥川龍之介の「齒車」の「五 赤光」の中でリフレインされる。

「ボン・クラアジユ」“Bon couutage”。ボン・クラァジュ。フランス語でこの“courage”は「勇気・熱意」などの意味であり、全体で「良い勇気を!」→「頑張ってゆこう!」の意。

「雜誌の金なんか心配しなくつてもいい よこしてもうけとらないぜ」井川は第四次『新思潮』発行の台所事情が決して安穏でないことを龍之介の言葉の端々から知り、援助金の申し出を龍之介に提案したらしい。

「ことしの夏休みが樂しみだ」井川との再会を期したものと見える。但し、後に電子化するが、七月二十五日井川宛書簡で第四次『新思潮』の原稿書きが忙しいことを述べ、『僕は來月十日までは東京を離れられない だからとても隱岐へは行かれないと思ふ 第一今年は雜用があつて金を大分使つた 松江へゆくのさへ少々覺束ない』と記している。事実、この夏は龍之介は松江へは行かなかった。

「川楊」川の畔ちにある柳の意であるが、嘗ては通常、ネコヤナギ(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla )を指し、その別名ともする。「かはやぎ」の他に「かわやなぎ」「かわばたやなぎ」とも呼ぶ。

「セルマ ラアゲレフ」スウェーデンの女性作家セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Ottilia Lovisa Lagerlöf 一八五八年~一九四〇年)。かの「ニルスのふしぎな旅」(Nils Holgerssons underbara resa genom Sverige :「ニルス・ホルガションの素晴らしきスウェーデン旅行」。一九〇六年に第一部を、翌一九〇七年に第二部を刊行した)の作者にして、女性初・スウェーデン人初のノーベル文学賞受賞者(一九〇九年)としても知られる。

「ゲスタ・ベエリング」彼女のデビュー作である「イェスタ・ベルリングのサーガ」(Gösta Berlings saga /英語:Gösta Berling's Saga :一八九一年)。一八二〇年代の彼女の故郷ヴェルムランドを舞台として、あるべきヒューマニズムと、美しい自然を民話的な筆致で描いた作品だそうである(ある方の論文の梗概を参照した)。

「福間さんの事をかいた森さんの小說」「福間さん」は福間博(明治八(一八七五)年~大正元(一九一二)年)ドイツ語学者。島根県生まれ。独学でドイツ語を修得し、森鷗外を師と仰ぎ、鷗外の小倉赴任とともに、後を追って交わりを結び、鷗外の小説「二人の友」(『アルス』大正四(一九一五)年六月初出。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)の「F君」のモデルとなった。一高でドイツ語教授として龍之介や井川も教わっていた。頭の回転が速く、ユーモアを解したため、学生に人気があった(以上は主文を岩波の芥川龍之介の新全集の「人名解説索引」に拠った)。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、同小説は、『福間がモデルの「F君」と、鷗外からドイツの哲学の講義を受け、福間の葬儀の導師として説法をした』、現在の小倉北区竪町にある曹洞宗安国寺の第二十七代住持『玉水俊虠』(たまみずしゅんこ 慶応二(一八六六)年~大正四(一九一五)年))『がモデルの「安国寺さん」の交友が扱われている。F君は鷗外宅の傍の下宿屋で知り合った女性との縁談で「安国寺さん」を女性の実家に赴かせる。芥川の』同名の恩師福間先生への追悼風の随筆『「二人の友」』(大正一五(一九二六)年二月『橄欖樹』(『一高校友會雜誌』第三百号紀念号初出。リンク先は「青空文庫」。但し、新字旧仮名)『にも、この辺りのことが記されている』とある。

をよんだかね あの中にはあの今戶の寺で演說をした妙な坊さんの話も出てゐる 福間さんは森さんのうちの前の下宿にゐてそこにゐた女學生と關係したのださうた それがあの奧さんだつたと思ふと一寸面白い

「牛込の Vater」「Vater」はドイツ語で「ファータァ」、「父」のこと。既出既注の井川恭の婚約者雅(まさ)の父で農学者の恒藤規隆。杞憂と言える。彼は八十一まで生きた。

「僕のおやぢ」芥川龍之介が「おやぢ」と呼ぶ場合は、養父芥川道章のことである。彼は事実、脳溢血で亡くなる。但し、龍之介が自死したその翌年の六月二十七日のことであった。満七十八であった。しかも、この三日前の六月二十四日、猛暑を避けて、一ヶ月早く龍之介の一周忌が営まれていたのである。因みに、遂に龍之介が愛することのなかった実父新原敏三は大正八(一九一九)年三月十六日、全国的に流行った「スペイン風邪」のために満六十八で亡くなっている。芥川龍之介の「點鬼簿」(リンク先は私の古いサイト・テクスト)の「三」にその末期の様子が描かれている。

「ふみ子」塚本文。

「逗子の養神亭」私の鎌倉探索のフィールド内であるからして、古くは「逗子の海岸 田山花袋」に注した。現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。昭和五九(一九八四)年に廃業し、建築物は現存しない。庭園だけで千坪余りあったといい、花袋がこの記事を記した前後には『高級旅館として名を馳せ、名刺あるいは紹介がなければ宿泊ができない存在となっていたという』とある。『養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味である』とある(主にウィキの「養神亭」に拠った)。露骨なタイアップ作が『大橋左狂「現在の鎌倉」 22』である。明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子案内」にも出るが、こちらには宣伝料をケチったものか、独立項目「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 養神亭」には挿絵もなければ、解説もいかにもショボい。

「秋谷」神奈川県横須賀市秋谷(あきや)。龍之介が何故そんなところまで足を延ばしたかってか? これはもう、尊敬する泉鏡花先生の名篇「草迷宮」(明治四一(一九〇八)年)の舞台だからでゲショウ!

「長者ケ崎」神奈川県三浦郡葉山町下山口のそ。秋谷の北西。

「まんさく」ユキノシタ目マンサク科マンサク亜科マンサク属マンサク Hamamelis japonica は本邦固有種。独特の花で、萼は赤褐色又は緑色で円く、花弁は黄色で長さ一・五センチメートルほどの細長い紐状を呈する。

「ひよ」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を。

「山しぎ」シギ類の模式種はシギ科ヤマシギ属 Scolopax で、本邦にも棲息(北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥)するヤマシギ Scolopax rusticola が含まれ、龍之介がわざわざこう言っているのだからそれに比定してもよかろう。何より、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷸(しぎ)」の寺島良安の記載もヤマシギっぽいのだ。

「雉」キジ目キジ科キジ属キジ亜種シマキジ Phasianus versicolor tanensis(本州の伊豆半島・紀伊半島・三浦半島、及び伊豆大島・種子島・新島・屋久島)を一応、挙げておく。但し、「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」の私の注を見て戴くと判るが、本邦にはこのシマキジを含めて、四亜種がいるが、現在ではこれらの交雑が進んでしまい、亜種の区別が明瞭でなくなりつつあって、本来の純亜種自体の絶滅を危惧する向きもある。因みに、私が二校目に勤めた横浜市戸塚区にある神奈川県立舞岡高等学校の門の内側の斜面には私がいた五年間、ずっと番いのキジが住んでいて、よく見かけた。

「海雀」チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ属ウミスズメ Synthliboramphus antiquus 。同種は夏羽は眼の後部から頸部にかけて、白い筋模様が入って喉が黒いが、冬羽は眼の後部の白い筋模様がなく、喉が白いから、龍之介の観察は正確である。

「かいつぶり」カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。しかし、龍ちゃん、カイツブリは結構、五月蠅いですぜ?

「鴨」種多く、同定不能。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注を参照。

「鷗」鳥綱チドリ目カモメ科カモメ属ユリカモメ(百合鷗)Larus ridibundus でよかろう。和漢三才圖會第四十一 水禽類 都鳥 (ユリカモメ/ミヤコドリ)」の私の注を参照。

「あいさ」この呼称をそのまま学術名とすると、カモ目カモ科カモ亜科アイサ族 Mergini (アイサ亜科 Merginae とされることもある)であるが、アイサは族レベルでも殆んどが極北種である。本邦に飛来或いは繁殖する種で、龍之介が視認可能なものはアイサ(ウミアイサ)属ウミアイサ Mergus serrator ・アイサ属カワアイサ Mergus merganser ・アイサ属ミコアイサ(巫女秋沙)Mergus albellus であろうか。孰れもかなり特徴的な羽色を持つので、龍ちゃん、それを書いといて欲しかったな。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸍(こがも/たかべ)〔コガモ〕」の本文の「阿伊佐〔(あいさ)〕」と私の注も参照されたい。]

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